第8章 戦後学生運動5期その3(1960年)、60年安保闘争概略

 (最新見直し2008.8.11日)

 これより前は、「5期その2、新左翼系全学連の発展」に記す

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、1960年の安保闘争を別立てでサイトアップする。これを仮に「戦後学生運動5期その3、60年安保闘争概略」と命名する。詳論は「60年安保闘争、ブント系全学連の満展開と民青同系の分離」に記し、ここではエポックな事件を採り上げ解析する。

 筆者は、60年安保闘争につきこれを特筆し、「戦後学生運動3、60年安保闘争概略」として別立てする。その理由は、60年安保闘争の意義を確認したいと云う意味と、この時成立せしめられた日米新安保条約がその後の日本を縛り、この時より戦後日本は憲法秩序と安保秩序の二重構造社会へ入ったと云う歴史性際立たせたい為である。


【60年安保闘争の史的意義】
 1960年初頭、日本は、戦後来の憲法秩序に対して別系の安保秩序が導入されんとしていた。戦後左派運動は当然の如くこれに反発した。逸早く腰を上げたのは学生運動であった。全学連内の第1次ブント、日共、革共同と云う三派競合の中から躍り出たのが島−生田の指揮する第1次ブントであった。その闘いぶりは世界中に「ゼンガクレン」として知られることになった。この渦中で、民青同系は遂にブント系全学連と袂を分かつことになった。こうして学生運動の二分裂化傾向がこの時より始まることになった。

 第1次ブントは、59年末の国会突入、60年冒頭の羽田空港占拠、首相官邸及び国会再突入で岸政権を揺さぶった。多くの学生が逮捕されたが、第1次ブントは怯むことなく闘争に継ぐ闘争に向かった。第1次ブントの跳ね上がりを可能にせしめたのは当時の労学共闘であった。日共は専ら敵対したが社会党−総評の下部労組員がこれを支えた。

 岸政権は60年安保条約の締結を見返りに退陣に追い込まれる。ゼンガクレンの名声が世界に轟いた。この60年安保闘争を牽引したのが、うら若き青年からなる第1次ブントであった。この運動のみが、左派運動の昂揚で時の政権を瓦解させた初事例となっており、そういう意味で特筆されねばならない。60年安保闘争は戦後左派運動の金字塔であり、それを牽引した第1次ブントが、以来後にも先にも例が無いと云う意味で今も栄誉に輝いている。

 筆者は、以上の評価に次のような認識をも加える。60年安保闘争にはもう一つ意義が認められる。それは、60年安保闘争が結果的に、岸首相に結節したところの政府自民党内のネオ・シオニズム系戦後タカ派政権を失脚させる事により、次にハト派政権を呼び込んだと云う歴史的意味がある。筆者の見立てるところ、政府自民党内のハト派政権は、在地性土着派的プレ社会主義的要素を持つ日本政治史上稀有な善政政権であり、60年安保闘争が結果的にその誕生を後押ししたことになる。この意義は、今のところ誰にも指摘されておらず、れんだいこの独眼流となっている。

 この観点が正史としての記述となるべきところ、あぁだがしかし、その後の日本左派運動は、第1次ブントの解体、労学共闘の雲散霧消に向けて勤しむことになり、この傾向が今日まで続いている。政府自民党内ハト派との裏連携的意義も顧慮されていない。他方で、本質的に見て、社共運動が政府自民党内タカ派と裏連携的な政治的役割を果たし続けて今日に至っている。日本左派運動にはこういう倒錯が纏いついている。

 これは偶然であろうか、故意作為なものではなかろうか。そういうことを考察してみたい。補足すれば、この考察を抜いた正史ならぬ逆さ史を幾ら学んでも、学べば学ぶほど阿呆になる。そういう空疎史ばかりが供給され続けている。この状況を知らねばならない。

