第12章 戦後学生運動6期その4(1964年)、民青系全学連の誕生

 (最新見直し2008.9.11日)

 これより前は、「6期その3、全学連の三方向分裂固定化」に記す。

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、1964年の学生運動史を概括する。これを仮に「戦後学生運動6期その4、民青系全学連の誕生概略」と命名する。詳論は「新三派連合結成、民青系全学連の誕生」に記し、ここではエポックな事件を採り上げ解析する。    

 1964年になってマル学同全学連に代わる全学連の創出が動きになってきた。民青同が苦節を経て成功する。これを見て、新三派連合も自前の全学連に向かい始める。


【東京社学同、マル戦派とML派に分裂】
 2.12日、東京社学同が、一〇・三一東大教養ストをめぐり分裂。「岩田世界資本主義論」を掲げた岩田弘をイデオローグとするマルクス主義戦線派(マル線派)とマルクス・レーニン主義派(ML派)、独立派、関西派に分裂する。

【「新三派(社学同、社青同、中核派)連合」結成】

 3.25日、社学同、社青同、中核派が、明大和泉で全国学生自治会代表者会議を開催し、新三派連合が確立された。52大学、350名参加。全学連再建問題を討議、韓国学生の日韓会談反対闘争支持アピールを採択。


【日共が4.17ゼネスト中止策動】
 4.17日、「4.17ゼネスト」を廻って、日共が犯罪的立ち廻りをしている。これを確認しておく。

 この時、総評・公労協は前年来からの長期的な計画と準備の下に大幅賃上げ要求を掲げ、「4.17日全国半日ゼネスト」を計画していた。その規模と影響力から見て47年の「2.1ゼネスト」に匹敵叉はこれを上回る戦後空前のストとなる筈であった。4.2日、総評は、太田薫議長.岩井章事務局長の布陣の下で決起大会的な意味を持つ第25回臨時大会を開き、最大のヤマ場を目前にして闘争態勢を堅め直した。「太田ラッパ」が鳴響いた。

 この息詰まるせっぱ詰まった状況の中、日共は突如4.9日付アカハタ(「4.8声明」)で、責任主体を記さない単に「日本共産党」名義のままの幹部会でも中央委員会名でもない声明文「全民主勢力と団結し、挑発を排して、頑強に、ねばり強く戦い抜こう−春闘を闘う全労働者に訴える」という論文を掲載し、「4.17ゼネスト」に対する警戒を指示した。声明文は、春闘を支持すると云いつつ、「4.17半日ストの方針には『深い憂慮をしないわけにはゆきません』」、「総決起は危険でありその方針を再検討せよ」と提議していた。 

 この声明は、ゼネストに向けて態勢の準備と確立に余念がなかった多くの組合幹部、活動家を憤激させた。総評事務局長・岩井は直ちに談話を発表し、「統一闘争の態勢を分裂させる者であり、階級政党として根本的に誤った態度である」と非難した。社会党の河上委員長は、「4.17ストを断固支持する」とし、日共の態度を「労働者の気持ちを無視したやり方」と非難した。

 にもかかわらず、日共は次々と同様指示を飛ばし続け、次第にスト反対を打ち出していった。労働戦線は大いに混乱し、4.17ストは挫折させられることとなった。公労協を始めとする総評は、日共に対し「組合破壊分子」、「スト破り」という一斉攻撃を浴びせることになった。これについては詳論は「4.17スト問題について」に記す。

【日韓会談粉砕・改憲阻止闘争】
 6.19日、三派連合と構政派が、日比谷野音で「日韓会談粉砕・改憲阻止全国統一行動、全都学生総決起集会」を開催し、2千5百名結集、デモで4名逮捕される。全関西学生総決起大会が円山公園で開催され5千名参加、デモで15名逮捕される。その他九州学連〔福岡〕等全国各地で集会・デモとなった。

【「早大構内ゲバルト7.2事件」】
 7.2日、翌日に予定された憲法調査会の答申に対する反対デモの計画を練るため早大構内に集まっていた革マル派約80名に対して、中核派、社学同、社青同、構改派(フロント)各派の連合勢力約100名が、ヘルメットに身を固め、棍棒と石をもって夜襲の殴りこみをかけ3時間の激闘が展開された。これを「7.2事件」という。

