第14章 戦後学生運動7期その2(1967年)、激動の7ヶ月概略

 (最新見直し2008.9.11日)

 これより前は、「7期その1、全学連の転回点到来」に記す。

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、1967年の学生運動史を概括する。これを仮に「戦後学生運動7期その2、激動の7ヶ月概略」と命名する。詳論は「ベトナム反戦闘争と学生運動の激化、激動の7ヶ月始まる」に記し、ここではエポックな事件を採り上げ解析する。        

 1967年、この時期は、ベトナム戦争が泥沼化の様相を見せ始め、今日の状況から見れば邪悪なアメリカ帝国主義とそれに抵抗するベトナム民族人民の闘いという分かりやすい正邪の構図があった。アメリカ帝国主義に対する闘いは、本国アメリカでも良心的兵役拒否闘争、ジョーン・パエズら反戦フォーク歌手の登場、キング牧師の黒人差別撤廃とべトナム反戦の結合宣言等々を含めた反戦闘争が活発化し始め、フランス、ドイツ、イギリス、イタリアの青年学生もこれに呼応し始めていた。わが国でもベ平連の集いが各地で生まれつつ次第に支持の環を増し始めていた。中国で文革が始まり紅衛兵が造反有理を唱えて赤旗を振り始めた。こうした情況と世論を背景にして、この時期これに学費値上げ反対闘争が重なることにより学生運動が一気に活性化し始め全国各大学の学園闘争として飛び火し始めることなった。

 民青同系全学連は主として学園民主化闘争を、新三派系全学連は主として反戦政治闘争を、革マル派系全学連は「それらの乗り越え闘争」を担うという特徴が見られた。特に新三派系全学連による砂川基地拡張阻止闘争、羽田闘争、佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争、王子野戦病院建設阻止闘争、三里塚空港阻止闘争等の連続政治闘争が耳目を引きつけていくことになった。この経過で、全学連急進主義派の闘争が機動隊の規制強化といたちごっこで過激化していくことになり、過激派と云われるようになった。


【この当時の学生運動党派状況】
 この当時の学生運動の流れを概括しておくと、大雑把に見て「五流派」と「その他系」に識別できる。「五流派」とは、組織の大きさ順に民青同派、中核派、革マル派、社青同、第二次ブントを云う。「その他系」とは、ベ平連系、構造改革派系諸派、毛派系諸派、日本の声派民学同系、アナキスト系諸派の他ノンセクト・ラジカル等々であり、これらが混在することになる。ここで「当時の五流派その他系」の特徴付けをしておこうと思う。

 識別指標は様々な観点から可能である。第一に「日本共産党の指導下に有りや無しや」を指標とすれば、指導下にあるのが民青同のみであり、日共の党本部のある「代々木」を指標としてこれを「代々木系」と云う。これに反発するセクトを「反代々木系」と識別することができる。主にブントがこの意識を強く持つ。革共同系は、左翼運動の歪曲として「日共打倒」を標榜するところから「日共」と呼び捨てにすることとなる。れんだいこは、宮顕下の共産党は共産党に値せずとして日共と識別する。

 但し、この分け方も「日共」の打倒を観点とする立場と、「代々木」を正確には「宮顕執行部の指導下の日共」と理解し「日本共産党」の正当性系譜を争う構造改革派系諸派、毛派系諸派、民学同系とは趣が異なる。社青同解放派は社会党出身であるからまたニュアンスが異なるという風な違いがある。「代々木系」の民青同及び「元代々木系」の構造改革系派、民学同派は概ね非暴力革命的議会主義的な穏和主義路線を、それら以外の「反代々木系」は概ね暴力革命的街頭闘争的な急進主義路線を目指したという特徴がある。これによって「反代々木系急進主義派」は過激派とも呼ばれることになる。

 第二に、「トロツキズムの影響の有りや無しや」を指標とすれば、「代々木系」、「元代々木系」、毛派系諸派らのトロツキズムの影響を受けないセクトを「既成左翼」と云い、その影響を受けた革共同系及びブント系を「新左翼」と言いなし識別することも可能である。但し、この分け方による場合、お互いを「新・旧」とはみなさないので、既成左翼側が新左翼を評価する場合これをトロツキストと罵り、新左翼側が既成左翼を評価する場合スターリニストと雑言する関係になる。

