第10章 戦後学生運動6期その2(1961年)、マル学同全学連の確立概略

 (最新見直し2008.9.11日)

 これより前は、「6期その1、ブントの大混乱」に記す。

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、1961年の学生運動史を概括する。これを仮に「戦後学生運動6期その2、マル学同全学連の確立概略」と命名する。詳論は「マル学同系全学連の確立と対抗的新潮流の発生」に記し、ここではエポックな事件を採り上げ解析する。 

 この期の特徴は、三派(社学同、マル学同、民青同)に分裂した全学連内の分裂の動きが止められず、全学連執行部と反執行部が非和解的に対立し始めたことに認められる。ブントは大混乱したまま収束がつかず、その過半が革共同全国委系に合流して行った。これにより、全学連は、革共同全国委系マル学同の指揮下に入ることになった。以降、全学連は、マル学同と、これに反発する日共系民青同派、同派から分立した構造改革派、第二次ブント創出派、この頃設立された社青同派の都合五派によりそれぞれの活動に向かい始める。やがて、構造改革派、第二次ブント創出派、社青同派が三派連合を形成し共同戦線化する。


【第1次ブント解体】
 2月、ブント戦旗派(労対派)は、革共同全国委員会のオルグに拝跪し、第一次ブントの偉業を全面的に否定し始めた。2月頃、革命的戦旗派が更に分派し革共同全国委への流れを作り出し、革命的戦旗派を経て大部分が革共同全国委へ向かった。3.7日、共産主義者同盟革命的戦旗派指導部名で、戦旗派の革共同全国委への合流が打ち出された。 4.20日、組織を解散させての合同決議を行ない正式に合同した。田川和夫グループはこの流れである(田川氏は、後の革共同全国委分裂の際には中核派に流れ、さらに後の対革マル戦争の路線対立時に中核派からも離党することになる)。

 ブント革通派は、池田内閣打倒闘争の中で破産を向かえた。この派からの移行は記されていないので不明。ブントプロ通派も戦旗派に遅れて解散を決議し、有力指導者ら一部が合流した。戦旗派に続いてプロ通派も後追いしたことになる。 ちなみにプロ通派から革共同に移行したメンバーには現在も中核派最高指導部に籍を置く清水丈夫氏、北小路敏などがいた。次のように記述されている。
 「北小路・清水ら旧プロレタリア通信派は、マル学同からまだ自己批判が足らぬとされ、北小路は全学連書記長を解任された。彼らはその後遅れてマル学同へ加盟する」。

 革通派の林紘義一派が独立して「共産主義の旗派」を結成するなど、こうしてブントは四分五裂の様相を呈することとなった。こうして社学同からマル学同への組織的移動がなされ、結局ブント−社学同は結成後二年余で崩壊してしまった。

 4.5日、全学連第27回中央委員会が開かれた。この会議は唐牛ら5名の中執によって準備され、彼らの自己批判的総括とともに、篠原社学同委員長から、「ブント−社学同の解体」が確認され、「マル学同−革共同全国委への結集」が宣言された。こうしてマル学同はブントからの組織的流入によって飛躍的に拡大し、一挙に1千余名に増大することになった。これによって、全学連指導部はマル学同が主導権を握るに至った。

 社学同委員長篠原は、当時の早稲田大学新聞紙上で次のように述べている。

 「共産主義者同盟(ブント)の破産という中で、やはり革共同全国委員会というものが我々の問題として出てきているし、そういったものに結集する方向に社学同を指導するし、共産主義者同盟に指導されていたという社学同というのは解体して、全国委員会の指導のもとにある活動家組織としてのマル学同に個人的にはなるべくすみやかに現実の闘争の中で吸収されていくという方向を、僕は指導して生きたいと思っているんですね」。

 かくして第1次ブントは解体された。史実は雪崩を打って革共同に吸収されていったが、果たしてそれで良かったかどうか。ここで、ブントと革共同の間に横たわる思想的な根本的差異について考察する。これについては、「ブントと革共同の間の深淵考」に記す。