 早稲田大学一文学部の自治会権力をめぐる争いが原因となっていた。奥浩平氏の「青春の墓標」で次のように明らかにされている。
 概要「これまで日本の戦闘的学生運動にしるした早大一文の意味は計り知れないほど大きかった。安保闘争をはじめ大管法闘争においても早大一文は一千単位の動員を勝ち取ってきた。だがY派(革マル派のこと)が自治会執行部を占拠するや、一文は一挙に凋落して今日の姿になった。クラス討論は行われず、他党派の看板はブチ壊され、ビラ入れは暴力的に妨害された」。

 この状況の中で自治会自治委員選挙が行われ、「フロント(構造改革派)の諸君が、一文の学生委員を圧倒的に固めた」。フロント40〜50名、M戦(社学同)15名、Y派(革マル派)15〜25名という内訳となった。形成不利と見た革マル派は、委員総会を「正当な委員だけで開かねばならない」という口実で自派だけで開いて切り抜けようとしていた。フロントは各派に支援を要請し、中核派その他がこの要請に応じ、一文自治会再建目指してオルグ団を派遣した。しかし、革マル派はこれら活動家に対する公然テロを開始した。7.2日夜、中核派、社学同、社青同、構改派(フロント)各派の連合勢力が「徹底的自己批判を迫る」ことを決意し乗り込んだ、という経過であった。

【トンキン湾事件】

 8.2、4日、トンキン湾事件勃発。北ベトナムの魚雷艇3隻が、米国海軍駆逐艦マドックスが北ベトナム領海を侵犯したとして攻撃したと発表された(1971.6月、8.4日の北ベトナムの再攻撃はでっち上げとの米国防総省の秘密文書が暴露された)。8.5日、米国海軍機が報復として北ベトナムの魚雷艇基地を爆撃。8.7日、アメリカの上下両院が、「東南アジア於ける行動に関する議会決議」(「トンキン湾決議」)を採択し、ジョンソン大統領に戦争権限を与えた。 


【新三派連合結成】

 9.7−8日、これまでの過程で、あくまでも全学連の全的統一を目指した構造改革派が抜け落ち、中核派、独立ブント、社青同が新三派連合を結成した。こうして、学生運動内部にはマル学同、民青同、新三派連合系という三大潮流が生まれ、その他に構造改革派系、「日本の声−民学同」派系、革共同関西派系等々という様々な支流が立ち現れることになった。


【独立ブントの分裂】

 新三派連合結成後まもなく独立ブントの内部対立が生じた。ブントは、「岩田世界資本主義論」を掲げた岩田弘をイデオローグとしていたが、平民学連に対抗するためにも、従来の政治闘争主義に対する自己批判が必要とする少数派(マ ルクス主義戦線派=マル戦派.独立社学同)と、この観点に反発する多数派(マルクス・レーニン主義は=ML派)とに分裂した。ブントはマル戦派、ML派、独立派、関西派に分裂し勢力を急速に衰えさせていった。


【東京オリンピック】

 10.10日、アジア初となる第18回オリンピック東京大会が開催した。参加94か国、参加選手5541名であった。開会式のテレビ視聴率は85%にのぼった。オリンピックで、日本は堂々とした戦後復興ぶりを世界に示した。日本は16個の金メダルを獲得した。この年の日本の実質経済成長率は12.5%で、戦後日本の復興を象徴する国家的イベントとなった。


【平民学連が全学連再建決議】
 10.17−18日、平民学連が全自代開催。正式参加自治会150、オブザーバー自治会35の代表、その他個人オブザーバー35名が参加した。全学連再建のための基準提案が決議された。1、過去のいきさつに関わらず、2、無条件で、3、全ての学生自治会が参加でき、4、全学連規約に従って、再建大会を開催しよう。提案は、賛成128、反対14、保留4で可決された。

 この時の反対派の様子が明らかにされていないが、構造改革派とこの頃誕生していた志賀グループの「日本の声−民学同」派の影響下の学生グループであったようである。彼らは、民青同系全学連を新たに創る方向に向かうのではなく、諸潮流との統一を主張し、急進主義派を含めた統一を模索するべきであり、その根回しのないままの全学連再建は時期尚早であるという全学連再建時期尚早論を主張したようである。川上徹著「学生運動」では、「それは惨めな失敗に終わった」とある。

