
(最新見直し2008.6.22日)
これより前は、「第9期その3、戦後学生運動の考察/70年代の学生運動(1975−79)」に記す。
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここでは、1980年代の学生運動史を概略する。詳論は「10期その1、戦後学生運動の考察/80年代の学生運動」に記す。1980年代に入って、学生運動は「層としての学生運動」の態を為さなくなった。その要因はいろいろ考えられよう。誰しも挙げるのは、1・連合赤軍事件、2・中核派、社青同と革マル派との党派間ゲバルトの悪影響だろう。確かにそうだが、もう一つ理由が有りはすまいか。
筆者は、70年代後半のロッキード事件、80年代に入っての中曽根政権の登場により、日本政界がハト派から売国奴系タカ派にシフト替えさせられ、彼らの信奉するネオ・シオニズム的強権支配及びそのイデオロギーによるタガハメが奏功し、社会全体から左派的活力が封殺された結果ではなかろうかとも思っている。80年代から、左派の街頭デモが急速に萎み、代わって右翼の街頭マイクが聞こえるようになった。「タカ派支配による戦後日本の構造改革」は、思ったより諸影響が大きいのではなかろうか。
もう一つ。当局操作に拠る「穏和系に対する日共、急進系に対する革マル派を主軸とするその他諸々の梃子による「『左』から左を制する反革命的策動」が奏功し、燃え盛った左派運動の火を沈静せしめたのではないかと思っている。但し、この場合は、沈静せしめられた方の能力が足りなかったということでもあり、我々はそこを主体的に内省せねばならないであろう。 |
【中核派、社青同解放派、革マル派の絶対戦争のその後の経緯】 |
中核派、社青同解放派の革マル派攻撃が続く。
10.30日、大田区南千束の区立洗足池図書館前の路上で、中核派が革マル派の5名を殲滅した。69年から続く内ゲバ事件で80人目の被害者となり。1度の内ゲバで5人が死亡というのは最多となった。この事件について、中核派は次のように声明している。
概要「我が革命軍はクマルジャックの集団を捕捉し、壊滅的打撃を与えた。5人は3.14本多書記長殺害の下手人である。反革命革マル派に対しては、さらに第二、第三の”10.30”を敢行する」。 |
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【韓国で光州事件発生】 |
5.18−26日、韓国全羅南道の中心都市.光州で反政府蜂起暴動が発生した。5.18日未明、全土戒厳令が敷かれ、金大中が連行される。市民ぐるみの蜂起に発展、連日市街戦が展開された。数千人が犠牲になった。これを「光州事件」と云う。
政情の違いと云うべきだろうが、戦後日本に於いては軍が民衆暴動を鎮圧し、数千人を虐殺すると云う事例は無い。 |
【大平首相が急死し、鈴木政権が発足】 |
5.30日、大平首相が、新宿駅前で参院選初日の演説中、のどの痛みを訴え入院。6.12日、心筋梗塞のため死去。同日、伊藤正義官房長官が首相臨時代理に就任した。後継候補は本命中曽根康弘、対抗河本敏夫、ダークホース宮沢喜一が下馬評だったが、自民党総務会は西村英一副総理に後継指名を一任したものの、3候補の調整がつかなかった。6月初の「衆参同日選挙」。7.17日、意外な候補であった鈴木善幸が急浮上し鈴木内閣が発足する。
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【社青同解放派の革労協内が分裂】 |
6月、革労協−反帝学評で、1977年に書記長を殺害されてから徹底報復を主張する軍事武闘路線の狭間嘉明らの学生活動家出身グループ「狭間派」と、大衆闘争・労働運動を重視する佐々木慶明率いる労働者グループ「反狭間派」が対立し分裂した。 |
【連合赤軍被告に判決下される】 |
6.18日、東京地裁で連合赤軍メンバーに判決が為された。永田洋子死刑、坂口弘死刑、植垣康博懲役20年。 |
【83年度予算案で、防衛費が6.5%に突出】 |
83年度予算案では、一般歳出がマイナスの中、防衛費だけは6.5%の突出、聖域化を強めた。 |
【「三里塚芝山連合空港反対同盟」が北原派と熱田派に分裂】 |
2.27日、「三里塚芝山連合空港反対同盟」が北原派と熱田派に分裂。支援党派も系列化される。中核派が北原派を、第四インターは熱田派を支援。 |
【田中元首相に実刑判決下される】 |
10月、田中元首相一審実刑判決。 |
【中核派による第四インターへのゲバ事件発生】 |
中核派による第四インターへの内ゲバ事件が発生している。これは成田空港反対同盟の分裂による支援党派の二分解に起因していた。中核派が北原派を応援していたが、熱田派を支援する第四インターを脱落派と決め付けての攻撃だつた。 |
9.19日、中核派が、自民党本部へ無人トラック攻撃。
11.27日、中核派が、時限発火装置で千葉県知事、浜田幸一代議士らの事務所攻撃。
【中核派対革マル派の抗争】 |
2.5日、和光大学構内で内ゲバ。中核派8人、革マル派1人が負傷した。