【島の「黒寛派の全学連無血占領」批判】

 この頃の島氏の動向が「未完の自伝―1961年夏のノート」に次のように記されている。

 「ともかく60年8月のブント大会から始まった日本の左翼の思想的再編は、今年の4月、プロ通派・革通派の解散、戦旗派の黒寛派への移行、黒寛派の全学連無血占領によって新しい段階に入った。日本左翼にとって、このブントの分解に見られる思想的混乱は、戦後最大のものである。因みに50〜51年の、56〜58年のそれと比較してもすぐ分かる」。
 「目標は反黒、反日共の革命的左翼のケルンの結集。その為に、ブントの中で最も優れた部分の結集、あるいは各方面での思想運動。第三にブントの全面的(思想的、政治的)批判。第四にマル共の分裂の促進(第8回大会を控えて)。第五に経済的基礎の確立。第六に学生運動史資料の整備。以上の目標を決めて始めた。そして2ヶ月たった」。

【政防法闘争】
 5月頃、政治的暴力行為防止法案(政防法)が国会に上程された。右翼テロを口実として暴力行為を取り締まる名目で団体規制を強化しようとするものだった。5.21日、日共系全自連は非常事態宣言を発し、5.31統一行動を設定し、東大教養をはじめ多くの大学でストライキを決行させている。遂に法案は継続審議に追い込まれ、その後廃案になった。

 この間、マル学同下の全学連の動きは、1・ポスト安保で闘争疲れしていたこと、2・池田内閣の高度経済成長路線が支持され始めだしたこと、3.ブント全学連的華やかさがなかったせいによってか、諸闘争に取り組むも数百名規模の結集しか出来ぬまま低迷していくことになった。その中にあって、6.6日、3千名が政暴法粉砕の決起大会に結集。6.15日、「6.15日一周年記念総決起集会」に3千名結集。

【6.15、1周年記念総決起集会】
 6.15日、「6.15、1周年記念総決起集会」が開かれ、全学連3千名が結集。

【全学連第17回大会】
 全学連大会の時期を迎えて、マル学同と反マル学同が思惑を絡めていくことになった。7.6−7日、日共系全自連が「7全代」を開催し、全学連大会への参加条件について、1.平等無条件参加、2.権利停止処分撤回、3.大会の民主的運営の3項目を決議した。

 マル学同に移行しなかった旧ブント−社学同と革共同関西派と社青同はマル学同のイデオロギー的、セクト主義的な学生運動に反発し、反マル学同で意見の一致を見て、大会前夜に飯田橋のつるや旅館で対策を講じた。これをつるや連合と云う。各派とも全学連の主導権を狙って画策したということであろう。

 マル学同は、反対派を暴力的に閉め出す動きに出た。全自連に対しては、自治会費の未納を理由に全学連から完全に排除し、つるや連合に対しては代議員の数を削減したりして対応したようで、マル学同派による指導部独裁体制を企図した。この手法は前々回、前回の全学連大会より既に見られているので、このやり方だけを見てマル学同を批判することは不当かも知れないが、こうした暴力的手法の常習癖が革共同全国委系にあることはこの後の経過によっても窺い知れることになる。

 こうしたマル学同のやり方に反発して、つるや連合側は早朝より会場を占拠して対抗。マル学同はピケを張るつるや連合に殴りかかったがらちがあかず、角材を調達して武装し襲撃した。こうして会場を奪還したが、これが学生運動上の内部抗争で初めて武器が登場した瞬間であった。この角材ゲバルト使用を指揮したのが清水丈夫全学連書記長であったと云われている。これは清水氏のゲバルト好きのしからしめたものともみなせるし、遅れて革共同に入った清水氏が汚れ役を引き受けさせられたとも受け取れよう。

 興味深いことは、その乱闘の最中に全自連が会場に入って来ようとすると、マル学同とつるや連合は乱闘を中止して、一緒になって全自連を追いだし、全自連が去るとまた乱闘を開始したと云う。これが本当の話であれば、この感覚も一体何なんだろう。この乱闘は二日間にわたって行なわれ、最終的にはマル学同以外は大会をボイコットし、それぞれが大会を開くことになった。 

 全学連第17回大会はこうした状況の中で開催され、マル学同派の単独開催となった。代議員は282名と発表されている。実質は150名以下であったとも云われている。一切の他の党派を暴力的に閉め出した体制下で、大会議長を自派より選出し、議案を採決するというまさにマル学同の私物化された大会となった。大会はブント出身の北小路敏を委員長に選出し、全学連規約を改正して、全学連の活動目的に前衛党の建設を学生運動の基本任務とする「反帝反スタ」路線を公然と打ち出した。

