【れんだいこの日本左派運動に対する提言】
ここまで筆者なりの戦後学生運動史を検証してきた。ここら辺りで、戦後学生運動史検証の総纏めとして処方箋を提示しようと思う。これを仮に「れんだいこ提言」と命名する。理論は理論として止まるべきではなく、正しい指針の下に実践を生まねばならないと思うからである。知行合一は陽明学思想として知られるが、日本左派運動は陽明学によろうがよるまいが、これを作風とせねばならない。
付言すれば、理論が理論として止まるほうが良い場合もある。それは理論が拙い場合に於いてである。全貌はまだ分からないが、オウム真理教のポア理論の如くなものがこれに当たる。ポア理論のような危険なものを先走って実践されるのは大いに迷惑であり、せめて机上学にとどめるべきであろう。処方箋を出せばろくなことにならないのは自明であろう。この場合に限って理論は理論に止めておくのが賢明であろう。
以下、数々の提言をしていくが、いずれも、もつれにもつれた糸を解きほぐし、どう再出発すべきかの観点からの処方箋である。この観点抜きの糸が絡まったままの左派運動は進展すればするほど余計に自縄自縛に陥るであろう。実践的にもやがて下降線を辿る以外になく、いずれ歴史博物館の標本になるだろう。筆者提言は、次の諸内容で構成される。
目次
提言1 | 汝自身を知れ、年相応の分別を弁えよ。 |
提言2 | ネオシオニズムに対するそもそもの無知から出藍せよ |
提言3 | 反ネオシオニズムの共存共栄型民族主義運動を新創造せよ |
提言4 | 日本歴史の歩みを評価し、在地土着型社会主義を目指せ |
提言5 | 自由自主自律型の左派運動を創造せよ |
提言6 | 戦後憲法秩序=プレ社会主義論により護持成育せしめよ |
提言7 | 市場性社会主義経済論を創造せよ |
提言8 | 統一戦線論を否定し、共同戦線論に転換せよ |
提言9 | 党中央拝跪型民主集中制論から出藍せよ |
提言10 | 暴力革命論、プロレタリア独裁論を正しく理解せよ |
提言11 | 革命の青写真を持て |
提言12 | 日共式穏和主義反対運動の欺瞞性、反動性を弾劾せよ |
提言13 | 日共のネオシオニズム奴隷的本質こそ疑惑せよ |
提言14 | 徳球対宮顕の逆転倒錯評価を許すな |
提言15 | 伊藤律の浦島太郎節を傾聴せよ |
提言16 | 自民党内ハト派政治を再評価せよ |
提言17 | 角栄政治を再興せよ |
提言18 | 組める相手と組み、組めざる相手と組むな |
提言19 | マルクス主義的階級闘争論の一辺倒から抜け出せ |
提言20 | 学生運動の可能性と限界考 |
提言21 | 第一次ブント称揚論 |
提言22 | 民主連合政権運動の再構築へ向かえ |
提言23 | 著作権論の変調理解、即ち強権著作権論と闘え |
提言24 | 天皇制問題考 |
提言25 | 左派運動総評として軍師と史家を持て! |
【提言1、汝自身を知れ、年相応の分別を弁えよ】
(はじめに)
「汝自身を知れ、年相応の分別を弁えよ」を提言1とする。 大事なことは全て抽象的な文句により表現される。抽象は具体性には欠くが汎通性を持つという特徴がある。これを最初に記すということは、云うまでもないが最重要な提言であることを意味する。なぜ、これを最重要提言とするのか。それは、あらゆる問題がいつでもここに立ち戻るからである。関連する類の論考はサイト「思索ノート集」に記す。
「汝自身を知れ」。これを「提言1の1」とする。
「汝自身を知れ」は、古代ギリシャのアポロン神殿に刻まれていると聞かされている。哲学者ソクラテスの「無知の知」の言の絡みでも知られている。筆者は、つくづく名言にして神言であるように思う。人は自分自身であるのに己を知らない。故に神ならぬ身を弁え、足下を照らして自身がまず何者であるかを知ることから始めよ、これが万事の始まりであり終わりである、汝は汝自身を知る度合いに応じて汝足りえていると云われているような気がしてならない。
この名言は、日本の古神道的叡智にも通じている。古神道では、身の内の小宇宙は身の外の大宇宙と相似象的に通底しているとしている。従って、この認識によれば、小宇宙の「汝自身を知る」ことは大宇宙の世界事象を知る度合いと釣り合っている。汝自身を知ることが重要である所以である。
人の一生というのは、汝自身を知らぬまま愚頓と混迷のうちに過ぎ、やがてその生を終える。そういうものでしかない。が、居直るのも問題であろう。知れば知るほど進めば進むほど奥が見えて来て見果てぬ探訪になろうが、この道中より生まれ出て来る分別こそが肝要なのではあるまいか。その為には、極力、自身の立ち位置を自己了解しておくべきであろう。これを客観化と云い、人は客観化の度合いに応じて自己了解の域が広がり主体的に生きることができる。
汝は自身ばかりを指さない。汝が属した党派をも汝と仮定できよう。党派を包摂した運動全体を汝と仮定することもできよう。学生運動史の検証から浮かび上がることは、戦後学生運動を汝と見立てたとき、その渦中にあった者でも汝を正確には確認し得ておらず、活動家自身が自己の歴史的立ち位置の相対化を為しえていないように思われることである。全体が分かっていないのに分かったようなつもりになっているに過ぎない。それは一知半解の謗りを免れないのではなかろうか。自分が属した党派運動から見ただけの運動論で突っ走るのは危険であろう。これでは運動が首尾よく進展しないのも道理であろう。
これをできるだけ客観化する為には、一旦は運動の全体像を炙(あぶ)り出さねばならない。その上で、汝の歴史的な立ち位置を確認せねばならない。主体性は客観性に支えられてこそより発揮できる。即ち、日本左派運動の歴史的な流れを正しく知り、旧の中から受け継ぐべきものを受け継ぎ、足らざるものを補い、新たなる創造と発展を期すことを作法とせねばならない。その為に「何を分別し何を為すべきか、為さざるべきか」、これを問うのが肝心である。この水路からのみ正しい処方箋が生まれるのではなかろうか。そういう意味で、我々はまず第一に「汝自身を知らねばならない」。だがしかし、筆者は左様な労作を目にしていない。そういう思いから、こたび筆者なりの戦後学生運動論を書き上げた。当然、これも叉試論に過ぎない。
一言しておけば、学生運動がそういう一知半解運動だったにしても、筆者は、これを擁護する。「世界の了解的営為」をそれとして評価するのではなく、次代を担う青年たちが、その為に如何に天下国家、社会に思いを凝らし格闘したかという面で、これを称賛しようと思う。人の成長過程にはこうした時期が必ず必要ではないのか、今日そういう時期を経ずに社会に出向き、小平和をそれという自覚もないまま享受しているように見えるが、それは儚く危険な夢ではないのかと思っている。当時の青年たちにとって、実際にはもっと賢い過ごし方があったのかも知れない。だがしかしそれは後付けで云えることであり、かの時代にはここに記述したような生き方こそが最もヴィヴィビッドに青年の胸を捉え、それが時代のニューマでもあった。そのことを強調しておきたい。
いみじくも筆者が畏敬する不世出の政治家田中角栄は次のように云っている(田中角栄については、「提言17、角栄政治を再興せよ」で別途検証する)。角栄の盟友的秘書・早坂氏の著作「オヤジの知恵」より引用し、筆者風にアレンジする。
概要「1970の安保闘争の頃、フランスのル・モンドの極東総局長だったロベール・ギラン記者が幹事長室の角栄を訪ねて聞いた。全学連の学生達が党本部前の街路を埋めてジグザグデモを繰り広げていた。ギラン曰く、『あの学生達をどう思うか』。角栄曰く、『日本の将来を背負う若者達だ。経験が浅くて、視野は狭いが、まじめに祖国の先行きを考え、心配している。若者はあれでいい。マージャンに耽り、女の尻を追い掛け回す連中よりも信頼できる。彼ら彼女たちは、間もなく社会に出て働き、結婚して所帯を持ち、人生が一筋縄でいかないことを経験的に知れば、物事を判断する重心が低くなる。私は心配していない』。私を指差して話を続けた。角栄曰く、『彼も青年時代、連中の旗頭でした。今は私の仕事を手伝ってくれている』。ギラン曰く、『ウィ・ムッシュウ』と微笑み、私は仕方なく苦笑した」。 |
日共から目の仇にされ、諸悪の元凶視されてきている角栄であるが、筆者の評は違う。第64代首相の角栄は、「戦前戦後通じて不世出の異能政治家」と称されるべきであろう。その角栄の学生運動活動家を見る眼差しは、かく温かかった。というか、筆者は、角栄は本質左派の偽装体制派の権力者であったのではなかろうかと推定している。
それに比して、日共の学生運動観は邪鬼を見るように厳しかった。筆者は、角栄と対極的に本質右派にして左派に闖入した偽装左派ではなかったかと推定している。日本の近現代政治史にはこういう倒錯が垣間見える。これが生身の政治の実態であることを知らねばならない。それはともかく、時の政権支配者が、こういう眼差しで学生運動を見ていたところに、当時の戦後学生運動家は感謝せねばなるまい。「親の心子知らず」では、ろくな運動が展開できまい。
かく構えて、戦後の敗戦の荒廃と不戦の誓い、鳴り物入りで導入された戦後民主主義の理念と諸制度、国家再建の歩みの中から生み出された学生運動の経過を共認していきたい。まだまだ資料が揃わず、且つ筆者の能力が乏しく咀嚼しきれていないところ多々あるが、どうぞ諸賢の力を貸していただきたい。そして、現代、次代の青年子女に読ませたい。ここから生み出される知恵は必ずや明日の社会づくりに有益に資するものがあると思うから。
今我々が確認せねばならないことは次のことである。なぜこの運動が潰れたのか、潰されたのか。その原因を尋ねずんばなるまい。筆者が考えるのに、一貫して横たわっているのは「理論の大いなる貧困」ではなかろうか。これを踏まえずに、左派戦線のかような無惨な落ち込み期に旧左翼であれ新左翼であれ、今なおしたり顔して人様に説教ぶるなどという痴態を許してはならない。その種の厚顔無恥な連中をよそに一路検証、新理論の創造に向かわねばならない。この姿勢が肝要であるように思われる。
「年相応の分別を弁えよ」。これを「提言1の2」とする。
これを提言するのは、「提言1の1、汝自身を知れ」に於ける知性は二通りにトレースされるべきだと気づいたからである。具体的には、若い時の分別と還暦期の分別に分けて考察されるべきではなかろうかということになる。実際には、その中間項として、青年期分別から還暦期分別に至る振り子の如く行きつ戻りつする壮年期の分別が考えられる。認識はかく、いわゆる弁証法的構造になっている。この識別が存外大事なのではなかろうか。筆者は、この観点を得ることによって、学生運動観を相対化することができたように思う。
若い時の「汝自身を知れ」は、それまでの成長期に培った個人的感性、知性を原資にして活動に取り組むのが流れとなる。青年は青年期特有の尻軽の勢いを特質とし、体内燃焼の活発さに応じて自ずと過激急進主義的に取り組む。これが青年期の特徴だからして、このことが悪いということでは決してなかろう。この過程で更に体験、経験を積み重ね、理論を吸収しながらあるいは切磋琢磨しながらあるいは生を享楽しつつ次第に自身に似合いの智を獲得する。これが流れに逆らわぬ成長の仕方であり、それで良いのではなかろうか。これを仮に「青年期智」略して「青年智」と命名する。
問題は、青年智からいつ脱却するかであろう。これは分別のその後の到達点を仮に「還暦期智」略して「還暦智」と命名すると、青年智から還暦智へはどのように変転して行くのだろうか、これを愚考したい。ここでは還暦智の側から考察したい。還暦智は青年智に比べ、次のような出藍ぶりを見せるのではなかろうか。
青年智が親元を離れ、故郷を離れ、コスモポリタンに憧れる傾向を強める。やがて社会に出て稼ぎ手になりながら世間に揉まれる。この段階の智を「壮年期智」略して「壮年智」と命名する。「壮年智」は「青年智」のパフォーマンスであり、多岐多様な在り方を見せる。仕事を持ち、家庭を持ち、様々に履歴しながらな体験、経験を積み重ね、理論を切磋琢磨しながら次第に自身の気質、能力に応じた智を獲得する。いずれにせよ、社会での落ち着き先を見出す。
次に還暦智が訪れる。還暦智には明らかに違いが認められる。青年智が肯定より否定に向かいがちで、流行理論を追っかける傾向が認められ、壮年智が自身のパフォーマンスに精一杯となり、いわば自己発のあれこれで社会に関わるのに比して、還暦智は角栄の云うが如く重心が低くなり、世間の持ちつ持たれつ関係を味わうようになり、いわゆる円熟味を増す。還暦智は青年智、壮年智とは逆コースに向かい始め、次第に帰巣本能を強め、更には己の出自の「民族的宗教的紐帯」を嗅ぎ分けるようになる。民族的宗教的紐帯とは社会的アイデンティティーとも言い換えることができよう。これは、青年智、壮年智には備わらない智ではなかろうか。
民族的宗教的紐帯に対する気づきは「いわば正しい民族的宗教的紐帯への覚醒」まで問う。興味深いことに、これに青年智が大いに関係するように思われる。なぜなら還暦智は単に壮年智の延長としてもたらされるのではなく、突如青年智を復活させ、さて余生をどう生きるべきかを問い掛ける面があるからである。そういう意味で、青年智が格別重要なことが分かる。青年智を疎かにする者は還暦智を運命づけるからして、若い時の脳に刻まれるシワこそ財産なのかも知れない。こうして、還暦智も又要するにその人に似合いのものを導き出す。これが一般化するのかどうかは分からないが、筆者はこのように自問自答して来たし、筆者的変化は普遍性を持つと考えている。
留意すべきは、青年期に培った批判精神を媒介させるのとさせないのとでは還暦智の出来上がりの質が違うことであろう。青年期に批判精神を養わないと還暦智に於いてもやはり当局言いなりの御用的通俗智にしか辿り着けない。分かりやすく云えば、政府やマスコミがプロパガンダする通りの口真似しかできない。青年期に批判精神を養っておけば、古よりの民族的宗教的紐帯の真の流れを嗅ぎ取りつつ時代変化に合わせると云う課題をも引き受けながら新しい認識を獲得せんとするようになるのではなかろうか。
この精神行脚過程を「成人」と云うのではあるまいか。「成人」とは、身体の成人的変化のみならず精神の成人的変化をも云う。後者の変化を辿らない成人は、「肉体老人、精神未成人」と云われて然るべきだろう。その基準をどこに置くべきかが問われるが、絶対的基準というものはなく、相対的に判断されるべきであろう。今日、「肉体老人、精神未成人」が多過ぎる世の中になりつつあるのは確かである。
この未成人が社会的権力を持たない限りは人様々であろうから大過ない。問題は、「肉体老人、精神未成人」のみならず「肉体未成人、精神未成人」な手合いまでもが大量生産されつつあることである。彼らが社会の要職に就き、中枢にのさばり、権力的に良からぬ事をし始めたらどうすべきか。もはや掣肘せねばなるまい。そうしなければろくな世の中にならず為になるない。現下の政治貧困は、この辺りに起因しているのではなかろうか。
還暦智は、己の社会的責任を嗅ぎ分け、身の回りを処理し、仕事をこなし、地域や職場や団体での協調と指導能力を磨き、良き後継者を育成せんとし始める特徴を持つ。田中角栄の「次第に重心が低くなる」なる弁は、このことを述べているように思われる。筆者が憧憬する天理教教祖中山みきは「山の仙人、里の仙人。里の仙人になれ」と指図している。毛沢東式大衆路線論も同じ意味であろう。その手法もこれまた人により千差万別で、体制内改良主義から革命主義まで、穏和主義から急進主義までいろんな手法がある。人様に極力迷惑をかけない限りに於いては、そのいろんな型が認められるのが健全であろう。肝腎なことは、共同し合えるかどうかである。改良主義と革命主義、穏和主義から急進主義は本来ぶつかり合うものではない。むしろ互いに縁の下の力持ちとなって助け合う補完関係に在るというべきだろう。
これが見識になるべきところ、どういう訳か日本左派運動には通用しない。「我が」、「我が」とお山の大将になり、どちらかが相手を倒さないと気がすまないらしい。それでいて左派運動的に何らかの前進なり権力樹立まで辿り着いているのならまだしも却って後退している。否博物館入り前まで追いやられている。こうなるとオカシイというより滑稽なことであるが、実際には多くの血が流されているのでからかう訳にはいかない。補足しておけば、党派間ゲバルトについては、筆者は内ゲバ問題とはみなしていない。これについては、「提言12の暴力主義を否定し競り合い運動に転換せよ」で言及する。
もとへ。それもこれも、汝自身を知らない、分別を弁えない咎めではなかろうか。本来はこのように発育して行くのが自然なところ、現代人は妙なほどに「汝自身を知ろうとしない、分別を弁えない」安上がり人間にされている気がしてならない。社会が健全に発達していたと考えられる時点に於いては、いつでも上下問わず人には皆、この弁えが有る。逆の場合には、この弁えを欠く。筆者は、これは偶然ではなく、意図的故意な愚民化政策によりもたらされているのではあるまいかと疑惑している。従って、これは解ける問題である。とりあえず、以上の気づきを提言しておく。誰か、この気づきを共認せんか。以上を提言1としておく。
【提言2、ネオシオニズムに対するそもそもの無知から出藍せよ】
(はじめに)
「ネオシオニズムに対するそもそもの無知から出藍せよ」を提言2とする。 この観点は、筆者がインターネットに登場して以降に獲得したものであり比較的新しい。主として太田龍・氏の見解から学んでおり、なるほどと思うので提言しておくことにする。太田氏は、この問題を左派出自の者から捉え紹介した最初の偉人である。太田氏は当初スターリニズムと対抗したトロツキズムをこれこそ純正マルキシズムとして称揚した。しかし、トロツキズムに認められるネオシオニズム性に気づき、遂に自己否定するに至った。この間の太田氏の理論的営為の苦闘は高く評価されるべきであろう。
2009.5.19日、太田氏は、腹膜炎のため急逝した(享年78歳)。太田氏の逝去により、日本におけるネオシオニズム研究の背丈が格段と低いものにならざるを得なくなった。それを思えば痛恨事である。筆者は生前一度お会いしたきりになってしまったが、その時の印象は履歴から想像される闘志風ではなく学者然としており、否学者でもない寧ろ思想家としての風貌を湛(たた)えていた。本書を大田龍・氏の霊前に捧げたい。如何に評してくださるのであろうか。今や聞くすべがない。
筆者が太田氏から得たのは、国際金融資本の裏政府的世界支配論である。未だに識者の多くは、この見立てを陰謀論として却下している。これを仮に「陰謀不存在陰謀論」と命名する。筆者は、これを真実とみなしているので、これを仮に「陰謀存在陰謀論」と命名する。同じ陰謀論であるが、意味するところは真反対になる。筆者的見地に立てば、現に仕掛けられている陰謀を、社会科学用語で「国際金融資本帝国主義ネオシオニズム」(略して「ネオシオニズム」)と命名することになる。しかしてその実体権力を国際金融資本、その政体をロスチャイルド派帝国主義、彼らの支配を支えるイデオロギーをネオシオニズム、その系譜をユダヤ教パリサイ派、その表出権力を米英ユ同盟とみなしている。この辺りになると、太田氏の見解とどこまで一致するのか分からない。そういう意味で、筆者なりの咀嚼の産物であることをお断りしておく。以下、論証する。詳論はサイト「ユダヤ主義考」所収の「ネオシオニズム考」、「ネオ・シオニズム系組織及び機関考」に記す。
「レーニズム式帝国主義論を捨てネオシオニズム論を構築せよ」。これを提言2の1とする。
日本左派運動の教条は、近現代史の抗争軸を帝国主義論で読み解く。いわゆるレーニズム式帝国主義論は、各国ごとの帝国主義を論(あげつら)い、不均等発展に於ける新旧帝国主義の覇権争いの動きを分析しているが、金科玉条とすべき見立てなのだろうか。ネオシオニズム論の登場は、レーニズム式帝国主義論への固執に代わる知見であるように思われる。しかし、そう見立てる者は少ない。
しかしながら、近現代史の特徴は西欧世界に於けるネオシオニズムの台頭と共に彼らに世界が操られ、呑み込まれて行ったところにあると窺うべきではなかろうか。マルクス的資本主義論、レーニン的帝国主義論は、この実態をそれとして見ずむしろ隠蔽する煙幕的役割を果たしているのではなかろうか。マルクス主義を墨守するのではなくむしろ総検証が促されている所以である。そういう意味で、我々がマルクス的資本主義論、レーニン的帝国主義論を読み込む場合、資本主義、帝国主義とあるところを忽ちはネオシオニズムと置き換えて読むのが正しいとすべきであろう。
「イエスの御教えとパリサイ派教学の絶対的二項対立を知れ」。これを提言2の2とする。
ところで、ネオシオニズムというのは筆者の造語である。世上のネオ云々用語に模して使っている。ネオシオニズムは、史上のユダヤ教パリサイ派へとさかのぼる。彼らの歴史は悠久であり、フリーメーソン暦では西暦2009年は6009年になると云う。つまり、紀元前4千年前即ち6千年にわたる歴史を持っていることになる。かくも長期間悪事を働き続けていることになる。彼らは、紀元前後のイエス教の発祥時、イエスが最も激しく論難したことで知られている。「イエスの御教えとパリサイ派教学の絶対的二項対立」を読み解かなければ、思想史の本質が見えてこない。
イエスの教えるところ、パリサイ派の思想とは、神の御名を唱えて神を冒涜し、祭壇をマーモン(金権)で汚し、「金力こそ真の権力」とばかりに蓄財に励み、行く手を遮る者には徹底報復あるのみを良しとし、慈悲精神を排斥するサタニズム思想に犯されたもう一つの原理主義信仰であった。彼らは彼らなりの生活智と精緻な学的体系の伽藍を構築している故に手強く、難敵であった。イエスは最後まで論難し続け、我が率先すると云うメッセージを残してエルサレムに赴(おもむ)き、刑場で磔にされるまで挑み通した履歴を遺している。これについての詳論はサイト「イエス教」に記す。
磔刑に処せられたイエスの言行録はイエス教として確立されるべきであった。ところが史実は、ユダヤ教学に深く汚染された福音書執筆者の手により捻じ曲げられた。イエスの言行を散りばめてはいるがイエスの御教えとは別系の教義として編纂され、キリスト教として継承されて行くことになった。キリスト教の教義的不正がここに認められる。筆者に云わせれば、キリスト教はイエス教をユダヤ教の再臨思想をベースに焼き直したもので、「イエスの御教えとパリサイ派教学の絶対的二項対立」を曖昧糊塗させた折衷宗教でしかない。このことを確認しないと有益なキリスト教論にはならない。
昨今の原理主義キリスト教なるものは、キリスト教を福音書レベルよりなお一層ユダヤ教ナイズ化せんとする原理主義であり、イエス教の解体でしかない。本来の方向はイエス教の再興であるべきなところ、逆方向すり替えでしかない。原理主義キリスト教なるものの胡散臭さイカガワシサはここに淵源がある。かく確認しておく必要がある。
「ユダヤ教内パリサイ派のサタニズムとは何か」。これを提言2の3とする。
イエス在世前後のユダヤ教勢力は、パレスチナの地に住み、信仰に於いても政治に於いても分裂対立し内部抗争に明け暮れていた。かってのユダヤ王国は外敵と内部溶解により崩壊しており、その末裔としてローマ帝国の支配下にあった。当時のユダヤ教徒は、この惨状に対して、如何にしてユダヤ王国を再興するのかが関心事であった。この過程で原理主義的急進主義派としてのパリサイ派が台頭し、凄惨な内部抗争を経つつ幾度もローマ帝国に反乱し続けていた。この過程での悪知恵と残虐非道、執念に手を焼いたローマ帝国は、紀元135年、バル・コホバを指導者とする第二次ユダヤ戦争(バル・コクバの乱)に勝利した際、ユダヤ全土の名称をユダヤの仇敵ペリシテ人にちなんで「パレスチナ」と土地名を変更し、ユダヤ人を所払いした。
かくて、ユダヤ人たちはパレスチナの土地から追放され「流浪の民となる」。ある者はエジプトに、ある者はバビロニアに、ある者は小アジアに、またある者は南ヨーロッパへと流浪していった。このユダヤ人の離散が「ディアスポラ」(民族離散)と呼ばれているものである。これにより、ユダヤ教勢力は世界中へ離散し、キリスト教国化した各国の社会の一隅で非融和的社会を形成し生息した。後にこれがゲットーと云われることになるが、ゲットー的生息は単に弾圧された姿ではなく、好んでそうすることにより独特の宗派生活を維持し得たという事情も絡んでいる。この間、パリサイ派は、いわゆる旧教に代わるタルムードなるユダヤ教の手引き教義を生みだしている。中身が公開されていないが、筆者の知るところ世界に類例のない悪徳教本となっている。この時期、ユダヤ教勢力は結果的にいわば雌伏した。この期間を、彼らの世界史では中世と云う。
彼らは、モンゴルの東欧席巻、十字軍戦争を経てルネサンス時代になって漸く出番を迎える。これらの世界史的事変の背景にユダヤ教勢力の暗躍が認められるが、ここではこれに言及しない。いずれにせよ、ユダヤ教勢力は、16世紀頃より以降急速に社会進出を成し遂げて行くことになる。ルネサンスと共に始まった産業革命の果実を資本主義的に利用することで富を一挙に膨らませて行く。この頃、公民権獲得運動に乗り出している。ルネサンス的イデーに基づき、独善的なユダヤ教から抜け出し市民同和化しようとしていた形跡が認められる。
他方、市民同和化に反対する原理主義が台頭する。ネオシオニズムは、この流れから生み出されたものである。この連中が営々と勢力を扶植し、その後世界中に国際的シンジケートを張り巡らしつつはるけき今日へと至っている。彼らは伝統的に表に出るよりは裏から各国政府を操り世界を靡(なび)かせるという政治手法を特技としており、そういう必要から秘密と陰謀を好み、時代に合わせて数々の秘密結社を創設している。
彼らの思想及び哲学には、ヤルかヤラレルか、ヤルなら徹底的にヤルしかない。手加減そのものが悪徳とされている。その精神にあるのは、手前達は神に選ばれた選民であり、その他の民族は畜生類のゴイム賎民に過ぎない、ゴイムを家畜化しようが煮て食おうが焼こうが自由であり権利であるとする手前勝手な思想を生みだしている。サタニズム(悪魔主義)と云われる所以である。共生思想と最も無縁なところで思想形成しているのがネオシオニズムの特徴である。故に彼らは、自己に都合のよいような動乱、革命を引き起こし、傀儡政権を後押しし、抵抗する者には何のためらいもなく確信的に「ゴイム屠殺論」に基き情け容赦ない強権弾圧をお見舞いすることができる。
史上の諸民族の中で、正義の美名の下で確信犯的にかくも残虐非道を為し得るのは彼ら以外には認められない。ウソと思うなら、現下のパレスチナ難民、特にガザの悲劇を見よ。ネオシオニズムのらしさが如何なく発揮されている紛争地域である。とくと見よ。彼らは、世界に向けては国際法なるものを構築し、平時には自ら説教しその基準を押し付けるが、一朝ことある時には平気でかなぐり捨てフリーハンドな蛮行に走ることができる。そういう得手勝手な法理論に耽っている。これにより悪業の限りの残虐非道を為し得ている。この観点から、イスラエルの蛮行を凝視せねばなるまいに批判の声が弱々しい。宗教者、人道博愛主義者は世界に数多く居るが、見てみないふりをしている。とんだエセヒューマニストと云うべきではなかろうか。ネオシオニストの蛮行を咎められない国連なるものの正体を見抜くべきではなかろうか。
「『シオン長老の議定書』の戦略戦術を知らねばならない」。これを提言2の4とする。詳論は「シオン長老議定書考」に記す。
ネオシオニズムをより正確に規定すると、18世紀後半のロスチャイルド1世の秘密講義録を元にして作られた世界支配マニュフェスト「シオン長老議定書」に基づくロスチャイルド派の世界支配運動であり、それはサタニズムと蓄財帝国主義とシオニズム運動を特質とすると定義することができる。この「シオン長老議定書」を読み解かなければ近現代史は見えてこない。「シオン長老議定書」とは、タルムード教義から導き出されたユダヤ教パリサイ派の近代版政治指南書と位置付けることができる。
ネオシオニズムの危険性について、東洋の極東に位置する日本からは想像もできないが、西欧圏、中近東圏ではかくも長期間、パリサイ派を震源とする「ユダヤ禍」との争いを演じて今日に至っていることを知らねばならない。これらの地域に於けるネオシオニズムに対する警戒観念には尤もな理由と根拠に裏付けられていると窺うべきであろう。
世上では、陰謀主義についてマキャベリズム、ユダヤ人迫害についてナチズム、強権的統制的政治についてファシズムをもって代名詞としており、左派圏内では議論の余地のない悪質なものであるとされている。が、筆者は合点しない。筆者の見るところ、パリサイ派の教義であるタルムードこそが全ての悪徳要件を備えている。そのタルムードの教えから導き出されたのがネオシオニズムであり、これこそ史上のあらゆる悪業の本家本元であり源泉であるように見える。人類史上の悪業は全てネオシオニズムの内に胚胎しており、現に今もなお至るところで確認することができる。そういう意味で、マキャベリズム、ナチズム、ファシズムなる用語の無造作な使用は問題なのではなかろうか。より正しくはネオシオニズム叉はタルムーディズムと云うべきであり、かく云い換えたほうがより正確なのではなかろうか。これを理解しない者は、それだけネオシオニズムに籠絡されているに過ぎない。
にも拘らず、日本左派運動内ではネオシオニズム批判を声高にせず、マキャベリズム、ナチズム、ファシズム、スターリニズム、テロリズムその他その他を造語して批判に向かうのを慣(なら)わしとしている。なぜこういうことが起こるのかと云うと、現代世界を牛耳っているのがネオシオニズムであり、彼らが情報コントロールしているせいであるとしか考えられない。その為に彼らはメディア戦略を重視する。「シオン長老議定書」にマニュフェストしてある通り、今日ではいわゆる先進国のメディアは総じて彼らの支配下にあり、彼らが欲することは大々的に喧伝、批判、捏造し、不都合なことは隠蔽、歪曲、差し替えする。最近の松岡農相変死事件の自殺認定、事件隠しはこれの為せる技であろう。恐らく不都合な何かがあった筈だ。
日本左派運動は、世界の左派運動も含めて、このネオシオニズムのコントロール下にある。日本左派運動が、明治民権運動の頓挫以来乗り換えたマルキシズムにしても、ネオシオニズムのコントロール下で理論創造され運動展開されてきた気配が認められる。日本左派運動は、このことを知らなさ過ぎる。敢えて云えば、マルキシズムはネオシオニズム左派のようなもので、ブッシュ政権時代のネオコンはネオシオニズム右派に位置する。マルキシズムとネオコンは左派右派の違いが有るが同じ土俵に乗っている。そういう意味で、ネオコンが第4インター系の流れから創出されたのも根拠があるということになろう。第4インター系諸党派は、これにつき釈明せねばなるまい。
マルクス自身がこのことをどこまで承知していたのかは分からない。但し、かの階級闘争論、史的唯物論、プロレタリア独裁論のものの見方考え方は明らかにパリサイ派のものであり、その観点から近代的諸科学の成果を吸収して理論化したものである。その世界観、歴史観は寸分違わない。敢えて違いを見つけるとすれば、パリサイ派のそれがユダヤ教的選民主義に立脚しているのに対し、マルクスのそれはその狭い枠組みから抜け出ようとしていることにある。そういう意味では、パリサイ派内出藍系左派であったのかも知れない。しかし、マルクスは、実践局面に入ると露骨にパリサイ派式セクト主義に陥ったし、パリサイ派式に排他独善的であった。アナーキストの面々が辟易したところである。我々はそろそろこういうことを客観相対化せねばならないだろう。
そういう目で見ると、マルキシズムの国際主義が、即ち第1インター、第2インター、コミンテルン、コミンフォルムの流れが、ネオシオニズムの「シオン長老議定書」マニュフェストに基づくワンワールド思想に帰一していることに気づかされる。マルキシズム的国際主義(インターナショナリズム)は、良い意味でもせいぜいネオシオニズム左派世界の創出であり、悪い意味では盟主ソ連に拝跪させ革命祖国防衛という名の統制運動に堕し、それは返す刀で各国各地の在地主義的左派運動の創出と発展に重大な損失を与えるものでしかなかった。
我々は未だその被害を直視し得ていない。つまり、西欧被れ主義から抜け出ていないように見える。「西欧被れ批判」は、西欧に通暁することを否定しているのではない。西欧に大いに通暁すべし、されども西欧の価値基準を絶対視する勿れという意味である。ちなみに、この場合の西欧とは、ユダヤ的という意味で使っている。今日今なお日本左派運動は、この「ユダヤ主義的西欧被れ」から抜け出ていないように思われる。というか現代パリサイ派の思惟様式がますます汚染しつつあるというべきか。なぜこれを発信するのか。我々の闘う真の敵を見定めたい為である。ここが疎かにされていると思うからである。
「ロスチャイルド財閥の金融資本支配の実態を知らねばならない」。これを提言2の5とする。ロスチャイルド派の国際金融資本支配については「ロスチャイルド考」で詳論する。
近現代史を貫く真の革命勢力は、いわゆる国際金融資本帝国主義である。この勢力が1770年代に「シオン長老の議定書」に結実するネオシオニズムに基く世界支配戦略をマニュフェストして以来、世界各国は国際金融資本帝国主義に襲われるばかりの子羊と化した。この観点は現代日本白眉の思想家と評されるに相応しい太田龍・氏の諸言説に結節している。筆者は、氏の観点を受け入れる。
彼らが、「シオン長老の議定書」でマニュフェストした如くに世界を操り始めている。しかしてその首領はロスチャイルドであり、その系譜の者達である。そういう意味で、「シオン長老の議定書」の持つ意味は大きく、これを露見させたのは世界史的事件と云うことになろう。その「シオン長老の議定書」を偽書扱いする一群のサヨイストが居る。ここにサヨイストの役割がある。これと対決する以外には左派運動の真っ当な進展はなかろう。
ロスチャイルドの正体は何か。それは、史上のユダヤ教パリサイ派の近代版であり、古典的教説を当時に於ける最深レベルで焼き直した最強のイデオローグであると判ずることができる。実にロスチャイルドはユダヤ教パリサイ派のラビの系譜である。この連中が、雌伏した中世期を通じて次第に国際金融資本を形成する。この連中がそもそも資本制を導入し、西欧世界を次第に席巻し始める。
彼らの社会的台頭には多少は正の面もあった。特に初期の頃はイタリアンルネサンスと親和し、ゲットーからの解放理論を生み、それが市民化論と結びつき、市民革命を領導したことによりルネサンス気風を全欧的に切り開いた面がある。この場合、ルネサンスを「自由、自主、自律の息吹を社会全般に攪拌するイデー」という意味で使っている。近代の入り口に当たって、このイデーは確かに進歩的役割を果たした。フリーメーソは、この土俵で暗躍した秘密結社と考えられる。かの時代、多くのインテリがフリーメーソンであったのも、これに照らすと故なきことではない。
しかし、その彼らが勢力伸張させ、次第に彼らが住み着くところのそれぞれの国家の裏の支配者となって君臨し始めるや、彼らは手のひらを返した。ルネサンス的イデー即ちフリーメーソン思想をいとも容易くかなぐり捨て、典型的にはイルミナティー思想を生む。近代のユダヤ教パリサイ派が、フリーメーソンからイルミナティーに転化するに応じて先祖返りし、元々の選良主義的宗教観、世界観、社会観、処世観を満展開し始め、これに則り社会操作に着手することになった。市民革命の推進派から抑圧派に転じ、ルネサンス的イデーを自己否定し始めた。
彼らは、この転換により思想上の本音と建前を分裂させることになる。この作風があらゆる学問を汚染し始め、二枚舌学問を横行させることになった。学問が必要以上に難解、偏執的、役立たずなものになったのは、こういう背景によってであると思われる。学問が社会進歩を担わないどころか反文明的になり、そういう学問、研究が次から次へと生まれ始めたのも、これによって説明できる。現代学問の反モラル性をこれ以外に説明できるだろうか。
彼らは、「シオン長老の議定書」に基づきユダヤ王国の再興を企図している。世界支配の為の秘術と万策を尽くし、陰謀、金融支配、テロリズム、暗殺、拷問、虐待、差別、収奪、奴隷、規制等々あらゆる手段を駆使する。ネオシオニズムの登場により果てしなき資本増殖主義、金融支配、強権政治、それに伴う民主主義の形骸化、所得格差、貧富社会、無慈悲な感性、性風俗の媚態化、地球環境破壊が始まり、総じて社会を奇形化させてきた。この流れが今日へと至っている。それは、史上のパリサイ派思想の具現化そのものであり、パリサイ派思想の何たるかを示していよう。
その頭目が初代ロスチャイルド派であり、彼の子息をして西欧要衝各国に配置する等アミーバ状に触手を伸ばした結果、国際金融資本を形成する。彼らが国内では内乱と革命、傀儡政権、国外では略奪と植民地、戦争を生みだしてきた。その度に黄金金貨の山を築いた。各国の支配階級を懐柔制御し、恭順しない王朝を順次内乱的革命により打倒し、その為のカウンター勢力として議会を育成し、これを通じて王権を揺すり、総じて西欧を列強帝国主義化させてきた。各国帝国主義の背後に常に国際金融資本が潜んでおり、植民地主義へと誘導し、戦争資金を用立てては隣国同士を対立させ、戦争に次ぐ戦争を仕掛けさせ、戦争国の財政を放漫にさせ、国債発行による借金漬け国家にさせ、慢性赤字状態にしてつけ込み財政的にコントロールしてきた。
他方で、反国家、反権力運動を支援し左から揺さぶる。その反国家、反権力運動はネオシオニズム特有の二枚舌的無国籍型の国際主義運動に統制される。彼らは、狙いを定めた当該国の権力機構即ち政官財学報司の六者機関を右から篭絡する。陰に陽の秘密結社が生まれる所以がここにある。こうして様々な姦計を廻らしつつ各国政府を裏から操作する。これが、国際金融資本帝国主義の世界支配方程式である。
今日、ネオシオニズムの裏政府的国際支配は過去のどの時代よりも進んでおり、ヒエラルヒー的な搾取機関を通じて巨万の富を集積し、諸々の資源、食料、流通、消費ルートを押え、金融、保険、証券、株式市場をコントロールし、軍事、原子力、医薬、宇宙工学の最先端の動きを調御して万能権力体を創出している。グローバル化、ワンワールド化が彼らの標語であるが、その支配完成が寸前のところまで至っているとみなす。近代から現代に至る過程はこのように捉えなければ真相が見えてこないのではないのか。
「ロシア10月革命礼賛時代は終わった。ネオシオニズム問題を共認せよ」。これを提言2の6とする。
彼らは、この戦略に立ち塞がる各国王朝を順次崩壊させ、最後まで頑強に抵抗したロシアのロマノフ王朝を解体しソ連邦を創出した。ロシア10月革命の意義は、この面からも考察されねば平衡を得ない。ロマノフ王朝は日本の徳川将軍政体のようなもので、必要以上に暗黒に評されるには及ばない。
ロシア10月革命はネオシオニズム左派の引き起こした革命と考えられる。これによりソ連邦が創出され、以降世界はネオシオニズム右派の主導する資本主義対左派の社会主義がせめぎ合う体制間冷戦時代に突入した。この間、内乱と革命と戦争が絶え間なく、そのたびに世界はネオシオニズムに利する時代へと変容していくことになった。近代以降の戦争と革命は、彼らが信奉するユダヤ教パリサイ派の、その教義にも両面有る内のより悪しき面に依拠した哲学、思想、宗教、文化からもたらされるタルムード的社会観世界観が生み出し、それに基き拵えられた人造動乱なのではなかろうか。
こういう世界史の裏面を知れば、国際金融資本にしてロスチャイルド財閥及びその系譜にしてサタニズムを化身させたユダユ教義の信奉者であるこの連中が、マルクス及びマルクス主義者を手玉に取りうまく操ってきた歴史こそが左派運動史であるという裏面があるのではなかろうか。
確認すべきは、左派運動はこの始発の時点より、ルネサンス的人民大衆解放運動と現代パリサイ派にして「シオン長老の議定書」派とも云うべきネオシオニズムの奏でる世界支配運動が複雑に絡み合っていたことであろう。これに無自覚なままの左派運動は人民大衆解放運動を目指しながらネオシオニズムの下僕として立ち働くことになる。この愚を深く知ることこそ、今我々に要請されている知性ではなかろうか。
「戦前の日本軍国主義はネオシオニズムにより育成操作されたことを知らねばならない」。これを提言2の7とする。
ロシア10月革命に対して日本はこの流れと無縁ではない。日露戦争がこれに利用されたと云う意味で、日本は大きく関与していることを知らねばならない。日露戦争の敗北がロマノフ王朝の勢威を殺ぎ、ロシア革命を大きく進捗させた。ロシア10月革命後、日本は直ちにシベリア出兵に向かい、革命政権を揺さぶっている。この観点から見れば、そもそも幕末維新、明治維新、日清戦争、義和団鎮圧出兵、日露戦争、第1次世界大戦、シベリア出兵、第二次世界大戦へと至る経緯そのものが怪しい。ネオシオニズム総本家に駒として利用された挙句、大東亜戦争まで誘導された面があるように思われる。筆者が思うに、これは歴史的必然的な発展行程ではない。明らかに誘導されている気配が認められる。
記せばキリがないのでこれ以上の言及は割愛するが、世界はこういう構図にある。戦後日本左派運動、その息子としての学生運動は、現代史のこういう構図に全く無知無防備であった。否長らくネオシオニズム左派運動に組み敷かれ、そのテキストを鵜呑みにさせられている。このことを踏まえておく必要がある。以上を提言2としておく。
【提言3、反ネオシオニズムの諸国共存共栄型民族主義運動を新創造せよ】
(はじめに)
「反ネオシオニズムの諸国共存共栄型民族主義運動を新創造せよ」を提言3とする。なぜこの運動を称揚するのかというと、提言2で述べた如くなネオシオニズムにより仕掛けられているワンワールド型国際主義運動にアンチテーゼしたい為である。我々が目指すべきは、ネオシオニズム式に等級化された服務式国際主義運動であってはならない。各民族各諸国が言語も含めた固有の文化と伝統に支えられた国際主義を目指すべきであり、ネオシオニズム化されるには及ばないと考えるからである。以下、論証する。詳論はサイト「マルクス主義考」所収の「愛国心、民族主義問題考」に記す。
「近現代史に於いては民族独立が一級の政治課題であることを知れ」。これを提言3の1とする。
戦後日本左派運動は、戦前の治安維持法下での抑圧とは違って新憲法により政治結社活動が合法化され自由な活動が許された。というのに何故に65年経由して元の木阿弥、否更に酷いと云わざるを得ないような没政治意識を特徴とする今日的惨状に至ったのだろうか。これを問わねばなるまい。筆者は、原因があると考えている。実は、これがネオシオニズムと関係していると考えている。
日本左派運動は、祖国日本史に対する無教養、ネオシオニズム問題に対する余りにもな無知であることが原因で、日本人民大衆の琴線に触れぬまま自滅したのではなかろうか。ここでも「真に賢き大衆、愚昧なインテリ」という背理を垣間見ることができると思っている。以下論述するが、筆者は、ネオシオニズムこそ真の人類敵、文明史的厄介物とみなしている。ネオシオニズム支配に比べれば、それぞれの国家における階級闘争なぞ他愛ないほど稚戯的なものに見えてくる。なぜなら、各国に於ける権力闘争史には、ネオシオニズム式容赦のない悪魔的支配に比すればまだしも上下睦み合う美風があり、強権支配と雖(いえど)も多少なりとも手加減というものを心得ていたように思えるから。
過去ネオシオニズムにより打倒された王朝の政治支配は、人民大衆の側から見て失われてより懐かしみに変わっている面が窺える。このことは、新たな権力体として出現したネオシオニズム支配に比してまだしも善政であったのではなかろうかということを意味する。これは、植民地化された世界中の例然り、先進国的なフランス革命、ロシア革命、日本の明治維新にも当て嵌まる。つまり、ひとたびネオシオニズム支配を受け入れるや、収奪、精神支配が酷過ぎる社会がもたらされることになる。一見そう見えない面があるとしたら、ルネサンス以降の歴史的流れによる文明的発展の賜物としての産業革命以降の近代化の果実に負っているからである。ネオシオニズムは、この流れをも捻じ曲げていると知るべきだろう。
マルクス主義を始めとする当時の新思潮は、そういう危険なネオシオニズム支配に道を開いた面が認められる。そういう意味で、特にマルクス主義の「労働者は国家(祖国)を持たない」テーゼに象徴される国際主義を検証せねばならない。れんだいこ訳によれば「共産主義者の宣言」(通称「共産党宣言」)は次のように記している。
「共産主義者はさらに、国家(祖国、country)と民族性(nationality)を廃止しようと望んでいるとして非難されている。労働者は国家(祖国)を持たない。持ってもいないものを、取り上げることなどできない。プロレタリアートは、なによりもまず、政治的支配権を獲得せねばならない。国家の支配階級にまで成り上がらねばならない。自らが国家として、更に云えば、言葉上ブルジョワ的な意味とは又違うそれ自身が国家的なものとして形成されねばならない。 |
この文言をどう読むべきか。従来、次のように理解されてきた。よど号赤軍派の指導者・田宮高麿は「わが思想の革命」の中で次のように述べている。
「当時、我々が革命闘争の本質をどのように見ていたかということを敢えて探してみるならば、それが自覚されていたか否かに拘わらず、革命闘争の目的を労働者階級が『民族』、『国家』を『乗り越える』ところに求め、闘争に起ち上がる動因を労働者階級の『世界史的存在』への『自覚』に求めていたということができると思う。一言でいって『国家』、『民族』を否定していくことが革命闘争の本質だと見ていたということができる。完全な『コスモポリタニズム』であり『無政府主義』である。革命闘争の本質をこのように見ていたが故に、『世界同時革命論』が展開されたということもできる。これは正しいだろうか」。 |
筆者はかく思う。「共産主義者の宣言の労働者は祖国を持たないテーゼ」から理解すべきは国家、民族そのものの否定ではなく、国家対立を前提とするような自民族優越排外主義的な、人民大衆を国家戦争に動員する為の好戦国家へと導くような国家主義、民族主義を排していると読むべきではなかろうか。あるいはそう読み直すべきではなかろうか。我々はそろそろ、マルクス主義に貫徹するのっぺらぼうな国際主義論から決別すべきではなかろうか。
同様にマルクス主義的階級闘争論をも客観化せねばならないのではなかろうか。筆者は、階級闘争的革命の必然性が本当に認められるのだろうか疑問を発したい。特に、「日本式和の政治」の場合には尚更である。日本史の場合、近代になってのネオシオニズムに被れる以前には、他国の支配構造に比してよほど善政的な仕組みになっていたように思われるのだがいかがなものだろうか。時に応じて政変が起り、改革、革命、回天が為されているが、その動乱に於いても階級敵に憎悪を煽るマルクス主義的な階級闘争とはかなり面貌が違うのではなかろうかという認識をしている。これについては「提言19、マルクス主義的階級闘争論の一辺倒から抜け出せ」で再言及する。
