第17章 | 戦後学生運動9期その1(1970年)、70年安保闘争とその後概略 |
(最新見直し2008.9.11日)
これより前は、「8期その2、全国全共闘結成と内部溶解の兆し」に記す。
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、1970年の70年安保闘争史を概括する。これを仮に「戦後学生運動9期その1、70年安保闘争とその後概略」と命名する。詳論は「70年安保闘争とその後」に記し、ここではエポックな事件を採り上げ解析する。 |
【70年安保闘争考】 |
いよいよ70年を向かえて「70年安保闘争」の総決算の時を向かえたが、全共闘運動は既にピークを過ぎていた。というよりは既に流産させられていた。民青同と革マル派を除き、全共闘に結集した「反代々木系セクト」はかなりな程度にずたずたにされており、実際の力学的な運動能力はこの時既に潰えていた。機動隊の装備の充実とこの間の実地訓練によって治安能力が高まり一層の壁として立ち現れるに至っていた。従って、国会突入、岸政権打倒にまで至った60年安保闘争のような意味での70年安保闘争は存在せず、政治的カンパニアだけの動員数のみ誇る儀式で終わった。60年安保闘争は「壮大なゼロ」と評されたが、70年安保闘争は「そしてゲバルトだけが残った」と評されるのが相応しい。 70年以降の学生運動の特徴として、次のような情況が作り出されていったように思われる。一つは、いわゆる一般学生の政治的無関心の進行が認められる。学生活動家がキャンパス内に顔を利かしていた時代が終わり、ノンポリと云われる一般学生が主流となった。従来、一般学生は時に応じて政治的行動に転化する貯水池となっていたが、70年以降の一般学生はノンセクトを経てもはや政治に関心を示さないノンポリとなって行った。学生運動活動家が特定化させられ、両者の交流が認められなくなった。 その原因は色々考えられるが、ここまで顧みてきたように旧左翼運動は無論としてそれを否定した新左翼運動をも幻滅に終わったことにより、そしてその打開の道筋を創れなかったことにより、左派運動そのものの稚拙さが食傷され、「70年でもって政治の季節が基本的に終わった」のかもしれない。あるいはまた、それまでの左翼イデオロギーに替わってネオ・シオニズムイデオロギーが一定の成果を獲得し始めたのかもしれない。皮肉なことに、世界の資本主義体制は「一触即発的全般的危機に陥っている」と云われ続けながらも、この頃より新たな隆盛局面を生みだしていくことになったという背景事情もある。 私は、この辺りについて左翼の理論が現実に追いついていないという感じを覚えている。一つは、そういう理論的切開をせぬままに相変わらずの主観的危機認識論に基づいて、一部特定化された学生運動活動家と武装蜂起−武装闘争型の武闘路線が結合しつつより過激化していくという流れが生み出されていくことになった。しかしこの方向は先鋭化すればするほど先細りする道のりであった。 反代々木系最大党派に成長していた中核派は、69年頃からプレハノフを日和見主義と決めつけたレーニンの「血生臭いせん滅戦が必要だということを大衆に隠すのは自分自身も人民を欺くことだ」というフレーズを引用しつつ急進主義路線をひた走っていった。この延長上に69年の共産同赤軍派、70年の日共左派による京浜安保共闘の結成、ノンセクト・ラジカル過激派黒ヘル・アナーキスト系の登場も見られるようになった。 これとは別に1・革マル派を主役とする党派間ゲバルトの発生、2・連合赤軍の同志査問殺人が大きく否定的影響を与えていった。この問題は余程重要であると考えているので、いずれ別立てで投稿しようと思う。 |
【大阪万博開幕】 |
