第18章 戦後学生運動9期その2、70年代前半期の闘争概略

 (最新見直し2008.9.11日)

 これより前は、第9期その1、70年安保闘争とその後に記す。

 (れんだいこのショートメッセージ)
 「れんだいこの学生運動論」は、70年安保闘争でもって一応終結させていた。しかしながら、その後の70年代の闘争、80年代の闘争、90年代の闘争、2000年代の闘争を、やはりれんだいこ言葉で書き上げることにした。ここでは70年安保闘争後の1970年代前半期の学生運動史を概括する。これを仮に「戦後学生運動9期その2、安保闘争後より1975年までの闘争概略」と命名する。詳細は「戦後学生運動の考察/70年代の学生運動(1971−75)」に記し、ここではエポックな事件を採り上げ解析する。 

 70年代以降の闘争はそれ以前の運動と違い格段に質が落ちる。どういう訳か権力中枢機関、国会に向かう闘争が組織されなくなり、散発的且つセンセーショナルな事件化が風靡し始めた。それが如何に過激に為されようともマスコミの好餌となるだけのものでしかなくなった。自然にそうなったのか誘導されたのかは分からないが、日本左派運動が隘路に陥ったのは確かである。

 そういう事情により、個々の事件を羅列記述していくことにする。それとは別にテーマ別検討も加え、別途に【連合赤軍考】、【党派間ゲバルト考】、【日本赤軍考】を設け考察することにする。


【1971年の動き】 「戦後史71年当時」

 1.25日、赤軍派と革命左派の共同政治集会が東京・千代田公会堂で開かれ、「蜂起−戦争勝利」を確認した。その後両派は競うようにして「銃と資金の強奪(М作戦)」に向かった。これをマスコミが仰々しく採り上げ、運動側に「革命的陶酔」が醸成されるという、「唯武器派とマスコミの擬似共闘」が生まれた。

 2.17日、京浜安保共闘が、栃木県真岡市の銃砲店を襲い銃と銃弾を強奪した。赤軍派もМ作戦を展開し7月にかけて8件の郵便局、銀行などへの資金奪取作戦を敢行した。


 2.22日、千葉県・公団、三里塚第一次土地収用強制代執行。この日、三里塚農民は、決死隊が立木に自らの体を鎖で縛り付けて抵抗した。実に、三週間にわたって機動隊との闘いが続けられた。逮捕者は487名、負傷者も重傷者41名を含む千名に及んだ。


 2.28日、赤軍派の重信房子がレバノンへ出国。京大全共闘の奥平剛士と結婚入籍し、奥平房子名のパスポートで出発した。アラブ赤軍、後の日本赤軍となる。


 4.28日、沖縄闘争。

 6.17日、この日全国で「6.17闘争」が繰り広げられた。東京では中核派.第四インターを中心とした約1万名が明治公園で、反帝学評、フロント、ML派など反中核派系約1万名が宮下公園で集会を開いた。両者とも、乗用車、材木、看板などで街頭バリケードや、線路上への座り込み、機動隊への火炎ビン攻撃などを展開したが、これにたいして、機動隊もガス銃などで応戦し、熾烈な攻防戦が展開された。

 集会終了後の午後8時50分頃、明治公園原宿付近で鉄パイプ爆弾が投げつけられ隊員37名が負傷した。赤軍派の仕業だった。集会後各派が街頭闘争に移り機動隊との熾烈な攻防戦が展開された。この事件の容疑者として、赤軍派中央軍の少年(17歳)ら二人が、殺人未遂容疑などで逮捕されたが、証拠不十分で処分保留となった。6月15日からこの17日までの3日間の闘争での逮捕者は 1,061人にものぼった。


 6.19日、真相が定かではないが、沖縄で日共系の沖縄人民党と革マル派が衝突し、「琉球大生の革マル派活動家・町田宗秀虐殺」事件が発生した。埴谷雄高、対馬忠行、高知聴ら九氏が「日共スターリン主義者に対する抗議と糾弾のための思想戦線統一を訴える共同声明」を発表し、抗議している。 
 7.9日、キッシンジャーが北京へ忍者外交。周恩来と会談。頭越し外交で日本に衝撃。

