【党派間ゲバルト考概略】 |
(最新見直し2008.9.11日)
(れんだいこのショートメッセージ) | |
ここで、連合赤軍事件と並んで1970年以降の戦後左派運動に否定的影響を与えた党派間ゲバルト事件及びその総括を概略する。詳論は「別章【左派運動の再生の為に】」の「別章【党派間ゲバルト考】」に記し、ここではエポックな事件を採り上げ解析する。 党派間ゲバルトは、文字通りの党派内の内ゲバと党派間ゲバルトに分かれる。筆者は、党派間ゲバルトは厳密な意味では内ゲバと云わないと思われるので別表記している。ここでは内ゲバの考察はさておき、党派間ゲバルトを考察する。 「検証内ゲバ」(社会批評社、2001.11.25日初版)は次のように記している。
この観点が、内ゲバ、党派間ゲバルト問題の一般的捉え方だと思う。筆者は、これを踏まえつつ新たな視点を提起してみたい。 2008.9.11日 れんだいこ拝 |
【党派間ゲバルト発生史寸評】 | |
左派運動圏に於けるゲバルトの発生事情を確認する。詳論は「党派間ゲバルト」発生の土壌について」に記す。 一般に党派間の抗争は政治というものそのものに根ざした本質的なものであり、運動発展のエネルギーであるとも云える。但し、暴力的抗争が「戦争状態」まで定向進化するのは比較的稀であろう。と云うか異常と認識すべきではなかろうか。こうした事態が、革マル派対中核派、革マル派対社青同解放派の党派間ゲバルトに立ち現われた。これを俎上に乗せ、「特殊日本的な党派間ゲバルト性」を考察してみたい。 「特殊日本的な党派間ゲバルト」としたが、世界でもこれが普通なのかも知れない。その辺りの知識が無いので「特殊日本的な党派間ゲバルト」としておくことにする。「特殊日本的な党派間ゲバルト」に特徴的なことは、フランス革命、ロシア十月革命のような旧権力打倒の為に行使されたものではないということである。中国の国共内戦のように新権力創出の為の党派抗争として行使されたものでもないということである。よしんば、そのような目標があったにせよ、前々段階的な情況の中での左派運動内のイニシアチブを廻る闘争過程に発生し、運動全体の展望から離れて自己目的化したあるいはさせられた、という矮小性であろう。 この「戦争」を担った当人達の意志は別にして、「特殊日本的な党派間ゲバルト」が与えた影響は深刻なものであった。対権力闘争に共同して立ち向かうのではなく、同じ左派圏内の仲間内同士で殺傷し合う異常性が幻滅を与え、ひいては左派運動自体の信用を毀損した。連合赤軍内に発生したリンチ事件の衝撃とあいまって、その後の青年学生運動に致命的な打撃を与え、左派運動を退潮させていく主原因となった。 しかし、これは一般的評論に過ぎず、その原因を追究せねば学問したことにはならない。「どっちもどっち論」で両者成敗するのは一見公平そうであるが、実践的には何の役にも立たない。立花隆氏の「中核VS革マル」はこの例で、一見公正中立そうでその観点は「どっちもどっち」論であり、この客観主義評論で「内ゲバ」の経過を明らかにしたに過ぎない。資料的な面は別にして実践的には何の役にも立っておらず、むしろ有害無益な役割しか果たさなかったのではないのか、というのが筆者の観点である。立花の胡散臭さについては「立花隆の研究」で考察する。 この種のゲバルト遠因を訪ねるのは割愛するとして、党派間ゲバルトを助長媒介する理論を確認しておきたい。筆者は、「特殊日本的な党派間ゲバルト」の遠因にあったものとして、「宮顕式排除の論理」と「黒寛式他党派解体路線」と「ブント式暴力路線」を槍玉に挙げたい。 党派間の抗争として記録されている暴力の行使は、1961年の全学連第17回大会に於けるマル学同とつるや連合(旧ブント-社学同、革共同関西派、社青同)の抗争で記録されている。この時より角材が使用されている。これを、従来の革命的暴力の「即自的段階」を「対自的段階」へと定向的進化させたものと見なしたい。 1963.9月、清水谷乱闘事件が発生している。清水谷公園で、連合4派(中核派、社学同、社青同解放派、構造改革派)250名が集会しているところへ、革マル派150名が押しかけ、角材で渡り合う乱闘事態となった。これは「革命的暴力の対自的段階」と見なせるかも知れない。 