ちなみに、田宮氏は、高沢皓司著「祖国と民族を語る」(批評社、1996.2..10日初版)の中で次のように述べている。
「マルクスの労働者階級に祖国はないという意味は、労働者階級に国家が必要ではないという意味ではなく、労働者階級は、まだ、主権を握っていなくて自分の国は持ってないという意味でしょう。また、労働者階級は国際主義的存在であるから国境に縛られることなく、万国の労働者は団結できるということでしょう。だからと言って、国境の存在そのものを否定したわけではないと思うよ。だけど、我々は、日本にいたときは、労働者階級には自分の国はなく、国境はなくすべきものと理解していたからね。今思えば、国境をなくせよと言うのは、大国主義の発想だね。これは、朝鮮に来てよく分かったね。朝鮮は中国、ロシアという大国に囲まれている国だ。この国に国境をなくせよと言うのは、朝鮮をなくせよと言うことと同じだよ」。 |
この田宮見解は注目されるべきであろう。日本を離れて外から見る日本という視点、民族主義に立脚せざるを得ない朝鮮国家のの歴史的必然性の視点を得て初めて獲得された、相対化し得て初めて獲得された国家観、民族観ではなかろうか。
「日本の国の形としての和的政治の質の高さを尊べ」 。これを提言3の2とする。
「提言3の1」で述べた「日本式和の政治」を立論する為には、日本史の古代よりの国の成り立ちから説き起こさねばならなくなる。それも遥(はる)か太古より説き起こさねばならない。日本左派運動は、戦前の皇国史観を批判する余りに天皇制そのものを頭ごなしに一括否定し過ぎてしまった。何より反省すべきは、天皇制以前より貫通する「日本の国の形としての高度に文明的先進的な和的政治の質の高さ」をも洗い流してしまったことであろう。今からでも遅くない見直すべきである。以下、このことを確認する。
日本史は、その政体から見て、記紀以前の諸部族連合的王朝国家としてのこの国の形に注目せねばならない。筆者の判ずるところ、いわゆるアイヌ王朝論、出雲王朝論あるいは邪馬台国論になる。この時既に「日本式和の政治」が確立しているように思われる。「日本式和の政治」とは、支配者たる者は衆生の生活を顧慮し、国家間は婚姻政策等による同盟化により連合し、例え政治的抗争に及んでも互いが止めを刺さず相手をも思いやる精神によって何らかの平和的決着をつける政治方式と規定することができる。日本は相応の古代史書いわゆる「古史古伝」と云われるものをを有しており、それらがかの時代の政体を伝書しているにも拘わらず、この方面の研究は非常に遅れている。緒にはついているが、学際的な研究が為されていない。このことを危ぶむべきであろう。頭から偽書扱いするのは精査してからの方が良かろう。
次に、神武東征譚から始まる記紀に表象される天皇制に結節するこの国の形に注目せねばならない。記紀の語るところ、渡来系の高天原王朝は、「豊葦原の瑞穂のうまし国」としての原日本を手中にせんとし始める。まず、当時最大勢力として諸部族連合的王朝国家を形成していた出雲王朝に国譲りを迫る。最終的に顕界としての政治権力を高天原王朝が獲得し、出雲王朝は幽界としての宗教的活動、地域の産業振興のみを許され、出雲王朝の有能な士を登用すると云う歴史的合意で帰着した。高天原王朝にしてみれば、出雲王朝派の抵抗が根強く、かく決着させたのも止むを得なかったように思われる。この時、戦争と和睦の果ての「手打ち」という日本政治の原型が生み出されている。これを仮に「日本式手打ち和闘政治」と命名する。これが新たな日本政治の特徴となる。
続いて天孫降臨、神武東征を経て畿内大和を手中に治めることにより天皇の御代が始まり、いわゆる大和王朝が創建される。これが天皇制の起源となる。これを仮に「古代天皇制」と命名する。その内実は高天原王朝と出雲王朝とその他諸部族との連合政権であった。決して高天原王朝が在来の土着勢力をなぎ倒した訳ではない。国譲り時の約定である「日本式手打ち和闘政治」を政治原則として遵守している形跡が認められる。
古代天皇制はその後幾度も血統交替して行くが、興味深いことは底流で「日本式手打ち和闘政治」という日本政治の型が継承されているように思われることである。且つ例え建前に過ぎなかろうとも
「高き屋に のぼりて見れば 煙(けぶり)立つ 民のかまどは にぎはひにけり」(新古今和歌集 仁徳天皇賀歌 番号707)的王朝理念を掲げて伝授し続けていたことも史実である。ということは、古代よりの「日本式和の政治」が伝統的に継承され続けていたと窺うべきだろう。過去、あまたの記紀研究が為されているが、この関心からのアプローチは為されていないように見受けられる。戦前の皇国史観は、日本史の底流に流れている古きよりのこの政治の形を見ることなく、出雲王朝を悪しざまに罵詈、高天原王朝の絶対賛美に向かった政治主義性の強い偏狂学問であったことを知るべきだろう。
次に、鎌倉時代の武家政権登場より江戸幕末へと至る、7百年に亘る天皇制と武家権力との二元的支配によるこの国の形へと至る。武家政権も不断に政権交替して行くが、興味深いことはここでも底流で「日本式手打ち和闘政治」の伝統が継承されているように思われることである。更に、幸か不幸か恐らく幸いなことに緩衝聖域として天皇制を遺し、政治的抗争の際の究極の拠りどころとした。時に天皇親政時代もあるが、概ね民族的文化的統合象徴としての役割に甘んじ、それを良しとしてきた。そういう意味では、戦後憲法に結実した象徴天皇制は、日本式政治の伝統的な型の復権とみなせる。日本左派運動側からする天皇制に関するあまたの歴史研究が為されているが、この関心からのアプローチは為されていないように見受けられる。
次に明治維新以降の近代天皇制によるこの国の形へと至る。ほぼ150年を経て今日に至っているが、興味深いことはここでも底流で「日本式手打ち和闘政治」が継承されているように思われることである。但し、この時代になって初めてネオシオニズムの蚕食が見られるようになり、これに応じて戦争国家化しつつ政治の残虐性が倍加している。明治、大正、昭和の御代に於いて、天皇及び皇室も相当程度これに翻弄されている。過去、あまたの歴史研究が為されているが、この関心からのアプローチは為されていないように見受けられる。
日本史を天皇制のカテゴリーで見れば以上のように4分類できるが、それぞれの社会の構造、支配関係、人民大衆の生活実態、総じて歴史について客観的に検証せねばならない。本書は、これを為すものではないので割愛するが、結論として云えば共通して日本式和的社会構造が垣間見えることであろう。敢えて言及すれば、日本政治の特質は、近代天皇制以前に於いては記紀以前の諸部族連合的王朝国家政治に特に強く、近代天皇制以降に於いては極度に弱まり、逆に日本史上異質なネオシオニズム支配色に染まっているように思われることである。
しかして、日本式和的社会構造政体は相対的にではあるが、世界に誇る良性にして稀有なる高度文明先進的な社会体制であったとみなすべきではなかろうか。決して暗黒史観で記述するには及ばない。よしんばそのような支配実態があったにせよ、あくまで厳格に史実に基いて言及されるべきであろう。筆者的には逆に、「上が下も思い、下が上を敬うと云う日本式和の政治」に対する正当な評価に向かうべきではなかろうかと思っている。これに照らせば、戦前の皇国史観による天皇の絶対君主的権能制と「民の命は鴻毛より軽し」とする支配観の方が異常であったとすべきと思う。「民の竈(かまど)の煙」に思いやる天皇制の方が古来よりの日本政治の型であり伝統的常態であったと知るべきであろう。
これに関連して、よど号赤軍派の指導者・田宮は、高沢皓司著「祖国と民族を語る」(批評社、1996.2..10日初版)の中で次のように述べている。
「民族は自分の自主的意思を擁護しようとすれば、国家を持たねばならない。その国家が民族の利益を擁護する国家、民族と一体の国家であれば、国家意識を高めることは、民族意識を高め、民族自主意識を高めることになると思う。しかし、その国が民族の利益と敵対する国家であるとき、国家の権威を高め、力をつけていくことは、民族の利益を脅かして蹂躙していくことになる。戦前の天皇制国家は民族の上に立った、民族の利益とは敵対する国家であった。民族の利益は、侵略ではなく、自主的発展でしょ。だから、天皇制国家は、人々の民族意識を昂揚させるのではなく、それは自主意識を蹂躙する根源だったといえる」。 |
「日本における階級闘争の必然性をどう踏まえるべきか」。これを提言3の3とする。
日本にマルクス主義的な階級闘争理論が当て嵌まるようになったのは、幕末以来のネオシオニズム侵略による明治維新を通じての彼ら風の粗暴支配が強権的に導入されてよりである。それは、内に於ける財閥支配、外に於ける軍事的侵略支配、その頂点に立つ近代天皇制権力構造という日本帝国主義が確立されて以来である。そのようにして確立された日本帝国主義は奥深いところでネオシオニズムのクビキに繋げられていた。こうなると階級闘争的に闘わざるを得ない。明治、大正、昭和の御代に於いてマルクス主義が脚光を浴びた所以である。筆者は、かく判じている。
そういう意味で、ネオシオニズムを客体化させ、これに対処する正しい戦略戦術を持たなければならない。これが、日本人民大衆の歴史的責務ではなかろうか。付言しておけば、ネオシオニズムは今や世界を席巻し、我が物顔に驕(おご)り昂ぶっているけれども、しかして彼らの支配基盤は弱いのではなかろうか。なぜなら、論証は省くがネオシオニズム支配はうったての思想哲学に於いてそもそも宇宙的摂理に反しており、それに基く現象世界はいつかは破綻するという意味で歴史的合理性を欠くと思われるからである。比喩すれば、身体機能が互いにネットワークで助け合いしているのに、敢えて各器官を闘争させ病化させているようなものであり、長続きする訳がなかろう。
ネオシオニズムは、伝統的に和的社会構造を生育せしめてきた日本の場合には特に馴染まない。なぜなら、日本の和的社会の方がネオシオニズム支配よりも高度な社会体制であり、既に千年あるいはン万年の風雪に耐えているのに比して、ネオシオニズム的支配はたかだか黒船来航以来の150年のものでしかなく、それも絶えず暴力的に扶植される以外に根付かない鬼畜的なものでしかないから。日本人民大衆は結局のところ、「日本の和的社会」を郷愁し始め、ネオシオニズム的支配を劣等的なものとして今後かなり早期に一蹴してしまうであろう。
日本左派運動は、かく観点を据えるべきであり、これを指針とするべきである。来るべき革命政権が血みどろの闘いを通してネオシオニズム的遺制を放擲するであろう。これは、一国的にはできない。世界の新思潮と連動して完遂することになるだろう。筆者は、このように仮説している。誰か、この認識を共認せんか。
「幕末維新を再評価せよ」。これを提言3の4とする。
16世紀以来の西欧列強による世界植民地化時代にあっては特に、眼前の喫急焦眉の真の闘争は、ネオシオニズムに侵食支配されるかどうかを廻って揺り動くことになった。歴史を観る視座をかく据えるべきではなかろうか。アフリカ、北米、南米、インド、東南アジア、オセアニア、清国、琉球、朝鮮、ハワイを見よ。現下のパレスチナを見よ。これら諸国は全てネオシオニズムに侵略され、人民大衆は哀れな畜生類同様にされてしまった歴史を有しているではないか。
これを思えば、何ゆえに日本だけが例外足り得たのか、ここが問われねばならないであろう。この時、幕末維新史が輝きを増すことになる。筆者は、幕末維新こそ、世界史上珍しいネオシオニズムに籠絡されない為の叡智を結集せしめた真に有益有能な回天運動であったと判じている。黒船の来航と共にネオシオニズムの再侵略が始まったが、かの時日本は、世界的趨勢を読み解き、動向を見据えた大局観に基き賢明なる回天運動に乗り出した。細々とした論述は割愛するが、志士活動が始まり、遂に幕府の大政奉還へと向かわせ、江戸城無血開城で完結させる。
その間、幕府派、倒幕派共に甚大なる被害を生んだが、内戦を画策するネオシオニズムの姦計策謀に乗ぜられない為の英明な胆力決断で明治維新へと繋げた。この過程は、「日本式手打ち和闘政治」の精華であった。こうみなすべきであろう。こう見なさない歴史観ないしは評論が定説化しているが、これも又ネオシオニズム系歴史学によって有害無益方向に脚色されているからであると知るべきであろう。
明治維新は結果的に幕末維新の豊穣な流れを受け継がず、文明開化と云う名の下にネオシオニズムの侵食に道を開き、次第に召し取られて行くことになる。とはいえ、決して他国のように植民地化された訳ではない。半独立的自律自存の国家及び民族として世界史の一角に席を占めることになった。しかしながら世界史を見よ、西欧的近代化を受容しつつ独立性を維持した国が日本の他にあるだろうか。幕末維新の偉業はこの面から評されねばならない。最近、幕末維新の偉業を落とし込める理論が流行りつつあるが変調であろう。物事には両面が有り、メダルの裏表から捉えねばならないのではなかろうか。
幕末維新は、上からの武士革命と下からの民衆革命の双方が牽引した回天運動であった。同時にネオシオニズムの走狗達による国家権力簒奪運動でもあった。この三派の連衡により樹立された明治新政府は当然のことながら政治理念を廻って暗闘を開始する。次第に「下からの民衆革命」の流れが抜け落ち、天皇制絶対主義を生みだす水戸学派的国粋主義的皇国史観、後に西南の役で壊滅させられる西郷派的土着左派、ネオシオニズム系の寄り合い世帯三派へと糾合される。底流に於けるこの三派の抗争こそ、近代日本史の特質のように思われる。この内的動態構造に於いて幕末維新から明治維新、明治維新から大東亜戦争に至るまでの流れを評するべきではなかろうか。
「日本左派運動は、ネオシオニズムに対するそもそもの無知から出藍せよ」 。これを提言3の5とする。
日本左派運動は、上述した近代日本史の本流を弁えず、歴史上もっとも危険で悪質残虐非道なネオシオニズムに対して何の見識も持ち合わせていないという無防備な状態のままマルクス主義的階級闘争論に夢中になってきた筆者に云わせれば、視野狭窄の感がある。つまり、日本左派運動は、ネオシオニズムに上手く利用されて来た気配がある。
れんだいこ史観に照らせば、侵略軍ネオシオニズムとの闘争の重大性に比較すれば国内的な階級闘争は従たるものでしかない。というのに国内的階級闘争に耽ったのは大いに問題であった。筆者がなぜこのことを訴えるかというと、ここを理解しないと、現下の政治闘争、経済闘争、文化闘争の抗争軸がみえてこないからである。抗争軸の見えていない中で正義運動してみても、足元をすくわれてしまう。それは悲劇であり喜劇になる。今我々が闘う対象は、ネオシオニズムによる日本溶解政治、日本植民地化、属州化、日本傭兵化、アジア圏の確執化を煽ることによる軍事国家化に対してである。改憲は当然この狙いから導かれているものである。
これらは皆ネオシオニズムが意図的に策動しているところのものであり、我々は己を知り敵を知り正しく対処せねばならない。世界各国の国家権力中枢即ち政官財学報司の六者機関はネオシオニズムに篭絡され、その度合いに応じて売国奴性を強めている。そのエピゴーネン達をどう掣肘するのか、これが各国の人民大衆に問われている。各国の自律権力の保持は、人民大衆の能力に掛かっている。かく認識すべきではなかろうか。更に云えば、社会主義権力創出の日本革命は、この水路に於ける賢明な対応を通じてこそ正しく導かれるのではあるまいか。
ここで、日本左派運動史をごく簡潔に素描しておく。戦前の日本左派運動は、幕末維新から明治維新へと至る底流での格闘に対して余りにも無自覚なままにやり過ごしてきた。それを思えば、下手なイデオロギーを持たない百姓一揆の方が、あるいは無政府主義の方がまだしも眼目を得ていたようにさえ思われる。西南の役に象徴される士族の反乱、それに続く自由民権運動が押し込められ、代わりにマルクス主義が登場することになったが、いずれも幕末以来の西欧に憧憬する欧化主義的知性からもたらされたものであり、日本左派運動史上に本当に役立ったかどうか分からない。
このようにして生まれた戦前のマルクス主義運動は、ネオシオニズムに裏で操られるコミンテルン式国際主義運動に随伴してきた。これは戦後も然りであるが、明治維新以来続くいわゆる脱亜入欧路線の「洋もの被れ」の系譜であることを証している。しかしてその実態はネオシオニズム学による洗脳でしかなかった。全てをそう括る訳には行かないが、本質上そのようなものでしかなかった。このことに気付かなかった日本左派運動が、人民大衆的支持を取り損ねている原因がここにあるように思われる。
そういう意味で、日本人民大衆の賢さを見て取るべきだろう。日本が固有の歴史的発展の中で培ってきた人民大衆的闘争史は卑下されるべきではなく、もっと誇りと誉れを持つべきである。西欧事象の猿真似をすれば先進的などと気取る必要は一切ない。このような見地から、我々は一刻も早く日本左派運動を然るべき正道に戻さねばならない。それらは咀嚼すべき対象であって拝跪するものではない。「洋もの」を正しく吸収し肉付けしていくべきべきである。このスタンスの確立が肝心なのではなかろうか。三里塚闘争の義民運動性は、こういう観点から称揚されると思っている。
「ネオシオニズムに対する余りに無知なるままの革命は失敗して良かった」 。これを提言3の6とする。
日本左派運動は過去も現在も、危険粗暴なネオシオニズムに対する知識をからきし持ち合わせていない。筆者には、このこと自体がネオシオニズムの下働きさせられていることを示しているように思われる。ネオシオニズムに対する危険を感じないのは、丁度タバコ吸いにはタバコの臭いが感ぜられず、ニンニク食いにはニンニクの臭いが感じられないのと同じであろう。ご丁寧なことに、こういう指摘に対して陰謀主義と批判して、自ら好んでその下働きに甘んじようとする一群のウヨサヨイストが居る。彼らの牢とした習性には漬ける薬がない。
筆者は、学生運動も含め日本左派運動が、ネオシオニズムに対する余りに無知な誤りに気づいている。今日かっての隆盛に比して落ちるところまで落ちた感のある日本左派運動であるが、この致命的な誤りに気づかない以上は仕方ない。従来式左派運動による下手な革命はネオシオニズムの思う壷であった。そういう意味で、ネオシオニズム問題に無知な革命は成功しないほうが良かったと思っている。
なぜ革命が起きなかった方が良かったのか。こういう場合はいきなり結論を書いた方がよい。日本左派運動の誤りは、西欧史の否今日では世界史の真の抗争軸に無知過ぎることにある。真の抗争軸は経文的なマルクス主義的階級闘争にあるのではない。それははるか長期の視野に立てばそうであるかのように概括できるというだけの歴史評論に過ぎず、実践的には殆ど何の意味もない。眼目は、世界の人民大衆がそれぞれ自国叉は民族の利益を擁護し、文化伝統を育みつつ地域共同体的な共栄圏造りにこそある。しかして、この共栄圏は世界にも向かうべきである。こう構えない否それぞれ固有の歴史の抹殺に向かう解体革命は危険過ぎる。
これに関連して、最近手にした荒岱介編著「ブントの連赤問題総括」(実践社)で、よど号赤軍派の小西隆裕氏が往復書簡「全体の利益に個人が服従するのが善」と題して、次のように述べている。これを紹介しておく。
「我々は、自身の運命開拓との関係で民族を主体的に捉えるべきであり、主体的集団的に自身の運命を開拓していく上で、もっとも強固な人間集団、運命共同体としての民族の重要性を押さえる必要があるのではないかと考えています。特に、今日、多国籍化した独占資本がボーダレスを求める自己の要求から国と民族を否定するグローバリズムを流布させている条件で、独占資本による支配と隷属に反対し、自らの運命を自主的に切り拓いていく上で、その必要性は一層高まっていると思うのですがどうでしょうか」。 |
「日本左派運動は、真の世界平和に繋がるアジア共栄圏を創出せよ」 。これを提言3の7とする。
我々は、幕末維新から明治維新を通して日本が東アジアに於ける最初の近代化を為し遂げたことを正と認め、その背景に日本民族のしなやかな叡智があることを見て取り、これを称賛せねばならない。同時に、その成果が、ネオシオニズムへの身売り派によって捻じ曲げられ、東アジアに於ける帝国主義国家として成育せしめられ定向進化せしめられた挙句大東亜戦争で召し捕られた様子を見て取らねばならない。最新の研究はこのことを明らかにしつつある。
この観点を共有するならば、 日本左派運動が矜持とする立場は、第一にネオシオニズム運動に対する闘争であり、今日的にはネオシオニズムと最も強硬に闘っているイスラム運動と連帯することになる。第二に幕末維新期以来の正の面としての人民大衆解放運動を見据え継承し直すべきであろう。我々は権力一般を忌避するのではなく、権力をして抑圧機構から転じて正しく善良せしめる官民共同の共生装置へと転換せしめるべきであろう。可能な限りこれに向かうべきであり、各戦線でこれを為すべきである。第三に、先の大戦で先駆的に打ち出された大東亜共栄圏構想の正の面を継承し、これをアジア共栄圏構想として焼き直し、世界平和の創出に向かうべきである。
この運動は、空疎な国際主義に基くものであってはならない。ワンワールド式国際主義運動はネオシオニズムの奏でる詭計イデオロギーであり騙されてはならない。各国各民族は固有の文化と歴史を継承しつつ、ネオシオニズム的選良主義、排他主義、独善主義に汚染されることなく、正しく諸民族共存共栄型国際主義の水路を生み出さねばならない。これを為す為に「精神の自律、政治の自律」を勝ち取らねばならない。「精神の自律、政治の自律」なきのっぺな国際主義は究極ネオシオニズムの姦計に落ちる悪しきそれであることを知らねばならない。
昨今の日本政治を見よ。国会に巣食う与野党ともどもの馴れ合い談笑政治の貧困を見よ。議員貴族達による田舎芝居ばかりではないか。一見善政と見える要求あるいは施策でも、手前の懐が痛まない限りの無責任な国費の冗費乱費でしかない。これを飴にしながらこのご時勢で更にとめどなく軍事防衛予算を注ぎ込み、自衛隊の武装派兵を積み重ね次第に常態化させつつある。他方、これほど内地が荒廃しつつあるのに口先だけでしか顧みようとしない。真に有益な公共事業が見送られ、明日の活力からみてどうでも良いような利権事業、国家の補助金稼ぎに勤しんでいる。国家も家計も財政が悪化しつつあり、政治がこれに有効な対応を為し得ない。その癖引き続きネオシオニズムの御用聞きに精励している。全く馬鹿馬鹿しい限りではないか。
この連中にはこの程度のことしかできないのであり、そうとならば我々が権力を握り政治を為すべきである。その為に何を為すべきかのグランドデザイン作りに向かうべきである。左派能力の脳髄を絞り英明な政策指針を打ち出すべきである。道中で例えネオシオニズムの走狗にテロられようとも、次から次へと人士が輩出しよう。歴史というものはそういうものである。人は齢五十を過ぎればそのように立ち向かうべきである。以上を提言3としておく。
【提言4、日本歴史の歩みを評価し、在地土着型社会主義を目指せ】
(はじめに)
「日本歴史の歩みを評価し、在地土着型社会主義を目指せ」を提言4とする。提言3でネオシオニズムのいわゆる国際主義イデオロギーに対置させて「諸国協和的民族主義運動を新創造し満展開せよ」を指針させたが、もう一つ「在地土着型社会主義理論を創造させよ」をもワンセットで主張して補完したい。以下、論証する。詳論はサイト「マルクス主義考」所収の「在地型社会主義の研究」に記す。
「在地土着型社会主義を目指せ」 。これを提言4の1とする。
筆者は、日本の左派運動がそもそもに於いて在地土着型社会主義を目指していれば、今よりはよほどましな政治的影響力と党派を形勢し得ていただろうと確信している。この点で、我が日本左派運動は致命的な間違いを犯し続けてきたのではなかろうかという思いを持っている。徒に国際主義を標榜することによりコミンテルン拝跪型に傾斜し、その他方で在地型を捨象した運動を指針させてきたことにより、日本左派運動は隘路に陥ったのではなかろうか。
幾ら国際主義を標榜してみても、純粋抽象型の国際主義なぞどこにもありはしなかった。赤軍派の青い鳥運動の経験はそれを物語っていよう。あるいはエスペラント語の興亡がそれを証していよう。このことにもっと早く気づくべきだった。
とりわけ、戦前に於けるコミンテルン運動拝跪型の共産党運動は、今となってはソ連邦やコミンテルン運動の正体が知れておるからして分かり易いが、決して真に左派的なものではなかった。しかし如何せん情報不足というのは怖い。当時の活動家は、マジメであればあるほどコミンテルン運動に真紅性を見出していた。渡政の悲劇がここに見て取れる。その他諸々多くの有能の士がこの倒錯のまま治安維持法体制にヤラレテシマッタことは惜しいことであると考える。
驚くことに、戦後の左派運動も本質的には何も変わっていない。戦前はコミンテルン、戦後はコミンフォルム運動に拝跪し、次に親中共化し、その後紆余曲折の末に漸く自主独立型に転じた。このこと自体は自主独立型日本左派運動の水路を拓いたという功績であるが、後述するようにそれは党の私物化の為に悪用されており、筆者の展望する自主独立路線とは似て非なるものでしかない。
この点で、未だに新左翼の一部に国際主義の理想を求め続けている面があるのは遅れ過ぎているというべきではなかろうか。純潔系の国際主義を幾ら求めても結局叶わなかったことを確認する必要があるのではなかろうか。なぜなら、純粋抽出型の国際主義なるものは絵空事であり、在地型の基盤に立つ国際主義でなくては意味がないという教訓がすでに呈示されているからである。
筆者は今思う。端から在地土着型社会主義を目指していればかような失態に出くわすこともなかったのではなかろうか。一番肝要なものを求めないで、何故脇道を散策することに耽るのか、解せないことである。我々が目指す社会主義はそう難しい原理ではない。人はエゴイストとして人生するのか、共生を志向するのかだけのことである。生産力と生産性の向上は必然的に社会化を要請する。そういう時代に合わせた社会の合理的在り方を追求しようというだけの至極真っ当な欲求である。それならそれで、急ぐかゆっくり歩むかは別としてそれを目指せばよかろう。名著「邪宗門」の著者として知られる高橋和巳が、「生活に根ざし生活の中からにじみ出る果汁のように思想は形成されるべき」と述べているとのことである。まことにその通りではなかろうか。日本左派運動は未だにここに至っていない。
「日本左派運動の在地土着型社会主義の流れを正しく評価せよ」 。これを提言4の2とする。
日本左派運動の在地土着型社会主義の流れを渉猟すると、正統系譜として、戦前では幸徳秋水-大杉栄系譜のアナーキズム、次に福本イズム、次に田中清玄委員長時代武装共産党が評価されるに値する。戦後では、敗戦直後の徳球-伊藤律系の共産党運動を嚆矢とする。かく評されるべき流れが、日共党史では罵詈雑言され続けている。
徳球-伊藤律系運動の場合、この時代は敗戦後遺症としてGHQ統治下にあり、この絶対的な権力の壁を押し切る力はなかった。やがて「50年分裂」を迎え、所感派としての自律的立場を確保したが、朝鮮動乱下の混乱で非合法化されるに及び北京へ逃亡した結果、結局はスターリン式国際主義の権威に服し、中共式革命方式を指令することを余儀なくされた。この武装闘争が失敗して以来、徳球-伊藤律系運動の灯が消え、この系譜は消滅したまま今日に至っている。筆者は、再脚光を浴びる日が来ることを望んでいる。
これを撲滅したのは宮顕であった。宮顕は、徳球-伊藤律系の共産党運動に終始天敵的に対応し、「50年分裂」時にはここぞとばかり声高に国際主義を標榜し、徳球-伊藤律系の自主独立型運動に敵対した。徳球-伊藤律系運動破産の間隙を縫って党中央へ返り咲き、1955年の六全協で党中央を簒奪し、その後今日までこの系譜が日共党中央を一手独占し続けている。
宮顕系日共運動は、中ソ対立に対して中共に与し、その後中共とも対立すると云う経緯で余曲折を経て「自主独立」に転ずる。その経緯を見れば、「宮顕式自主独立」は共産党の私物化の為に生み出されたご都合主義のものであり、在地主義土着型の左派運動を創出するという革命的気概により生み出されたものではなかった。国際共産主義運動に辛うじて維持されていた共同討議と云う正の面があるとすれば、その正の繋がりさえをもをひたすら破壊に狂奔する悪辣なものでしかなかった。ここに、宮顕式自主独立路線のイカガワシサがある。これにより、共産党は、野坂といい宮顕というトンだ食わせ者に拝跪する日共運動に転じることになった。その結果、反体制運動として始発した共産党が体制内化させられてしまい、これに反発した或る者は出奔し、或る者は反共の闘士として八つ当たりする者も出る始末となった。
しかしながら思うに、日本左派運動の本家的地位を持つ日共をして、その動機はどうであれ、一端国際共産主義運動のクビキから解放し「自主独立」に転じせしめたのは功績ではあろう。問題は、正しく自主独立し、在地主義土着型の左派運動を担うと同時に、それを軸足にしながら国際主義的連帯をも生み出すべきではなかろうか。ここに現代的左派運動の責務が課されていると窺うべきではなかろうか。
日本左派運動は長らくの間この見地から離れて、戦前の日本帝国主義の非を論(あげつら)い、日帝打倒こそ日本左派運動の責務とする立場でもって左派性を競ってきた。しかし、事はそう単純ではないのではなかろうか。戦後日本国家権力がネオシオニズムから自律して独自の権益を張り巡らした帝国主義的史実はない。大東亜戦争は、ネオシオニズムのクビキから離れようとする面が見られるが、最終的に敗戦を余儀なくされた。戦後の日帝権力は、戦前も然りであったが、ネオシオニズムによって再育成され、その枠内で活動しており、今や使い捨てにされようとしている脆弱なものでしかない。
「意図的故意に政権取りに向かわない日共運動の胡散臭さを大衆的に確認せよ」 。これを提言4の3とする。
日本左派運動は、かれこれ百年以上費やして少しも事態を進展させていない。これはオカシ過ぎやしないか。それが筆者の疑問である。仮に、徒歩で東京向けて出発してもいつしか辿り着くだろうに。乗り物に乗ればもっと早く辿り着くだろうに。それが辿り着かないのは、東京へ行こうとして反対方向へ歩を向けているからではないのか。組織の指導者が左派運動の進展を堰止めするように意図的故意に逆指導しているからではないのか。そう思えば思い当たる節があるというのが筆者の気づきである。
筆者が学生時代の1970年代の東京の政治状況は、これを選挙運動で見れば、共産党と公明党の伯仲時代であった。否やや共産党の方が優位であったかも知れない。あれから40年、事態はどうなったか。創価学会ー公明党は着実に組織を伸ばしてきた。あたかも一歩一歩東京へ向けて歩み出し、とうとう東京へ辿り着いたかの如くである。公明党はかくして政権与党入りとなった。これは、党運動としては真っ当な歩みと評価されるべきだろう。但し、政権与党入りした公明党のその後の在り方は自民党タカ派のネオシオニズム政治の露払い役を引き受けており、体制ベッタリ派であることを露骨化させており愚劣でしかないが、権力へ向けて歩を進めそれに成功したのは疑いなかろう。これは、極端に言えば、誰がやってもそうなるのではなかろうか。
その誰がやってもそうなるのがそうならないとしたら、どこかオカシイということに気づくべきだろう。これを指導者論で見れば、野坂や宮顕や不破やその取り巻きの責任ということになるが、彼らがやってきた仕業を判じてみよ。紅い心は元々なくて異邦人が紅い心を演じて党中央を占拠し続け、逆指導ばかりに耽ってきたから、日共は今在る如く態を為していないのではないのか。平素は紅い言葉をたまには述べるが、一朝事あれば逆指導ばかりに夢中になってきたのではないのか。その挙句が、かくも惨めに創価学会ー公明党勢力にひけをとっているのではないのか。
その際立つ特徴は、弁舌が二枚舌、否マルチ舌にある。ああ云えばこう云うで有名になったオーム真理教の上祐なぞまだ可愛いというべきだろう。中学生と大人ほどの格段の差が有る。そういうことをはっきりさせるには、彼らが歩んできた党史を見ればよい。が、彼らが作った党史がこれまたマルチ舌で脚色されているので、下手に読めば却って阿呆にされてしまう。そういう訳で、筆者が能う限りの資料を収集しつつある。そして、筆者なりのコメントを付しつつある。筆者の目の黒いうちに正史を遺しておこうと思う。
そういう作業から滲んできたのが、筆者の気づきの確かさである。筆者が20歳過ぎから数年間、かの運動と関わり、当時抱いた疑問の確かさが確証された。これをどうするか。筆者の自己了解に留めるのか、世に晒すのか、積極的に述べ伝えるのか。さしあたりは、サイトに公開することで役目としようと思い綴ってきた。こたびは本書で問うことにする。
みんな僅かばかりの余生を過ごしている。どう生きるかは銘々の勝手である。筆者は、類縁の友と語り続け、何がしかの世への貢献が出来ればそれで本望と思っている。あと何年生きられるか分からないが、生ある限りはそうしようと思う。とまぁ思うままを書き付けてみる。
「日本歴史に於ける独特の和合政治を弁証法的に愛せよ」 。 これを提言4の4とする。
なぜ在地型の社会主義が必要なのか。それにはもう一つの理由がある。それは、日本が伝統的に愛育生育してきた社会の在り方を根底で是認したい為である。日本左派運動は従来「洋もの被れ」することにより、それまでの日本史の流れを嗜虐否定する観点から論を説き起こしてきた。筆者は、それは間違いである考えている。日本社会は、「洋もの被れ」が主張するような遅れた国でもなければ、非文明的な社会でもない。否むしろ、「洋もの被れ」が被れている西欧社会よりも高度な和的統治機構、社会構造を練磨していたとみなすことが可能である。この観点から日本的在地的なるものを検証せねばならないのではなかろうか。
日本左派運動が明治維新以来の天皇制軍国主義を批判するのは良い。しかし、明治維新以来の天皇制軍国主義は、それ以前の天皇制とは異質の皇国史観的天皇制とも云える新たな異質のものであって、それを批判することによって歴史的な天皇制を一刀両断するのは早計であると考える。天皇制と云う統治システムを生み出した日本独特の長期の社会体制に対して、学問的な検証を行う必要があると考える。この研究を経由させて後初めて天皇制からの出藍を理論化できると思う。
筆者が、在地性社会主義を唱えるのは、過去の日本左派運動の没理論性、通俗マルクス主義的イデオロギー主義の批判と通底している。我々は、はるか悠久の太古以来からの日本史の歩みを真っ当に検証し、受け継ぐものは受け継がねばならない。その為には、我が社会に導入された天皇制以前の社会、古代天皇制社会、武家政権時代の象徴天皇制的社会、近代の皇国史観的天皇制社会を客体化させ、これら全ての歴史に貫通する正の面を受け継がねばならないと考える。
この観点に立った時、日本左派運動が、日本史の歩みに対し余りにも表層的な階級史観で了解し過ぎていることに気づく。特に、最も重要と思われる古事記、日本書紀以前のこの国の形、即ち天皇制以前の原日本社会の姿、その姿が今に繋がる歴史的連綿性について、もっと強く関心を持たねばならないのではなかろうか。筆者は、こうした古代学は、在地土着型社会主義を展望するときの必須学問であると思っている。
その昔、共産党の指導者然として延安から帰国した野坂が発した言葉は「愛される共産党」であった。それは当時の高まる革命意識に対し水を浴びせる穏和運動を指針させたものであった。筆者は、そういう臭い話ではなく、代わりに「日本史を真っ当に愛する共産党になれ」を掛け声したい。
「赤軍派が最後に掴んだ在地土着性社会主義理論を高く評価せよ」 。これを提言4の5とする。
結論として、日共系運動は評する価値もないので言及しない。僅かに言及に値する新左翼運動について言及すると、急進主義系の全学連運動は赤軍派まで定向進化した。筆者はそう見立てる。赤軍派の心意気は良いとして求めた青い鳥は海外に居ただろうか、かく問いたい。その赤軍派の総破産を前にして教訓とすべきは、各国人民大衆は、自国在地の青い鳥を探すべきで、その上での国際連帯の道を模索すべきであるという結論へと至るべきではなかろうか。
そもそも在地主義と国際主義は矛盾しないのに、在地性土着性を否定する国際主義をもって左派とするのは空理空論であり有害であったのではなかろうか。我々はこれに酔い過ぎていたのではなかろうか。しかしてそれは、思想の大枠としてはネオシオニズムの扇動するタブラカシの国際主義に乗せられていたのではなかろうか。思えば、ネオシオニズムこそ本質は在地性土着主義運動であり、これを内に秘めた限りでの国際主義であろうに、その詐術でしかない無国籍型国際主義に軽々と乗せられていたのではなかろうか。
興味深いことに、赤軍派の指導者にして獄中二十年余を経て出獄してきた塩見氏が今、在地性土着性社会主義を創造しつつある。ネオシオニズムに対する観点は持ち合わせていないようであるが、大いなる理論的成果ではなかろうか。パレスチナへ向かった日本赤軍の指導者の一人重信房子も同様の視野を示しており、よど号赤軍の指導者の田宮もそう指針させていた。してみれば、在地性土着性社会主義思想及び理論は、身命賭した赤軍派ならではの獲得物ではなかろうか。赤軍派の軌跡は、この理論に到達した故に振り返られるべきではなかろうか。というような気づきを誰か共有せんか。
補足しておけば、筆者は、2009.6.23日の太田龍追悼偲ぶ会に参加した帰りに神田の三省堂で荒岱介編著「ブントの連赤問題総括」を手にした。なぜこれを採りあげるのかというと、民族主義-国際主義論、それに伴う革命論の見直しを廻るブント内での論争になっているからである。概ね荒派による塩見パッシングを基調としているが、こういうやり取りそのものが珍しく高く評価したい。筆者的には、パッシングされている塩見氏の個性の強さを別にすれば塩見理論の変貌の様こそ貴重と思っている。こういう見方もあるということを告げておきたい。以上を提言4としておく。
【提言5、自由自主自律型の左派運動を創造せよ】
(はじめに)
「自由自主自律型の左派運動を創造せよ」を提言5とする。これまでの提言はこれによって補完されなければならないと考える。左派者にとって、自由自主自律精神並びにこれに基く行動は思われている以上に重要で生命線とすべきではなかろうか。いわば左派魂の譲ってはならない原基精神であり運動理念とすべきではなかろうか。提言8の「統一戦線論を否定し、共同戦線論に転換せよ」、提言9の「民主集中制論から出藍し機関運営分権制論に転換せよ」とも関係するが、ここでは左派運動の在り方についてコメントしておく。詳論はサイト「左派運動の再生の為に」に記す。
「自由自主自律型の左派運動を創造せよ」。これを提言5の1とする。
左派運動はそもそも組織論に於いても運動論に於いても自由自主自律型でなければ意味がない。筆者は、これに反する統制型理論に支配されていた限りに於いて、戦後革命は流産して良かったとさえ思っている。これには二通りの意味がある。一つは、国際司令センタ-統制からの自由自主自律を指している。もう一つは党中央への拝跪主義からの自由自主自律を意味している。
まず、前者から述べる。筆者は今、戦後学生運動のみならず日本左派運動総体が本当の敵と闘わず、或る時にはその下僕となって利用されて来たことに気づいている。左派は、そのことを自覚せず、通り一遍な政府批判、社会批判、体制批判で事勿れしてきた。このこと自体には、さほど罪はない。少なくとも、政治を考えること、自身と社会、歴史との距離を測ることは有益なことであるから。問題は、認識と実践がその先の思考に向かわないことにある。各国の政府、社会、体制を裏から操作している本当の敵が居るとしたら、その者との闘いに向かわなくては不正であろうに、向かわなかった非を見てとる必要がある。ましてや、その黒幕に利用されるをや。
この史観は、既に幾人かが指摘しており、現代では太田龍・氏の謦咳に接することができる。筆者は、太田龍史観に学びながら、自力でも補強しつつある。日本左派運動には未だにこの太田龍-れんだいこ史観的観点が確立されていないように見受けられる。それには深い理由があり、日本のみならず世界の左派運動が、現代世界の黒幕の裏からの手足となって役目を果てしているからであると思われる。そういう形跡が認められる。これを左派運動の呪縛とみなせる。しかし、それは左派運動の自己絞殺でしかなかろう。そういう意味で、そろそろこの辺りで何としてでも、左派運動の原点から理論と実践を問い直し、軌道を正しく転換せしめねばならない。その為には先ず自由、自主、自律型の左派運動創出を目指さねばならない。これが、筆者の左派運動検証論の眼目であり、学生運動検証の主たる動機となっている。
次に後者について述べる。党運動に於いても、「自由、自主、自律」は左派運動の生命として担保されていなければならない。これは何も左派運動に於ける要点というのみならず、左派者の社会生活上の規範となるべきではなかろうか。理想を求める者が、その運動が、いかに革命後のパラダイスを夢想していたとしても、道中に於ける理想精神及び制度を自絞殺するのは本末転倒ではなかろうか。道中で自由自主自律的でない者が政権取ったら途端に自由自主自律的になれる訳がなかろう。しかるに、こういう本末転倒式左派運動が正統化されてきたことを怪しまねばならないと考える。
筆者は今、戦後学生運動のみならず日本左派運動総体が民主集中制という名の統制主義の虜になっている負の相に気づいている。2009年時点のこの程度の政治レベルに帰着するのであれば、我々は民主集中制のクビキから逃れ、もっと自由闊達に異論、異見を述べ合うべきであったのではなかろうか。異端も分派も自由で、相互に摩擦を起し合うべきではなかったのではなかろうか。これに気づいていれば、今よりはよほどマシな政治情況を生み出し得ていたのではなかろうか。これについては、「提言9、党中央拝跪型民主集中制論から出藍せよ」の項で再確認する。
多くの者が今、日本左派運動を捉え返そうとしてはいる。だがしかし、日本左派運動のこの牢とした転倒を凝視し、これを鋭く衝かない限り、傷口を舐めあう、聞いても所詮甘えたものにしかならないだろう。そういうものは無いよりはましではあるが、二番煎じ、三番煎じ以上のものにはなるまい。
我々は、これまでの運動を検証し、自己否定しつつ出藍する勇気と目線を持たねばならぬ。これをやり遂げて初めて新たな視界が広がるだろう。本来辿り着くべきだった原野に佇むことになろう。これを筆者の諫言としておく。
付言しておけば、「自由自主自律型の左派運動」とは、西欧史上のルネサンス運動を意識している。筆者が思うのに、ルネサンスとは、直接的には中世期千年にわたて雌伏せしめられていたユダヤ教派のゲットー隔離からの自由という狙いを秘めていたが、もう一つキリスト教的教義支配から脱してのイエス教の復権、キリスト教的君主体制から脱しての市民的自由の謳歌、その精神的基盤としての古代ギリシャ-ローマ精神の探索に意味が認められる。西欧は、これにより子供から大人の時代に入った。そう理解している。
これは、歴史の正の流れであり、我々は、これを以降の政治的基準として通用せしめねばならない。筆者の「自由自主自律型の左派運動論」にはそういう意義付けがある。興味深いことは、この点では、マルクス主義よりもアナーキズムの方が正統嫡出子だった気がする。本稿は学生運動論にテーマを絞っているので問わないが、興味深いことであるように思っている。
「墨守ではない開放型の左派理論を創造せよ」。これを提言5の2とする。
精神及び組織及び運動論における「自由自主自律型の左派運動」は自ずと理論のそれをも要請する。これにより、日本左派運動は、マルクス主義のみならずアナーキズム、百姓一揆、その他諸々の例えば陽明学、中山みき思想等々の良質な思想との練り合わせを要請する。これらとの摺り合わせなきマルクス主義一辺倒で良しとする、あるいは間に合うとする作法は幼稚且つ危険なのではなかろうか。我々にはこうして「自由自主自律型の左派運動」を再創造する歴史的責務が課されているのではなかろうか。この方向に向かうのを出藍と云うのではなかろうか。
オカシナことは、マルクス主義一辺倒で良しとしながら、マルクス主義について何ら生産的な研究が為されていないことである。こう述べれば多くのマルクス主義者の不興を買うだろうが、筆者の見るところ現にマルクス、エンゲルス、レーニン、トロツキー、スターリン等々史上の指導者の著作の翻訳が余りにも杜撰なままに経緯している一事だけで反論できまい。まずは原書を正しく翻訳し、それに基づき理解するところから始まらねば批判的摂取はできまい。筆者は数典翻訳を試みているが、この道中で判明したことは、既成の訳本で理解したとシタリ顔している者こそ不遜であるということである。よほど眼光紙背に読み取る能力があるのか、分かっていないのに分かったような顔をする能力があるかのどちらかだろう。あるいは筆者のように途中で投げ出す者も多いかもしれない。
まずはこの貧相から出藍せねばなるまい。次に理解したことを互いが集団討議し、さらに精度を高めていく。理論に不足ないしは間違いがあれば、より精緻にしたりあるいは新たなる理論を求めて出藍していく。これが期待されている営為ではなかろうか。史上の左派運動は、これを思えば恐ろしいほど貧困というべきではなかろうか。我々には為すべきことが多く未だ山積みされている。これができない間は、政治における責任能力もないと云うべきだろう。かく弁えるべきだろう。以上を提言5としておく。
【提言6、戦後憲法秩序=プレ社会主義論により護持成育せしめよ】
(はじめに)
「戦後憲法秩序=プレ社会主義論により護持成育せしめよ」を提言6とする。これより具体論に入る。今日から評するのに、「戦後日本をどう規定すべきだったか」と云う問題がある。筆者は、戦後日本左派運動は早くもここで重大なミステークをしたと考えている。この遺風が未だに続いているとみなしている。憲法改正論が喧しい現在、この問題は非常に重要と考える。以下、解析する。詳論はサイト「戦後憲法論考」に記す。
「GHQ革命をどう評するべきか」。これを提言6の1とする。
1945(昭和20).8.15日、大日本帝国は、連合国軍のポツダム宣言を受け入れ降伏した。同9月2日、戦艦ミズリー号上で降服文書に調印した。以降、日本帝国主義が解体され、連合国軍GHQの統制下に入った。米太平洋方面陸軍総司令官ダグラス・マッカーサーが連合国軍最高司令官に任命されたことから明らかなように、戦後日本は米国の指揮権下に組み入れられつつ社会改造されていくことになった。
GHQは超規的権力として君臨し「上からの戦後革命」に着手した。この動きは当初ニューディーラー派に担われ、ポツダム勅令に基いて「日本国の再戦争遂行能力の徹底除去としての天皇制権力構造の解体」、その裏合わせとしての「日本国民の間における民主主義的傾向の復活強化」を図った。これにより、1・帝国軍隊の解体。2・帝国主義関連団体の解散。3・皇国史観イデオロギーの一掃。4・戦前的反体制運動の犠牲者として獄中に捕らわれていた主義者の解放。5・労働組合運動の公認化。6・財閥解体。7・農地改革。8・天皇の人間宣言等々に象徴される日本改造諸政策が矢継ぎ早に導入された。
