27章  【よど号赤軍派考概略】

 (最新見直し2008.9.12日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 連合赤軍問題、党派間ゲバルト問題の次として日本赤軍問題に言及しておかねばならない。ここでは、「よど号赤軍派」について概略考察する。詳論は「共産同赤軍派考」、「日本赤軍考」の「よど号赤軍派考」に記す。

 2008.9.12日 れんだいこ拝


【よど号ハイジャック事件】
 よど号赤軍派は正式な名称ではない。赤軍派のうち1970.3月の日航機「よど号」をハイジャックし北朝鮮へ渡ったグループ9名の総称である。よど号事件の概要は次の通り。

 1970(昭和45).3.31日、赤軍派9名による日航機よど号乗っ取り事件(ハイジャッ ク)が発生した。「フェニックス作戦」と名付けられたこの作戦は日本で初のハイジャック事件となった。犯人グループは出発時に次のように声明している。
 「われわれは明日、羽田を発(た)たんとしている。われわれは如何なる闘争の前にも、これほどまでに自信と勇気と確信が内から湧き上がってきた事を知らない。…最後に確認しよう。われわれは明日のジョーである」。

 ハイジャック犯は、当時の漫画「あしたのジョー」の主人公・矢吹丈になぞらえ、「燃え尽きるまで闘う」ことを誓っていたことになる。「あしたのジョー」は、高森朝雄(梶原一騎)原作、ちばてつや画による梶原作品の「巨人の星」と並ぶ梶原の傑作作品で、東京・浅草山谷のドヤ街に、ふらりと現われた矢吹丈(ジョー)と名乗る少年のボクシング活劇である。ジョーは、野菊島の東光特等少年院で終生のライバルとなる力石徹と宿命の出会いを経て本格的にボクシングの道へと足を踏み入れ、世界のボクサーとなる。カーロス・リベラ戦で燃え尽きたジョーはリングコーナーのイスに坐ったまま白い灰に成り終了した。ここまでのサクセスストーリーと目標に向けて生命燃焼する姿が当時の読者を熱狂させていた。ちなみにテレビアニメ版「あしたのジョー」第一話の放送は1970.4.1日で、まさに事件の直後から始まった。

 赤軍派のハイジャックは、同派の「国際根拠地-世界革命戦争論」に基くものであり、前段階蜂起路線の挫折を総括し、その教訓から提起した「労働者国家内部に武装根拠地を建設し、そこからの軍事的・政治的支援のもとに、内戦への参戦を世界革命戦争の水準に結合させる。さらに労働者国家そのものも、世界革命に向けた根拠地国家へと再編せねばならない」とする指針の実践であった。

 メンバーは、田宮高麿(27才.大阪市大)、小西隆祐(25才.東大)、田中義三(21才.明大)、安部公博(22才.関西大)、吉田金太郎(20才.元工員)、岡本武(21才.京大)、若林盛亮(23歳.同志社大)、赤木志郎(22才.大阪市大)、柴田勝弘(16才.神戸市立須磨高校生)の9名で、羽田発福岡行きの日航機よど号をハイジャックして北朝鮮行きを要求した。事件の好奇性からマスコミは大々的に報道し、多くの視聴者が釘付けになった。

 副操縦士だった江崎悌一氏の克明な記録によれば、午前7時35分頃、羽田発福岡行き日本航空ボーイング727「よど号」(よど号:乗員7名、乗客131名)が富士山上空で乗っ取られ、田宮ら9名の赤軍派に日本刀、ピストル、爆弾で脅され、北朝鮮の平壌行きを指令された。彼らの当初の行き先は中国かキューバであった。しかし、中国は受け入れが微妙、キューバまで行くには遠過ぎることを判断し、一番近い北朝鮮を指示した。

 この時丁度、その航空空域が米軍の管制下にあったことから、この事件はただちに米軍にキャッチされた。そのためこの事件は日米韓北朝鮮の4国がからむ厄介な国際問題になり、ハイジャック事件としては解決までの時間の世界最長記録を作ることになった。

 「4.よど号事件とその後」は次のように記している。
 「米軍は直ちに同機に搭乗していたアメリカ人乗客を調べた。すると、聖職者とコーラ関係者の2名のアメリカ人が搭乗していることが分かった。このうちの聖職者マクドナルド氏が、アメリカが北朝鮮に行かれると困るCIA?にからむ人物であったふしがある。そのことがよど号の問題解決を、事件の裏でさらに複雑かつ困難にしたと思われる。その内容は、よど号事件の際に日本航空の対策本部事務局長をつとめた島田滋敏氏の著書「『よど号』事件 三十年の真実」草思社に詳しい」。

