戦後学生運動 9期その3、70年代後半期の諸闘争

 (最新見直し2006.10.15日)

 これより前は、第9期その1、70年安保闘争とその後に記す。

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、1975年から1979年までの学生運動史を概括する。これを仮に「戦後学生運動 9期その3、1976年より1979年までの諸闘争概略」と命名する。詳細は「戦後学生運動の考察/70年代の学生運動(1975−79)」に記す。

 この時期よりほぼ完全に政治闘争が行われなくなる。「党派間ゲバルト」と日本赤軍のテロ事件のみが残ったという時代に入り、この両者も次第に収束する事により政治闘争そのものが社会から消えて行くことになる。


【1976年の動き】 「戦後史76年当時」

 2.23日、三里塚現地総決起集会。


 3.2日、北海道庁爆破、死者2名、負傷者74名。反日武装戦線犯行声明。

 4.28日、沖縄デー。


 5.23日、狭山差別裁判勝利中央統一集会。


 7月、日共が異例の第13回臨時党大会を開き、ロッキード事件の徹底追及を申し合わせた。「自由と民主主義宣言」。


 7.27日、田中が為替法違反、受託収賄罪で東京地検特捜部に逮捕された。


 10.21日、国際反戦デー。


 12.17日、三木が辞任表明。総選挙敗北。12.24日、福田内閣発足。
【1977年の動き】 「戦後史77年当時」

 2.11日、革労協書記局長で解放派筆頭総務委員・中原一こと笠原正義氏が、茨城県取手駅付近で革マル派に襲われた。車に乗っていたところを乗用車に挟み撃ちされ、降りてきた6名に鉄パイプでメッタ打ちにされて翌12日頭蓋骨骨折で死亡した。事件後革命マル派は次のように声明した。

 「革労協の最高指導者である中原一に対して、革命的鉄槌を下した。これはあくまでも、我々労働者、学生への彼らの反階級的な襲撃を未然に防ぐための防衛的戦いである」。

 これに対し解放派は、「2.11反革命をとおして、わが革労協と反革命革マル派とは、彼我いずれかの絶滅をもってのみ決着のつく不可逆的な『戦争』関係に突入した」と声明し、中核派をも凌ぐ対革マル派戦争の前面に踊り出ることとなった。


 4.15日、解放派が、埼玉県浦和市内で、革マル派4名焼死させる。4.17日、革労協活動家が犯行声明を出す。「革マル政治局員藤原隆義ら4人を打倒!2.11中原同志暗殺に対する怒りの革命的テロル炸裂!更に、すさまじい革命的テロルの猛攻を黒田ら反革命頭目の頭上に」。


 4.17日、三里塚、空港粉砕・鉄塔死守・仮処分粉砕・全国総決起集会に2万3千名結集しデモ。


 5.6日、三里塚強制代執行。反対同盟と支援学生らが抗議集会とデモ。ゲリラ攻撃。5.8日、三里塚、千代田農協前の抗議集会。機動隊のガス銃により東山薫・氏が二日後に死亡。5.9日、三里塚、柴山町長宅火炎瓶攻撃。21日に機動隊員1名ね死亡。5.29日、三里塚、反対同盟が、革マル派に対し成田闘争からの追放を宣言。


 7.23日、文部省は新学習指導要領で、君が代を国歌と規定、告示した。


 8.10日、狭山差別裁判、最高裁上告を棄却。無期懲役の判決が確定。8.23日、狭山差別裁判勝利総決起集会。


 9.28日、丸岡.和光.佐々木.坂東.戸平の5名の赤軍メンバーが、パリ発東京行き日航機をインド.ポンペイ上空でハイジャック。ヨルダンで拘置中自殺したとされる日高の虐殺への抗議と日本へ強制送還された奥平純三の奪還を目指したものだった。日本政府の「超法規的措置」により奥平.元赤軍派城崎勉.東アジア武装戦線大道寺あや子、浴田由起子、一般無期懲役囚泉水博、懲役10年の刑を受けて控訴中の殺人犯仁平映らが釈放された。泉水.仁平は、獄中で待遇改善要求闘争などを展開している「獄中者組合」のメンバーであった。バングラデシュのダッカ空港で獄中犯6人と身代金600万ドルを日本政府から奪取、6日間の飛行ののちアルジェリアで人質全員を釈放。

