連合赤軍考概略 |
更新日/2019(平成31→5.1栄和改元).7.25日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、連合赤軍史及びその総括を概略する。これを仮に「連合赤軍事件」と命名すると、同事件は1970年以降の戦後左派運動に否定的な影響を与えた最右翼の出来事であり、これに言及せずんば、れんだいこの学生運動論は完結しない。そういう思いから章を割いておく。詳論は「連合赤軍考」、党史の詳論は「連合赤軍史考1」、「連合赤軍史考2」に記す。ここではエポックな事件を採り上げ解析する 2008.9.11日 れんだいこ拝 |
【連合赤軍結成への歩み】 |
連合赤軍は、1970年末頃、第二次ブントから創出された赤軍派と、中共派系日本共産党左派神奈川県委員会から分岐した革命左派との結合により生み出された党派である。こうなると、連合赤軍前史として、赤軍派史、革命左派史を見ておく必要がある。 連合赤軍結成の要点は次のことにあったと思われる。これを赤軍派の方から見れば、70年安保闘争に向かう過程での新左翼各派の街頭武装闘争に対し、抵抗闘争の限界を指摘して直接的に権力奪取に向かうべしと標榜して軍事武装闘争に向かった関西ブントから出自した赤軍派の軍事革命路線の定向進化としてもたらされたものと理解することができるように思われる。 但し、この時点での赤軍派の指導者は既に獄中下にあり、あるいはよど号事件で北朝鮮に向かっており、暫定幹部として森、坂東が指導部を構成していた。獄中下の塩見は、革命理論の違いからこれを是認しておらず、森、坂東の専権で事が運んだと云う事情があった。 これを革命左派の方からみれば、新左翼系の街頭武装闘争からは革命は生まれないことを自明として、早くより中国建国革命を指導した毛沢東式軍事革命路線を指針としていた。ところが、革命左派の革命スピードは予期した通りには進まず、赤軍派同様に指導的幹部の川島が獄中の身となった。川島の後を指導したのは永田、坂口、寺岡であった。 この間、両派はそれぞれの武装闘争を競合させていた。赤軍派は資金を、革命左派は爆弾を手にしていた。1970年末頃、両派は次第に軍事的共闘を模索し始め、「赤軍の資金と革命左派の銃を交換し、続いて両者の軍事組織の合同を決定する打ち合わせ」が潜行して行った。 1971年7月頃、革命左派の小袖ベース跡地で、革命左派(永田、坂口、寺岡)と赤軍派(森、坂東)の会合が設営され、軍の共闘について再度確認した。7.15日、赤軍派中央軍(公然組織・革命戦線)と革命左派(公然組織・京浜(中京・関西)安保共闘)が合同して「赤軍(統一赤軍)」が発足した。革命理論上の違いは大きかったが、「軍事武装闘争の貫徹」という点で一致した。 ところが、獄中の赤軍指導者・塩見が革命左派の毛沢東式革命路線を批判し、理論的相違を理由として「統一赤軍」に反対し共闘路線に止めるよう指示した。獄中の革命左派指導者・川島も反対し、「連合赤軍」に改めるよう指示した。これにより、統一赤軍は連合赤軍と改められた。 これについて、筆者はかく思う。ここに至るまでの歩みを批判的に捉えることもできようが、それはともかくとして、武装軍事闘争を目指す者同志の定向的必然的結合であったとも考えられよう。あるいは工作者がいたのかもしれない。 |
【革命左派の離脱者口封じ殺人】 |
この情勢下で、7月下旬、革命左派の向山茂徳と早岐やす子が逃亡し、永田、坂口、寺岡、吉野らの協議により組織防衛のため殺害が決定され、8.4日、早岐絞殺、8.10日、向山を絞殺。 |
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これをどう評すべきか。これについて、筆者はかく思う。革命左派の赤軍との合同を為し遂げたばかりでの「離脱者口封じ殺人」は、革命目的遂行の為と云う美名ながら案外と世俗的な配慮から為された粛清でしかなかったのではなかろうか。問題は、「この時の永田、坂口、寺岡、吉野らの協議内容」にある。何を語り語り得なかったのか、ここを切開する必要があろう。いずれにせよ、革命左派は早くもこの時点で、本来の左派運動とは異質な凶状持ちになっていたことが注目されるべきだろう。 |
【山岳ベースでの合同軍事訓練と総括査問死】 |