3.14日 大阪万国博(EXP0'70)開会式。 |
【赤軍派による日航機よど号乗っ取り事件】 |
3.31日、赤軍派による日航機よど号乗っ取り事件(ハイジャック)が発生。事件の好奇性からマスコミは大々的に報道し、多くの視聴者が釘付けになった。この事件の首謀者達は北朝鮮に入国したままとなっており、現在まで日朝の政治案件となっている。れんだいこは、よど号赤軍派の主義主張の是非はともかく、乗客を危めなかったことと、金浦空港偽装工作を見抜き目的通りに北朝鮮に向かったことを評価する。なお、当時のハト派政権が並々ならぬ配慮で根回しし、被害最小限に押えている手際をも高く評価する。 |
【カンボジア内戦を廻る複雑怪奇】 |
この頃カンボジアで内戦が起こり、これに南ベトナム解放軍・北ベトナム軍が参戦したことからわが国のベトナム反戦闘争も混迷を深めることとなった。3.31日、日米安保条約自動継続の政府声明発表。4.9日、カンボジア政府軍、べトナム系住民を虐殺。中国と北朝鮮両政府、「日本軍国主義と共同して闘う」との共同声明を発表。4.15日、米国で反戦集会・デモ。数十万人参加。4.23日、日本政府はカンボジアの現状は内戦ではなく、北ベトナム軍の侵略に対する戦いであるとの公式見解を発表。米国政府、カンボジアに武器を援助していたことを認める。 |
【70年安保闘争】 |
4.28日、沖縄デー。各地でデモ。10余万名参加。反代々木系1万6600名(うちべ平連など市民団体8000名)結集。集会の途中、革マル派の参加に対し他党派がこれを実力阻止しようとして内ゲバ起こる。べ平連6月行動委がこれに抗議して主催団体を降りる。6行委の隊列から逮捕者4名。重軽傷者各1名。 5.8日、全共闘、反戦青年委などカンボジア侵略抗議集会。2500名結集、デモ。べ平連など市民団体は不参加。5.29日、カンボジア侵略抗議で全共闘、反戦青年委、1万7000名がデモ。 6月、「反安保毎日デモ」が展開される。6.14日、社共総評系のデモ、集会、全国で236ヵ所。「インドシナ反戦と反安保の6.14大共同行動労学市民総決起集会」。革マル派を含む新左翼党派と市民団体の初の共同行動、7万2000名参加。全国全共闘・全国反戦・ベ平連など約1700名逮捕。6.22日、米国務省、日米安保条約の継続維持確認の声明。 6.23日、日米安全保障条約、自動延長となる。全国で反安保デモ、77万4000名参加。東京では147件で史上最高のデモ届数。新左翼系2万名結集。逮捕者10名。反安保毎日デモは30日まで延長をきめる。70年安保闘争はセレモニーで終わった。 |
【ブント内紛】 |
6月のブント第七回拡大中央委員会を契機に内紛発生。軍事闘争を強調する左派グループに反対し、大衆運動の強化を主張する右派グループの「情況派」と「叛旗派」に分裂した。「ML派」は、6月の反安保闘争で多数の逮捕者を出し、その総括をめぐって紛糾し、組織が壊滅状態に陥った。 |
【華青闘の新左翼批判】 |
7.7日、ろ溝橋事件33周年・日帝のアジア侵略阻止人民集会。席上、華青闘が新左翼批判。4千名(うちべ平連550名)結集。 |
【中核派の革マル派活動家リンチ・テロ殺人事件発生】 |
8.4日、厚生年金病院前で東教大生・革マル派の海老原俊夫氏の死体が発見され、中核派のリンチ・テロで殺害されたことが判明した。この事件は、従来のゲバルトの一線を越したリンチ・テロであったこと、以降この両派が組織を賭けてゲバルトに向かうことになる契機となった点で考察を要する。 両派の抗争の根は深くいずれこのような事態の発生が予想されてはいたものの、中核派の方から死に至るリンチ・テロがなされたという歴史的事実が記録されることになった。私は挑発に乗せられたとみなしているが、例えそうであったとしても、この件に関して中核派指導部の見解表明がなされなかったことは指導能力上大いに問題があったと思われる。理論が現実に追いついていない一例であると思われる。 この事件後革マル派は直ちに中核派に報復を宣言し、8.6日、中核派殲滅戦宣言、8.14日、中核派に変装した革マル派数十名が法政大に侵入し、中核派学生を襲撃十数人に残忍なテロを加え報復した。以降やられたりやり返す際限のないテロが両派を襲い、有能な活動家が失われていくことになった。 |