 なお、毛派系は「トロツキズム」に替わるものが「毛沢東思想」であり少々ややこしくなる。「毛イズム」はスターリニスト的な系譜で暴力革命的急進主義路線を志向しており、既成左翼の側からは暴力革命路線でもって十把一からげでトロツキスト的に映り、新左翼側からはスターリニストには変わりがないということになる。社青同系の場合もこの範疇で括りにくい。スターリニズム−トロツキズム的なイデオロギーの濃いものを持たず、運動論的に見て穏和化路線を追求したのが社青同協会派であり、急進主義路線を選択したのが社青同解放派と識別することができる。その他ベ平連系はそもそも左翼運動理論に依拠しない市民運動を標榜したところから運動を起こしており、市民的抗議運動として運動展開していった風があるのでこれも括れない。

 第三に、「本家意識の強い純血式運動路線に拘りを持つや否や」を指標とした場合には、運動の盛り上がりよりもセクト的な党派意識を優先する方が民青同、革マル派であり、その他諸セクトは闘争の盛り上げを第一義として競り合い運動による共同戦線運動を可能にしたという違いがある。つまり民青同、革マル派は党派的に排他的非共同戦線運動型であるということに共通項が認められ、これらを除いた他の諸セクトは課題別の共闘組織を組み易い共同戦線運動可能型の党派であったという識別も可能である。なお、この仕訳とは別途のさほどセクト的な党派意識も持たず共同戦線運動型ともなじまなかった突出型の毛派系、ブント赤軍系、アナーキスト系らも存在した。実に左翼運動もまたややこしい。

 あるいは又日本国憲法を主幹とする「戦後民主主義を護持しようとする意識が有りや否や」の観点を指標とする区分もできる。穏和化路線に向かう党派はこれを肯定し、急進主義路線を志向する党派はこれの欺瞞性を指摘するという傾向にある。ただし、70年代半ば以降のことではあるが、超過激派と云われる日本赤軍の一部グループは護憲傾向と民族的愛国心を運動の前提になるものとして再評価しつつある点が異色ということになる。

 私には、これらの違いは理論の正当性の是非もさることながら、運動を担う者たちの今日的に生物分子学で明らかにされつつある或る種の気質の差が介在しているようにさえ思われる。理論をどう構築しようとも、理論そのものは善し悪しを語らない。理論の正しさを主張するのはあくまで「人」であって、「人」はその人の気質性向によって好みの理論を採用する。理論の当否は、理論自身が生み出す力によって規定されるとはいえ、現象的にはそれを信奉する人の量と質によって実践的に検証される、という関係にあるのではなかろうか。

 であるが故に、本来理論の創造性には自由な空気と非暴力的相互批判の通行が担保されねばならない、と考える。これは私の経験からも言えるが、セクト(一般に組織)には似合いの者が結集し縁無き衆生は近寄らず、近寄ったとしても離れるということが法則であり、事実あの頃私は一目で相手が何系の者であるかが分かったが、この体験からそういう気質論に拘るようになった。これは政治のみならず宗教であれ業種、会社であれ趣味であれ、有効な根底の認識となって今も信奉している。

【文化大革命の伝播】
 1967年初頭、中国の文化大革命が本格化し、紅衛兵を巻き込んで毛沢東−江青−林彪の文革派による劉少奇−ケ小平の実権派に対する一大奪権闘争の様相を見せ始めていた。 「造反有理」を訴える大字報 (壁新聞)が登場し、紅衛兵たちが毛語録をかざして連日、町に繰り出してデモを行い始めた。中国全土が内戦化し、止まるところを知らなかった。詳論は「文革考」に記す。