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5.20日、日本赤軍の岡本公三が、パレスチナゲリラとイスラエルの捕虜交換によって釈放される。
7月、よど号赤軍から、中曽根首相、藤波長官宛て無罪帰国についての意向打診書簡届く。
9.4日、よど号赤軍メンバーの吉田金太郎がピョンヤンで病死。
【中核派対革マル派の抗争】 |
1.20日白昼、京大教養学部構内でオルグ活動中の中核派全学連委員長代行福島慎一郎氏(25歳)が待ち伏せしていた革マル派数名に襲われて後頭部乱打により死亡。革マル派は「中核派『軍団』の敵対を完全に粉砕した」などと犯行を自認。
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2.8日、中核派が、成田空港工事に関係している鹿島建設作業所などを時限発火装置で焼く。
【中核派対革マル派の抗争】 |
2.23日午前7時頃、茨城県茎崎町の路上で、出勤途中の動労中央本部副委員長が、待ち伏せしていた白、青色ヘルメットの6人くらいの男に襲われ、鉄パイプ、バールなどで滅多打ちにされ両手両足骨折の重傷。中核派が犯行を自認。
5.18日午前7時20分頃、東京・武蔵野市内の駐車場で、動労拝島運転区渋い院長がJR武蔵境駅まで歩いて出勤中、ヘルメット姿の5、6人の男にハンマー、鉄パイプなどでおそわれ、両手両足骨折の重傷。翌日、中核派は「動労=カクマルへの正義の赤色テロである」と記載したビラを都内数カ所に巻き、犯行を自認。
7.1日、京大教養学部構内で内ゲバ。中核派8人が負傷した。
8.29日午前7時半頃、千葉県船橋市の路上で、東日本鉄道労連、・千葉支部副委員長が自転車で出勤途中、ヘルメット姿の数人の男で鉄パイプで襲われ、両手、両足、顎骨折の重傷。中核派が犯行を自認。 |
9月、成田空港反対同盟の二期用地内の4戸が北原派から離脱、小川派を結成。
【中核派対革マル派の抗争】 |
3.3日、中核派が、群馬県渋川市で革マル派且つ東日本旅客鉄道労組高崎地本委員長を就寝中を襲い死亡させた。 |
【革労協の内部抗争】 |
この頃から中核派と革マル派に関する内ゲバ事件自体は急速に減少する。それにかわって革労協の内部抗争が深刻になる。
6.25日、元革労協(狭間派)の最高幹部であり実質ナンバー2だった永井啓之(43歳)が襲撃され惨殺された。6.28日、革労協(狭間派)が都内で記者会見し、内部抗争であることを認め次のように発表した。
「わが党、同盟によって昨年除名、その後敵前逃亡し、加重処分の対象となっていた永井が、永井をめぐる組織防衛上の過程で肉体的に変調をきたし、放したが、その後、マスコミ報道によると死亡した」。 |
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6月、長野工場支部での松崎明:東労組委員長の公演。
「私は、過激派の革マルの役員もやってましたし、その前に共産党でもあったし、社会党員でもありました。自民党にだけはならなかったけれども、とにかく、いろんな経歴を歩んでおります。列車を止めるために精いっぱいの闘いをやった人間ですから、国鉄を悪くした紛れもない犯罪者の一人であるという自覚しているわけであります。ずいぶんいろんな方が『もういい加減なところで引いたほうがいいんじゃないか、
本当に命を狙われますよ』と言われます。私は、中核派などというけちな集団に命を狙われるなんていうことは、一回も思ったこがない」 (矢沢修太著『JR―歪んだ鉄路 「JR東日本」の不可解な労使関係』日新報道、1995年、p.97 4〜11行)。 |
7月、成田空港反対同盟熱田派の最大支援党派の戦旗共産同が熱田派と決別。
【中核派、革労協の革マル派襲撃】 |
9.1日、中核派が大阪、兵庫、埼玉の6ヶ所で、国鉄労組幹部宅を襲撃。この同時多発襲撃事件で、革マル派且つ真国労大阪地本書記長・前田正明(37歳)を兵庫県伊丹市で就寝中を襲い乱打死亡させた。夫人にも全身打撲の重傷を負わせた。他8人の組合幹部とその家族が重軽傷を負った。
当時、国鉄では、「分割・民営化」を支持する真国労・勤労・鉄労・全施労と、これに反対する中核派の対立が続いていた。中核派は5月に襲撃を予告していた。9.2日、警察は中核派の関西拠点を殺人未遂容疑で家宅捜索し、犯行を認めるビラや鉄パイプを押収した。
10.30日朝、ラッシュ時の赤羽駅構内で、出勤途中のJR東日本の職員が、鉄パイプやハンマーで襲われ、両足と頭蓋骨骨折などの重傷を負った。革労協狭間派は「反革命革マル…を徹底せん滅し、再起不可能状態を強制した…」などと犯行を自認。
12.2日、解放派が埼玉県大宮市の路上でJR総連総務部長を襲い、死亡させた。 |
11月、解放派最高幹部狭間嘉明が他のゲリラ事件などの容疑とともに逮捕された。同派では内部対立が深刻化。
11.7日、北海道帯広市で革労協の女性活動家が列車内で腹を切って死亡自殺した。
【赤軍派元議長の塩見氏が出所】 |
12.27日、赤軍派元議長塩見孝也氏が刑期満了で出所した。 |
これより後は、「1990年代の諸闘争」に記す。



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