それらの総纏めとしての憲法改正が指令された。日本人民大衆にとって幸運なことは、GHQが「日本国民の自由に表明せる意志に従い平和的傾向を有し且つ責任ある政府の樹立とそれによる新憲法策定を配慮」したことにあった。これにより、「日本国主権に基く憲法策定」が着手されることになった。真相は、新憲法策定の動きも叉「ネオシオニズム・シナリオ革命」であった。日本国の主権を尊重しているように巧妙にカモフラージュされていたとみなすべきであろう。
こうして、マッカーサー指令により帝国憲法に代わる新憲法制定が要請され、官民挙げて草案作りに向かった。但し、どれも大同小異で、戦前的天皇制秩序の温存のうえに民主主義を接木させていた類いの旧態然としたものでしかなかった。かくて、GHQ内のニューディーラー派主導による憲法原案がひながたとして策定され、国会論戦を通じて若干の変更を加えて採択された。1946(昭和21)年11月3日、GHQ改革の精華として新憲法が日本国憲法として公布され、1947(昭和22)年5月3日より施行された。
これについて筆者は思う。日本左派運動は、戦後憲法の読み取りに於いて大きく道を過ったのではなかろうか。問題は日本国憲法の中身である。筆者が見立てるところ、日本国憲法は戦後世界における米ソ対立を踏まえて戦後日本を米国側に取り込む必要という歴史的事情に負ったと思われるが、摩訶不思議なほどに米国憲法、ソ連邦憲法、第1次世界大戦後の敗戦国ドイツに導入されたワイマール憲法よりもなおルネサンス民主主義的な理念と制度を導入していた。更に、前文及び9条の「非武装中立、戦争放棄」規定に象徴される国際協調及び平和主義、国債発行禁止の健全予算主義、地方分権制、最低限の市民的生活保障、市民的活動の自由、拷問の禁止等々の人権諸規定、男女同権規定等が白眉となっている。これが字文通りに履行されるならば、戦後日本は世にも稀な蓮華国家になっていたはずである。そういう出色の憲法であった。
新憲法が骨抜きにされ解体改正されつつある今日の局面に於いて判明することは、戦後日本国憲法に結実した理念及び制度は、資本主義対社会主義の鞘(さや)に納まらないそれ自身価値を放つ極めて先進的な良質憲法ではなかったか。その由来は、この時期のGHQの政策推進主体であったニューディーラー派の見識に負う。筆者が見立てるところ、当時のニューディーラー派の見識は、これまたこの時代限りに許容されていた「フリーメーソン最左派」のそれではなかったか。
ここで憲法改正派が敵視している「前文及び9条の非武装中立、戦争放棄規定に象徴される国際協調及び平和主義」について言及しておけば、その眼目は二度と戦争しないという建前決意のみならず、国家予算の過半を軍事に注ぎ込むことの非を知り、その芽を摘んだことにある。なるほどその後の世界情勢は大きく変貌し、軍事的バランスを必要とする冷戦下の対峙情況に陥ったが、これの強調による憲法改正論は底浅であろう。国家の防衛は単に軍事的指標によるのではなく、経済力、国際協調力にも大きく依存している。国家予算に占める軍事費の抑制から生まれる総合国防力を踏まえるのが筋であろう。憲法9条は実にこの観点から生み出されており、時代を先取りしていると云えよう。
これを踏まえれば、日本左派運動は、「前文及び9条の非武装中立、戦争放棄規定に象徴される国際協調及び平和主義」の擁護こそ本旨とすべきであろう。これを付したのは、宗教法人「幸福の科学」の大川隆法総裁の最新著作「国家の気概―日本の繁栄を守るために」が「憲法9条改正」を唱えているのを見るにつけ、その論拠の安逸愚昧さを批判したくなった為である。大川氏の所論にはその他批判したいところが多々あるが、評するに値せずにより割愛する。
付言しておけば、1960年代半ばのベトナム戦争において、日本は沖縄からの出撃を許したものの、憲法9条の歯止めで自衛隊の参戦を抑制した。他方、韓国はネオシオニズムの配下軍として戦争に加担し武勇を揮った。このことが終戦後のベトナムと韓国との関係に支障をきたしたのに比して日本は友好的に歓迎され経済復興交易に大きな道を開くことになった。これは憲法9条の功績である。この功績はもっと認められるべきであろう。
「戦後憲法秩序をプレ社会主義のそれと確認し、日本左派運動の始発の原理にせよ」 。これを提言6の2とする。
今、筆者は、戦後学生運動の歴史を振り返り、筆者も参加したその運動を見つめ、今日の惨状に照らす時、或る種の感慨を抱いている。一つは、戦後左派運動が戦後革命を流産させたことについての感慨である。二つ目は、戦後革命は流産して良かったという感慨である。前者の意味では日本左派運動の能力が問われており、後者の意味では見識が問われている。戦後左派運動は、この両観点に於いて失敗するべくして失敗したとの感慨を湧かせている。以下、この感慨を検証していくことにする。
筆者は、戦後革命の失敗理由その1として、そもそも「戦後日本の歴史的社会的規定」を誤っていたのではないかと考えている。戦後日本を、ステロタイプ的なマルクス主義的歴史理論と資本制社会論で概括し、よろず反権力、体制否定に向かったのはマルクス主義理論の硬直的機械的当て嵌めではなかったか。日本左派運動は、その程度の頭脳しか持っていなかった為に、それを覆い隠すために小難しく語り、あるいは空元気な大言壮語ないしはそれに基づく行動のみを競ってきたのではなかろうか。こう受け止めないと、2009年現在の政治貧困が解けない。
戦後憲法を素直に読み取れば、マルクス主義的には垂涎のプレ社会主義憲法と規定されるべきであった。こう位置づけることで、日本左派運動は本来これを護持受肉化せねばならないものであった。だがしかし、左右両翼の主義者運動はそれぞれ公式主義的な理論を弄び、右派は皇国史観的天皇制秩序の解体を嘆き、左派はブルジョワ憲法と規定して批判に向かうと云う逆対応インテリジェンスを発揮することになった。後に生まれた急進左翼は更に教条的に、本質はブルジョア憲法であるからしてダマサレルナ式擬制理論を振り翳した。穏健左翼は護憲運動に向かったとはいえ、反戦平和主義的且つ受身的な民主主義を護れ的な護憲運動にしか向かわなかった。こうして、日本左派運動は両派ともがブルジョア憲法と貶しながらご都合主義的に護憲するという二枚舌運動にのめり込んでいくことになった。
これについて筆者は思う。しかしてそれは理論の貧困そのものを示してはいないだろうか。当時の社会科学、歴史科学の水準は、資本主義対社会主義の対立と云ういわばステロタイプ的な公式主義的マルクス主義理論の見地から評する程度のものが最高の知性という状況にあり、人類文明史の流れを当時の歴史情況に於いて相対的に論ずると云う真っ当な評価を為すことができなかった。頭脳が半分だけ賢いとこういうことが起こるという見本であろう。その点、日本人民大衆は、歓呼の声で戦後憲法を歓迎した。戦後憲法の持つ本質的にプレ社会主義性を見抜いていたからであった。戦後憲法の受容の仕方一つ見ても、「賢き大衆、愚昧なインテリ」と云う明治維新以来の政治の型が見えて来るのが興味深い。こうして、「戦後日本プレ社会主義」を歓迎し勤労に勤しみ始めた人民大衆と、その否定に向かい何ら生産的営為に向かわない主義者運動と云うボタンの掛け違いのまま戦後の政治、思想、宗教運動が進んでいくことになった。
憲法に続いて教育基本法.学校教育法が公布施行された。教育基本法は、1890年制定の教育勅語に代わり、戦後憲法の精神に即した教育制度や施策の基本的在り方を示す教育界の憲法となった。そのエッセンスは「検証 学生運動上巻」に記したので繰り返さないが、この憲法-教育基本法を貫く精神及び原理は、ルネサンス以降の西欧精神の正統嫡出子的な面を貫通させている。これが正の面である。他方で、国際主義的精神を称揚するばかりで、愛民族愛国心的ナショナリズムや伝統の尊重を盛り込んでいない。本来これは接合し得るものであるのに意図的に遮断されている。これが負の面であろう。こういうところに憲法-教育基本法の癖があると云えば云えるであろう。
これについて筆者は思う。「愛民族、愛国心的ナショナリズムや伝統の尊重」は、特段に憲法及び教育基本法に盛り込まずとも、自生的に生み出すべく運動展開すれば良いのではなかろうか。これらは本来、法的強制によるものではなく、自主的に自生させるものとする観点を創造すれば良いだけの話ではなかろうか。この点で、右派勢力の批判の論拠は怪しい。他方、日本左派運動が、レーニン主義的な「愛国愛民族運動=排外主義」論で「愛民族愛国心的ナショナリズムや伝統の尊重を否定」していったことも間違いなのではなかろうか。徒に混乱を招くだけのことでしかなかろうと思う。レー二ズム的革命主義は半身構えでしかないのではなかろうか。「愛民族、愛国心的ナショナリズムや伝統の尊重」をダンス論争と同じく公式主義的に否定するばかりが能ではない。左派的に取り込むのが必要なのであり、そういう運動が求められているのではなかろうか。愛民族愛国心に機械的に反発して右翼の専売特許にさせるのは作られた構図でしかないのではなかろうか。
「日の丸国旗、君が代国歌問題考」 。これを提言6の3とする。
戦後社会規定論は「日の丸国旗、君が代国歌問題」にも繋がる。筆者が思うに、「日の丸、君が代」を左派的に取り込む闘いを組織する必要があるのではなかろうか。入学式、卒業式で国旗掲揚、国歌斉唱が行われたとして、それほど目クジラするには及ばない。日の丸、君が代の歴史的発生経緯を知ればなおさらである。近代の皇国史観天皇制によって大きく汚されたが、日の丸、君が代そのものに罪はない。日の丸、君が代は、日本が世界に誇る国旗であり国歌である。筆者は、人民大衆的に読み直し位置づけできるものであると考える。
日の丸、君が代の真の問題性は、排外主義的な愛国愛民族意識形成に利用されているところにある。例えそうであろうとも入学式、卒業式に於けるそれは儀式であり、そう目クジラするには及ばない。ひとまず入学式、卒業式に認めたとしても、行事の至るところで「日の丸、君が代」させられることの方にこそ真の問題がある。日の丸、君が代の人民大衆的本質を知る筆者的には、これをのべつくまなく掲揚唱和サセナイ闘いを組織する方がよほど大事ではなかろうかと考えている。この闘いを疎かにする方がよほど重罪に思える。「日の丸国旗、君が代国歌問題」はかく闘われるべきではなかろうか。従って、入学式、卒業式等の重要儀式に於ける抵抗運動ではなく、それ以外の局面での徒な「日の丸、君が代をさせない運動」をこそ組織すべきだと思う。何でも反対だけの左派運動から脱却し、ツボを心得た勝利的な左派運動に向かうべしと思う。
「護憲をプレ社会会主義論で理論武装し錦の御旗とせよ」 。これを提言6の4とする。
筆者は、この時期の戦後日本憲法秩序ないし社会を、世にも珍しいルネサンスが花開いた時代と認識している。これを日本人民大衆から見れば、戦前的統制が外され、ルネサンス的息吹を詠う、今日のネオコン式ネオシオニズム的悪政に侵される前のいわば「健全な時代」のアメリカン民主主義が生硬に移植され、スターリニズムに歪曲されたソ連邦的社会主義実験史に比較してもなお人民民主主義的にして、日本古来よりの伝統的な「和的蓮華社会」が創出されていたと見直している。それ故に、筆者は、この時期の戦後日本をプレ社会主義とみなしている。
こうした「上からの戦後革命」とこれに伴う社会情勢的変化の下で、官民上げての戦後復興が着々と進められて行った。この時、戦前の大東亜戦争過程で構築された護送船団方式の官僚権限集中制が大きく力を発揮した。これに戦後政治家の有能なる指導が加わることで戦後日本は世界史上奇跡の復興を遂げていくことになる。戦前的統制秩序から解放された人民大衆の喜びに満ちた勤労も大きく貢献した。これを日本型社会主義と云う者もある。
これについて筆者はかく思う。中曽根政権の「戦後総決算改革」以来、特に小泉政権下での「聖域なき構造改革」に集約される自由化政策が矢継ぎ早に繰り出され強行されたが、これらは全て「戦後日本プレ社会主義制の解体政策」ではなかろうか。医療、年金、雇用、貧富格差等々これらは皆亡くして分かる日本型社会主義の賜物ばかりではなかろうか。これを思えば、「戦後日本=日本型社会主義」は案外、的を射ているのではなかろうか。今からでも遅くない、我々がなぜ護憲するのかにつきプレ社会会主義論で理論武装すべきではなかろうか。この理論を生まずして為す日本左派運動各派の護憲理論には理論サボタージュが認められるのではなかろうか。
ここで確認しておく。戦後日本は、敗戦国の悲哀として、戦前的支配秩序に代わってネオシオニズムが公然と侵入し、戦後的支配秩序を彼らが企図するままに敷設していくこととなった。他方、ネオシオニズムと戦前的皇国史観の対立の狭間を縫うかのようにして、戦後的下克上による土着的な新支配秩序も生まれ始めた。いわゆる成り上がりである。結局のところ、この両者が併行してそれぞれの戦後を創っていくことになる。こう見立てなければ、戦後の政治構図が動態的に捉えられない。両者がそれぞれ定向進化し、やがてぶつかり、ネオシオニズム派の下に組み伏せられる結節点が1976年のロッキード事件であると思われる。
「戦後日本に於けるハト派政治=プレ社会主義論を獲得せよ」 。これを提言6の5とする。
我々は長らくの間、マルクス主義の俗流的教条により、戦後憲法秩序をブルジョア体制と評し、これを転覆せしめての社会主義-共産主義への革命的転換を標榜してきた。通念化した理論であるが、これを疑う必要があるように思われる。結論を先に述べれば、「戦後憲法秩序=ブルジョア体制論」は理論の貧困によりもたらされた誤認識ではなかろうか。
筆者は、「共産主義者の宣言」(一般に「共産党宣言」と訳されている)の英文テキストに基く翻訳により、市井の訳本の拙さと意図的故意としか考えられない誤訳悪訳を指摘している。これについては、詳論はサイト「共産主義者の宣言考」に記す。筆者は、この種の研究が一向に為されていないことが不思議である。ましてや「共産主義者の宣言」と云えば基本中の基本テキストだろうに。
筆者訳から判明することは、歴史の偶然なのか意図的に導入されたものなのかは分からないが、マルクス-エンゲルスが同書で指針させた「革命の青写真」即ちプレ社会主義的政策指針の大部が、戦後日本社会にそのまま適用されているという驚きの事実である。戦後憲法が採択公布された時、日本左派運動に理論的知者がいれば当然、これをプレ社会主義憲法と認め、遮二無二その護持成育発展を目指したはずである。が、史実はそのように受け止めなかった。安逸なブルジョア体制批判運動に耽っただけだった。
こういう次第だからして、戦後日本左派運動はそもそもオカシゲな役立たないヘンチクリンな方向に向かうことになった。穏和系の社共は、戦後憲法秩序をブルジョア体制と認識しつつ、まずは民主主義革命を遂行するのが優先だとして議会主義的な反政府運動を専らとし合わせて護憲運動に向かうことになった。これにより「戦後日本のブレ社会主義」擁護派に位置することになった。これは社共にとって僥倖であった。今日までの日共の支持基盤の堅牢さはここに要因があると認めるべきであろう。
しかしながら、日共理論を仔細に検討すれば、護憲という面では辻褄は合っているが、その真意には、社会主義-共産主義運動を当面の目標にせずむしろ排斥するという、口先はどうであれ革命を遠ざける意図が込められた体制内穏和主義運動として位置づけていることが判明する。つまり、社共運動は本質的に当局に投降迎合した体制的なものであり、無責任なアリバイづくりだけの口先批判運動に堕したものでしかなく、護憲運動も叉防御的なものであった。
問題は、これを否定出藍しようとした新左翼系運動がどのようなものであったかにある。彼らは、戦後憲法秩序を教条主義的にブルジョア体制と認識することにより、戦後憲法秩序をブルジョア秩序の偽装とみなし批判していくことになった。これにより「戦後日本のブレ社会主義」解体派に位置することになった。これは新左翼にとって不幸であった。今日までの新左翼の支持基盤の虚妄性はここに要因があると認めるべきであろう。
新左翼はさらに、戦後憲法秩序の権力的本質を引き出すという戦略戦術で否定破壊運動するところまで定向進化していくことになった。それを支えるエートスが社会主義-共産主義的理念であり、この善運動の正義のためには何事も許されるとしてきた。暴力主義的体質はここに胚胎しているように思われる。この種の運動が急進化せざるを得ないのは自明であるが、権力と対峙して行使される場合にはある種認められようが、戦後憲法秩序のプレ社会主義性に対する暴力的破壊に向かうとなると考えものであろう。この種の運動が革命的であったかどうか疑わしい。むしろ単に観念的善運動でしかなく、実際に為したことは反動的であったかも知れない。
思えば、新左翼が共感を得たのは、60年安保闘争時の第1次ブント運動のタカ派岸政権の反動的施策に対する果敢な闘争に対してであり、70年安保闘争前の全共闘運動のハトタカ混淆的佐藤政権の対米盲従ベトナム政策に対する果敢な闘争に対してであった。人民大衆は、プレ社会主義的戦後秩序の破壊者に対する抵抗を願望しており、新左翼がこれに闘う姿勢を見せた時に共感したのであり、彼らの理論に共鳴したものではなかろう。なぜなら彼らの理論は独善的思弁的でかなり難解な辟易するだけのものでしかないから。
筆者は今はっきりと分かる。新旧左翼両者が戦後憲法秩序をブルジョア体制と評してきたことそのことがそもそも誤りなのではなかろうか。戦後憲法秩序は世界史上稀なるプレ社会主義性のものとして認識し称揚していくべきではなかったか。これまでの運動は、本来のこの歴史要請に対して正面から向かいあっていないのではなかろうか。ここに気づいただけでも値打ちがあろう。後は、自己批判を通じて大胆に軌道修正することができるかどうかである。それができるかどうかが見ものである。できなければ、筆者が自前の党建設で驀進して行くだけのことである。
ここで、元時事通信社の政治記者・増山榮太郎氏の著書「角栄伝説ー番記者が見た光と影」(出窓社、2005年10月20日初版)の次の逸話を紹介しておく。増山氏は、「伝説の角栄」の一節で、ソ連最後の共産党書記長となったゴルバチョフの次のような言葉を紹介している。
「世界で最も成功した社会主義国はどこか? ソ連? 二エット! 中国? 二エット! それはニッポンだ」。 |
ゴルバチョフから見た戦後日本はそのように見え、事実、戦後保守主流派を形成したハト派政治主導による戦後日本はその通りではなかったか。この面からの考察が急がれているように思われる。増山氏は、「伝説の角栄」の中で、次のように述べている。
概要「私は、しばらく考え込んでから、思わずハタッと思い当たった。『そうか。ゴルバチョフさんのいうのは本当だ』と。(中略)ある一時期、日本は国民みんなが『総中流』の共同幻想に酔うことができた。ゴルバチョフのいう『世界で最も成功した社会主義国ニッポン』が現出したのだった。ゴルバチョフが羨ましがった社会主義の理想が、日本に於いて実現していたことになる。そして、この『平等社会』の実現に最も貢献したのは、田中政治だったと私は思う。我々は、ここで再び田中が目指した『国民総中流』の社会を再評価すべきではないだろうか。その意味では、田中政治は『偉大な社会主義者』といえる」。 |
マレーシアのマハティール首相は、2002年10月10日クアラルンプールで開かれた経済フォーラムで、次のように述べている。
「今も日本に注目しているが、もはや目標としてではなく、失敗を繰り返さないための『反面教師』としてだ」。 |
我々は、「外から見たありし日の戦後日本論」としてのゴルバチョフソ連共産党書記長、マハティール首相の言を深く味わうべきではなかろうか。
「戦後民主主義を廻る社共の二枚舌、新左翼の教条主義的対応から出藍せよ」。これを提言6の6とする。
1956(昭和31)年頃、後に新左翼となる急進主義系の全学連運動が発生した。その定向進化を見ておくことにする。定向進化としたのは、運動はひとたび敷かれたレール上を行き着くところまで進むことになり、そこまで至らなければ是非判断ができないという意味合いで表現している。今日から見て云えることは、急進主義系全学連運動は「革命を夢見る」者達の純粋無垢な正義運動であった。このこと自体は誉れであり何ら問題はない。問題なのは、その急進主義運動が、近代-現代史を牛耳る真の権力体であるネオシオニズムに対して全く無知蒙昧で、為に全く無警戒な、彼らにうまく操られる危険性まで帯びた左から迎合する国際主義運動にのめり込んで行ったことにある。あるいは全く役立たない鬼っこ的な消耗運動に堕したことになる。如何に精緻に理論展開しようが所詮おぼこさと哀しさを見て取ることができよう。
筆者の見立てるところ、1950年代の党分裂、党中央の徳球系の武装闘争の失敗の結果としてもたらされた1955年の六全協以来、日本左派運動の本家たる共産党内で徳球系から宮顕系への宮廷革命が進行し始めた。それは同時に、「共産党内に於ける上からの反革命」による日本左派運動の解体の流れでもあった。この時、真に望まれていたのは、宮顕系への転換を認めない許さない運動であった。且つ、徳球系も見過ごしていた戦後憲法のプレ社会主義性に着目しての擁護受肉化運動であった。
戦後日本に訪れた史上稀なるルネサンス社会を、世界のどこよりも進んだプレ社会主義なる社会とみなして、これを成育発展せしめていくべきであった。戦後日本は、いわゆる混合経済体制であったが、自由市場制社会主義理論を創造することによってこれを是認し、官民棲み分けの均衡的発展を目指していくべきべきであった。徒に無国籍型の国際主義にぶれず、各国在地内での土着性社会主義を目指す革命なり改革に向かうべきであった。こういう左派運動が望まれていた。
ところが、戦後マルクス主義派は、穏和系も急進系も、これらを全て否定する方向に靡いてしまった。穏和派は、戦後日本をプレ社会主義の具現態であるとする新理論的切開のないままに、口先で体制批判するものの、その実は「当面はブルジョア革命に向かう戦略戦術を良しとする」という変調二段階革命理論で体制内化運動に帰還するという二枚舌的運動に陥っていくことになる。
これを仮に社共運動と命名する。社共運動は、戦後民主主義を「ブルジョア民主主義」と規定したまま、「ブルジョア民主主義擁護の護憲運動」に向かうことになった。この指針は、運動内部から社会主義革命を遠景に追いやるという犯罪的意図に導かれていた。しかも当初は「社会主義革命に直接転化する民主主義革命」とされていたのを次第に「社会主義革命との関係を問わない独立したブルジョア民主主義革命」方向にシグナルし始めた。「ブルジョア民主主義擁護の護憲運動」はこの流れにあるが、この理論の変調さに気づかぬとしたらお粗末と云うしかあるまいに、社共運動はこれを延々と説教していくことになる。
他方、戦闘的左翼は、戦後日本社会をも資本制の変種と規定して、その種の「ブルジョア民主主義」を否定し、「プロレタリア民主主義」を対置しつつ社会主義-共産主義革命へ向けての反体制運動ないしは体制打倒運動を呼号して行った。戦後日本のプレ社会主義性を認めず単にブルジョア民主主義と規定し、いわばステロタイプな教条主義の道を競うように急進主義化することで戦闘性を証明してきた。本来は、戦後民主主義のプレ社会主義的要素を革命的に護持成育発展せしめて行くべきではなかったか。
こうして、穏和派も急進派も、「戦後日本秩序=プレ社会主義論」を生み出さないまま虚飾の左派街道へ分け進んでいくことになった。これは、理論の貧困のもたらすものであった。筆者はそのように了解している。
「日本左派運動は政権奪取運動に向かえ」。これを提言6の7とする。
戦後日本は、これを相対的に見れば日本史上のみならず世界史上に於いても輝く稀なるプレ社会主義的な社会状況を創出していた。それは、独特とも云える日本史の和的発酵的発展史の伝統にも合致していた。かく認識し、そのプレ社会主義を強めるのか弱めるのかを廻って、権力側に立つ派と人民大衆側に立つ派との綱引きが行われることが期待されていたのではなかったか。
この時期、日本左派運動は、何としてでも権力を奪取し、ロシア型マルクス主義とは違う日本型マルクス主義により戦後社会のプレ社会主義制を踏み固め更に創造発展させていくべきであった。それが世界史的使命であった。その可能性が大いにあったのに、その政治責任の重圧を引き受けようとせず、徒に安逸な体制批判運動に終始したのではなかったか。
左派運動が健全であり有能ならば、人民大衆側に政治を引き寄せ政権を奪取し政治責任を引き受けるべきではなかったか。それを、ロシアとも中国とも違う日本的革命方式に於いて遂行すべきではなかったか。実際には、敗戦により進駐軍と云う名の国連軍という名の国際金融資本の傭兵に過ぎない米軍の統治下にあり、決して叶わない重圧下にあったのではあるが。しかし、少なくとも理論としてはそう構えるべきであっただろう。今にしてそう思う。
これが問われていたときに、戦後日本左派運動は、徒な反権力、体制批判運動に終始し、政権奪取に向かわない、担わない、つまり政治に責任を負おうとしない、左派ポーズ的気取りに過ぎぬ、あらぬ運動に横ズレした運動に向かったことで、運動史を蓄積せぬまま単に費消させていったのではなかろうか。これを善意に窺えば、当時は、ロシア10月革命に続く日本革命を夢見ており、ロシア10月革命を憧憬するのに忙しく、戦後日本革命を引き受け担うには能力も責任感もなさ過ぎたということになるのだろうか。後付けで見えて来る話ではあるのだけれども。しかし、後付けであろうが見えてこないとどうしようもないではないか。以上を提言6としておく。
【提言7、自由市場制社会主義経済論を創造せよ】
(はじめに)
「自由市場制社会主義経済論を創造せよ」を提言7とする。日本左派運動は明治維新過程の自由民権運動の失速以降マルクス主義を導入し、今日まで長らく理論的主柱としてきた。マルクス主義の功罪の総合的研究はさて置き、ここでは次のことを指摘しておく。俗流派が拝戴し教条としてきた国有化理論をマルクス主義のミスリードと認め、これを否定すべきではなかろうか。マルクス主義的経済体理論は本来、国有化論を本質としておらず、正しくは社会化理論であったと理解すべきではなかろうか。仮に国有化論を前提にしていたとすれば出藍すべきではなかろうか。これにつきコメントしておく。詳論はサイト「マルクス主義考」所収の「国有化論ないしは市場経済論」に記す。
「広西理論の卓見を称揚せよ」。これを提言7の1とする。
国有化理論の非マルクス主義性を夙(つと)に指摘していたのは広西元信氏であった。詳論はサイト「道西氏の衝撃の誤訳指摘」に記す。広西氏は、1966.12.1日初版で「資本論の誤訳」(こぶし書房、2002.3.30日再初版)を世に問うている。同書で、所有と占有概念の違いを識別し次のように指摘している。
概容「マルクスは、占有概念で社会主義社会を透視していた。マルクスの言説の中に国有化概念はなく、むしろ資本主義的株式会社を労働者の生産管理的方向(アソシエーション)へ発展させる必要を遠望していたこと。その限りで、ロシアのスターリニズム的国有化政策指導は何らマルクス主義的でないどころか、反対物である」。 |
この広西見解は長らく無視されてきた。しかし、ソ連邦が崩壊し、「自由市場制社会主義論」が生み出されつつある折柄にあってはその先見の明が明らかであり、これを高く評価されねばならない。筆者は、広西氏のアソシエーション理論を「自由市場制社会主義論」の有益試論とみなすが、最近はしゃいでいる日共不破が「レーニンと市場経済」で見せた論述は「自由市場制社会主義もどき論」に過ぎず、単なる現下資本主義の修正主義でしかない。
不破理論の特質はいつでも、問題の在り処を探る才には長けているものの、その考究と称して幅広い知識を披瀝するところまでは良いとしても結局は、マルクス、エンゲルス、レーニンらの言説を捻じ曲げつつ有害無益な右派的理論に到達させてしまうのがいつもの遣り方である。従って、不破理論に対しては、知識を得るところと見解を押し付けられるところとの境目をはっきりさせ、知識を検討し不破見解的箇所は却下せねばならない。不破見解を鵜呑みにするとあらぬところへ誘導される。彼はこの手のマジシャンである。今、日本左派運動に要請されていることは、不破的「もどき論」にごまかされることではなく、真の市場主義的社会主義論の開拓と創造に向かうことである。この差には天地ほどの隔たりがあると知らねばなるまい。
「レーニン最晩年の政策となりその後棄却されたネップ政策を再検証せよ」。これを提言7の2とする。
全産業、業種の生産及び流通結社の国有化は俗流マルクス主義政策であり、正しくは官民棲み分け及び重要産業に於ける基幹的官営企業による官的采配とそれを取り巻く民営企業との正しい連携こそ、本来の社会主義的経済体理論であったと窺うべきではなかろうか。これに向かった人類史上貴重な史実が刻まれている。レーニンが晩年に指針したネップ理論と政策である。これを簡明に検証しておく。
1917年のロシア10月革命を遂行したボルシェヴィキ革命政権は、俗流マルクス主義による公式主義的国有化経済理論に基づき直ちに「戦時共産主義政策」を施行した。これにより商業的営為が全否定され、企業が国営化され、食物徴発令が発布された。しかし、いざこれをやって見ると経済実態に照応せず、ことごとく壁にぶつかりった。この現実を客観化させ、マルクス主義的教条からの転換に向ったのがトロツキーであった。
1920.2月、戦時共産主義が真っ盛りのこの時期、トロツキーが戦時共産主義からの転換に動き始め改良を目指した。「食糧政策と土地政策の根本問題)」を中央委員会に提案し、「食糧ノルマにもとづく均等徴発や、供出の際の連帯責任制、工業生産物の平等分配といった現在の政策が農業を衰退させ、工業プロレタリアートを分散させるものであり、国家の経済的生命を決定的に台無しにするおそれがあることは明白である」と見立て、従来の戦時共産主義政策からの転換を迫った。
この提案に対し党内は賛否両論となった。この時点では、この提案が持つ萌芽的な自由市場の復活について批判が為され、トロツキーは自由取引主義者と批判された。中央委員会は、反対11対賛成4票で否決した。レーニンもスターリンも当時の教条主義的見地から強く反対している。
但し、レーニンはその後、「戦時共産主義政策の限界と誤り」を認め、このまま経済統制策を続けると政権が崩壊することを悟った。1920年秋頃よりトロツキーよりもより柔軟大胆な「戦時共産主義からの政策転換」を目指すようになる。次のように述べている。
概要「我々は、充分な考慮もせずに、小農民的な国で物資の国家的生産と国家的分配とをプロレタリア国家の直接の命令によって共産主義的に組織しようと考えていた。実生活は我々の誤りを示した。その『誤り』とはこうであった。直接に熱狂に乗ってではなく、大革命によって生み出された熱狂の助けを借りて、個人的利益に、個人的関心に、経済計算に立脚して、小農民的な国で国家資本主義を経ながら社会主義に通ずる堅固な橋を、まず初めに建設するよう努力し給え。実生活が我々にかく語った。資本主義的経営と資本主義的流通の通常の進行が可能であるように、物事を設定しなくてはならない。なぜならば、これは国民にとって必要であり、これなくして生活は不可能であるからだ」。 |
レーニンの晩年は、「戦時共産主義からの政策転換を廻る理論的創造」が課題となった。1921年3月、レーニンは、第10回党大会を前にして政治局に「戦時共産主義体制からの転換政策案」を提起した。農民に余剰食糧の自由販売を許し、私営商業も認め、自由市場に道を開くことにより疲弊した経済を甦らせようとした。しかし強い反対にあった。反対派の意見は、計画経済からの撤退は社会主義の夢からの裏切りであり、資本主義の復活であり、下部構造の資本主義復活はやがて上部構造へ及ぶという見解に基づいていた。 その批判は、官僚制批判、党内民主主義とソビエト民主主義の復活要請と結びついており、革命政権を揺さぶった。
1921年3月、ソ連邦共産党第10回大会が開かれ、クロンシュタット反乱の最中、レーニンの指示によって「新経済政策」(ネップ、New
Economic
Policy)を打ち出し、正式に「戦時共産主義からの転換」を指針させた。これにより現物経済から市場と貨幣を媒介とする経済への転換がはかられた。農民には余剰穀物の自由販売が認められることになった。土地の私有、貸与貸借も認められた。基幹産業をのぞいた中小企業は民営化され貨幣が再導入された。商業を通じて農村と都市が結びつく道が切り開かれたことになる。いわば部分的な市場経済の導入であった。ある程度の地方的商業活動も許容された。こうして、農民や中小企業に自由な経済活動を認め、市場経済に道が開かれた。外国資本の導入も認められた。この道は資本主義経済への回帰でもあった。追って自由市場の復活、土地の、雇用労働、資本家の復活を生み出すことが予見された。
レーニンは、ネップの導入は農民と和解するための一時的な「後退」であると考えていた。次のように述べている。
「我々はこの資本主義を受け入れねばならないし、又受け入れることができる。そして我々は、それに一定の制限を課することができるし、又そうしなければならない。それが膨大な農民大衆と、農民の必要を満たすことが可能な商業にとって必要だからである。我々は、資本主義に特徴的な経済の正常な作用と交換の型が可能になるように、ことを按配しなければならない。それは人民の為にそうでなければならないのである。そうでなければ、我々は生きていくことができないであろう。彼らにとって、それがまさしく絶対的に必要なことなのだ。その他のことに就いては、彼らは何とか我慢するに違いない」。 |
レーニンは、「古い社会・経済制度、商業、小経営、零細企業活動及び資本主義を破壊せずに、商業や零細企業活動、資本主義に活気を与え、活性化の方策に関してのみ国家により統制を加える」という知見に達していた。1920年11月20日の最後の公の場での演説では、次のように述べている。
概要「社会主義は今となってはもう、遠い将来の問題ではなく、又何か抽象的な絵でもなければ、聖像のようなものでもない。我々は社会主義を日常の生活へと引き入れた。そしてそれを理解するよう取り組まなければならない」。 |
晩年のレーニンは、「協同組合について」口述筆記していた。それは「文化的な共同組合員制度」まで視野に入っていた。レーニンによると、「ロシアの条件下では社会主義と完全に一致するものである」としていた。メリニチェンコ氏の「レーニンと日本」は次のように記している。
概要「ネップは、初期段階の社会主義の『要素であり、小部分であり、小片』であった。ネップ支配の下での、ロシア住民の幅広く内容の濃い協同組合化は、『完全な社会主義的社会の建設にとって全ての必要なことなのである』。レーニンによれば、社会主義とは、ある一定の条件の下では、完全に資本主義と共存するだけでなく、資本主義から学び取り、吸収し、消化する能力がある(歴史的に見ると、実際には逆になってしまった。つまり、資本主義が社会主義のいい部分全てを取り入れた)。別の言い方をすると、レーニンは社会主義を『私営商業の利害』に対立するものと捉えたのではなく、共存するものとして、実際は市場型のネップ式社会主義、例えどんなに多くの人を驚愕させようとも、これは『現存する資本主義的関係を土壌として』成育し強化されていく社会主義であった。これぞまさしく社会主義の解釈における新しいレーニンの言葉であるのだ!」。 |
レーニンが提起した「改良主義的行動への移行」、これが逆説的であろうとも、1921年から1923年にかけてのレーニンの最も重要な新しい理論的思想であった。こうして晩年のレーニンは、「社会主義に対する我々のあらゆる考え方の根本的変化」に辿り着いていた。メリニチェンコ氏の「レーニンと日本」は次のように記している。
「これは極めて輝かしい、偉大な、レーニン思考の高まりであり、未だ完全に理解され尽くしていなければ、十分な評価も受けていないものだ。レーニンの天才性の目がくらむような素晴らしい背景の前では、現在のロシア改革者達など影が薄く、惨めな半可通、ちっぽけな暗愚に映る。レーニンは、『新しいことを現実に遂行する際には膨大な苦労と抵抗が伴う』と述べている。レーニンの後に続く者の中で、実践しているかどうかまで問わないとして、せめて心中だけでも良いから、果たしてこのようなレーニンの提起した結論について熟考した者がいただろうか?」。 |
しかし、歴史は、これらの苦悩を引き受けなかった。レーニンは、この方針を確立して1年5カ月後の1923年3月に病気で倒れ、その後、政務には復帰できないまま1924年1月に亡くなった。レーニン没後、ソ連の党と政府の指導権を握ったスターリンは、この問題に対して全く無能であった。「トツロキー、レーニンの慧眼」を継承しようとせず戦時共産主義体制に差し戻した。穀物調達を廻るクラークとの利害衝突が発生し、その結果としての強権的にクラークを壊滅していった。1929年から30年代初頭にかけて、「上からの革命」政策を強行していった。農業面での「集団化政策」、工業面での5ヵ年計画による重化学工業重視政策が導入されていった。これらの諸政策は新経済政策の事実上の終結宣言であった。以来、「市場経済を通じて社会主義経済へ」の方針はソ連には復活することがなく、その他の社会主義国もこれに倣った為にネップ政策の系譜が消えた。
これにつき筆者はかく思う。スターリン派によるレーニン式ネップ政策の放棄は返す返すも残念なことであった。ネップ政策をどう見るべきかが問われている。1・マルクス主義的経済政策の重大なる裏切り修正か。2・マルクス主義的経済政策の創造的発展か。3・マルクス主義的経済政策の読み誤りの訂正か。この3点が論ぜられるべきであろう。筆者は、「3」説を採っている。マルクス主義的私有財産制の否定論は必ずしも国有化論と接続していないのに、通俗マルキストは国有化論に立つ見地こそマルキストと読み誤り、ロシア革命政権もその俗説に従った結果、徒な社会的混乱を招いた。問題は、レーニンが、ネップ政策につき「2」説の見地より党内説得に努めていたのではないかと思われることである。筆者は、そこにレーニンのマルクス主義理解の歪みを見てとる。時代の制約もあり仕方なかったとはいえ、それほどに通俗マルクス主義の病弊の根が深いと云うべきだろう。筆者は、ここを切開しない限りマルクス主義の豊潤さは生み出されないと考える。
「『共産主義者の宣言』で示した経済政策こそ自由市場制社会主義経済論ではないのか」。これを提言7の3とする。
そもそも「共産主義者の宣言(通称「共産党宣言」)」は、「もっともすすんだ国々では、つぎの諸方策がかなり一般的に適用されるであろう」と前置きして次のような経済政策を指針している。既出の訳本は正確でないので、筆者訳によると次のようになる。
1 | 土地所有を廃止し、全ての地代の分配を公共目的に充当する。 |
2 | 重い累進税又は等級制所得税。 |
3 | あらゆる相続権の廃止。 |
4 | 全ての国外移民者(亡命者)及び反逆者の財産没収。 |
5 | 国家内の諸銀行の信用(クレジット)を中央集権化する。国家資本と排他的独占権を持つ国立銀行を通じて為される。 |
6 | 通信、交通及び運輸機関の国家の手への中央集権化。 |
7 | 国家に帰属する工場及び生産用具の拡大。未開拓地の開墾及び総合的な共同と計画による土地改良。 |
8 | 労働に対する万人の平等な義務。産業軍の編成、とくに農業の為のそれ。 |
9 | 農業と近代産業の結合。国中の民衆に対するより平等な分配を通じての都市と農村の差異の漸次的解消。 |
10 | 公教育の場での全児童に対する無料教育。現在の形態での児童の工場労働の廃止。教育と産業的生産との結合、等々。 |
留意すべきは、規定5の国立銀行制、規定6の交通及び運輸機関の国有制、規定7の国家プロジェクトによる国土総合開発制である。これを逆に読むと、国家中枢機関の国有制であり、公営企業を核とした民営企業の結合を指針せしめていることになる。
「戦後日本に結実した自由市場制社会主義経済を再評価せよ」。これを提言7の4とする。
レーニン的ネップ政策は、後継者スターリンがこれを継承しなかった為、地上から姿を消した。ところで、レーニン的ネップ政策は本当に消えたのであろうか。筆者は否と云う。レーニン的ネップ政策は形を変え、戦後日本に結実したのではないかとの仮説を持っている。即ち、「共産主義者の宣言の示した経済政策」を字義通りに実践した例として戦後直後の日本政治がある。この観点から若干の示唆をしておきたい。
日本は、大東亜戦争遂行過程で国家社会主義体制化させた。そのイデオロギーは、「天皇制下官僚社会主義」に支えられていた。このイデオロギーの下で「有能なる官僚による支配」が進み、資源と富の国家集中が押し進められた。日帝は敗戦により解体されたが官僚社会主義システムは残った。この官僚社会主義が間もなく導入された戦後民主主義と結びつき、資本主義体制下での親方日の丸方式国家再建を目指していくことになった。大東亜戦争の敗戦が思わぬ果実を戦後日本にもたらしたということになる。
興味深いことに、戦後憲法秩序に於ける重要産業及び分野に於ける親方日の丸国営企業とその衛星的民間企業、その他産業及び分野に於ける民営化制という官営と民営の有機的結合即ち戦後日本的官民結合事業方式こそがマルクスの指針せしめた当面の経済政策であり、これが本来のプレ社会主義的経済機構理論であり、戦後経済秩序はこれを地で執り行っていた素晴らしい制度であった。筆者が、戦後日本=プレ社会主義論を唱える根拠の一つでもある。
天皇制は象徴天皇制として生き延び、普通選挙で選出された代議士が国会で政策決定していく仕組みになった。権力を握ったのは、戦前土佐自由党の流れを汲む吉田茂であり、吉田に見出された池田、佐藤、田中であった。50年代から70年代半ばまでの25年余の間、ハト派系が戦後保守本流となり、タカ派と表見左翼を御しながら世界史上未曾有の戦後復興、引き続く高度経済成長へと導いていった。これは稀に見る善政であった。この間の国富の蓄積は、世界史に誇る事例となっている。レーニン的ネップ政策は戦後日本に花開き、マルクス主義の有能有効性を証したということになる。残念ながら、この観点からのネップ政策論が為されていない。故に、この観点からのネップ政策論が見直されなければならない。
そういう意味で、最近の親方日の丸企業の徒な民営化は逆行であると云わねばならぬ。中曽根-小泉的民営化路線は、この観点からも批判されねばならないところだろう。これを逆から云えば、民営化論のイデオローグが揃って社会主義的遺制の解体を標榜していたことには根拠があるということになる。民営化は、ネオシオニズムの姦計による彼らのコントロールする世界支配への身売りであり、その資産資金はハゲタカファンドへの御供である。この要請を受けて立ち働く輩を売国奴と云わずして何と呼ぼうぞ。かく認識せねばなるまい。以上を提言7としておく。
【提言8、統一戦線論を否定し、共同戦線論に転換せよ。全共闘運動を称賛せよ】
(はじめに)
「統一戦線論を否定し、共同戦線論に転換せよ。全共闘運動を称賛せよ」を提言8とする。これを指摘するのは筆者が始めてかも知れない。詳論はサイト「マルクス主義考」所収の「共同戦線論考」に記す。これにつきコメントしておく。
「統一戦線論を否定し、共同戦線論に転換せよ」。これを提言8の1とする。
日本左派運動が受容したマルクス主義の悪しき俗流化として国有化理論のほかに統一戦線論が有る。筆者は、統一戦線論の吟味以前に「統一」という文言に拘る。世上で統一という言葉が用いられる際は、大抵ロゴス派的ネオシオニズム発想に基いていると思えば良かろう。この文言は左派運動には本来無縁の用語であるのにいつのまにか導入され、我々が無自覚なまま通用させてきた経緯がある。そろそろこのことに気づかなければならない。以下立論するが、それでもなお「統一」表現に拘り続けるとしたら俗に云う「漬ける薬がない」か意図的故意で用い続けているかのどちらかになるだろう。
従来、左派潮流の共闘を「統一戦線」と表現してきたが、左派運動の本義に於いては「共同戦線」と表現すべきなのではなかろうか。ニュアンスの違いでしかないように思われようがさにあらず。「統一戦線」という表現には、マルクス・レーニン主義者党を自認する党中央を絶対の正しき党と見なした上で、マヌーバー的な戦略上の妥協として導入されるものの、実際には党中央を「奥の院」に据えており、その睨みの構図の中で党フラクション組織としての大衆団体、労働組合、その他組織を結集させ、その周りに他党派、諸潮流の取り込みをも図るという自尊構図が見られる気がしてならない。
してみれば、マルクス・レーニン主義は思想構造上ネオシオニズム式ロゴス派のそれと通底していることになる。我々が求めるのは本来逆のカオス派的なものではなかろうか。党内に異論と派閥が認められ、平常も党大会でも議論がかまびすしく為され、その同じ論理で他のどのような組織とも課題毎に時局に応じて共闘を目指すというのがこの種の運動に本来期待されていることなのではなかろうか。という訳で、筆者は以降、「共同戦線」と表現することにする。これより以降、統一戦線なる用語を使う者は、筆者のこの指摘に理論的に反駁せねばならない。
現下左派運動諸党派の党中央の呼びかけで為されるその種の運動は統一戦線運動と見なしても良かろう。なぜなら、彼らは、例の民主集中制に繋がる満場一致世界を現出する組織論に相応しい統一戦線運動を志向しているのだから。ちょっとの認識上の違いであるが、意味するところは運動観の世界が根本的に変わるほど大きな違いでもあるように思われる。
統一戦線論の由来は、生硬な急進主義的マルクス主義運動が社会民主主義運動排撃論を生み出した反省の上に立って代わりに登場してきたものであるが、これにより直接の党派運動の展開を控える代わりに非党派的つまり無所属を装う人民戦線的運動が生み出された。統一戦線論とは、この運動指針論のことを云う。
これについて筆者はかく思う。統一戦線論は、革命の前衛としての党派運動を隠しているだけで、大衆運動的に見せかけてその実、その手綱は常に党に有るべしという臭い話の妙な理論でしかない。衣の下に鎧が見えており人民大衆を馬鹿にしている。互いの党派がこれをやるとどうなるかと思い浮かべれば正体が分かろう。要するに姑息な戦法である。歴史的に見てユダヤ教パリサイ派の得意としてきた陰謀的秘密結社の得意とするカムフラージュ理論と良く似ていると思うのは筆者だけだろうか。この種の運動をマジに掲げる党派の感性が信じられない。本来ならいっそのこと堂々と共同戦線論として打ち出すべきところであろう。各党派は、党派的利益を差し置いて運動の利益を主眼にするべきであり、その運動を通じて切磋琢磨し揉まれるべきではないのか。それで不満な面は、党派の直接の運動で補完すれば良かろう。党派独自の運動を世に大胆に提起できないとしたら、そもそもイカガワシイ話ではないか。問題は、どちらもやれば良いだけのことではないのか。