 つるや連合は、7.9日夜、代議員123名の連名で「我々の退場により、大会は流会したので民主的な大会の続行を要求する」旨決議した。全自連は、67大学125自治会、276名の代議員が集まり、7.10日、教育大へ結集した。ところがこの時詳細は分からないが、全自連指導部は全学連第17回大会指導部と「ボス交」の結果全自連解散を為し、全学連再建協議会を結成したとのことである。恐らくこの時の指導部は構造改革派系であり、全学連の統一を切に願っていた構造改革派とマル学同派に何らかの合意が成立したものと考えられる。

【宮顕の学生活動家対策】
 7.25−31日、日本共産党第8回党大会が開かれ、日共内で宮顕は独裁が確立された。これについては、「日本共産党第8回党大会考」に記す。

 日共は、党大会開催後、「民青同第6回大会、第7回大会路線」を、第8回党大会で強行決議された党綱領によって修正するよう指示し、従わない同盟幹部を排除し、民青同を共産党のスローガンをシュプレヒコールする自動連動装置(ベルト)に替えた。これを「ベルト理論」と云う。明らかな党による民青同の引き回しであったが、これにより民青同の党に対する盲従が惹起し青年運動に大きな桎梏となっていくことになった。

 第8回党大会で採択決議された党の綱領が「民族独立民主革命」を明確に戦略化させたところから、社会主義を目指す闘争は抑圧されるか後退することになった。日本における社会主義の展望、客観的必然性を青年に示して日常の闘いと社会主義への志向とを結びつける本来の左派運動を視野から遠ざけ、社会主義について沈黙を守る雰囲気が支配的になった。

 これは、日共が、「改良・改革」を「革命」と規定するというすり替えから発生しているものと思われる。「二つの敵」を経文のように繰り返すことにより、イデオロギー活動が不燃化させられる要因となった。その結果、同盟員の理論的水準は低下し、その下部組織はサークル化傾向に沈潜していくこととなった。

 8.30日、日共党中央は、主要都道府県学対部長会議を開いて、次のような指導をなしたようである。「過去二回の集団転落を生んだ当時の学生党組織の欠陥、弱点を克服して、厳密な学生内党組織の建設を進める為に」と称して次のように定式化している(広谷俊二著現代日本の学生運動)。

 マルクス・エンゲルス・レーニンの古典と日本共産党の綱領、大会、中央委員会の諸決議の系統的学習。トロツキズム、現代修正主義のえせマルクス・レーニン主義の本質を見分ける能力を身につける学習。
 労働者的規律を重んじ、特に党費の納入、中央機関紙を読むこと、細胞会議に出席することなど、党生活の原則を確立し、党中央の諸決議を積極的に実践する。
 地区委員会の指導を強め、学生細胞は必ず地区委員会に集中する。
 学生の共産党への入党は、民青同盟の活動の中で鍛えられ、試された者を認める。
 従って強大な共産党を建設するためにまず民青同盟を拡大し、その活動を活発にし、同盟員のマルクス・レーニン主義の基礎の学習と労働者規律を強める。

 これについて、筆者は思う。宮顕の指導になると、なぜこうまでして青年運動の自主性を削ぎ、社会主義意識の培養をしにくくするよう努力するのだろう、と疑問を沸かさずにはおれない。

【ソ連が核実験を再開、マル学同の抗議闘争】

 8.31日、ソ連は58年から停止していた核実験を再開した。それまでソ連を平和の砦としていた日本の左翼内にあった傾向からして大いに当惑させられ、平和擁護運動が混乱に陥った。日本共産党はソ連核実験の支持声明を出した。革共同関西派は対応が割れた。革共同全国委=マル学同は、「反帝反スタ」の立場から精力的に抗議運動を展開していくこととなった。「日本の反スターリン主義運動」は次のように述べている。

 「1961年秋のソ連核実験再開に直面させられて完全に混乱の渦中にたたきこまれ、何らかの反対運動をも展開することができずに自己破産を義黒した原水協並びに社共両党の、この腐敗を公然と暴き出し弾劾し、のりこえつつ推進されたわが全学連の『米.ソ核実験反対』の反対闘争は、1962年の春のアメリカ太平洋実験に対する激烈な反対闘争として受け継がれ、そして日本原水協の完全な無活動的腐敗や第8回原水爆禁止大会における社共両党の衝突の茶番性を大衆行動をもって暴露したことなどを通じて、同時に国際的な反戦統一行動を生み出しながら、今や確固とした地歩を築き上げた。さらにそれは、闘う労働者自身による反戦闘争の行動化を促す触媒としても働きつつある」。

