第11章 | 戦後学生運動6期その3(1962年−63年)、全学連の三方向分裂化概略 |
(最新見直し2008.9.11日)
これより前は、「6期その2、マル学同全学連の確立」に記す。
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、1962年から1963年までの学生運動史を概括する。これを仮に「戦後学生運動6期その3、全学連の三方向分裂化概略」と命名する。詳論は「全学連の三方向分裂化と民青系全学連の「再建」」に記し、ここではエポックな事件を採り上げ解析する。 1962年時点より全学連の再統一の道が閉ざされ、それぞれの党派が競合的に自力発展していくことになる。この期の特徴は、正統全学連執行部をマル学同が占め、民青同は別途に全自連→平民学連経由で全学連を再建させる。これに対して、反マル学同で一致した社学同再建派、社青同、構造改革派が三派連合しつつ全学連の統一を模索していくも、マル学同との間に折り合いがつかず逆に緊張が高まるばかりとなる。 1963年、革共同全国委が中核派と革マル派に分裂する。中核派と革マル派の対立の背景には次のような観点の相違が介在していた。「革共同の中にも実践派と書斎−評論派との対立があり、それが後の中核派と革マル派との対立になっていったとのこと」(戦後史の証言ブント.古賀)である。大衆運動の進め方にも大きな観点の相違が存在していた。これについては、「中核派と革マル派の対立考」に記す。 ここで革マル派について言及しておく。 1963.4.1−2日の「革共同の第三次分裂」により革マル派が誕生したが、これにより革共同の主流が漸く黒寛を絶対教祖とする党派へ辿り着いたともみなせよう。その経緯の是非はともかくとして、革マル派とはそもそも何者だろうか。日本左派運動の一派なのだろうか。日本左派運動撲滅請負を旨として悪事を働く偽装左派党派なのだろうか、これにつき正面から分析している論文を知らない。これについては、「革マル派考」に記す。 中核派が構造改革派の代わりに第二次ブント創出派、社青同派との共同戦線に向かい、新三派連合を結成する。この間、民青同派が平民学連を経て自前の全学連を結成し、全学連は、革マル系、民青同系、新三派連合系の三つ巴で競合し始める。この経緯を検証する。 |
1962(昭和37)年 |
【日韓外相会談、キューバ危機、中ソ論争激化】 |
1962.3月、日韓外相会談。4月、キューバ危機、8月、中ソ論争激化。 |
5.2日、構造改革派系の社会主義学生戦線(フロント)が結成される。上部団体は統一社会主義同盟。共青同を凌ぐ勢いを見せていくことになる。
5.11日、ブント系社学同と社会党系社青同、構造改革派の反マル学同三派連合が改憲阻止闘争で自民党本部に突入。50名が総裁に面会を要求し総裁室占拠、46名が逮捕される。
5.25日、全学連反戦統一行動、中央集会〔清水谷公園〕に千名参加、米大使館デモを機動隊に阻止され特許庁前坐り込み。道学連が、米札幌領事館に千二百名の抗議デモ、金沢で450名の市内デモ、三派連合、改憲阻止全都学生統一行動、千名が氷川公園結集・日比谷公園までデモ。
【日共系が東京学生平民共闘を結成する】 |
1962.5.25日、池田首相は、大学管理問題として「大学が赤の温床」になっているとして大学管理法の必要性を強調した。民青同系は、この大管法闘争に真っ先に取り組み、この過程で6.1日、全自連崩壊の後を受けて東京学生平民共闘を正式に発足させた(平民とは「安保反対・平和と民主主義を守る」という略語)。 この動きが7.14−15日、「学生戦線統一のための全国発起人会議」開催へとなった。全国より70余自治会参加。「安保反対・平和と民主主義を守る全国学生連絡会議」(平民学連)結成を呼び掛け、翌63年平民学連が結成されることになる。ちなみにこの時大管法闘争を重視したのは民青同系と構造改革派系だけであり、いわゆるトロ系は闘争課題に設定しなかったようである。 |
6.9−10日、全学連が西式健康会館・豊島振興会館で第31回中央委を開催。大会冒頭、大管法改悪反対で二百名による緊急文部省抗議デモ、参院選に黒田寛一を推薦、大管法阻止全国学生共闘会議の設置等を決定。
【樺美智子追悼二周年】 |
6.15日、「6.15日樺美智子追悼二周年」が千代田公会堂で開かれた。学生、労働者、市民の約千名が参加した。この時、最前列を占めたマル学同全学連700名は、社会党飛鳥田一雄の挨拶をやじり倒し、社学同の佐竹都委員長の挨拶には壇上での殴りあいを演じ、清水幾太郎の講演もほとんど聞き取れない有様となった。これを「暴挙」とする樺俊雄夫妻.吉本隆明.清水幾太郎氏らは批判声明を発表し、概要「マル学同の狂信者たちが全学連の名を僭称しつづけることを許すべきでない」とまで、厳しく弾劾している。 |