 10.9日、三里塚空港粉砕、ジェット燃料輸送阻止集会に2万2千名参加。


 10.24−30日、日共が、第10回党大会を開く。

 12.17日、三里塚、第一期工区内の小泉英政氏所有の農地を強制収用。


【1978年の動き】 「戦後史78年当時」

 1.27日、解放派は、「2.11反革命一周年決戦へ全党全軍総決起」をうたい、勝田市.水戸市などの茨城県下で革マル派3名を殺害、3名に重症を負わせた。


 78年以降、党派間ゲバは中核、解放両派の革マル派への熾烈な復讐戦として、一方的に、革マル派の死者が増加する。が、81年以降、次第にそれも減少の方向に向かってきた。それまでの死者の合計80人のうち中核派による革マル派の殺害43名、解放派の革マル派殺害22名、革マル派の中核、解放両派殺害14名、その他1名である。


 2.6日、三里塚、横堀、要塞攻防戦。二日間にわたる激闘。45名逮捕。


 3.26日、開港予定日を4日後に控えた成田空港の管制塔に第四インターなどのゲリラ部隊が突入、三里塚空港内に地下排水溝から侵入、管制塔内部を破壊、開港を二ヶ月遅らせる。3.30日、開港延期。


 5.20日、成田空港開港。中核派が、東京航空管制部の通信ケーブル切断。


 6.21日、防衛庁が有事防衛研究着手を表明。 


 6月、ベトナムがカンボジアに侵入。


 7.2日、三里塚「7.2飛行阻止総決起集会」に5200名参加。深夜までゲリラ攻撃、58名逮捕される。


8月、中国がベトナムに侵入。


 8.12日、日中平和条約調印。


 9.2−3日、中核派が大阪、神戸、岡山、鳥取で同時多発ゲリラ。


 8.17日、三里塚「百日闘争」現地に7200名結集しデモ。


 10.23日、日中平和友好条約の締結。1972年に田中内閣で成し遂げられた日中国交回復の総仕上げとなった。ケ小平中国副首相がやってきた。


 12.7日、第一次大平内閣発足。竹下登衆院予算委員長。大平首相の政治哲学が次の様に明かされている。「政(まつりごと)は小魚を煮るが如し」。「政治は小魚を丁寧に煮る慎重さがなければいけない。ともすれば、丁寧に政治をする部分が欠けることになる。自戒せねばならない」。


 12.11日、米中国交正常化。


 袴田里見除名。


 78年以降、党派間ゲバは中核、解放両派の革マル派への熾烈な復讐戦として、一方的に、革マル派の死者が増加する。が、81年以降、次第にそれも減少の方向に向かってきた。それまでの死者の合計80人のうち中核派による革マル派の殺害43名、解放派の革マル派殺害22名、革マル派の中核、解放両派殺害14名、その他1名である。


【1979年の動き】 「戦後史79年当時」

 1.1日、米中が国交回復。米は台湾と断行、相互防衛条約を破棄。


 3.25日、三里塚「管制塔突入1周年、二期工事阻止」に6100名参加。


 3月、連合赤軍分離公判組の吉野雅邦と事件当時の少年に対しては無期懲役と懲役13年の判決が言い渡された。


 3月、赤軍派(プロ革)分裂。塩見グループが「日本社会科学研究所(マルクス・レーニン主義・毛沢東思想)」を結成。


 4.11日、革マル派280名と革労協260名が、総評主催の「全国青年労働者層決起集会」会場でゲバルト。


 5.20日、三里塚「開港阻止闘争1周年現地総決起集会」に8800名参加。


 5.23日、狭山差別裁判「狭山再審要求総決起集会」に1万8千名参加、38名逮捕される。


 6.28日、東京サミットが元赤坂の迎賓館で開幕。出席者の顔ぶれは、カーター米大統領、ジスカールデスタン仏大統領、シュミット英首相、アンドレオッティ伊首相、クラーク加首相、ジェンキンスEC委員長。


 7.17日、防衛庁が防衛力整備五ヵ年計画を発表した。問題は、国防会議や閣議決定を経る事無く決定.発表されたことにあつた。


 9月、労共委(怒涛派)が日共(ML)を統合した。 


 10.30日、革労協が、10.31狭山集会の前段闘争で検察庁合同庁舎へ火炎放射器でゲリラ攻撃。


 11.2日、戸村一作成田空港反対同盟委員長死亡。


 11.16日午後7時10分頃、新宿区愛住町の外苑東通り路上で、若い男2人が10数人のグループに取り囲まれ、大型ハンマーや鉄パイプで全身メッタ打ちにされ、1人が死亡、もう1人も翌日病院で亡くなった。襲ったグループはトラックで逃走、トラックは2km離れた新宿6丁目に乗り捨てられていた。これは10月に横浜市内で盗まれた車両だった。死亡したのは横浜国大教育学部S(26歳)、北大生K(26歳)。所持品などから革マル派の活動家とわかった。


 11.19日、第二次大平内閣発足。竹下登蔵相。


 12月、ソ連がアフガニスタンに侵入。


 これより後は、「第10期その1、戦後学生運動の考察/80年代の学生運動に記す。





(私論.私見)