 7.15日、赤軍派・日共左派、「統一赤軍」(のち連合赤軍)結成を宣言。連合赤軍は南アルプスでの軍事訓練、新党理論の形成に向かったが、その過程でリンチ殺害事件を起こしていくこととなった。


 7.26日、千葉県・公団が三里塚の農民放送塔撤去などを強制撤去執行した。新左翼急進主義各派は、三里塚闘争に向かった。5日間にわたって死守戦が闘われ、逮捕者292名、負傷者500名を越えた。

 8.15日、ニクソンがドル防衛のため新経済政策発表。「ニクソン.ショック」といわれる。金とドルの交換一時停止。10%の輸入課徴金など東京外国為替市場はドル売り殺到。円高、ドル安となる。


 8.21日、赤報隊が埼玉県の陸上自衛隊朝霞基地に侵入、自衛官を殺害、腕章などを盗む。菊井良治ら9名が実行犯として、後に滝田修こと竹本信弘.元京大助手が共犯として逮捕される。


 9.16日、成田空港建設第二次強制代執行。三里塚農民の決死隊がヤグラや鉄塔に立てこもって抵抗した。東峰十字路での反対派学生集団と機動隊の衝突で堀田大隊機動隊員3名が火炎瓶や角材による攻撃で死亡、一小隊全滅、全員負傷。逮捕者375名。 


 9月、「沖縄返還」を迎え、新左翼系各派が様々な論理で闘争に取り組んだ。9.25日、沖縄国会のヤマ場を前に、中核派らの沖縄青年委員会のメンバー4人が、皇居内、宮内庁にレンタカーで乗りつけ、発煙筒、火炎ビンを投げつける事件があった。

 10.16日、沖縄国会開会のさなか、東京など全国各地で、集会、デモが行われ、機動隊との衝突、交番への火炎ビン攻撃がおこった。


 10.20日、革マル派の水道橋美術学院生水山敏美が、横浜国大富士見寮で中核派に殺され、他数名重傷。革マル派は「中核派絶滅」宣言を行い、予告通リ攻勢にでることになる。この時、中核派は海老原君事件の時と同様に沈黙している。


 10.23日、革マル派が、首都圏の中核派拠点大学に対する一斉テロ攻撃。11.1日、革マル派が、中核派の長谷川英憲杉並区議事務所を攻撃。11.8日、革マル派が、京都大学前でビラ配りをしていた中核派20名を襲撃。11.10日、破防法違反容疑で松尾真中核派全学連委員長が逮捕される。


 11.10日、沖縄現地で、全軍労、県教組、官公労などによる、協定粉砕、批准阻止の空前といわれる島ぐるみのゼネストが行われたが、これに呼応して、本土でも、各地で集会、デモ、機動隊との衝突がおこった。

 11.14日、国会で強行採決のきざしがみえたこの日、全国32都度府県、80ヶ所に10万人が集まって阻止闘争が展開された。宮下公園での集会を禁止された中核派は「渋谷大暴動」を叫んで、渋谷に進撃、各所で機動隊と衝突した。200人の中核派部隊の火炎ビン攻撃をうけた渋谷署神山交番では、警備にあたっていた警官が、火炎ビンで火だるまになり、病院で死亡した。また、午後2時ごろには、国電池袋駅で、中核派の学生、労働者がもちこんだ火炎ビンが、満員の山手線電車内で炎上、乗客らが重軽傷を負い、火炎ビンを浴びた中核派反戦青年委の女教師が病院で死亡した。深夜まで7時間にわたって渋谷駅や繁華街でのゲリラ戦が続き、この日の衝突で、313人が凶器準備集合罪などで逮捕された。