 筆者は、この花粉が日本の青年学生運動に影響を与え、日本版紅衛兵とも云うべきノンセクトラディカル、新左翼活動家を生み出して行くことになったと理解している。

【明大学費値上げ阻止闘争】

 1.20日、明大学費値上げ大衆団交に1万5000名。1.28日、明大で、スト収束をはかろうとする全学闘書記局と闘争継続を叫ぶ闘争委員が対立するという事態が発生している。以降泥沼化し、右翼的体育会系、機動隊の乱入と闘争委側との抗争が続き、2.2日、大内委員長及び介添え役としての斎藤全学連委員長立会いの下で当局と妥結調印した。こうして明大闘争はボス交によって決着したが、この経過が問題とされ斎藤全学連委員長の失脚へと向かうことになる。


【三派系全学連委員長に中核派の秋山氏が就任】

 2.19日、全学連(三派系)拡大中央委〔早大〕で、斎藤克彦委員長(明大.社学同)が罷免され、秋山勝行(横浜国大.中核派)が新委員長となり新執行部を選出した。


【「善隣学生会館事件」発生】

 3.2日、「善隣学生会館事件」が発生している。善隣会館で日中友好協会をめぐり日共党員と中国人留学生が衝突。日共系が棍棒部隊を動員したため中国人留学生に負傷者が多数発生した。社学同ML派系学生らが支援闘争展開した。 「善隣学生会館事件」とは、1965年頃までは友好関係を維持していた日本共産党と中国共産党の関係が、1966年の中国での文化大革命の発生と共に急速に悪化し、断絶状態に至ったのに伴い、日中友好運動に大きな混乱が発生し、善隣会館の争奪戦となった事件を云う。これにつき詳論は「善隣学生会館事件考」に記す。


【社会主義協会第8回大会、太田派と向坂派に分裂する】

 6月、社会主義協会第8回大会。この大会で、規約第二条の修正をめぐって、太田派と向坂派に分裂する。当時多数派は太田派であり、大会は、少数派である向坂派の戦術(規約第ニ条の修正にともなう向坂、大内両代表の辞任)によって休会となり、事実上分裂した。

 社会主義協会向坂派(以下向坂派という)は以降別党コースを執り、党派化を非難しながら、自らもまた一つのセクト性のつよい党派として成長、発展していくことになった。11月、再建第1回大会を開き、翌年9月の第二回大会で「向坂派テーゼ」を決定決定し、向坂派の党派的再建と登場が出現することになる。

 向坂派は、自らをマルクス・レーニン主義の集団と規定する。それはソ連共産党20回大会およびモスクワ81ヶ国共産党・労働者党宣言の方向性を色濃く反映し、その後ソ連、東独などとの具体的な交流をふかめながら、ソ連型社会主義(実は修正主義から社会帝国主義に転落)を目標とする政治党派となっていく道をたどる。


【第三次中東戦争】
 6.5日、第三次中東戦争(六日戦争)開戦。日本左派運動は、パレスチナ情勢を対岸視しており、特段の動きは見られない。

【「第7回6.15記念集会」】
 6.15日、「第7回6.15記念集会」。ブントが電通会館に800名、中核派が九段会館に2000名、社青同解放派が両国公会堂に400名参加。ほかに社学同ML派が明大、革マル派が早大、アナーキスト系が各派が豊島振興会館に都内六カ所で六党派が独自集会。総参加者は約5000名。

 6.18日、「人民日報」は、次のような談話を発表している。

 「樺美智子は日本の反動派に殺害されたが、彼女は今なお日本人民の心の中に生きている。それにしても憤慨に堪えないのは、一握りの日本共産党修正主義分子が、意識敵に事実をねじまげて再三流言蜚語を飛ばし、恥知らずにもこの民族的英雄を『トロツキスト』であると侮辱したことである。現代修正主義者は、自ら革命をおそれる一方、他人にも許さない。彼らは、革命の原則を堅持し、敢然と革命をやる者には誰でも『トロツキスト』のレッテルを貼り付け、革命者を『反革命』に仕立てる恥知らずな腕前を持っている」。

