れんだいこの戦後学生運動区分論

 (最新見直し2008.9.11日)

【れんだいこの学生運動区分考】
 筆者は、戦後学生運動史を独特の手法で跡付けていくことにする。「独特の手法」とは、ヘーゲル論理学で学問的に科学された矛盾式弁証法にして、マルクスがそれを更に生き生きとさせ社会科学にまで高めた認識法のことを云う。筆者は、マルクス主義の功績はひたすらにこの認識法、分析法、総合法にあると考えている。つまり、マルクス自身の著作でさえ、この矛盾式弁証法から総洗いされねばならないと考えている。

 もっとも、筆者は、矛盾式弁証法を筆者なりに改変している。マルクス主義のそれはひたすら現状否定へ傾斜し過ぎている。本当は、諸勢力拮抗の上に立つ均衡を認めるべきで、その均衡をどう合理的に改変して行くべきかを問い続け処方して行くのが正当な矛盾式弁証法ではないかと思っている。それによれば、事象は、即自的有から向自的有に発展し、その各々は量から質への無限連鎖過程を辿る。矛盾のとある一点でそれまでの質が出藍(アウヘーベン、止揚、揚棄)され新質へ向う。その段階で又新たな即自から向自への階梯を上り転変を繰り返す。こうして事象は全て、螺旋(らせん)的に発展ないしは衰退の過程にあるとみなす。万事が生成転化しており、その変化の中にある筋道が法則と云えるものであり、人類史も例外ではないとする。

 筆者は、このヘーゲル-マルクス的矛盾式弁証法の学問的能力を継承し、戦後学生運動興亡史をこの観点から説いてみようと思う。どこまで為し得るかが難しいが、忽ちは試論として提供する。これに従い、筆者の学生運動論は、戦後学生運動を次のように質的識別する。但し、これを客観記述することはそもそも無理であろう。同じものでも見る角度、視点により風景が異なるのが当たり前であるからである。とはいえ主観は極力客観に近いのが望ましい。この客観に迫る努力をしようと思う。そういうことを踏まえ、客観風に語りながら主観に陥るよりも、主観風に語りながら客観に迫る方法として、敢えて筆者の主観によるコメントを重視し「対話物語り」とすることにした。

 第1期は、戦後直後の1945.8.15日から1949年末までの期間とする。「全学連結成とその発展」と命名される。全学連運動が創出され、官大の東の東大-西の京大、私大の東の早大-西の同大が主導し、武井系が指導する。

 第2期を1950年から1953年末までの期間とする。「50年分裂期の学生運動」と命名される。この間、日共が「50年分裂」し、全学連も宮顕系国際派と徳球系所感派に分かれ反目する事態に陥る。所感派は徳球-伊藤律派、野坂派、志田派に分かれ、国際派は宮顕派、志賀派、春日(庄)派、国際共産主義者団、神山派、中西派、福本派から構成されており、党中央に対抗する。

 これに応じて全学連内も色分けされる事態に陥った。全学連中央の武井派は宮顕派の指導に服し、その度合いに応じて色褪せていった。所感派が武装闘争を打ち出すことにより、これに呼応する部分が全学連中央の奪還に向かい玉井系を創出する。但し、武装闘争が破産するに及び瓦解を余儀なくされる。

 第3期を1954年から1955年とする。「六全協の衝撃、全学連の崩壊」と命名される。1954年は共産党主導の学生運動がほぼ壊滅した時期となる。1955年、共産党の六全協が開催され、「50年分裂」以来の分裂が統一されたが、党中央が徳球系から宮顕系へと転換した。この宮廷革命が是とされ今日まで至っている。全学連は新党中央として君臨し始めた宮顕系の統制下に置かれ、有り得べからざる右派系運動に転換されることになった。ここまではいずれも、日共党員が全学連を主導しているところに特徴が認められる。

 第4期その1を1956年とする。「反日共系全学連の誕生」と命名される。闘う全学連の再建期であり、反日共運動の創出期である。この時期、不世出の指導者・島、生田が登場し、共産党の日共化に叛旗を翻していくことになる。