71年秋頃から警察の「アパート・ローラー作戦」が展開された。この作戦で、都内では20万棟のうち85%が調査され、メンバーはアパートのアジトを出ることを余儀なくされた。脱走者が出た為、新たなアジトとして丹沢、牛首、榛名、妙義山といった東京から比較的近い関東北部の山岳地帯にベース設営する。連合赤軍はそこで合同武装訓練を企画した。丹沢ベース、是政アジト、新倉ベース、榛名山ベースが設営される。 群馬県の山岳アジトに参加したのは、時期は前後するが旧赤軍派9名(中央委員の森、坂東、山田。同メンバーの青砥、遠山、行方、植垣、山崎、進藤隆三郎)。旧革命左派の17名(中央委員の永田、坂口、寺岡、吉野。同メンバーの尾崎充男、小嶋和子、前田広造、金子みちよ、大槻節子、杉崎ミサ子、伊籐和子、寺村雅子、石田源太、加藤能敬、加藤倫教 加藤M、山本順一と保子、中村愛子)の面々であった。 榛名山の山岳ベースで連合赤軍の合同軍事演習が始まり、革命的共産主義兵士としての自己形成、戦意高揚が始まる。ところが、その過程で、結成時のメンバー29名の内12名を同志殺害すると云う事件を引き起こす。幾人かが脱走し、警察の包囲が狭まり最高指導者の森、永田、植垣、青砥、寺林、伊藤らが逮捕される。これを逃れた5名があさま山荘に駆け込み、人質を楯にしながら十日間に亘って篭城し、遂に逮捕される。その供述から同志殺人が露見する。翌新年早々、最高幹部の森は拘置所で自殺する。 これが連合赤軍史である。この流れの重要点を確認しておくことにする。 |
【同志殺人被害者】 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
以上の過程で死亡したメンバーと死亡日は次の通りである。その経緯は、詳論「同志総括リンチ致死事件」に記す。
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【あさま山荘事件】 |
2.19日、警察の追撃を振り払い、坂口(25歳、東京水産大学中退/京浜安保共闘)、坂東(25歳、京大卒/赤軍派)、吉野(23歳、横浜国立大中退/京浜安保共闘)、加藤(19歳、東海高校卒/京浜安保共闘)、加藤の弟(16歳、高校1年)の5名が、河合楽器保養所「あさま山荘」に押しかけ、管理人の妻を人質にとり占拠した。以降、約10日219時間の攻防を続けることになる。 包囲のなか、警察側は山荘への送電の停止、騒音や放水、ガス弾を使用した犯人側の疲労を狙った作戦のほか、装甲車を用いた強行偵察を頻繁に行った。また、連合赤軍メンバーの親族を呼び説得を行った。しかし親族による説得工作は奏功しなかった。検討の結果、クレーン車に吊ったモンケーン(クレーン車に取り付けた鉄球)で山荘の壁と屋根を破壊し、正面と上から突入して制圧する作戦が立案された。 2.28日10時、機動隊が実力行使開始する。10時7分、催涙ガス弾が一斉に発射され、銃撃戦が始まる。警察が放水開始。続いてクレーン車から吊るしたビル解体用の巨大鉄球が3階を直撃し始める。「決死隊」が突入開始。突入の際に機動隊員1人がケガをしている。赤軍メンバーは3階と屋根裏から銃撃や手榴弾で応戦し、警視庁特科車両隊の高見繁光警部と、警視庁第二機動隊隊長・内田尚孝警視の2名が殉職する。午後6時15分、全員が取り押さえられた。人質は無事救出された。この「あさま山荘」事件で警察官2名、民間人1名が死亡、16名が重軽傷を負った。この一連の経過を「あさま山荘事件」と云う。 |
【あさま山荘事件後の流れ】 | ||
3.5日、妙義湖畔にて逮捕されていた奥田が同志殺害を一部自供。3.6日、あさま山荘にて逮捕された加藤末弟が同志殺害を自供。3.7日、事件の前後に逮捕されたメンバーの自供から大量のリンチ殺人が行なわれていたことが発覚し、この日、山田の遺体が発掘された(3.12日までに全遺体が収容された)。世間に衝撃を与えた。3.10−14日、逃げていた山本保子、中村愛子、岩田、前沢が相次いで自首し連合赤軍は崩壊した。3.17日、全容疑者が殺人、死体遺棄容疑などで再逮捕される。3.25日、吉野の証言に基づき、千葉県印旛沼付近の山林にて、革命左派が1971.8.4、8.10日に処刑した2名の遺体発掘。 5.8日、森ら15名が、殺人、死体遺棄等で長野・前橋地裁に起訴される。 1973.1.1日、森恒夫(当時27歳)が東京拘置所内で首吊り自殺した(享年29歳)。同じ拘置所の永田は、この知らせを聞いて、「森さんは卑怯だ。自分だけ死んで!」と叫んだという。 森が最後に遺したメモは次の通り。