直接的な党派運動が非合法の場合も何ら事情を変えない。どちらもやれば良い。それだけのことである。党派運動が合法の場合にはなおさら直接的な党派運動を目指すべきだし、他党派及び大衆団体と組むなら共同戦線でやれば良い。それだけのことであろうが。それを敢えて統一戦線でやろうとし且つ党派的基準を持ち込むところが胡散臭い。
統一戦線論の素性は哲学的にも思想的にも組織論的にも運動論的にも怪しい。統一と共同の間には元々千里ほどの間がある。共同戦線論を生み出すべきところを敢えて統一戦線論を押し立ててきたというのが真相であり、何ゆえにかような方法が持ち込まれたのか訝らねばならないと思う。統一戦線論はどこかに司令塔的センター基地を控えさせており、タガハメされている。それはあたかも薄っぺらな国際主義論がネオシオニズムの奏でる詭計理論であることと通底しているように思える。各派が対等でない裏の仕掛け人が居るということである。我々はかような統一戦線論と早急に決別せねばならぬのではなかろうか。
次のように見立てることもできる。現代史を紐解く精神的エッセンスはルネサンスの精神であり、これを保持するかどうかで文明度が推し量られる。ルネサンスの洗礼を受けた者が近代以降の歴史の正統な継承者であり、これを弁えぬ者は、個人であれ組織であれ党派であれ旧人であろう。つまり、近代ルネサンスの洗礼リトマス試験で正反応しないのは封建的君主的秩序派であり、反応するのが開明的議会的秩序派とみなすことができる。
これに照らせば、社民排撃論にとって代わった統一戦線論の素性も相変わらずの封建的君主的秩序の範疇のものであり、否陰謀的結社の運動論の範疇のものであり、我々が受け入れる訳には行かない種のものである。本来必要なことは、組織の内も外も運動のそれも政権取る前も後も共同戦線で邁進すべきである。何事もぼちぼちやれば良いのだ。端からこれでやっておれば今頃の政治情勢は今よりは随分先へ進んでいるだろう。
共同戦線論は当然、参加団体のサミットを要請する。その場で喧々諤々すれば良かろう。粘り強く何度もやれば良かろう。ここに能力が問われている。そして共同行動すれば良い。足らずは相互に自前の党派運動で補足すれば良かろう。日本左派運動は、世界のそれもそうかも知れないが、こういう能力を持っていない。この能力を獲得できないうちは革命なぞできっこないだろうし、下手な革命なぞ起こして貰いたくもない。こういうことも云っておきたい。
「全共闘運動及び思想を再生させよ」 。これを提言8の2とする。
「統一戦線と共同戦線の識別」に至れば、日本左派運動史の中で最も成功裡にこれを成し遂げたと思われる「全共闘運動及びその思想」に思いを馳せねばならない。実は、全共闘運動は、日本左派運動が始めて組み立てた党派間連衡の共同戦線運動ではなかったか。その意味で、全共闘結成に尽力した諸氏の功績が高く評価されねばならない。筆者が、60年安保闘争同様に理論はともかくも本能的に正しく振舞ったと評する所以である。しかしながら、当の本人が、果たしてこのように意義を認めていただろうか。その後の全共闘各派はその重みに耐えかねてか、それを更に発展させるよりは自主的解体の方を選んでしまった。しかし、一時的にせよそれを獲得したという史実が尊いように思われる。
ちなみに、これに参画した党派とこれに敵対した党派を掲げ、違いを愚考してみることにする。70年安保闘争過程の1969年9月5日、日比谷野音で全国全共闘会議が結成された。どのセクトとも特別の関係を持たなかった東大全共闘の山本義隆(逮捕執行猶予中)を議長に、日大全共闘の秋田明大を副議長に選出し、ノンセクト・ラディカルのイニシアチブの下に新左翼8派を組み入れ、全国178大学の全共闘組織が生まれ、全国の学生約3万4千名が結集した。
8派セクトは次の通りである。1.中核派(上部団体-革共同全国委)、2.社学同(同-共産主義者同盟)、3.学生解放戦線(同-日本ML主義者同盟)、4.学生インター(同-第四インター日本支部)、5.プロ学同(同-共産主義労働者党)、6.共学同(同-社会主義労働者同盟)、7.反帝学評(同-社青同解放派・革労協)、8.フロント(同-統一社会主義同盟)。
これを出自から見ると、革共同系、ブント系、元社会党急進主義系、元日共構造改革派系から構成されていることになる。これを逆から云えば、これら党派は共同戦線運動に馴染める運動論組織論を構築していることになる。これに加わらなかった革マル派、日共系民青同、中共系諸派等々は、共同戦線運動に馴染めない運動論組織論を構築しているのではないかということになる。
筆者は、共同戦線運動を推奨する。それは戦略戦術問題というより、もっと深いところでの人間種族の群れ方として根本的に認め合わなければならない原理だと心得るからである。ここを立脚点としつつ丁々発止の駆け引きで共闘していく知恵こそ大人のそれであり、これができぬのは子供段階の運動でしかないと思う。逆から云えば、統一運動論に権力発想的臭いを嗅ぎ取り、それは往々にして良からぬ結果しかもたらさないと心得るからである。それは容易に得手勝手な真理に繋がり、権力如意棒となって異端ないしは少数意見の排撃に向う。事実、右からであれ左からであれ、統一呼号論者の運動にはろくなのがありはせぬではないか。
この観点はあるいはマルクス主義のそれではないのかも知れない。アナーキズムのそれであるのかも知れない。ならば、筆者はアナーキストであっても良い。なぜなら、組織論、運動論に於いてこの作風こそが踏まえられる原点となるべきだと思うから。もし、マルクス主義がこれに立脚していないのなら、それは明らかに間違っている。その負のツケが自己撞着して今日の貧困にまで至っている気がしてならない。
筆者が信奉するのは、「自由、自主、自律」的な運動である。仮にこれをルネサンス気風と表現している。我々が擁護すべきはこのルネサンス運動であり、そのレベルが高いものであるなら、このレベルに合わせられる人士をより多く輩出するよう日頃から理論を練磨し実践運動に有機的に取り組めばよいのではないのか。左派運動がそれなりの格を持つものになるのは致し方ない。考えて見れば、政治運動そのものが恐らく人間諸力の実践形態としてはかなり能力を要する分野のものであり、尚且つ高尚なものではあるまいか。そういう気がする。
「9条改憲阻止の会運動を擁護発展させよう」 。これを提言8の3とする。
現在、「9条改憲阻止の会」が結成され、60年安保闘争時の「6.15国民会議の第18次統一行動、安保改定阻止の第二次全国スト闘争」に於ける国会突入事件時の樺美智子女史の革命的死に対する追悼を記念しての「6.15集会」の開催に漕ぎつけている。呼びかけ人の一人であられる藏田計成氏は、「西川純氏上告審、救援をめぐる政治的混乱の克服を願って」で、次のように述べている。
「07年『6/15共同行動』は、新左翼諸党派の半世紀の敗北と解体という過去の困難さ、対立、内ゲバ、粛清等の過ちを歴史の教訓に刻み込み、現在的政治課題=9条改憲阻止闘争に向けて、自らの歴史責任を果たすための重要な第1歩でした。いわば運動再生の重要な契機として、個を基底にした大同路線という運動理念に、原点回帰を試みたのであり、そのような場として、政治的空間を創出する努力を追求していったのでした。たんなる『仲間内』という範囲を越えた運動体としての可能性、広がり、共有空間の獲得、飛躍に向けたある種の手応え、運動への熱気を感じとる『政治的評価』に裏打ちされた事態等をつくりだすことができたものと確信しています。いうまでもなく、これを可能にしたものは、唯一『小異を残して、大同につく』という個別党派利害を超えた、参加者個々人が支える運動組織原則、運動理念の獲得でした。その結果『個人的バリアー』『政治的バリアー』ともいえる敵対的な感情、違和感、対立は、共同行動を直接媒介することによって、確実に緩和されました。対立を越えた次元の『新たな人間関係の形成』という貴重な教訓を実感できたのでした」。 |
筆者の察するところ、「6.15集会」は、日本左派運動が漸く運動の求心力として「共同戦線的大同路線」を獲得しつつあるように見える。これまでの左派運動の経験と教訓から、異論、異質性、対立を排除しないで、多様な価値観を内包した運動理念を獲得し、日本左派運動の再生に踏み出したように見える。遅きに失したとはいえ、生み出されぬよりは良い大事に育みたい運動ではなかろうか。以上を提言8としておく。
【提言9、党中央拝跪型民主集中制論から出藍せよ】
(はじめに)
「党中央拝跪型民主集中制論から出藍せよ」を提言9とする。提言8で外に向けての統一戦線論の胡散臭さを指摘したが、内へ向けての民主集中制論が対応していると思われるので、これも批判せねばならない。いわゆる民主集中制の実態は党中央権限集中制に他ならず、党中央よりする団結とか統一の過度な強調は党中央拝跪主義を生むだけのことではなかろうか。
実際には民主集中制なる素敵な用語を生み出して丸め込んでいるが、民主集中制の制御を誤まれば容易に党中央集中制へと辿り着く代物に過ぎない。実際に党中央拝跪主義でしかない民主集中制論が振り回されており、日本左派運動が大きく毀損されてきたことは承知の通りであろう。詳論はサイト「組織論検証」に記す。
「党中央拝跪型の民主集中制論から出藍せよ」。これを提言9の1とする。
日本左派運動は何ゆえに民主集中制なる組織論に固執するのであろうか。目前に決戦的な闘争が控えているのならある種の有事対応として考えられないこともないが、日共的なズブズブの議会主義、体制修繕運動に何の必要があろうか。為にする党内の統制的強権支配以外の何ものでもなかろう。早くこのことに気づくべきではなかろうか。
そもそも党中央見解及び指導に対する異見、異論、異端は党内に常に担保されるべきであり、堂々と開陳されるべきではなかろうか。筆者は、最低限綱領さえ一致するなら分派(派閥)さえ容認されるべきと考えている。組織と云うものは元々そういうものだと考える。党中央派と反党中央派が共存し、各派閥が前提されてこそ民主集中制論が真に生きるのであり、戦後自民党のハト派が主流時代に模範的な党運営をして見せた史実がある。つまり、できない訳ではない、能力の問題ということになるであろう。
宮顕式民主集中制論の実際は、党員が一枚岩的に党中央に列なるべしという恐ろしい統制衛生理論として鼓吹されている。これにより、異見、異論、異端、分派一切が極端に制約、封殺、禁止、撲滅されてきた。党員もこれに疑問を湧かすことなく従ってきたがイカガワシイ話ではなかろうか。このシステムを、その他の左派党派がなべて安逸に右ならへとばかりに採用しているように思われる。それを思えば、組織論、運動論の両面からこの悪しき理論を追放せねばならないであろう。
更に云えば、「提言5、自由自主自律型の左派運動を創造せよ」で述べたように、党中央に対する盲目的服務こそ左派運動にそもそもあってはならない原理矛盾ではなかろうか。我々が社会運動に目覚めた際、自由自主自律的な自覚に基いて眉目を開いたのではなかったのか。ならばそれをどこまでも後生大事にするのが筋と云うものだろう。それをどこで間違えたか、どう云い含められ納得したのか分からないが、いつのまにやら反対物を信仰し始めているのは滑稽であろう。
理論には異論、異端がつきものであり、組織には分派の発生は当たり前のことであり、その上での結社であろう。結社と云うものはそういう類いのものではないのか。自由自主自律的な結社にして組織も運動もしなやかになるのであり、真の団結になるのであり、能力者を呼び込み、互いの練磨で組織も運動も質が向上し、大きなうねりを作り出す。多少の軋轢は芸の肥やしである。これが歴史の語る弁証法である。いわば「自由自主自律規律」は虎の子の元手である。これを捨てたら、ありきたりの権力的凡庸なものにしかならないのではなかろうか。社会主義ユートピアを求める反体制運動が権力的凡庸なものに被れることは原理矛盾ではなかろうか。そのような組織、運動への拝跪を要請したり受諾するのは、学んで馬鹿に成る典型であろう。異論、異端、分派を取り込めないような組織なり運動なら止めてしまえ。
もっとも世の中複雑だから、組織潰しで送られてくる連中も居る。こういう手合いの対策としては別基準が要るだろう。そういう意味で、「紅い心」の仲間同志ならと云う条件にしておこう。但し、これを誰が判定するのかを問わねばならず、下手をすると振り出しに戻ってしまう。何事も大事なところが難しいとしたもんだ。ここに智恵と能力と分別が要る。
内部がそのように形成された党派にして初めて外部に輝き始め、次第に外へと運動が迸(ほとばし)り始め、しこうしてそれは共同戦線論となり、多くの勢力を糾合せしめ、一大政治運動に発展するのではなかろうか。そういう意味では内の論理も外の論理も相似形であり、内輪の在り姿が外へ表出すると分別するべきではなかろうか。
「党中央の云うことはその通り」的組織、運動ほど詰まらなく、左派運動を害するものはあるまい。組織ないし運動に於いて異論、異端、分派は芸の肥やしであり、むしろ尊重せねばならないというのが、そもそもの近代精神の始まりなのではなかろうか。これはあらゆるところに通用するし通用させねばならない法理ではなかろうか。「内で強権支配、外で民主主義擁護」を云う手合いほど信用できないものはなかろう。これが通用しているから嫌らしい。
実際、日本左派運動史に於いて、戦後直後の党運動を指導した徳球-伊藤律系運動はこれを踏まえていた。かの時代、党大会に対案が堂々と提起されていたことを思えば。徳球がオヤジと愛唱され畏敬されたのは、宮顕の云うが如く家父長制の然らしめたものではなく、組織論的懐(ふところ)の深さに対して敬愛された表現であったと窺うべきだろう。それにしても宮顕-不破運動は、無茶苦茶な党組織に改竄してしまったことよ。
「歴史に学ぶ姿勢のない者は『井の中の蛙(かわず)』になる」(星宮*生)。そういう意味で、日本左派運動の愁嘆場を前にして我々は反省すべきだろう。その最大の肝要事に組織論、運動論に対する省察があるだろう。この関心からと思われるが、「革命党の在り方は、実現すべき未来社会の在り方によって逆規定されるべし論=逆規定論」での立て直しが云われているようである。しかしそれもオカシイ。筆者は次のように提言をしたい。「革命党の在り方は、まずもって自らの党派運動の中に可能な限り実現すべき未来社会のミニチュアモデルを形成すべし論=前倒し論」での建て直しを要求したい。この能力の獲得如何が全てのキーではなかろうか。つまり、筆者は、逆規定論的な演繹法によるのではなく、帰納法的に捉えていることになる。ここははっきりさせておきたいところである。
「ロゴスとカオスの法理考に習熟せよ」。これを提言9の2とする。
筆者は、民主集中制論の背後にはロゴス派の論理があると見立てている。カオス派は型に嵌められるのを嫌い分権的機関運営制論を良しとする。これが法理である。そこで、ロゴスとカオスについて言及しておく。何事も真に重要な問題は哲学問題になる。実際にはロゴス派とカオス派の論理の有機的結合が望まれるが、その前にひとたびは分離識別しておかねばならない。次のように見立てることができるのではなかろうか。
統一対共同、強権対民主は大きく食い違って対立しているが、これを別の表現で云えばロゴスとカオスの差でもあるのではなかろうか。ロゴス派は、この世を万事に於いて神の支配の賜物と捉え、真理的な整理序列化に向かう癖がある。ロゴスを専らとする最強勢力は、かのユダヤ教パリサイ派であり、かの昔イエスが果敢に批判し続け処刑された。
ロゴス論理は現在的にはネオシオニズムが依拠する哲学でありイデオロギーである。この連中は去る日「シオン長老の議定書」で意思統一し、陰謀とテロルを得手としながら以来着々と世界を席捲しており、巨万の財貨を積み上げ戦争とシオニズム革命に勤しんでいる。その手法が今や地球環境を破壊するところまで定向進化しつつある。我々は一刻も早くこの汚染から脱出し、対抗力を生み出し、彼らの時代を終わりにせねばならない。
これに対し、世界の諸民族は、彼らを除けば概ねカオス派である。カオス派はユダヤ教パリサイ派のような絶対的定言を持たない。その代わりに、古神道的叡智のように森羅万象から筋道を読み取り、それなりの倫理道徳を生み出し折り合いをつけながら暮らし、互いにそこそこの付き合いをしていくという弁えを持っている。それは自然との関わり方も然りである。この暮らし方でどこがオカシかろう。それが証拠に、ユダヤ教パリサイ派を除けば殆どの部族民族が共生し得る。昔からそうしてきた。交易も然りである。無数のシルクロードを生み出してきたではないか。それで良いのではないのか。
我々が尊ぶべきはカオス派的秩序であり、ロゴス派的絶対真理の如意棒ではない。さような棒を振り回して、「我は正しい。選ばれた民である。君は我になびけ。さすれば名誉と地位と権力を与えよう。下につく者にはそこそこの生活を与えよう。我に刃向かう者は徹底して殲滅してみせよう」などと云いながら、これを実際に行う者は理論的狂人である。その狂人が現代世界を支配しており、テロリスト退治を声高にし無慈悲な人民大衆虐殺に興じている。その論に同調する者がまま居るのが現実だがオゾマシイ。今や世界史は、この狂人派を押さえ込む知性を獲得し、彼らを如何に掣肘し矯正し共生するのかが望まれている。これが時代のテーマであろう。
その為にも、ロゴス派の教本による思想、歴史、文化、芸術ではなく、カオス派のそれらの教本をうみださねばならないのではなかろうか。そして、人は、そのどちらをも学べば良い。その上で、己の気質と能力に応じた主義主張に生きれば良い。筆者はそう考える。実際にはロゴス派テキストばかりが押し付けられている。カオス派の論理を学ぼうとすれば、自力で獲得する以外ない。
「民主集中制と分権的機関運営制論の正しい結合こそ目指さねばならない」。これを提言9の3とする。
民主集中制問題は組織論である。ならば、民主集中制を批判する以上、これに代わる如何なる組織論を確立すべきかを問わなければならない。組織論は、党中央権限論、機関権限論、党員の規律と権利論の三本立てから構成されている。本来、この三者を有機的立体的に確立して正しく結合させなければならない。目下は、民主集中制なる便利な用語で一括している粗雑さが認められるように思われる。以下、簡略にれんだいこ式組織論を素描しておく。
党中央権限論について。党中央は、指針打ち出し権、人材登用権、財務及び予算権を握っている。これを「権力三権」と云う。党中央は本来、それで充分満足すべきだろう。その上何を欲張ることがあろう。この三権さえ握れば、党内の異論、異端、分派の発生は当然と弁え、指導能力で牽引し挙党一致を目指せば良い。その能力のない者あるいは邪な狙いを持つ者が更なる権力棒を持ち出し振り回すのではないのか。これにより一枚岩的満場一致を現出させ、万年同一系執行部をン十年にわたって作り上げているのではないのか。してみれば、挙党一致と満場一致には雲泥の差があると云うべきだろう。
党内反対派は、党中央が拘束されるように自らも拘束されねばなるまい。党内反対活動が認められる以上、党中央目指して基本的には次の党大会まで雌伏せねばなるまい。党中央の打ち出す指針に対しては、これに反対活動することまでは許されるが、意図的故意の妨害活動は控えるべきではなかろうか。そういう意味で、党中央と党内反対派の並存、これが大人の組織論となるべきであろう。
機関権限論について。機関は、党大会に規制されるもの、党中央の指導の下に造られるものの二通りが考えられる。いずれにせよ、ひとたび創設された以上は機関独自の権限を持つとすべきだろう。こうして、機関と党中央はチェックアンドバランスの関係にあるとみなすべきではなかろうか。理念としては、機関は党中央を、党中央は機関を尊重するべきであろう。この関係が上から破壊された姿を独裁と云うのではなかろうか。
党員の規律と権利論について。党員は、規約と規律を遵守し、且つ唯々諾々せざる権利を保障されるべきであろう。理想は、党員個々が党中央の指導に心服し、身心共に自由自主自律的に呼応することであろう。これは党中央の指導能力、党員の資質の双方に関わっていると云えよう。最も実際には、意図的故意の撹乱分子が潜入してくるので理想通りには行くまいが。
一応、こういう有機結合により党組織論が確立されねばならないと考える。目下の左派運動の組織論は、どこもここもお粗末極まるように思えてならない。なぜ、もう少しは理想に近づけるように努力しないのだろうか。筆者には不思議でならない。この努力を怠るのは左派者の原義に廃(すた)ると考える。
「日共式治安維持法的党内支配の実態を告発せよ」。 これを提言9の4とする。詳論は「日共の強権論理考」に記す。
ここで、日共の党運営の実態を確認しておく。日共組織論、運動論の一つに「ベルト理論」がある。「ベル ト理論」とは、党の方針、決定が伝達される場合に、党中央→大衆団体内の党員フラクション→大衆団体決議→国民一般への働きかけという図式でなされ、この間民主集中制原則が貫徹されて上意下達式に極力一方通行化するのが望ましいとされる理論である。
問題は、党内ならともかくも、大衆団体組織に対してまで、その自主性を尊ぶよりは、ベルト式自動調での下請け機関視されていることにある。党中央にとって非常に好ましい組織論、運動論の典型的理論であるということになるが、大衆団体組織を党中央に拝跪させるこうした理論の功罪は罪の方が大きい、というのが今日では自明であるように思われる。
こうした「ベルト理論」は、スターリン時代に満展開された手法であるが、宮顕の思考スタイルにもぴったりのものであったようで、宮顕執行部確立以降においては、反対派生息の臭いがし始めるや否や、党内は云うに及ばず大衆団体諸組織に対してまでこの理論が堂々と押しつけられてきた。ちなみに、「民青同は日本共産党のみちびきを受ける」ことを規約に明記した組織で、この「みちびき」を拡大解釈すれば容易に「ベルト理論」と接合することになる。
もう一つ、党の強権支配を容認せしめる理論的根拠になっているものとして
「一国一前衛党理論」がある。「一国一前衛党理論」とは、一つの国には一つの前衛党しかあり得ないとする議論で、時の執行部を権威付けあらゆる分派活動を厳格に禁止する論拠となった。こうなると、党の執行部を掌握した者には正統のお墨付きが授与されることになり、この如意棒を振り回すことで絶大な権力が形成されることは自明であろう。わが国においては、「六全協」後の宮顕派が党内権力を確立し、以来反対派はその都度異端視され排除されつつ今日まで至っている。
1970年代後半、中野徹三、藤井一行、田口富久治ら一部の党員政治学者たちがマルクスやレーニンの党組織論にさかのぼりながら、それまで共産主義運動の中では自明のこととされた「一国一前衛党」論に対する疑問の提起を始め、スターリン主義の批判的検討に向けて精力的な理論活動を始めていた。この運動がどうなったか。党中央は、このような理論的解明に向かおうとする学者達に対する締め付け指令を強権発動させた。不破は、こうした際には最も戦闘的イデオローグ
として立ち現れ、口舌家として活躍する。
もう一つ、党の強権支配を容認せしめる理論的根拠になっているものとして
「民主集中制組織理論」がある。この問題性は、実際の運用のされ方にある。
「民主」を成り立たしめる手続き的要件の解明に向かうことなく、専ら「集中」の作法に則っての恭順を党内に催促することとなり、これに誰も異論を唱えられない規律論が押し付けられる。こうなると、「民主集中制」とは名ばかりであり、実際には権力掌握者一般が常用してきた権力理論そのものでしかない。
しかしながら、これが好評で、国際共産主義運動、党組織論に広く採用された「不変の原則」的組織論となって今日まで通用している。
これを説明すると紙数を増すばかりとなるので、分かりやすい定型句で説明する。
党中央拝跪主義 | これが第1原則であり、党中央の方針は絶対のものであり党の決定は無条件に実行しなければならない。これにより、党員は党中央委員会に従わねばならないことになる。党規約では、「個人は組織に、少数は多数に、下級は上級に、全国の党組織は、党大会と中央委員会に従わなくてはならない」と定められる。こうなると、党中央絶対、盲従、服従主義とも云われるべきであろう。 |
忠勤党員主義 | これが第2原則であり第1原則を補完する。第1原則に忠勤する党員が党中央を支える。 |
異論排除主義 | これが第3原則であり、異論異端は排除される。「次には疑うこと自体が問題だという思考方法に発展する。こうなると、中央幹部のいうこと以外目に入らなくなる」。 |
つまり、絵に描いた様な洗脳型権力理論であることになるが、「絶対権力は絶対腐敗する」という罠から免れる工夫を持っているのだろうか、そこが問題だろう。
こういう民主集中制を成立せしめる前提として、「党は組織全体が一つの体のような
ものであり、その頭脳は中央委員会であり、個々の党員はその細胞のようなものであり、細胞の情報の一切が頭脳に集中されてこそ」云々(「査問」23P)
という「頭脳=党中央、内臓機能=党官僚組織、その他下世話機能=一般党員」式の「アナログ唯物論」が背景にあるように思われる。
とするならば、
最新の大脳生理学とかDNA理論を大胆に取り入れ、身体機能の相互関連の仕方を学び直す作業が急がれており、このことには大いに意味があるということになる。ちなみに、民青同は、「日本共産党のみちびきを受ける」手足のような青年組織機関で、「党にとって重要なプール組織である」と位置づけられている。
もう一つ、党の強権支配を容認せしめる理論的根拠になっているものとして、かって「党規約第2条8項違反」というものがあった。新規約では第5条規約になっている。「第2条8項」とは、「党の内部問題は党内で解決し、党外にもちだしてはならない」(新規約では「5・党の決定に反する意見を、勝手に発表することはしない。8・党の内部問題は、党内で解決する」)という内容である。
この文言だけなら有り得る党規律のようにも見えるが、ここでも問題は基準づくりである。党内、党外の範囲に対して驚くべき拡大解釈がなされていくことにより、容易に規律違反がでっち上げられ統制処分の対象となる。「党の内部問題」には、専従事案、会議事案にとどまらず、理論問題、党幹部の発言までが含まれ、これらに対する批判的見解、異論の一切が「党の内部問題の漏洩」に結びつけられることになる。
不思議なことは、「党外にもちだす」とは党の外部というだけではない。民主集中制の垂直制組織原理の下では、他支部所属の党員との意思疎通さえ内容次第で対象にされる。党の縦割り的仕組みからすれば、横断的交流は規律違反で上下関係しか認められていない。日本共産党の一つの支部、あるいは一人の党員にとって、他の支部は「(準)党外にあたる」ということになる。
従って、「同じ党員仲間の誼」という観点からの党内での批判、異論の開陳は、すべてこの党規約「第2条8項違反容疑」の規律違反として処罰の対象になる。これに、党内監視機関が徘徊し始めれば、これはまがうことなく戦前型の治安維持法体制と云えよう。いつのまにか日共は、宮顕―不破系指導により左翼運動にはもっとも似つかわしくない戦前の特高型治安維持組織へと変態転化させられたことになる。筆者的には、このことは実は不思議でも何でもない。宮顕、不破らは手前の甲羅に似せて出自通りの組織を作ったことになる。
そもそも党組織論における「垂直制組織原理に基づく組織の縦割り的仕組み」の由来は「レーニンとボルシェビキ時代」に遡るようであるが、現在の不破式人民的議会主義路線時代には不釣り合いな規定のように思われる。一方で議会を通じての平和革命の可能性、現実性を頻りに説きながら、他方でこうした前近代的とも言える特高型治安維持組織を作り上げている。筆者的には、なぜこれを訝らず、組織論を見直し、より合理的な組織論についてなぜ考究しようとしないのだろうと思う。誰か、これを整合的に説明して貰いたい。今やポルトガル共産党と、日本共産党の二党だけに残る組織原理ということのようであるがオカシクはないのか。
このことに関して宮地氏は、「共産党問題、社会主義問題を考える」(http://www2s.biglobe.ne.jp/~mike/zenei.htm)の「『ゆううつなる前衛』その粛清と査問システム」において次のように解説している。
「合法政党になったのにもかかわらず、それを放棄しない理由として考えられるのは、一つです。横断的、水平的交流を厳禁し続ける方が、党内管理、党中央批判抑圧の面で最適だからです。この組織原則を堅持する以上、党中央批判が集団的になることは絶対ありえません。なぜなら、一人の意見は、上級機関に対して“垂直”にしか提出できず、それを握りつぶすことも、その批判者に規約外の“陰湿な報復”をすることも、常任幹部会の恣意的な裁量にまかされるからです。 それだけでなく、 集団で批判を話し合ったり、あるいは提出する動きがあれば、『分派活動容疑』.『規約第二条八項違反容疑』で査問し、党内排除・党外排除の粛清をただちに遂行できるからです。常任幹部会の地位安泰にとって、これほどありがたい組織原則はありません」。 |
「専従、党議員、機関役員の党中央批判意見書の提出行為も、ストレートには査問の対象になりません。しかしその提出者に対して、専従の場合は即時解任、党議員、機関役員の場合は次期非推薦という党中央常任幹部会の陰湿な報復をうけます。これは、規約に基づかない報復処分ですので、党内でのそれとの闘争手段はまるでありません。どれだけ多くの党員が、この不条理な粛清に“泣き寝入り”してきたことでしょうか」。 |
これに付記すれば、「党員の横断的交流禁止規定」は、「党内管理、党中央批判抑圧の面」に加えてどうやらスパイ潜入の温床になっているように思われる。この観点は、宮顕一派の胡散臭さを認める筆者ならでは見えてくるようである。数々の党員から、「党組織大会への代議員選出に際し、支部に所属しない見知らぬ党員推薦を依頼され、『ここで代議員に選んでくれ。他で代議員になれないから』と言われ、選出したことがある」と、インターネット上で告白されつつある。
このような規約違反によって選出された代議員の全てがスパイであるかどうかまでは判明しないが、スパイ潜入の典型的手口として理解することができるように思われる。日頃、「党員の横断的交流」が為されていれば、ある程度防げることのように思われる。原点に戻って、闘う者同志の横の連絡は必須肝要なことであり、それを禁止するという宮顕式組織論そのものが胡散臭い。
もう一つ、党の強権支配を容認せしめる理論的根拠になっているものとし
て、「スパイ容疑理論」がある。スパイは、戦前は特高とつながっていたが戦後は公安調査庁との関係となる。公安調査庁は様々な巧妙な手口でスパイ工作を仕掛けるが、スパイはもっともスパイらしくない顔をして働くという単純なことが忘れられやすい。スパイは最も熱心にスパイ摘発を行なう側で画策する傾向があり、言葉尻だけでは判明しないということを付言しておく。
宮顕ほど党史上政敵に対するスパイ容疑で査問した人士はいないが、この御仁こそ胡散臭いということは十分ありうる話ではあるが、そういう認識には至らない。公然とそう主張するのは目下筆者ぐらいであるが、いつの日かその化けの皮が剥がれる日もくるものと確信している。
ソ連邦等革命政権を樹立した国家においては、更に「国家反逆罪容疑、西側のスパイ容疑、トロツキスト断罪、党破壊工作者、反革命罪」などが加わる。史上、スパイ容疑者に対する拷問、スパイ自白への巧妙な誘導、スパイを自白した者に対してなされた処分としてのその場での銃殺、強制収容所送り、強制重労働、懐柔の例は枚挙に暇がない。
「日共の分派禁止論を告発せよ」 。これを提言9の5とする。
日共のこうした様々な党の強権支配を容認せしめる理論が結節したものとして「分派禁止理論」があるように思われる。次のように説明されている。
概要「ここでいう分派とは、日本共産党の内部で、党の方針に反対したり、自分たちの方針や考えを党に押しつけるなどのためにつくられる派閥的グループのことであり、日本共産党は、党の規約でこういう派閥活動、分派活動を禁止し、党員は『全力をあげて党の統一をまもり、党の団結をかためる。党に敵対する行為や、派閥をつくり、分派活動をおこなうなどの党を破壊する行為はしてはならない』(第二条)とさだめており、これは、1950年に当時の徳田書記長らの分派活動によって党中央委員会が解体され、全党が分裂と混乱に投げこまれた『50年問題』という党自身の痛切な体験を教訓にして確立されたもので、統一と団結を保障する日本共産党の大事な組織原則の一つであり、国民に真に責任を負おうとする近代政党なら当然の原則です」。 |
「徳田書記長らの分派活動」云々と史実とあべこべのことを述べているくだりは共有しがたいが、とりあえず論旨として聞いておくことにする。これに対する宮地氏の次のような指摘を紹介しておく。
概要「分派活動には反党中央的分派だけでは無く、分派には3形態がある。通常言われる分派とは、『政党の内部で、その綱領や方針と規約に反対してつくられる派閥的グループ』のことであり、反中央分派として立ち現れることになる。これが第一の基準である。これに対して、党中央派の前衛党最高指導者グループによる私的分派もある。これもれっきとした分派の一つではないか。 |
それはそうだろう、筆者も、秘書軍団も含めた宮顕グループはれっきとした宮顕分派であると思う。これが第二の基準である。この党中央派の分派は問題にされない。
概要「もう一つ、 このたびの新日和見事件で鋳造されたような『2人分派、3人分派と云われる偽造分派』もある。偽造分派とは、偽札や偽造コインのようなもので、本来の分派要件を満たしていないが、党中央派により無理矢理でっち上げられる分派のことを言う。新日和見事件の場合、“分派のふたば”を嗅ぎ取れる程度のものでしかなかったが、個人宅、喫茶店、居酒屋などで一回でも党中央批判した者に対して『「2人分派』を認定していくことになったのがその好例である。 |
「2人分派理論」は恐ろしい。二人でコソコソないしボソボソと話をしただけでも分派容疑になり、これでは党員同志の本音話しはできっこない。これに密告奨励が加わると立派な治安維持法下の体制ではないのか、と思えたりする。史上の「袴田の分派活動」規定も、宮顕式規律違反デッチ上げによる宮顕鋳造 “偽造分派”ではないかと云う。つまり、こうした新基準で分派認定すれば際限がないことになり、党中央派に対するイエスマン以外は危ないということに なる。但し、さすがにこれほど極限化された分派認定は宮顕体制下の日共特有の理論のようである。
「中共の『求同立異論』に着目せよ」 。これを提言9の6とする。
ここで、中共の組織論にかってあった「求同立異論」を確認しておく。その昔、中国共産党内には日共式分派禁止論とは対極的な「求同立異論」の作風が育てられていた。「求同立異論」とは、1945.6月の中国共産党第7回大会における政治局員・劉少奇の党規約改正についての報告全文中の「同を求むるには、まず異を立てよ」というものであるが、中国共産党のその後の党勢はこれあればこそのものであったであろう。してみれば、中国共産党がいかにしてこれを獲得し、その後いかなる事情で放棄するようになったのか、これを検証してみるのも意義がありそうである。が、真に必要なものは隠されており、ネット上では出てこない。
筆者の観ずるところ、「求同立異論」は、外へ向けての共同戦線論と対を為す重要な運動理論ではなかろうか。党内に於ける「求同立異論的団結」と党外に於ける「求同立異論」が相まって運動を前進せしめるのではなかろうか。「目的は手段を合理化せず、手段は常に目的に相応しく吟味されねばならない。運動の過程において未来社会を萌芽させたものにしなければならない」とする公理を打ち立てれば、日共に特に露骨な党中央拝跪型の民主集中制論が如何に異筋なものかが知れよう。「求同立異論」に基づく「党中央三権と分権的機関運営との制御論」への転換こそが望まれているということになろう。
即ち、党内団結は一枚岩的団結に衛生的強制的に向かうのではなく、それは漫画的であり又は良からぬ悪巧みがあるとしたもので、実際には異論、異端、分派を許容しつつ「三本の矢」的団結に向かうのを理想とする、この団結力こそが能力であると云う理が確認されれば良い。以上を提言9としておく。
【提言10暴力革命論、プロレタリア独裁論を正しく理解せよ】
(はじめに)
「暴力革命論、プロレタリア独裁論を正しく理解せよ」を提言10とする。ここで、プロレタリア独裁論について検証しておくことにする。マルクス主義用語としてのプロレタリア独裁論も、国有化論、民主集中制論同様に正しく理解されているように思わないので、試論を提供しておく。詳論はサイト「プロレタリア独裁論」に記す。
「暴力革命論の暴力、プロレタリア独裁論の独裁概念を哲学概念として理解せよ」。これを提言10の1とする。
日本左派運動は、世界のそれも同じであろうが長らくの間、暴力革命論の暴力、プロレタリア独裁の独裁概念を小児病的に弄んできた負の歴史を積み重ねているように思われる。ロシア・ポルシェヴィキ派による10月革命のひながたにより、暴力革命と云えば軍事蜂起的暴力革命という理解の仕方が定式化され、その後の革命運動はまさに好んで軍事的暴力で政権を奪取し、次第に一党独裁化させ、政敵を捕まえては反革命の烙印を押す革命手法を是認してきた。この悪癖が伝播したか、世界の左派運動内に政権取らぬ前から暴力的独裁的運動を稽古し、そういうスタイルを革命気取りする風潮を生むことになった。
しかし、結果的に10月革命をして求めたものの反対物に帰着させてしまったことを総括すべきではなかろうか。当時の時代性により大綱が正義運動であると見なされた故に大目に見られてきたが、その実態が明らかになるにつれオゾマシサが露見しつつある。且つ、ソ連邦の解体という現実を突きつけられた今日に於いては、これを負の歴史と見据え、そろそろ客観化し俎上に乗せねばならぬのではなかろうか。これを為さないとしたらよほどの知の怠慢であろう。
これについて筆者は思う。ロシア・ポルシェヴィキ派による10月革命方式は、歴史的にユダヤ教パリサイ派の伝統芸であり、近代ではネオシオニズムへと辿り着いているが、その影響が濃厚に認められるのではなかろうか。革命政権の中央委員の殆どがネオシオニズム派ユダヤ人であったこと、国際金融資本の財政支援が革命の原資になっていたこと等々の史実がこれを裏付けていよう。
こういう史実が明るみにされなかったので、当時の世界各国の左派運動がこぞってロシア10月革命を礼賛した。時代的制約があった為止むを得なかった面もあると思われるが、これを受容した側のお粗末な理論レベルもそろそろ問題にすべきではなかろうか。その根本は、暴力革命論の「暴力」、プロレタリア独裁の「独裁」を、哲学的政治的革命的次元の概念用語であることを弁えず、彼らの能力に相応しく字句通りに理解して盲目的に暴力化独裁化を礼賛し過ぎてきたのではなかろうか。それは、理論の貧困に起因しているのではなかろうか。
暴力革命論の暴力とは本来、対象とするものの変革を、所定の熟柿型手続きを踏むと長期間要するもの、あるいは旧権力側からの執拗な抵抗により進捗しない事態に対して、あるいは新路線の敷設を廻って強権的に一気呵成に遂行する為の手段及び方法のことを云うのではなかろうか。暴力そのものには暴力革命もあれば暴力反革命もあろう。そういう意味で、それ自体が自慢になるものではなく、常に暴力の質が吟味されねばならないのではなかろうか。この熟柿時間スパンの強行的短縮による強権スピードが本来の暴力革命論で云われるところの「暴力」という意味ではなかろうか。肉体的武器的暴力が必至なのは抵抗勢力のそれとの絡みに於いてであり、その行使は時々の対抗関係によろう。それは是非の問題ではなく歴史弁証法に預託されているのではなかろうか。
「プロレタリア独裁はブルジョア独裁より合理的な支配システムでなければ意味がない」。これを提言10の2とする。
プロレタリア独裁の独裁とは本来、ブルジョア独裁に対置される用語であり、ブルジョア独裁の支配システムに代わる「よりましな」社会的合理性のある独裁でなければならない。ブルジョア独裁下の民主主義が形式的なものであるとすればより実質化せしめるものでなければならない。ブルジョア独裁下の議会主義が単なるおしゃべりの機関であるなら実質的に審議し執行できる機関でなければならない。つまり、プロレタリア独裁とはブルジョア独裁より出藍しブルジョア独裁より高度に合理的な支配システムでなければならないということになる。
こういう風に展望すべきところ、何と「独裁」という表現に異常に拘り、かっての王朝制、君主制、貴族制もたじろぎ羨む独裁恐怖政治を敷く政治体制を是認し、抵抗勢力に対する革命的暴力を正義の名の下に行使してきた経緯がある。恐ろしい歴史的愚挙と看做すべきであるが、これが訝られずに言葉に酔いしれたまま支持されてきた。馬鹿に漬ける薬はないと云うべきだろう。
ことほどさように、日本のみならず世界の左派運動は扁平な頭脳のままに暴力革命論、プロレタリア独裁論を弄び、その結果自滅し衰微している。当然と云うべきではなかろうか。弁証法的に見ても、革命とは従来質のものをアオフへーベン即ちそこから出藍させるものであり、従来質以下のものを持ち出して強制し歴史的後退するものではなかろう。それさえ分からぬ手合いの運動なぞに巻き込まれるのは真っ平御免とすべきではなかろうか。
もっとも、日本及び世界の左派運動をそのような質のものに成り下げさせ、上手に利用してきたネオシオニズムの画策があるというのが真相のようである。となると、問題は、それに気づかぬまま抱き込まれ続けている連中の頭脳のお粗末さにも責任の一片があると云うべきだろう。
「日々の政治情勢の左派化こそ革命の一里塚である」。これを提言10の3とする。
日本左派運動が日本革命の方式をかく確立していれば、今頃はよほどましな政権が樹立されていただろう。この観点から戦後革命の流れを検証する時、2.1ゼネストこそ最大のチャンスであったことが判明する。時の徳球-伊藤律系共産党中央による革命指導は革命前夜まで遂行しながら、直前のGHQ介入により「一歩後退、二歩前進」を余儀なくされた。以来、「1949年の9月革命呼号革命」を除いて絶好機会は訪れることがなかった。
ところが、筆者の見立てるところ、戦後日本政治は面白い。日本左派運動の革命精神はその後、保守系政権の政府自民党内に命脈を持つことになる。1970年代初頭に現われた「田中角栄-大平同盟」がそれで、彼らは体制側保守政権に位置しながら、実質的には戦後日本のプレ社会主義性を牽引した形跡が認められる。彼らは、書生的に理論的イデオロギー的に難しいことは云わず、売国奴系タカ派との寄り合い世帯の中という制限下に於いてではあったが、人民大衆及び国家民族百年の計に合致するものを施策し続けてきた。そういう意味で、彼らの政治は日本政治史上に燦然と輝いている善政であった。凄い能力であったと云わざるを得まい。
そのお陰で今日我々が今なお何とか踏ん張っておられる原資が国民の手の中に残されている。あの手この手で次第に簒奪されつつあるが、そういう富が人民大衆側に残されているということ自体が貴重と云うべきだろう。その田中角栄-大平同盟を解体殲滅した側の者が現下政治をリードしているが、ろくなものではないのもむべなるかな。
一応以上のことを述べた次には、戦後の武装革命史を検証せねばならない。戦後日本の革命運動史上、武装革命運動が最初に現われたのは「共産党50年分裂」下での1950年代初頭の朝鮮動乱期であった。共産党指導幹部の公職追放、レッドパージにより難を逃れた共産党中央の最高指導者グループは北京へ渡り、ソ共、中共との議論の末、朝鮮動乱に於いてアメリカ帝国主義を盟主とする国連軍の後方兵站基地として機能する日本の撹乱戦略に合意した。しかしそれは、残置された共産党中央の軍事責任者・志田派の余りにもなお粗末な指導により悉く失敗した。その「闇部分」については本稿では触れない。これにより、日本左派運動に於ける暴力革命路線は基本的に潰えた。
次に、60年安保闘争が大きなうねりを作り出し岸政権を打倒したが、武装革命として取り組まれたものではなかった。その武装革命が再登場するのは、1960年代後半の新三派系運動、続く赤軍派、日共革命左派運動によってであった。しかし、これも、余りにもなお粗末な理論と能力により悉く失敗した。以来、日本左派運動には武装式暴力革命を政治日程に乗せる運動は発生していない。
但し、問題だけが残されている。マルクス主義的暴力革命論の理論と実践を廻る解釈と方式について、その後何ら議論されていない。政権奪取が棚からボタ餅的に落ちて来ることはない。体制派が道理道徳的に聞き分け宜しく禅譲することは有り得ない。最終的には暴力的に解決するしか方法はあるまいという前提に於いて、暴力革命をどう解釈するのか、武装式暴力革命の芽を摘むのか育てるのか、日本式革命の青写真をどう呈示するのかが問われている。これら肝心なことが皆、暗中模索五里霧中のままに漂っている。いわゆる理論的総括の不在であり、奥歯に物が挟まっている状態にある。少なくとも理論的に解明しておかねばならないのではなかろうか。「我こそが正しい」と云い続ける党派が有るとすれば自ら切開して見せてくれねばなるまい。以上を提言10としておく。
【提言11、革命の青写真を持て】
(はじめに)
「革命の青写真を持て」を提言11とする。日共不破は、社会主義運動における青写真の必要性を否定し続けている。犯罪的な指導であるが、筆者の他に強く批判する者が居ないのは残念至極なことである。一事万事で、日本左派運動の見識は、かほどに低いと云わざるを得ない。このような論を受け入れれば、左派運動の頭脳が脳死状態に陥ることが不可避で、その挙句党中央の似非論理に支配され、ロボトミー運動に堕し、永遠にそのくびきから抜け出せないだろう。これに何らの反論らしきものが生まれていない故に叩いておく。
「不破の革命青写真不要論を弾劾せよ」。これを提言11の1とする。
日共の不破議長は、2002年度新春企画「21世紀はどんな時代になるか」で、「社会主義運動における青写真不要論」を満展開している。これを確認しておく。不破は、庄子編集局次長の「マルクスは、『資本論』のなかで、社会主義、共産主義の問題をずいぶん立ち入って論じているんですね」の質問に対し次のように述べている。確認したい個所を太字に切り替えて読んでみる。
不破はまず、エンゲルスの資本論評価「カール・マルクス」(1877年)の次の一節「マルクスの経済学的=社会主義的見解の基礎と、現存社会つまり資本主義的生産様式とその諸結果に対する彼の批判の大綱を叙述したその主著」という位置づけを紹介した後、次のように述べている。
「実は、ここに、強調したいもう一つの点があるのです。マルクスは、『資本論』のなかで、現在の社会――資本主義社会の矛盾からの人類史的な活路が社会主義、共産主義への前進にあることを証明し、それが人間社会のどのような発展方向なのかを大づかみに明らかにすることはしましたが、この未来社会の青写真を描きだすことは、いっさいしませんでした。つまり、科学的社会主義による未来社会の設計図はこれだといって、将来の世代の手をしばることはやらなかったのです。これは、非常に重要なことなんです」。 |