 11.17日、沖縄返還協定が衆議院沖縄特別委で強行採決された。これに反発して、社会.共産両党と総評は国会請願デモ。


 11.19日、新左翼各派1万9000名が日比谷公園などに集まり、日比谷公園の各入り口に阻止戦をはって封鎖した機動隊と衝突。この時公園内の松本楼炎上。中核派の犯行。さらに、国電有楽町駅周辺から銀座一帯、大手町のオフィス街などで、火炎ビンを投げ、バリケードを築くなどのゲリラ戦が展開された。日比谷、丸の内周辺以外でも、各派によるバリケード市街戦が、都内各地で行われ、この日の逮捕者は1886名の大量逮捕となった。1969年11.16、17日の佐藤首相訪米阻止闘争時の1985名につぐ大量逮捕となった。11.20日、中核派の集会デモに対し、全面的な禁止措置が取られた。

 11.24日、沖縄返還協定法案が衆院本会議で強行採決され、自然成立した。


 12.4日、革マル派のテロにより、中核派の活動家・辻敏明(京大)、正田三郎(同志社大)が死亡。以降、中核派も「無条件且つ全面的に宣戦布告、カクマルに対する全面的殲滅戦争」を宣言。両派の全面的なテロ戦の展開となった。この時点から、中核派は、革マル派をカクマルと呼ぶようになり、権力と一体となって中核派掃討戦に乗り出している「K=K連合」批判を開始した。
 12.15日、革マル派のテロにより、中核派の三重県委員長・武藤一郎が三重市でビラ配り中に襲撃され死亡。この時、革マル派は、病院の医者のコメントを引いて「これは持病の結核と風邪により、急性肺炎を起こして死んだ」と声明している。
 12.24日、東京新宿三丁目の交番でクリスマスツリーに見せかけた時限爆弾が爆発、警官.通行人ら7名が重軽傷。
 12月、日共は第6回中委を開き、 合理的な理由もないままに突如「民青の対象年齢引き下げ」を決定し、その押しつけを民青同に迫っていくことになった。党中央は、これを「踏み絵」にしつつ反対派を浮き彫りにさせて行き翌年の新日和見事件へと至る。
 12月、赤軍派は、「銃のみが政権を生み出す」をスローガンに武装闘争を行っていた毛沢東派の日本共産党神奈川県常任委員会革命左派京浜安保共闘との提携を始めた。
【1972年の動き】 「戦後史72年当時」

 2月、赤軍派中央委員重信房子が奥平と共にパレスチナ入り。PFLP(パレスチナ解放人民戦線)との連帯共同。

 2.17日、連合赤軍最高指導者森恒夫.永田洋子が群馬県妙義山アジト付近で逮捕された。


 2.19日、連合赤軍メンバー坂口弘ら5名が長野県軽井沢の「浅間山荘」に乱入し、管理人夫人牟田泰子(31才)を人質にしてたてこもった。 あさま山荘事件発生。警察1500名が出動し、10日間にわたる銃撃戦の末逮捕した。この救出作戦中、警官2名が死亡、23名の負傷者が出た。この経過が現場中継され国民の多くが釘付けとなった。2.28日銃撃戦の末逮捕される。
 2.21日、ニクソンが訪中して毛沢東首席と会談、27日、日米中共同声明を発表。二度目の「ニクソンショック」といわれる。 
 3.7日、連合赤軍メンバー12名のリンチ殺人遺体が発見される。京浜安保共闘時代の2名を含めて犠牲者14名。新左翼にショックを与える。 

 3.30日、大阪地評青年協集会の場で、解放派と革マル派との衝突がおこり、集会が一時的に混乱した。解放派は、組合青年運動の現段階及び共闘の現段階に配慮が足りなかった点があったとして、自己批判し、地評青年部段階へ提出した。