 福岡空港で給油。この時、病人、女性、子供などの乗員23名が解放された。爆発させると脅された石田機長は離陸を決断し、6時間半後の午後2時前離陸。朝鮮半島の東の海上を北上し、朝鮮を南北に分断する休戦ラインに沿って西に転じ、板門店の北西部まできてピョンヤンに近づいた。そこで国籍不明の2機の戦闘機が現れ、よど号は空港に誘導された。機長、犯人ともに、最初はそこがピョンヤンの空港であると思ったようであるが、実は偽装された韓国のソウル郊外の金浦空港であった。「4.よど号事件とその後」には、福岡でアメリカ人をおろすことができなかったため、どうしてもよど号を韓国に着陸させて乗客を解放させる必要が出てきた。そのことがハイジャック事件の解決までの時間的最長記録を作る、厄介な国際問題に発展させた、とある。

 韓国側は、金浦空港で北朝鮮らしさを偽装していた。北朝鮮兵の服装とニセのプラカードを持った兵士がハイジャック機を歓迎するように迎えた。ところが準備時間が短かかったため準備が間に合わず、空港にはノースウエスト機が停まっていたし、ラジオにはジャズが流れ、空港の近くをアメリカ車が走っていた。赤軍派は、ノースウエスト機には気がつかなかったが、ラジオ放送やアメリカ車に気がついて偽装を見破った。

 日韓政府とハイジャック犯の駆け引きが続いた。韓国側はあくまでも強行突入に拘ったが、日本側の強い意向により、山村新治郎運輸政務次官が乗客の身代わりに乗り込むことにより「乗客解放と目的地着陸保証」で合意が取り付けられた。4.3日、乗客全員が開放された。4.3日午後6時4分、よど号はまだ日本と国交のない北朝鮮のピョンヤンに向って夕闇の中を、有視界飛行により正確な地図ももたずに飛び立った。事件発生から83時間後のことであった。よど号は北朝鮮に受け入れられ、午後7時20分、平壌の美林(ミリム)飛行場に到着した。


【事件余話】
 よど号赤軍派は、乗客を解放する際に「お別れパーティ」を設けた。歌をうたった乗客もいたそうである。また首謀者の田宮高麿は詩吟を披露したという。1970.6月号文藝春愁は、事件を特集してハイジャックに巻き込まれた乗客の声を拾っている。
 「犯人たちは、学生だけあって、どこかウブなところが残る顔立ちだった。その中で、田宮だけは暴力団に入っても立派にやっていけそうな、凶々しい目つき」。
 「"組長"田宮がマイクをとって演説した。『自分の指揮に従えぬもの、殺してくれというものは、殺しましょう。これはたんなるコトバではない』そういう田宮の声はこづらにくく落ち着いていた」。
 「田宮の統率力、判断力はかなり優秀だったと思った。いまは、あやまったトロツキストの道を進んでいるが、はじめから正しい民主革命路線の方向にのびていれば、いい革命家になれただろうに」。

 4.5日午前4時10分、日航機「よど」が平壌を発った、同9時10分羽田空港に到着した。事件発生から6日目、122時間ぶり、身代わり人質の山村運輸政務次官と乗員3人を乗せての帰還だった。山村次官は、帰国後ただちに羽田のホテルで記者会見し、いきさつを語った。それによると、北朝鮮側の取り調べは30分で終了した。不法入国者として重い処分を覚悟していたが、人道的な処置をしてもらい感謝しているとも述べた。

 機内では、学生は最初次官を縛り上げ、おまえ呼ばわりをしていたが、次第に態度は軟化、最後には「先生」と呼ぶようになったといっている。革命家にしては、なんだか甘い感じがする。北朝鮮側の取調べに対して学生たちはとうとうと革命理論を述べ立てたが、取調官に「もういい」と制止されたらしい。山村次官の印象では、北朝鮮と学生のあいだに関係はまったくないようであったと印象を語っている。

 一方「よど」の石田機長(47歳)もインタビュウに答えて、なぜ韓国・金浦空港に着陸したのかという謎を明らかにしている。つまり、管制塔が「こちら平壌」と誘導したので、てっきりそこが平壌だと思っていたと証言している。もっとも副機長の談話によれば、着陸後、アメリカの飛行機が見えたのですぐに平壌ではないことはわかったと云う。「犯人にははらわたが煮え繰り返る」とも語っている。