「のちにエンゲルスは、ドイツの若い理論家で、共産主義社会に移行するさいの見取り図を書こうという勇ましいことを考えた人物が現れたとき、そんなことはできるものではない、新しいトラストが一つできただけで、条件は変わり、攻め方も違ってくるじゃないかと、それをたしなめる手紙を出したことがあります」(1891.7.1日付け「シュミットへの手紙」)。 |
次のようなことが云いたいらしい。かく「青写真手かせ足かせ論」を唱えて、革命青写真不要説を吹聴している。
「マルクスとエンゲルスのこの態度は、科学的社会主義者の態度として、たいへん理性ある賢明な態度でした。エンゲルスは新しいトラストができたら条件が変わってくるといいましたが、マルクス、エンゲルスが活動した19世紀と現代との社会的な変化の大きさは、一つのトラストの出現などと比較になるものではありません。電力がまだ登場したばかりで産業でも蒸気力が主力だった時代の資本主義社会と、IT革命が熱い問題になってきた時代の資本主義社会とでは、生産を社会の管理下におくといっても、その形式、方法、内容が大きく違ったものとなってくるのは、当然のことです」。 |
「だから、マルクス、エンゲルスは、自分たちが活動した時代の条件を固定化して、いつでもどこでも通用するような青写真を書くことはしなかったし、そういうことをやろうという『社会主義者』には手きびしい批判をくわえたのです」。 |
「私たちがいま、21世紀の世界における社会主義への大きなうねりを展望するときにも、この見地はたいへん大事なものです。21世紀には、さまざまな国が、社会主義をめざす道にふみだすでしょうが、どういう道筋で新しい社会にすすんでゆくのか、その社会はどういう形態になるのか、これらはすべて、それぞれの国民が、国民的な歴史と経験をふまえ、英知と努力をつくして創造的に解決してゆくべきことです。こうした多様な努力がたがいに合流しあって、人類史の新しい時代を開いてゆく、それが21世紀でありたい、と思いますね」。 |
「革命の青写真を持て」。これを提言11の2とする。
不破の大嘘を例証で批判するのは容易い。例えば、「共産主義者の宣言」(通称「共産党宣言」)は次のように述べている。確認したい個所を太字に切り替えて読んでみる。
「もちろんこのことは、はじめは所有権とブルジョア的生産関係とへの専制的な侵害を通じてのみおこなわれる。従って、経済的には不十分で、長もちしえないように見えるが、運動がすすむにつれて自分自身をのりこえて前進し、しかも全生産様式を変革する手段として不可欠であるような諸方策によってのみおこなわれるのである。これらの方策は、当然、国によっていろいろであろう。しかしもっともすすんだ国々では、次の諸方策がかなり全般的に適用されるであろう」。 |
かく述べた後、「提言7、市場性社会主義経済論を創造せよ」で示したような10項目にわたる具体的施策=「社会改革提言青写真」を提言している。その内容は「提言7、市場性社会主義経済論を創造せよ」に記したので確認されたし。不破は何ゆえに、この明々白々たる箇所を無視するのだろうか。解せないことである。
「共産主義者の宣言」は、この後次のように結んで革命の到達地平をも青写真化させている。
「発展の進むにつれて、階級差別が消滅する。そして、あらゆる生産が、国中の広範大規模に協同した人達によって集中的に為されるようになるなら、公的権力は政治的性格を失う。本来の意味の政治権力とは、ただ単に一階級が他の階級を抑圧するために組織された暴力である。プロレタリアートがブルジョアジーとの闘争を強いられている期間中は、諸情勢に相応しい力で、革命という手段を使ってみずからを階級的に組織する。みずから支配階級となり、強制的に旧い生産状態を一掃する。次に、そういう条件が整いしだい、階級対立及び一般的に階級の存在状態を一掃せねばならない。次に、階級としての自己の支配権力をも廃棄することになる。諸階級と階級対立を持つ旧ブルジョア社会にかわって、各人の自由な発展が万人の自由な発展の条件となるような協同社会(アソシエーション)がきっと現れるであろう」。 |
その後の世界共産主義運動及び各国の共産党は、「共産主義者の宣言」に示されたこの大綱を下敷きにして各国での創造的適用に心血を注いできた。これを例示することはいとも簡単である。戦後日本の共産党運動史で確認してみよう。
1945年12月1日、終戦に伴う獄中党員の解放より2ヶ月足らずのこの時、迅速にも第4回党大会が開かれている。この大会で、徳球が最高指導者としての書記長に、№2に志賀義雄が選出された。この時採択された行動綱領には、「我が日本共産党が掲げる左記の実践的要求こそ日本民衆を苦しめる鞭と搾取と牢獄の天皇制支配を終滅せしめ、労働者、農民その他一切の勤労大衆を自由の新野に解放する為の指標となるものである」と前書きして、以下具体的に次の事項が書き込まれている。これを青写真と呼ばずして何と云おうか。
1 | 天皇制の打倒、人民共和政府の樹立。 |
2 | ポツダム宣言の厳正実施。民主主義諸国の平和政策支持。朝鮮の完全なる独立。労働組合の国際的提携。 |
3 | 一切の反民主主義団体の解散と反動地下組織及び白色テロ計画の根絶。一切の戦争犯罪人並びに人権蹂躙犯罪人の厳正処罰。民主主義の敵たる天皇主義政党の排撃。 |
4 | 天下り憲法廃止と人民による民主憲法の設定、枢密院、貴族院、衆議院の廃止と民主的一院制議会の設定。華族その他一切の半封建的特権制度の撤廃。 |
5 | 警察の横暴による一切の犠牲者、一切の政治犯人の即時完全釈放及び完全なる復権と救援。官憲による一切の被害者に対する損害賠償の要求。 |
6 | 一切の人民抑圧法令、判決中の「皇室に対する罪」の完全なる撤廃。大衆運動取締り反対。人種、民族、国籍による差別待遇反対。一切の身分的差別の撤廃。 |
7 | 言論、集会、出版、信仰、結社、ストライキ、街頭示威行進の完全なる自由。宗教の国家からの分離。 |
8 | 定住、資産、民族の如何に拘わらず18才以上の男女に対する選挙権、被選挙権の確立。選挙に関する官僚的干渉反対。 |
9 | 軍国主義的、帝国主義的法制文化、教育制度反対。人民解放の為の進歩的文化の創造と普及の支持強化。 |
10 | 一切の民主主義勢力の結集による人民戦線の結成。(以下、25項目列挙) |
その時々に於ける「青写真呈示」は党中央の責務である。青写真は運動の要であり、これあればこそ党と党員が結合される。状況に合わせて書き換えられようとも、書き換えるのも党中央と党大会の責務である。そういう役目を負う青写真を否定することは如何に犯罪的なことか。上述の不破の弁のウソ臭さを知るべしであろう。「青写真不要論」を公然と掲げる不破見解は異邦人の証(あかし)であろう。
問題は、不破が何ゆえに左派運動にかような有害無益思想を押し付けようとするのか、その意図の解明の方に興趣が注がれるべきであろう。宮顕と云い不破といい左派世界での履歴は、実にかような本来為すべき活動の反対側への指導軌跡ばかりを遺している。これを間違いだ的に批判してみても、それは半面の有効さでしかなかろう。残りの半面の批判は、確信犯的に為そうとしているそのどす黒い意図を解明すべきであろう。日共批判の多くの論者は、この後半の批判をサボタージュしている。筆者には容認し得ないところである。以上を提言11としておく。
【提言12、日共式穏和主義反対運動の欺瞞性、反動性を弾劾せよ】
(はじめに)
「日共式穏和主義反対運動の欺瞞性、反動性を弾劾せよ」を提言12とする。共産党は、1955年の六全協で宮顕-野坂派が徳球系から指導部を簒奪して以来、左派運動内に穏和主義の種を蒔き、右傾指導に熱中してきた。それだけならまだしも急進主義者、党内の非イエスマンに対しては暴力的牙を剥いてきた。日共と云われる所以がここにある。
こうした「権力に対する穏和主義、闘う者に対する急進主義」という倒錯運動が訝られず今日まで経緯している。そういう執行部が延々50年以上に亘って党中央を形成している。この党中央は、議会主義により議席増大に精力を注いできた。当初は漸増し続けたが、今日惨めな後退を続けている。というのに党中央の座椅子を手放さない。いつも聞き苦しい言い訳を繰り返しながら今日まで経緯している。こういう変態運動が罷り通ってきたという事象に対して、そろそろこれを総括せざるをえまい。
「60年安保闘争を検証せよ」。これを提言12の1とする。
筆者が注目するのは、政治スローガンに見る「反対」表現を好み、「粉砕」表現を嫌う裏意図である。何事も史実に基いた方が説得力がある。格好の例題として60年安保闘争時の指導が如実に物語っているので、これを検証する。興味の有る者はサイト「戦後政治史1960年上半期、下半期、60年安保闘争考」の項で確認すべし。
この時、日共は、世上の通念と違って悉く闘わない方向へ指導してきたことが判明する。筆者の見立てるところ、60年安保闘争の昂揚は主として労働運動を社会党が、学生運動をブントが担うことでもたらされた。我々はここで、穏和主義と急進主義の共同戦線化による労農同盟の成功事例を学ぶことができる。これを、もう少し詳しく確認する。
60年安保闘争は日本政治史上のエポックとなっており、社会党、総評、日共は手柄話の如く語っている。しかし、末端組織での動員レベルでそう語るのは問題なしとして、宮顕系日共党中央が「あたかも闘いを指導した」かの如く誇るのは史実に反する。事実は、ブント系全学連こそが情況をこじ開け、檜舞台に踊り出、全人民大衆的闘争に盛り上げたのではなかったのか。その闘いぶりは世界中に「ゼンガクレン」として知られることになった。筆者の検証によると、宮顕系日共党中央は意図的懸命に闘争圧殺に狂奔している。案外と知られていないが、これが史実である。
この渦中で、民青同系は遂にブント系全学連と袂を分かつことになった。こうして学生運動は革共同運動のそれも含め三分裂化傾向がこの時より始まることになった。6・15の国会突入でブントの有能女性闘士・樺美智子が死亡し、大きな衝撃が走った。この闘争の指導方針をめぐって全学連指導部と日共が対立を更に深めていくことになった。
結局、日米安保条約が自然成立した。しかし、アイゼンハワー米大統領の訪日は実現できなかった。岸内閣は倒閣された。岸のタカ派的軍事防衛政策はその後20年間閉居を余儀なくされることになった。60年安保闘争の総括をめぐってブント内に大混乱が発生することになった。ブントは自らの偉業を確信できず、宮顕日共のトロツキズム批判と革共同式駄弁に足元を掬われていった。しかし考えてみよ。60年安保闘争を渾身の力で闘い抜いたブント系全学連のエネルギーこそは、日本左派運動史上に現出した「金の卵」ではなかったか。社会背景が違うとはいえ、70年安保闘争なぞ足元にも及ばない国会包囲戦と国会突入を勝ち取り、岸内閣が目論もうとしたタカ派路線のあれこれの出鼻を挫いたのではなかったか。全国に澎湃と政治主義的人間を創出せしめた。これらは明らかにブント的政治戦の勝利ではなかったか。
「日共式反対運動の詭弁を弾劾せよ」。これを提言12の2とする。
ところが、日共はそのように了解しない。即ち排他的独善的右傾化を特質としており、手前たちの運動こそが是であり、それ以外の運動は非であり、もし共同戦線に立つならば、ひたすら右傾化させる条件に於いてのみそれを欲する。かくて、その運動は、より多くの者たちを参加させるためと云う口実で幅広主義を採る。その結果、政治スローガンも最も穏和な「反対」表現を常用する。それは気の抜けたビールのようなものでしかなく、そういう運動を意識的故意に持ち込んでいるところが臭いと云うべきだろう。ここに賢明な社会学者が登場すれば、日共式幅広主義が運動を沈静化するのに役立っており、少しも幅広くしなかったことを例証するであろうが、かく明言する社会学者は現われない。
しかして「粉砕」とか「阻止」なる急進的表現は、使用しないのではなくサセナイ。デモも秩序だった請願デモを好む。間違ってもジグザグデモはサセナイ。60年安保闘争では、実際にこれを廻って議論が白熱している。こういうところは史実を検証しないと分からない。その結果、日共式反対主義、穏和な請願デモでは闘った気がしないと感ずる者たちはブントのデモに出かけた。「お焼香デモ粉砕」を叫び、ジグザグデモで鬱憤を晴らした。そのブントは、国会議事堂にも羽田空港にも首相官邸にも突入し、シュプレヒコールで気勢を挙げた。多くの逮捕者を出し、多くの者が負傷し、樺美智子女史が死亡する悲劇もあったが、幅広主義が幅広くしなかったのに対し、多くの者を引き付け運動の裾野を広げた。何しろ、デモが通るとパチンコ屋ががら空きになったと伝えられているほどである。多くの子供が「安保粉砕」を口真似して遊び始めたとも伝えられている。
以上を踏まえて、「いくら言葉を過激にしても、それが実現した例を知らない」という口実で、穏和な反対表現で良いとする主張を検討してみることにする。一体、我々は、粉砕とか阻止とか打倒とかの政治用語をどういう基準で使っているのだろうか。実現可能性のある用語のみが使われるべしとするような基準が必要であろうか。筆者は違うと思う。反対表現は、賛成か反対かの判断だけであり、忽ちは政治的見解の表明に過ぎない。事案が許し難いものである場合、反対表現では物足りない。どちらへ転んでも良いが俺は反対だと云う場合には反対でも良い。だがしかし、これは絶対に認めてはならない、強く反対すると云う場合には、それに相応しい表現を模索する。それが粉砕とか阻止とか打倒とかになる。それで良いではないか。その方が言葉の厳密な使い分けをしており作法にかなっていると思う。一律に反対表現で済ませるほうが粗雑だと思う。
第一、反対なる言葉は単に見解及び態度表明に過ぎず、反対したと云うアリバイ証明でしかない。粉砕とか阻止とか打倒とかは逆に、実現しようがしまいが、運動主体者として歴史に責任をもとうとしている。そういう意味で、歴史的責任を引き受けた表現と云えよう。それが実現しないのなら、次には実現するように工夫すればよい。その繰り返しでよい。何で、この姿勢がなじられるのか分からない。逆に聞きたい。アリバイ証明的反対運動こそ政府当局者に対して何らの痛痒も与えず、実はガス抜き的役割で裏からの体制支援に資しているのではないのか。
60年安保闘争は空前の盛り上がりを見せ、米国大統領アイゼンハワーがフィリピンまで来てスタンバイしていたにも拘らず来日を阻止し、岸政権の面子が失われ、内閣総辞職を余儀なくされた。それは、日本左派運動史上1947.2.1ゼネストに次ぐ壮挙であった。ところが、日共は、70年安保闘争の方が空前の盛り上がりであったと嘯く。何とならば、デモ届出数、参加者数が60年安保闘争時のそれを上回るものであったからなどと云う。しかし、70年安保闘争は、時の政権を何ら痛打しておらず、明らかに60年安保闘争に及ばなかったのではないのか。しかるに事態を逆に描いて恥じない。
我々は、ウソで塗り固められたこういう変態運動、詭弁運動から脱却せねばならないのではないのか。しかしながら、日共式論理と論法はあちこちに伝播しており、急進主義的盛り上がりを抑圧させる格好で通用している。この変態を訝(いぶか)るものは少ない。筆者は、言葉も運動も、それに最も相応しい体裁をとるのが望ましく、史実は極力客観評価されねばならないと思っている。早く正道に戻らんことを願っている。
「日共六全協の宮廷革命を共認せよ」。これを提言12の3とする。
そういう共産党の変質はいつから始まったか、これを確認する。筆者の見立てるところ、戦後革命の流産過程から検証せねばならない。1947・2・1ゼネストの不発とその後の社共運動の限界に気づいた一部の者は驚くことに体制側に入り込み、政府与党内のハト派に位置して戦後日本のプレ社会主義を牽引し始めた。他方、日本左派運動の本家的地位にある共産党内部では逆事象が発生していた。以下、これを確認する。
戦後直後、日本共産党を再建し党中央を形成したのは徳球-伊藤律系であった。この時期の左派運動はGHQのお墨付きで始まった。戦後政治史第1期の考察が格別重要なのは、この時期に戦後政治運動のレールが敷かれたことを踏まえ、これを客観化させる必要があるからである。
但し、そうは云っても、ひとたび手に入れた合法化左派運動を、当局肝いりの運動から脱して如何にして手前達の運動に仕上げていくのかは、その時々の指導者の能力に左右される。戦後日本左派運動の最初期を指導した日本共産党の指導部を構成した徳球系党中央は、これを能く為し得た。徳球系は、1947.2.1ゼネスト、1949.9月革命等々に大きな政治的なヤマ場をつくった。GHQの強権介入さえなければ政府権力を手に入れ、赤旗を国会になびかせることができたほど能力的な左派運動を指導した歴史を遺している。徳球運動は、戦後日本革命を自律的に手探りで邁進し、あわやというところまで政権に辿り着いた稀有な史実を遺している。
徳球系党中央運動は結果的にGHQの強権介入、戦後日本の奇跡的な経済的復興、党内対立を要因として次第に勢いを失速させられた。こうして、善戦むなしく戦後革命を流産させていった。当然、政治責任は問われるべきであろうが、進駐軍の重圧下のことでもあり割り引かねばならないだろう。いずれにせよ、戦前戦後を通じて一筋の真紅の革命派であったことは間違いない。
かく合点されねばならないところ、多くの論者は早くも躓(つまづ)く。徳球-伊藤律系運動を無能呼ばわりし、批判のボルテージを上げることで左派の証とする変態性を見せている。この観点からする多くの左派運動史書が遺されている。筆者は、意図的に流布されているとみなしている。これにつき異論を持つ者が望むなら、筆者はいつでも受け太刀することを約束しよう。
続いて1950年の朝鮮動乱激動に巻き込まれ、共産党が再々度非合法化されるに及び北京への亡命を余儀なくされる羽目になった。その結果、中ソを盟主とする世界共産主義運動の武装反乱指令に従わざるを得なくなり、その武装闘争が失敗に帰することにより最終的に潰えた。
1955年の六全協で、徳球-伊藤律系党中央がイニシアチブを失い、野坂-宮顕系が政権を奪取し新党中央を形成した。戦後共産党運動はこれにより大きく捩れて行くことになった。野坂-宮顕系党中央は、戦前の日本共産党を最終的に瓦解させたいわくつきのスパイ同盟であり、戦前党史が正確に綴られ学ばれていたなら再登場させてはならない闇の同盟であった。宮顕-野坂ラインが、共産党をひいては左派運動を如何に殺(あや)めて行ったか、ネオシオニズムの隷従であったか、これを考察せずんば歴史検証にはならない。こういう見立てが欲しいと思う。
これを知らない知らせない党史論による洗脳によって、この闇同盟が再度党中央を牛耳ることになった。結果は火を見るより明らかで、次第に本来の共産党運動を解体し始め、終いには似ても似つかぬ共産党に変質させてしまって今日に至っている。筆者は、これより共産党という表記を止め日共と記すことにしている。
「日共式穏和主義運動の反動性、捩れ運動を弾劾せよ」。 これを提言12の4とする。
六全協後のこの捩れが日本左派運動に新型の運動を産んでいくことになる。1956年、まず革共同が国際共産主義運動の歪曲に抗するという形で、1958年、革共同に向かわなかったもう一つの急進主義派が日共の変質に抗する形でブントをという二潮流がいわゆる新左翼系運動を創出した。これを歴史的必然と看做さないわけには行くまい。
ブントの誕生経緯を確認しておく。ブントの元祖系譜たる全学連中央の武井派は元々、徳球-伊藤律系党中央に叛旗を翻すところから運動を始発させた。その頃、宮顕はしきりに急進主義的言辞を弄んでいたことにより自然と誼を通じることになり、かくて騙された。しかし、野坂-宮顕系が六全協で党中央を簒奪して以来、宮顕は本来の地金である右傾化路線を敷き始めた。全学連急進主義派はこの反動に堪らず、新党運動の立ち上げに向かうことになった。国際派系列の島-所感派系列の生田の指導する第1次ブントが結成され、反日共新左派運動を創出していった。ブントは国際派の水路からのみ生まれ出たのではない。かく了解すべきであろう。
野坂-宮顕系日共は、この新左翼運動の徹底殲滅に向かう。野坂-宮顕系日共の戦闘性はこの方面にのみ発揮されるという史実を遺している。他方で、徳球-伊藤律系時代には幾分か痕跡していた政権奪取を指針から取り外し、徒な口舌運動に捻じ曲げていった張本人でもある。しかも、政権与党内のハト対タカの争いに於いて、陰に陽にタカ派と誼を通じ、ハト派叩きにシフトしてきた形跡が認められる。60年安保闘争時の変調指導然り、党内反対派駆逐手法然り、新左翼運動敵視指導然り、全共闘運動解体策動然り、その他原水禁、日中友好、部落解放運動等々の戦闘的大衆団体に対する鉄槌策動然り。
その中でも最大の事案は、ロッキード事件に於けるハト派総帥の田中角栄に対する執拗な政界追放運動であったであろう。今日なお居直り正当化し続けているが、追って史実が不正をなじろう。角栄-大平同盟こそは、戦後日本左派運動のもうひとつの裏の流れの代表であり、これに徹頭徹尾敵対した反動性は醜悪極まるものである。これからでも遅くない徹底解明検証されねばならないであろう。
【提言13、日共のネオシオニズム奴隷的本質」こそ疑惑せよ】
(はじめに)
「日共のネオシオニズム奴隷的本質」こそ疑惑せよ」を提言13とする。こう述べても何のことか分かるまい。そこで、これを解説しておく。日共とは、1955年の六全協以来の党中央内の政変により徳球-伊藤律系に代わって宮顕-野坂同盟が党中央化し、共産党とは名ばかりの変調指導し始めたことに由来する蔑称である。ネオシオニズムとは、近現代世界を牛耳る国際金融資本のイデオロギーである。従って、「日共のネオシオニズム奴隷的本質」とは、日共がネオシオニズムの配下として立ち働いて居ることを意味している。筆者は、日共問題の本質はここにあると見立てている。ここでは日共の最高幹部であった野坂、宮顕、不破のネオシオニスト性に言及する。よりによってこの3名こそが党内スパイ摘発に精勤し、他方で道理道徳を説いていたことが判明する。こうなると、口先に惑わされることのないよう厳認せねばなるまい。詳細はサイト「マルクス主義考」所収の「宮顕考」、「野坂参三考」、「不破考」で、それぞれの胡散臭さを確認している。
「日共のネオシオニズム奴隷的本質こそ疑惑せよ」。これを提言13の1とする。
「日共のネオシオニズム奴隷的本質」をどう立証するのか。それは、日共の理論と運動総体という在り姿そのものがネオシオニズム左派的な在り姿を示していることに留意すれば良い。しかし、この場合には、日本左派運動史及び日本共産党史を通覧せねばならない。筆者は、「マルクス主義考」所収の「戦前運動史考」、「戦後運動史考」で確認している。それで十分とも思うが、長大文なので確認し辛い面がある。そこで、幾つかの決定的証拠で裏付けようと思う。以下、野坂、宮顕、不破につき、言い逃れの利かない事例を採り上げる。
「野坂のネオシオニズム・エージェント容疑」 。これを提言13の2とする。
野坂の場合、戦前の予審訊問調書で既にケッタイナ素性が確認できる。既に完全に屈服しており、不自然な形でていよく出所するや、戦前共産党の最高幹部の触れ込みでソ連に渡ってコミンテルンに入り込み、主として外事に関わり、時に米国、支那に出向いて、左派運動を指導すると見せかけては有能活動家を摘発するという良からぬことばかりしている。
野坂のネオシオニストとしての決定的証拠は、コミンテルン時代の同志売りが一例である。これにより、山本懸蔵その他同志が処刑されたことが、野坂100歳の時の1992(平成4)年、小林峻一、加藤昭氏による週刊文春9-11月月号の連載で明らかにされた(1993年、「闇の男
野坂参三の百年」(文藝春秋)として出版される)。党中央はこれに抗弁できず、野坂はソ連のスパイだったとして日本共産党名誉議長を解任され、その後除名処分になった。
野坂は他にもフリーメーソン疑惑が告発されている。久保田政男氏著「フリーメーソン」(徳間書店、1984.5.31日初版、P132)には次のように書かれている。
「野坂参三は延安から米軍機で凱旋した。この野坂参三はフリーメーソンの線で動かされていた人物であり、アメリカへ渡ってはルーズベルトの朋友ゴンパース辺りの傘下にあり、延安に飛んでは中共軍とともに抗日戦を指揮していた。この野坂参三が、日本共産党とアメリカ占領軍フリーメーソン派とのパイプ役を果たすことはいともたやすいことではないか」。 |
ここではフリーメーソンとあるが、より正確にはネオシオニズム特務機関の要員であったと読むべきだろう。他にも、伊藤律をスパイ容疑で拘束し、その後27年間幽閉する事件の主役を演じている。1955年の六全協で宮顕と党中央タッグを組んで以来は構造改革派、志賀派、親中共各派の党内反対派摘発に乗り出し、この間最高権威として君臨している。袴田は、戦前のリンチ仲間として党中央に登壇し、宮顕の片腕となって悪事を重ねたものの晩年になって除名されたが、いろんな機会に野坂の胡散臭さを指摘していることでも知られている。これらをつぶさに確認しようと思えば、上述のサイトを渉猟すればより分かろう。
野坂の履歴を通覧して云えることは、一貫して数奇なスパイ活動に精勤していることである。或る時は日本の特高の内通者として、或る時は英国系、ソ連系、中国系、米国系エージェントとして五股に渉っている。日共はソ連のスパイだったとして除名したが、これでは野坂問題を何ら解決したことにはならない。筆者は、五股のエージェント活動を可能にしたのはネオシオニズム特務機関員であったことによると推定している。かなり高位のエージェントであり、為に最後まで身分が保障され続けたとみなしている。こう考えなければ辻褄が合わない。
「宮顕のネオシオニズム・エージェント容疑」。これを提言13の3とする。
野坂が除名されたのに比して、宮顕は未だに名誉議長として祀り上げられている。従って、宮顕問題は依然として現役ということになる。そもそも宮顕とは何者か。この認識に於いて重大な間違いを持ったまま戦後左派運動は推移してきている。宮顕支持派は無論として批判派の新左翼でさえ「戦前唯一の非転向革命家聖像」を前提としての批判に止まり、宮顕を左派圏の有能な指導者として位置づけた上で、そのステロタイプ的なスターリニズム性を批判すると云うスタンスで遇して来ている。こういう通俗本ばかりが流布されている。筆者は、その虚妄を論証している。
筆者は、「戦前のリンチ事件考」で宮顕の胡散臭さを論証している。これを読めば、筆者の謂いの正しさが確認されよう。この観点が打ち出されて以降は、従前の陳腐な見解は歴史の屑箱に入れられるべきだろうが、筆者がこの観点を既に1999年段階で提起しているにも拘わらず、今日に至るまで無視されている。これが左派圏界隈の頭脳の質であるということになる。多くの学究者が居るにはいるが、学識ぶったり小難しく理論をこね回すのは得意なようではあるが、総合的俯瞰ができず仮にできてもお粗末過ぎる見立ての枠内で各論を競っているように見える。そういう全体としての認識が狂ったままの個々の分析は、例え小難しく語られていようとも案外その中身は薄っぺらなのではないかと考えている。
2004.5.15日、「小林多喜二を売った男」(くらせみきお、白順社)が刊行され、戦前日共史の闇の部分である潜入スパイ問題に言及し、三船留吉に焦点を絞って「小林多喜二を売った男」とする観点から解明せんとしている。筆者は、くらせ氏とは逆の見立てで、三船家には迷惑な誹謗であり、「小林多喜二を売った男」は宮顕-蔵原ラインの方が本ボシであると見ている。宮顕の評価次第でこういう風に見解が異なってくることになる。
筆者は、宮顕を、戦前は特高奥の院と通じスパイ摘発闘争で党内を大混乱に落とし入れ、遂に「小畑中央委員査問致死事件」を引き起こし、党内からの疑惑の声が強まるや自ら投降して獄中の身になったとみなしている。宮本百合子証言によれば、自身は取らせていないというのに、獄中で百合子の調書に目を通していたことが明らかにされている。何故にこういうことが可能であるのか。
他にもある。岡田嘉子証言によれば、杉本良吉の樺太越境に関する獄中指示をしていたことが明らかにされている。筆者の検証によれば、宮顕は獄中で、堂々と党活動していたことになる。果たして、こういうことが可能であるのか。詳細はサイト「宮顕考」所収の「杉本.岡田の樺太越境事変への無責任教唆の闇検証」に記している。
宮顕の獄中時代の変調さを証言されている。炙り出されるのは、宮顕の獄中生活の「差し入れ自由の豪奢な生活ぶり」である。他方、獄中下での同志との交流は奇妙なほどない。筆者は、宮顕は当初は別として途中から、用の有る時はともかくも普段は獄中に居なかった可能性さえあると疑惑している。網走刑務所での在監も終戦末期の春から夏の過ごし易い半年でしかなかった。にも拘らず「網走刑務所獄中12年、戦前唯一非転向闘士聖像」が生み出され、自らこの如意棒を振り回したことで知られている。
これらは宮顕の特高奥の院との繫がりであるが、ならばネオシオニズムとどう繋がるのか。筆者は、戦後の不法釈放に始まる復権証明書の入手過程を疑惑している。この時、宮顕は、他の政治犯と違って殺人罪として併合犯であった為、GHQ指令の恩恵に与ることができなかった。そこで、生命危篤という緊急事由による不法出所で出獄している。後にこれを解決するために涙ぐましい努力をするが法的に救済する術がなかった。これをどうやって解決したか、ここが問題である。
結論から述べると次のようになる。1946.1.20日、宮顕、袴田が「復権申請理由書」を提出。政府は、宮顕、袴田の「特赦」措置をとることについてGHQの指示を求めた。4月末、GHQは、恩赦によってではなく勅令第730号「政治犯人等の資格回復に関する件」(昭和20.12.29日公布)によって、公民権回復の措置をとるよう日本政府に指示している。日本政府は法理論上の整合性に苦慮し、GHQ指示に従うのを躊躇していた形跡が有る。
この時、GHQ民政局法務部顧問ハワード・マイヤーズが登場し、強硬に「勅令第730号を適用すべし」と働きかけ、GHQの再度の指示によって日本政府も復権措置をとらざるをえなくなった。こうして、1946(昭和21).5.29日、宮顕、袴田両人に「復権証明書」が交付されている。問題はここにある。「急きょ登場してきたハワード・マイヤーズとはそも何者か」。窮地の時に真実が現われる。筆者は、宮顕と闇のラインの関係がはからずも露呈していると窺う。誰か、ハワード・マイヤーズを追ってみれば良い。宮顕は少なくともこの時点で、ネオシオニストの配下として立ち働くことを誓約したと窺う。詳細はサイト「宮顕考」所収の「戦後の釈放時の疑惑考、復権証明書の疑惑考」に記す。
その後の宮顕の動きを見れば一目瞭然であろう。全てがネオシオニズム左派活動であり、その秘密請負使命を持って党中央を奪権し、普段は共産党的発言で煙に巻きカモフラージュするものの、ここ一番の際には本質を露にする。新左翼に対する撲滅指導、60年安保闘争時の逆指導然り、原水禁運動、部落解放運動、労組運動その他その他に於ける掣肘指導、極めつけはロッキード事件での異常な出張りであろう。
「不破のネオシオニズム・エージェント容疑」。これを提言13の4とする。
不破が「50年分裂」時代にスパイ疑惑で監禁査問されたことは知られている。詳細はサイト「戦後学生運動」所収の「東大国際派内査問事件考」に記す。この事件は、最終的に宮顕が乗り出し解決に導いている。数次の評定会議が開かれ、結局、次のように申し合わせて釈放した。
「戸塚、不破に対するスパイの断罪、そしてそれに関連した高沢らの除名は取り消す。しかしこの過程で彼らには様々な非ボルシェヴィキ的要素が明らかになったので、全ての指導的地位に就かせることはしない」。 |
こういう履歴を持つ不破が宮顕に登用され、ポスト宮顕の地位まで登りつめたのは周知の通りである。イカガワシイ話ではなかろうか。不破は、2005.8.20日、「私の戦後60年ー日本共産党議長の証言」を出版したが、この事件については一言も言及していない。オカシナことであろう。
それはともかく、筆者は、思いがけぬところからオヤッと思った。それは、日共の政策委員長として権勢を振るってきた筆坂秀世が失脚させられ、離党後半年余の2006.4.20日、「日本共産党」題名の著作を発刊したが、その中で次のような記述がある。筆坂は何気なく次の事実を明らかにしている。
「2004.11.17日、日共の不破夫妻が、東京元赤坂の迎賓館で、デンマークのマルグレーテ2世女王夫妻招待の夕食会に招かれ参列した。日本側の主賓は天皇皇后夫妻で、夕食会への参加は、日本の政党関係では不破夫妻だけだったとのこと。不破は、見知っている人として俳優の岡田真澄氏や外務省から宮内庁に移っていた役人がいたと伝えている云々」。 |
筆者は、これは何なんだと思う。妙に引っかかるものがある。誰か、政界関係者の中でなぜ不破が選ばれて出向いたのか、この時の会の様子、参列名簿を調べてくれないだろうか。そうすれば、もう少し踏み込んだ解説ができるのだが。
以上、「日共のネオシオニズム奴隷的本質」と題して、日共指導者の動かぬ証拠事例を採り上げた。本来は、日共理論と実践のネオシオニズム通謀奴隷性を語れば良いのだが、とりあえずこれに替えておく。それにしても歴代の日共代表が揃いも揃ってネオシオニズムの配下エージェントと云うことになり事態は重大である。誰かこう共認せんか。以上を提言13としておく。
【提言14、徳球対宮顕の逆転倒錯評価を許すな】
(はじめに)
「徳球対宮顕の逆転倒錯評価を許すな」を提言14とする。提言17で角栄の逆転評価に触れるが、ここでは徳球対宮顕の逆転倒錯評価を検証する。大事なことほどこういう変調が罷り通っている。学べば学ぶほど馬鹿になる仕掛けが廻らされていることになる。気をつけねばなるまい。
筆者が戦後学生運動論を書き上げようと思ったのは、青春の一時期に自身が関わった学生運動を対自化させ、自分なりに総括してみたかったからである。もう一つの動機として、日共系の理論と運動の無茶苦茶さは当たり前としても、それを批判した上に成り立っている新左翼系のそれにも到底満足できないからである。数冊の戦後学生運動論を読んで、資料としての史実面は取り込ませて頂いたが、観点の面では全てれんだいこ史観から練り直している。徳球、伊藤律についての詳論はサイト「マルクス主義考」所収の「徳球論」、「伊藤律論」に記す。
「徳球対宮顕の逆転倒錯評価を許すな」。これを提言14の1とする。
筆者が最も云いたいことは、戦前直後の徳球-伊藤律系運動の評価が、新左翼も含め既成左翼のそれもデタラメであるということである。れんだいこ史観によれば、戦前戦後を通じてまずまず評価できるとすれば徳球ー伊藤律系運動の他に於いてない。戦前であれば、福本和夫運動、田中清玄運動が好評価できる。ところが、よりによってそれらの運動を根限り罵倒し批判し否定するのをもって左派気取りしている党派ないしは著述家が多い。というかそればかしである。
筆者が次に評価するのは60年安保闘争を牽引した第一次ブントであり、70年安保闘争時の全共闘運動である。それ以降は残念ながら瞠目させられる運動ないし党派はない。しかしながら、第一次ブントも全共闘運動も、徳球ー伊藤律系運動が悪罵されるのと同じ構図で過小評価され過ぎている。こういう観点を受け入れて学べば学ぶほど阿呆になってしまう。そういう仕掛けになっている故に、筆者は、そういう凡俗観点とは違う史観を提起しようと思う。
このことは、筆者が評価する運動に敵対した党派に対する間接的批判になっている。その筆頭は日共宮顕派である。筆者は、宮顕を、野坂同様に当局ないしはネオシオニスト奥の院から差し向けられたエージェントスパイで有り、戦前戦後を通じてこの二人の行く手は反革命的所業で一貫していると看做している。これに似た党派は他にも有り、主として穏和系運動を日共宮顕派が、急進主義系運動を革マル黒寛派が、その間に有象無象の変態党派が介在して左派運動の盛り上げに棹差していると見立てている。当局公安又はネオシオニズム奥の院の左派運動懐柔の戦略戦術はそれだけ長けていると看做している。
そういう複雑な左派運動になっている関係上、我々は、運動圏内の有益なものと有害なもの、無味乾燥のものを仕分けしつつ運動展開せねばならない。実際には、見かけ上のものに騙されて有益でない思想ないし運動を左派気取りでぶっている手合いが多い。彼らは、学ぶことによって余計に目が曇り却って錯乱している。我々は、学ぶことによって歴史の条理を見抜き、真の友と偽の友を見抜かねばならない。
その見分けがつかない者は次のことを心得ればよい。宮顕式の排除の論理による統制運動、黒寛式の他党派解体運動、この両翼のウソを嗅ぎ取り拒否すればよい。そもそも左派運動圏に求められているものは切磋琢磨式の競り合い運動であり、純化式衛生運動ではない。むしろいつでも共同戦線運動が望まれているのであって、統制運動に拝跪するべきではない。宮顕式ないしは黒寛式の理論と実践は意図的故意に錯倒せしめられている排除運動でしかない。この観点さえしっかり確立しておれば良い。
この原理は党内にも適用されるべきであろう。理論、戦略戦術の違いはあっても内部に許容し、異論異端大いに結構但し党中央権限を認め、党中央が何かしでかそうとするときには水差すな邪魔するなと互いに弁える二枚岩運動を創出せねばならない。ある程度の抵抗を活かす組織ほど頼もしいのは歴史の教えるところである。我々が、戦後から営々とこのように勤しめば、積み重ねの効により今頃は左派政権を誕生せしめていたことだろう。だがしかし実際に遣ってきたことは、これの反対のことばかりであった。これではどうしようもない。これは何も左派運動のみならず全てに通ずる法理ではなかろうか。云うは易く行いは難しではあるけれども。
「反スタ運動の陥穽考」 。これを提言14の2とする。
筆者は、「さざなみ通信」への1999.12.1日付け投稿「新日和見主義事件考その一、はじめに」で次のように述べている。今読み直してもそのまま通用するので確認しておく。(一部書き換えと、ですます調に改めた)
先の「査問事件」の考察は恐らく私の畢生の労作になったと自負しているが、今のところ誰からも批評を頂けないので拍子抜けしてしまう。マァ元気出して行こう、元来ネアカなので気にしないと思っていたら、宮地さんのホームページで取り上げて下さり、やはり見ている方もおられるんだなぁと心強くなり、頑張って書き続けていこうと再意欲が出ました。
私の「査問事件」の考察は、一連の流れをドラマ化させたという点で、叩き台として誰かがせねばならない作業であったと今でも自負しています。是非党の再生作業の一里塚としてご利用賜りますよう改めてお願い申しあげておきます。あの作品が党の旗を守ることと現執行部を擁護することとは認識上厳格に区別する必要があるということをモチーフにして書き上げられているということをご理解しつつ読み進めて頂ければなお真価が見えてくると思います。
このことは意外に重要な指摘です。私は今「新左翼20年史」(新泉社)と「戦後史の証言ブント」(批評社)を読んでいます。「新日和見主義事件」の解明の前作業として必要だと思っているからです。気づいていることは、島氏らを初めとした当時の全学連指導部の極めて有能な感性と理論と行動力が今日まさしく再評価されねばならないということと、そういう彼らにしてみても日共党史の流れを読み誤っている面があるのではないかということです。
先行して結成された(後の)「革共同」史観の影響に引きずられたという面もあったとは思われますが、「50年問題について」党内がドラスティックに徳球系執行部から宮顕系執行部に宮廷革命されつつあったという不義に対する闘いが組織されておらず、日本共産党という看板そのものに対して「反スタ」的に反発していったという経過が認められます。所感派(徳球系)と国際派(主として宮顕系)学生党員が、党内のゴタゴタに嫌気がさしてもはや「前衛党頼むに値せず」として自力の反代々木系運動を創出していくことになったが、そのことによって宮顕系宮廷革命の党内での進行をより易々と許容させたという面があるのではないのかという面での考察が未だに為されていないように思われるわけです。
徳球執行部には多々の誤りがあったかも知れません。特に野坂式の穏和化路線と徳球式の急進路線という二頭立ての運動がジグザグ式に進められていたということと、国際共産主義運動の権威としてのコミンフォルムの適切でない干渉に対して翻弄されていったという面とか、徳球が今日スパイとして判明させられている野坂に対してそのような認識を持つことなく最後まで連れだった党運動に終始したこととかいろいろ反省されねばならないことがあったことは事実ではあります。が、後の経過から見て特に徳球系列の深紅の革命精神には一点の曇りがなかったという史実については歴史的限界性の中において正しく評価継承されるべきではなかったか。結果的には六全協から第7回党大会、第8回党大会を通じて最悪の指導部の形成が進行したのではなかったのか、ということが私の視点となっています。
既に言及したように戦前の「査問リンチ事件」の本質を見れば、宮顕の胡散臭さは言い逃れのできない事実としてあるわけであり、「獄中12年」の実際の様子にしても今日の如く神聖化され、その聖域から転向組の非を責める程の実体は何もなく、むしろ疑惑されるべき不自然さを露呈しているのではないのか、徳球が宮顕を蛇蝎の如く忌避していた経過にはかなり根拠があったのではないのかということを一刻も早く確認することが党の再生には不可欠になっているのではないでしょうか。私の警鐘乱打はそのことの指摘という構図になっているわけです。
この面においては、ブントも新日和見主義者たちも未だに認識されていないように思われるわけです。なぜこうした読み誤りが起きるのかというと、党史の重要な経過が常にヴェールにくるまれて進行させられており、末端の活動家は意味も分からぬまま目先の運動で消耗させられてきているという党運動の在り方に起因しているのではないのか。あるいはまた「鉄の規律」とか「民主集中制」とか「統一と団結」とかいろいろな言葉で修辞されるような、執行部にフリーハンド、下部には盲目的な党活動が常態化しており、受け入れる側の方にも権威拝跪精神が内在して機能しており、一般党員のこのような没批判精神が要因となっているのではないのかということに対する内省がそろそろ必要なのではないでしょうか。
ここには世上の宗教運動や天皇制信仰と何ら変わりのない精神構造が認められ、科学精神で始まったマルクス主義にしてはおかしな非科学精神が培養されていることを認めないわけにはいきません。「さざ波通信」誌上、党の擁護か現執行部の擁護か判明しない見地からの阿諛追従投稿が何編かなされていることに気づかされています。これは私が党外であるからよく見えるのかもしれない。
というような観点を込めて次の仕事として「新日和見主義事件」の解明に向かおうと思います。わたしの同時代的な青春譜でもあるのでノスタルジーなしには語れませんが、いつかはこうして総括しておこうと思い続けてきた長年のテーマであるからして向かわねばなりません。但し、これに本格的に取りかかり始めるとすれば莫大なエネルギーが予想されます。能力的に私自身が耐えきれるかどうかということと仕事の傍らでできるだろうかと不安がありますが、手に負えなくなったら立ち止まり、あるいははしょれば良いという理屈で立ち向かっていこうと思います。以上を提言14としておく。
【提言15、伊藤律の浦島太郎節を傾聴せよ】
(はじめに)
「伊藤律の浦島太郎節を傾聴せよ」を提言15とする。筆者は、伊藤律こそ日本左派運動の範とすべき軌道の敷設者だったと評価している。史実は、その伊藤律を悪し様に論ずれば論ずるほど左派的であるかのように扱かうという倒錯に耽ってきた。そういう意味で、日本左派運動のネジレは伊藤律論に集約していると云うべきだろう。以下、このことを確認する。
「伊藤律の政治能力を再評価せよ」。これを提言15の1とする。
伊藤律は、戦後直後の共産党運動を指導した徳球に次期指導者として見込まれて登用され、以来徳球の懐刀として戦後の共産党運動を5年余牽引した。戦後共産党運動の一番若い有能指導者であった。徳球-伊藤律体制は、日共の今日的な「真の野党論」とは全く違って、戦後革命を懸命に模索し、1947.2.1ゼネストであわやのところまで政権奪取に近づいたものの最終場面でGHQの厚い壁の前に遮られた。以来、捲土重来を期して社共合同運動と地域権力樹立運動の二本立て活動に邁進した。
その最終勝負が遂に訪れる。2.1ゼネストより2年後の1949.1.23日、第24回衆議院総選挙が行われた。吉田率いる民主自由党が解散時152から264へと単独過半数獲得で大勝利したものの、民主党69(←90名)、社会党48(←111名)、国協党14(←29名)、労働者農民党7(←12名)の退潮を尻目に共産党は4から一挙に35名(約300万票獲得、得票率9.8%)へと大幅躍進した。
民主自由党対共産党の決戦機運が漲(みなぎ)り始めた。徳球-伊藤律系党中央は、「社共合同による9月革命」を呼号し戦後革命決戦に向かった。この頃シベリア抑留者が帰還し、ソビエト式共産主義教育を受けた帰還兵士の多くが続々と入党した。こうして、革命主体の隊列が整った。日本左派運動は戦後革命の最後の決戦に向かった。
肝心要のこの時、宮顕派を主力とする反主流派が党内を撹乱し始める。吉田政権は、「団体等規制令」(政令64号)等による労働運動弾圧に向かった。7.1日、公共企業体の人員整理が始まり、組合内の指導的党員と同調者、戦闘的分子が解雇された。明らかに逆宣戦布告であった。こうした折、7.6日、国鉄総裁・下山定則轢殺事件、7.15日、三鷹事件(中央線三鷹駅で、無人電車が暴走、6名が死亡、14名が重軽傷)、8.17日、松川事件(東北本線松川-金谷川間で列車転覆、3名死亡)が発生した。いずれも、ネオシオニズム配下のCIA絡みの謀略事件の可能性が強いとされている。こうした喧騒の中、結果的に「9月革命」は不発となり戦後革命は流産した。
1950.1.1日の外電「スターリン論評」をきっかけに党内は徳球系所感派と宮顕系国際派に分裂した。かかる中、朝鮮動乱勃発の前夜の6.6日、マッカーサー指令による日本共産党全中央委員24名全員の公職追放が発令された。徳球系所感派は国内に「臨時中央指導部(臨中)」を構築し非公然体制に入った。やがて北京に渡った。6.25日、朝鮮戦争が勃発。
徳球、野坂らは北京機関を創設して指導し始めた。この時、指針されたのが日本共産党史上初の武装軍事闘争であり、1951.2月の「四全協」、10月の「五全協」で意思統一された。伊藤律が北京に向かわされ、志田が武装闘争を指揮するところとなった。しかし、志田派の武装闘争は戦略戦術のない漫画的散発的なもので悉く失敗に帰して行くことになる。後日判明するところ、志田の当局との通謀性が確認されている。
北京に渡った伊藤律は徳球の片腕となり「自由日本放送」を開始し指導する。しかし、武装闘争の失敗と反主流国際派の執拗な党分裂により次第に制御不能となって行った。この失意の中で、1953.10.14日、徳球が亡命先の北京で客死した(享年59歳)。後ろ盾を失った伊藤律は野坂、西沢らの暗躍により捕捉され投獄される。まもなくスパイとして除名される。以降、消息不明となり死亡説も囁かれていた。