1964.7月、早大構内に集まっていた革マル派に対して、中核派、社学同、社青同、構改派(フロント)各派の連合勢力が、ヘルメットに身を固め、棍棒と石をもって夜襲の殴りこみをかけ、3時間の激闘が展開された。これを「7.2事件」という。これは、「革命的暴力の向自的段階への定向的進化」とみなせるのではなかろうか。 1968.6月、日比谷野音で「ベトナム反戦青年学生決起集会」が開かれたが、中核派対「革マル派-社青同解放派連合」という構図での乱闘騒ぎが起こる。以降、全国反戦は以降完全に分裂、三派全学連も実質的に解体することとなった。これは、「革命的暴力の向自的段階」とみなせるのではなかろうか。 だが、ここまでは辛うじて「革命的暴力の歯止め」がかかっていた。これを踏み外したのは、1969.5月、早大に於ける革マル派の社青同解放派叩き出しからではなかろうか。早大全共闘と革マル派が抗争し、相互に監禁リンチ事件を発生させている。早大全共闘のイニシアチブは政経学部を拠点とする社青同解放派であった。その早大社青同解放派の主要幹部が次々とテロられて行き、かくして早大社青同解放派がキャンパスから放逐されることになった。以降早大キャンパスには、革マル派の日常的パトロール隊の監視により、社青同解放派はむろんのこと急進主義系諸派は一歩も構内へ入れないという事態が続いていくことになる。 1969.11月、東大闘争裁判支援の抗議集会(日比谷野音)で、半数を占めた革マルと他派がゲバルトを起こし革マル派が武力制圧した。中核派は、革マル派との内ゲバに敗退したことを重視し、反戦労働者をも巻き込みつつ反撃体制を構築していくことになった。これは、「革命的暴力の出藍的段階への定向的進化」とみなせるのではなかろうか。 12.14日、糟谷君人民葬でも、これに参加しようとした革マルと認めない中核派間にゲバルトが発生した。翌12.15日、中核派は革マル派を「武装反革命集団=第二民青」と規定し、殲滅宣言を出したことで対立が決定的になる。 この頃から革マル派の社青同解放派、中核派に対する公然ゲバルトが始まり、大きく全共闘運動を混乱させることになった。これは、「革命的暴力の出藍的段階への更なる定向的進化」とみなせるのではなかろうか。 付言すれば、左派運動内に許容されるのは、創価学会式の釈伏的理論闘争であり、それならむしろ歓迎すべきことではなかろうか。理論闘争が理論闘争に止まらず物理的な抑圧、排除、解体闘争へと進化されるならば、そこに大いなる飛躍を認めねばならない。そのような権限は誰からも与えられて居らず、にも拘わらずそのような如意棒を意図的故意に振り回す輩には疑惑を持って観ぜねばならないのではなかろうか。日本左派運動にはこの観点が欠落し過ぎている。 この種の分析は史実に基いたほうが分かり易い。社青同解放派、中核派は、68-69年闘争の経過で、近づく「70年安保決戦」の前哨戦に我先にと鎬を削りながら総力戦で向かい、激しい武闘を連続させ多数の逮捕者を出し組織力を弱めていた。特に中核派の逮捕者が多く、11月闘争で更に多数の逮捕者を出していた。逆に革マル派は組織温存的運動指針によりそれほど逮捕者を出さなかったために相対的に組織力が強化されたことになっていた。 こうした力学関係に立って、この頃革マル派の党利党略的な動きが際立ち始め、70年安保闘争目前にして公然ゲバルト時代が幕開けした。70年安保決戦を目前にして、革マル派の動きが他党派解体路線を満展開し始めたということであるが、これを疑惑しないとすれば、世の中の殆どが許されよう。これを訝らず単に並列で見過ごそうとする論者が幅を利かせているが全く解せない。訝らないほうがオカシイのではなかろうか。 かくて、69.12月時点で、革マル派と社青同解放派、革マル派と中核派との公然ゲバルト時代が幕開けした。明らかに「革命的暴力の新質的段階への転化」時代であり、従来の質レベルは出藍されていた。それまでの自治会執行部の掌握を廻ってあるいは闘争方針の正邪を廻って小競り合いする段階から、対権力闘争とは別個の地平で党派と党派がお互いの存亡を賭けて相手党派の絶滅を期す時代へ狼煙を挙げたことになる。 この公然ゲバルト時代の幕開けが、大きく全共闘運動を混乱させることになった。社青同解放派、中核派両派は、70年安保闘争に向かうエネルギーを急遽対革マル派とのゲバルトにも費消せねばならないことになった。全共闘運動と民青同の抗争は折り込み済みであったと思われるが、この革マル派による公然ゲバルト闘争化は不意をつかれた形になった。 このことをれんだいこは、「戦後学生運動考」の中で次のように記している。