【日米安保条約の改定問題の政局浮上】
 59年から60年に初頭にかけて日米安保条約の改定問題が、急速に政局浮上しつつあった。政府自民党は、このたびの安保改定を旧条約の対米従属的性格を改善する為の改定であると宣伝した。しかし事実は、新安保条約は、米軍の日本占領と基地の引き続きの存在を容認した上、新たに日本に軍事力の増強と日米共同作戦の義務を負わせ、さらには経済面での対米協力まで義務づけるという点で戦後の画期を創ろうとしていた。

 これのもたらすところは戦後社会の合意である憲法の前文精神と9条を空洞化であり、国際金融資本の世界支配戦略への露骨な組み込みであった。日本左派運動がこれに猛反発したのは、けだし当然であろう。

 1.16日、岸全権団の渡米阻止のための大衆運動計画が立てられた。日共は、信じられないことだけども、岸全権団の渡米にではなく、渡米阻止闘争に猛然と反対を唱えて、全都委員、地区委員を動員して組合の切り崩しをはかったという史実がある。次のような変調な送り出し方針をいち早く打ち出している。
 「(岸首相の渡米出発に際しては)全民主勢力によって選出された代表団を秩序整然と羽田空港に送り、岸の出発まぎわまで人民の抗議の意志を彼らにたたきつけること」(アカハタ.60.1.13)。

 これについて、筆者はかく思う。それにしても妙な文章であろう。末尾で「人民の抗議の意志を彼らにたたきつける」とあるから闘うのかと思うと、前段では「全民主勢力によって選出された代表団を秩序整然と羽田空港に送り」とある。何の事はない、アリバイ闘争にしけこもうと云うだけの話である。日共は、こういう二枚舌論法を多用する。しかし、こういう二枚舌論法に違和感を抱かず丸め込まれ騙される方にも責任が有ろう。

【「全学連の羽田空港占拠事件」】
 全学連は、社共、総評の静観を一顧だにせず、独自行動として岸渡米阻止羽田闘争に取り組むことを決定し、15日夕から全学連先発隊約7百人が羽田空港に向かった。警官隊より早く到着し、ロビーを占拠、座り込みを開始した。後続部隊も続々と羽田へ羽田へと向かった。この闘争で唐牛委員長、青木ら学連執行部、生田、片山、古賀らブント系全学連指導下の77名が検挙された。樺美智子女史も逮捕されている。これを「羽田空港占拠事件」と云う。

 社会党・総評は、統一行動を乱す者として安保共闘会議から全学連排除を正式に決定した。日共は再び全学連を「トロッキストの挑発行動・反革命挑発者・民主勢力の中に送り込まれた敵の手先」として大々的に非難した。革共同も、「一揆主義・冒険主義・街頭主義・ブランキズム」などと非難している。

 しかし、島氏は次のように確認している。
 「全く新しい大衆闘争の現出だった。明らかに私たちブントの闘いによって、政治にとって、安保闘争にとって、人民運動にとって流動する状況が生まれたという確信である。長らく社・共によって抑圧されていた労働者大衆が、これをうち破った全学連の行動を通して、新しい政治勢力としてのブントの像をはっきり見たに違いないという実感である」。

 これについて、筆者はかく思う。岸渡米阻止羽田闘争に対してさえ、左派圏内でこれほどの差が有る。これを踏まえて、どちらの謂いを支持するのかが問われていることになる。

【知識人の全学連救援運動と日共の敵対恫喝】
 知識人によって羽田事件の逮捕者の救援運動が始められた。しかし、日共は、発起人に名を連ねている党員の切り崩しをはかった。これにより、関根、竹内、大西、山田、渋谷などの人々が発起人を取り下げざるをえなくされた。これらの知識人は後々日共に対する激しい批判者となる。

【日共党内からの造反】
 この頃、日共内では党の安保闘争の指導ぶりをめぐって党中央批判が展開された。1−2月、共同印刷、鋼管川鉄と並んで三大拠点細胞とされていた三菱長崎造船所細胞の大多数が離党した。その中心分子は、「共産党は今や理論的にも実践的にも革命政党としての能力を失いつつある」と宣言し、自ら「長崎造船社会主義研究会」なる自立組織をつくり、ブントへの結集の動きを見せ始めた。こうした現象は中央から地方に、インテリ党員から労働者党員へと急速に広がり、学生細胞、全国有力大学の学者党員、官公労民間経営から離党、脱党が相次いだ。 

