第4章 戦後学生運動4期その1(1956年)、反日共系全学連の登場概略

 (最新見直し2008.9.10日)

 これより前は、「3期、六全協期の学生運動」に記す。

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、1956年の学生運動史論を概略する。これを仮に「戦後学生運動 4期その1、反日共系全学連の登場概略」と命名する。詳論は「全学連の再建期、反日共系全学連の誕生」に記し、ここではエポックな事件を採り上げ解析する。


反日共系全学連の登場事情
 宮顕は六全協で党中央に返り咲くや、急激に右傾化指導で全学連を締め上げ始めた。当然、共産党の日共化という質的変化に反発する動きがでてくることになる。1956年頃から様々な反日共系左翼が誕生することとなった。これを一応「新左翼」と称することにする。新左翼は、どのように展望したのだろうか。

 筆者の判ずるところ、徳球党中央時代の党中央批判のしからしむるところとして「共産党内の徳球から宮顕への宮廷革命の変調さ告発」には向かわなかった。その代わりとしてソ連式スターリニズム批判へと向かった。これにより、レーニンと並ぶロシア10月革命の立役者にして、在世中スターリンと抗争し不遇の死を遂げたトロツキーの理論即ちトロツキズムが脚光を浴びることとなった。この連中が、「スターリン主義によって汚染される以前の国際共産主義運動への回帰」を目指し、日本トロツキズム運動を創始し、日本共産党に変わる真の革命党派として革共同を立ち上げて行くことになる。

 他方、全学連指導部の主流はこれに合流せず、共産党内反党中央派として止まりつつ自律形成し始めることになった。これを指導したのが「島−生田」ラインであり、追ってブントを立ち上げることになる。こうして、日本左派運動はこの時期、共産党、革共同、ブントと云う三派が登場する事になった。全学連は、宮顕系日共指導下の民青同系と、その体制内化運動を批判する革共同派、革共同派とは叉違う革命を志向したブントの三つ巴に分岐し、三者競合しながら60年安保闘争を迎えていくことになる。

 この時期の左派運動は、それ以前の運動よりする或る種運動法則としての必然的な流れであった。筆者は、これを全体として見れば、60年安保闘争までは、学生運動がこの三つ巴が互いを認めながら競合し正成長して行く稀有な理想的時代となっていたのではないかと見立てている。但し、それを平板に受け止めてはならない留意すべきことがあるのでコメントしておく。

 第一期の戦後左派運動は、徳球−伊藤律系の指導により政権奪取に向かっていた。その夢は叶えられなかったが、第二期の共産党を指導した宮顕−野坂系指導は端から政権奪取運動を放棄し、体制内化的な単なる批判運動に向かうことになる。これが最大の違いであり、この体質は日共運動の宿アとして今日まで続いているように思われる。今日の日共が唱える「確かな野党論」はその必然的帰結である。この違いは大きいというべきではなかろうか。

 これに対して、いわゆる新左翼が生まれるのはこの時期であるが、新左翼はどういう運動に向かったか。結論から云うと、宮顕−野坂式体制内化批判運動を否定して体制転覆運動に向かった。しかしながら、体制転覆後の青写真を持たぬままのそれであり、単なる呼号であり、体制否定運動でしかなかった。そういう意味では、日共式体制内化批判運動と同床異夢の「政治本質的には無責任な、表見的には急進主義ながらも本質的には去勢された革命運動」でしかなかった、ということになろう。「革命ごっこ」と揶揄される所以がここにあると思われる。この体質は今日まで続いているように思われる。この違いは大きいというべきではなかろうか。

 してみれば、「体制内政権奪取運動、体制転覆即新政権樹立運動、新体制創出運動」と云う本来左翼が掲げていた至極真っ当な運動が、意図的か偶然かはともかく一貫して取り組まれる事なく経緯していることになる。このことを見据えながら、「戦後学生運動2、56年から59年まで概略」の動きを検証していく必要があろう。この視座抜きの検証は評論に堕すことになろう。

「スターリン批判」の衝撃
 1956年のこの期の特徴は、この間左右にジグザグする党指導により全学連が瓦解させられた経験から、もはや党の影響を受けることを峻拒しようとする学生党員グループが発生し、こうした連中によって全学連再建運動が胎動していくことになったことに認められる。

