第9章 戦後学生運動6期その1(1960年安保闘争後)、ブントの大混乱概略

 (最新見直し2008.9.11日)

 これより前は、「5期その3、60年安保闘争」に記す。

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、60年安保闘争後の学生運動史を概略する。これを仮に「戦後学生運動6期その1、ブントの大混乱概略」と命名する。詳論は「安保闘争総括をめぐって大混乱発生」に記し、ここではエポックな事件を採り上げ解析する。 

 安保闘争後、新たな動きが始まる事になった。日共系民青同は逸早く体制を建て直すが、宮顕指導への反発から構造改革派が分離する。革共同全国委は押せ押せに入り、第1次ブントに対し理論闘争を仕掛け呑み込もうとする。

 60年安保闘争で岸政権を退陣に追い込んだ第1次ブントはその成果を確認できず、60年安保闘争の総括を廻り三分裂、四分裂する。あろうことか、「黒寛・大川スパイ事件」で知る人ぞ知る凶状持ちの黒寛の指導する革共同全国委に雪崩れこむという痴態を見せ分解する。革共同全国委bQの本多氏の革命的情熱に魅せられた面が強かったと云う事情があったようであるが、今から思うに痛恨の極みであった。島・氏のブント再建の動きが垣間見られるが、もはや如何ともし難かった。


【民青同第6回大会】
 60年安保闘争後、日共が逸早くポスト安保後に向けて指針していることが注目される。その様はブントが満身創痍の中分裂を深めていくのと好対照である。民青同は、先の「第7回党大会第9回中委総」の新方針に基づき6.27−29日、「民青同第6回大会」を開催、「青年同盟の呼びかけ」と「規約」を採択し、民青同の基本的性格と任務を規定した。

【日共内で宮顕派対春日(庄)派が対立】
 ポスト安保後、日共内で宮顕派対春日(庄)派の全党規模と云う意味で最後となる党内抗争が演ぜられた。宮顕派がこれに勝利する事により絶対支配権を確立する。この経緯を確認しておく。

 この頃、日共内外から構造改革派が誕生する。この動きを見ておく。ここに至るまで、党内では宮顕派が起草した「党章草案」をめぐって春日(庄)グループが激しく反対していた。これを構造改革派という。構造改革派は、「党章草案」に見られた戦後日本の国家権力の性格規定においてのアメリカ帝国主義従属規定に対して、日本独占資本の復活を認めた上での日本独占資本主義国家または帝国主義の自立規定し、そこから当面の革命の性質を、「党章草案」的ブルジョア民主主義革命から始まる二段階革命論に対し、社会主義革命の一段階革命論を主張することにより党中央と対立した。

 興味深いことは、構造改革派の日本資本主義自律規定は、新左翼系の革共同・ブントとも同じ見方に立っていることであり、左派的な主張であったということにある。が、構造改革派の特徴は革命運動の進め方にあった。「現マル派」として結集しつつあった安東仁兵衛、藤昇、長洲一二、石堂清倫、井汲卓一、前野良、大橋周治、杉田正夫ら構造改革派のイデオローグたちはイタリアのトリアティの理論及びイタリアの共産党の構造改革の路線を紹介しつつ、反独占社会主義革命を目指すとし、現実的・具体的な展開として「平和・民主・独立・生活向上の為の闘争」へと向かうべきと主張した。

 即ち、「平和共存」時代における「一国社会主義」的「平和革命」的「議会主義」的革命運動を指針させようとしていたことになる。これが新政治路線として左翼ジャーナリズムをにぎわかしていくことになった。しかし、この路線は、見方によっては、この時点では「敵の出方論」を採用していた宮顕的党路線より右派的な革命路線を志向しようとしていたことになる。つまり、社会主義革命を指針させながら実際には体制内改革に向かうというヌエ的なところがあった。宮顕はこのちぐはぐを見逃さず、右派理論として一蹴していくことになった。