【民社党の結成】
 1月、社会党右派の西尾末広らが社会党を離党し、新党として民主社会党(民社党)結成の動きに出始めた。こういう政治的エポック期を前にしての社会党の分裂化は自然な流れと云うよりも、当局の差し金により計画的に作り出された社会党のひいては安保反対闘争の弱体化政策であった。1.24日、民社党結成大会。委員長に西尾末広を選出した。

 1.25日、三池労組が無期限全面ストに突入


【革共同全国委の檄】
 この頃、革共同全国委員会派は、全学連主流派の有力幹部たちをも包含しつつ勢力を扶植しつつあった。2月、革共同全国委員会は責任者黒寛のもとに機関紙「前進」を発行。次のように檄を飛ばしている。
 「一切の既成の指導部は、階級闘争の苛酷な現実の前にその醜悪な姿を自己暴露した。安保闘争、三池闘争のなかで社共指導の裏切りを眼のあたりにみてきた」。
 「(労働者階級は)独立や中立や構造改革ではなしに、明確に日本帝国主義打倒の旗をかかげ、労働者階級の一つの闘争をこうした方向にむかって組織していくことなしには、労働者階級はつねに資本の専制と搾取のもとに呻吟しなくてはならない」。
 「一切の公認の指導部から独立した革命的プロレタリア党をもつことなしには、日本帝国主義を打倒し、労働者国家を樹立し、世界革命の突破口をきりひらくという自己の歴史的任務を遂行することはできない」。
 「こうした闘争の一環としてマルクス主義的な青年労働者の全国的な単一の青年同盟を結成した」。

 この頃から4月にかけて革共同全国委は、ブントの学生組織・社学同に対抗する形で自前の学生組織としてマルクス主義学生同盟(マル学同)を組織した。この発足当時5百余の同盟員だったと云われている。マル学同は民青同を「右翼的」とし、ブントを「街頭極左主義」として批判しつつ学生を中心に組織を拡大していった。

【全学連第15回臨時大会】
 2.9日、社学同第5回全国大会。2.28−29日、全学連第22中委が開かれている。この時、革共同関西派の8名の中執が暴力的に罷免され、中執はブントによって制圧された。この時点での全学連内部の勢力比は、ブント72、民青同22、革共同関西派16、その他革共同全国委・学民協とされる。 

 3.16−18日、全学連第15回臨時大会が開かれている。全学連主流派は、民青同系と羽田闘争をボイコットした革共同関西派を「加盟費未納」などを理由として代議員資格をめぐり入場を実力阻止した。抗議した民青同系と革共同関西派の反主流派の代議員231名(川上徹「学生運動」では代議員234名)を会場外に閉め出した中で大会を強行した。会場内の中の主流派代議員261名(〃代議員は181名)であったという。

 これについて、筆者はかく思う。大会開催に先立っての会場付近での主流派対反主流派の衝突が、後の全学連分裂を準備させることになった。してみれば、この大会は学生運動至上汚点を残したことになる。意見の違いを暴力で解決することと、少数派が多数派を閉め出したことにおいて、悪しき先例を作った訳である。この時点では、全学連主流ブント派は、明日は我が身になるなどとは夢にも思っていなかったと思われる。左翼運動の内部規律問題として、本来この辺りをもっと究明すべきとも思うが、こういう肝心な点について考察されたものに出会ったことがない。


 大会は、全学連におけるブントの主導権を固め、「国会突入、羽田闘争を中心とした全学連の行動はまったく正しい」と評価し、「安保批准阻止闘争の勝利をめざして4月労学ゼネストを断乎成功させよう、岸帝国主義内閣を打倒しよう」と宣言した。島氏が挨拶に立ち、渾身の力を込めてブントの安保闘争への決意を表明した。人事は、委員長・唐牛(北大)を再選し、副委員長・加藤昇(早大)、糠谷秀剛(東大)、書記長・清水丈夫(東大)を選出し、60年安保闘争を闘い抜く体制を整えた。