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【党派間戦争史寸評】 |
1970.8月、70年安保闘争後の流動局面の情勢下で、「中核派による東教大生・革マル派の海老原俊夫氏リンチ死亡事件」と云う党派間ゲバルト史を画期する中核派による革マル派活動家リンチ死亡事件が発生した。両派の抗争の根は深くいずれこのような事態の発生が予想されてはいたものの、中核派の方から従来のゲバルトの一線を越した死に至らしめるリンチ・テロによる殺人事件という歴史的事実が記録されることになった。 革マル派は直ちに中核派に対する報復行動に入った。事件の数日後、中核派に変装した革マル派数十名が法政大に侵入し、中核派学生を襲撃捕捉し十数人に残忍なテロを加えた。この間法政大キャンパスでは、海老原君の遺影を飾る糾弾集会が行われていた。以降、やられたりやり返す際限のないゲバルトとテロが両派を襲い、憎悪は怨念と化してエスカレートしていくに連れ有能な活動家が次々と失われていくことになった。 こうして、日本左派運動史上類例の無い「相手党派の絶滅解体闘争」が本格的に開始された。中核派対革マル派戦として始まったが社青同解放派もこれに巻き込まれ、同派の場合更に分派間でも同様のゲバルトとテロを展開していくことになる。その経過に付き詳論「党派間ゲバルトの経過と実態考」に記す。 |
【党派間ゲバルト出藍考】 | ||||||||||||
ここで、党派間ゲバルト問題を考察する。この考察の詳論は「党派間ゲバルト問題考察の意義」に記す。いきなり結論から入りたい。筆者は、「同一党派内ゲバルト=内ゲバ」は良くない論ではなく、起こさせてはならない論づくりに向かうことに意義を持たせている。内ゲバの場合は、組織論で解決し得ることであり、それは規約に結晶させるべきだと考えている。「党派間ゲバルト問題」の場合は、これを党派闘争の環の中に位置付け、左派憲章的に獲得すべき課題であると観る。せめてここまで漕ぎ着けることが、残された者達の責任であり、犠牲者達への供養であろう。 では、「党派間ゲバルト抑止の為の左派憲章」をどのように文言すべきか。以下、簡潔平明な処方箋を示したい。なぜなら、難しく長たらしいのは困るから。
左派憲章の確立を何故急ぐか。直接的には、我が左派運動から有能な人士が次々と戦線離脱させられていくのが忍びないからである。一刻も早く、この不毛の悪循環から解き放ち、活動家としての本来の有能な働きをさせたい、互いに僅かばかりの人生をこんなところで費消させたくないと思うからである。 次に、この「党派間ゲバルト」に我関せず的に立ち回る「俗流民主主義論」の非を明らかにしたい為である。そういう連中の論の俗流無益振りを露わにすることにより党派間ゲバルトの真の解決に向かわせたい為である。 「俗流民主主義論者の論」に思うことは、民主主義」内容が極めて曖昧模糊に語られ過ぎていないかと云うことである。それを護ると云っても、内容が明らかでないものをどうやって護るというのだろう。筆者の観点によれば、民主主義とは、1・政治理念としてのそれと、2・具体的に制度化したそれと、3・その際の手続き的なそれという風に三項分類できるように思われる。見落とされがちなのは、「3・手続き的な民主主義」の項であり、これまでの左派運動はここの弁えに対してからきし貧困であるように思える。 民主主義の内容を整理するのに仮に、「人の生活地場において個々人の自由・自主・自律を重んじて極力統制を控える観点(仮に、「自律民主主義」と云う)からのそれと、統制と対照的に相互に自由・自主・自律を最大限に保障し合う為に必要な合理的規制(仮に、「規制民主主義」と云う)とを集合する理念であり、制度であり、手続きでもある一連の政治的経済的文化的システム」と定義すれば、我々がこのシステムを却下することは有り得て良い訳が無い。 ブルジョア民主主義と云い為そうがプロレタリア民主主義と云い為そうが、競ってでも可能な限り社会全域にこの作風を広め、制度を更に精査し、より実質的に担保されるよう獲得せしめたいところのものであることは自明であろう。