第1章 | 戦後学生運動1期(1945終戦直後−49年)、全学連結成とその発展概略 |
(最新見直し2008.9.11日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、戦後直後から1949年までの学生運動史論を概略する。これを仮に「戦後学生運動1期、全学連結成とその発展概略」と命名する。詳論は「戦後初期から(日共単一系)全学連結成とその発展」に記し、ここではエポックな事件を採り上げ解析する。 1945.8.15日敗戦より2ヵ月後の10.4日、GHQ指令「政治犯を10月10日までに釈放せよ」により10.10日前後、獄中共産党員、天理教系ほんみち派らが釈放される。党員は直ちに戦前来抑圧され続けてきた共産党を再建する。これを主導的に指導したのが徳球であり、徳球−志賀体制、徳球−野坂体制、徳球−伊藤律体制へと変遷していくことになる。 戦後学生運動は再建された共産党の指導下で創出され、以降向自的発展を遂げる。この間の党中央は、1947年の2.1ゼネストを勝利的に押し進めるも、寸前のところでGHQ指令により中止を余儀なくされる。続いて社共合同運動が始まり政権取りに向かうが、1949年の9月革命に失敗し、ここで戦後革命が最終的に流産する。戦後学生運動は、この流れに照応している。 |
【戦後ルネサンスの息吹】 |
1945−46年のこの期は戦後学生運動の端緒期であり、戦後民主主義時代のスタートに立って薫風香る自治会活動を基盤として全学連が結成されていった時期となる。戦後の学制は、格別「大学の自治」を尊重した。戦前の軍部の介入に対する苦い経験を反省して獲得したとも云えようが、特別闘い取ったと云う訳では無いので、初期GHQの対日政策の一環としてもたらされた措置であったと見なすべきだろう。 戦後の学制は、学生に対して、当時の米国教育学の権威であるデューイ的指導に基くと思われる「学生に対する民主的且つ社会性の育成」、「学生生活の向上や課外活動の充実をはかる」という大学教育の一環として「学生自治会」を用意していた。この時点でのアメリカは、相対的ではあるが今日の時点から思えばよほど民主主義的且つ健全で、いわゆるアメリカン民主主義が罷り通るに値するものを保持していた。 そのアメリカはその後ネオ・シオニズム(これについては別途言及する)に深く汚染される度合いに応じて病んで行き、2008年現在今日あるが如くある。但し、第二次世界大戦直後のこの時代に於いてはまだしも「民主主義の盟主」的度量が在った。こう考える必要があるように思われる。 そのはるけき良き時代のルネサンス気風を継承したキリスト教的社会観に基くアメリカン民主主義の理念が戦後日本に移植され、戦後憲法に結実したと思えばよい。こうして各大学とも、学校側が各種の便宜を与えて、学生全員を自治会に加入させ、自治会費を徴収し、その運営につき学生に自主的運営に任すこととなった。 しかしそれはつまり、学生全員加入制による前納徴収会費が自治会執行部に任されることになったことを意味する。これはこういって良ければ一種の利権であり、この後今日まで各党派が血眼になって各大学の自治会執行部を押さえるのかをめぐって対立していくことと関連することになる。 戦後当初の学生運動は、この新憲法秩序の下で、「戦後民主主義の称揚と既得権化」を目指して学園内外の民主主義的諸改革と学生の基本的権利をめぐっての諸要求運動を担っていくことになった。歌声、フォークダンス、スポーツ、レクリェーションなど学生生活エンジョイ的な趣味的活動から、生活と権利の要求や学習活動、平和と民主主義に関する政治的活動まで取り込んだ幅広い活動が生まれた。こうした運動は後に「ポツダム自治会運動」として揶揄されていくことになる。 これについて、筆者はかく思う。政治的意識の培養が一朝一夕には為されずステップ・バイ・ステップで高められていくことを思えば、こうした運動自体は否定されるべきことではなく、契機づくりとしては必要必然なプロセスではないかと思われるがいかがなものであろうか。 問題は、傲慢不遜に否定するものではなく、そこから弁証法的に出藍していくのが望まれているのであり、「戦後民主主義の称揚と既得権化運動」はその際の培養土のようなものとして重視されるべきではなかろうか。史実はそう向かわず、急進派は「戦後民主主義の称揚と既得権化運動の否定的革命主義運動」に向かって行くことになる。しかしそれは培養土を否定する分それだけ先細りの急進主義運動に陥る危険性がある。こういう観点はいかがだろうか。 |
【戦後直後の学生運動】 |