【日共が重い腰を上げる】
 4.17日、日共が日比谷野外音楽堂で「新安保条約批准阻止総決起大会」を主催している。注意すべきは、歴年党員の語り草に水を差すようであるが、「日共の60年安保闘争」はこの時点から号令一下本格的に稼働したとみなすべきで、総評・社会党・全学連による運動の盛り上がりを見て「バスに乗り遅れじ」とばかり参入したというのが史実であることを確認しておきたい。

 日共の取り組みの遅れは、それまでの党中央の方針と指導にあった。宮顕は、この間一貫して安保闘争を抑圧せんとしており、岸政府打倒をターゲットとするという政治闘争としての位置づけを避けていた。「できるだけ広範な人民層の参加を得る」為にと云う口実で闘争戦術を落とし、幅広主義的統一行動と云う名の下で整然たる行動方式を指針させていた。つまり、安保闘争を何とかして通常のスケジュール闘争の枠内に治めようとしていた観があり、国会突入を視野に入れるブント的指導との両極端にあったとみなすことができる。

 日共式幅広行動主義によるカンパニア主義と整然デモ行動方式が、戦闘的な学生・青年・労働者の行動と次第に対立を激化させた。党の指導するこうした「国会請願デモ」に対して、全学連指導部により「お焼香デモ」・「葬式デモ」の痛罵が浴びせられることになった。

【ブントの総力戦宣言】
 4.24日、ブントの第4回大会が開かれている。この時、島書記長報告がなされた。「3千名蜂起説」、「安保をつぶすか、ブントがつぶれるか」、「虎は死んで皮を残す、ブントは死んで名を残す」と後年云われる演説がぶたれたと云う。

【「お焼香デモか、ジグザグモか」】
 4.26日、第15次安保阻止全国統一行動で10万人の国会請願運動が行なわれた。この時、全学連主流派は、「お焼香国会請願か、戦闘的国会デモか」と問題を提起し、全国82大学、20数校の全学スト.授業放棄で25万名を参加せしめ、都内ではチャベルセンター前に全学連7千名が結集し、国会正門前で警官隊と激しく衝突した。

 全学連委員長唐牛は、自ら警官隊の装甲車を乗り越えて、「障害物を乗り越えて、国会正面前へ前進せよ」とアジり、国会正門前に座り込みを貫徹した。「唐牛追想集」は次のように証言している。
 「結局、もう決死隊しかないとなって、新宿で明け方まで酒を飲みながら、唐牛が『俺はこれに賭ける。トップバッターとなって、装甲車を乗り越えて国会構内へ飛び降りるから、その後は誰、次は誰』と、5人ぐらい決めましてね。何人か飛び込んだら局面が変わるだろうと。すると、本当に続々と何千人もが全部飛び込んでいった」。

 「早稲田の杜の会」は次のように記している。
 概要「唐牛健太郎がマイクを握り、顔面蒼白にして激烈に訴えかけた。この時の唐牛のアジテーションには鬼気迫るものがあった。それまで、これほど心を動かされたアジを耳にしたことはなかった。学生達は、まるでコンサートの聴衆のように唐牛の訴えに聞き入っていた。アジは終わった。一瞬の静寂が支配した。誰も動こうとしなかった。ところが次の瞬間、学生達は幌トラックによじ登り、皆でウウァ−と叫びながら警官隊の頭上目がけて飛び降りた」。

 島氏は、次のように記している。
 「たじろぐブント員を尻目に次から次へとバリケードによじのぼり、警官の壁を崩そうとする何千名の学生、労働者の姿を見て、感激の余り私は涙が出てくるのを禁じえなかった」(「ブント私史」)。

 この闘争で唐牛委員長、篠原浩一郎社学同書記長ら17名が逮捕され(この結果、唐牛.篠原は11月まで拘留される事になった)、100名の学生が重軽傷を負った。京都でも、京大が「昭和25年のレッド.パージ反対闘争以来、10年ぶり」に時計台前集会に約1500名を結集し、府学連主催の円山音楽堂での集会には3500名の集会を開いている。この日韓国の首都ソウルでも、学生を先頭に50万人のデモがあり、その為に翌27日李承晩大統領が辞表提出へと追い込まれている。