 全学連再建グループの背景にあったものは党に対する深い失望であった。宮顕グループによる宮廷革命の進行に対して、筆者が今為しているような理論的な批判を為す能力を持たなかったが、「六全協の形式的総括」、「狂気の自己批判運動」の展開等が澱(おり)になり、党に対する不信を倍加させることとなった。

 こうした折りの1956.2月、ソ連共産党20回大会でフルシチョフ第一書記による「スターリン批判」が勃発した。これに対し、宮顕が牛耳り始めた党は、「スターリン批判」が提示しているマルクス・レーニン主義運動の根本的見直しや国際共産主義運動の捻じ曲げを対自的に洞察する理論的解明を為し得なかった。概要「スターリニズム的個人指導が単に集団指導に訂正されただけのことであり、我が国では六全協で既に解決済みである」と安心立命的に居直りさえした。

 そればかりか「スターリン批判」究明の動きを「自由主義、清算主義、規律違反」等の名目で押さえていくことになった。こうした宮顕式の対応はとうてい先進的学生党員を納得せしめることができなかった。これらの出来事が党の無謬性神話を崩れさせることになった。

【全学連再建、「8中委.9大会路線」の確立】
 4月、全学連第8回中委が開かれ、宮顕が敷いた先の「7中委イズム」を「学生の力量を過小評価した日常要求主義」と批判する立場から平和擁護闘争を第一義的に掲げ、「闘う全学連再建」の基礎をつくることとなった。

 「8中委」を契機として全学連と反戦学同は、政治闘争を志向する戦術転換を行ない、急速に組織を立て直していくことになった。折から国会に上程された56年前半の小選挙区制導入反対闘争が解体に瀕していた全学連の息を吹き返させていくこととなった。

 6.9−12日、全学連第9回大会を開催した。大会は、香山委員長、星宮・牧副委員長、高野書記長らの四役を選出した。北大から小野が中執となった。こうして、全学連は、急進主義的学生党員活動家の手により、党中央の指導を排して自力で再建されていくことになった。この時全学連中執委メンバーは19名中12名が党員であった。

 この大会で、この間の闘争を通じての「国会及び国民各層との連帯促進」、「総評・日教組・文化人らとの強力強化」、「自治会の蘇生」を評価し、この方向での運動強化が確認された。これを「8中委.9大会路線」と云う。教育三法反対闘争、56年秋の砂川闘争、57年夏の第三次砂川闘争、57年後半の原水禁運動などに党の指導を離れた全学連運動として独自に取り組んでいくことになった。

 但し、この時点ではなお党の指導の精神的影響は大きく、原水禁運動では、ソ連の核実験の賛否をめぐって混乱を生じさせ、党がソ連の核実験を擁護していたことにより、原爆にもきれいなものとそうでないものがあるとか妙な弁明をせねばならないということにもなった。その他授業料値上げ反対闘争にも取り組んでいる。 

【砂川基地反対闘争】

 9.13日、第二次測量開始が予測される中、全学連は砂川基地反対の闘争宣言を発して現地闘争本部を設置し、地元農民、支援団体と協力しながら闘いを組織した。10月になると学生はぞくぞく現地に乗り込み泊り込んだ。全国から3千名を現地動員し、農民.労働者と共に泊り込むこととなった。

 
10.4日、第二次測量開始。10.12日、立川基地拡張の第二次強制測量始まる。これを阻止せんとして反対同盟員、学生、労働者らが警官隊と衝突、多数の負傷者、逮捕者を出した。「武装警官隊2千名に襲われ、学生1千名重軽傷。砂川闘争では都委員会も全組織をあげてよく戦ったが、中央部のスターリン的干渉に悩まされた」とある。

 10.13日、.砂川の激突で測量中止。10.14日、鳩山内閣は遂に測量中止声明をせざるを得ないところとなった。この報に接した砂川町は、「勝った」、「勝った」の歓声で、五日市街道はどよめき、喜びと化し、「ワッショイ」、「ワッショイ」のデモが繰り広げられた。 

