第7章 戦後学生運動5期その2(1959年)、新左翼系全学連の発展概略

 (最新見直し2008.9.10日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、1959年の学生運動史論を概略する。これを仮に「戦後学生運動5期その2、新左翼系全学連の発展概略」と命名する。詳論は「新左翼系=ブント・革共同系全学連の発展」に記し、ここではエポックな事件を採り上げ解析する。

 この期の特徴は、再建された全学連の指導部をブント系が掌握し、急進主義運動を担いつつ「60年安保闘争」を主導的にリードしていったことに認められる。ブントは見る見る組織を拡大し、革共同が主導権を握っていた全学連の主導権を奪い返すに至った。少数派に甘んじることを余儀なくされた革共同系はブント系の指導下に合同し共に全学連運動を急進主義的に突出させていくことになった。この間民青同系は、こうした全学連の政治闘争主義化にたじろぎつつもこの時期までは指導に服していた。


【全学連が意見書「日本共産党の危機と学生運動」を発表】 

 1.1日、全学連意見書「日本共産党の危機と学生運動」(責任者 香山健一)が発表されている。香山健一全学連委員長が責任者として作成されたが、全学連中央の統一見解としては採択されなかった。「現在の危機のうちで、何よりも深刻な点は、日和見主義.ブルジョア民族主義.官僚主義が共産党の公認の指導部の大多数を支配してしまったことにある」という前書きから始まり、次のように主張していた。

 「反スターリン主義の理論として喧伝されている“人民戦線戦術”“長期的平和共存”“革命の平和的移行”“各国の社会主義への道”“構造的改良”というフルシチョフ路線こそ、まさに、『一国社会主義論の絶対化』と『世界革命の放棄』によって、世界プロレタリアート解放の事業を裏切り続けてきたスターリン主義の現代版に外ならない修正主義であることを知ったのである。そして、われわれが実践のなかで痛感してきた党中央の右翼日和見主義、平和擁護運動における没階級的理論、民族主義、革命における二段階革命論が、まさにソ連共産党を先頭としたスターリン主義的指導部の理論よりの必然的結果であることを知った」。

 「党中央は自らの頭脳で自主的に思考する能力を完全に失っていた。それは共産主義者としての最も基本的、初歩的な能力の喪失を意味する」としたうえ、「我々はまずマルクス・レーニン主義の原点に立ち帰り、スターリン主義的な平和共存路線と訣別し、世界革命の一環として日本革命を闘い取ろう」。

 1.1日、キューバ革命が勝利した。フィデロ・カストロ達が2年余りの武力闘争の末、新米派バティスタ政権を打倒、革命政府を樹立した。


【全学連第14回大会でブントが主導権を奪い返す】
 1959.6.5-8日、約1千名が参加し全学連第14回大会が開かれた。この大会は、ブント、民青同、革共同の三つどもえの激しい争いとなり、ブントが先の大会以来革共同に抑えられていた全学連の中央執行部の過半数を獲得し、主導権を再び奪い返して決着した。

 唐牛健太郎(北大)が委員長として選出され、清水丈夫書記長、加藤昇(早大)と糠谷秀剛(東大法)、青木昌彦(東大)、奥田正一(早大)が新執行部となった。中執委員数内訳は、ブント17、革共同13、民青同0、中央委員数は、ブント52、革共同28、民青同30。

 こうして、ブントは、「ブント―社学同―全学連」を一本化した組織体制で60年安保闘争に突入していくことになった。唐牛新委員長下の全学連は、以下見ていくように「安保改定阻止、岸内閣打倒」のスローガンを掲げ、闘争の中心勢力としてむしろ主役を演じながら再度にわたる「国会突入闘争」や「岸渡米阻止羽田闘争」などに精力的に取り組んでいくことになった。

 なお、唐牛氏が委員長に目を付けられた背景として、星宮氏が「戦後史の証言ブント」で次のように証言している。
 「唐牛を呼んだ方がいいで。最近、カミソリの刃のようなのばっかりが東京におるけども、あれはいかぬ。まさかりのなたが一番いいんや、こういうときは。動転したらえらいことやし、バーンと決断して、腹をくくらすというのはね、太っ腹なやつじゃなきゃだめだ。多少あか抜けせんでも、スマートじゃなくても、そういうのが間違いないんや」。