【民青同の全学連分離行動始まる】
 注目すべきは、この時より全学連反主流派民青同系学生1万1千余は別行動で国民会議と共に国会請願運動を展開していることである。つまり、全学連の行動における分裂がこの時より始まった事になる。これより民青同系全学連反主流派は、まず東京都において「東京都学生自治会連絡会議」(都自連)を発足させている。以降民青同系は、「60年安保闘争」を都自連の指導により運動を起こすようになる。

 これについて、筆者はかく思う。この経過は民青同系指導部の独自の判断であったのだろうか、宮顕派党の指示に拠ったものなのであろうか。この時全学連運動内部の亀裂は深い訳だから、もっと早く自前の運動を起こすべきであったかもしれないし、運動の最中のことであることを思えば分裂は避けるべきであったかも知れない。いずれにせよ、こういうことをこそ総括しておく必要があると思われる。

【岸政権の安保強行採決と安保闘争の激動化】
 5.19日、衆議院での安保条約承認採決を阻止しようとして連日数万の国会デモが続く最中、政府と自民党は会期を延長し、深夜から20日未明過ぎにかけて新条約を強行採決した。採決に加わった自民党議員は233名、過半数をわずか5名上回る数で、本会議に於ける審議は14分という自民党のファッショ的暴挙であった。この時自民党は警官隊・松葉会などの暴力団を院内に導入した。

 この経過が報ぜられるに連れて「岸のやり方はひどい」、「採決は無効だ」、「国会を解散せよ」という一般大衆にまで及ぶ憤激を呼び、この機を境にそれまでデモに参加したことのない者までが一挙に隊列に加わり始めた。パチンコしていた連中までが打ち止めてデモに参加したとも云われている。夕刻から労・学2万人国会包囲デモ。この日を皮切りにこれより1ヶ月間デモ隊が連日国会を取り囲み、「新安保条約批准阻止・内閣退陣・国会解散」の為の未曾有の全国的な国民闘争が展開していくことになった。

 こうした流れについて、ブントも読み誤ったようである。川上氏「学生運動」に拠れば、全学連中執は、5.19日の晩の新安保条約批准の報を知るや「安保敗北宣言」を出しているとのことである。ところが、まさにこの時より事態は大きく流動化し、「労働運動指導部が、民主主義擁護と国会解散を掲げて、大きくプロレタリア大衆を動かし出した」のである。ブントにとっても「事態の後に追いついていくのが精一杯」という意想外のうねりをもたらしていたようである。 

【知識人の安保反対闘争合流始まる】
 5−6月に入るや知識人、学者、文化人らの動きも注目された。5.20日、九大の教授、助教授86名が政府与党の強行採決に反対して国会解散要求声明を発表した。大学教授団によるこの種の声明が全国各地で相次いだ。竹内好・鶴見俊輔らは政府に抗議して大学教授を辞任した。

【進むブント、押える日共】
 5.20日、全学連、全国スト闘争、国会包囲デモに2万人結集。学生の一部約3百名が首相官邸に突入。5.26日、安保改定阻止国民会議抗議デモ、17万余が国会包囲デモ。こうした最中の5.31日、日共常任幹部会は、「国会を解散し、選挙は岸一派を除く全議会勢力の選挙管理内閣で行え」声明を発表、何とかして議会闘争の枠内に引き戻そうとさえ努力している形跡がある。

 6.1日、社会党代議士が議員総辞職の方針を決定。吉本隆明らが6月行動委員会を組織、ブント全学連と行動を共にした。日高六郎.丸山真男らも立ち上がった。「アンポ ハンタイ」の声は子供達の遊びの中でも叫ばれるようになった。

 他方、児玉誉士夫らは急ごしらえの右翼暴力組織をつくり、別働隊として全学連を襲う計画で軍事教練を行ない始めた。ブントは、あらゆる手段を用いて国会突入を目指し、無期限の座り込みを勝ち取る方針のもと、大衆的には北小路敏全学連委員長代理をデモの総指揮にあて、他方ブント精鋭隊は特別行動隊を結成した。他国会突入のための技術準備も秘かに進めた。