更に云えば、このことを無視するような左派運動が為されるのならそんなものは全く意味が無い。俗に、クソ喰らえと云う。 ところで、歴史的に見て、民主主義は闘い取られるものであり、維持するのにもエネルギーを費やさねばいつでも形骸化させられてしまう。そういう弱さが有るが、振り子のように常にここに立ち戻るという強さもある、そういうものではなかろうか。民主主義がそのようなものであることを忘れて、これを一面的にその意義を軽視してみたり、闘い取る地平で初めて維持されることを見ないのはどちらもオカシイ。付言すれば、当節及び腰な姿勢のままに当り障り聞こえの良い「民主主義一般を形式的に論議する風潮」はつまらない。 云える事は、個々の運動体が民主主義のかような原理を弁え掌中にしてこそ「実体としての民主主義」を生み出しえるのではなかろうか、ということである。民主主義にはそれを培養する土壌が不可欠である。その土壌作りを放棄して何の民主主義論ぞと問いたい訳である。民主主義を護るも進むも攻めるも、運動圏にあっては誰が友であり破壊者であるか識別し、友とは共同し破壊者達に対してはこれまた共同して排斥する能力をまずもって獲得するところからしか道は拓けない。その際御身安泰主義は処世方便としては許されても、「党派間ゲバルト」に我関せずを吹聴して得意がるとか、常に巣篭もりしたまま一般論を云うのは駄弁家でしかなかろう。 「党派間ゲバルト」に関する左派綱領を創り、これを破るものには共同で立ち向かうしかない。筆者は、このことを強く主張したい。補足すれば、友の内部での異論、見解・運動手法の相違、反対派活動それらは最大限認められ、というか不可避であると認識した上で共同すべきだろう。「異端、分派」の発生は当然認められるべきで、かといってそれによって互いが排斥しあうことではなかろう。ここが分からないようでは、狭量主義に陥っていることになるだろう。具体的に生起した事件の中から教訓的な手引きを生み出し、不断にこれに準拠していくという作法が望まれているであろう。 このことを踏まえた上で、「平時の論理と戦時の論理」を構築することが望まれている。「戦時の論理」は期限付きの特殊と見なした上で(あるいは逆に戦時が通常で平時が特殊なのかも知れないが)、これを受け入れていく以外に闘いは勝利しない。人類はこの不条理から抜け出せる叡智を未だ獲得し得ていない。このことが分からない者は饒舌家でしかない。してみれば、戦前戦中戦後今日までの左派運動の歴史には、こうしたところの理論的解明が立ち遅れたままの実践運動で推移してきているという負の遺産の只中にあるのではなかろうか。 そうはいっても、世に完璧な理論を創出することは困難であろう。こうした際に肝要な事はひとえに、手探りでも味方と敵を峻別しつつ運動を担っていくことだろう。運動圏における「赤い心」と「白い心」の共同なぞありはしない、この観点の確立こそが最初に望まれているのではなかろうか。 では、「赤い心」と「白い心」の識別をどこで為すのか。それが肝心だ。この識別に叡智が無ければ、一方的なプロパガンダによるナチス(正確には、ネオ・シオニズム)ばりの嘘も百万弁繰り返せば真実になる式の暴力的な規定が罷り通ってしまう。 これを阻止する際の基準として、その為に歴史が有り、史実の経過というものがある、と云っておきたい。つまり、常に「歩み」を記録し、この記述の観点を廻って喧喧諤諤せよ、ということになる。これは、左派運動を真面目に考える者なら当然依拠すべき観点ではなかろうか。むしろ、この観点が弱すぎるから、史上左翼運動は数少ない建国革命の例を残すばかりで他は殆ど実を結ばなかった、とも云えるのではなかろうか。 従って、「組織の歴史、歩み」を軽視したり隠蔽したり欺瞞的に詐術する者が現われたら、我々はこれを断じて許してはならない。「赤い心」と「白い心」の識別が難しい場合には、常にここへ立ち返れば良い。不正な者は常に極力史実を隠蔽したがる。公明正大な者はいつもこれを学びたがる。という観点に照らすと、今我々の目にどのような党派が史実の叙述に対して懸命賢明に取り組んでいるだろうか。案外とサブいものがあるのではなかろうか。ちなみに、この観点は何も左派分析の際のみならず事象全般に通用する公理である。 |
(私論.私見)