 第4期その2を1957年とする。「革共同登場史」と命名される。戦後左派運動に於いて最初に登場した共産党に代わる前衛党が革共同であった。革共同は、それまでの日共運動をスターリニズムとして批判し、返す刀でトロツキズムの称揚に向かった。但し、太田龍を代表とするトロツキズムの全面評価国際主義派と黒寛を代表とする相対評価自律主義派、これとも対立する関西派という三派対立が続いていくことになる。

 第5期その1を1958年とする。「ブント登場史」と命名される。全学連急進主義派の一部は革共同に流れ、その他の多くは日共内反党中央派として自己形成していった。全学連の穏和系は共産党との歴史的な繫がりを重視し、引き続き党の旗の下に参集した。この流れを仮に日共内恭順派と命名する。この時期の全学連は、日共内反党派、日共内恭順派、革共同の三者鼎立となった。全学連運動は以降、この定式が確立することになる。

 第5期その2を1959年とする。新左翼系=ブント・革共同系全学連の発展」と命名される。この時期、日共内反党派がブントを創出し日共と決別する。この時代のブントを後のブントと識別する為に第1次ブントと称する。第1次ブントは、六全協後の宮顕系党中央に反発し、且つ革共同にも向かわなかったいわば自律自存の急進主義派であり、この第1次ブントと革共同の反日共派が全学連の執行部をが掌握する。全学連運動は以降、反日共系が牛耳る定式が確立することになる。この時代、全学連は、第1次ブント、革共同、日共恭順派の三者鼎立時代となる。

 第1次ブントは、当初は革共同と寄り合い世帯となって全学連執行部を整形するが、60年安保闘争へ向かう過程で純化を目指し、激しい主導権争いを演じる。これを勝利的に押し進めながら運動全体を牽引する。

 第5期その3を1960年とする。「60年安保闘争、ブント系全学連の満展開と民青同系の分離」と命名される。安保闘争が昂揚し、岸政権打倒へと追い込む。この間、革共同は関西派(西派)と全国委派(黒寛派)に分裂し、全国委派が次第に勢力を増す。

 第6期その1を1960年後半とする。「ブントの安保闘争総括を廻る大混乱」と命名される。この時期、第一次ブントが60年安保闘争の総括を廻って大混乱の末分裂する。この間、社会党系の社青同が誕生する。日共系は全自連を結成し、新たな全学連の結成に向かい始める。

 第6期その2を1961年とする。「マル学同系全学連の確立と対抗的新潮流の発生」と命名される。 分裂したブントの多くが革共同全国委派に吸収される。これにより、第一次ブントを吸収した革共同全国委が全学連の執行部を掌握しマル学同全学連化する。日共系から構造改革派が造反する。年末、社青同と構造改革派と第一次ブント再建派が三派同盟を立ち上げる。

 第6期その3を1962年から1963年とする。「全学連の三方向分裂固定化」と命名される。革共同全国委が革マル派(黒寛派)と中核派(本多派)に分裂し、全学連旗は革マル派に引き継がれる。

 第6期その4を1964年とする。「新三派同盟結成、民青系全学連の誕生」と命名される。三派同盟から構造改革派が抜け、代わりに中核派が入り込み、新三派同盟が形成される。日共派は、独自に民青同系全学連を立ち上げる。

 第7期その1を1965年から1966年とする。「全学連の転回点到来」と命名される、。1965年の動きとして、社青同から社青同解放派が造反し、べ平連が生まれ、反戦青年委員会が創出される。1966年の動きとして、早大闘争が始まり、東大で、インターン制廃止闘争始まる。「三里塚・芝山連合新東京国際空港反対同盟」が結成され、第二次ブントが再建される。合流しなかったМL派、その他諸党派が創出される。中国で文化大革命が始まり、革命の波が押し寄せて来始める。明大、中大闘争が始まる。

 第7期その2を1967年とする。「激動の7ヶ月」と命名される間。三派系全学連委員長に中核派の秋山氏が就任、以降更に激烈化していく。日中共産党の対立を象徴する「善隣学生会館事件」が発生している。「激動の7ヶ月」と云われる三派全学連の市街戦が開始される。これらの動きに、革マル派、民青同が屹立する。