【ベトナム反戦闘争と学生運動の激化】

 この時期は、ベトナム戦争が泥沼化の様相を見せ始め、今日の状況から見れば邪悪なアメリカ帝国主義とそれに抵抗するベトナム民族人民の闘いという分かりやすい正邪の構図があった。アメリカ帝国主義に対する闘いは、本国アメリカでも良心的兵役拒否闘争、ジョーン・パエズら反戦フォーク歌手の登場、キング牧師の黒人差別撤廃とべトナム反戦の結合宣言等々を含めた反戦闘争が活発化し始め、フランス・ドイツ・イギリス・イタリアの青年学生もこれに呼応し始めていた。わが国でもベ平連の集いが各地で生まれつつ次第に支持の環を増し始めていた。

 こうした情況と世論を背景にして、この時期これに学費値上げ反対闘争が重なることにより学生運動が一気に全国各大学の学園闘争として飛び火し始めることなった。民青同系全学連は主として学園民主化闘争を、新三派系全学連は主として反戦政治闘争を、革マル派系全学連は「それらの乗り越え闘争」を担うという特徴が見られた。特に新三派系全学連による砂川基地拡張阻止闘争・羽田闘争・佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争・王子野戦病院建設阻止闘争・三里塚空港阻止闘争等の連続政治闘争が耳目を引きつけていくことになった。この経過で、全学連急進主義派の闘争が機動隊の規制強化といたちごっこで過激化していくことになり、過激派と言われるようになった。


【新三派系全学連定期全国大会開催される】

 7.12日、新三派系全学連定期全国大会。44大学(結成時35大学)・85自治会(結成時71自治会)・275代議員(結成時178代議員)、他に168評議員.21オブザーバーの1500名が参加。新三派系が勢力を扶植しつつあったことが分かる。主な演説は各派が分担し、運動総括は中核派の秋山委員長、状勢分析は社学同の成島忠夫、運動方針は社青同の高橋幸吉が行い、秋山委員長を再選した。副委員長は、成島忠夫(静岡大.社学同).蒲池裕治(同志社大.社学同)、書記長に高橋幸吉(早大.社青大)を選出した。中大連合自治会の加盟承認、都交通局合理化反対・佐藤訪ベト阻止等を決議。

 ただし、新三派系全学連の蜜時代はここまでであり、これ以降中核派の台頭が著しくなっていくことによってかどうか、翌68.7月、中核派は自前の全学連結成大会を開催し分岐独立することになる。同月反中核派連合の社学同「統一派」、ML派、社青同解放派、第4インターなども又反帝全学連第19回全国大会を開催し、反帝全学連を発足させることになった。ところが、この反帝全学連も社学同と社青同解放派間の対立が激化し、翌69.3月社学同側が単独で大会を開催し社学同派全学連を発足。7月には社青同解放派が単独大会を開き、解放派全学連として独立することになる。解放派全学連は現在でも明治大学を拠点としている。

 こうして、革マル派は革マル派全学連を、民青同は民青同系全学連を、中核派は中核派全学連を、ブント各派は社学同全学連等を、社青同解放派が全国反帝学生評議会連合(反帝学評)及び解放派全学連を結成し、併せて5つの全学連が揃い踏みすることになるというのが67〜69年の学生運動の流れ となる。なお、社学同派全学連はわずか3ヶ月後に内部での内紛が激化し分裂していくことになる。12月、社青同解放派が「反帝学生評議会」(反帝学評)を結成する。


【第一次羽田闘争】
 佐藤栄作首相の南ベトナム訪問が発表され、三派全学連はこれを実力阻止する方針を打ち出した。ベトナム戦争の激化に伴い安保体制の下で参戦国化しつつあった佐藤政府に対する抗議を旗印に反戦青年委員会を巻き込みながら闘争が組織化されていった。