 4.28日、沖縄、東京、大阪で労学業会が持たれたが、大阪集会で解放派と革マル派との衝突が発生、この中で革マル派系の京都外語大生・木下正人氏が死亡するという事件が発生。この事件より、解放派と革マル派の党派間戦争に突入した。 
 5.7日、民青同幹部の党員会議が開かれ、党中央指令による「民青の対象年齢引き下げ」を協議したが紛糾した。党中央は、会議直後一斉に「査問」に着手した。川上徹氏(民青同系全学連初代委員長・民青同中央執行委員)始め有数の幹部達が捕捉され、分派活動をしていたという理由づけで一網打尽的に処分を受けることとなった。その実数は、宮地氏の「新日和見主義『分派』事件」で明らかにされている。詳細は「新日和見主義事件解析」に記す。
 5.13日、共産同戦旗派約600名が、神田周辺で、「御茶の水解放区闘争」と云われる火炎瓶闘争を敢行した。128名が逮捕され、これを契機として、戦旗派内に闘争の指導責任をめぐっての内紛が激化していくことになる。 
 5.30日(日本時間5.31日)、イスラエルのテルアビブ国際空港で日本赤軍3名が乱射事件。24名の死者、80名以上の負傷者発生。襲撃した奥平剛士(26才.京大)、安田安之(24才.京大)の2名はその場で射殺された。岡本公三(24才.鹿児島大)は逮捕され軍事法廷で終身刑の判決を受け収容された。パレスチナ入りした日本赤軍の旗揚げ的な意味を持った軍事行動となった。
 6.17日、佐藤首相が引退声明し自民党内の後継争いが始まった。7.5日、自民党臨時党大会が日比谷公会堂で開催され、田中角栄が第6代自民党総裁に選出された。7.7日、第一次田中内閣が発足した。

 9.4日、反戦相模原闘争が主催されたが、この時中核派と革マル派がゲバルト会戦している。


 9.25日、田中首相と大平外相が中国へ。9.29日、「不正常な状態(戦争状態)の終了、中国が唯一の合法的政府であることを認める」など共同声明に調印し「日中国交回復」。これに反発した若手タカ派が「青嵐会」を結成した。
 11.9日、早大で革マル派による「川口君リンチ殺害事件」が発生した。革マル派による早大文学部2年生の川口大三郎(20才)君を中核派とみなしたリンチ殺害事件であることが判明した。革マル派は、事件に対し、概要「追及過程での意図せぬ事態、ショック症状による死亡---党派闘争の原則から実質的にはみ出す行為に走ったといわざるを得ない。一部の未熟な部分によって起こった事態---率直な自己批判を行う」と表明した。早大生が激しく反発し、革マル派の暴力的キャンパス支配と相俟って政治責任を問う前代未聞の闘争が始まる。
【1973年の動き】 「戦後史73年当時」

 1.1日、連合赤軍最高指導者森恒夫が東京拘置所で首吊り自殺。


 1.27日、米、南.北ベトナム、臨時革命政府の4代表がベトナム和平協定と議定書に調印。


 4月、「共産同」中間派の「荒派」でも、1972年の「5・13神田解放区闘争」で大量検挙されたことに対する責任追及をめぐって、党建設を重視する荒岱介派と武闘路線を重視する反荒岱介派が対立、翌1973.4月には、反荒岱介派の一部が「国際主義派」を名乗って分裂し、次いで同年6月には、反荒岱介派の多数を占める「大下敦史派」が分裂した。


 7.20日、テルアビブ事件1年2ヶ月後日本赤軍・丸岡修とパレスチナ.ゲリラ4名が日航ジャンボ404便をオランダ.アムステルダム空港離陸後ハイジャックした。「日本とパレスチナの革命を結合する世界革命戦争」を唱えた。3日間各地を転々としてリビア・ベンガジ空港で人質解放、機体を爆破した。
 9.15日、社青同解放派が、神奈川大で革マル派の金築寛(東大生)と清水徹志(国際基督教大生)君を虐殺。その経緯は次の通り。9.14日未明、反帝学評約50名が「9.15ミッドウェー母港化反対闘争」に向けて拠点校の神奈川大学に泊まり込んでいたところ、翌15日午前1時45分頃、覆面姿の革マル派約150名が鉄パイプで襲撃し、相互に多数の負傷者が出た。この間、反帝学評約20名がレンタカーで動向視察していた革マル派2名(東大生、元キリスト教大生)を捕まえ、鉄パイプで滅多打ちにして殺害し、現場から5km離れた浄水場裏に遺棄した。これ以後、反帝学評(社青同解放派)も革マル派との抗争を開始した。
 9−10月、中核派と革マル派の一進一退的襲撃戦が交差する。
 9月、蜂起派から、蜂起左派分裂。「右田派」も、1972.5月の「自衛隊西部方面総監部爆弾事件」や同年7月の「自衛隊市ケ谷駐屯地火炎車事件」の総括をめぐって紛糾を続け、翌1973.9月には、「誤りの責任は非公然軍事指導部にある」とする右田昌人議長派に反対する佐藤秋雄派が「蜂起左派」を名乗って分裂したほか、中間派も存在し、現在、三つのグループに分れている。