【反マル学同三派連合の内紛】 |
7月、反マル学同で一致した社学同再建派、社青同、構造改革派の三派が連合して「全自代」を開催した。彼らは全学連再建を呼号し続けたが、折からの大管法に取り組むのかどうかをめぐっての運動方針食い違いが発生し最終的に暴力的な分裂に発展した。ブントは憲法公聴会阻止闘争一本槍を主張し、構造改革派が大管法闘争への取り組みを主張した。ブントが武装部隊を会場に導入して、構造改革派派を叩き出した。こうして、連合したばかりの三派連合は空中分解した。 この動きから判ることは、ブントの組織論における致命的な欠陥性である。一体全体ブント系は、60年安保闘争総括後空中分解したまま今に至るも四分五裂をますます深め統合能力を持たない。意見、見解、指針の違いが分党化せねばならないとでも勘違いしている風があり、恐らく「お山の大将」式に星の数ほど党派を作りたいのだろう。なお、意見の相違については、ゲバルトによって決着させたいようでもある。しかし、残念ながら少数派閥化することにより、このゲバルトにおいてもマル学同に対して歯が立たなくなってしまったという経緯を見せていくことになる。 これについて、筆者はかく思う。私見によれば、キャンパス内における反対派封殺がなぜ犯罪的であるかというと、既述したようにも思うが、右翼や宗教運動家らの跋扈には無頓着でありつつ左翼意識の持ち主がテロられる事により、結果として左翼運動が縊死することになるからである。大体において学生内の左派系意識の持主は全体の2割もいれば良い方であり、この2割内で叩き合いをすることにより貴重な人士の輩出が制限されることに無頓着過ぎるのがケシカラナイと思う。 これも既述したが、元々ブントは、カオス的世界観を基調にして運動の急進主義を主導的に担ってきたという経過がある。「60年安保闘争」の領導には、反対派の存在は許されるどころかそれらを前提としつつ主体的な自派の運動を創出していくことにより圧倒的な支持を獲得してきたという自信が漲っていたのではなかったのか。この前提を許容しえなくなったブントはもはやブントではなく、大衆から見放されるばかりの余命幾ばくかの道へ自ら転落していくことになったとしても致しかたなかろう。この経過もおいおいに見ていくつもりだ。 |
【日共の露骨な構造改革派排除】 |
この年夏の世界青年学生平和友好祭日本実行委員会で、日共党中央の指示に基づいて民青同の代表は、この間まで運動を一緒に担っていた構造改革派系青学革新会議の参加を排除した。思想、信条、政党、党派のいかんにかかわりなく、平和友好祭は元々平和と友好のスローガンの下に幅広く青年を結集する友好祭運動であったが、理由がふるっている。革新会議はファシスト団体であると言って参加を拒否した。昨日まで一緒に「平和と民主主義」の旗印を掲げて闘っていた旧同志たちを、反代々木化したからという理由しか考えられないが、反代々木=反共=ファシズムというご都合主義三段論法によりファシスト視し排除の理由とした。 これについて、筆者はかく思う。これを「前時代的な硬直した思考図式」といって批判する者もいるが、私には、宮顕の「芥川論」考察で明らかにしたように、宮顕の典型的な「排除の強権論理」の現れとしてしか考えられない。この論理は日本左翼(よその国ではどうなのかが分からないのでとりあえずこう書くことにする)の宿アと私は考えている。いずれにせよ、この平和友好祭には自民党系の青年運動も参加していたようであるから、宮顕式統一戦線論の「右にやさしく左に厳しい」反動的本質がここでも見て取れるであろう。 このことは、第8回原水禁世界大会をめぐっての社青同に対する度を超した非難攻撃にもあらわれている。労働組合運動にせよ、青年運動にせよ組織的自主性を保障することは、党の指導原則であるべきことではあるが、日共の場合、何気ない普段の時には守られるものの一朝事ある時はかなぐり捨てられるという経過を見て取ることができる。先のカオス・ロゴス観で仕訳すると、宮顕の場合にはロゴス派の系流であり且つ統制フェチという特徴づけが相応しい。 |
【大学管理法闘争】 | |