 6.4日、第17次統一行動は国鉄労働者を中心に全国で560万人が参加し、安保改定阻止の政治ストライキを打った。全学連3500名が国会デモ。

【日共のハガチー来日阻止闘争】
 6.6日、この頃、日共は、いち早く来日予定の大統領秘書官ハガチー・アイク訪日阻止の旗印を鮮明にした。社会党臨時大会、総評幹事会も抗議闘争に取り組むことを決めた。この日、都自連が、アイク訪日阻止羽田デモを敢行することを決定した。但し、ブントも革共同もハガチー訪日阻止闘争を取り組んでいない。これには政治的見解の相違があるようで、「アイク訪日阻止は、安保闘争の反米闘争への歪曲」としていたようである。恐らく新左翼は帝国主義自立論により国内の政治権力に対する闘争を第一義としており、これに対して日共は、アメリカ帝国主義下の従属国家論により、こうした反米的な闘いこそ眼目となるとしていたようである。

 このことは、後日田中清玄のインタビューでも知れることでもある。田中氏は次のように分析している。
 「共産党は安保闘争を反米闘争にもっていこうとした。全学連の諸君は、これを反安保、反岸という闘争に持っていこうとした。ここに二つの分かれ目がある訳です」(63.2.26.TBSインタビュー)。

 6.10日、安保改定阻止第18次統一行動。全学連5000名国会包囲デモ。国民会議が国会周辺で20数万人デモ。ハガチー(大統領新聞係り秘書)は、羽田空港で労働者・学生の数万のデモ隊の抗議に出迎えられた。ハガチーの乗った車はデモ隊の隊列の中に突っ込み、米軍ヘリコプターと警官の救援でやっと羽田を脱出、裏口からアメリカ大使館に入るという珍事件が発生した。これを「ハガチー事件」と云う。「ハガチー事件」は、60年安保闘争で見せた日共系の唯一といって良い戦闘的行動であったが、これがブント系全学連を大いに刺激した風がある。

【6.15安保闘争、樺美智子死亡事件】
 6.15日、安保改定阻止の第二次全国ストが遂行された。全国580万人の参加。東京では、15万人の国会デモとなった。ブント系全学連は国会突入方針を打ち出し、学生中心に数千人が国会に突入した。この最中にブント女性活動家・樺美智子の死亡事件が起こった。この日の犠牲者は死者1名、重軽傷712名、逮捕者167名となった。

【アイク米大統領らの訪日中止】
 6.16日、樺美智子死亡事件が大きな憤激を呼んだ。この日、樺美智子虐殺に抗議し、労・学5万人が国会を包囲デモした。政府は、「樺美智子事件」の衝撃で不測の事態発生を憂慮することとなり、急遽臨時閣議を開きアイゼンハワー米大統領の訪日延期要請を決定。こうしてアイク米大統領らの訪日は中止となった。

新安保条約が自然成立
 国会デモはその後も空前の動員数を示した。全国の各大学は自然発生的に無期限ストに突入した。6.17日、社会党顧問川上丈太郎が右翼に刺され負傷。6.18日、30万人が徹夜で国会包囲デモ。

 6.19日午前零時、新安保条約が自然成立。6.22日、国会請願デモ10万人。6.23日、新安保条約の批准書交換、岸首相が退陣の意思を表明。新安保条約は国会で自然承認され発効した。

【樺美智子追悼集会】
 6.23日、樺美智子全学追悼集会。夜、全学連主流派学生250名が、「樺美智子(共産主義者同盟の指導分子)の死は全学連主流派の冒険主義にも責任がある」としたアカハタ記事に憤激して、党本部に抗議デモをかけた。日共は、この一連の経過で一貫して「挑発に乗るな」とか「冒険主義批判」をし続け、戦闘化した大衆から「前衛失格」、「前衛不在」の罵声を浴びることになった。

