第3章 | 戦後学生運動3期(1954年−55年)、六全協期の学生運動概略 |
(最新見直し2008.9.10日)
これより前は、「2期、『50年分裂』期の学生運動」に記す。
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、1954年から1955年までの学生運動史論を概略する。これを仮に「戦後学生運動 3期、学生運動崩壊概略」と命名する。詳論は「六全協の衝撃、日共単一系全学連の組織的崩壊」に記し、ここではエポックな事件を採り上げ解析する。 |
1954(昭和29)年 |
【武装闘争路線の総破綻】 |
1954年頃、徳球系所感派の武装闘争は破産し、「臨中」も機能停止した。党中央派内では志田派が伊藤律派を駆逐し始め、国際派の中から宮顕派が台頭し始めた。志田派と宮顕派が裏提携し、「50年分裂」解消に向けて始動し始めている。玉井系全学連も自壊し、宮顕系の指導による穏和運動への転換が促進されていった。 |
【アメリカがビキニで第1回水爆実験】 |
3.1日、アメリカがビキニで第1回水爆実験。死の灰が福竜丸の乗組員に降りかかり、三度目の原水爆の犠牲をもたらした。これ以降、吉田嘉清は原水爆禁止運動に参加。 |
【全学連第7回大会】 |
6.13日、全学連第7回大会が開かれた。大会は、「生活と平和の為に」を打ち出し、政治運動とか大衆運動から召還し、一転代わって没政治主義方針確立した。学科別のゼミナール運動を行う方針が決められた。また、サマーキャンプ、大学祭、歌声運動などの運動が強められるようになった。後の自治会サービス機関論を生み出すことになった原点であり、後に「学生運動としては完全に体を失い、俗悪化した大衆追随主義に転落した」と批判されている。人事で、委員長・松本登久男(東大)、書記長・子田耕作(大阪市大)を選出した。 これについて、筆者はかく思う。誰にも指摘されていないが、全学連のこの急激な穏和化の背景に何があったのか。筆者には容易に透けて見えてくる。この頃既に、宮顕と志田の裏交渉が始まっており、宮顕が事実上復権し始めていたと云うことになる。宮顕の指導するところ必ず穏和化になる。武井全学連との蜜月時代の左派的言辞は、徳球執行部に対する揺さぶりのためであり、いわばマヌーバーでしかなかった。このことも判明しよう。 |
【「原水爆禁止全国協議会(原水協)」結成】 |
8.8日、全国的な原水爆禁止運動の高まりの中で、「原水爆禁止全国協議会(原水協)」が結成された。全国から400名が集まり、法大教授・安井郁氏が事務局長に就任した。日本の平和擁護運動に新しい流れが生まれた。翌55年第一回の原水爆禁止世界大会が開催されることになる。 |
1955(昭和30)年 |
【全学連第8回大会】 |
6.10日、全学連第8回大会が開かれた。89自治会237名の代議員とオブザーバー800名が参加した。大会では、基地反対闘争と原水爆禁止運動に取り組むこと、文化サークル活動の全国的.地域的交流、世界青年学生平和友好祭に参加することによる国際的交流、芸術家の合同公演を大学当局側と協力して行うなどを決めた。 |
【六全協の重大性に対する無知】 |
1955.7.27日、六全協が開かれ、徳球に疎まれ続けられた宮顕が党中央に返り咲き、戦前来の共産党解体同盟である宮顕−野坂が党中央を壟断する事態が生まれた。ここに、六全協の史的意味がある。 これについて、筆者はかく思う。日本左派運動は、それまで徳球系党中央を批判し続けてきた経緯からこの宮廷革命を是として受け入れ、このスタンスが今日まで続いている。筆者は、この卑大なる間違いを質さねばならないと考えている。 そもそも宮顕とは何者か。この認識に於いて重大な間違いを持ったまま戦後左派運動は推移してきている。宮顕支持派は当然として、批判派でさえ「戦前唯一の非転向革命家聖像」を前提としての批判に止まり、宮顕を左派圏の有能な指導者として位置づけた上で、そのステロタイプなスターリニズム性を批判すると云うスタンスで遇して来た。こういう通俗本ばかりが流布されている。 筆者は、その虚妄を論証している。宮顕の胡散臭さについては「宮顕考」、野坂については「野坂参三の研究」、不破については「不破考」で検証している。これを読めば、れんだいこの謂いの正しさが確認されよう。れんだいこのこの観点が打ち出されて以降は、従前の陳腐な見解は歴史の屑箱に入れられるべきだろう。 筆者は、この観点を既に1999年段階で提起しているが、今日に至るまで無視されている。これが左派圏界隈の頭脳の質である。学識ぶったり小難しく理論をこね回すのは得意なようだが、総合的俯瞰がお粗末過ぎよう。そういう全体としての認識が狂ったままの個々の分析は、その中身も案外薄っぺらなのではないかと考えている。 2004.5.15日、「小林多喜二を売った男」(くらせみきお、白順社)が刊行され、戦前日共史の闇の部分である潜入スパイ問題に言及し、三船留吉に焦点を絞って「小林多喜二を売った男」とする観点から解明せんとしている。筆者は、「小林多喜二を売った男」は宮顕の方が本ボシであると見ている。宮顕の評価次第でこういう風に見解が異なってくることになる。 もとへ。宮顕は党中央に返り咲くや否や、それまでの急進主義的衣装を脱ぎ捨て、露骨なまでの統制主義と右翼的穏和主義指導で日本左派運動の牙を抜き始め、戦後日本左派運動総体を投降主義的な方向へ構造改革し始めた。れんだいこは、これより以降の党を日共と呼称することにする。徳球と宮顕の対立については「徳球対宮顕考」に記す。 徳球−伊藤律系派は追放され、徳球−伊藤律系党中央下で冷や飯を食わされてきた連中は逆に我が世の春を向かえた。