第6章 | 戦後学生運動第5期その1(1958年)、ブント登場史概略 |
(最新見直し2008.8.11日)
これより前は、「4期その2、革共同登場史」に記す。
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、1958年の学生運動史を概略する。この時期、共産党内反宮顕派が、革共同にやや遅れてブントを結成し、革共同と競うかのごとく60年安保闘争へ向かって進撃を開始する。これを仮に「戦後学生運動第5期その1、ブント登場史概略」と命名する。詳論は「新左翼系=ブント・革共同系全学連の自律」に記し、ここではエポックな事件を採り上げ解析する。ブント史については別稿【第一次ブント運動考】に記す。 |
【「島−生田」ライン」への人材結集】 |
全学連指導部の主流は革共同に合流せず、共産党内反党中央派として自律形成し始めることになった。公然と党に反旗を翻しつつ独自の学生運動路線の模索へと突き進んでいくことになった時期であり、全学連運動のターニングポイントになる。これを指導したのが「島−生田」ラインであり、追ってブントを立ち上げる。日共のクビキから離れた全学連は急進主義運動に傾斜しつつ勇躍発展していく。 この頃、ブントを率いる島氏の回りに次第に人材が寄ってくることになった。香村正雄(東大経済卒、現公認会計士)、古賀康正(東大農卒、現農学者)、鈴木啓一(東大文卒、現森茂)、樺美智子(東大文、安保闘争で死亡)倉石庸、少し後から多田靖・常木守等が常駐化したようである。論客として、佐伯(東大卒、山口一理論文執筆他)、青木昌彦(東大卒、現経済学者、姫岡論文執筆)、片山○夫(早大卒、現会社役員)、生田、大瀬振、陶山健一が活躍した。これについては、「ブントに結集した俊英考」に記す。 |
【社学同の創設】 |
5.25日、全学連の推進体となっていた反戦学同が第4回全国大会を開催した。全学連大会に先立って開かれたこの大会で、反戦学同を発展的に解消し、組織の性格を従来の反戦平和を第一義的目標としたものから社会主義の実現をより意識的革命的に発展させるべきであるとの立場に改め、名称も日本社会主義学生同盟(社学同)と変え、た。これが社学同の第一回大会となった。 社学同は、「日本独占資本が復活強化した」との評価を前面に出し、アメリカ帝国主義への従属国家論を主張する宮顕派の党章草案と決定的に対立する現状分析論を獲得し、路線へと踏み出していくことになる。 |
【全学連第11回大会、先駆性理論を打ち出す】 | ||
5月、全学連第11回大会が開かれ、党中央に批判的な社学同派が、高野ら日共民青同派(早大・教育大・神戸大など)と乱闘を演じつつ圧倒した。この時期全学連主流派は、学生運動理論における「先駆性理論」を創造していた。全学連第11回大会は、「先駆性理論」を媒介させ「層としての学生運動論→労・学提携同盟軍規定論→先駆性理論、反帝闘争路線」に至る画期的方針を採択した。 「先駆性理論」とは、「学生が階級闘争の先陣となって労働者、農民、市民らに危機の警鐘を乱打し、闘争の方向を指示する」、 「学生運動が本質的に社会運動であり、政治闘争の任務を持つ」と規定し、国会デモその他の高度の闘争形態を模索しつつ、「労働運動の同盟軍」として労働者・農民・市民に対する「学生の先駆的役割」を強調すると云う学生運動理論であった。 ちなみに、革共同はこの「先駆性理論」とも違う「転換理論」に拠っていた。「転換理論」とは、概要「プロレタリアートと利害関係を同じくする学生の運動は、階級情勢の科学的分析のもとに、プロレタリアート同盟軍として階級闘争の方向に向かわざるを得ないことからして、学生は革命運動を通して自分自身を革命の主体に変革させていくことになる」というものであった。 どちらもよく似てはいるが、ブントはより感性的行動論的に、革共同はより思弁的組織論的に位置づけているという違いが認められる。こうした学生運動に対する位置づけは、追ってマルクーゼの「ステューデントパワー論」が打ち出されるに及び、その影響を受けて更に「学生こそ革命の主体」という考えにまで発展していくことになる。この背景にあった認識は前衛不在論であり、「前衛不在という悲劇的な事態の中で、学生運動に自己を仮託させねばならなかった日本の革命的左翼」(新左翼20年史)とある。 宮顕の指導する党中央は、「先駆性理論」に対して次のように罵倒している。