【60年安保闘争顛末】
 6.23日後、デモ参加者が急速に潮を引いていくことになり「60年安保闘争」が基本的に終焉した。後は闘争の総括へ向かっていくことになる。こうして安保闘争は、戦後反体制運動の画期的事件となった。「乗り越えられた前衛」は革新ジャーナリズムの流行語となった。党員の参加する多くの新聞雑誌・出版物からも、鋭い日共批判を発生させた。吉本隆明氏の次の言葉が実感を持って受けとめられた。
 「戦前派の指導する擬制前衛達が、十数万の労働者・学生・市民の眼の前で、遂に自ら闘い得ないこと、自ら闘いを方向づける能力の無いことを、完膚無きまでに明らかにした」(「擬制の終焉」60.9月)。

 60年安保闘争に関する党の指導性に対して疑問が呈されている資料がここにあるが、これが素直な受け取りようではないかと私は受けとめている。著者の藤原春雄氏は旧所感派系の元アカハタ編集局長を勤め、党の青年運動の指導にも携わってきた経歴の持ち主である。第8回党大会後間もなく離党している。

 「党は、安保闘争の中で、闘争に対する参加者の階層とそのイデオロギーの多様性を大きく統一して、新しい革新の方向を示すことが出来なかった。逆に、違った戦術、違った思想体系、世界観の持ち主であることによって、それに裏切り者、反革命のレッテルを貼ることで、ラジカルな青年学生を運動から全面的に排除する政策を採った。そのため、安保闘争以後の青年学生戦線は深刻な矛盾と対立を生んだ」(藤原春雄「現代の青年運動」新興出版社)。

 藤原氏の観点は、徳球−伊藤律系党中央の共産党なら、このように評価したであろうという見本を披瀝している。しかし、こういう声は掻き消され、宮顕系党中央の影響を受けた川上徹氏の次のような総括を聞かされることになる。

 「このように極『左』的妄動の中心になって、挑発的、分裂主義者としての役割をはたしたトロツキストとの闘いの経験は、それ以降の運動の高まりの中で絶えず発生してくる小ブルジョア急進主義的傾向との、あるいはそれを利用するトロツキストとの様々な策動に対する民主運動、学生運動の闘いにとって豊かな教訓の宝庫となった」(「学生運動」)。

 いろんな総括の仕方があるということだろうが、「道遠しの感がある」。


【島・氏の述懐】
 ブントの政治路線は、「革命的敗北主義」、「一点突破全面展開論」と云われる。これをまとめて「ブント主義」とも云う。但し、この玉砕主義は、後の全共闘運動時に「我々は、力及ばずして倒れることを辞さないが、闘わずして挫けることを拒否する」思想として復権することになる。

 島・氏は、第1次ブントの軌跡について、「戦後史の証言ブント」の中で次のように語っている。
 「確かに私たちは並外れたバイタリティーで既成左翼の批判に精を出し、神話をうち砕き、行動した。また、日本現代史の大衆的政治運動を伐り開く役割をも担った」。
 「あの体験は、それまでの私の素質、能力の限界を超え、政治的水準を突破した行動であった。そして僅かばかりであったかも知れぬが、世界の、時代の、社会の核心に肉薄したのだという自負は今も揺るがない」。
 「私はブントに集まった人々があの時のそれぞれの行動に悔いを残したということを現在に至るも余り聞かない。これは素晴らしいことではないだろうか。そして自分の意志を最大限出し合って行動したからこそ、社会・政治の核心を衝く運動となったのだ。その限りでブントは生命力を有し、この意味で一つの思想を遺したのかも知れぬ」。
 「安保闘争に於ける社共の日和見主義は、あれやこれやの戦略戦術上の次元のものではない。社会主義を掲げ、革命を叫んで大衆を扇動し続けてきたが、果たして一回でも本気に権力獲得を目指した闘いを指向したことがあるのか、権力を獲得し如何なる社会主義を日本において実現するのか、どんな新しい国家を創るのか一度でも真剣に考えたことがあるのか、という疑問である」。

 これより後は、「6期その1、 ブントの大混乱」に記す。



(私論.私見)