永田は、同志殺人14名に森と上赤塚交番襲撃で射殺された柴野春彦を加え手記に「十六の墓標」と題している。森の自殺時について次のように記している。
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【「連合赤軍事件総括」考】 |
以上のような経緯を持つ連合赤軍事件をどう総括すべきか。残念ながら、日本左派運動は、今日まで総括に値する総括を持ちえていない。めぼしいところで、塩見議長総括がある程度であろう。これについては詳論「塩見議長総括考1」、「塩見議長総括考2」、「塩見議長総括考3」に記す。筆者の塩見総括評は「れんだいこの塩見総括論評」に記している。 他に第4インターの1972.3.27日付け 「連合赤軍とわれわれの立場 テロリズムに反対し、人民による自衛隊兵士の獲得にむかって前進しよう」がある。が、筆者の見立てるところ、「われわれは、諸君の世界とは、きっぱりと無縁である」と外在的批判で事足りている。共産主義者同盟赤軍派中央委員会の一九七三年×月×日付け「連合赤軍事件に関する特別報告」がある。が、筆者の見立てるところ、一見内部的総括のように見えて、指導部独裁の理論的由来に対して全く切開できていない。 最近、蔵田氏計成氏が2008.8月号「情況」に「検証/連合赤軍総括から引き出す教訓と歴史責任」を発表した。これに対し、塩見氏が2008.9.9日付け「蔵田計成氏に答える」をネット上で反論し、物議を醸している。「蔵田対塩見論争考」で採り上げておく。これらを踏まえながら、れんだいこ総括を提起しておく。詳論は「れんだいこの連合赤軍総括」でしており、これを踏まえ新たに概述する。 筆者は、連合赤軍事件問題の本質は要するに規約問題であった、という観点を打ち立てている。個々の反省的教訓は全て規約に於ける「民主集中制と云う名目での党中央絶対拝跪制」に起因しており、「自由、自主、自律規約を基本にした党中央権力分限制」にしておきさえすれば事件は起こらなかった、起きても道を大きく踏み誤ることなく解決したと思っている。 日本左派運動各派が自明なこのことを指摘しないのは、手前の党派の規約が本質的に連合赤軍と何ら変わらない「民主集中制と云う名目での党中央絶対拝跪制」に依拠しているからである。連合赤軍事件のような同志殺人を起こさないのは、何の事はない平素より単なるアリバイ的反対運動に堕しており、運動を極限化させていないだけのことに過ぎないと考える。これらの党派が何らかのギリギリの決断を迫られる場合、党中央と党内反対派は血で血を争う劇場型政争に追い込まれる可能性があると考える。 次に問題すべきは、指導者論に関わる組織論であると考える。これも、そう難しく考える必要はない。指導者の質によって、人材の登用のされ方、指針、予算執行が変わり、組織は活性化したり沈滞化すると云う話しである。これについては別稿「指導者論」で検証したい。 次に問題すべきは、統一戦線論、共同戦線論のいずれを戦略戦術とすべきかと云う運動論である。日本左派運動は、穏和系から急進系まで統一戦線論を弄んでいる。その結果が、今日のテイタラクであることを思えばお笑いでしかない。元々共同戦線論で終始一貫すれば良いだけの話である。それをなぜわざわざ統一戦線論に拘るのか、これを訝るべきであろう。仮にマルクスその人が共同戦線論を排し統一戦線論にシフトしているとすれば、そういうマルクス主義の限界から出藍せねばならないであろう。 ざっと気づくことは以上である。せめてこれらのことを導き出すのが、連合責任事件に対する総括となるべきであろう。実際になしているのは、俺達は違う論、責任は革命左派にある論、責任は赤軍派にある論、指導者無能力論、過激運動自体のそもそも原因論等々であり、いずれも本質的な解明且つ実践的総括には至っていないと考える。 我々が為さねばならないことは、連合赤軍史の軌跡の全肯定、全否定を排し、どの加減で肯定しどの加減で否定するのかと云う見極めと再犯防止の工夫手立てを講ずることであろう。この実践的問いかけからのアプローチでなくては意味がなかろう。そういう意味で、筆者の指摘こそを基準とすべきではなかろうか。 |
(私論.私見)