 第8期その1を1968年とする。「全共闘運動の盛り上がり」と命名される。全共闘運動が盛り上がり、ベトナム反戦闘争、東大闘争、日大闘争が始まる。三派から中核派が抜け出し中核派全学連が誕生する。三派の残存勢力が反帝全学連を創出する。年末、東大が入試中止を発表する。

 第8期その2を1969年とする。「東大闘争クライマックス、全国全共闘結成と内部溶解の兆し」と命名される。東大闘争が盛り上がり、安田講堂攻防戦へと至る。第二次ブント系の社学同派全学連が発足する。4.28闘争で中核派に破防法が適用される。「大学の運営に関する臨時措置法案」が成立施行される。赤軍派が結成される。8派連合による全国全共闘が創出され、70年安保闘争を闘い抜く主体が確立する。

 この頃から革マル派の社青同解放派、中核派に対する公然ゲバルトが始まり、大きく全共闘運動を混乱させることになった。第二次ブントの内部抗争が起こり、第二次ブントと赤軍派のゲバルトが始まり、70年安保闘争を控えた盛り上がりの中で瓦解の危機をも迎える。

 第9期その1を1970年とする。「70年安保闘争とその後」と命名される。70年安保闘争はカンパニア闘争に終始し佐藤政権に打撃さえ与えることができなかった。

 第9期その2を1971年から75年までとする。「70年代前半期の諸闘争」と命名される。70年安保闘争を終え、代わりにやってきたのが内ゲバと党派間ゲバと連合赤軍派の同志テロであった。1972年、連合赤軍による あさま山荘事件が発生し、その後12名に及ぶ同志殺人が明らかとなり衝撃を与えた。同年、日共系民青同に新日和見主義事件と云われる粛清劇が起こり、川上氏らの主要幹部が処分された。1975年、中核派最高指導者・本多氏が革マル派にテロられ死亡している。

 第9期その3を1976年から79年までとする。「70年代後半期の諸闘争」と命名される。中核派対革マル派、社青同解放派対革マル派の党派抗争は更に凄まじくなる。1977年、社青同解放派最高指導者・中原氏が革マル派にテロられ死亡している。これにより、革マル派は、甚大な被害を出しながらも、敵対党派の最高指導者をそれぞれ葬ったことになる。

 1980年以降から現在までを第10期とするが考察は省く。それぞれ「80年代の学生運動」、「90年代の学生運動」、「2000年代の学生運動」と命名される。

 以上の区分が一般的に通用するのかどうかは分からない。が、筆者の分析によれば、かく区分した方が分かり易い。参考になればと思う。「対話物語り戦後学生運動史論」は、この区分けに従い検証していく事にする。




(私論.私見)

1章 1期 終戦直後-1949  
2章 2期その1 1950-1953  共産党の50年分裂と学生運動
3章 2期その2  50年分裂期の学生運動
4章 3期 1954-1955  六全協期の学生運動
5章 4期その1 1956  反日共系全学連の登場
6章 4期その2 1957  革共同登場
7章 5期その1 1958  ブント登場
8章 5期その2 1959  新左翼系全学連の発展
9章 5期その3 1960  60年安保闘争
10章 6期その1 60年安保闘争直後  ブントの大混乱
11章 6期その2 1961  マル学同全学連の確立
12章 6期その3 1962-1963  全学連の三方向分裂固定化
13章 6期その4 1964  新三派連合結成、民青系全学連の誕生
14章 7期その1 1965-1966  全学連の転回点到来
15章 7期その2 1967  激動の7ヶ月
16章 8期その1 1968  全共闘運動の盛り上がり
17章 8期その2 1969  全国全共闘結成と内部溶解の兆し
18章 9期その1 1970  70年安保闘争とその後
19章 9期その2 1971-1975  70年代前半期の諸闘争
24章  【連合赤軍考概略
25章  【党派間ゲバルト考概略
26章  【日本赤軍考概略
27章  【よど号赤軍派考概略
20章 9期その3 1976-1979  70年代後半期の諸闘争
21章 10期その1 19780年代  1980年代の諸闘争
22章 10期その2 1990年代  1990年代の諸闘争
23章 10期その3 2000年代  2000年代の諸闘争