 この星宮提言により、島氏が北海道まで説得に行ったと云われている。

【ブントの感性考】
 6月頃、ブントのイデオローグ姫岡玲治が、通称「姫岡国家独占資本主義論」と云われる論文を機関紙「共産主義3号」に発表している。これがブント結成直後から崩壊に至るまでのブントの綱領的文献となった。

 この当時のブントは約1800名で、学生が8割を占めていたと云われている。この時期ブントは、「安保が倒れるか、ブントが倒れるか」と公言しつつ安保闘争に組織的命運を賭けていくことになった。この時の島氏の心境が「戦後史の証言ブント」の中で次のように語られている。
 「再三の逡巡の末、私はこの安保闘争に生まれだばかりのブントの力を全てぶち込んで闘うことを心に決めた」。
 「闘いの中で争いを昇華させ、より高次の人間解放、社会変革の道を拓くかが前衛党の試金石になる」。
 概要「日本共産党には、『物言えば唇寒し』の党内状況があった。生き生きとした人間の生命感情を抑圧し陰鬱な影の中に押し込んでしまう本来的属性があった。政治組織とはいえ、所詮いろいろな人間の寄り合いである。一人一人顔が違うように、思想も考え方もまして性格などそれぞれ百人百様である。そんな人間が一つの組織を作るのは、共同の行動でより有効に自分の考え、目的を実現する為であろう。ならば、それは自分の生命力の可能性をより以上に開花するものでなければならぬ。様々な抑圧を解放して生きた感情の発露の上に行動がなされる、そんなカラリとした明るい色調が満ち満ちているような組織。『見ざる、聞かざる、言わざる』の一枚岩とは正反対の内外に拓かれた集まり、大衆運動の情況に応じて自在に変化できるアメーバの柔軟さ。戦後社会の平和と民主主義の擬制に疑いを持ち、同じ土俵の上で風化していった既成左翼にあきたらなかった新世代学生の共感を獲ち得た」。

 これについて、筆者はかく思う。以上のような島氏の発想には、かなりアナーキー且つカオス的情緒があることが知れる。この「アナーキー且つカオス的情緒」は存外大事なものなのではなかろうか。この対極にあるのはロゴス的整合精神(物事に見通しと順序を立てて合理的に処そうとする精神)ということになろうが、この両者は極限期になればなるほど分化する二つの傾向として立ち現れ、気質によってどちらを二者択一するかせざるをえないことになり、未だ決着のつかない難題として存立しているように思う。

【「黒寛・大川スパイ事件」】
 この頃、革共同の代表的指導者・黒寛に纏わる重大背信事件「黒寛・大川スパイ事件」が発生している。黒寛の及ぼした学生運動への影響の大きさに鑑み、これを採り上げておく。「黒寛・大川スパイ事件」とは、時期は特定し無いが58年から59年頃のことと思われるが、流布されている話は次のようなものである。
 概要「大川なる者が、埼玉の民青の情報を入手できる立場を利用して、民青の情報を警察に提供することによって資金を稼いだらどうだろうか、と考えつき、大川はこのことを黒寛に相談したところ、黒寛はそれを支持した。二人は新宿の公衆電話から警視庁公安に電話し、用件を伝えた。公安の方は公衆電話の場所を聞いてすぐ行くからそこで待っていてくれと応答し、かれらはその場所でしばらく待っていた。が、“世界に冠たるマルクス主義者”である黒寛の小心によってか、大川の動揺によってか分からないが、かれらは次第につのってくる反革命的所業の罪深さを抑えることができなくなった。『おい、逃げよう!』といったのはどちらが先かは不明である。かれらは一目散にその場を逃げ出した。これが事件の顛末であるとされている事件である」。

 これについて、筆者はかく思う。非常に矮小化された話にされているがオカシイ。見てきた通りこの時点に於ける黒寛は、革共同第1次分裂で太田龍派を一掃後の最高指導者である。その指導者の公安との繫がりが見えているので有り由々しきことであろう。この事件は黒寛の正体が露見した事件であり、れんだいこは、左派運動内に回状が送付されるべきであったと考える。が、当時の革共同は仲間内で処理している。果たして適正対応だったであろうか。れんだいこの不審は消えない。これについての詳論は「黒寛・大川スパイ事件」に記す。  