 こうした見解の分裂により、翌61年の第8回党大会に至る過程で春日(庄)ら構造改革派は除名され、集団離党していくことになる。その学生戦線として民青同の幹部が連動し分派を結成していくことになる。ちなみに、現在の日共路線とは、外皮を宮顕系の民族的民主主義革命から始まる二段階革命論で、中身を構造改革系の「平和・民主・独立・生活向上の為の闘争」に向かう「一国社会主義」的「平和革命」的「議会主義」的革命運動と連動させていることに特徴が認められる。これは、宮顕後の指導者・不破自身が若き日に構造改革系の論客であったことと関係していると云われている。

【宮顕派対春日(庄)派のブント評価の相違】
 宮顕派と春日(庄)派には60年安保闘争におけるブント全学連の評価問題が絡んでいた。春日(庄)らは、ブント的運動を宮顕系の言うようなトロツキストの跳ね上がりとはみなさず、党指導による取り込みないし共同戦線化を指針させていた節がある。

 宮顕系党中央は、ブント運動を次のように規定していた。
 「トロツキストは、その最大の目的が社会主義国の転覆と各国のマルクス・レーニン主義党−共産党の破壊にある。文字通りの反革命挑発者集団であり、また当然にわが国の民主運動の挑発的攪乱者である。彼らの極左的言動は彼らの本質を隠蔽するものに過ぎない。従って、トロツキストは民主運動から一掃さるべきであり、その政治的思想的粉砕は我が党だけでなく、民主運動全体の任務である」(日本共産党第7回党大会.14中総決議)。

 春日(庄)の動きに民青同系の指導幹部(黒羽純久、全自連議長・田村、等等力ら)が呼応し、「現代学生運動研究会」を組織し、3月に「現代の学生運動」なる書を公刊した。その中で、むしろ共産党の指導の誤りこそトロツキストを生みだした根源であると云う立場をとり、次のように批判している。

 概要「トロツキストは、いわば共産党の『鬼子』」であり、すなわち彼らの大部分は、共産党内部から共産党に愛想をつかし、あるいは『善意』と『革命的良心』をもって分かれていったのである」(現代学生運動研究会編「現代の学生運動」)。

 つまり、「60年安保闘争」における党中央の指針に疑義を表明し、ブント全学連急進主義派の戦闘的闘いを好意的に評価し対立したということになる。

 こうして、日共から見れば、左派系トロツキスト学生追いだしの後今また構造改革派学生からの反乱を受けることとなり、いそがしいことであった。いずれも指導部の造反であったことが注目される。この後、日共系は、構造改革派に握られた全自連の指導権回復に乗り出していくことになる。


【全学連第16回大会】
 7.4−7日、全学連第16回大会は三派に分かれて開催されることになった。この第16回大会こそ、全学連統一の最後のチャンスであった。運動論、革命論や安保闘争についての総括について意見がそれぞれ違っても、全学連という学生組織の統一機関としての機能を重視すれば賢明な対処が要求されていたものと思われるが、既に修復不可能であったようである。

 全学連主流派は、全学連第16回大会参加に当たって日共系都自連の解散を要求した。これに対し都自連を核とする反主流派は、1.都自連解散要求の撤回、2.第15回大会は無効である、3.8中執の罷免取消しを要求したようである。それらは拒否された。お互い相手が呑めない要求を突きつけていることが判る。こうして、全学連第15回臨時大会に続き反対派が閉め出されることになり、全学連の分裂が固定化していくことになった。

 こうして全学連第16回大会はブントと革共同全国委派だけの大会となった。大会では、それぞれの派閥の安保闘争総括論が繰り返され、もはや求心力を持たなかった。委員長に唐牛、書記長に北小路を選出した。「6.19以後の学生と労働者、人民の闘いは、日本帝国主義が安保にかけた二つの政治的目標−国際的威信の確立と国内政治支配の確立−を反対物に転化せしめたがゆえに安保闘争は政治的勝利をもたらした」と総括し、60年秋こそ決戦だとした。