「伊藤律の浦島太郎節を傾聴せよ」 。これを提言15の2とする。
1980.9.3日、その伊藤律が北京幽閉後27年を経て解放され、九死に一生を得て密航以来29年ぶりの帰国をした。伊藤律の有能さは、「27年の幽閉、29年ぶりの帰国」になお衰えぬ精神力と頭脳の明晰さを保持していたところに有る。誰が真似できようか。
他方、宮顕-野坂の牛耳る日共は恥ずかしげもなく居直り、釈明一つしなかった。これが、倫理道徳を説き続ける現下日共党中央の有り姿である。むしろ「伊藤律スパイ説」を執拗に流し続け乗り切りを図った。日本左派運動内諸党派は、この欺瞞に抗議する声もないテイタラクぶりを見せた。
日共のこうした一連の対応の後、「伊藤律証言」が朝日新聞と週刊朝日に連載された。除名後27年間の沈黙を破る伊藤律自身の言葉が披瀝された。
「ぼくは身の潔白を証明する為に生き長らえてきたんじゃないんだ。曲がりなりにも日本共産党の政治局員という責任ある地位にいた者として、今やらなければならないことがあるんだ」。 |
1989.8.7日、伊藤律死去(享年76歳)。元日本共産党三多摩地区委員長・荒川亘・氏は、「伊藤律回想録―北京幽閉二七年」(文藝春秋社、1993.10.15日初版)の末尾 の「刊行に寄せて」で次のように証言している。
概要「『耳は聞こえず、目もほとんど見えず、一人では外出・歩行も困難な』云わば、惨憺たる状態の伊藤律が、それなりに動いている『日本の運動状況』の中に帰ってきたというのは、『逆立ちした見方』であって、事実は、『惨憺たる日本の運動状況』の中に27年の苦難の中で思想と理論を鍛えた伊藤律が帰って来たのである。私がここで『日本の運動状況』と云う時、問題にしているのは日本共産党のことだけを言っているのではない。それに批判的な人々、潮流についても言っているのである。その事は、帰国後、国内の運動と思想の状況をほぼ理解した後の伊藤律さんの次の感想に示されている。『あの徳田が指導していた党は、どこへ行ってしまったのだ』」。 |
筆者は、「あの徳田が指導していた党は、どこへ行ってしまったのだ」を噛み締め合い為に、ここまで伊藤律史を綴った。「荒川証言」によると、帰国後の伊藤律は、日本の国内情勢と左派運動の現況を確認したうえで、社共のみならず新左翼各派も含めて、日本人民大衆を指導するに足りる党派と理論がないことを嘆き、憮然としたということになる。
その言は、「伊藤律の浦島太郎節」に過ぎないのか。筆者は違うと思っている。伊藤律をして嘆き憮然とさせたうちに真実があると思っている。日本左派運動は、徳球-伊藤律運動の後、その限界から弁証法的に出藍しないままあらぬ方向で穏和糸と急進系が実りのない運動を費消したと思っている。こう指摘してもなお「惨憺たる日本の運動状況」にさえ思い至らぬ「万年野党批判正義派」と「万年革命呼号正義派」の面の皮のションベンたるのが日本左派運動の実相なのではなかろうか。この貧困を如何せんか。以上を提言15としておく。
【提言16、自民党内ハト派政治を再評価せよ】
(はじめに)
「自民党内ハト派政治を再評価せよ」を提言16とする。日本左派運動は、自民党内の政争に皆目関心を見せぬまま、日共系は一律保守反動呼ばわり、新左翼系は一律体制派批判でやり過ごしてきた。筆者は、これほど実態に合わない批判はなかったと思っている。真実は、政府自民党内のハト派対タカ派の抗争こそ戦後政治における真にして最大の抗争であったとみなしている。これに比すれば日本左派運動内の抗争など児戯に等しい。これにつきコメントしておく。詳細はサイト「自民党史考」に記す。
「政府自民党内の権力抗争こそ真の政治ドラマである」。これを提言16の1とする。
既述したが皮肉なことに、日本左派運動が穏和系の社共運動も、急進系の新左翼運動もが虚飾の左派運動へ向かった結果、戦後憲法秩序をプレ社会主義と認識したかどうかは別として真に護持成育せしめてきたのは妙なことに自民党の主流派を一時期形成したいわゆる保守系ハト派であった。この勢力は、戦後プレ社会主義の価値をそのままに尊び、市場性社会主義の道を無自覚のままに舵取りし!保守的な装いの下に政権与党を形成した。筆者が思うに、彼らが戦後憲法秩序に即応した政治を舵取りしたところに世界史上稀なる経済復興と高度経済成長が獲得されたのではなかろうか。今から思えばプレ社会主義の勝利であり善政時代であったのではなかろうか。
但し、その善政政治も左右両翼から挟撃されて、1976年のロッキード事件勃発とともに始まったネオシオニストによるハト派解体策動により終焉する。こうして親ネオシオニズム系タカ派が台頭する。この売国タカ派の政権奪取とともに日本は失速し始める。その要因は、売国タカ派が戦後憲法秩序に具現されたプレ社会主義秩序及び機構及び精神を破壊解体せしめ始め、ネオシオニズムの下僕と化して意図的故意に国益を損なってきたからである。
タカ派のらしさは、ハト派が優先してきた内治主義的な公共事業を抑圧し、抑制してきた外治的な軍事防衛事業を振興し散財傾斜したことに認められる。興味深いことに、宮顕-不破系日共の公共事業抑制論は、社会福祉費増大を要求しているものの結果的にはタカ派的公共事業抑制その代わりの国際責務論と通底していることである。この両者は、ネオシオニズム論を介在させると裏で共同していることが透けて見えてくる。誰か、この認識を共認せんか。
タカ派は、ネオシオニズムの御用聞き政治を専らとしており、対外的には米英ユ同盟の腰巾着外交を繰り広げ、自衛隊の海外武装派兵で「米英ユ貢献」に勤しみ、国内的には善政の産物である年金制、医療制、雇用制、公共事業制を破壊し、つまりネオシオニズムの願う通りの売国奴政策に精勤し、構造改革の名の下に等質性を特徴とする日本社会の破壊に向かっている。これが現代日本政治の本質であり、お粗末さの原因である。民主党の政権交代論が、これに抵抗するものならともかく、この政策延長上での政権争いに興ずるだけなら何の意味もなかろう。
筆者は、このように見立てする。とならば、自ずと結論は次のようになろう。日本左派運動の採るべき道は、タカ派の売国奴政策と太刀打ちし、憲法改正策動を許さず、戦後のプレ社会主義を護持成育せしめ、この地平からの後退を全戦線で阻止せよ。むしろ逆攻勢的プレ社会主義の復権再興運動に向かえ。これが筋と云うものだろう。
思えばこの点に於いて、日本左派運動の新左翼系が掲げた理論は一切虚妄なものではなかったか。これに比して、社共運動が一定の支持を受けてきたのは、戦後憲法秩序の護持ゆえではなかったか。しかし、その護持運動が如何にヌエ的なものであったことか。日本左派運動は、このことを悟るべきだろう。ここから導き出される当面の指針は次のようになろう。社共的弱々しい護持運動ではなく、プレ社会主義論に立脚した戦闘的護憲運動を展開せよ。
「政府自民党のハト派政治を再評価せよ」 。これを提言16の2とする。
戦後革命期、日本左派運動の万年批判的な野党運動に逸早く見切りをつけた有能の士が政権側に入り込み、与党的責任政治を引き受けて行くことになった。彼らが、戦後日本のプレ社会主義的秩序を牽引していくことになった。ここに戦後日本政治の大きな捩れを見て取ることができよう。
吉田茂を開祖とする「吉田学校」がその水源地となった。1955年、自由党と民主党の大同合併により自民党が結成された。党内は様々なハト派と様々なタカ派が混淆する寄り合い世帯であった。その中で最大勢力化していったのは吉田学校派であった。これを戦後日本政治史上のハト派と云う。後に頭角を現す池田隼人、佐藤栄作、その弟子達の田中角栄、鈴木善幸、大平正芳らに象徴される有能士が列なることになる。佐藤栄作の場合、戦後タカ派の総帥・岸の弟であり、必ずしもハト派系列でみなす訳には行かないが、政治史的流れとしては「吉田学校」出自であるので、この系譜に入れておくことにする。
戦後日本政治史上のハト派とは、戦後憲法を概ね遵守し、その大綱の中で戦前の轍を踏まぬ決意から主として内治に励み、特に公共事業を重視し社会資本基盤の整備に向かう。外交は、現代世界を牛耳るネオシオニズムの枠内という制限下ながらも、戦後憲法的国際協調、平和外交に精を出すというかなり高等な政治芸路線を追求した。かく規定できると思う。
このハト派が、戦後から1970年代までの期間、戦後保守本流つまり主流派を形成し、戦後から1980年初頭まで即ちタカ派系の中曽根政権登場までの間を、政府自民党政権を御すという現象が生まれた。日本左派運動が虚妄の道をひた走るのに比して、このグループが自らを保守体制派として位置づけながらその実プレ社会主義を担っていくことになった。こうなると大きな倒錯、捩れであったが、この倒錯が倒錯と映らず、戦後政治運動は捩れたままに推移していくことになる。
戦後ハト派は党内のタカ派と表面的には相和しながら、底流で激しく対立抗争しつつ政権を担って行った。ハト派主導時代の政治は、戦前来の日本的官僚制度と云う国家頭脳を政治主導的に操作し、官僚も叉これに能く応えたと云う史実を刻んでいる。今日、官僚制批判が盛んであるが、この頃の官僚は戦後日本再建の良き働き手であった面が強い。この期間、戦後日本は内治に成功し、高度経済成長を呼び込み、世界史上に稀なる発展を遂げ、日米安保の枠組内ながらも国際協調にも貢献しアジア、中近東、アフリカ諸国からの賛辞も得た。今から思えば大いなる善政時代であった。
1970年代に結実した田中-大平同盟は体制内プレ社会主義を目指すハト派の精華であった。この時期までに戦後日本は大きく発展を遂げ、世界史上にも稀なる戦後復興から始まる高度経済成長時代を湧出させた。その勢いは、戦争経済の負のスパイラルに苦しむ米国をも凌ぐものとなり、「ジャパン イズ ツモロー№1」を予想せしめるほどのものとなっていた。その田中-大平同盟は国内的には鉄壁の支配体制を敷いていたが、思わぬところから痛撃を見舞われる。
1976年、ロッキード事件が勃発し、この時点で戦後ハト派の総帥的地位を獲得していた田中角栄前首相が捕捉され、この激震により鉄の結束を誇っていた田中-大平同盟が解体せしめられることになった。代わって登場するのがネオシオニズムの露骨な下僕にして売国奴路線を敷く中曽根政権であり、新主流派を形成し始める。戦後日本政治は、これにより大きく逆流していくことになる。ロッキード事件は、その意味で戦後政治の大きなターニングポイントであった。こう位置づける必要があろう。
「日共のハト派弾劾運動を弾劾せよ」。これを提言16の3とする。
政府自民党内がハト派からタカ派へと政権交代しつつある際に、宮顕-不破系日共が、狂気の角栄政界追放を繰り広げた史実を疑惑する必要があろう。本来であれば、戦後日本左派運動は、戦後政治の独特の政治流動と局面を分析し、陰に陽にハト派と提携すべきであった。ところが実際には、マルクス主義的教条に従ってハト派もタカ派も十把ひとからげに打倒されるべき保守反動的体制派と断じ、図式公式主義的な一律政府自民党批判運動に終始してきた。時に政権打倒を呼号するが、代わって政権を引き受ける意思も能力もない口先運動に没頭してきたに過ぎない。
してみれば、日本左派運動は、戦後日本の立役者となった政府自民党内のハト派的運動に対して余りにもお粗末な対応をしてきたのではなかろうかということになる。今、政府自民党内のタカ派運動が、ハト派時代が築いてきた国富をネオシオニズムの下部機構ハゲタカファンド企業に売り渡し、売国奴政治にうつつを抜かしている時、ハトタカを識別し是々非々すべきではなかろうか。政府自民党に対する保守反動呼ばわりでの「万年一本槍批判」ほど実際にそぐわないことはないのではなかろうか。
情けないことに、日本左派運動は、政府自民党内のハト派が政権を掌握機動させていた時にもっとも盛んに反政府反体制運動を繰り広げ、タカ派が掌握機動している現在逼塞させられ、口先三寸のアリバイ式批判運動に終始し、結果的に裏協力するという痴態を見せている。日共式議会闘争が果たしている役割をも客観化させて見よ、結果的に与党の自公政権に利する票割り運動でしかなかろう。反動法案採決に加わり、アリバイ的な反対投票することで与党の単独強行採決の咎を緩和させている。これが偶然か故意なのかは分からないとする者も、そういう悪しき対応をしていることは認めねばなるまい。宮顕-不破系日共運動が真に批判されねばならないのは、この犯罪性に於いてである。
思うに、政府自民党内のハト派政治を良質のそれであったと見直し、その限界を突破し更なる左からの政治運動を生み出すために弁証法的に検証し直すべきではなかろうか。ハト派政治を体現したのは吉田茂を開祖とする池田隼人及び田中角栄、大平正芳、鈴木善幸政権であるからして、この時代の政治を検証し直し、復権せしめるべきところは復権し再興すべきではなかろうか。
思えば、戦後左派運動が目指すべき本来の運動は例えば、かっての日本社会党的政策を持つ党派が政府与党となり、国内の左右両翼を御しながら、世界の諸対立を御しながら、戦後憲法精神で邁進していくべきであったのではなかろうか。これが実現すれば、世界が羨むプレ社会主義を先駆的に謳歌し、自ずと「革命輸出」して行ったのではないかと思う。実際の社会党はこれを担う能力も気概も理念もない余りにもお粗末な軌跡を遺している。
筆者が見立てるのに、戦後直後の共産党を指導した徳球-伊藤律運動も未完のままに歴史に漂っている。戦後保守主流派のハト派運動もまた同じく未完のままに漂っている。凡そ良質なこれらの運動が放擲されたまま、どうでも良いその他運動が跋扈している。こう捉えるべきではなかろうか。
日本左派運動の良質の道を捉え損ねた新旧左翼が、そのなれの果てに見たのはどういう現実だったであろうか。この場合、全否定とか全肯定は馴染まない。或る部分正しく或る部分間違っていたとみなすべきだろう。間違いは良い。問題は、間違いを見つけたときにどう対応するかにある。これを為すには、常に、議論と反省と相互批判と総括を媒介させ不断に談じ合わねばならないだろう。残念なことに、これができないのが日本左派運動であり、日本左派運動にはそういう宿ア的習性があることも認めねばならないだろう。以上を提言16としておく。
【提言17、角栄政治を再興せよ】
(はじめに)
「角栄政治を再興せよ」を提言17とする。提言16で戦後ハト派政治を称揚したが、ここで戦後ハト派政治の精華足り得た角栄政治を個別に検証することにする。本書では既に「別章7、ロッキード事件考」で角栄について素描しているので、ここでは書き足りなかったところを記す。本章を読んでも相変わらず角栄批判に興じる左派者は悪いことは云わん、暫く口をつむることだ。そういうサヨの一言一言が害悪でしかないから。詳論はサイト「田中角栄論」に記す。
「戦後ハト派政治の総帥田中角栄政治を再興せよ」。これを提言17の1とする。
筆者は、戦後保守本流派を一時期形成していたハト派の中でも、田中角栄を偽装保守実は真正の左派ではなかったかと推定している。実際には、古代史に造詣がなければ分からないであろうが、古代出雲王朝に於ける大国主の命(みこと)的政治であったとみなしている。スサノウとみなす向きもあるがオオク二ヌシ的であったと解するのがより近いと思われる。
筆者の見立てによれば、国津族系出雲王朝は国譲り前に於いて善政政治の見本を示していた。これが日本政治の原型として今日にも伝わる「日本の形」となっている。日本政治は、その出雲王朝政治が「国譲り」により渡来天孫族系の高天原王朝に顕界の政治的支配権を譲り、精神的文化的な幽界に於いて生き延びるという「手打ち」で日本政治の新しい形へと移行した。この二元政治が日本政治の原型となり今日へと続いている。これは、記紀その他古代史書が伝えるところであり、これを真っ当に読めばこういう理解になる。
戦前の皇国史観の誤りはこれを捻じ曲げ、「天孫族=善、国津族=悪」的逆さま史観により政治主義的にデッチあげられたイデオロギーであった。日本左派運動は、国史改竄として批判せねばならない歴史的責務があるところ、西欧史には饒舌になるが日本史には皆目チンプンカンプンと云う習性により盲目のまま今日へと至っている。付言しておけば、世界に比して相対的に「良き日本」という場合の源泉はいつも、出雲王朝に結実した原日本から汲み出されているように思われる。
もとへ。角栄政治は、その良き原日本型政治の戦後復興版であった。これにネオシオニズムが立ち塞がった。筆者は、角栄の政治能力の「異質性」を嗅ぎ取ったネオシオニズムがロッキード事件を用意周到に仕掛け、政治的に葬ったと見立てている。その際ネオシオニズム・エージェントがこぞって呼応し、その際宮顕-不破系日共が異常にはしゃいだ裏には臭いものがあるとの仮説を持っている。日本左派運動は新旧左翼ともども、この観点をからきし持っていない。むしろ、金権政治の元凶として最悪視している。果たしてどちらの受け止め方が正しいのだろうか。
今日、冷静になって考えれば次のことが明らかになる。今現在、自民、民主のタカ派系が構造改革と称して次から次へと改悪策動している諸制度は、ハト派時代に築かれた善政の産物の捻じ曲げばかりである。タカ派系は何を急いで改革と自称する実は改悪に狂奔しているのだろうか。ここが詮索されねばならないだろう。ネオシオニズムのシナリオ論を媒介せずして解けるだろうか。
筆者は既に「提言6、 戦後憲法秩序=プレ社会主義論により護持成育せしめよ」、「提言16、戦後保守本流を形成した自民党内ハト派政治を再評価せよ」で述べたように、この時のハト派政治こそ、戦後日本のプレ社会主義性を良しとして在地土着型の左派運動を展開した稀有なものであったのではなかろうかと見立てている。彼らは一度としてマルクスのマの字さえ口にしなかったが、マルクスを呼号し続けるマルクス主義者よりもよほどマルクス主義的で、世界に冠たる親方日の丸式在地土着型社会主義政策を創造し敷設していったのではなかろうか。ここに、世界の奇蹟と云われる戦後の高度経済成長式発展があり、イスラム世界ともよく親交し賛辞されていたのではなかろうか。
してみれば、戦後保守本流ハト派の政治、特に角栄政治の功績を見直し、継承すべき面を継承し、新在地土着型のハト派政治を再興していくことこそ現代政治のテーマとなっているのではなかろうか。してみれば、この流れに向かう政治こそ期待されているのであり、これに逆行する政治は反動的といえるのではなかろうか。このことを指摘しておきたかった。この観点に異論があれば、筆者ははいつでも応ずる意思がある。堂々と議論しようではないか。
「戦後学生運動が戦後保守主流派の大御心で許容されていたことを知れ」 。これを提言17の2とする。
筆者の若い頃は、10.21と云えば反戦デーだった。筆者はあいにく民青同だったので面白くもないデモに参加して流れ解散した経験しかない。或る時の10.21日、新橋駅辺りで解散したところ、脛と膝を大怪我し両肩を抱えられながらのメットの連中と遭遇した。党派が違うので話すこともなかったが、筆者は、あっちの方が闘ったという気がする思いがしたことを思い出した。機動隊とやりあうことが意味があったとは思えないが、単なるデモすることで闘ったことにはならないという微妙な気持ちになったことを覚えている。それにしても、ゲバ棒スタイルのメットデモが盛んだった。当時は今より規制が少なく許容されていたのだろう。
そうした「戦後学生運動の1960年代昂揚の凋落原因」を愚考してみたい。筆者は、1・民青同の右翼的敵対、2・連合赤軍による同志リンチ殺害事件、3・中核対革マル派を基軸とする党派間テロ、4・得体の知れない爆弾テロ事件の4要因を挙げることができる。しかし、それらは真因ではなくて、もっと大きな要因があるとして次のように考えている。
戦後学生運動は、ある意味で社会的に尊重され、それを背景として多少の無理が通っていたのではなかろうか。それを許容していたのは何と、戦後学生運動がことごとく批判して止まなかった政府自民党の当時政権を担っていたハト派の識見であった。ところが、ロッキード事件を媒介しての「政府自民党の変質」によりタカ派が権力奪取することにより次第に許容されなくなり、学生運動にはそれを跳ね返す力がなく、ズルズルと封殺され今日に至っているのではなかろうか。凡そ背理のような答えになるが、今だから見えてくることである。
思えば、「戦後学生運動の1960年代昂揚」は、60年安保闘争で、戦後タカ派の頭脳足りえていた岸政権が打倒され、以来タカ派政権は雌伏を余儀なくされ、代わりに台頭した戦後ハト派の主流化の時代に照応している。このことは示唆的である。60年代学生運動は、諸党派の競合により自力発展したかのように錯覚されているが、事実はさに有らず。彼らが批判して止まなかった政府自民党の実は戦後ハト派が、自らのハト派政権が60年安保闘争の成果である岸政権打倒により棚からボタモチしてきたことを知るが故に、学生運動を取り締まる裏腹で「大御心で」跳ね上がりを許容する政策を採ったことにより、昂揚が可能になったのではなかろうか。
これが学生運動昂揚の客観的政治背景事情であり、筆者は、「戦後学生運動の1960年代昂揚」はこの基盤上に花開いただけのことではなかろうかという仮説を提供したい。この仮説に立つならば、1960年代学生運動時代の指導者は、己の能力を過信しない方が良い。もっと大きな社会的「大御心」に目を向けるべきではなかろうか。
今日、かの時代の戦後ハト派は消滅しているので懐旧するしかできないが、戦後ハト派は、その政策基準を「戦後憲法的秩序の擁護、内治主義的経済成長優先、その為の公共事業促進、その対としての軽武装たがはめ、日米同盟という制限下での国際協調」に求めていた。その際、左バネの存在は、彼らの政策遂行上有効なカードとして機能していた。彼らは、社共ないし新左翼の左バネを上手くあやしながらタカ派掣肘による政権足固めに利用し、現代世界を牛耳るネオシオニズムとの駆け引きにも活用していたのではなかろうか。それはかなり高度な政治能力であった。
筆者は、論をもう一歩進めて、戦後ハト派政権を在地型プレ社会主義権力と見立てている。戦後ハト派の政治は、1・戦後憲法秩序下で、2・日米同盟体制下で、3・在地型プレ社会主義政治を行い、4・国際協調平和を手助けしていた。してみれば、戦後ハト派の政治は、国際情勢を英明に見極めつつ、政治史上稀有な善政を敷いていたことになる。実際には、政府自民党はハト派タカ派の混交政治で在り続けたので純粋化はできないが、政治のヘゲモニーを誰が握っていたのかという意味で、ハト派主流の時代は在地型プレ社会主義政治であったと見立てることができると思っている。
今は逆で、タカ派主流の時代である。そのタカ派政治は、戦後ハト派政権が扶植した在地型プレ社会主義の諸制度解体に狂奔している。小泉政権5年5ヶ月19800日の政治と現在へ至る安倍、福田、麻生政権は、間違いなくこのシナリオの請負人である。この観点に立たない限り、タカ派政治への批判は的を射ないだろう。この観点がないから有象無象の政治評論が場当たり的に成り下がっているのではなかろうか。
そういう意味で、世にも稀なる善政を敷いた戦後ハト派の撲滅指令人と請負人を確認することが必要であろう。筆者は、指令塔をキッシンジャー権力であったと見立てている。ならばキッシンジャーを動かした者は誰か。ネオシオニズム奥の院の存在があり、これに呼応した政官財学報司の六者機関の請負人が存在すると考える。これを暴き立てれば、日本左派運動が真に闘うべき敵が見えてくると思っている。
このリトマス試験紙で判定すれば、世に左派であるものが左派であるという訳ではなく、世に体制派と云われる者が右派という訳ではないということが見えてくる。むしろ、左右が逆転している捩れを見ることができる。世に左派として自称しているいわゆるサヨ者が、現代世界を牛耳るネオシオニズム・イデオロギーの代弁者でしかかないという姿が見えてくる。この問題については、ここではこれ以上言及しないことにする。
結論。いずれの側であれ、くれぐれも、在地型プレ社会主義政治の最高指導者角栄を悪く罵倒すればするほど左派的なぞと思うなかれ。もしそういう御仁が居るなら、歴史の見立てと真相が掴めない不明を恥じよ。このことが分かるまで蟄居し沈思黙考せよ。
「田中角栄の学生運動活動家に対するまなざしを知れ」 これを提言17の3とする。
角栄は或る時、次のように述べている。
概要「子供が十人おるから羊かんを均等に切る、そんな杜会主義者や共産主義者みたいなバカなこと言わん。キミ、自由主義は別なんだよ。羊かんをちょんちょんと切って、いちばん小さい子に、いちばんでっかい羊羮をあげる。そこが違う。分配のやり方が違うんだ。大きい奴には"少しぐらい我慢しろ"と言えるけどね、生まれて三、四歳のは納まらないよ。そうでしょう。それが自由経済というものだ」 (安広よしのり編著「田中角栄・悪の語録」、1983年、日新報道刊」参照)。 |
筆者が思うに、角栄は自由経済の良さをかく説いているが、これこそ本来の実質社会主義論ではなかろうか。世上のそれは形式社会主義のそれでしかあるまい。この発言は、角栄の自由主義経済論が実質社会主義論的なものであったという例証である。誰がこれを冷笑できようか。
角栄の学生運動論と観点を記しておく。角栄はどうも「学生運動上がり」を重宝にしていた形跡がある。早坂記者の秘書入りのエピソードもこれを物語っている。早坂茂三氏は早稲田大学時代、全学連の有能なオルガナイザーの一人であり、卒業後東京タイムズ記者をしていた。1963(昭和38).12月、角栄は、その早坂氏に対して秘書になってくれないかとスカウトしている。この時の言葉が次のような角栄節であった。
概要「俺はお前の昔を知っている。しかし、そんなことは問題じゃない。俺も本当は共産党に入っていたかも知れないが、何しろ手から口に運ぶのに忙しくて勉強するひまがなかっただけだ。俺は10年後に天下を取る。お互いに一生は1回だ。死ねば土くれになる。地獄も極楽もヘチマもない。俺は越後の貧乏な馬喰(バクロー)の倅だ。君が昔、赤旗を振っていたことは知っている。公安調査庁の記録は全部読んだ。それは構わない。俺は君を使いこなせる。どうだ、天下を取ろうじやないか。一生一度の大博打だが、負けてもともとだ。首までは取られない。どうだい、一緒にやらないか」(早坂茂三「鈍牛にも角がある」106P)。 |
斎藤隆景(新潟県南魚沼郡六日町で「斎藤記念病院」を経営)もその例である。元全共闘闘士で、一転田中イズムのとりこになったことから田中角栄の懐に飛び込み、その後、長く目白の田中邸への出入り自由となった。角栄の学生運動を見る目線については「提言1、汝自身を知れ、年相応の分別を弁えよ」に記した「フランスのル・モンドの極東総局長だったロベール・ギラン記者との会話で明らかな通りである。党本部前の街路を埋めてジグザグデモを繰り広げていた全学連の学生達に対して次のように述べている。
「日本の将来を背負う若者達だ。経験が浅くて、視野は狭いが、まじめに祖国の先行きを考え、心配している。若者は、あれでいい。マージャンに耽り、女の尻を追い掛け回す連中よりも信頼できる。彼等彼女たちは、間もなく社会に出て働き、結婚して所帯を持ち、人生が一筋縄でいかないことを経験的に知れば、物事を判断する重心が低くなる。私は心配していない」。 |
この見識こそ角栄政治の真骨頂であろう。立花や日共によって逆に描き続けられているが、それは取りも直さず連中がネオシオニズムの下僕として立ち働いている事を証左しているだけのことである。我々はこの投網から抜け出さねばならない。
もとへ。日本左派運動は、角栄のこの眼差しを味わうべきではなかろうか。2009年現在の地点から思うに、この当時の「激動の7ヶ月」が成立したこと自体、政府自民党内のハト派権力の温かい眼差しと理解、ズバッと云えば甘やかしがあってこそではなかったか。それが証拠に、今日の如くなタカ派権力にあっては「過激なデモ許さず」で到底成り立たず、凶器準備集合罪その他ありとあらゆる罪状を被せられ予備段階で事前検束されるのではなかろうか。つまり雲泥の差が有る。そういう目線を持ちたいと思う。
「『角栄-毛沢東秘密会談』は何を語ったか」 これを提言17の4とする。
角栄は政権発足後直ちに日中国交回復交渉に向かった。1972(昭和47).9.25日、田中訪中団52名が北京へ向かい、難産の挙句「日中共同声明」へ辿り着く。この時の9.27日、急遽「角栄-毛沢東秘密会談」がセットされている。詳論はサイト「田中角栄論」所収の「毛沢東―角栄会談秘話、角栄の悲劇性予見」に記す。
会談は、日本側は田中、大平、二階堂の3名、中国側は毛、周、姫、りょう、これに通訳兼記録係として王効賢(外務省アジア局所属)と林麗雹(共産党中央連絡部所属)の二人の女性が加わった。異例なことに日本側の事務方は意図的に排除されている。こういう首脳会談は珍しい。会見は約1時間にわたった。ひと通リの挨拶と雑談が終わった後の毛沢東の発言が出色なものとなっているが全容は未だ明らかにされていない。故に推定になるが、毛はこの時、近現代史の真の流れを語り、現代世界を裏から支配している国際金融資本ネオシオニズムに対抗するための日中同盟の必要を説いていたと思われる。
筆者は、そのこともさることながら、この時両者が同志的雰囲気で遣り取りしている様子に感嘆している。毛は、日中共産党会談での逸話として徳球とは誼(よしみ)を通じ、宮顕を毛嫌いしていた様子の伝がある。そして角栄とは肝胆合い照らしている。これがどういう意味になるのか。筆者の角栄左派論の例証でもある。
毛は、よほど角栄が気に入ったようで、その後も並々ならぬ関心を持ち続け角栄の動向に慈愛を注いでいた様子が伝えられている。最後の闘病の日々の1976(昭和51).2.4日にロッキード事件が勃発するや、角栄を追い詰める「三木武夫とは何者か」の確認に向かっていた。これが毛の最後の寝床の読本であったと伝えられている。「田中角栄と毛沢東」の著者・青木直人氏の言をそのまま借りれば、「毛は田中をロッキード事件で追い詰めている三木という政治家の経歴や思想からロッキード事件それ自体の政治的構造を推理したかったのだろうか」ということになる。これが死の前日のエピソードであり、毛は翌日の1976.9.9日に生涯を閉じている。
毛沢東が会談の別れ際に詩経とならぶ中国の詩文の古典「楚辞集注」(「詩註・4冊」)を贈呈しているのも意味深である。「楚辞集注」は悲劇の宰相・屈原の史書であり、毛がわざわざ角栄に「楚辞」を渡した意図について詮索されるに値する。或る凡庸な新聞記者は、角栄が読み上げた漢詩を念頭に置いて、「漢字を連ねただけでは詩にならない。少し漢詩の作り方を勉強しなさい、という毛主席の皮肉を込めた返礼である」と論評をしている。あるいは、「迷惑論争」で揺れた経緯を踏まえて、中国語の用法がふんだんに使用されている「楚辞」を贈ることにより中国的文意を知らせようとの配慮から贈られたとも解している。己の背丈でしか論評できない過ぎる愚見ではなかろうか。
これに対し、安岡正篤は「無礼、返却するのが筋」といったと云う。安岡氏の立論の構図全体が分からないが、「飛ぶ鳥を落とす勢いの角栄に不吉な屈原を重ね合わせることへの非礼批判」であったと思われる。だとすれば、安岡氏の洞察力はさすがのものであることになる。しかしながら、筆者は、角栄の尋常ならざる有能性とそうであるが故に待ち受ける悲劇を予見して「楚辞集注」を贈ったと解する。毛の炯眼は的中する。その後のロッキード事件に翻弄されていく角栄は屈原そのものとなった。毛の慧眼恐るべしと窺うべきではなかろうか。
「角栄政治の復権こそ日本再生のカギである。『日本列島改造案』を学べ」 。これを提言17の5とする。
日本左派運動は、戦後政治史の真の抗争、生態に対して余りにも無力不見識なままに現在に至っている。それはともかく、一体、角栄政治の意義をどう確認すべきか。筆者は、角栄政治の本質は、在地土着型の人民大衆能力の涵養に基礎を置く左派政治であったと見立てている。角栄の演説は、サイト「田中角栄演説」に記したので、角栄政治の何たるかをここで確認すれば良かろう。
角栄は、下手なマルクス主義者の観念的政治論より数等倍卓越したプレ社会主義的政治遂行の指導者でもあった。筆者は、彼の頭脳に反映していた政治設計図を更に強力に推し進めていくことが日本の国家百年の計に資し、現代政治の混迷を紐解く契機にもなる筈と推定している。角栄政治は叉、日本政治史上の裏モータ-である和合政治の粋でもあった。大国主の命の現代版政治であったと見立てる所以である。
筆者は、角栄頭脳がどのように形成され出現したのかに興味を覚えているが、ここでは問わない。ここでは、角栄政治の復権により日本再生シナリオを創造せねばならないと云う観点からの日本改造計画論を確認する。筆者の見立てるところ、次のように指針すべきではなかろうか。
1 | 戦後日本憲法をプレ社会主義法と見定め、一字一句尊重し、受肉化を図らねばならない。 |
2 | 戦後日本の社会体制をプレ社会主義体制と見定め、国営と民営の棲み分け、官と民の共同、国民の最低限の生活保障、助け合い共生且つ活力ある競合社会を創造せねばならない。 |
3 | 内治優先の公共事業政策にシフトし、軍事軍需路線から決別せよ。外治は、国際協調と経済援助政策にシフト替えせよ。 |
4 | 産業活動に伴う公害対策に秀で、環境エコロジー先進国を目指せ。自然と社会の共生を目指せ。 |
5 | 日本の伝統的文化を育成し、教育、知育、体育、徳育を目指せ。 |
このマニュフェストに基く政治運動こそ日本革命の向かうべき道筋のように思われる。この路線は、角栄が総裁選前にマニュフェストした「日本列島改造案」に於いてより論証的具体的に記されている。これを学ばずんばなるまい。このことを指摘しておきたかった。筆者が党首を務めるたすけあい党は、この青写真を元に諸事政策して行きたいと考えている。御意の者よ、同志として列なれ(活動できぬ金持ちはカンパしてくれふふふ)。
これを思えば、2001年に登場した小泉政権の悪行が逆照査されてくることになる。小泉政権とは、米帝国主義を裏で操る真の磁力体ネオシオニズム、その表出体・米英ユ同盟に下僕する売国奴系ポチ運動、ネオシオニズムに教唆された日本解体計画の請負人であった。これに援交しているのがシオニスタンであり、同マスコミであり、同自称知識人であり、同サヨである。5年有余にわたる小ネズミ政権の史的意義は、このことをくっきりさせることにあったように思われる。筆者は今そういう意味で、小ネズミ政権を反面教師的に照射している。かく構図が見えたなら、我々が為さねばならないことも見えてくる。まさに禍福あざなえる縄の如しと云うべきではなかろうか。以上を提言17としておく。
【提言18、組める相手と組み、組めざる相手と組むな】
(はじめに)
「組める相手と組み、組めざる相手と組むな」を提言18とする。
1950年代、60年代、70年代の左派運動を担ったないしは関わった者からすると、今日のテイタラクは信じられない。この惨状を何とかせんとして様々な動きがあるが、今のところ首尾よく進展しているようではない。しかし、何でも良い、良いと思うものをボチボチでも進めて行くことが肝腎だろう。
物事には必ず原因があるとして、これを社会科学的に尋ねるのがマルクス主義のスタンスであろうが、これが為されているように思わない。マルクス主義が古かろうが間違っていようが、批判するのは勝手だが、社会事象に対する科学的な解析手法まで放棄するのは「赤子ごと湯水を流す」愚を免れまい。筆者はそう考えている。ここでは、そういう意味での左派運動の在り方についてコメントしておく。
「左派運動を小難しくすることなかれ」。これを提言18の1とする。
今こそ「日本左派運動の長期低迷事象に対する科学的な解析手法」が必要であろう。かといって、あんまり小難しく語られても困る。筆者は、マルクス主義派の難解理論に従来より辟易させられている。今日まで筆者の理解能力の欠如をこぼしてきたが、筆者が齢50歳を越した頃、俄かに腹を立て始めた。
労働者大衆に理論と実践の武器を指し示す形で登場したマルクス主義が、読むに閉口行うに難渋するような「マルクス主義的難解理論」なぞあって堪るものか。「マルクス主義的難解理論」は為にするものではなかろうか。これは言葉使いが難解な場合と語る内容そのものが空疎である場合の二通りがあるのだが、いずれにしても実は無内容を糊塗するコケオドシなのではなかろうかと。
なぜそのように気づいたかと云うと、その後の日本左派運動の失速に対し、難解に説いていた者の誰もが責任を負わなかったからである。というか負う能力を持たなかったからである。彼らは実は有能ではなかったことを日本左派運動の失速が証明したことになる。こうして彼らの権威が剥げた。無責任無能な者が説く難解さなど信を置くに値しないと切り捨ててから、筆者はのびのびと自己流の研究に着手することができるようになった。
筆者の気づきが遅れたのにはもう一つの理由があった。筆者が20歳前半の頃に抱いたあれこれの疑問は、若い頃特有の一面的な独りよがりではないかと危惧していた面があった。あれから30余年を経て、50歳の身になって一通りの世間を泳いでみて、若い頃抱いた諸点が独りよがりのものでなく、非常に貴重な観点であったことを知った。このことを確信する為に相応の月日が必要であったことになる。
マルクス主義文献上の翻訳問題も有る。筆者はそれまで、幾冊かの文献を手にしていたが、殆ど途中で読み止めにしている。理解が追いつかなかったからである。それは、筆者の無能を示していると思っていたが、そうではないことに気づいた。マルクス主義文献上の翻訳の粗雑さが、筆者の読み進める意欲を殺いでしまったという風にも考えられる。故に、正確な翻訳がそれほど大事と云うことになろう。
筆者は現在、例えば「共産党宣言」(筆者は、「共産主義者の宣言」と題名するべきだと考えている)を英文を通じて現代和訳文に翻訳してネット上にサイトアップしている。その結果判明したことは、既成訳本では到底まともな理解にならないだろうということである。それはあたかも、「共産党宣言」の価値を損ねる為に、意図的に誤訳、不適切訳にしている感がある。にも拘らず、その種の訳本を読んで得心してきた数多くの日本左派運動家の理解能力とはそも何ものぞ、敬服すべきだろうか。
同じような意味合いで、筆者の学生時代、色々疑問を投げつける筆者に対し、「お前は深まっていない。これを読め。そしたら分かる」と頻りに勧められたのが宮顕の「日本革命の展望」であった。筆者は、どういう訳か読みもせずやり過ごした。50歳の頃に読んでみて、論理的にも論証的にも指針的にも全くナンセンスな駄文悪本でしかないことを感知した。こうなると問題は、かの時、筆者に勧めた連中の「深まり度」が気になる。一体、連中は、どこをどう読んで何が分かってスグレ本としていたのだろう。あいつらを見つけたら今聞いてみたい気がする。それとも、思考にも嗜好があって、連中の頭脳にはお似合いだったのだろうか。
こうい事例は一杯有る。筆者は今「れんだいこ史観」なるものを自負して世上のあれこれを解析している。が、先行する解説本に得心できるものは妙に少ない。日本左派運動の検証、学生運動の検証にしても然りである。見立てが随分違う。筆者の見立ての方がより正解だと思うのだが、反対見解の方が通説化している。
例えば、戦後直後の共産党を指導した徳球、伊藤律を廻る評価も然りである。筆者は、限界を踏まえつつも、共産党員らしい指導者で、同時代の他の誰よりも抜きん出た名指導者であったと思っている。だがしかし、宮顕、不破系日共の長年の悪宣伝が響いて、そのように好評価する者は少ない。逆に宮顕が逝去すると、歯の浮くような世界に冠たる革命家であった云々の世辞を並べている。見立てがなぜ、このように違うのだろうか。この差は何に起因するのだろうか。
田中角栄然り。筆者は、角栄は実は裏左派ではなかったか、その業績は前人未到の金字塔となっている、左派は角栄をこそ学べとまで評している。これに対し、日共宮顕、不破の角栄批判論調を見よ、立花隆の論調を見よ。「諸悪の根源」として、その業績も不当に悪評価せしめ、全ては金の力で牛耳り最後にお灸を据えられたと評している。見立てがなぜ、このように違うのだろうか。
中山みき論然り。筆者は、みきは実に釈尊やモーゼやイエスに並ぶあるいは超えた世界に抜きん出た宗教的思想家と評している。これに対し、世上の自称インテリの多くは、「宗教はアヘンである」との頓珍漢なテーゼの下で「淫祀邪教の開祖」として評しているように見える。見立てがなぜ、このように違うのだろうか。
昨今の著作権法然りである。筆者は、著作権法はひとたびは認めよう。だがしかし、昨今の強権著作権派の論は、その著作権法からさえもかなりオーバーランした勝手な著作権理論を説いており、判例を積み重ねる形で無理矢理通説化させているが、著作権法に照らしてみても違法性が強いと見立てている。
このように問う者が少なく、既に何度も指摘しているが、自称知識人は、強権著作権を認めない者は知的所有権の何たるかが分からない非文明的非先進的未開人だと指差されるのを恐れてか、分からないのに分かったような顔して相槌を打つ癖がある。
ところで、つい過日、東大大学院教授の渡辺裕・氏が、概要「著作権法の改悪化が進んでおり、それは年金、医療の破壊解体と軌を一にしている感がある」と述べている。これは極めて貴重な指摘である。時流に棹差すこういう見解は一昔前なら早大、京大辺りの教授が云いそうなのに、今や彼らの多くが体制内ボケしており、競って御用イデオローグと化している。歴史的に見て権力側に位置して且つ官僚養成の貯水池たる東大アカデミズムの中からこういう意見が出てきているところが面白い。やはり相対的にしっかりしているのは東大頭脳ということになるのだろうか。
「組める相手と組み、組めざる相手と組むな。毛沢東の炯眼指摘考」。これを提言18の2とする。
「提言18の1」でいろいろ書いてみたが、こういうことが云いたかったのではない。本稿は、日本左派運動のテイタラクに対する処方箋として次の指針を示すことにある。それは、「組める相手と組み、組めざる相手と組むな」の公理である。これこそ基本中の基本なのであるが、日本左派運動は、この初手から変調だから始末が悪い。
実態は、「組める相手と組まず、まず仲間内でいがみあい争う。それでいて組めざる相手と組んで平気」と云う痴態がある。これは一々指南できることではなく、互いが嗅覚で感じ取るものだろう。その嗅覚が天然的に劣っているのが日本左派運動の面子だと云えばお叱りを受けるだろうが、歴史を通史で見ればこういうことが云えるのだから仕方あるまい。
共同戦線論が良いとしても、問題は言葉に酔うことにあるのではない。毛沢東は、「中国社会各階級の分析」で次のように述べている。
「誰が我々の敵か、誰が我々の友か、この問題は、革命の一番重要な問題であるが、中国のこれまでの革命闘争は全ての成果が非常に少なかったが、その根本原因は、真の友と団結して真の敵を攻撃することができなかったことにある」。 |
これによれば、筆者式解釈に従えば、赤い心同士であればアバウトで良い、共闘を優先させるべし。白い心と対する時は、妥協してはならない。相互にこれを実践して関わっていくのが正しい運動形態であるということになる。ここのところが曖昧なままの日本左派運動は、「これまでの革命闘争は全ての成果が非常に少なかった」という結論に導かれるのも致しかたなかろう。世に完璧な理論を創出することは困難であろう。こうした際に肝要なことはひとえに、手探りでも味方と敵を峻別しつつ運動を担っていくことだろう。運動圏における「赤い心」と「白い心」の共同なぞありはしない、この観点の確立こそが最初に望まれているのではなかろうか。
毛沢東の至極当然なこの指摘が味わえない日本左派運動家が多過ぎる。彼らは、これも叉宮顕-不破系日共の悪宣伝に影響され、毛沢東評価を不当に貶めているので、毛沢東の名言さえも赤子を湯水ごと流してしまう。
筆者の毛沢東観はこうだ。建国革命前までの毛沢東の指導は概ね英明で、模範とするに足りる。なぜならカオス理論に基く共同戦線派であったからである。ところが建国後の最高権力者としての主席となってからの毛沢東は、ロシア・ルシェヴィキ型ロゴス理論に基く統一戦線派に転身した為に抗日運動期にあった瑞々しさを失って行き、権力を王朝化させ、その政策も大いに誤った。その背景事情にはそれなりのものがあったと思われるので別途分析をせねばならぬが、原理的な逸脱は見逃せない点ではなかろうか。筆者はそう観じている。従って、中国建国までの毛沢東路線は評価されるべきと考えている。
文化大革命を発動した毛主席の功罪は未だ定まっていない。功の面も負の面もある。鄧小平から今日の中共政権に至る国際金融資本の走資派の台頭を危ぶみ、これに闘おうとした戦略戦術はスケールが大きく、中国ならではの騒乱であり、目下は走資派見解による弾劾が主流ではあるが、歴史は変わる。筆者は、闘った意義の方が大きいと見立てる。
もとへ。毛沢東の「中国社会各階級の分析」での上述についであるが、これほどズバリと胸を打つ指摘があるだろうか。「党派運動の再生」論は、「中国の」とあるところを「日本の」と置き換える視角から論ぜられねばならない。ズバリ当てはまるのではなかろうか。毛沢東の指摘に従い「真の友、真の敵」を定めるとすれば、日本左派運動史上誰を友とし敵とすべきだろうか。これを各自が判断し共同戦線化して行くことが望まれている。
となると、今日の我が国の左翼を襲う貧困は、未だこの観点さえ確立されていないところに発生しているのではなかろうかと思われる。更に云えば、この簡潔平明な公理に対する運動側の無自覚、その対極での難しく難しくこねる理屈、糖衣錠理論の数々が却って、凡そ労働者大衆の左派運動の接近を妨げているのではなかろうか。
では、「赤い心」と「白い心」の識別をどこで為すのか。それが肝心だ。この識別に叡智がなければ、一方的なプロパガンダによるナチス(正確には、ネオシオニズム)ばりの嘘も百万弁繰り返せば真実になる式の暴力的な規定が罷り通ってしまう。
これを阻止する際の基準として、その為に歴史が有り、史実の経過というものがあると云っておきたい。つまり、常に「歩み」を記録し、この記述の観点を廻って喧喧諤諤せよということになる。これは、左派運動をマジメに考える者なら当然依拠すべき観点ではなかろうか。むしろ、この観点が弱すぎるから、史上左翼運動は数少ない建国革命の例を残すばかりで他は殆ど実を結ばなかったとも云えるのではなかろうか。
従って、「組織の歴史、歩み」を軽視したり隠蔽したり欺瞞的に詐術する者が現われたら、我々はこれを断じて許してはならない。「赤い心」と「白い心」の識別が難しい場合には、常にここへ立ち返れば良い。不正な者は常に極力史実を隠蔽したがる。公明正大な者はいつもこれを学びたがる。という観点に照らすと、今我々の目にどのような党派が史実の叙述に対して懸命賢明に取り組んでいるだろうか。案外とサブいものがあるのではなかろうか。ちなみに、この観点は何も左派分析の際のみならず事業全般に通用する公理である。筆者はそう考えている。以上を提言18としておく。
【提言19、マルクス主義的階級闘争論の閉塞から抜け出せ】
(はじめに)