これに対し、全学連指導部は次のように自讃している。
これについて、筆者はかく思う。どちらの謂いが正論か、筆者には自明である。それにしても、宮顕的批判は、何とも冷酷無残な説教ではなかろうか。日共史の数ある指導者の中で、このような変調指導した者は、宮顕以前には居ないのではなかろうか。些細な事かもしれないが、筆者にはこう云うことが気に掛かる。 |
【「6.1日共本部占拠事件」】 | |
全学連第11回大会の成り行きを憂慮し事態を重視した党中央は締めつけに乗り出し、全学連大会終了の翌日の6.1日、同大会に出席した学生党員代議員約130名を代々木の党本部に集め「全学連大会代議員グループ会議」を開いた。ここで稀代の事件が起こっている。 会議は冒頭から議長の選出を巡って大混乱となり、全学連主流派と党中央の間に殴り合いが発生した。遂に党の学生対策部員であった津島薫大衆運動部員を吊し上げ、暴行を加える等暴力沙汰を起こした上、鈴木市蔵大衆運動部長の閉会宣言にもかかわらず、学生党員が議長となって紺野与次郎常任幹部会員らの退場を阻みながら議事を進め、次のような決議を採択した。
これを「全学連代々木事件」叉は「6.1日共本部占拠事件」と云う。この事件は、全学連指導部の公然たる党に対する反乱となった。そればかりか、全学連によって「党中央委員全員罷免」なる珍妙な決議が歴史に刻印されたことになる。この瞬間より党は全学連に対するヘゲモニーを失った。 |
【日共の学生党員処分】 |
宮顕は、ここに至って最終的に学生の説得をあきらめ、学生党員処分に乗り出していくことになった。「世界の共産党の歴史にない党規破壊の行為であり、彼らは中委の権威を傷つける『反党反革命分子』である」とみなし、それら学生党員の責任を追及し、同年7月、「反党的挑発、規律違反」として規約に基づき香山健一全学連委員長、中執委星宮、森田実らを党規約違反として3名を除名。土屋源太郎ら13名を党員権制限の厳格処分に附した。年末までに72名が処分された。紺野もその責任を問われて、常任幹部会員を解かれた。ちなみに紺野は徳球系の残存幹部であったことが注目される。日共は、党内反対派の制圧の手段としてこれを徹底的に利用していくことになった。 |
【島、生田らが「全学連党」の結成を公然化させる】 |
7月、日本共産党第7回党大会が開かれ、島、生田らは「全学連党」代議員として参加した。しかし、10日間もの間旅館に缶詰で外部と一切遮断されると云う、家父長的と云われる徳球時代にはあり得なかったやり方と、次から次へと宮顕方針が決議されていく大会運営を見て、日共との決別を深く決意するところとなった。 8.1日、党大会終了の翌々日のこの日、島は全学連中執、都学連書記局、社学同、東大細胞党員の主要メンバーを集め、大会の顛末を報告すると共に、新しい組織を目指して全国フラクションを結成していくことを提案した。 |
【革共同第一次分裂】 |
この流れに並行して7月頃、革共同内で黒寛派対太田龍派が対立し内部分裂を起こしている。これを「革共同第一次分裂」と云う。詳論は「「戦後学生運動史第4期その2、トロツキズム運動の誕生過程、分裂過程考」」に記す。 これにより太田派が革共同から分離し、関東トロツキスト連盟を結成することとなる。太田は、トロツキーを絶対化し、トロツキズムを純化させる方向で価値判断の基準にする「純粋なトロツキスト」(いわゆる「純トロ」)の立場を主張し、黒寛は「トロツキズムを批判的に摂取していくべき」との立場を見せており、そうした理論の食い違い、第四インターの評価をめぐる対立、大衆運動における基盤の有無とかをめぐっての争いが原因とされている。 太田派はその後、純正トロツキズムの方針に従い日本社会党への「加入戦術」を採りつつ、学生運動民主化協議会(「学民協」)を作り、当時の学生運動の中では右寄りな路線をとっていくことになった。太田氏はその後トロツキズムと決別しアイヌ解放運動に身を投じ、更にその後「国際金融資本を後ろ盾とするフリーメーソン等々の国際的陰謀組織」の考究に向かい、2008年現在もネオ・シオニズム研究の第一人者となって警鐘乱打し続けている。「太田龍の時事寸評」で健筆を奮っていることでも知られている。 |