【よど号赤軍派のその後と思想改造】

 犯人学生9人は北朝鮮に身柄を拘束された。よど号赤軍派のその後は定かではない。当初は「我々は、国際根拠地論の路線に従って北朝鮮に行き、金日成をオルグする」との意気込みであった。亡命の意思は無く、北朝鮮で軍事訓練を受ける程度の考えであったが、オルグされたのは彼らであった。金日成の懐に飛び込んだ以上は、金体制の掌の上で踊るよりほかに途はなかった

 
伝わるところによると、ハイジャックして平壌の美林空港に到着したその日から、彼らは破格の待遇を受け、70年当時最も格式が高かった平壌ホテルで数週間過ごし、労働党の招待所に移った。その後高級アパートに住み、彼らの事務所のためにビルまで建ててもらう厚遇ぶりであった。経済が破綻し食糧難が進行する中でも生活は労働党幹部よりも恵まれ、ベンツに乗り、一般には口に入らないコメや肉があてがわれる日々を過ごしたと云う。

 以降連日、主体思想を徹底的に注入され
、北朝鮮労働党による思想改造を受ける身となった模様で、亡命当初の革命根拠地作りの意欲を褪せさせた観がある。グループは金日成に忠誠を誓う手紙を書き、朝鮮労働党に集団入党したいと申し出る」(「よど号グループの〝あしたのジョー〟は、どこで灰になってしまったのか」)。

 1972.5.6日、金日成はグループに初めて「接見」し、主体思想に基づく「日本革命をすべきだ」と「教示」(命令)した。

 1973.5.6日、金日成はグループに対して「5・6教示」といわれる「日本革命テーゼ(運動方針)」を示し、グループは「自主革命党」を結成することになった。この頃はちょうど金日成から金正日への権力委譲期に当たり、「代を継いで革命を完成する」というスローガンがしきりに連呼された時期であった。


 この頃の様子が継ぎ゜のように伝えられている。

 「日本人革命村での日課は早朝起きると、全員が居住アパートの前で体操とランニングを行い、それから女性は朝食作り、男性はアパートの掃除から始まり、朝食後に全員が集合して朝の会議を行う。金日成に忠誠を誓う「朝鮮労働党の十大原則」を、グループに合うようにした内容と言葉で「宣誓」と称してリーダーの田宮高麿が一つずつ読み上げると、その後について全員で唱和する。「朝鮮労働党の十大原則」とは「ひたすら首領のために生き、青春も生命も喜んで捧げること」であるとか、「金日成の教示(教え)は法として至上の命令として受け止め、どのような些細な理由も口実もなく実践し、これを守り抜かなければ死ぬ権利もない」というような内容であり、それを繰り返し繰り返し学習する。

 更に一日の組織の活動予定を確認して、金日成、金正日の著作の学習や活動のための実践的な準備などで午前中を過ごし、昼食は全員食堂で食べる。午後はまた理論学習やスポーツ、思想教育目的の芸術映画や金日成、金正日の現地指導映画の鑑賞など、夕食後も講演会、活動準備、学習課題に明け暮れる。その合間を縫って女性は掃除や洗濯などの家事をこなし、託児所から夜引き取る子供の世話も加わる。

 そんな生活の中で全員一緒に学習合宿や避暑に出かけたり、革命戦跡地や観光地を巡ったり、レクリエーションやお祝い事をしたりするうちに共同体的な仲間意識も芽生え始め、仲間としての絆も自然に強まっていった。金日成が村にやってくるときには、自分たちで作った詩や歌や絵画で金日成に対する忠誠の誓いを表現し、全員が一致して歌えるようになるまで練習に次ぐ練習を行ったりした」(「よど号グループの〝あしたのジョー〟は、どこで灰になってしまったのか」)。

【よど号赤軍派の結婚事情】

 1976年、岡本武が、高知県出身の福留貴美子と結婚。1977.5.4日、柴田泰弘が八尾恵と結婚(後に離婚)。同5.5日、田中義三が結婚。


【金日成指示による対外活動の開始、同志見込み者オルグ拉致】
 1977.5.14日朝、金日成の一行がやってきて、よど号赤軍派グループが田宮を先頭に本部と呼ばれていた平屋の建物に入り会談した。その後のグループ総会の際に、日本で金日成主義に基づく革命を行うためには革命党の創建が必要であり、金日成主義の影響を受けた戦力をつくっていくことが重要で、そのために政治運動を共に担う活動家を幅広く獲得することが当面の課題になる、という金日成の教示があったことが明かされる。