戦後当初の学生運動は、「戦後民主主義」の称揚と既得権化を目指して学園内外の民主主義的改革と学生の基本的権利をめぐっての諸要求運動を担っていくことになった。「平和と民主主義、より良き学生生活の為」の見地から、歌声、フォークダンス、スポーツ、レクリェーションなど趣味的活動から、生活と権利の要求や学習活動、トピックスな政治課題に関する政治的諸活動が取り組まれた。 |
【東大新人会運動】 |
1947.9月、東大で、戦前の新人会の「再建」活動が始められた。これを推進したのが通称ナベツネ(後の読売新聞社長渡辺恒雄)派であった。ナベツネらの動きは、労働戦線での右派的新潮流のちの社会党系総評につながる民主化同盟の動きと連動していた。青年共産同盟(現在の民主青年同盟の前身)の強化を呼びかける党中央の方針に反対し穏和系運動の創出を図った。ナベツネは、その活動資金5千円を戦前の転向組にして戦後は反党活動を職業にしていたことで有名な三田村四郎から受け取っていた。 ナベツネらの活動は、当時各分野で巻き起こりつつあった「モダニズム」と関連していた。「モダニズム」とは、この当時経済理論における大塚史学、文学理論での近代主義、哲学戦線での主体性論など各分野で硬直的なマルクス主義からの解放が生み出されつつあり、これを擁護するイデオロギーとして跋扈しつつあった。その主流は社民運動と連動していた。「主体性論争」は、マルクス主義運動の見直しの契機=「反省の矢」として重要な意義を持っていたと思われるが、文学の領域で狼煙が上げられ、哲学の分野に飛び火し、論壇を席捲していった。 12.7日、党中央は、「主体性論」をマルクス.レーニン主義に反する小ブル思想であるとして批判を強めた。東大学生細胞に影響力を見せていたことから、これを解散処分に附し、12.16日、党中央系共産党東京地方委員会は、「東大細胞の解散、全員の再登録を決定」し、東大細胞に通告した。これにより、新人会活動は掣肘された。 |
【学生運動の全国化】 |
6.26日、授業料値上げ反対ストで、114校、約20万人が参加した。全国の主要な大学・高専校の殆どを網羅して、日本の学生運動史上初の全国ストライキとなった。この時の盛り上がりは予想を上回るものであった。この運動の流れで「全日本学生自治会総連合(全学連)」の結成決議が為された。 この闘争の過程で党の学生細胞が全国の大学.高校に誕生し、拡大強化した。早大共産党細胞がこの闘争で入党者を急増させている。党はこの頃約5千名の学生党員より成る約3百の学校細胞を組織した。東大細胞らのオルグが都内各校、主要な拠点校に向けて全国に飛び始めた。この時の盛り上がりは予想を上回るものであった。 |
【全学連結成】 |
1948.9.18日、大変な苦労と道のりを経て遂に、東大を頂点とする国立大学系の学生運動と早稲田大学を中心とする私学系が合体し、念願の全学連が結成された。全学連は、各大学の自治会を基盤にこれを連合させて形成されたところに特徴が認められる。全学連は、自治会数268校、員数22万人を傘下とした。事務局本部は東大に置かれ、初代委員長・武井昭夫(東京大学)、副委員長・高橋佐介(早稲田大学)、書記長・高橋英典(東京大学)、中執に安東仁兵衛、力石定、沖浦和光らが選出された。全学連は、これより以降50年あたりまで武井委員長の指導の下で一致団結して各種闘争に取り組んでいくことになった。 これについて、筆者はかく思う。奇妙な事に、この時の指導者がなべてその後党の出世階段を昇ることがなかった。この時点ではポジションさえ定かでない上田・不破兄弟が登用されていくことになる。こういう人事を意図的にやったのが宮顕であるが、この変調さについては追って触れていくことにする。 もとへ。この期以降、学生運動は次第にマルクス主義化し、究極の「社会の根源に対する闘い」へと運動を向自化させていくことになった。 この間全学連は、何回かの全国的闘争を経て全国主要大学の隅々まで組織化していくことに成功し、この経過で東の東大、早大、西の京大、同志社、立命らを拠点とする学生党員グループがその指導権を確立していった。 全学連はその後、次第に青年運動特有の急進化運動を押し進めることになった。しかし、残念ながら、急進化すればするほど、曲がりなりにも真紅の革命派であった徳球党中央への反発と批判を高めていくことになった。 これについて、筆者はかく思う。これは自然にそうなったというより、当時の学生運動を担当していた宮顕派が反党中央運動を煽っていたという事情が関係している形跡が認められる。宮顕派のこの辺りの隠微な根回しは歴史から隠匿されているので証明し難いが、断片的事実を寄せ集めてかく断定できる。 |
【共産党の指導】 | |