「マルクス主義的階級闘争論から抜け出せ」を提言19とする。日本左派運動検証の大詰めは、マルクス主義的階級闘争論の見直しに向かわねばならない。一体、マルクス主義的階級闘争論とそれに基づく搾取論は真に科学的なのだろうか。それがプロレタリアートの解放理論であることは分かるが、我々は、これに依拠せずんば人民大衆の闘うイデオロギー及び理論を創出できないのだろうか。これを思案して見なければならない。これについてコメントしておく。
「マルクス主義的階級論から抜け出せ」。これを提言19の1とする。
思うに、マルクス主義的階級論そのものが案外と臭い理論なのではなかろうか。マルクスは、あらゆる指標の中で生産力と生産関係の絡みに於ける支配関係に着目して人類史を原始共産制、古代王権制、封建制、資本制に区分した。資本制社会に於いて資本家ブルジョアジーと労働者プロレタリアートの二大階級に単純化され、来るべき社会は労働者プロレタリアートが支配者となる社会主義、その極北としての共産主義社会を予見した。
非常に分かり易い図式であるが、社会闘争上、さほど有益な理論とは思えない。筆者が思うに、問われているのは支配と被支配の仕組みであり、労働者プロレタリアートが支配者となるべき階級的運命にあると云ったからといって事態を解決する訳ではない。社会主義、共産主義社会に於ける支配と被支配の仕組みの内実こそが問われている訳で、直前のブルジョア民主主義より合理的なプロレタリア民主主義の仕組みこそ開陳せねばならない。ところが、実際に理論化されているのはプロレタリア民主主義と云う空文句だけであり、しかも過渡期としてプロレタリア独裁論が唱えられており、その内実たるや頗(すこぶ)る暴力的なものでしかない。
筆者は、資本主義よりもより合理的な社会主義、共産主義の社会システムを展望しようとしているが、その際にはマルクス主義的階級論が何の役にも立たないことを知らされている。考えてみれば、資本家ブルジョアジーなり労働者プロレタリアートなりの概念はあくまで哲学的なものでしかなく、現前する個々の人物を捉まえて階級規定するのは困難である。絵に描いたような資本家ブルジョアジーなり労働者プロレタリアートが居れば適合するが、内実はかなりボーダレスなものでしかない。
資本家の例で云えば、上から財閥系の資本家、上場企業の資本家、中小企業の資本家、零細企業の資本家、自営業者の下までに分類できるが、マルクス主義的階級論に於ける資本家とは、そのうちどの辺りまでを指すのか曖昧模糊である。しかも、出資者、株主、企業トップの経営者の位置づけも定かでない。創業者社長も居れば雇われ社長、会長、取締役も居り、どこまでを資本家として括るのか定かではない。労働者の例で云えば、上から公務員、上場企業の労働者、中小企業の労働者、零細企業の労働者、自営業者の労働者、季節雇用臨時労働者、失業者、労働予備軍に分類できるが、それぞれ役職、給与、待遇に違いがあり、どこまでを労働者として括るのか定かではない。
筆者が思うに、マルクス主義的階級論に於ける階級とは哲学上の概念に過ぎず、敢えて言えばセロファンを重ねて透けて見えてくる色合いのようなものであり、個々の人間を眺め透かして見ても見えてくるものではない。踏まえておくべきことは次のことである。ところが、それぞれが集団化するや否や階級色を強める。あたかもそれは、各人が色付きの薄いセロファンを身に纏っており、その薄色を集合化させれば濃い色になる例と思えばよい。これを仮に階級セロファン論と命名する。マルクス主義的階級論は、階級セロファン論以上の意味を持たない。この「階級=セロファン色理論」は目下筆者の独眼流であるが、マルクス主義における階級概念はこのような仕組みで理解される必要があるのではなかろうか。個々の人間にはまず階級が有って後に名前が有るのではなく、まず具体的な当人がいて煎じ詰めていけば階級色が見えてくるということである。つまり、「階級とは実態があるようで無い、無いようで有る」という、まことに不可思議な抽象概念なのである。このことをまずもって確認しておきたい。
これを実事に則して云えば、我々の社会生活上、個人と個人が出くわし関係する場合、互いの所属階級認識なぞは極力不要であるかも知れないということである。他に適当な言葉がないので仮に人間力とするが、そういう場合には単に個人間の人間力関係で事が処理される場合を百として極力それに近づくとみなして差し支えないと思われる。
むしろ肝要なことは、当該社会に於ける支配被支配構造の歴史的合理性を見極めることであろう。システムの合理性、人材登用の合理性、予算調達と執行の合理性に対する政治の信を問うことではなかろうか。我々が革命を目指すのは、資本制社会よりも優れた社会を創出する為であり、その逆ではなかろう。
こう問うと、左派運動史上、マルクス主義的階級論そのものが意味を持たない異筋な理論でしかないことに気付かされる。援用するとすれば、労働能力一つしか元手にしていない労働者階級こそが来るべきより合理的な社会造りの主人公になる資格を持つ階級であるということであろう。これ以上でも以下でもない規定でしかなく、むやみやたらに振り回すものではなかろう。誰か、これを共認せんか。
「企業活動を搾取(分配)と雇用と社会貢献の総合的見地から見直せ」。これを提言19の2とする。
マルクス主義的階級闘争論は、「頭で逆立ちしていヘーゲル式観念弁証法を足で立つ唯物弁証法というまともなものにした」と弁じているが、にも拘らずヘーゲル的弁証法の概念主義に拘った思弁的なもので、社会の実態分析には役立たないというかむしろ危険邪道ものではなかろうか。
歴史と云うものは世代間の積み重ねであり、社会構成上の階級、階層、身分につき互いに対立、抗争しつつも社会の生産力ないしは成熟度に応じたある種の合理的な拮抗で調和しているとみなされるべきではなかろうか。資本制的搾取は、それを得手とする特殊な勢力が特殊なイデオロギーに基き扶植した特殊な生産及び分配手法であり、人類史の必然的行程としての社会法則ではなく人為的なものなのではなかろうか。筆者は、こう考えるべきだと思うようになった。こう考えることにより、誰と何を争うのか闘うのかがはっきりするようになったと思っている。
彼らの魔手が伸びないところでは概ね君主制であろうが封建制であろうが共和制であろうが民主制であろうが、近代科学及びそれに基く生産は、今よりはましなそれなりの分配システムを組み込んだ秩序を形成している、いたはずで、資本主義制はその伝統を過度に捻じ曲げて万事を貨幣基準化させているとみなすべきではなかろうか。
近代科学に基く生産力の発展は、分け前として人民大衆に福利を享受させるべきところ、資本主義制によって資本の増殖に次ぐ増殖へと回転し、生産力の余剰は上層部の奢侈に変形的に費消され、下層階級が相変わらずの貧困にひしめく制度に意図的に落とし込められており、社会的登用制さえもがかっての時代より合理的でなくなっているのではなかろうか。生産力から見て食えなくはないのに食えない事態が発生しているのはオカシイのではなかろうか。資源が豊かにして算出されているのに奴隷労働を常態化させられているのはオカシイのではなかろうか。ここに社会的不満が発生し、その解決能力に応じて改良改革なり革命なり回天が必要とされているのではなかろうか。
資本主義的近代産業制は資本家と労働者の二大階級を生み、その間に様々な階層を作っているが、搾取論のみで説明するのは矮小ではなかろうか。階層差は社会の発展と共に必然的に生み出されるが、これを資本主義制的に整序するのか近代産業制的に整序するのかが問われており、両者は別物なのではなかろうか。マルクス主義的資本主義論は、これを歴史法則とさせたことにより却って目を曇らせたのではなかろうか。近代産業制を資本主義制にせしめているものを疑惑せねばならないのではなかろうか。
我々が考察すべきは、資本主義的近代産業制ではない社会主義的近代産業制の在り方であり、マルクス的な搾取論に偏ることなく労働論、雇用論、機能論、社会的貢献論その他の見地からの総合的把握が必要なのではなかろうか。要求されるのはその社会の発達の程度に応じた合理的在り方なのではなかろうか。
マルクス主義以来の左派運動が金科玉条する資本家=悪、労働者=善とする扁平な理論ではこの問題が解けず、太刀打ちできないのではなかろうか。近代産業制の果実からもたらされる労働論、雇用論、機能論、社会的貢献論その他の論を創造することにより、今よりはずっとましな労働運動、政治運動、ひいては社会体制が生み出されるのではなかろうか。体制内化させず常に目線を高くする左派運動が望まれているのではなかろうか。
思うに、労働者階級及び個々の労働者は、俗流マルクス主義の諸理論によって擁護されていると同時に却ってスポイルされている面がありやしないか。労働者の真っ当な労働意欲、自己啓発、能力練磨、生産管理能力と責任を育てることに背を向け過ぎていやしないだろうか。そういう風に仕向けられているのであろうが。その裏返しで、経営者ないしは事業体に対して不当に搾取者視、階級敵視し過ぎていやしないだろうか。
考えてみれば、党派運動も一種の事業であり、党員及び指導者はその事業の主体者である。その意味では党派運動を能く為す者の感覚ないし精神はむしろ経営者ないしは事業者に近い。逆に云えば、経営者ないしは事業者は或る意味で党派運動を為している感があり、意識的には革命家であるかも知れない。つまり、日本左派運動が敵視している経営者、事業者の方がよほど革命的な面があるという背理がある。筆者のみならず多くの者が生活体験からそういうことを学んでいるのではなかろうか。
そういうことも含め、日本左派運動が依拠したマルクス主義理論が何の役にも立たないところから無視され始め、今や化石理論になりつつあるように思われる。筆者は、さりながらマルクス主義の良質面を救い上げ、これと他の諸理論との総合による現代的人民大衆解放理論を創造せねばならないと考えている。しこうして学問が学問に値するものでなければならないと考えている。学んで却って馬鹿になるような学問が主流化しつつあるが、それらとは叉別系の学問を起こす必要があるのではなかろうか。一歩後退し二歩前進していくべきできなかろうか。指針はこうである。「日本左派運動の懐メロ化に抗し、歴史的に依拠してきた基盤の根底的全面的再検討に着手せよ」。
「ネオシオニズム搾取論を構築し、マルクス主義的階級闘争論とすり合わせよ」。これを提言19の3とする。
筆者の階級闘争史観一歩遠景論に対して疑問の向きもあろう。そこで再説明しておく。筆者は、階級闘争論を満展開するつもりはない。歴史を長い通史で見れば、マルクス主義的な階級闘争論で整理できるかとは思う。しかし、歴史その時の実態は、為政者と被支配者の支配の在り方を廻る調整と闘争であり、ことさら階級闘争論を持ち出す必要はないと考える。歴史は日々の調整と闘争による漸次的変化の連続であり、但し、時代の大きな変わり目に於いて為政者が無能力を呈した場合に回天運動なり革命が必要で、歴史は実際にそのように変化してきたと了解している。
資本家論についてもマルクス的理解に疑問を感じている。前述したように実際には資本家といっても大手企業と中小零細企業とでは性格が異なっている。経営者を資本家で括るのは飛躍しすぎで、絵に描いたようなワルというのは実際には居ないのではなかろうか。いずれにせよ、度の外れた収奪をしている場合には企業は長続きしておらず、それぞれ社の理念を掲げ、それなりの社会的貢献をしていることで存続しているのが企業の栄枯盛衰の実態なのではなかろうか。伝統的な日本式経営に従う場合、所得格差もそれほど酷いものではない。
収奪丸出しの資本家と云うのは、考えてみると、戦前の財閥然り、昨今のハゲタカ経営然りで皆ネオシオニズム系の息がかかっていることが判明する。彼らは世界を植民地化させ、抵抗者を根こそぎ殺戮し、在地の文化文明を滅ぼしてきた。彼らは在地の政府と結託し、権力の甘い蜜を吸い、我さえ良ければ式の根こそぎ収奪を体質としている。彼らの処世観には、支配者となって富むか奴隷となって悲惨な生活を甘受させられるのか、やるかやられるか、やられたら徹底的にやり返すの二元法しかない。その意味での原理主義、過激主義でしかない。その昔、イエスが激しく弾劾したのも正論であろう。
彼らは昔から金融と軍事利権に絡んでおり、株と戦争でボロ儲けしている。今日では石油、原子力その他資源独占もお手のものである。筆者的には、近代産業の勃興、それによる生産力増強、それによる多くの産業資本家の誕生、これらによる産業資本主義を出現させたが、このこと自体が悪いのではなく、ネオシオニズム的資本主義、資本家への捻じ曲げが悪いということになる。両者は質が違うのではないではなかろうか。これを区別せずに論ずると真相が見えてこないのではと思う。その点、このように分析しないマルキシズムと云うのは理論が粗い、そう思う。
現代日本で人民大衆がますます食えなくなっているのは、為政者がハト派からタカ派へ転換して以来始まったとみなしている。ハト派時代の日本は、経済成長を図りつつ他方で世にも珍しい国民全般の生活保全に留意し社会保障、年金、医療を整備していた。国際的にも協調と経済援助を行っていた。今日から振り返れば善政を敷いていたと云えるのではなかろうか。不思議なことに、筆者も含めてその頃の左翼は政府批判ばかりしていた。しかし、よく考えると、1970年の頃はベトナム反戦運動が有り、筆者の抗議も専らこの方面から来る正義運動、それに関連するプロテストだったと思い直している。
1970年代にハト派の絶頂期を演出した角栄-大平同盟がキッシンジャー戦略により鉄槌をくらわされ、1980年代より今日に至る中曽根-小泉同盟によるタカ派政治が始まることにより、善政時代の基盤が構造改革と云う名に於いて全て壊され始めた。こういう時には我々は怒らなければならないのに、逼塞させられている。皮肉なものあろう。
ソ連解体、中国の資本主義化という現実がある。これをどう考えるか。筆者は、ソ連の場合は措くとして中国の場合には文革で敗北し、ネオシオニズム系走資派の鄧小平が実権を握って以来、中国は元の木阿弥に戻ったと見立てている。文革は反省せねばならない点が多々有るが、鄧小平派の観点から見直す理由は何もないと考えている。今日、日本に流布されているのは走資派の観点からのものばかりあるが勝てば官軍式のプロパガンダに過ぎないとみなしている。中国は旧文革派が新たな有益理論を獲得すればいずれ内乱必至となるように思われる。
「マルクス主義的階級出自論の曲解から抜け出せ」。これを提言19の4とする。
マルクス主義的階級闘争論は階級出自論を派生させている。ここからもからも抜け出さなければならない。これを確認しておく。階級出自論を導入することの実践的な意味は次のことを意味する。社会的事象を判断する場合に、人は階級的に置かれた立場によって諸判断が異なってくるのであり、そのように異なった結論が出てくるには相応の理由があるということである。もし、この階級概念を用いなければ、マルクス以前のヒューマニズムの世界、つまり人間一般ないしは社会一般の共通価値観を求めたり、基準を求めることに翻弄され、その結果不毛な果実しか生み出さない。マルクス主義からすれば徒労の企てに過ぎないということになる。マルクス主義の理論的功績はここにあると思われる。
ところが、マルクス主義的階級論はいつしか階級出自によって人物を評定するという観点と作法を産み出した。これにより、マルキスト間にエリート階層出自を隠そうとする奇態を生むことになった。マルクス主義指導者が自らの出自を貧農、労働者階級であったことを得々と語り、指導者的適性を誇示するという風潮を生み出すことになった。逆の場合には貶められることになった。
筆者が思うに、階級出自論は使い方を誤れば危険粗暴な無益有害理論且つナンセンスなものでしかない。階級出自論の正しい使い方は、出自そのものに求められるのではない。社会的底辺層出自であることが社会的上層出自である者よりも闘争意欲を高め、動揺することなく粘り強いものとなる条件に恵まれていること、私有財産を持たないことで捉われのない眼を持ち社会的に公正に判断し得る契機を有していることを示しているに過ぎない。マルクス主義者として自己形成するに恵まれた立場にあることを示唆しているだけで、貧農であったり労農階級出自であれば真性のマルクス主義者になれるなどというような単純にものではない。階級出自はマルクス主義者としてのの入り口の優位性であって、それ以降において努力しない者には何の意味もない利点に過ぎない。
俗流階級出自論を揶揄した次のような名漫才がある。どこで誰から仕入れたのか分からなくなったが、以下記す。 他にも、「マルクスはマルクス神社の神主」という名文句もある。
社会主義者のための天国に、一人の男性が死んでやってきた。 | |
門番 | 「お前の父親の職業は?」 |
男 | 「弁護士で、商売のほうも少し…」 |
門番 | 「フン、資本家の仲間だな。おふくろは?」 |
男 | 「商人の娘です」 |
門番 | 「これもブルジョアか。で、お前の職業は?」 |
男 | 「著述業です」 |
門番 | 「労働者じゃないな。女房はどうなんだ?」 |
男 | 「貴族の娘です」 |
門番 | 「ああ、だめだだめだ!とても労働者の天国には入れられん!帰れ! …ああ、いちおう名前だけ聞いておこう」 |
男 | 「……カール・マルクス」 |
2006.8.24日付日経新聞の「私の履歴書 小堀宗慶№23」で、「俗流マルクス主義の階級出自論」を証する一文に出くわした。これを書き付けておく。小堀宗慶氏は次のように述べている。これをどう窺うべきか。論ずるまでもなかろう。
「二度の重症事故による肉体的苦痛もさることながら、より深く傷ついたのは、いわゆる『ツルシアゲ(吊し上げ)』による精神的苦痛だった。『ツルシアゲ』とは、階級闘争家と称する者達が、ブルジョワと規定する有産階級の人たちに大衆(彼らの云う人民)の面前で自己批判を強要する一種のリンチである。ある朝礼の時だった。誰かが私の家庭の事をソ連軍幹部にでも話したのか、突然、『お前の家はブルジョワで交際範囲は貴族や上流階級に限られているそうじゃないか。その非を全員の前で告白し、自己批判しろ』。無理矢理朝礼の壇上に立たされ、取り囲んだ何々委員とかいった連中から怒号交じりに詰め寄られた。しかし、どう考えても私が自己批判すべきことが思い当たらない。小堀家も両親も私の誇りとするところであり、これまで何ら恥ずべき行為もしていない。黙り込んでいると例の委員が『とにかく誤れ』と迫る。彼らは、日本軍では上等兵や下士官だったものが多く、ソ連軍からピックアップされイデオロギー教育を受けて洗脳されたあと、委員の肩書きをも狙って収容所に送り込まれてきていた。自己批判が足りないと云われ続けてきた私は結局、1週間ほど立て続けに壇上に立たされた。その間、仕事の量は増やされ、食料は減らされた。しまいには、まともに対応するのがバカらしくなり、『悪かった、申し訳なかった、不注意だった云々』などと意味を成さない詫びの言葉を羅列してやっと解放された。情けなさと口惜しさで、死んだ方が楽ではないかと本気で考えた。しかし、あのような卑怯なツルシアゲに負けて死ぬのはご免だった」。 |
「マルクス主義をよく学び出藍しなければならない」。これを提言19の5とする。
筆者は、マルクス主義をよく学び出藍しなければならないと考えている。但し、学ぼうにも既成のデタラメ訳本では理解できないと思う。翻訳にはそれほど狡知な手が入っていると見立てている。そういう意味でぜめて筆者訳の「共産主義者宣言」が読まれることを願っている。市井本は肝心なところの訳が曲げられており、分かりにくくされている。筆者はそれを見つけて正訳にしている。注目されていないが、目下のところ最適訳と自負している。
世にマルクス、レーニン全集が出されているが、これを完読した者は少なかろう。それで良いと思う。その前に英知を寄せて極力適訳に直すべきだと思う。それが市井提供されて初めて読破に向かえば良い。これができぬ間は、正訳された必須本を手にいれ、何度も味わえば良かろう。その真意を探るために対話するのが良かろう。そうするうちに次第に正訳の輪を広げて行った方が賢明だろう。
ところで、マルクス、レーニン全集は英文、独文ではネット上に開示されているのに、日本文では非公開にされている。詳しくは知らないが、版権が抑えられているようである。一体誰がかようなことをしでかすのであろうか。事情に明るい方のご教示をお願いしたい。筆者は、マルクス主義からの出藍の為に、その前提としてマルクス、レーニン全集に分け入りたいと願っている。トロツキー、スターリン、毛沢東、金日成等々然りである。誰か共認せんか。以上を提言19としておく。
【提言20、学生運動の可能性と限界考】
(はじめに)
「学生運動の可能性と限界考」を提言20とする。学生運動の今日の低迷水準を見るにつけ、還暦前に至ろうとしている筆者の分別で次のようなことを云わしてもらおう。
「学生運動の分限と功罪考」。これを提言20の1とする。
一般に、青年とは、ひた向きな純粋さの面があるものの、残念ながら、その時流の価値判断まで為し得る分別智がない、というか欠けており、純粋さが時流に翻弄され易い面があるのではなかろうか。つまり、青年の若さは功罪相半ばしているように思われる。青年が時流に流される場合、その時流が正の流れである場合には青年の能力は如何なく発揮される。それは良いとして、逆の場合には、こと志と違って邪悪な勢力に利用されたり、壮大な消耗に終わる、あるいは徒に衝動的なままに立ち振る舞うことで社会に害を与える。
学生運動もこの例に漏れないのではなかろうか。学生運動にも正の面と負の面がないまぜになっており、いわば本能的に正の面を追及して行くべきところ、時に負の面に入り込み、あるいは現在の如く身動き取れない事態に陥ったりする。これを如何せんか。良き指導者が必要とされる所以がここにある。但し、この場合の良き指導者とは、居たとしても千年に一人、万年に一人であり、歴史の流れから見出す以外にない。これが、筆者が学生運動史検証の結果、会得した見立てである。
最後に提言しておく。青年学生運動は三種類の性格のものから構成されているように思われる。一つは、社会に対するプロテストとしての抗議運動。二つ目は、改良的改革運動。三つ目は体制変革運動。この三系は全体的には関連しながら当面は質の違うものであり、このボタンの取り違えがないよう運動を推進すべきではなかろうか。筆者が見るところ、抗議運動を無理矢理に体制変革運動化せしめたり、体制変革運動化せしめるものを改良的改革運動にしてみたりのチグハグが目立つ。これまた英明な指導者が待たれる所以である。
「層としての学生運動論考」。これを提言20の2とする。
学生運動の位置づけを廻って、1940年代後半から50年代初頭にかけて、全学連を創出した武井系全学連中央と共産党中央が興味深い理論闘争をしているので簡単に確認しておく。筆者が注目するのは、日本左派運動には後々有益な理論闘争はめっきり少ない中で理論闘争足り得ているからである。
学生運動は戦前来、「学生=中間層規定論」に基き、共産党員養成あるいは共産党運動の貯水池的に位置づけられており、次のように規定されていた。
概要「革命はプロレタリアートの事業であり、学生はそのままでは階級的浮動性ブル分子に過ぎない。プロレタリア革命を指導する党の闘争に参画することにより鍛え直され、これによって初めて階級闘争に寄与する有用な働き手になれる。そのままでは使いものにならない。学生は、オルガナイザーを養成するプール組織であり、活動家を他の戦線に押し出すポンプの役割を果たせば良い。全学連は政治闘争機関に成り得ない。党及び党が指導する共産青年同盟こそが学生闘争の指導機関である」。 |
1948.9月、全学連を創出し、委員長に選出された武井昭夫 (東京大学)氏は、11月、「転換期に立つ学生運動-その新しき発展のために」を「学生評論」に発表した。後々「層としての学生運動論」として云われ、その後の全学連運動の教本となる。その意義は、「学生は層として労働者階級の同盟軍となって闘う部隊である」と規定することにより、「学生=中間層規定論」を否定したところにある。次のように述べている。
「『虚脱のうちに低迷する層』として評価され、叉自らもその評価に甘んじていたかの如き学生層が、自らを人民民主主義革命の有力な一翼として規定しつつ突然荒々しく革命的な闘いののろしをあげたのだ。『有志の学生運動』の域を突き抜け、『全学生層の反逆』として今や一切の支配階級に対立しつつ彼らの前に立ち現われたのである」。 |
全学連はこの理論を獲得することにより以降、党中央の言いなりではない独自の学生運動を創出して行くことになった。これが、武井委員長の理論的功績である。この「層としての学生運動論」がその後、更に発展進化して行くことになる。学生運動の独自勢力性を確認した全学連は、国民戦線の一翼として位置付け、労働者階級との連携を重視し始める。やがて「労働者階級との同盟軍規定」を獲得する。遂には、全学連党意識を醸成し始め、革命闘争の先駆的前衛を自認するようになる。この後様々に定向進化する。
筆者は、学生運動が武井式「層としての学生運動論」を創出した意義は大きいと思っている。これにより、自由自主自律的運動能力を獲得したということである。このことの功績は存外大きいように思われる。同時に、全学連運動が、「層としての学生運動」をうまく調御することができず、党派運動に埋没吸収されて行ったことを惜しみたい。学生運動が党派運動化するのは結構である。だがしかし、党派と学生運動とは質が違う。両者の調整能力が問われていたところ、日共は日共式に新左翼は新左翼式に下請け機関化せしめたところに落とし穴が待ち受けていたのではなかろうかと思っている。
「層としての学生運動の可能性と限界を客観化させ全学連を再興させよ」。これを提言20の3とする。
今日時点に於いて、学生運動をどう位置づけて再興すべきだろうか愚考してみたい。1950年代、60年代、70年代の学生運動の担い手からすれば、現在は信じられないほど学生運動そのものが衰微した時代である。もはや「層としての学生運動」の出番は消滅したように思える。しかし諦めるのは早い。手立てと処方はあると考える。
それはまず、筆者がこたび出版した本書「検証 学生運動」を能く学び、戦前戦後来の良質なところを、どこからでも良い再興することから始めるが良い。下手にドグマを持ち込まず、筆者が本書で説いた共同戦線運動方式で着手するが良い。組織論は、これまた筆者が説いた執行部とそれぞれの機関と活動家がチェック&バランスする方式で相対し、運動論も同じくすれば良い。
全学連各派はひとまず大同団結し再統合すれば良い。加わらぬ党派は相手にせぬが良い。今度は徒に暴力を持ち込まず、暴力的に解決せず、いわゆる党内右派から左派までを包含し、万事を来るべき社会の手本となるような民主的運営の下で議事進行させ、各派の議案を多数決主義で堂々と争えば良い。つまり大人の組織論、運動論を持つ全学連を創出すれば良い。方法が分からなければ、戦後自民党の保守本流を形成していたハト派の政治手法を学び見習えば良い。もっとはっきり云えば角栄政治を学べば良い。
結論的に云えば、ルネサンスの気風で颯爽と全学連運動に邁進すれば良い。問題は、そうはさせじとする権力の弾圧とこれに呼応する左右両派の策動に対し、どう対峙し勝利的に激動の日々を創出して行くかにかかっている。言うは易しだが、行えば楽しとすれば良い。以上を提言20としておく。
【提言21、第一次ブント称揚論】
(はじめに)
「第一次ブント称揚論」を提言21とする。筆者は、第一次ブントを称揚する。且つ、筆者のブント論は、あまたのブント論と明らかに違う。これを確認しておく。あまたのブント論がブントの手になり、筆者はブントと関わりを持たないことを考慮すると、一般的には筆者のブント論は当てずっぽうで、ブントのブント論の補足的地位に甘んじるべきであろう。ところが、筆者はそうは考えない。むしろ、ブントのブント論の方がが当のブントを知らなさ過ぎると考えている。何故こういうことが起きるのか。考えられることは、ブントのブント論は、まさにブント当事者であったが故にブントの森の中に分け入りすぎて、数多くの木を知ってはみたが却って森全体を見失ったのではなかろうか。つまり、歴史過程で捉える視点を失っている、そう考えている。
もっとも、ブントでない者がブント論を書けばより正確かというと、つまり門外漢があれこれの対象を論評すればより正確かというと、そういう訳ではない。やはり当事者証言こそ一番信に足りるとすべきであろう。まずはそこから始発させねばならない。そうではあるのだが、問題は、現場から始発したとしても、その先が宏大に発展する場合には何らかの観点、史観が必要になるということである。この観点、史観に誤りがあった場合あるいは本筋から逸れた場合、現場証言の客観化に失敗し、信に足らなくなるということである。そう思う故に、自前の観点、史観保持者である筆者による「れんだいこの第一次ブント論」を書き記そうと思う。そして、世評を賜りたいと思う。詳論はサイト「戦後学生運動考」所収の「第1次ブント論」に記す。
「第一次ブントを称揚せよ」。これを提言21の1とする。
第一次ブントが何故考察されねばならないのか。それは、日本左派運動史上燦然と輝く「60年安保闘争」を成功裡に領導した実績と、その際にカオス的開放系闘争理論を創出し、これに基く運動を牽引したという事例が認められるからである。この二事だけで次のように総括されるに値する。
史実は、60年安保闘争が「左派運動が攻勢的に政界を揺るがし、時の岸政権を打倒した勝利的稀有例」であるにも拘わらず、これを敗北とみなして四分五裂していくことになる。60年安保闘争を担った面々がブントの解体に内から外から呼応し共同していった。そんな馬鹿なと思うがこれが史実である。以下、筆者の第一次ブント絶賛論を開陳する。
筆者が第一次ブントを絶賛するのは、彼らの言辞や理論によってではない。彼らの実践と感性に於いてである。追々述べるが、はじめにこのことを指摘しておく。彼らの言辞や理論が学ぶ価(あたい)のあるものとすれば当時の情況に於いてのものであり、今日では空理空論が目立ち過ぎており殆ど使えない。このことは左派運動党派としては重大な失格なのであるが、第一次ブントにはその失格を補って余りある感性の素晴らしさがあった。
第一次ブントの感性が如何に素晴らしかったか。それはまず、中国の文革に先だつ十年前から日本左派運動の紅衛兵足りえたことにある。彼らは、毛沢東に云われるまでもなく自前の造反有理運動を創出していった。第一次ブント創出時の状況として、日共が六全協でそれまでの徳球ー伊藤律系執行部からスパイ派の野坂ー宮顕系へという最悪の執行部に転換し、次第に本末転倒の統制主義運動に転化しつつあった。社会党は政権奪取による責任与党政治を目指すでもなく徒に万年野党に甘んじる口先批判政党に堕しつつあった。
第一次ブントは、これらの状況を眼前にして既成左派運動を批判し抜き、自前の党派を生み出す挙に打って出る。宮顕式統制主義批判から始発した故に当然のことながら「自由、自主、自律」型規約に基づくルネサンス風競り上げ運動を展開していった。これは日本左派運動史上初の個々の活動家の自律精神を核とする運動体であった。何よりこのことが素晴らしかった。そして、この型の運動が成功し、急速に支持者を増やしていった。我々は、もっとこのことに注目する必要があるのではなかろうか。
第一次ブントの感性の素晴らしさにはもう一つの理由がある。それは、闘争の矛先を国家権力中枢機関の集中する霞ヶ関ー国会空間に照準を合わせデモ動員を煽り数次にわたって震撼させたことにある。最終的に当時の岸政権打倒を勝ち取った。政権打倒は、今日まで前例のない日本左派運動史上未曾有の成功事例となっている。十年後の70年安保闘争の単なる動員デモに比べて一目判然とする違いがここに認められる。
しかし、第一次ブントは、60年安保闘争後の局面に於いて、その成果を確認し損なった。筆者の第一次ブント論は、確認し損なった成果を今からやり直そうとすることにある。如何に成果を確認するべきであったのか。もったいぶるが、これを一言で述べることは難しいので、以下、順を追って論証する。
「第一次ブント創出までの流れ俯瞰」 。これを提言21の2とする。
第一次ブントの運動的成果を歴史に於いて正しく確認するためには、戦後秩序論から説き起こさねばならない。戦後秩序論とは戦後憲法論に集約されるが、これをどう観るか。筆者は、戦後左派運動はここで早くも躓いたと看做している。
戦後左派運動は、戦前の治安維持法体制から解放された勢いで、それまでの禁書であったマルクス主義の諸文献を紐解き、マルクス、エンゲルス、レーニンらの急進主義的な資本主義体制打倒論を初学者的に生硬に受け止め、文言が指針する通りの運動へと傾斜していった。あるいは戦後の冷戦構造に於ける一方の雄となったソ連邦体制を指導するスターリニズムを信奉し、その指導に従うことが正しき左派運動と自己規定していった。しかし、情報開示された今日になって思うのに、マルクス、エンゲルス、レーニン理論にもその革命論に於いてある種の隔たりの幅があるということ、スターリニズムの場合には本来のマルクス主義の内部からの自己否定であり、模範とするには足らないどころか否定的に出藍せねばならないものであったことが自明である。
ひとたびこの観点、史観を受け入れれば対蹠的に、戦後日本秩序は世界に稀なるプレ社会主義秩序になっていたことを見抜かねばならなかった。然るに、当時の戦後左派運動は、その戦後秩序をも旧体制権力と見立て、その解体を声高に叫べば叫ぶほど左派的であるかの如くな錯覚に陥った。この教条主義が最初の間違いであった。その教条主義に基づく戦後秩序体制打倒運動がそもナンセンスなものであったが、戦後左派運動はその不毛な道を競り合いしていった。故に、闘えば闘うほど先細るしかない現実遊離となった。確かに、戦後日本は米英を主とする連合軍に進駐されており、GHQ権力が君臨しており、そのGHQ権力は米帝国主義のお先棒を担がされていた。左派にとって、米帝国主義との闘いが世界的第一級課題であったからして、米帝国主義の進駐する戦後日本体制は否定されるべきものと理論化していったことには相当の理由があるにはあった。
しかし、戦後秩序をプレ社会主義秩序体制と看做せば事情が異なってくる。戦後秩序をそのようなものとして看做したかどうかはともかくも、これを戦前秩序との比較により弁証法的に捉えたのは人民大衆であった。彼らは、戦後秩序を感性に於いてプレ社会主義秩序の如くに感じ取り、逸早くその享受と謳歌に向った。それは大衆感覚の賢明さを証している。戦後左派運動は無能にも、この感性を取り入れることのないままペシミズム的に理論ぶることに終始した。
その後、戦後日本は次第に戦後世界を規定した冷戦構造に巻き込まれていった。日本を反共の砦化せんとし始め、米帝国主義は、朝鮮動乱前後を契機に日本を後方兵站基地化していった。やがて、サンフランシスコ講和条約の日を迎えるが、同時に日米安保条約が締結され、講和独立後にも米軍基地が要所要所に居座ることになった。これにより、それまでの連合軍占領から米軍単独支配への転換が為され、米帝国主義による単独対日支配体制が完遂した。
しかしながら、れんだいこ史観によれば、米軍の占領継続は外在的なもので、内在的には戦後憲法秩序が機能しており、否戦後憲法秩序はますます受容されていきつつあった。以来、戦後秩序は、憲法秩序と日米安保秩序の二大原理により操舵されていくことになった。これが最大矛盾となり、戦後日本のその後の歩みを規定していくことになる。
この間、戦後日本の政治権力を握ったのは自由民主党であった。戦後日本左派運動は、2.1ゼネストを始め何度かの政権取り機会を得ていたがそのつどGHQ権力に潰された。そういうこともあって、最終的に磐石の態勢を構築して責任政党となったのは保守系大連合により生まれた自民党であった。これに戦前来の官僚及び財界が列なり、強固な保守系与党権力が創出された。この政府自民党が、戦後復興からその後の経済成長へ向けての切り盛りに成功していくことになる。
戦後左派運動は、この政府自民党の評価に於いても致命的な過ちを犯す。政府自民党は実際のところ、これを弁証法的に観れば、戦後日本の最大矛盾即ち憲法秩序派と日米安保秩序派を同居混交させた上に成立していた。自民党は、戦後憲法秩序派のハト派と日米安保派のタカ派との合従連衡によるやじろべえ式政治を本質としていた。それは見事なまでに日本的カオス式和合政治の具現であった。
戦後左派運動は、政府自民党内のこうした抗争軸を観ずに、これを保守反動権力として一色で規定し、対蹠的に手前達を革新ないしは革命派と映し出す漫画的構図を図式化させた。それは余りにも手前勝手なご好都合主義理論以外の何物でもなかった。この悪作法は今日まで新旧左翼問わず続いているように見える。
しかしながら、マルクス主義手引き教本たる「共産主義者の宣言」には、歴史的情勢の恣意的独善的読み取りに基く公式主義を強く戒めて、次の言葉で結んでいる。
「共産主義者は、労働階級が直面している利害を擁護せんとして目下緊急の目的を達成するために闘う。しかし当面の運動の中にあっても、運動の未来を気にかけている。(中略)手短に言うと、共産主義者はどこでも、現存する社会的、政治的秩序に対するあらゆる革命的運動を支持する。こういう運動のすべてで、共産主義者は所有問題を、その時それがどんな発展度合にあろうとも、それぞれの運動の主要問題として、前面に立てる。最後に、共産主義者はどこでも、あらゆる国の民主主義諸政党との同盟と合意に向けて骨折り労を為す。(中略) 共産主義者は、自分の見解や目的をかくすことを恥とする。共産主義者は、自分たちの目的が、現存する社会的諸条件を暴力的に転覆することによってのみ達成できることを、公然と宣言する。支配階級をして共産主義者革命のまえに戦慄せしめよ! プロレタリアは鉄鎖のほかに失うものも何もない。プロレタリアには、勝ち取るべき世界がある。万国の労働者よ、団結せよ!」。 |
ここに認められるのは、共産主義者の民主主義諸政党との共闘であり共同戦線式運動であろう。マルクス主義が「共産主義者の宣言」から始まったことを思えば、戦後左派運動の独善性は初手に続いて悪手を打ち続けていることになる。
もとへ。戦後の左派運動は主として日共によって担われた。数の面では常に社会党がリードしたが、それは日共の貯水池的な位置付けもあるからして、深部で担ったのは日共であったと捉えることはあながち間違いではなかろう。このことが次のように語られている。
「激しい弾圧、獄中にあっても主義を守り、節を曲げなかった共産党の神話化された権威」が支配し、「『党』といえば、それは日本共産党のことであったといっても過言ではなかった」。 |
戦後直後の党運動は、徳球―伊藤律系譜がこれを領導した。この時までの党運動は、世の中のあれこれ社会の不合理を考える多くの若者の心を捉え、学生時代に左傾化するのは自然なトレンドであった。
ところが、徳球―伊藤律指導にも限界があった。「1947.2.1ゼネスト時の対応の拙劣さ」を内向させ、1949年の9月革命に挫折させられ、「1950年初頭のスターリン批判による脳震盪」で党内分裂に誘い込まれた。「50年分裂による党内闘争のゴタゴタ」で嫌気が生まれ、「所感派の武装闘争の失敗」が党の権威を失墜させた。続く「六全協による宮顕宮廷革命」で宮顕が党中央に登場するや、その右派系的な本質を公然化させていった。以降の宮顕右派路線の策動開始で全く異質の党運動が展開されるようになった。
学生運動はこの経過の悲劇をもろに被った。その詳細は割愛するが、全学連創出以来の執行部を形成していた武井系主流派が翻弄される。「左」の観点から徳球―伊藤律運動を批判し続け、その際有り得てならない宮顕グループと結託したことにより、徳球―伊藤律系党中央を引き摺り下ろし後釜に坐った宮顕系党中央の右派系指導の際に、当時の全学連指導部の過半が懐柔されてしまう。ブントを生み出すことになる島グループはこの流れを拒否し、全学連主流派を形成する。
突如勃発したスターリン批判とフルシチョフ首相の平和共存政策への転換で党への疑惑の限度が越え、「ハンガリー事件」で事態の容易ならざることを知らされ、日本トロツキスト連盟が創出される。続く全学連主流派の「党中央委員全員の罷免決議」で党の権威が瓦解させられた。
「第一次ブントの裏功績」。これを提言21の3とする。
日本トロツキスト連盟が革共同となり、続いて第一次ブントが登場する。この時期は、折悪しくというべきか折り良くというべきか、政府自民党はネオシオニズム系タカ派の岸首相が政権を担当していた。岸派の史的意義は、それまでのハト派系吉田派との熾烈な抗争を通じて戦後初めて米奴ナイズ化されたタカ派が政権奪取したことにあった。これを鳩山派がお膳立てした。しかし、このことは、党内に吉田を後継した池田派と佐藤派という二大ハト派系派閥を抱えており、岸政権は彼らと暗闘裡で政権運営していたことを意味する。つまり、政治手法は強引であったにせよ、政権基盤はかなり危ういものであったことになる。
結成間もないブントは、目前に控えた60年安保闘争に組織を挙げて玉砕していった。結果的に第一次ブントは、その闘いを、たまさか岸政権時代に花開かせることになった。それは誠に歴史の不思議な廻りあわせであった。そして、60年安保闘争を殊のほか成功裏に領導したことにより、、政府自民党内のハト派対タカ派の抗争に於いて、タカ派総連合として登場していた岸政権を打倒せしめた。かくて、戦後初のタカ派政権はブントの闘いの前に万事休して、政権をハト派系池田派へ禅譲させた。
これにより、政府自民党は再び吉田派の後継者に牛耳られることになり、以来ハト派の治世が長期安定化し、1960年より池田ー佐藤ー田中まで15年余続くことになる。角栄後はタカハトが紆余曲折するが、ハト派は最終的に大平ー鈴木まで続く。その間都合20年余をハト派が主導していくことになった。岸に続く強力なるタカ派の登場は1980年代初頭の中曽根政権の誕生まで待たねばならず、その間雌伏させられることになった。
第一次ブントの闘いは、彼らが意図したか自覚していたかはともかくとして、政府与党自民党権力内のこうしたタカ派とハト派の暗闘に容喙し、タカ派を引き摺り下ろし、ハト派を後押しする政治的役割を果たしたことになる。これが第1次ブントの史上に燦然と輝く最大功績であった。れんだいこ史観によれば、第一次ブントの闘いの歴史的政治的意義はここにこそ認められる。これが云いたいがためにここまで順序を追って素描した。
興味深いことに、第一次ブントの当事者でこの事を自覚していた者は稀有なようである。第一次ブントの指導者・島ー生田ラインにもこの観点はなかったのではなかろうか。筆者には、観点のこの方面の喪失が60年安保闘争の意義を喪失せしめ、後の第一次ブント解体となる混迷に繋がったように思われる。もっとも、戦後秩序プレ社会主義論抜きにはそのようには総括できず、それを欠いていたブントが運動成果を確認できなかったのも致し方なかったのかも知れない。
ちなみに、タカ派支配からハト派支配へと転換させたのが第一次ブントなら、その逆にハト派支配からタカ派支配へと転換させたのがロッキード事件ではなかったか。ロッキード事件はそういう歴史的政治的地位を占める。通りで、その煽りが真反対から為されているにも拘わらずジャーナリズムの喧騒の程度も匹敵している。
問題は次のことにある。第一次ブントは奇しくも、日本の戦後政治に於ける真の抗争軸であるハト派対タカ派抗争に対し、タカ派掣肘に大きな役割を果たした。第一次ブントは奇しくも、タカ派の能力者・岸を打倒することにより戦後憲法秩序を擁護する役割を果たした。つまり、戦後のプレ社会主義秩序を擁護し、その解体屋を葬った。当人たちが口先で語ることなく、否全く意識せぬまま体制打倒運動を呼号していたとしても、客観的役割はかくの通りのものであり、筆者はその感性や良しとしている。
なんとならば、戦後憲法秩序は何を隠そう、社会主義圏のエセ社会主義と比較して比べ物にならない世界史上初のプレ社会主義秩序であり、それは護持されるに価のあるものであった。それを感性で護持した第一次ブント運動は世に云う天晴れなものではなかったか。筆者はかく評している。しかるに、第一次ブント運動評者は当事者まで含めて今日まで、この視点を欠いたまま極力思弁的に語り過ぎているように思われる。筆者は、この種のブント論は学ぶけれども受け入れない。というか難解過ぎて役に立たない。理解できない。
「第一次ブントの島-生田ラインの指導を称揚せよ」。これを提言21の4とする。
しかし、第1次ブントは、マルクス主義の字面的教条主義に染まっており、その急進主義性を競うと云う捻じ曲がった理論によりこの手柄を確認できぬまま、60年安保闘争後の虚脱時期に日共と革共同の集中砲火を浴び、最終的に革共同全国委に吸収される形で解体するという憂き目に遭う。つまり、日本左派運動の唯一の成功事例と云う赤子をタライごと水に流してしまった。ブントはその後再建されるが、分裂に忙しく第1次ブント的偉業を為さぬまま今日に至っている。
日本政治運動はかような捩れの中に在る。戦後学生運動は、こういう構図の下で、捩れに無自覚なままに担われてきた形跡がある。かなりな高等数学的組み合わせの捩れの中に在るので、これを当時の青年学生運動が見て取れなかったしても致し方ない面もあろう。問題は、今日の時点に於いて、どう確認するかである。ごく平凡な通俗的な正義論を説く者は、よほど幸せ者と云うべきだろう。
2002.6.15日、島成郎記念文集刊行会から「60年安保とブントを読む」、「ブント書記長島成郎を読む」が刊行された。ブントがなぜ今見直しされねばならぬのか、されようとしているのか。現中核派の最高指導者・清水丈夫氏の次の感性はさすがである。
概要「かってのブント時代、共に闘ったかなりの人々(有名な!)が、今日とんでもない政治的スタンスをとって、出版物やマスコミなどで大口を叩いているのを見ると、なんということかと思います。かって共産主義だ、革命だといったことは、そんなに薄っぺらなことだったのかといいたい気持ちです。ブントを右から汚すものにはがまんできない」。 |
直接的であるが、これこそかってのブント魂であろう。思えば、ブントの功績が語れないままに来過ぎた。それは総帥島成郎が黙し過ぎたことにもよる。しかし、筆者はそうは考えない。日本左派運動の逸材・島氏を評価したがらない情況が生み出され過ぎて、余儀なくされた沈黙であったのが史実なのではなかろうか。もっと端的に云えば、よってたかって圧殺されたのではないのか、そう受け止めている。
日本左派運動に金字塔を打ち立てているブント運動の功績を封殺した勢力は、左派系に限って見ても二潮流ある。一つは宮顕系日共運動であり、もう一つは黒寛系革共同運動である。60年安保闘争前後の渦中においてはこの三つ巴の勢力が真偽不明で拮抗していた。渦に巻き込まれた者は、そういう意味で判断停止に追い込まれたのも致し方ない。しかし歴史はくっきりさせてきつつある。ブントを解体したこれら二潮流が日本左派運動をどこに漂着させたか。あまりにも無残な結末しか見せていない。