 「よど号」グループは一週、一カ月、半年、1年、3年、5年の単位で総括会議を行い、日々の任務や日常生活を点検し、自己批判と相互批判を行う。これを繰り返した。この頃、首都ピョンヤン郊外で学習や翻訳活動などをしていることが判明している。

 70年代後半以降、グループは田宮の口を通して海外での任務を与えられる。その際、グループの男性は全員国際指名手配されていたために海外での活動は偽造旅券を使わねばならなかったので、真正旅券を持っている妻たちが表に立って活動する役割を積極的に引き受け、日本の公権力の手が及ばないヨーロッパに照準を合わせる。オーストリア、フランス、スペイン、イタリア、ギリシャ、イギリス、ポルトガル、カナダ、メキシコなど各国にグループが派遣され、日本人を見つけだして接触し、北朝鮮行きをオルグした。

 1980年、田宮の妻、森順子ら「よど号の妻」がスペインなどヨーロッパ留学中の日本人学生石岡亨さん(当時22歳)と松木薫さん(当時26歳)を拉致したという報道が93-94年相次いだ。有本さんと石岡さんは、1985年、結婚したとされている。

 1981年、季刊機関紙「日本を考える」を1988年まで24号発行、日本国内に送り届けている。

 1983.7月、ピョンヤンで開かれた「世界ジャーナリスト会議」で、田宮高麿が講演している。

 同8月、リビアで開かれた「全アフリカ青年フェスティバル」に小西隆祐ら2名が参加し、大概活動を公然化している。


【よど号赤軍派の新たな胎動】

 1985年春、柴田泰弘が、最高幹部の田宮高麿から革命のために日本で人と金を集める命令を受けて極秘帰国。他人になりすまして潜伏活動する。

 1985.7月、中曽根首相宛てに帰国の意思を伝えている。同10月、藤波官房長官宛に帰国についての政府側の意向を打診する書簡を出している。その中で、次のように述べている。

 概要「私達は人を殺しも傷つけもしていません。借用した飛行機も即自返還されています。むしろ、青年の憂国の情を封鎖し、日本を対米従属と軍国化へ追いやったこれまでの日本政府こそ、その誤ちを国民の前に謝罪するのが道理というものではないでしょうか。無罪帰国受け入れを要求いたします」。

 その後も、北朝鮮を訪問した日本人団体代表との面談や、国内支援関係者への書簡などで「逮捕、投獄という事態を覚悟しても」帰国する意思の有ることを表明し続けている。憲法尊重の尊憲運動を展開するという新たな考え方を表明している。

 この事件は日本初のハイジャックであり、教訓として同年6月に航空機の強取等の処罰に関する法律(ハイジャック防止法)が制定された。ただし、憲法39条の遡及処罰禁止規定により、犯人グループが帰国した場合、この法律は適用されない。機体を財物とする強盗罪や、乗員乗客に対する略取・誘拐罪に問われる。なお、国外逃亡により刑事訴訟法第255条に該当する為、公訴時効は停止している。その後、犯人グループは合意による無罪帰国を求めているが、ハイジャックという犯罪行為を犯した犯人グループの無罪帰国を日本政府は認めていない。

 1985.9月、吉田金太郎が肝臓病の為逝去する(享年35歳)。10月、母親らが遺骨を受け取りに北朝鮮に赴いている。

 1988.5.6日、メンバー最年少のハイジャック当時17歳の高校生だった柴田勝弘が、密かに帰国して神戸市内に住んでいたことがわかり、逮捕された。34歳。その後の調べで、1985.4月、偽造旅券で帰国し、その後ボランティア活動や貿易の仕事などをしていた。1993.11月、懲役5年が確定。1994.7.21日、満期出所。その後は日本で在住している。


 1988.5月、ハイジャック当時16歳だった柴田と1987年に結婚していた八尾恵が密かに帰国して横須賀市内でスナックを経営してるいという密告があり、八尾(当時32歳)が住民票への登録が偽名だったという容疑で逮捕、略式起訴されるが証拠不十分のまま釈放となった。

 同7月中旬、訪朝した社会党国民運動局長らが田宮と会う。

 9月、リーダーの田宮が「わが思想の革命」(新泉社)を出版。概要「無罪、帰国を勝ち取るための闘争を展開する事、その為に日本人民との交流深め、日本人民に学びながら自らを鍛えていく事を今後の基本闘争課題とする」としている。ハイジャックの思想的背景から筆を起し、「世界同時革命論」などの赤軍派理論を自己批判し、チュチェ思想の助けをかりての何年にもわたる自己改造の過程を克明に記録している。