10月、中央教育審議会が大管法答申を出してくるなど一段と現実味を増すことになった。これを受けて、この時日共・民青同系は、大管法闘争に大々的に取り組んでいくことを指針にした。11.13日、平民学連結成に向けての「全国地方ブロック代表者会議」を開催した。この時、63年中の全学連再建方針を決議した。11.17日、「大学管理制度改悪粉砕全国統一行動」を決定し、当日は東京3千名、全国7地区で集会、抗議デモを展開した。 こうした大管闘争の盛り上がりを見て、三派連合も、更に遅れてマル学同もこの闘争に参入してくることとなった。11.30日、マル学同も含めた四派連合が形成され、約4千名の集会が持たれた。川上徹「学生運動」は、この四派連合に対して次のように揶揄している。
これについて、筆者はかく思う。大管闘争に取り組む姿勢の違いの背景に、民青同系といわゆるトロ系には「大学の自治」に関する観点の相違があることがこの後次第にはっきりしていくことになる。分かりやすく言えば、民青同系は学園民主化闘争を重視し、トロ系はこれを軽視するというよりは欺瞞体制とみなし権力機構一般と同じく打破の対象としていくというぐらいに真反対の立場に立つ。この後この差が次第次第に拡幅していくことになる。この問題もまた左翼運動内の未解明な理論的分野であり、相互に感情的に反発し合うだけで今日に至っているように思われる。この情緒性がたまらなく日本的と言えるように思う。 ここに真っ当な左派が登場しておれば、戦後日本の憲法秩序をプレ社会主義と規定し、これの護持と成育発展を期すべきであったであろう。これによれば、学園民主化闘争も是であり、体制変革運動も是であろう。但し、土着在地主義的な一国にして国際主義に通用するような革命を目指すべきであったであろう。どういう訳か、そういう風に捉え推進する運動体が居なかった。 |
【革共同三全総で黒寛派と本多派の対立発生】 |
9月、「第3回革共同全国委総会」(三全総)時点で、革共同全国委の中心人物であった黒寛とbQの本多氏の間で抜き差しならない意見対立が発生した。先の大管法闘争に於いて、マル学同が三派と共同戦線闘争を組んだ四派連合を廻って、その是非が論争となり激化していくことになった。黒寛派の全学連委員長・根本仁は四派連合結成を良しとせず、これを押し進めた本多派の書記長・小野田と対立していくこととなった。前者は後者を「大衆運動主義」と非難し、後者は前者を「セクト主義」と非難した。マル学同内部のこの対立が導火線となって翌年に革共同の第三次分裂がもたらされていくことになる。 |
1963(昭和38)年 |
1.19日、都学連再建大会〔芝児童会館〕。社学同・社青同・構改派らの都内13大学26自治会94名参加。一・二四ストから試験ボイコットへと大管法闘争推進等を決定(委員長・今井澄)。
【「歪んだ青春−全学連闘士のその後」事件】 | |
1963.2月、TBSラジオが録音構成「歪んだ青春−全学連闘士のその後」を放送し、安保闘争時の全学連委員長唐牛健太郎について、彼が田中清玄(戦前の武装共産党時代の委員長であったが、獄中で転向し、その後行動右翼と活躍していた人物)から闘争資金の援助を受けていたこと、安保後には田中の経営する土建会社に勤めていることなどを暴露した。 これに日共が飛びつき、「トロツキストの正体は右翼の手先」だと、大量に録音テープを配布し、機関紙「アカハタ」で連日この問題を取り上げた。れんだいこなら、宮顕その人の胡散臭さを問い、是非を争うが、旧第1次ブントの面々は日共批判に太刀打ちできず、唐牛を庇う事ができなかった。 これにつき、筆者ならかく反論する。
こう反論すべきところ、宮顕を「戦前唯一無比の非転向最高指導者」と勝手に懸想して聖像視する理論レベルでしかなかったから、切り返せなかった。理論の貧困が実践の貧困に繋がる格好例であろう。これにつき、詳論「唐牛問題(「歪んだ青春−全学連闘士のその後)考」で概述する。 |
【革共同全国委が中核派と革マル派に分裂】 |
4.1−2日、前年62.9月の「革共同全国委三全総」時点でのbP指導者・黒寛とbQ指導者・本多間に「四派連合問題」を導火線とする論争、抗争が激化し、中核派と革マル派に分裂することになった。これを「革共同の第三次分裂」と云う。 この抗争は次のように決着することになる。革共同全国委の政治局内部では本多派が多数を占め、「探求派」グループの木下尊悟(野島三郎)、白井朗(山村克)、飯島善太郎(広田 広)、小野田猛史(北川 登)、第1次ブントの田川和夫、陶山健一(岸本健一)、清水丈夫(岡田新)らが連動した。黒寛派についたのは現在JR東労組で活動している倉川篤(松崎明)、森茂らの少数であった。黒寛派は、革共同全国委から出て新たに革共同・革命的マルクス主義派(革マル派)を結成することになった。