【全学連第12回臨時大会で日共と最終的に決別】 |
9.4−5日、全学連第12回臨時大会を開いた。反代々木系を明確にさせた全学連執行部(全学連主流派)は、「学生を労働者の同盟軍とする階級闘争の見地に立つ学生運動」への左展開を宣言した。「日本独占資本との対決」を明確に宣言し日共式綱領路線との訣別を理論的にも鮮明にした。 ここに日本共産党は、1948年の全学連結成以来10年にわたって維持してきた全学連運動に対する指導権を失うこととなった。この後、全学連主流派に結集する学生党員はフラクションを結集し、機関紙「プロレタリヤ通信」を発刊して全国的組織化を進めていくことになった。全学連主流派のこの動きは、星宮をキャップとする革共同フラクションの動きと丁々発止で競り合いながら進行していた。 |
【全学連の勤評闘、警職法闘争】 | |
この間全学連は、8.16日、和歌山で勤務評定阻止全国大会の盛り揚げに取り組んだことをはじめ9月頃「勤評闘争」に取り組んでいる。9.15日、勤評粉砕第一波全国総決起集会。東京で、約4千名が文部省包囲デモ。 10−11月には警職法改正法案が突如国会に提出されてきたことを受けて、全学連は、社会党、総評など65団体による「警職法改悪反対国民会議」に加盟し、共同戦線化させた。 10.28日、「警職法阻止全国学生総決起集会」に取り組み、労・学4万5000名が四谷外堀公園に結集しデモ。11.5日、警職法阻止全国ゼネストに発展し、全学連4千名が国会前に座り込んだ。1万余の学生と労働者が国会を包囲した。驚くほどの速度で盛り上がった大衆運動によって、1ヶ月後に法案採決強行を断念させた。警職法阻止闘争は国会前座り込みを創出し、この時の経験が以降「国会へ国会へ」と向かわせる闘争の流れをつくった点で大きな意味を持つことになった。 日共の全学連批判は強まり、全学連指導部を「跳ね上がりのトロツキスト」と罵倒していくことになった。この当時の文書だと思われるが、(恐らく宮顕の)「跳ね上がり」者に対する次のような発言が残されている。
これについて、筆者はかく思う。この言辞は典型的な云い得云い勝ちなものでしかなかろう。なぜなら、「自分の好みで、いい気になって党活動をする」のは自然であり、誰しも「自分の好み」から逃れることができないのに、これを批判するとしたら神ならではの御技しかなかろう。にも拘らず、おのれ一人は「自分の好み」から逃れているように云い為す者こそ臭いと云うべきではなかろうか。それと、「善意な大衆」とは何なんだ。嫌らしいエリート臭、真底での大衆蔑視が鼻持ちならない。 更に云えば、2008年現在、この頃に比べて政治反動が大きく進んでいるが、これに対する政治的取り組みが全く為されていない、社共の万年野党的立場からのアリバイ的口先批判のみが空気抜きのように告げられ事足りている。これを思えば、当時の全学連運動の確かさと能力が評価されて然るべきであろう。 |
【ブント結成】 | ||
12.10日、除名組活動家にして全学連主流派の全国のフラク・メンバー約45名が中心になって、六全協以降続けてきた党内の闘いに終止符を打ち、新しい革命前衛党として「日本共産主義者同盟(共産同またはブントとも云う)」を結成した。ちなみに、ブント(BUNT)とはドイツ語で同盟の意味であり、党=パルタイに対する反語としての気持ちが込められていた。 ブントは次のように宣言し、新左翼党派結成を目指すことになった。
ブントの学生組織として「社会主義学生同盟(社学同)」の結成も確認された。古賀(東大卒)と小泉(早大)の議長の下で議事が進行していき、島がブント書記長に選ばれ、書記局員には、島、森田、古賀、片山、青木の5名が選出された。島は、学連指導部から退きブントの組織創成に専念することになり、学生党員たちに日共を離党してブントへ結集していくよう強く促していくことになった。当時のこのメンバーには、今も中核派指導部にいる北小路敏、清水丈夫らがいることが注目される。北海道からも灰谷、唐牛ら5名が参加している。 ちなみに、「共産同(ブント)」と名乗ったことについて、島氏は後年次のように述べている。