 10月、「マルクス主義者青年同盟」(マル青同)が結成されている。「ML同盟」の残存者である「全都解放委員会」と、元共産同政治局員の指導下にあった「レーニン研究会」とが、組織合同して発足した。


 10.17日、第一次オイルショック。OPECが原油価格21%引き上げを発表。


【1974年の動き】 「戦後史74年当時」

 1974年、革マル派は「党派闘争勝利宣言」を出し、それ以後の中核派などの内ゲバについて、「権力の謀略」という説を打ち出した。この頃までは、革マル派の相対的優位が続いていたが、押されぎみであった中核派が次第に攻勢に転じ始める。この年、内ゲバで6名死亡、297名重軽傷を負う。

 1.31日、日本赤軍、パレスチナ.ゲリラとの共闘ゲリラ作戦第二弾。和光春生.山田とパレスチナ.ゲリラ2名がシンガポール島のシェル石油タンクを爆破。


 2.6日、パレスチナ.ゲリラ5名がクウェートの日本大使館占拠、和光らの送還を日本政府に要求、政府はこれを呑み日航機を出し、日本赤軍.パレスチナ.ゲリラメンバー9名を南イエメンに運んだ。


 8.5日ニクソン辞任。「ウオーターゲート事件」。8.9日、ジェラルド.フォードが第38代大統領に就任。副大統領はロックフェラーが指名された。


 8.14日、東アジア反日武装戦線が、東京・荒川橋で天皇の御召列車爆破計画を立て未遂に終わる。


 8.30日、東アジア反日武装戦線が、東京丸の内の三菱重工を爆破、死者8名、負傷者385名。以降この種の爆弾テロが続く。 


 9.13日、先に逮捕された赤軍派メンバーの奪還目指して、和光.奥平純三、西川純がオランダ.ハーグのフランス大使館占拠、同年7月パリで逮捕された山田義昭の釈放を求め、奪還に成功した。日本赤軍単独の「独立作戦第一号」となった。


 9月、赤軍派の武装堅持派、赤軍派(革命戦争編集委員会)を中心に赤軍派日本委員会結成。


 10月、雑誌「文芸春秋」11月号で、立花隆「田中角栄−その金脈と人脈」が掲載された。これが以降の田中政界追放の狼煙となった。


 10.14日、東アジア反日武装戦線が、東京・西新橋の三井物産爆破。11.25日、東京・日野市の帝人中央研究所爆破。12.19日、東京・銀座の大成建設ビル爆破。12.23日、東京江東区の鹿島建設資材置き場爆破。


 11.18日、東京.迎賓館で田中.フォード会談11.26日、田中退陣表明。在任期間2年4ヶ月で終わった。金脈追求で行き詰まる。河野洋平らが離党して新自由クラブを結党。後継総裁選びが難航した。「三角大福」と云われていた福田、大平、三木、中曽根が予想された。調停役は副総裁の椎名悦三郎。椎名の裁定で三木が指名された。12.9日、三木内閣発足。


 12月、統一労組懇結成。共産党系の労組。20単産。


 1974年、革マル派は「党派闘争勝利宣言」を出し、それ以後の中核派などの内ゲバについて、「権力の謀略」という説を打ち出した。なおこの頃から、押されぎみであった中核派が攻勢に乗り出す。


【1975年の動き】 「戦後史75年当時」

 2.28日、東アジア反日武装戦線が、東京・北青山の間組本社爆破。4.19日、東京銀座の韓国産業研究所、兵庫県尼崎市のオリエンタル・メタル爆破。4.28日、千葉県市川市の間組作業所爆破。5.4日、間組江戸川橋工事現場爆破。