 10.8日、武装した三派全学連と革マル派全学連の部隊は羽田空港へと向かった。社青同解放派9百名、中核派1千名、革マル派4百名がそれぞれ機動隊と激しく衝突した。機動隊は60年安保闘争以来初めてガス弾を使用した。この時、中核派のデモに参加していた京大生山崎博昭氏が警備車両に引かれて死亡するという事件が起こった。北小路敏元全学連委員長ら58名が逮捕された。結果として佐藤首相は羽田を離陸したが、これが「第一次羽田闘争」と云われているものである。この闘いが60年安保闘争後の低迷を断ち切る合図となって新左翼運動が再び盛り上がっていくこととなった。そういう意味で、「第一次羽田闘争」は「革命的左翼誕生の日」として新左翼史上に銘記されることとなった。

 また、ヘルメット・角材などが初めて最初から闘争の武器として用意され闘われたという点でも転回点となった。これは65年あたりから機動隊の装備が向上し、装甲車、高圧放水車、ガス銃、防石面つきヘルメット・ジュラルミン盾などが登場していたという背景と関連していた。この間の機動隊によるデモ隊の「先制的並列サンドイッチ規制」がデモ隊に無力感を与え、いずれ闘争現場で乱闘することが双方明白になっていた。学生側には、機動隊のこの規制をどう打ち破り、壁を如何に突破するかという対応が課題となり、遂にこの頃から学生運動急進主義派の方もヘルメット、タオル覆面、ゲバ棒という闘争スタイルを編み出していくことになった。「直接行動ラジカリズムの全面展開」、「組織された暴力の公然たる登場」とも云われている。

 この闘いを一つの境として、全学連急進主義派は自衛武装の時代からこの後街頭実力闘争へ、更に解放区−市街戦闘争へ、更に爆弾闘争へ、ハイジャックの時代へと突入していくことになる。なお、この日、民青同系全学連は、形だけの代表数十人を羽田に派遣しただけだったと云われている。あいにく「赤旗祭り」が多摩湖畔で開かれていた。

【激動の7ヶ月諸闘争】
 これより以降の7ヶ月は後に「激動の7ヶ月」と云われるて街頭実力闘争の連続となる。ベトナム反戦闘争、佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争、王子野戦病院建設阻止闘争、三里塚空港阻止闘争、第二次羽田闘争へと立て続けに闘争が爆発していくことになる。この闘争を通じて三派全学連の特に中核派の行動が目立った。

 この頃から「ヘルメット、タオル覆面、角材ゲバ棒」という闘争スタイルが定着した。この闘争スタイルは、当時の法規制すれすれの自衛武装戦術であり、これを牧歌的といって了解することが適正であるかどうか疑問も残るが、この頃の政府自民党、警察警備隊指揮者にこれを許容するなにがしかの思いがあり、そう云う意味では取締り側にも手綱を緩める度量があったのかも知れない。

 そういう「牧歌的のどかな時代」が許容した範囲において、秋山勝行委員長の下で新三派系全学連は機動隊に突進していく闘争を展開していくことになった。これに対して、警察はこれを実地訓練と見、またどんどん逮捕して保釈金で財政的にも締め上げ弾圧していく。しかし、それでも闘争が闘争員を生みだし、新三派系全学連が急速に力を増していくことになった。中でも中核派の伸張が著しく、反代々木系の最大セクトに成長していくことになった。これについて、筆者はかく思う。限定付きでは有るが、良く闘ったという意味で称賛されるべきであろう。

【三里塚闘争】
 11.3日、「三里塚空港粉砕・べトナム反戦青年総決起集会」が三里塚で開かれ、この日、三派全学連7百名と反戦青年委員会の部隊が三里塚闘争に初めて組織的に参加し、空港予定地をデモ。

【第二次羽田闘争】

 11.12日、佐藤訪米実力阻止闘争(第二次羽田闘争)。社学同.社青同解放派は前夜中大に終結し、中核派も合流し東大に籠城した。この時も三派全学連3千名が羽田空港近くの大鳥居、羽田産業道路付近で機動隊と衝突した。羽田付近に到着した反中核派連合は、丸太をかかえた「決死隊」を先頭に、機動隊の阻止線を突破、激突をくりかえした。空港付近で機動隊と激しく衝突。学生運動史上最高の333名を越す大量検挙となった。