この間、勝てば官軍、負ければ賊軍の地を行く政争を演じた。かくして、多々欠点を抱えつつも曲がりなりにも左翼運動を担っていた連中が追放され、偽装左派とも云うべき宮顕−野坂連合が支配することになった。 これについて、筆者はかく思う。六全協の病膏肓が現在に至っている。かく視座を据えるべきではなかろうか。更に留意すべきは、六全協以降の日本左派運動がそれまでの左派運動と明らかに質を変えていることであろう。筆者の判ずるところ、ここまで日本左派運動を牽引した徳球派は、結果的には叶えられなかったものの一応は政権奪取−体制転覆−革命を目指していた。これを仮に戦後革命と命名すると、徳球式戦後革命は1949年時点で流産し、1950年の武装闘争で最終的に破産せしめられた。ところが、六全協による登壇した宮顕派は政権奪取運動そのものを放棄し、単なる批判的左派運動と云う去勢された投降主義的左派運動へと変質せしめていった。体制修繕運動へとタガ嵌めされた運動とも言い換えることができる。この差は存外大きい。 この期以降は、そういう運動として発展していく転換点となった。つまり、本質的に見て政権奪取運動から政府批判運動へと堕落したことになる。れんだいこ史観によれば、この定式化がはるけき今日まで及んでいる。体制側から見て、日本左派運動を穏和にせしめた宮顕の功績は大なるものがあると云うべきだろう。もし、我々が、日本左派運動を総括せんとするならば、転回点となったこの六全協に於ける質的転換まで立ち戻らねばならないだろう。この重要性が認識されていないところに理論の貧困があると考えている。 しかし、革命運動の修繕運動化はいずれ先細りの道になるであろう。日本左派運動の今日的低迷は、これに起因していると思われる。唯一の例外は、1960年代後半から70年代半ばまで日共が社共連合的民主連合政権を展望したことであろう。これを掲げた時期、日共は大きく発展した。しかし、その内実がいかようなものであったかは後述する事にする。 この後に新左翼も生まれるが、日共の穏和主義に対する急進主義を対置しただけであり、政権奪取を展望しない戦闘的批判運動に過ぎず、つまり新旧左翼とも革命請負い責任を持たない方向への水路へ入り込んでしまったことで共通している。残念ながら、これは宮顕が敷いた路線の範疇であり、その路線を踏襲しているに過ぎない。 左派運動がそういう隘路に入ったことにより、その後の左派運動の理論も実践も、人民大衆労働者運動からインテリの自己充足運動へ変質した面が無きにしも非ずであろう。既成の日本左派運動史家にはここを衝く視点が欠如している。インテリが自己弁護的に記すので、そうなるのであろうと思われる。 |
【「7中委イズム」】 | |
1954年の学生運動は、所感派の武装闘争も行き詰まり、国際派の平和闘争も特段のものが見られない。両者とも死に体であったということになろう。 1955.7月の六全協で、この間の徳球系執行部の軍事方針は「極左冒険主義であった」と批判されたことにより、この間徳球系執行部の指導下に戻っていた全学連もこの煽りを受けて自壊状況を現出していくことになった。 9月、全学連第7回中央委員会が開かれ、宮顕式路線に従って、この間の党の極左冒険主義と全学連指導部の動きを批判することとなった。いわゆる「歌ってマルクス、踊ってレーニンというレクリエーション路線」として揶揄される穏和化方向へ振り子の針を後戻りさせることとなった。これを「7中委イズム」と言い表すことになるが、自治会を「サービス機関」と定義し、一転して日常要求路線へと全学連運動を向かわせることになった。 「自治会=サービス機関論」をここで定義しておくと概要次のように云える。
いわゆるその後の民青同的運動のはしりであるが、六全協で党中央に再登壇した宮顕は、それまでの急進主義的反党中央批判から一転して、極めて穏和主義的右翼主義的な指導を指針させていった。これが、宮顕運動の元来の本質であり、それまでの急進主義は党中央を奪還する為に付けていた仮衣装に過ぎなかったと窺うべきであろう。 |
【砂川戦争】 | |
当然ながら、当時の学生運動家の昂揚する意識が、「7中委イズム」で押し込められることはなかった。むしろ苦々しく反発し、所感派、国際派の別を問わず急進主義派の学生たちが「平和と民主主義」の根幹に関わる政治闘争として砂川闘争に取り組んで行くこととなった。 9.13日、米軍立川吉の拡張工事の為砂川町の強制測量が開始され、労組−学生同盟と警官隊が正面衝突した。砂川闘争の始まりである。10.4日、第二次測量開始。10.13日、全学連と反対同盟らが警官隊と衝突し、流血事件が発生している。この様子を見て、当時の鳩山内閣は測量中止を発表することとなった。全学連と反対同盟側の勝利であった。 高見圭司「五五年入党から六七年にいたる歩み」は次のように記している。
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【全学連運動が穏和派と急進派へ二極分化】 |
この時期の青年学生運動は、急進派と穏和派に二分化しつつあった。主に穏和派の動きであると思われるが、民青団もまた全学連同様に「六全協」総括の煽りを受けて清算主義に陥り、自壊状況を現出していくことになった。マルクス・レーニン主義を学ぶことさえ放棄する傾向をも生みだし、解体寸前の状態に落ち込んでいくことになった。これに対して、砂川闘争に取り組む過程で急進派が生まれて行った。これが歴史の弁証法であろう。 戦後学生運動の第1期、2期、3期はこういう紆余曲折を経る。後の展開から見て留意すべきは、いずれにせよ全学連運動が共産党指導下に展開されていたところに特徴が認められる。 |
(私論.私見)