【日共系の全学連離脱】
 日共系都自連は、全学連第16回大会参加を拒否された結果、自前の全学連組織を作っていくことになり、7.4−6日、全国学生自治会連絡会議(全自連)を結成した。全自連は、連絡センターとして代表委員会を選出し、教育大、早大第一文、東大教養学部、神戸大などの自治会代表が選ばれた。この流れが以降「安保反対、平和と民主主義を守る全学生連絡会議」(平民学連)となり、民青系全学連となる。ところが、この過程で、全自連指導部は前述した構造改革派の影響を受け、東京教育大学、早大、神戸大、大阪大などの指導的活動家等が呼応することになる。

 7.17日、全学連が、三池争議に350名の支援団派遣。


【ブント第5回大会でブント分裂】
 7.29日、ブント第5回大会が開催された。この大会は大混乱を極めた。60年安保闘争の評価を廻って、「ブント−社学同−全学連」内部で、安保条約の成立を阻止し得なかったことに対する指導部への責任追及の形での論争が華々しく行なわれた。論争は、この間のブント指導の急進主義的闘争をどう総括するのか、その闘争の指導のあり方や、革命理論をめぐっての複雑な対立へと発展していくこととなった。ブント書記長・島氏は燃え尽きており、次の世代に下駄を預けた。

 8.9日、この過程で指導部に亀裂が入り、東京のブント主流は三グループ(それぞれのグループの機関紙の名前をとって、革命の通達派、戦旗派、プロレタリア通信派)に分かれていくことになった。これについては、詳論「第一次ブント運動の分裂過程」で考察する。

 一番勇ましかったのが「革命の通達派」であった。東大派とも云われ、東大学生細胞の服部信司、星野中、長崎浩らによって構成されていた。8.14日、いわゆる星野理論と云われる「安保闘争の挫折と池田内閣の成立」を発表して、ブント政治局の方針を日和見主義であった、「もっと激しく闘うべきであった」として次のように攻撃した。
 概要「安保闘争の中で、現実に革命情勢が訪れていたのであり、安保闘争で岸政府打倒→政府危機→経済危機→革命という図式で、権力奪取のための闘いを果敢に提起すべきであった。ブントの行動をもっと徹底して深化すべきであったところ、政治局は階級決戦であった安保闘争を過小評価した故に日和見した」。

 この派は、9.26日に「革命の通達」を創刊したことにより「革命の通達派」と云われる。

 ブント式玉砕闘争を批判したのが戦旗派であった。労対派とも云われるが、森田実、田川和夫、守田典彦、西江孝之、陶山健一、倉石、佐藤祐、多田、鈴木、大瀬らが連なった。出獄後の唐牛委員長、社学同委員長篠原浩一郎もこの派に属すことになる。ブント的60年安保闘争を否定する立場に立ち、革共同的批判を受け入れ、「組織温存の観点が欠落した一揆主義であった」と総括した。この派は、8.11日に初会合をもち、戦旗誌上で革通派批判を開始した。このグループは「戦旗派」と云われる。

 「戦旗派」は、「革命の通達派」の主張を「主観主義」、「小ブル急進主義」と規定し、「革命の通達派的総括は前衛党建設を妨害する役割しか果たさない、マルクス主義とは縁のない思想だ」と反論した。60年安保闘争について次のように述べている。
 概要「この間のブント的指導は、安保闘争の中で前衛党の建設を忘れ、小ブル的感性に依拠した小ブル的再生産闘争であり、プチブル的運動でしかなかった。その根源はスターリニズムに何事かを期待する残滓的幻想にあり、本来は前衛党建設のための理論的思想的組織活動の強化を為すべきであった」。

 これらに対し、ブント全学連の栄光を死守しようとしたのがプロレタリア通信(プロ通派)派であった。全学連書記局派とも云われ、この派には、青木、北小路敏、清水丈夫、林紘義らが連なった。両者の中間的立場に立って「ブント=安保全学連の闘いは正当に評価されるべきだ」と主張した。9.14日、「プロレタリア通信」復刊第一号を出したことから、「プロ通派」と云われる。

 これについて、筆者はかく思う。ブント三派の内、60年安保闘争に果たしたブントの功績を確認するプロ通派の観点が至極真っ当だと思われるが、革命論的観点しか持たず、岸政権打倒の歴史的意義を捉え損ねていたので防戦を余儀なくされることになったのも止むを得まい。