 9.1日、全学連中執、ソ連核実験に抗議声明を発表。 9.4−5日、マル学同は、全学連27中委を開き、「ソ連核実験反対・反戦インター創設・プロレタリアによる学生の獲得路線」の方針を決議した。9.8日、全学連、政暴法粉砕・ソ連核実験反対闘争第一波、芝公園に50名結集、米ソ大使館にデモ。社学同系学生70名は独自にソ連大使館デモ。9.15日、全学連第二波統一行動、50名が氷川公園に結集、新橋までデモ。夜、夜間部学生80名も集会・デモ。社学同系80名は東郷公園に結集、新橋までデモ。9.22日、再建協、政暴法粉砕・完全軍縮要求第一波統一行動、芝公園に350名結集、八重洲口までデモ。社学同系120名は氷川公園に結集・国会デモ。

【構造改革派系「青学革新会議」の結成】
 9月、日共の第8回党大会における綱領問題と官僚指導に反対し、離党・除名された民青同盟内の党綱領反対派の活動家と、全自連中央の活動家(早大、教育大、神戸大、立命館大、法政大、東大など)を中心として、構造改革派の青年学生組織として青年学生運動革新会議(「青学革新会議」)が結成された(10.6日ともある)。
 
 その背景にあったものは、構造改革派の「宮顕式の不当な干渉によって民青同を共産主義的青年同盟に発展させる可能性がなくなった」という認識であった。「青学革新会議」は、この認識に基づくマルクス・レーニン主義の原則に立脚する青年同盟の創設課題提起により生み出された。同派の特徴は、この時期日共が指導していた新たな全学連の創出を画策するのではなく、粘り強く学生運動の統一を目指していたことにあった。

 但し、この方針はマル学同の独善的排他性に対する認識の甘さを示しており、遂に叶えられることのない道のりとなる。青学革新会議は、この経過をさし当たりブント急進主義派と社青同との統一戦線を志向しつつ活動していくこととなった。なお、青学革新会議は、「層としての学生運動論」を採用しており、この時期一層右派的な方向に変質させられつつあった民青同に比較すれば幾分かは左派的な立場にあったといえる。

 なお、青学革新会議グループもまたこの後、構造改革派が春日(庄)らの統一社会主義同盟と内藤派に分裂するに応じて、この動きに連動していくことになる。春日派は翌62.5月、社会主義学生戦線(フロント.東大教養、神戸大等)、内藤派の系統として63.8月、日本共産青年同盟(共青.教育大等)へと続く。

【構造改革派の動き】
 10.7−9日、前年の日本共産党第8回党大会前後の経過で、「反党分子」として除名され集団離党することとなった春日(庄)ら離党組は、社会主義革新運動(社革)の創立総会を開いた。議長・春日(庄)、事務局長・内藤体制で船出した。

【マル学同全学連が「反帝反スタ」路線を打ち出す】
 9.4−5日、マル学同は、全学連27中委を開き、ソ連核実験反対闘争の方針を決議した。10.15−16日、全学連28中委では、「反帝・反スタ」路線を全面に押しだし、社学同残留派をブント残党派と言いなし、これら諸派を右翼分裂主義者と決めつけ、これと絶縁することを確認した。

【島が「Sect6」立ち上げに動く】

 10月頃、共産主義者同盟書記局・島成郎他の連名で召集状が届けられた。10.24日、九段の雄飛寮の集会室に集まり、ブントの再結集を目指した秘密会議が開催された。席上、島が、旧書記局の統一見解であるとして、ブントを再建すると述べている。「この1年半の分派活動の首謀者達は、みな小者ばかりでトレランスに欠ける。その理論に至ってはチマチマして中小企業のオヤジの床屋談義よりも程度が低いくらいだ、といった」とある。社学同の再建が始まり、12.5日、社学同全国事務局機関誌「Sect6」の立ち上げに繋がる。しかし、求心力は戻らず困難を極めることになる。


【全学連第18回大会】
 12.15日、全学連第18回大会。

【社学同残留派、社青同派、構造改革派が反マル学同三派連合を形成】
 12月、こうした動きに対し、社学同残留派は、社青同派、構造改革派とともに反マル学同の三派連合を形成した。この三派連合が火山化していくことになる。

 これより後は、「6期その3、全学連の三方向分裂固定化 」に記す。



(私論.私見)