 「砂川基地反対闘争」は、全学連にとって、50年秋の反レッド.パージ闘争以来の勝利であり、学生運動史上歴史に残る輝かしい戦いとなった。その功績として、従来、軍事基地反対闘争は民族解放闘争や武装闘争の突破口的位置付けで取り組まれてきていたが、これを平和擁護闘争として取り組み、地元農民・市民・労組等々との提携による民主勢力の結集で闘うという貴重な経験となった。

 安東氏の「戦後日本共産党私記」は次のように記している。
 「内灘闘争によって火の手を挙げられた基地闘争は、この砂川闘争においてついに勝利を収めることができた。以降、軍事基地の新設、拡張は容易には設定し得なくなった。加えてこの闘争を機として行政協定→安保条約の問題が世論の正面に登場し、60年安保の闘いの第一歩が記されたのである」。

 原水禁運動では、ソ連の核実験の賛否をめぐって混乱が生じ、党がソ連の核実験を擁護していたことにより、原爆にもきれいなものとそうでないものがあるとか妙な弁明をせねばならないという事にもなったようである。その他授業料値上げ反対闘争にも取り組んだ。


【ポーランド・ハンガリー事件】
 こうした機運の矢先、10−11月、ポーランド・ハンガリー事件が起こった。ソ連軍が戦車と共に軍事介入して市民を弾圧する映像が流されてきた。党は、このソ連軍の行動を「帝国主義勢力からの危険な干渉と闘う」としてハンガリーに対するソ連の武力介入を公然と支持した。このことが、学生たちの「衝撃、動揺、懐疑、憤激」を呼び、党から離反させる強い契機となった。 

 こうした事情から、全学連の指導部をして、もはや共産党に見切りをつけ、既成の権威の否定から新しいマルクス主義の創造、本来の共産主義運動の理念に添った新しい運動組織を模索せしめていくことになった。この時既に先進的学生党員は一定の運動経験と理論能力を獲得していたということでもあろう。

【森田派と高野派が対立】
 56年秋、全学連は砂川闘争に取り組む過程で、砂川闘争を指導した東大系の全学連再建の功労者にして日共からの自律化を押し進めようとする森田−島派と、学連書記長で早大系にして日共宮顕指示を絶対とする高野派が対立し始めた。旧帝大の雄・東大と私立の雄・早大の反目も関連していた。この争いは闘いの戦術から政治路線、革命理論にまで及び果ては日常的な大衆運動の進め方の対立まで至った。

 この時有名な「孫悟空論議」が為されている。「孫悟空論議」とは、砂川における学生の活動に対して、高野が「総評・社会党幹部と云う釈迦(世界情勢)の掌で踊った孫悟空に喩え、『極左冒険主義』の危険をはらむもの」とする論で、これに森田が「運動における学生層の役割を過小評価するものとして非難応酬」した経過を云う。

 こうして、全学連内部に宮顕系日共派とこれに反発する急進派が誕生することになった。全学連再建後の学生運動内部に早くも非和解的な二潮流が分岐していくことになった。この二つの潮流は激しく論争をしながらその後交わることはなかった。学生党員グループの先進派は、この間ジグザグする日共指導による引き回しに嫌気が差し、もはや日共党中央の影響を峻拒し自律化せしめようとし始める。以降、学生党員グループのこの動向が全学連運動の帰趨を決めていくことになる。この連中が闘う全学連の再建目指して胎動していくことになる。

【民青同の発足】
 11月、日本民主青年同盟(民青同)が発足している。民青同は、「マルクス・レーニン主義の原則に基づく階級的青年同盟」の建設の方向を明らかにしていたが、進行しつつある反党的全学連再建派の流れと一線を画し、あくまで日共に帰依し宮顕指導下で青年運動を担おうとしたいわば穏健派傾向の党員学生活動家が組織されて行ったと見ることができる。いわば、愚鈍直なまでに戦前戦後の党の歴史に信頼を寄せる立場から党の旗を護ろうとし、この時の党の指導にも従おうとした党員学生活動家が民青同に結集していくことになったと思われる。

 これより後は、「4期その2、革共同登場史 」に記す。



(私論.私見)