 もとへ。こうして、第1次ブントは、安保闘争の総括を廻って大混乱し、「ブント−社学同−全学連」の分裂が必至となった。つまり、ブントは結成からわずか2年で空中分解することになったという訳である。結局ブントは、綱領も作らぬまま、革命党として必須の労働者の組織化にほとんど取り組まないうちに崩壊したことになる。60年始め頃から露呈し始めていたブントの思想的理論的組織的限界の帰結でもあった。

 とはいえ、明大や中大ブントは分裂せずに独自の道を歩んだ。東京ブントは分裂模様を見せたが、「関西ブント−社学同」は独自の安保総括を獲得して大きな分裂には至らなかった。この流れが後の第二次ブント再建の中心となる。ここまでの軌跡を第一次ブントと云う。
 10.8日、都学連第22回大会で、革通派が主導権を掌握するかに見えたが、下部代議員多数派を獲得しながらも執行部段階でプロ通派に一票差で敗れ、大会は流会となって、大きく後退していった。池田内閣打倒闘争の敗北以後、方針と展望を全く失って実践的に破産して行くことになる。

【社青同誕生】
 10.15日、社会党の青年運動組織として社会主義青年同盟(社青同)が結成された。遅まきながら社会党は、日共の民青同育成方針にならってこのポスト安保直後の時点で自前の青年運動創出の必要を党議決定し、誕生させたということになる。

 社青同は、同盟の性格と任務として「独占資本の攻撃に対する統一政策、政治路線、組織路線を明らかにし、活動家の大同団結による青年の強大な戦線をつくり、指導する青年同盟」とし、「労働青年を中心に各層青年の先進的活動家の結集体」、「すぐれた活動家の個人加盟組織」、「日本の社会主義革命の勝利の為に闘う政治的実戦部隊」とする階級的な青年運動を志向していた。

 特徴的なのは社会党との関係であり、次のように位置づけていた。
 概要「一応社会党から独立した組織とし、現在の社会党に対しては批判はあるが、これを支持し、社会党との間に正式に協議会を持ち、社会党大会には支持団体として代議員を送る」。

 つまり、日共と民青同との関係ほどには統制しない緩やかな組織結合を目指したということになる。この社青同はこの後社会党内の左派的潮流を形成していくことになる。ブント運動の花粉が意外なところに運ばれ結実したとも考えられる。

【池田政権】

 安保闘争で岸内閣が打倒された。7.15日、第二次岸内閣が総辞職し、7.19日、第一次池田内閣が成立した。池田内閣は、9.5日、「所得倍増政策」発表、12.8日、第二次池田内閣を成立させ、12.27日、閣議で国民所得倍増計画を決定し、いわゆる高度経済成長時代へ舵を切った。

 これについて、筆者はかく思う。見落とされがちであるが、日本左派運動は、この時期戦後保守本流を形成する自民党内ハト派の評価と、その経済政策即ち高度経済成長路線に対し理論的考察を懈怠している。それは、戦後日本のプレ社会主義性論を創造できず、ステロタイプな資本主義論、帝国主義論の枠組みの中でしか評論できない悪しき習性によっていたのではなかろうか。

 事実は、池田内閣の高度経済成長路線は、戦後日本のプレ社会主義性を踏まえた、その合法則的施策ではなかったか。戦後政府与党を担う自民党内はハト派とタカ派の寄り合い世帯であり、タカ派の岸内閣が打倒された間隙を縫ってハト派の池田内閣が誕生し、池田政権はその期待に応えたのではなかったか。

 人民大衆は、この池田内閣の高度経済成長路線の人民主義的本質を見抜き、「親方日の丸」式一億一心的官民協力体制に邁進していく事になった。考えようによれば、これを支持するグループこそ日本式土着型の社会主義者であったかも知れず、ステロタイプな理論を弄び体制打倒を叫び戦後日本のプレ社会主義性を否定する面々こそ単なる字面追い自称社会主義者にして本質保守であったかも知れない、と云う皮肉な現象が生まれることになった。


 これより後は、「6期その2、マル学同全学連の確立 」に記す。



(私論.私見)