この時期の学生運動指導部は自然と共産党党員活動家が担っていくことになったことが顧みられる必要がある。この当時の日本共産党(以下、暫くの間単に「党」と記す。宮顕系共産党化した時点より「日共」と記すことにする)が、他のどの政党にも増して青年運動の重要性を認識していたということでもあろう。受け止める側の方も、党をいくつかの政治諸党派の最左翼という位置にとどまらず、戦前来の不屈の抵抗運動を繰り広げた実績を崇敬し、最も信が置け頼り甲斐の有る「革命の唯一の前衛」という象徴的権威で認めていたということでもあった。 ちなみに、ここで触れておくと、共産党の青年運動の指導にも指導者の質によって大いなる違いがある。レーニンは、青年を「未来の主人公」と位置づけ、「青年は完全な自立無しには、すぐれた社会主義者となることも、社会主義を前進させる準備をすることもできないであろう」とする観点から、青年運動の自由、自主、自発性を重んじ、トレーニング的な意義をも持たせた創意工夫性のある実践活動を奨励していた如くである。レーニンは、「青年インターナショナルについての覚書」の中で次のように述べている。
その後を受け継いだスターリンとなるとガラリと変わる。スターリンは青年運動に指針を与えたが、レーニンのそれとは違って「何よりも党の要請、党の必要に向けて、如何に青年を動員するか」を重視することとなった。青年運動の自発性、自主性、創意工夫性の部分がスッポリと抜け落ちてしまったことになる。 今日ではロシア10月革命の実態も判明しており、ソ連邦の解体を目にしており、ロシア10月革命の意義が色褪せてしまっている。が、この当時に於いてはレーニン、スターリンは社会主義革命の偉大な指導者として聖像視されていた。その両者に於いても、指導方法がかくも異なっていたということを知らねばならない。 これについて、筆者はかく思う。問題は、日本左派運動が継承したのはスターリニズム的な悪しき指導の方であり、これが伝統となり、それを社会主義的正義と勘違いしたままその後の学生運動に負の影響を及ぼしていくことになったということにある。この汚染が今も続いていると心得るべきであろう。 但し、今日では、そのレーニン的指導の胡散臭さも暴露されつつある。そればかりかロシア10月革命の偉業が、ロスチャイルド派国際金融資本帝国主義の支援によるロマノフ王朝解体事業の一環でしかなかったという実態が明らかにされつつあり、ロシア10月革命を手放しで礼賛し学ぶ時代は終わったということになる。この辺りがややこしい限りである。 付言しておけば、そういう目線で見れば、マルクス主義そのもののネオ・シオニズムとの通底、両者の相似と差異についても再検証せねばならないことになる。但し、この当時に於いてはそういう裏舞台が見えておらず、純粋無垢にマルクス主義とロシア10月革命史が崇敬されていたという事情がある。この息吹を踏まえなければ、この時代の青年学生運動の熱情が捉えられない。 もとへ。この時期の党の青年運動組織への指導ぶりは次のようなものであった。1945年(昭和20年)の敗戦とほぼ同時にこの時期早くも党は青年共産運動の建設の課題を提起し、党の指導下で学生青年運動を立ち上げていくことになった。党はこの時期、「当面の学生運動における方針について」で学生運動の指針を与えていた。 戦前1922.4月に日本共産青年同盟(共青同)が創設されていたが、その革命的伝統を継承して1945.8月に民主主義青年会議が組織されている。これは国際共産主義青年インターナショナル第6回大会で決定された青年単一戦線結成の方針を日本に適用しようと意図したものであった。 しかし、この時期の党は、戦前来のコミンテルン型国際共産主義運動日本支部的位置づけの理論しか獲得していなかった。為に、自律自存的に国際的経験を正しく摂取した青年同盟の路線を提起しえず、且つ共同戦線運動に立つ指導能力を獲得せぬままに、国際センターから指令されるままに、あるいは獄中非転向の然らしめる勢いで社会ファシズム論的な対応で社民的改良運動を排撃した。人民戦線論も胡散臭いところがあるが、それ以前の理論段階に戻った観のある指導振りとなった。 1946(昭和21).1月、党は、青共同の再建を指導し結成に導いている。青共同は、戦後の動乱期に積極的に活動し急速に発展した。但し、この時期の運動は、全体として行動隊としての性格と市民的権利意識の段階にとどまり、青年の自主的行動を通じて階級意識を高めることに積極的ではなく、イデオロギー的にも左右に揺れていたようである。 |
【民主青年合同委員会】 |
こうした動きの最中1949年になると、党の指示によって、青年政治戦線の統一の立場から青共同、全社学同、民学同など四団体の合同の申し合わせを行い、民主青年合同委員会を発足させている。が、階級性の抜き去られたものであったようである。その為、先進的活動家の離反をみているということである。この時の党の指導者が誰であったのか等々知りたいが不明である。 |
(私論.私見)