これについて、筆者はかく思う。このブントの党史を巨視的に見れば、戦後の党運動における徳球系と宮顕系その他との抗争にとことん巻き込まれた結果の反省から、党からの自立的な新左翼運動を担おうとした気概から生まれた経緯を持つように思われる。理論的には、国際共産主義運動のスターリン的歪曲から自立させ、驚くべき事に自ら達が新国際共産主義運動の正統の流れを立て直そうと意気込みつつ悪戦苦闘して行った流れが見えてくる。然しながら、宮顕を「左派運動撲滅請負闖入者」と見なす視点はない。 もとへ。ここに、先行した「純」トロツキスト系革共同と並んで、「準」トロツキスト系ブントという反代々木系左翼の二大潮流が揃い踏みすることになった。この流れが後に新左翼又は極左叉は過激派と云われることになる源流である。この両「純」・「準」トロツキスト系は、反日共系左翼を標榜することでは共通していたが、それだけに反日共系の本家本流をめぐって激しい主導権争いしていくことになった。 日共の公式的見解からすれば、このブント系もトロツキストであり、あたかも党とは何らの関係も無いかのように十派一からげに評しているが、それは宮顕流の御都合主義的な歪曲であり、史実は違って上述の通りであるということが知られねばならない。私には、宮顕の反動的な党運営が絡んで、党内急進派がブント系として止むに止まれず巣立ちしていった面もあったと見る。 |
【全学連が第13回臨時大会で革共同が三役独占】 |
12.13−15日、全学連第13回臨時大会が開かれた。人事が最後まで難航したが、塩川委員長、土屋書記長、清水書記次長、青木情宣部長となった。革共同系とブント系が指導部を争った結果、革共同系が中枢(委員長、副委員長、書記長の三役)を押さえ、革共同の指導権が確立された大会となった。つまり、革共同の全学連への影響力が強まり、この時点で指導部を掌握するまでに至ったことになる。 その為、全学連指導部の内部でブントと革共同の対立という新たな派閥抗争が発生することとなった。その後も革共同系とブント系は運動論や革命路線論をめぐっての対立を発生させ、指導権を争っていくことになる。が、その後の史実から見て、多くの学生はブントを支持し流れていったようである。 「ブント−社学同」の思想の背景にあったものは、日共の革命的資質に対する疑惑であり、これに代わる「労働者階級の新しい真の前衛組織」の創出であった。この観点から、日共理論に対して悉くアンチテーゼを創出していくことになった。次のような特徴が認められる。 1・学生運動を労働運動の先駆的同盟軍として位置づけたこと。2・日共の「民族解放民主革命の理論」(アメリカ帝国主義からの日本民族の解放をしてから社会主義革命という二段階革命論)に基づく民主主義革命路線に対して、明確に「社会主義革命路線」を掲げていたこと。日共の平和共存的一国社会主義に対し世界永続革命、議会主義に対しプロレタリア独裁、平和革命に対し暴力革命、スターリン主義に対しレーニン主義の復権と云う風に対比させていた。3・代々木官僚に反旗を翻しただけでなく、本家のソ連・中国共産党をスターリン主義と断罪したこと等々が挙げられる。こうして、日共に代わる真の革命党派として打ち出し、「全世界を獲得せよ」と宣言した。 なお、この時の議案は、安保闘争を革共同式に「安保改定=日本帝国主義の地位の確立→海外市場への割り込み、激化→必然的に国内の合理化の進行」という把握による「反合理化=反安保」と位置づけていた。しかし、こうした革共同理論に基づく「反合理化闘争的安保闘争論」は、この当時の急進主義的学生活動家の気分にフィットせず、むしろ、安保そのもので闘おうとするブントの主張の方に共感が生まれ受け入れられていくことになった。ブントは、革共同的安保の捉え方を「経済主義」、「反合理化闘争への一面化」とみなし、「安保粉砕、日本帝国主義打倒」を正面からの政治闘争として位置づけていくことを主張し対立するようになった。 |
【日共のブント粉砕声明】 |
12.25日、日共は幹部会を開催し、幹部会声明で「学生運動内に巣くう極左日和見主義反党分派を粉砕せよ」と、全学連指導部の極左主義とトロキツズムの打倒を公言し、「島他7名の除名について」と合わせてブント結成後旬日も経たないうちの12.25.27日付け「アカハタ」紙上の一面トップ全段抜きで幹部会声明を掲載した。 |
(私論.私見)