【革共同第二次分裂】
 8.26日、革共同内に第二次分裂が発生している。革共同創立メンバーの一人西京司氏率いる関西派が、「黒寛・大川スパイ事件」を取引材料にしながら中央書記局を制し、革共同の主導権を獲得するべく画策したというのが真相であろう。西派はこの頃「西テーゼ」を作成し、同盟の綱領として採択を図ろうとしていた。この過程で黒寛の影響下にある探求派が対立し、関西派が政治局員・黒寛を解任した。黒寛は、本多延嘉氏らと共に革共同全国委員会(革共同全国委)を作り関西派と分離する。これがいわゆる「革共同第二次分裂」である。これについての詳論は「革共同の第二次分裂考」に記す。

【「全学連の国会乱入事件」】
 11.27日、安保改定阻止国民会議の第8次統一行動の国会デモで、全学連5千名の学生らによる「国会乱入事件」が発生している。全学連は、都教組などの労働者と共に、正門前を固める警官隊の警備を突き破って初めて国会構内に突入し、抗議集会を続行した。構内はデモとシュプレヒコールで渦巻いた。社共、総評幹部は、宣伝カーから解散を呼び掛けるが約三万余の群衆は動かない。約5時間にわたって国会玄関前広場がデモ隊によって占拠された。これがブント運動の最初の金字塔となった。

 政府は緊急会議を開き、「国会の権威を汚す有史以来の暴挙である」と政府声明を発表し、全学連を批判すると同時に弾圧を指示した。清水書記長、糠谷、加藤副委員長らに逮捕状が出された。日共は、翌日のアカハタ号外で突入デモ隊を非難し、常任幹部会声明「挑発行動で統一行動の分裂をはかった極左・トロツキストたちの行動を粉砕せよ」を掲載し全都にばらまいた。以降連日「トロツキスト集団全学連」の挑発行動を攻撃していくこととなった。

 12.10日、全学連は1万5千名を結集し再度国会包囲デモを企画したが、社会党・総評が戦術ダウンをし始めていたこともあって、今度は分厚い警官隊の壁の前に破れた。安保闘争はこの後暫く鳴りを潜めることになった。

【民青同の「全学連の国会乱入事件」批判】
 この全学連主流派の「国会乱入事件」に関して、民青同の指導者・川上徹・氏は著書「学生運動」の中で次のように批判している。
 「自民党は、この事件以降、絶好の反撃の口実を与えられ、ジャーナリズムを利用しながら国民会議の非難の大宣伝を開始した。総評・社会党の中には、統一行動そのものに消極的行動になる傾向すら生まれたのである。運動が高揚期にあるだけに、一時的、局部的な敵味方の『力関係』だけで、戦術を決め、行動形態を決めることが、闘いの長期的見通しの中で、どういう結果を生むか、という深刻な教訓を残した」。

 これについて、筆者はかく思う。しかしこれは、私にはおかしな総括の仕方であるように思われる。一つはブントに対する「為にする批判」であるということと。一つは運動の経過には高揚期と沈静期が交叉して行くものであり、全体としての関連無しにこの時点での一時的後退をのみ部分的総括していることに対する反動性である。事実、翌60年より安保闘争がるつぼ化することを思えば、この時点での一時的沈静化を強調し抜く姿勢はフェアではない。

 後一つは、それでは自分たちの運動が何をなしえたのかという主体的な内省のない態度である。60年安保闘争後ブントは解体の憂き目に遭う。これにより、ブント的国会乱入運動が二度と組織される事が無くなった。川上氏は、ならばどう闘いを組織し、どこに向かえば良かったか示さねばなるまい。このような総括なしにブント的闘争を批判する精神は生産的でないと思われる。

 実際、上述したように批判を行う川上氏らが民青同系学生運動を指導しつつ70年安保闘争を闘うことになったが、この時のブントにまさる何かを創造しえたのだろうか。つつがなく70年安保が終えて、後は彼自身が査問されていく例の事件へ辿り着いただけではなかったのか。してみれば、「恣意的な批判の愚」は慎まねばならない、いずれ自身に降りかかってきたとき自縛となる、と私は思う。

 これより後は、「60年安保闘争 」に記す。



(私論.私見)