2章 戦後学生運動2期(1950年)、「50年分裂」期の学生運動概略

 (最新見直し2008.9.10日)

 これより前は、「1期、全学連結成とその発展」に記す。

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、1950年から1953年までの学生運動史論を概略する。これを仮に「戦後学生運動 2期、「50年分裂」期の学生運動概略」と命名する。詳論は「『50年分裂』による(日共単一系)全学連分裂期の学生運動」に記し、ここではエポックな事件を採り上げ解析する。


1950(昭和25)年

【党の「50年分裂」】
 1949年時点で日本に於ける戦後革命は流産した。それを見計らうかのように1950年の年頭、「スターリン論評」がお見舞いされた。この論評は、野坂式平和革命路線を手厳しく指弾していた。これを期に党内は大混乱し、野坂を抱え込む形での延命を図る徳球−伊藤律系党中央を支持する所感派と反党中央を旗幟鮮明にした国際派に分裂する。これを「50年分裂」と云う。

 補足しておけば、宮顕は1966年に中共との対立を契機に自主独立路線を言い始めるが、この時の宮顕は概要「ソ同盟は我々の最良の教師であり、我々は教えを受けなくてはならぬ。ソ同盟は頭脳であり司令塔である」とする立場から、概要「我々は、これまで直接、国際的な指導を受けたことはない。自主独立の立場でやってきた。日本としては、日本の事情がある。今のコミンフォルムは、ユーゴ非難しかやっておらん。そんなものの云うことを、まともに聞けるか!。我々は赤旗に、コミンフォルム論文の攻撃を掲載し、堂々と渡り合うべきだ」とする徳球の自主独立路線を批判していたことを踏まえねばならない。

【全学連中央の宮顕派、反党中央化】
 この「50年分裂」時、結成以来、全学連を指導していた武井系主流派は当然の如く宮顕派に与した。

 これについて、筆者はかく思う。武井系主流派が宮顕派に与したのは、宮顕をして「戦前来不屈の唯一無二の非転向指導者」として聖像視し、帰依していたことによるものと思われる。現在、宮顕論については、1990年代頃より宮地健一氏が自身の査問体験を掘り下げ、「共産党問題、社会主義問題を考える」(http://www2s.biglobe.ne.jp/~mike/kenichi.htm)で一連の検証をしている。これに続き、2000年頃よりれんだいこも精力的研究に着手し、「宮顕論」で検証している。

 これらの研究によれば、宮顕の正体は怪しく、「戦前来不屈の唯一非転向指導者」などとは噴飯ものの逆評価でしかない。しかし、この事実が明らかになるのは1970年代に於ける諸資料の漏洩を通じててあり、この時点では致し方なかった面もあるので、武井系の責任を追及するには及ばぬ。この時点では、そういう宮顕のイカガワシサが判明せず、逆に聖像視されていたという、いわゆる時代の壁があったということである。 

 問題は、こうした検証が為されているにも拘らずその成果を議論せず、相変わらずの「宮顕を英明な指導者として讃美する」傾向があることである。こうなると、よほど頑迷な迷信に取り付かれていることになろう。科学的社会主義者を自称するものがこれだからして、「科学的社会主義」なるものがいかに杜撰な得手勝手な云い得云い勝ちなものであるかが分かろう。

 筆者が、マルクス主義系の理論を渉猟して、その難解さに辟易する事がある。現在では、その難解さがマルクス主義そのものの難解さではなく、論者評者が己の没知性を隠す為に煙幕的に難解にしているに過ぎないと確信している。なぜなら、れんだいこが述べるような宮顕論に至らず、相も変わらず「戦前来不屈の唯一非転向指導者」視したままの不見識に耽っているからである。そういう凡庸な手合いが、いくら難しく理論をこねてもたかが知れていると云わざるを得まい。

【徳球執行部が宮顕を九州へ左遷する】

 1.26日、党中央批判者グループの頭目であった統制委員会議長兼政治局員宮本顕治を九州地方党組織(福岡)に左遷した。宮顕グループの反対にも関わらず政治局の多数決採択により「九州地方議長としての長期派遣」を決定した。この時点では執行部の徳球グループの方が優勢であったと云うことになる。

 徳球.伊藤律らは、宮顕を九州へ飛ばした上でなおかつ宮顕の関与しない党機関を九州につくった。つまり、地方党機関としての九州には宮顕の関与する正式な党機関外に徳球派ルートがつくられたということになる。これは機関運営上問題となるが、後述するように徳球が宮顕のスパイ性を疑っており、時局柄止むを得ず取った変則であった。


【全学連中央、東大、早大細胞が意見書を党中央に提出】
 1950.3月、宮顕に操られた全学連中央グループは、長文の意見書を党中央に提出し、徳球系執行部のこれまでの学生運動に対する指導の誤りを痛撃した。東大や早大の学生細胞からも相次いで意見書が本部に提出され、党批判を強めていった。この系流が1951.11月、反戦学生同盟(反戦学同)を結成することになる。

 この時の武井委員長の意見書に「層としての学生運動論」理論が展開されている。それまでの党の指導理論は、「学生は階級的浮動分子であり、プロレタリアに指導されてはじめて階級闘争に寄与するものに過ぎない」というのが公式見解であった。武井委員長は、意見書の中で、「学生は層として労働者階級の同盟軍となって闘う部隊である」と規定し、学生運動を「層」としてみなすことにより社会的影響力を持つ独自の一勢力として認識するよう主張していた。その後の全学連運動は、この「層としての学生運動論」を継承していくことで左派運動のヘラルド的地位を獲得していく事になる。武井委員長の理論的功績であったと評価されている。