 同年、岡本武が死亡。テルアビブ空港乱射事件を起こした岡本公三は弟。岡本は、1980年代初頭にリーダーの田宮高麿と方針をめぐって対立していたとも伝えられている。岡本武夫妻は土砂崩れによって事故死したと発表されているが、未確認ながら、1980年代末に漁船を奪取して北朝鮮から脱出を図ったものの捉えられ、強制収容所に送られ収容所内で死亡したとの情報もある。なお日本の公安警察は岡本の死を確認していない為、現在でも岡本武は日本国警察の指名手配の対象者になっている。よど号メンバー柴田泰弘の妻だった八尾恵は著書で「私の知る限りでは、岡本さんと福留さんは、亡命後のよど号グループの主体思想に従う考え方に異を唱えたので矯正のため隔離され、そして、その果てに死が待っていた」と記述している。

 1990.8月、田宮が「社会主義国で社会主義を考える ピョンヤン1990」(「日本の自主と団結のために」の会)を出版する。

 1995.11.29日、田宮が、赤軍派議長だった塩見孝也を平壌駅に見送る。


【よど号赤軍派の最高指導者・田宮が急逝する】

 1995.11.30日、ピョンヤンで死去。当局は死因は心臓麻痺と発表している。高沢皓司をはじめ拉致事案を追っているジャーナリストの多くが田宮の不可解な死に不審を抱いている。妻の順子は北朝鮮による日本人拉致問題で欧州における日本人拉致事案に関与しているとして、警察庁により国際指名手配されている。 

 1996.1月、高沢皓司氏の著作「祖国と民族を語る―田宮高麿ロングインタビュー」(批評社)から出版される。

 1996年、追悼集「回想田宮高麿」が出版された。全3022ページ、定価3200の分厚い本は、前編、田宮高麿への追悼と賛辞で埋め尽くされている。寄稿してるのは赤軍派関係者などの運動の"同志"が主である。


【田中義三逮捕から裁判、逝去まで】

 1996.3.24日、田中義三が、カンボジアにおいて二人の北朝鮮大使館員とともに北朝鮮大使館の公用車に乗ってベトナムの陸路国境に向かうが、カンボジアの警官に停止命令を受ける。北朝鮮大使館員らは外交特権を振りかざし、検査を拒否。篭城の末に国境を突破を図るが、カンボジアの警官は射撃態勢を取って身柄を拘束する。移送されたタイにおいて、自ら田中義三であることを認めた。タイでは、タイのリゾート地パタヤで発見された大量の偽ドル札を偽造容疑で起訴された。この事件では無罪が確定したが、起訴された当時は北朝鮮による米ドルの偽札に関与していたとして注目された。送還直前のテレビ取材に対しては「服役後はもう一度大学で勉強しなおしたい」と話していた。

 2000.6月、田中義三が日本に引き渡される。よど号事件に絡んで国外移送目的略取罪など3つの罪で起訴される。2002.2月、東京地裁で懲役12年の判決を受ける。東京高裁も控訴を棄却。2003.6月、上告を取り下げ、懲役12年が確定する。熊本刑務所で服役していたが、2006.11.22日、肝臓癌のため大阪医療刑務所に移監、12月15日に刑の執行が停止。

 2007.1.1日、田中 義三(たなか よしみ)が死去。享年58歳。


 2002.3月、八尾が、東京地裁で開かれた赤木恵美子(赤木志郎の妻)の公判に検察側証人として出廷し、ハイジャック犯のリーダー田宮の指示で「1983年、ロンドンに留学中だった有本恵子さん(当時23)を騙して北朝鮮に連れ出した」と証言。


【よど号赤軍派と拉致事件】

 現在北朝鮮にいるのは小西隆裕、魚本公博、若林盛亮、赤木志郎の4名。多くのメンバーは日本人妻と結婚しているが、日本人妻の北朝鮮入国や結婚の経緯は必ずしも明らかでない。但しその1人である八尾恵(柴田泰弘の妻)は、自分を含めて日本人妻の多くは強制的に結婚させられたと主張している。

 メンバーやメンバーの日本人妻(黒田佐喜子(若林盛亮の妻)、森順子(田宮の妻)など)の中には、松木薫さん(当時26歳)、石岡亨さん(当時22歳)、有本恵子さん(当時23歳)等の日本人拉致事件への関与が噂されており新たな政治問題と化している。





(私論.私見)