 反戦青年委員会主催の決起集会も、日比谷野外音楽堂に5千人を集めて行われた。革マル派は東粕谷中学校に結集、穴守橋へと向かったが、機動隊のサンドイッチ規制で、平和島までひきかえした。民学同・フロントなどの構造改革派系学生も別行動で参加しデモ。民青同系も約200名がゲート前で「佐藤訪米反対」を唱えている。

 この時の特徴として、機動隊側の装備の格段の充実が為され、検問強化.催涙ガス弾の容赦ない発射を浴びせられている。しかし、三派系は第一次、二次羽田闘争を高く評価し、ゲバルト闘争に自信をもたらし、「守りの運動から攻めの闘争へ移行し、定着した」と総括している。

 その一方で、各党派は、羽田闘争の評価をめぐって数多くの論争を産みだし、新たな党派の再編と分岐を準備する前段になった。中核派、社学同、ML派は、街頭実力闘争を評価し、「組織された暴力とプロレタリア国際主義の前進」(社学同)、「武装することによって7ヶ月の激動を勝利的に展開し、70年安保闘争を切りひらいた」(中核派)などと総括した。一方、革マル派、構改諸派は「街頭実力武装闘争は小ブル急進主義」とし、組織的力量を蓄えていくことの方が重要であると主張した。また、社青同解放派は「いったん持ったゲバ棒を二度と手放そうとしないのは誤りである。問題は街頭のエネルギーを生産点に還流し、労働者と結合していくことが重要」と総括した。


 12.1日、中核派機関紙「前進」紙上での秋山委員長の発言は次の通り。

 「羽田闘争の衝撃が大きかったのは偶然ではない。支配階級にとっては『革命を現実的なものとして恐怖』し、死に物狂いで反撃に転じさせると共に、闘う側にとっても闘いは単なるおしゃべりや空想の産物であることを止め、勝利か敗北か、生か死かを究極にまで突き詰めることを要求されるのである。そうした意味で、羽田闘争は社共など公認の既成指導部のあらかじめ敗北した運動を乗り越える地平にある」。
 「羽田の闘争が示したものは、スターリン主義の決定的反動性である。日本共産党が果たした犯罪的役割には計り知れない程である」、「羽田闘争の最も重大な核心点の一つを為す官憲の虐殺行為に対しても、権力に手を貸し、闘う学生の死をあざ笑っているのだ。我々は絶対に許すまい」。
、「エセ『共産主義』国の反動的本質を今こそ決定的に打倒しなければならない。学生戦線における民青『全学連』の反動性を全大衆の力で暴露し、羽田を闘い得ず、逆に闘いに襲い掛かる彼らを徹底的に追放しよう」。

【エンタープライズの寄港阻止闘争】

 12.2日、政府はこの日の閣議で、アメリカ第七機動艦隊の旗艦原子力空母エンタープライズの日本寄港を了承した。エンタープライズは加圧水式原子炉8基を推進力とし、戦闘機など70〜100機を搭載する巨大原子力空母であった。政府は当初予定していた横須賀を避け、佐世保を寄港地に決定した。以降、寄港阻止闘争が始まる。

 12.4日、全学連(三派系)が清水谷公園エンプラ寄港阻止決起大会を開催し、4百名結集、集会前、中核派と社青同解放派が衝突、米大使館デモ。


【中核派全学連誕生】

 12.17日、中核派が、法政大・板橋区民会館で、秋山委員長、青木情宣部長(広島大)、金山克己中執委員らを迎えて単独で全学連主流派大会を開く。中核派の千名が参加し、エンプラ寄港阻止佐世保現地闘争を第三の羽田≠ニして闘うことを決議、現地派遣団の組織化・越冬体制を決定。


【社青同解放派が反帝学評を結成】

 12.17−19日、社青同解放派が、全国反帝学生評議会(反帝学評)を結成し、早大で大会を開催した。48大学代表の4百名が参加し、反戦・反ファッショ・反合理化闘争推進等を決議(議長・三井一征)した。


 これより後は、「8期その1、全共闘運動の盛り上がり」に記す。



(私論.私見)