【全学連の反イールズ闘争】
 1950.5.2日、全学連は、反イールズ闘争に立ち上がった。CIE教育顧問のイールズは、各地でアメリカン民主主義を賞賛しつつ共産主義教授の追放を説いて回っていた。5.2日、東北大で、イールズの講演を学生約千名が公開を要求して中止させ、学生大会にきりかえた。東北大学は彼の28回目の講演であったが、ここで初めて激しい攻撃を受ける事になった。この経過は、全学連中央に「『イ』ゲキタイ。ハンテイバンザイ」と電信された。5.16日、北大でもイールズ講演会を中止させ、イールズ講演会を葬った。

【マッカーサーが共産党中央委員24名全員の公職追放を指令】
 6.6日、マッカーサーは吉田首相に書簡を送り、日共党中央委員24名全員の公職追放を指令した。吉田内閣はこの書簡を受け、同日の閣議で即日追放を通達した。これを予見していた党中央所感派幹部は国際派の宮顕・志賀らを切り捨てたまま地下に潜行した。翌6.7日、名代として椎野悦郎を議長とする「臨時中央指導部」が設置された。

【全学連は党中央派と反主流各派に分裂する】
 全学連もこの煽りを受け、党中央派と反主流各派に分裂する。ちなみに、当時の派閥は次の通りである。党中央派は、徳球ー伊藤律派、野坂派、志田派。反主流派は、宮顕派、志賀派、国際共産主義者団、神山派、春日庄派。その他中西派、福本派。

 全学連武井執行部派は宮顕派と一蓮托生し続けていくことになる。東大細胞が宮顕系により掌握されたのに比して、当時の早大細胞は、こまかく数えると20以上の分派が生まれ四分五裂していた。1.国際共産主義者団=志賀義雄、野田弥三郎(哲学者)、2.神山派、3.再建細胞派(党中央所感派)、4.統一委員会派(宮本、袴田、蔵原、春日庄らの国際派)等々に分岐していた。

 大金久展氏の「神山分派顛末記」は次のように述べている。

 概要「50年分裂当時、早大細胞は基本的には主流派と国際派の二つに分かれた。国際派は様々に分岐しており東大のように宮顕派一色ではなかった。国際主義者団、相対的に独自の立場をとった神山グループ、およびその他多様なグループが存在したことは、東大をはじめ他大学にはみられない大きな特色であったろう。早稲田とは伝統的にそういう大学であった」。

【全学連のレッドパージ反対闘争】
 1950.8.30日、全学連は緊急中央執行委員会を開いて「レッドパージ反対闘争」を決議し、各大学自治会に指示を発した。同10.5日、東京大学構内で全都のレッドパージ粉砕総決起大会を開いた。都学連11大学2千名が参加。これが契機となり全国の大学に闘争が波及した。 

【朝鮮動乱勃発】
 6.24日、朝鮮動乱勃発。当時どちらが先に仕掛けたかという点で「謎」とされた。双方が相手を侵略者と呼んで一歩も譲らなかったからである。今日では北朝鮮側の方から仕掛けたということが判明している。

 「朝鮮人民は李承晩一味に反対するこの戦争で、朝鮮民主主義人民共和国とその憲法を守り抜き、南半部にたてられた売国的かいらい政権を一掃して、わが祖国の南半部に真の利人民政権である人民委員会を復活し、朝鮮民主主義人民共和国の旗のもとに祖国統一の偉業を完成しなければなりません」と、南半部全面開放を目指す戦争に、全人民が総決起するよう呼びかけ、北朝鮮軍の南下が始まりこうして全面的な内戦が始まった。

 北朝鮮軍は戦車と重砲を持つ人民軍部隊により韓国軍を打ち破り、たちまち38度線を突破しソウルを火の海にした。北朝鮮軍の奇襲は成功し、7.8日、北朝鮮軍が「怒涛のごとく南下」し、一挙に南朝鮮側を追いつめた。アメリカ軍は釜山周辺に追い詰められた。

【総評結成】

 7.11日、労働組合内の民同派が中心になって、産別会議に対抗する日本労働組合総評議会(総評)が結成された。総評の結成は、戦後労働運動の主流を形成した産別指導との訣別を意味していた。社会党とともに「朝鮮問題不介入」の方針をとった。


【全学連中執が「レッドパージ反対闘争」を指令】
 8.30日、全学連は、緊急中央執行委員会を開いて「レッドパージ反対闘争」を決議、各大学自治会に指示を発した。9.1日、全学連.中執は、レッドパージ粉砕を声明、「レッド.パージ阻止の為、夏休み中の学生は急遽学校へ戻れ」の檄を出した。こうしてレッド・パージ反対闘争が開始された。9〜10月にかけて各地でレッドパージ粉砕闘争と結合させて試験ボイコット闘争を展開した。

【「第1次早大事件」発生】
 10.17日、この時早大で、第1次早大事件といわれる闘争が取り組まれ、全学連はゼネストを決行せよ指令を出し、全学連の呼びかけで早大構内で全都集会が開かれる。大学当局と警察は学生の「平和と大学擁護大会」を弾圧し、学生143名が逮捕された。10.17闘争は大会戦術の手違いと、予想以上に凶暴化した警察の手によって、かってない官権との大衝突事件となった。

 この時の、全学連中執の指導が疑惑されることになり、次のように証言されている。これが1952.2.14日の国際派東大細胞内査問・リンチ事件の遠因となる。
 「夜おそく早大に駆けつけた私は、腰紐で文字通り数珠つなぎにされた同志たちを見て容易ならざる状態であることを知った。木村とともにこの日の無理な〃突撃〃を命じた戸塚の指導が後の査問の理由のひとつとなる」。

 これより後は、「2期の2、 」に記す。



(私論.私見)