【三島由紀夫率いる楯の会の市ヶ谷自衛隊乱入事件】 | ||
11.25日、作家三島由紀夫氏が率いる楯の会が、市ヶ谷自衛隊内でクーデター扇動、割腹自殺をした。この事件も好奇性からマスコミが大々的に報道し、多くの視聴者が釘付けになった。今日明らかにされているところに寄ると、70年安保闘争の渦中で決起せんと楯の会を組織していたが平穏に推移したことから「全員あげて行動する機会は失はれ」、この期に主張を貫いたということであった。
この決起文に感応すべきか駄文とみなすべきか自由ではあるが、左翼は、こうした主張に対してその論理と主張を明晰にさせ左派的に対話する習慣を持つべきでは無かろうか。機動隊と渡り合う運動だけが戦闘的なのではなく、こういう理論闘争もまた果敢に行われるべきでは無かろうか。今日的な論評としてはオウム真理教なぞも格好の素材足り得ているように思われるが、なぜよそ事にしてしまうのだう。百家争鳴こそ左翼運動の生命の泉と思われるが、いつのまにか統制派が指導部を掌握してしまうこの日本的習癖こそ打倒すべき対象ではないのだろう、と思う。 |
【京浜安保共闘が交番襲撃し失敗】 |
12.18日、京浜安保共闘が、拳銃奪取の為、東京・上赤塚交番を襲撃、一人が警官に射殺され、二人が重傷を負う。 |
【70年安保闘争考察とその後概略】 |
70年安保闘争以降の諸闘争を追跡していくことが可能ではあるが、運動の原型はほぼ出尽くしており、多少のエポックはあるものの次第に運動の低迷と四分五裂化を追って行くだけの非生産的な流れしか見当たらないという理由で以下割愛する。 ここまで辿って見て言えることは、戦後余程自由な政治活動権を保障されたにも関わらず、左翼運動の指導部が人民大衆の闘うエネルギーを高める方向に誘導できず、「70年安保闘争」以降左派間抗争に消耗する呪縛に陥ってしまったのではないかということである。この呪縛を自己切開しない限り未だに明日が見えてこない現実にあると思われる。 他方で、第二次世界大戦の敗戦ショックからすっかり立ち直った支配層による戦後の再編が政治日程化し、左翼の無力を尻目に次第に大胆に着手されつつあるというのが今日的状況かと思われる。「お上」に対する依存体質と「お上」の能力の方が左翼より格段と勝れている神話化された現実があると思われる。 問題は、本音と自己主張と利権と政治責任を民主集中制の下に交叉させつつ派閥の連衡戦線で時局を舵取るという手法で戦後の社会変動にもっとも果敢に革新的に対応し得た自民党も、戦後政党政治の旗手田中角栄を自ら放逐した辺りから次第に求心力を失い始め、90年頃より統制不能・対応能力を欠如させているというのに、この流れの延長にしからしき政治運動が見あたらない政治の貧困さにあるように思われる。 ここまでの学生運動史を検証してみて気づいたことを書き留めておく。必要だった事は、統一戦線運動と共同戦線運動の識別ではなかっただろうか。理論が正しい場合には統一戦線運動は有効に機能する。そうでない場合には、主観的意思とは別に足かせ手かせでしかなくなるだろう。真に必要なのは、便宜的意味ではなく原理的な意味での共同戦線運動ではなかろうか。これについては「統一戦線と共同戦線の識別考」に記す。 |
(私論.私見)