 3.6日、革命マル派の機関紙「解放」の発行責任者・難波力こと堀内利昭が、東京渋谷区内の路上で中核派のテロにより殺された。


 3.14日未明、中核派最高指導者本多延嘉書記長革マル派にテロられ死亡。革マル派は、「解放」(3.24日付)で次のように宣言、犯行を認めた。

 「わが全学連の革命戦士は、反革命スパイ集団・ブクロ=中核派の頭目、書記長本多延嘉を、川口市内の隠れ家において捕捉し、これにプロレタリアートの怒りをこめた階級的鉄槌を振り下ろした」、「我々の同志難波力が襲撃されたことへの報復であり、権力と癒着している中核へのみせしめ」、「殺害を目的としたものではなかった。わが戦士の燃えたぎる怒りが激しくて、結果として死亡ということになった」。

 中核派の怒りは凄まじく、「革マル派一人残らずの完全殲滅、復讐の全面戦争への突入」を宣言した。警視庁は19日に専従員配置を決定したが、報復は続いた。革マル派は「一方的テロ停止宣言」。しかし内ゲバを完全にやめたわけではなく、また中核派側の攻撃はおさまらず、死者は増えていくばかりとなる。この年だけで15人もの革マル派活動家が殺害された。(本件につき「中核派党史1、結党から本多虐殺まで」で別途考察)


 4.6日、日比谷公園での全共闘1500名の集会に500名の革マル派が乱入。竹竿や投石による乱闘となり、両派30名が負傷。


 5.13日白昼、「法政大会戦に革マル派全学連が大勝利」とある。 法大裏で戦闘となり、中核派の墨田区職員である革共同東京東武地区委員長(38歳)が死亡(中核派5人目の死者)、他に25名が重傷。


 5.19日、警視庁が、東アジア反日武装戦線の佐々木規夫、大道寺将司ら8名を逮捕。


 6.7日、中核派が、大阪産業大の革マル派シンパの一般学生(軍事責任者ともある)・小野正裕(武司)を虐殺、とある。


 6.20日、中核派が、き革マル派の機関紙「解放」を印刷していた東京商工を襲撃、とある。


 他方で、革マル派は、社青同解放派に対するテロを仕掛けている。6.24日、静岡県伊東市内にある歌手・加藤登紀子の別荘で戦闘。泊まって武闘訓練をしていたとみられる反帝学評の元九大生(26人)が死亡、9人重軽傷。加藤夫妻は「無関係」と記者会見を開いた。


 6.26日、法大構内でヘルメット姿の両派約100名が鉄パイプ、旗竿で乱闘。機動隊が導入され、97名が逮捕された。負傷者は機動隊に保護された。


 7.17日、皇太子夫妻の沖縄訪問に反対して国電蒲田駅周辺で集会・デモを行なっていた革マル派、中核派の約200名が新橋駅山手線内回りホームで衝突。この衝突で1人が死亡、44名が重軽傷。136名が暴力行為の現行犯で逮捕されている。


 7.19日、北海道警察本部爆破。反日武装戦線が犯行声明。


 8.4日、日本赤軍によるクアラルンプール事件発生。和光.奥平.日高と他の3名の6名でマレーシア・クアラルンプールの米、スウェーデン両大使館を占拠、アメリカ領事などを人質にし、同年3月スェーデンのストックホルムで逮捕され、日本に強制送還された西川純ら2人と他の獄中赤軍メンバーの釈放を要求、政府は超法規的に5人を釈放、クアラルンプルに送る。の釈放を要求した。日本政府はこれに応じ「超法規的措置」で獄中7名の釈放が決められた。西川.戸平.元赤軍派坂東国男.松田久.東アジア反日武装戦線佐々木則夫らが釈放され、リビア入りした。


 12.17日、戦旗派(西田派)、沖縄訪問の皇太子夫妻に「ひめゆりの塔」で火炎ビンを投擲。


 これより後は、「9期その3、70年代後半期の諸闘争に記す。





(私論.私見)