【れんだいこの戦後学生運動区分論】

 (最新見直し2008.1.4日)

【れんだいこの学生運動区分考】
 れんだいこは、戦後学生運動興亡史を独特の手法で跡付けていくことにする。「独特の手法」とは、ヘーゲル論理学で学問的に科学された矛盾弁証法にして、マルクスがそれを更に生き生きとさせ社会弁証法にまで高めた認識法のことを云う。

 それによれば、事象は、即自的有から向自的有に発展し、その各々は量から質への無限過程を辿る。矛盾のある一点でそれまでの質が出藍(アウヘーベン、止揚、揚棄)され新質へ向う。その段階での又新たな即自から向自への階梯が有り、変遷し繰り返す。こうして、事象は、螺旋(らせん)的発展ないしは衰退の過程に有る、とみなす。万事が生成転化しており、その変化の中にある筋道が法則と云えるものであり、人類史も例外ではない。戦後学生運動興亡史をこの観点から説いてみたい。どこまで為し得るかが難しいがたちまちは試論として提供する。

 これに従い、れんだいこ学生運動論は、戦後学生運動を質的識別し、戦後直後から1970年代前半までを9期に分けることにする。

 第1期は、戦後直後の1945.8.15日から1950年までの期間とする。全学連運動が創出され、官大の東大-京大、私大の早大-同志社が主導し、武井系が指導する。全学連中央はほぼ全員共産党員により構成されていることに特徴が認められる。

 第2期を1950年から1954年までとする。この間、日共が「50年分裂」し、全学連も宮顕系国際派と徳球系所感派に分かれ反目する事態に陥った。所感派は徳球-伊藤律派、野坂派、志田派に分かれ、国際派は更に宮顕派、志賀派、春日庄派、国際共産主義者団、神山派、中西派、福本派に分裂し拮抗する。これに応じて全学連内も色分けされる事態に陥った。

 全学連中央の武井派は宮顕派の指導に服し、その度合いに応じて色褪せていった。所感派が武装闘争を打ち出すことにより、これに呼応する部分が全学連中央の奪還に向かい玉井系を創出する。但し、武装闘争が破産するに及び権威を失墜させた。

 第3期を1954年から1955年とする。この年、日共は、六全協が開催され、宮顕系の主導で統一された。全学連はその統制下に置かれ、有り得べからざる右派系運動に転換され混迷する。ここまではいずれも、日共党員が全学連を主導しているところに特徴が認められる。

 第4期は、1956年から1957年までとする。闘う全学連の再建期であり、反日共運動の創出期である。最初にそれまでの日共運動をスターリニズムとして批判し、返す刀でトロツキズムの称揚に向かう革共同が生み出され、日共内反党派と従党派の三者鼎立時代となる。この時期、全学連の執行部を日共内反党派が掌握する。

 第5期は、1958年から1960年の60年安保闘争までの期間とする。この時期、日共内反党派が第一次ブントを結成し日共と決別する。当初は革共同と寄り合い世帯となるが、60年安保闘争へ向けて純化を目指し、激しい主導権争いを演じる。60年安保闘争が昂揚し、岸政権打倒へと追い込む。この間、革共同は関西派(西派)と全国委派(黒寛派)に分裂し、全国委派が次第に勢力を増す。

 第6期は、1960年後半から1964年までの期間とする。この時期、第一次ブントが60年安保闘争の総括を廻って大混乱の末分裂し、やがてその多くが革共同全国委派に吸収される。第一次ブントを吸収した革共同全国委が全学連の執行部を掌握する。この間、社会党の社青同が誕生し、日共系から構造改革派が造反し、この両派と第一次ブント再建派が三派同盟を立ち上げる。日共は、民青同系全学連を立ち上げる。この局面で、革共同全国委が革マル派(黒寛派)と中核派(本多派)に分裂し、全学連旗は革マル派に引き継がれる。三派同盟から構造改革派が抜け、代わりに中核派が入り込み、新三派同盟が形成される。

 第7期は、1965年から67年までの期間とする。社青同から社青同解放派が造反し、べ平連が生まれ、東大闘争、日大闘争が始まり、第一次ブント再建派が第二次ブントを創出し、合流しなかったМL派、その他諸党派が創出される。これらの動きに、革マル派、中核派、民青同が御三家となり屹立する。

 第8期は、1968年から69年までの期間とする。ベトナム反戦闘争、東大闘争、日大闘争が盛り上がり、8派連合による全共闘が創出される。中核派全学連が生まれ、反帝全学連が生まれる。目前の70年安保闘争を意識して空前の盛り上がりを見せる。革マル派、民青同も独自に活動域を広げ、赤軍派が創出される。

 この頃、全共闘対民青同、中核派対革マル派対社青同解放派の三つ巴の党派間ゲバルトが生まれる。第二次ブントの内部抗争が起こり、第二次ブントと赤軍派のゲバルトが始まり、70年安保闘争を控えた盛り上がりの中で瓦解の危機をも迎える。

 第9期は、1970年からそれ以降の現在までとする。70年安保闘争はカンパニア闘争に終始し佐藤政権に打撃さえ与えることができなかった。代わりにやってきたのが内ゲバと党派間ゲバと連合赤軍派の同志テロであった。

 以降を第10期とするが、考察は省く。

 以上の区分が一般的に通用するのかどうかは分からない。が、れんだいこの分析によれば、かく区分した方が分かり易い。参考になればと思う。れんだいこの戦後学生運動史論は、この区分けに従い検証していく事にする。

 2005.8.17日再編集、2008.1.5日再編集 れんだいこ拝





(私論.私見)