これが革マル派の誕生である。 マル学同の上部指導組織の革共同全国委で路線対立が起きたことによりマル学同内部にも対立が波及していくことになった。マル学同では逆の現象が起き、革共同全国委では少数派だった黒寛派はマル学同では多数派となった。これにより、本多派の方がマル学同全学連から追われ、マル学同中核派を結成することになった。 4.1−2日、マル学同全学連第34回中執委が開かれ、統一行動を唱える6名の中執を罷免するという分裂劇が演じられた。統一行動を「野合」に過ぎぬと非難した根本派(→革マル派)と、それに反発して「セクト主義」だと非難を投げ返した小野田派(→中核派)に完全に分裂することになった。乱闘の末、革マル派は中核派6名の中執罷免を決定した。これによりマル学同全学連は革マル派と中核派に分裂することとなり、革マル派が正統全学連の旗を独占し続け、早稲田大学を拠点に革マル派全学連として存在を誇示し続けていくことになる。革マル派)は機関紙「解放」を創刊する。この時期中核派は全学連学生運動内に「浮いた状態」になった。 7.5−8日、全学連20回大会(委員長・根本仁)で革マル派が主導権確立、根本仁(北海道学芸大)を委員長に選出した。革マル派は中核派130名の入場を実力阻止し、6中執の罷免を承認した。中核派は全学連主流派総決起大会を開催(1・2日目=自治労会館、3日目=法政大〕し、革マル派単独大会を分裂行動と非難する。これにつき、詳論「革共同の第三次分裂考」に記す。 |
【民青同系が平民学連を結成】 | ||||||||
7.16−18日、民青同系全学連の先駆的形態として、「安保反対.平和と民主主義を守る全国学生自治会連合」(「平民学連」)が結成され、台東体育館で第1回大会が開催された。委員長に川上徹を選出した。この大会には、72大学、121自治会、230名の代議員が参加し、傍聴者3500名を越えた。
これについて、筆者はかく思う。筆者は、この主張における1項の「自治会の民主的運営の徹底的保障」を支持する。但し、この項目が4項の「分裂主義者の正体を素速く見抜き、これを追放する闘いが必要」と結びつけられることに同意しない。この主張はセクト的な立場の表明であり、この文章が接続されることにより「自治会の民主的運営の保障」はマヌーバーに転化せしめられており、これも叉裏からのセクト的対応でしかないと窺う。してみれば、「組織の民主的運営と執行部権限理論」の解明は今なお重大な課題として突きつけられていると思われる。この部分の解明がなしえたら左派運動は一気に華開いてい くことができるかもしれないとも思う。 |
9−10月、三派、革マル派、民青同それぞれが日韓条約批准反対闘争を展開する。
【清水谷乱闘事件】 |
9.13日、清水谷乱闘事件が発生している。清水谷公園で、連合4派(中核派・社学同・社青同解放派・構造改革派)が全都総決起集会で250名を結集しているところへ、革マル派150名が押しかけ演壇占拠、角材で渡り合う乱闘事態となった。のち両派相前後して日比谷公園までデモ。革マル派の他党派への暴力的殴りこみはこれを嚆矢とするのではなかろうか。 |
【民青同から志賀系民学同が分離】 |
9.13(15)日、日共内の志賀派の飛び出しを受け、大阪大中心の活動家が民青同系から離脱し、民主主義学生同盟(「民学同」)を結成した。「民学同」は、翌1964.7月、志賀系「日本の声」派と合流する。同派はその後、共産主義労働者系と「日本の声」派とに分岐し、10月、フロントと共に全国自治会共闘を結成し、構造改革派系新左翼連合戦線を形成する。 |
【ケネディー米国大統領が白昼暗殺される】 |
11.22日、ケネディー米国大統領暗殺される。テキサス州ダラスで遊説中狙撃された。約1時間半後、ダグラス市警は、リー・H・オズワルドを犯人として拘束したが、二日後に移送中、ジャック・ルビーにより射殺された。ジョンソン副大統領が昇格し、事件を調査する「ウォーレン委員会」を設置し、翌年9.26日、事件をオズワルドの単独犯行とする調査結果を報告した。しかし、疑惑が多く信憑性が疑われている。アメリカはその後、ベトナム戦争拡大に向かうことになる。 |
【林紘一派率いる共産主義の旗派が全国社会科学研究会へ発展的改称】 |
12月、「プロ通派」から林紘一らが分れて「共産主義の旗派」を結成していたが、日本共産労働党―共産主義者同盟を経て全国社会科学研究会が結成された。同会は、1972.7月、「真の前衛党づくりを目ざす」として「マル労同」(マルクス主義労働者同盟となり、その後社労党へと至る。 |
(私論.私見)