【新三派連合による全学連再建運動の混迷】
 10.19日、平民学連の呼びかけが出され、学生の中でそれが討論されてくるに及んでこの日、新三派連合も革マル派も構造改革派も含めて連合して、「原潜阻止全国学生連絡会議」を結成した。この流れで全学連再建が議題に取り上げられたが、革マル派が拒否し、新三派は即時全学連再建を主張した。構造改革派はこの時も諸潮流の統一を主張したが、さんざん野次られた挙げ句暴力的に発言を阻止された。

【日共第9回党大会】

 11月、日共の第9回党大会が開催され、民主連合政府構想発表された。この大会で党は、民青同系学生運動に対し次のような指針を与えている。

 「学生大衆との結びつきを強め、反共分裂主義者と有効に闘い、機の熟しつつある学生運動の組織的統一を成功させるように援助しなければならない」。
 「学生運動が、全人民的政治課題に積極的に取り組むと共に、学生の生活上、勉学上の要求、文化、スポーツなどの要求にも十分な注意を払い、広範な学生を結集しつつ民族民主統一戦線の一翼として発展するよう、努力しなければならない」。

 これが、次のように確認されている。
 「こうして、共産党と民青同盟は、学生運動それ自体の発展のために闘いつつ、学生の多面的な要求に基づく闘いを先頭に立って進め、さらに学生が将来も民主的、進歩的インテリゲンチァとして成長していけるように、長期的観点に立った指導を学生党員、同盟員に対して行なった。また、1960年、61年のトロツキスト、修正主義者との闘いの教訓に学んで、労働者規律と理論学習を強めていった」。

【民青同系全学連の誕生】
 12.10−11日、民青系全学連が「再建」された。全自連→全学連再建準備協議→構造改革派の分離→平民学連→全学連の「再建」という流れで辿り着いた。この夜、平民学連は第7回全国代表者会議を開き解散を決議した。こうして、革マル派全学連に続いて二つ目の全学連が出現することとなった。71大学129自治会から代議員276名、評議員182名が参加していた。民青同系全学連は順調に発展し、66.7月には全国の大学自治会の過半数(84大学・189自治会)を結集した。68.2月には国際学連の代表権を革マル派全学連から奪い取ることになる。

 川上徹・氏の「学生運動」は、この流れを次のように自画自賛している。
 「(この民主的学生運動こそ)戦前、戦後の進歩的、民主的学生運動の伝統を引き継ぐものであり、現代の学生運動の真の代表であり、かつ、祖国の独立と平和、民主主義を望む幾百千万の勤労人民の良き息子であり、娘である」。

【新三派連合による都学連再建の動き】

 12.18−19日、ブント、中核派らが中心になって東京都学生自治会連合(「都学連」)再建準備大会が明大で開催された。都学連は1949(昭和24).9月に結成され、学生運動を推進する上で大きな役割を果たしてきていたが、全学連の分裂と共に都学連も分裂していた。学生運動の主導権を握るために都学連の再建が課題となりつつあった。

 28自治会、代議員96名、全都活動家258名が参加し、65.7月の都学連再建のための準備委員会(議長・山本浩司)を発足させた。京都府学連がこれに提携し、全学連再建の動きが加速した。これに反対する革マル派が二日目の途中から退場し、構造改革派は代表を送らなかった。

 
この時の再建派の心情が次のように語られている。

 「いわゆる『安保後』といわれた分裂と危機の時代から、統一と発展に抜け出る過程に我々は居る。その過程では、安保全学連を乗り越えるための闘いで、いくつかの異なった立脚点が提起されている。それが一つになり、全学連運動を支えるまでには、あと何年かの年月が必要であろう。

 だが、そのことは全学連も又その時まで再建しなくても良い、とか、出来ない、という考え方を何ら意味しないであろう。全学連は一つの溶鉱炉て゛ある。異なった見解も、全学連としての闘いをいかに押し進めていくのか、についての論理と、現実の闘いそのものを薦めていく中で、止揚しなければならないのだ。現実の階級闘争の要請に応えることなくして、いかなる論理も実りあるものとはいえない云々」。

 12.20−21日、全国自治会代表者会議が明大で開催された。全学連規約に基づく174代議員とオブザーバー4百名が参加し、学生運動の統一推進について討議した。全学連即時再建を主張する中核系と、「当面は原潜阻止・日韓会談反対全国学生共闘を発展させるべし」と時期尚早論を主張する関西社学同、構改系の意見が対立し一致を見なかった。

 これより後は、「7期その1、全学連の転回点到来 」に記す。



(私論.私見)