こういう経過から、今や我々ははっきりと主張することができる。ブント運動の見直しとそのエキスの継承こそが任務とならねばならない。この観点抜きに闇雲に取り組んでみても、それは不毛の大地に再々度立ち返ることにしかならないであろう。歴史を主体的に学ばねば何も生み出されない。ここ数十年の不毛はこれに尽きるのではなかろうか。そういう観点からブント運動論を構築していきたいと思う。
その際の基準は、当時の東大法学部緑会委員長・有賀信男氏の指摘するように「批判するにしろ、是認するにしろ、議論される場合には、事実関係についての正確な知識が前提でなければならない」であろう。これを「簡にして要を得る」よう綴ることは至難であるが心掛けだけでもそうしたいと思う。以上を提言21としておく。
【提言22、永続革命式民主連合政権運動の再構築へ向かえ】
(はじめに)
「民主連合政権運動の再構築へ向かえ」を提言22とする。民主連合政権運動の魅力は、それが共同戦線運動に立脚しているところにある。その可能性を追求し続けなければならないのではなかろうか。詳論はサイト「民主連合政府樹立運動考」に記す。
「日共の余りにも無責任な民主連合政府樹立運動の虚妄を指弾せよ」。これを提言22の1とする。
筆者の学生運動期、それは丁度1970年初頭の頃であるが、当時の日共は民主連合政権構想をぶち上げていた。それは、全共闘運動の解体運動に対するアンチテーゼとなり一定の支持を得ていた。筆者もこれに共鳴していた。その民主連合政権構想運動の虚妄を確認しておくことにする。
まず、当時の民青同の意識にはどのようなものがあったのか、それを考察しておく。民青同の論理は、今から思えば何もかも全共闘運動の対極にあった。自己否定論理に対しては民主化論理を、造反有理に対しては党を護持し民主集中制の下での一層の団結を、解体論理に対しては民主連合政府樹立の呼びかけをという具合であった。実際には全共闘運動の方が空前の盛り上がりを見せていたので、民青同がこの対置論理で対抗していったことになる。そういう訳で、全共闘からすれば、「マスコミは巨大な敵だったが、右翼、民青、機動隊というのがさしあたっての敵だった」ということになった。
元々は、大学民主化闘争は学生運動自体のテーマであり、全共闘運動とてここから始まったように思うが、その闘争論理の定向進化によりいつのまにか担おうとしなくなり、民青同の一手専売となった。筆者が入学した頃には、「政治的自由と民主的諸権利の拡大を目指す闘争」、「教育権・機会均等の擁護、学費値上げ反対、奨学金の拡充、寮の完備、勉学条件の改善」という当たり前の運動が民青同ないしは代々木系以外では見られなくなっていた。
筆者が今思うに、これは民青同の方に軍配が挙がるのではなかろうか。筆者が支持したのも至極当然だったのではなかろうか。もっとも民青同は抱き合わせで、「トロツキスト、修正主義者らを各大学において、全国的な学生運動の戦列に於いて一掃することが不可欠」という指針を掲げていた。これに馴染めない筆者の居り場が次第になくなってしまった。筆者が今思うに、これも至極当然だったのではなかろうか。
それはともかく、筆者が民青同運動に随伴したのは、民主連合政府の呼びかけに対する共感にあった。これについて考察する。いわゆる全共闘運動が左翼イデオロギーを満開させつつ「まず解体から、しかる後建設が始まる」という展望無き展望しか持ち合わせていなかったのに対して、この当時日共が指針させていた「70年代の遅くない時期に民主連合政府を樹立する」運動は目前の手応えのある実体であったということもあって、民青同にとって全共闘的運動に対置しうる理論的根拠となっていた。
こうして見ると、民主連合政府樹立運動の提唱と立ち消えていった経過が気になってくる。これを確認する。1998.8.25日付け「しんぶん赤旗」での不破哲三委員長緊急インタビュー「日本共産党の政権論について」が次のように述べている。
「70年の第11回党大会で、民主連合政府の樹立についてあらためて具体的な展望をしめし、73年の第12回党大会では、民主連合政府の政府綱領についての提案まで討議決定しました」。 |
少なくとも60年代後半には民主連合政府樹立運動が提唱されていたと思われるので、正式な党大会決定されたのがこの時期という意味であるように思われる。
「70年代のおそくない時期の民主連合政府の樹立」の可能性については、1973.4.13日初版の上田耕一郎著「先進国革命の理論261P」で次のように述べている。
「1970年に開かれた第11回党大会では、70年代の遅くない時期に民主連合政府をつくろうという方針を決めました。当時は『まさか』と思っていた人が大部分だったでしょう。ところが、昨年末の総選挙で共産党が大躍進したため、『まさか』どころか、民主連合政府が現実味をもって受け取られるようになってきました。今度はある週刊誌は、民主連合政府の『予想閣僚名簿』まで発表するという気の早さです」。 |
が、いざ70年代のその時期を迎えて実際になしたことは、次のような代物になる。不破の「日本共産党の政権論について」から引用する。
「三木内閣のもとで、ロッキード事件が暴露され、また小選挙区制の問題で日本の民主主義がおびやかされるという情勢がすすんだとき(76年4月)、私たちは、小選挙区制粉砕、ロッキード疑獄の徹底究明、当面の国民生活擁護という三つの緊急課題で『よりまし政権』をつくろうではないか、という暫定政権構想を、当時の宮本委員長の提唱で提起しました」。 |
つまり、民主連合政府樹立運動が「よりまし政権運動」へ横滑りさせられたことになる。この経過と執行部の責任について党がどのように総括しているのだろうか。不破は次のように述べている。同じく「日本共産党の政権論について」から引用する。
「私たちが、こういう提唱をした70年代、80年代という時代は、政界の状況からいって、私たちのよびかけが現実に政界に影響をおよぼすという条件は、実際的にはまだありませんでした。マスコミからも、いまのような積極的な関心は向けられませんでした。私たちの党に近い部分でも、はっきりいって、こういうよびかけを理論的な提唱としてはうけとめても、政権問題を現実の政治問題として身近にとらえるという問題意識は弱かったと思います。そういう時代的な背景だったんですね」。 |
この言い回しは、上耕の謂いと明らかに違う。かっては目前の現実的流れと云い、その時節を過ぎると単なる願望に過ぎなかったと言い換えている。日共党中央は、こういう総括ならざる総括で事なきを得ているようである。筆者には、「ソ連社会主義論」から「崩壊して良かった論」までの変遷もしかり、状況に合わせていかようにも言いなしうる不破の厚顔と口舌の才能に感心させられている。
これを踏まえると、元々このスローガンは党としての責任ある提案だったのではなく、当時の燃え盛る全共闘運動に対置すべく、青年層の全共闘運動に向かうエネルギーを押しとどめるために巧妙に使われていたのではないのかとさえ思えてくる。マサカと疑うよりはマサカの可能性を思い浮かべてみた方が事態を的確に把握しうるのではなかろうか。
となると、あの頃本気で民主連合政府樹立を夢見ていた者は幻影を見させられていたということになる。その一人であった筆者は今では結局、筆者が単に田舎者だったということだろうと自己了解している。今あの頃に戻り得たとしたら、どう動くのだろう。民主連合政府樹立スローガンの虚妄を知っている筆者は民青同は加わらないだろう。かといって飛び込めそうな党派も見えてこない。新左翼運動は観念性を強めており、自閉的でプロパガンダが不足している。所詮エリート的な身内的な自閉的な自己陶酔型の自己満足運動でしかないようにも思える。
こうして考えてみると、日本左翼の深刻なというべきか馬鹿馬鹿しいというべきか不毛性が見えてくる。そもそも数十派に分岐している左翼系諸派のお互いの一致点と不一致点さえはっきりしない。運動を担っている当の本人さえよく分かっていないままに党派運動が続けられている面もあるのではなかろうか。してみれば、田舎者の成長過程を上手に引き出すような左翼諸派合同のオリエンテーリングのようなものが欲しい。あるいはまたスーパーマーケットのように各党派の理論と実績をパッケージ陳列させておき、顧客が任意にセルフサービス方式で気に入ったものをバケットに入れるプレゼンテーション手法で党派と関わってみたい。
量が質を決定するというのであれば、日本左翼はこうして裾野を拡げていくような努力をなぜしないのだろう。本当に自派の主張に正しさを確信し左翼的民衆運動を担おうとする強い意志があるのなら、党派側はせめてこの辺りまではプロパガンダえしえていないとおかしいのではないかと思ったりする。もっとも、市場経済下のマーケティング革命の進行なぞとんと眼中にない連中が党派運動をやっているので、こうした流通革命的手法の革新的意義なぞ分かりようもなく、昔取った杵柄よろしく旧来手法のままのオルグ活動に拘り続けているのだろうと思われる。
この点今から思えば池田大作氏率いる創価学会活動の先進性が見えてくる。確かあの頃(30年前にもなる)既にビデオを使って布教活動をしていたように記憶している。腹蔵なく語り合う座談会方式といい、釈伏という戦闘的理論闘争といい、機関紙紙上における理論的啓蒙と各地の実践の紹介という体裁での結合ぶりといい、全国各地に創価会館を敷設していったことといい、やるべきことをやれば政権与党化はそう難事ではないということの例証でもあるかと感心させられている。
これに対して、その間日共がやって来たことは、創価学会の座談会方式に対して党中央経文の一方的拝聴、釈伏式理論闘争に対して没理論化、機関紙紙上における理論的啓蒙に対して不啓蒙、各地の実践の紹介に対して不紹介、創価会館敷設に対して相変わらずの軒下三寸活動という具合に何もかもが対比的であるように思える。日共の唯一のお家芸は饒舌であり、読むに値もしない独善パンフの個別配布でしかなかった。党派運動は指導者の気質と能力によって随分左右されることが知らされる。
「日共の民主連合政権スローガンの時期先述べ理論の無責任性を指弾せよ」 これを提言22の2とする。
そのことはともかく、民主連合政府樹立のスローガンにおいて考察されねばならないことは、このスローガンが当初「70年代の遅くない時期」という時期の明示をしていたことについてである。何らかの根拠があったのか、元々根拠がなかったのかということが詮索されねばならないと思う。もし、根拠が薄弱な単なる呼びかけでしかなかった時期の明示であったとすれば、党中央の無責任性が暴露され、ダメージが深刻でもはや二度と大衆は党の笛吹きには踊らされないと云うことになるであろう。
と思うのだけども、日共は、1990年代になってまたぞろ「21世紀の初頭に民主連合政府の樹立を」とか呼び掛け始めた。1999.7.24日付け「しんぶん赤旗」の日本共産党創立77周年記念講演会に於ける書記局長・志位和夫の「国政の焦点と21世紀の展望」は次のように述べている。
「民主的政権への道をどうやって開くか。『国民が主人公』の日本への改革です。それを実現する民主的政権を、21世紀の早い時期に樹立するというのが、私たちの大目標であります」。 |
今度は「21世紀の早い時期」だと云っていることになる。公然平然たるリバイバルであるが、筆者は、同一系執行部の下でこうした呼びかけが通用している党員の皆様のおおらかさに万歳させられている。
日共は、「70年代の遅くない時期」という時期明示の責任を問わないばかりか、「21世紀の早い時期」への転換の責任も問わない。この種のケジメを持たない。但し、反省と工夫はする。「21世紀の早い時期」とあるように、「70年代の遅くない時期」の5年スパンに対して、「21世紀の初頭」という20年スパンに転換させている。つまり、長期レンジのスローガンで再提唱していることに気づかされる。この時には不破も志位も政治活動の一線からリタイアしている頃であろうから、執行部の責任体系をあらかじめ放棄した批評的願望的スローガンであることが見て取れる。日共ならではの党中央のこういう無責任さが追求されない羨ましい体質が見て取れる。党員の皆さんのご納得ぶりにただただ頭が下がるばかりというしかない。
日共はその後、「21世紀の初頭に民主連合政府の樹立を」をも放棄した。代わりにやって来たのが「我こそが唯一の本物野党論」である。懲りない党中央ではある。しかし、党員が叉もこれを支持している訳だから同じ穴のムジナではある。しかし、「我こそが唯一の本物野党論」も臭い代物に過ぎない。自公対民主の政権取り抗争に立ち塞がり、結果的に自公有利に作用する役割しか果たしていない。これに何の痛痒も感ぜず、むしろ正義然としている。「日共=自公との裏提携論」が生まれる所以である。
最新情報として、自公側戦略による「供託金引き下げ」が施策されようとしている。これにより、供託金没収の難を逃れようとしていた日共の全選挙区立候補を誘引すると云う仕掛けである。これが表沙汰になりつつある。この動きに「正体みたり枯れ尾花」としてあきれ返らずに、実に実にと選挙運動に精出す党員に対してただただ頭が下がるばかりというしかない。
「日共の民主連合政府綱領の無原則的マヌーバー性に憤怒せよ」 これを提言22の3とする。
このスローガンにおいて考察されねばならないもう一つのことは、民主連合政府という統一戦線政府の内実に対する考察である。当初は、社共政権を核とした政府で最低限綱領を持ったものであった。この綱領の移り変わりも興味があるところであるが未調査である。少なくともこの当時、次のような規定の下にかなり厳格に運用されようとしていた。
概要「統一戦線とは、単なる政党間の野合を戒め)複数の階級、階層が階級的利害や政治的見解・世界観などの違いを持ちながらも、共通の目標のため、共通の敵に対して闘うために創る共同の戦線(共同の闘争の形態・組織)のこと。統一戦線の掲げる政治的課題と目標及び、その階級的構成は、それぞれの国における革命の性格と段階によって、又階級闘争のそれぞれの時期と条件によって決まる。例えば、反ファシズム統一戦線、祖国戦線、人民戦線、民族民主統一戦線などと呼ばれる様々な統一戦線があるのはその為である」(社会科学事典、新日本社刊行)。 |
但し、この厳格性にも次のような癖が認められる。日本共産党のいう統一戦線とは、運動の最大成果を得るために、一時的に綱領路線の逐条に付き方針を凍結してでも共闘を優先させようとする運動論、組織論と思われるが、この場合「一国一前衛党論」が自明にされていることに問題が潜んでいる。つまり、現実には既に日共以外にも公然と左派的立場を自認する諸党派が存在する訳であるから、文字通りの意味で統一戦線というならばこれらの諸党派も組み込まれる必要があるにも拘らず、日共式統一戦線論にはこの部分がスッポリ抜け落ちている。左派でもない日共を最左派とする右派系諸潮流との統一戦線論であり、日共より左派系の諸党派、潮流が排除されているという統一戦線論となっている。
日共より左派系の諸党派、潮流に対しては、急進主義者、トロツキスト、挑発者、反党主義者、分裂主義者、左翼日和見主義者、暴力集団等々ありとあらゆる悪罵とレッテル貼りで、これらの諸潮流を無条件に排除した上での統一戦線論であることに留意が必要である。
これでは片手落ちというより、本来の意味での統一戦線になりえておらず、自らに都合の良い理論でしかなく、右へ傾いて行くしかできない仕掛けの統一戦線となっている訳である。この点如何であろうか。補足すれば、万が一民主連合政府的なものができたして、日共より左派系諸派の政治的活動が認められる幅が現政府下のそれより狭まるという危惧は杞憂なのだろうか。筆者は、より左派系党派の政治的自由についてきちんと説明したものにお目にかかっていない。不破が、赤旗記者が茶髪金髪OKで党本部を出入りしている自由さとかいう本来何の意味もない例で説明しているのを聞いたことがあるばかりである。
民主連合政府の呼びかけは、歴史的には、社会党が日共よりむしろ社公合意の方向にむかっていったことによって流産したように記憶している。オカシナ現象であるが、共産党が右へ寄れば寄るほど社会党も右へ動き、今日共産党はかっての民社党辺りのところまで寄っているようにも思われる。政治全体が右傾化したことになる。社会党はどこへ行ったのかということになるが、党そのものがなくなってしまった。民社党は民主党の中に潜り込んでしまった。この先一体どうなることやら。やはり瑞穂の国は大政翼賛会方式が似合うのかも知れない。
こうした流れに結果したことについて、社会党批判とは別途に日共責任も問われねばならないところ、日共党中央には反省の色は微塵も窺えない。あたかも社会党解党を喜悦している風がある。筆者は、百歩譲って仮にスローガンに正しさがあったとしても、その道筋を作りだせれなかったことに対して責任があると思う。なぜ免責されるのであろうか。
かくて判明するのは、民主連合政府の呼びかけ問題に付きまとっていることは責任体系の問題ということになる。政治的スローガンの提唱は執行部の権限であるが、その指針が流産した場合まっとうな政治的解明と責任処理がなされるべきであるという緊張関係がなければ、全ては饒舌の世界になってしまうのではなかろうか。この峻別が曲がりなりにも為されているのが自民党であり、与党として信頼が託されている所以なのではなかろうか。
「永続革命的民主連合政権運動を再構築せよ」。これを提言22の4とする。
筆者が民主連合政権問題を論ずる意味は、日共式民主連合政権運動は虚妄で終わったが、民主連合政権運動そのものは有効ではないか、日共式民主連合政権運動を批判したからといって、この赤子をタライごと流してはいけないのではないかと思うからである。ここを勘違いさせてはならない。
永続革命的民主連合政権構想は日本左派運動の永遠の眼目であり、これを統一戦線理論で導くのではなく、共同戦線論で担い抜く党派運動が相互に要求され続けているのではなかろうか。その違いについて「提言8、統一戦線論を否定し、共同戦線論に転換せよ。全共闘運動及びその思想を再生させよ」で述べた通りである。見果てぬこの夢こそ我々の青い鳥だと思う。以上を提言22としておく。
【提言23、著作権論の変調理解、即ち強権著作権論と闘え】
(はじめに)
「著作権論の変調理解、即ち強権著作権論と闘え」を提言23とする。近時、知的財産所有権の名の下に、知的活動分野での全方面全域の著作権適用が推進されている。日本左派運動が、これに全く抵抗しない否むしろ推進派に廻っているというフザケタ没理論性裡にある。筆者は、それは違うとして断固として闘う。誰かこれを共認せんか。詳論はサイト「著作権考」に記す。
「川下適用当然の課金制式強権著作権論と闘え」。これを提言23の1とする。
著作権論は近現代史上生まれるべくして生まれたものであり、その限りに於いては認めても差し支えない。しかしながら、著作権法が当初企図したのは著作権者、版権者、管理権者、その他同業他社との関係を整合的に律するという大義名分であり、それもかなり胡散臭い正義ではあるが、いずれにせよ流通論で云うところの「川上」に於ける規制理論であった。それは決して近時のような人民大衆の利用規制にまで及ぶ「川下」適用理論ではない。
著作権法理解に当たっては、川上と川下の仕分けを峻別するこの認識が肝要である。なぜなら、そもそも著作権法の制定時、この権利が川下適用までされないようよほど留意しつつ制定された経緯が認められるからである。しかしながら、自衛隊と同じく、一たび制定されると制度と云うものは定向進化の理により独り歩きし始める。「海外派兵禁止」を国会決議した上で発足した自衛隊がいつの間にかペルシャ湾まで出向いたり、イラク懲罰作戦に参戦したり、海賊退治で出向くことまでが当たり前にできるほどに変貌していると同様に、著作権理論もいつの間にか強権著作権論に傾斜し、大手を振って川下適用理論にまで「進化」を遂げつつある。そしてこれを誰も訝らない。
日本左派運動内には、全く同じ論理構造なのに自衛隊派兵には反対するものの著作権法については「もっと適用せよ」なる得心が蔓延している。少なくとも、著作権強権化の流れに余りにも唯々諾々している。「なぜだか分からないが知的所有権と云うらしい。それは必要な規制と思われる」式の安逸合点がはびこっている。これを新旧のウヨサヨ勢力が後押ししている。
こうしていつのまにか、いわゆる著作権ビジネスが横行し始め、その究極として川上のみならず川下まで利用の対価として課金請求するという「川下適用当然の課金制式強権著作権論」なるものが編み出され、遂に精神域まで金勘定が侵食し始める時代を迎えている。一言でいえば、典型的なあくなくユダヤ商法の暴走であろう。尤も彼らは意図的故意の政策としてこれを推し進めつつあるように思われる。日本左派運動は、この暴走を止めなければならない歴史的責務があると受け止めるべきである。
「引用転載に関する『要事前通知、要承諾制論』と闘え」 これを提言23の2とする。
強権著作権論のカラクリを確認しておく。強権著作権論は、著作物の人民大衆的利用に対して権利侵害論で遇し、その利用につき「要事前通知、要承諾制」なる関所を設け、人民大衆的普及と利用に手かせ足かせを嵌めようとしている。これは権力的統制に於ける裏からの呼応であり、このゴリ押しを阻止せねばならない。それにしても一体誰がこういうナンセンスを押し付けているのだろうか。
この連中の戯言を確認しておく。インターネットを前提に言及すると、彼らは当初、リンクにも「要事前通知、要承諾制」を導入しようとしていた。これが批判されると、引用転載については「要事前通知、要承諾制」であると主張し始めた。しかし、著作権法を読み解けば明らかなように所定のルールとマナーを守れば引用できると明文している。これが批判されると、引用はできる但し転載に限り「要事前通知、要承諾制」当然論へと切り替え最後の砦とせんとしている。しかしこれも時間の問題で、「フェアユース理論」によりナンセンス化されるであろう。
考えてもみよ。情報通行手段として発明された文明の利器としてのネット通信に登場する以上、利用転載したりされたりするのは覚悟の上ではなかろうか。これが嫌なら登場せねば良いのだし、特定の仲間同士の遣り取りに使うのであればエンターキー会員制にすれば良いのだし、見せるだけで転載されたくないのなら自らフリーズ化すれば良かろうに。それもしないのならせめて大書きで転載禁止と貼り紙しておけば良かろう。そういう手だてを講ぜずに、無断転載即泥棒呼ばわりして吹聴して廻るとはよほど性悪御仁ではなかろうか。
そもそも「事前通知、要承諾制」とした場合、何を基準に承諾するのかしないのかが明らかにされねばなるまい。法は公平な適用を良しとする以上、好き嫌い的基準で承諾されたり拒否されるのはイカガワシイ話ではなかろうか。なお、メール通知するにも、迷惑メールを常態にしていることを考えれば互いに見落とす場合もあろう。メールする方もされる方も、相手の意図を詮索せねばならないことにもなろう。著作権者探しも大変な手間ともなろう。つまり、「要事前通知、要承諾制」とすることによって却って弊害が生まれるのではなかろうか。にも拘わらず彼らは異常に拘り続けている。
そもそも昔から、頭の悪い者ほど物事を小難しくする癖がある。すっきりさせれば良いものをわざわざ難しくして隠微な悦びに耽る癖がある。著作権狂いに興じるのはだいたいこの輩で、本業の出来が悪いのに限って関心を持つ癖がある。この手合いと語るのは不毛なので、解決策としては別途に彼ら専用のネット空間を持たせれば良かろう。少なくとも、「World
Wide Web」の発明者であり且つこれを無償で市場に提供したTim
Berners-Lee自身が推奨しているウェブページの人民大衆的共有世界に出没して著作権棒を振り回させる必要はなかろう。我々は「狼藉者よ失せよ!」と一喝すれば良い。小難しい者は小難しい世界で互いに小難しくし合えば良かろう。単にそれだけのことであろう。
ところが今や、「要事前通知、要承諾制」論法と仕掛けが政党の著作物にさえ及び始めている。政党活動の本義に於いて許される訳がなかろうが、これが一般化しつつある。我々が政党の主張を流布するにつき、それが賛辞であれ批判であれ、制限を受ける必要がどこにあると云うのだろうか。余りに邪悪な意思が潜んでいるというべきではなかろうか。その昔、特高の目を盗んでビラを持ち帰り、読み回し、政党はこれを安堵していたと云うのに。これにつき最も生硬に主張しているのが公明党、日共である。著作権論に於いて両党の胡散臭さが際立っていると見なすべきではなかろうか。その他政党もこれに汚染されており、これを咎める党派はいない。いわゆる新左翼の一部にもこの流儀が見られる。筆者が宣告しておく。手前たちには左派運動を担う資格がない。早々に解党すれば良かろう。
他にも著作権保護期間が50年から70年にされようとしており、図書館での本の貸し借りが著作権法違反とされつつある。全てが究極金出せに繋がる「要事前通知、要承諾制」にお見舞いされようとしている。こうして、著作権規制の強権化を通して人民大衆の精神の自由に対する意図的故意の絞殺が仕掛けられている。これにより、人民大衆が伝統的に継受してきた著作物を通じての知育練磨及び福利享受が著しく毀損されつつある。サヨウヨ勢力がこれを推進している。日本左派運動のダンマリは許されない。
ここまで述べても理解できない分からず屋の為に一言しておく。強権著作権派は、引用と転載に於いて、「無断引用可、無断転載不可論」を主張している。然しながら、著作権法には、正面からそういう風に規定した条文はない。筆者的読解によれば、引用とは或る文章の部分引用、転載とは或る文章の全体引用と説き分けしている風があり、強権著作権派の主張する如く質の違いでは捉えていない。考えてみれば、趣旨改竄の禁止原則に照らせば転載の場合には起こりようがない。ならば、引用よりも転載の方が安全であり、これを厳しく制限される云われはないと受け止めるべきではなかろうか。引用の方こそ趣旨改竄の禁止原則に照らされねばならないのではなかろうか。
こう受け取るべきところ、強権著作権派は頑強に「無断引用可、無断転載不可論」を主張している。それは何によってであろうか。筆者の理解するところ深い意味はない。現代世界を支配するネオシオニズムの著作権政策の御用聞き的立ち働きをしているに過ぎない。その政策は、情報規制と精神域をも金儲けの対象とすると云う二面から成り立っていることは既に指摘したところである。ここまで述べてなお強権著作権派にシフトする者には漬ける薬がないと云うべきだろう。以上を提言23としておく。
「著作権攻勢はネオシオニズムの策略である。これと闘え」 これを提言23の3とする。
著作権が如何に政治がらみのものであるかは、「サンフランシスコ平和条約 (日本国との平和条約
1951)」に登場することでも分かる。これを確認しておく。同条約では、「第五章 請求権及び財産」の項の第15条(連合国財産の返還)の(C)で次のように記している。
(i) Japan acknowledges that the literary and artistic property rights which existed in Japan on 6 December 1941, in respect to the published and unpublished works of the Allied Powers and their nationals have continued in force since that date, and recognizes those rights which have arisen, or but for the war would have arisen, in Japan since that date, by the operation of any conventions and agreements to which Japan was a party on that date, irrespective of whether or not such conventions or agreements were abrogated or suspended upon or since the outbreak of war by the domestic law of Japan or of the Allied Power concerned. |
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(ii) Without the need for application by the proprietor of the right and without the payment of any fee or compliance with any other formality, the period from 7 December 1941 until the coming into force of the present Treaty between Japan and the Allied Power concerned shall be excluded from the running of the normal term of such rights; and such period, with an additional period of six months, shall be excluded from the time within which a literary work must be translated into Japanese in order to obtain translating rights in Japan. |
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これによれば、外国著作権を、日本が第二次世界大戦に参戦した1941.12.6日以前以降を問わず中断させず適用し、「著作権保護期間の戦時加算
」を含めて「著作権を認める」としている。戦時中は連合国・連合国民の有する著作権の日本国内における保護が十分ではなかったとの趣旨であり、これによりサンフランシスコ講和条約以降はなおさら「著作権の生硬な適用」を承認させている。これにより、1952(昭和27).8.6日、サンフランシスコ講話条約第15条(c)の規定に基づき連合国及び連合国民の著作権の特例に関する法律第302が制定された。
これは、筆者が最近知ったことである。著作権行政が大方の理解を超えて如何に政治性の強いものであるか知るべきであろう。サンフランシスコ平和条約に於ける著作権規定の内容そのものは国家間の効力問題であり普通のやり取りのように思われる。問題は、この取り決めによりネオシオニズム型の著作権行政の楔(くさび)が打ち込まれ、やがて強権著作権法化が始まっていく際の橋頭保になっていることに意味があるように思われる。
「日本新聞協会編集委のネットワーク上の著作権に関する協会見解と闘え」 これを提言23の4とする。
「1997.11月付け日本新聞協会編集委員会のネットワーク上の著作権に関する協会見解」なるものがある。これを仮に「新聞協会著作権見解」と命名する。それによると、新聞記事を利用する際には「要事前通知、要承諾制」であることを明確にしている。果たして、著作権法に照らしてこれが正論なりや。筆者は、現代マスコミ人の知性の大いなる貧困と利権体質を認める。
新聞協会の著作権理解によると、著作権法第10条2項(著作物の例示)で、「事実の伝達にすぎない雑報及び時事の報道は、前項第一号に掲げる著作物に該当しない」と規定しているのに、「雑報及び時事の報道は著作権法の適用外」として「(著作権非適用は)死亡記事、交通事故、人事往来など、単純な事実を伝える記事だけであり、ほとんどの記事には著作権が働いています」などとのたまっている。読売新聞社に於いては記事見出しのテロップ紹介にさえ告訴介入し、他方でサブミナル効果を楽しんでいる。毎日新聞社の「毎日ワイワイ事件」では手前たちはあちこちの記事を無償で寄せ集め編集し、これを利用していた相手に対価請求して稼いでいた事例がある。一般に情報の作用には、1・伝達、2・周知徹底、3・議論の叩き台としての要素があると思われるが、「新聞協会著作権見解」はそういう情報の本能的使命をことごとく圧殺した上で公然と居直っている。
新聞協会が、かように得手勝手な「新聞協会著作権見解」をマジに打ち出すのなら、新聞1面の然るべきところに誰にも分かるように主張するところに従い看板に偽り無きように然るべく、「本紙には著作権有り。勝手な引用転載をご法度とする」云々を表記せねばならない。それが商法の通念であり常道であろう。明示せぬまま、「コラッ誰に断って利用しているのであるか」と恫喝、課金請求に向かうのは卑怯姑息であろう。
マスコミは本来むしろ、誤報、虚報、記事改竄、悪解釈に対してこそ真摯でなければならない。この姿勢を怠惰にさせて、記事著作権を振りかざすのは二重の痴態であろう。もっとも誰かが音頭を取ってかくリードしているのではあろうが。筆者にはナベツネ派の悪行が見えてくる。それに引きずられた言論人の見識の低さが見えてくる。
2006.3月現在、もう一つ問題が発生した。新聞は、他の業種業界では禁じられている同一価格での新聞販売協定トラスト是認という「特殊指定」の保護に与っている。この価格トラストが廃止されると、「競争激化で販売店の寡占化は避けられず、宅配制度も危機にひんする」との理由によっている。なるほど新聞の果たしている社会的役割からすれば是認されるべきであろうが、他方で生硬な著作権を主張していることを勘案すれば、虫のいいエエトコ取り発想であることが透けて見えてくる。
一応確認しておく。著作権法第32条「引用」1項で、「公表された著作物は、引用して利用することができる。この場合において、その引用は、公正な慣行に合致するものであり、かつ、報道、批評、研究その他の引用の目的上正当な範囲内で行なわれるものでなければならない」と述べている。これは、「邪悪な意図によるものでない限り公表物の引用ができる」と解すべきではなかろうか。32条をこう理解しない手合いが居るとしたら、かなりオツムがへそ曲がりしていよう。
著作権法第39条「時事問題に関する論説の転載等」の規定をわざわざ設けて、「新聞紙又は雑誌に掲載して発行された政治上、経済上又は社会上の時事問題に関する論説(学術的な性質を有するものを除く。)は、他の新聞紙若しくは雑誌に転載し、又は放送し、若しくは有線放送することができる。ただし、これらの利用を禁止する旨の表示がある場合は、この限りでない」と述べ、「新聞叉は雑誌記事の政治上、経済上又は社会上の時事問題に関する論説は転載ないし転報できる」としている。そのデキル主体が問題になるが、「他の新聞紙若しくは雑誌」とある以上ネットのブログも準ずると解すべきではなかろうか。こう理解しないと、「新聞紙若しくは雑誌の特権規定」と云うことになろう。
著作権法第40条「政治上の演説等の利用」の規定をわざわざ設けて、1項「公開して行なわれた政治上の演説又は陳述及び裁判手続における公開の陳述は、同一の著作者のものを編集して利用する場合を除き、いずれの方法によるかを問わず、利用することができる」、2項「国若しくは地方公共団体の機関又は独立行政法人において行われた公開の演説又は陳述は、前項の規定によるものを除き、報道の目的上正当と認められる場合には、新聞紙若しくは雑誌に掲載し、又は放送し、若しくは有線放送することができる」、3項「前項の規定により放送され、又は有線放送される演説又は陳述は、受信装置を用いて公に伝達することができる」と述べ、「政治演説、裁判に於ける公開陳述は転載ないし転報できる」としている。
著作権法第41条「時事の事件の報道のための利用」)の規定をわざわざ設けて、「写真、映画、放送その他の方法によって時事の事件を報道する場合には、当該事件を構成し、又は当該事件の過程において見られ、若しくは聞かれる著作物は、報道の目的上正当な範囲内において、複製し、及び当該事件の報道に伴つて利用することができる」と述べ、「時事事件報道に関して、邪悪な意思でない限り利用できる」としている。
これが、本来の著作権法上の規定である。「新聞協会著作権見解」は、これをどうやって「できない規定」に改竄し得たのだろうか。このマジックを解かなければならない。筆者が判ずるところ、「第七節 権利の行使」の第63条「著作物の利用の許諾」の1項「著作権者は、他人に対し、その著作物の利用を許諾することができる」、2項「前項の許諾を得た者は、その許諾に係る利用方法及び条件の範囲内において、その許諾に係る著作物を利用することができる」を無理矢理に拡大解釈しているのではなかろうかと思われる。この規定を唯一頼りに「引用転載、要事前通知要承諾制論」を生み出しているように見える。
しかしてそれは、「第七節 権利の行使」全体が、財産権的著作権論に関連しての諸規定であることを無視している。即ち、同条が、著作権法がこれまで縷々規定した著作権非適用著作物を除いた著作物に対する「要事前通知、要承諾制」であり、財産権的な利用許諾規定であることを無視している。つまり、「新聞協会著作権見解」の「引用転載に於ける要事前通知要承諾制論」は、著作権非適用以外の著作権適用に対する場合の利用許諾規定を、素人を誑(たぶら)かすようにして遡って全著作物に対して押し付けるマジックによって可能になっていることになる。しかし、それは、著作権法全体の構成と趣意に反していよう。以上が種と仕掛けである。これに阿諛追従する者にも責任があろう。
強権著作権の跋扈する生態のサマは、アンデルセン童話「裸の王様」に登場する透明衣装振付士の口上と所作を髣髴とさせる。かの時、王様は、すっかりその気にされ、裸のまま大通りを得意満面で行進した。何しろ高名な衣装振付士の丹精込めて織った衣装が見えぬ者は馬鹿か不忠義者とされたのだから、人はそう見なされまいとして競って王様の衣装は何と豪華なことよと誉め合い阿諛追従した。その行列の最中、只一人子供が「王様はパンツで歩いているケラケラケラ」と笑った。催眠術が解けた瞬間だった。筆者はは、この話を思い出す。
これを何故記したのか。筆者に対して最近為された或る若い自称学究氏よりの引用転載講義に辟易したからである。何とその御仁は筆者の母校の後輩であった。「引用転載の違いのイロハさえ弁えぬあなたは、良い年こいて恥ずかしくないのか、本当に早稲田を出たのか、いずれ訴訟で黒白つける云々」と散々に説教してくれた。本章は、その御仁に対する筆者の返答である。しかと応答せよ。以上を提言23としておく。
【提言24、天皇制問題考】
(はじめに)
「天皇制問題考」を提言24とする。筆者は、日本左派運動が天皇制問題に対して余りにも無知なことに気づいている。明治維新以降の皇国史観的天皇制の批判でもって天皇制否定論を導き出しているが、それは天皇制問題の一面的言及に過ぎず、解決済みとする訳にはいかない。なぜなら、「提言3、反ネオシオニズムの諸国協和型民族主義運動を新創造せよ」でも触れたように、明治維新以来の皇国史観的天皇制はそれ以前の歴史的な天皇制と異質なものであり、天皇制問題を論ずるには、歴史的な天皇制の発生過程と伝統を検証し、その功罪を確認せねばならないからである。本来は、こちらの方が天皇制問題の本体と云えよう。
ところが実際には、近代天皇制の暴力的軍国主義的圧政に対する批判でもって伝統的天皇制を否定するという軽薄な論法が通用している。それは、西欧史に於ける各国王朝打倒論法をそのまま横滑りさせたものとなっており、極めて安逸と云わざるを得ない。この問題につきコメントしておく。詳論はサイト「天皇制論」に記す。
「近代の皇国史観的天皇制と歴史的天皇制の差異を認め、天皇制問題を正しく認識せよ」。これを提言24の1とする。
日本左派運動史上、天皇制問題に関する日本左派運動の変調に逸早く気がついたのは戦前の転向派であった。日本左派運動史上天皇制問題が浮上したのは、戦前の転向派による立論によってである。これは、1929年の「第二次解党派(河合悦三、水野成夫)の第一次大量転向」と1933年の「佐野、鍋山脱党時の転向声明」の二回にわたって行われた。但し、その結果彼らは概ね時の支配権力であった皇国史観的天皇制の礼賛に転じただけの機会主義者となった。あるいはネオシオニズムの秘密エージェントとして身売りした。
その後の日本左派運動は、転向派のこういう生態に対する批判にすり返ることで、転向派が立論した天皇制問題から逃げ、今日に至るまで何ら生産的な議論を生み出していない。この没理論性を確認しなければならない。では、転向派による立論はどのようなものであったのか。それぞれの論点については、「第二次解党派の転向、水野成夫の転向論理考」、「佐野、鍋山両名による共同被告同志に告ぐる書(「転向声明」)」考」で確認する。ここで両派の立論を筆者なりに要約して確認しておく。次のように主張している。
意訳概要「君主制廃止スローガンはコミンテルン拝跪型の悪しき例であり、マルクス主義的教条の押し付けに他ならぬず、日本式天皇制にそのまま当てはめるのは間違いである。日本の天皇制は二千五百年に亘る皇統連綿性を特徴としており、かくも長期安定的に天皇制を存続せしめている例はない。天皇制は、民族的信仰の中心として国体を護持してきており、君主制との決定的違いは、天皇制が抑圧搾取の権力たることはなく日本民族の統一を体現してきたところにある。日本の天皇制は、国内階級対立の凶暴性を緩和し、社会生活の均衡をもたらし、社会の変革期に際し政権交替を円滑ならしめてきたのであり、階級闘争的歴史観では捉えられない。 それ故に、人民大衆は皇室に対し、尊敬と共に親和の感情を持っている。日本民族を血族的な一大集団と感じ、その頭部が皇室であるという本然的感覚がある。かかる自然の情は現在どの国の君主制の下にも見出されまい。日本の皇室はいわばそれ程に人民的性質がある。この、皇室を民族的統一の中心と感ずる社会的感情は踏まえられねばならない。日本の皇室の連綿たる歴史的存続はむしろ財産であり、天皇制は明治維新以来、進歩の先頭に立った事実を認めねばならない。 日本式天皇制はかく特殊なものであり、日本左派運動は、日本の歴史的事情実情を踏まえた合法党活動に邁進すべきである。そもそも単純な、自由主義的な又はロシアの反ツアーリズムそのままの君主制打倒論にくみしてはいけない。日本においては、皇室を戴いて一国社会主義革命を行うのが自然であり、また可能である」。 |
転向派は、こういう立論により「皇室中心主義的体制下での変革運動、主として君側の奸の排除運動」に辿りつき、「天皇制下のマルクス主義」運動に向かうことになった。日本左派運動はどう反立論すべきか、ここが問われているのになおざりにしてきた経緯がある。筆者は、転向派の立論に与するものではない。筆者が転向派の立論を採り上げるのは、その問題提起を評価するからである。日本左派運動は、ここを説き明かしておかねばならないと思う。
ならば、どう解くべきか。筆者は、転向派の天皇制論が重視した「特殊日本的な天皇制による和的結合社会」を共認しようと思う。日本史は確かに世界に例を見ない和的結合社会になっていると思うからである。筆者の立論が、転向派のそれと違うのは、日本式和的結合社会を天皇制に由来させず、はるか天皇制以前の原日本のDNA的な和的結合社会性に注目するところである。つまり、筆者は、日本式和的結合社会性を認め、これを天皇制以前の原日本式伝統として称揚したいと思っている。日本左派運動がこの伝統の価値と意義を認め、これを継承すべきと思っている。
この観点から導き出されるのは、戦後日本国憲法に於ける象徴天皇制の是認である。これこそが日本の伝統的な天皇制の在り姿のように思う。願わくば天皇制をより文化的遺制的に保存機能せしめ、政治的機能を低めたい。国事行為はすくない方が良い。こういう方向での天皇制論があって良く、この方向に向けての天皇制こそ日本左派運動の天皇制問題解決の指針とせねばならないと思っている。然るに、日本左派運動の天皇制論は相も変わらず没論証的に天皇制打倒論に与している。あたかも天皇制打倒を指針させれば左派、そうでなければ日和見とするステロタイプな天皇制論が横行している。筆者は、これを不毛と思っている。議論を待つ所以である。
「近代の皇国史観天皇制の変調を疑惑せよ」。これを提言24の2とする。
近代天皇制に於ける各天皇の評価を確認せねばならない理由は、明治維新以降の日本帝国主義化に於いて天皇制及び時々の天皇が果たしてきた役割を確認する為である。これを研究すれば、かなり興味深い内容となっている。筆者は、近代天皇制の歴史的天皇制との異質さもさることながら、明治、大正、昭和、平成天皇評価のデタラメさにも気づいている。以下、持論を展開するが、誰か共認せんか。
明治天皇について。明治天皇問題のハイライトは「大室寅之祐の明治天皇すり替え問題」であり、興味深い内容となっている。筆者は、有り得ることと思っている。明治天皇論としては、日本帝国主義形成に於ける明治天皇が果たした役割の位相を確認することにある。思うに、明治天皇は、内治主義としての殖産興業政策、外治主義としての軍備増強政策の二股の道を突き進んだ。実際には薩長藩閥政府の傀儡でしかなく、その薩長藩閥政府を操るネオシオニズムの敷いたレール上で天皇としての権能を振舞う役割を果たしたと評されるように思われる。
大正天皇について。大正天皇問題のハイライトは、「押し込め問題」である。幼少より病弱にして即位後も脳病を患っているとして引退せしめられた。これについての真偽を詮索せねばならぬところ、日本左派運動内の見識は政府発表を鵜呑みにしたまま今日に至っている。筆者は、左派運動の見識の低さを見て取っている。大正天皇論としては、明治天皇御世の二股の路線をどう継承したか、抵抗したかの位相を確認することにある。思うに、大正天皇は、内治主義としての殖産興業政策を優先せんとし、外治主義としての軍備増強政策に反対した故に押し込められたのではなかったか。してみれば、「大正天皇押し込め」こそ近代天皇制史上最大の不敬事件であったことになろう。筆者は、大正天皇英明説を採る。
昭和天皇について。昭和天皇問題のハイライトは、「大東亜戦争開戦責任及び戦争指導責任問題」である。戦後の国際軍事法廷は昭和天皇の責任を免責し、天皇制を象徴天皇制として延命させ、これにより昭和天皇の戦争責任が不問にされることになった。筆者は、ネオシオニズムの後押しする菊タブーの為せる技であるとみなしている。昭和天皇論としては、大正天皇押し込めから始発した皇太子時代の歴史的位相から評さねばならず、昭和天皇として即位してからは外治主義としての軍備増強政策に一層傾斜することしかできなかった不条理を確認することが肝要と思う。ここには、昭和天皇の裏面としてのネオシオニズムとの通底性が垣間見えているように思われる。この辺りの研究はこれからになるだろう。
平成天皇について。平成天皇問題のハイライトは特段にはない。戦後憲法の象徴天皇制の枠内で極力精神的文化的権威としての天皇に納まろうとしている気配が認められる。昭和天皇に比して極力政治に容喙しない姿勢が見て取れる。外治主義としての軍備増強政策にも積極性を見せておらず、そういう意味では大正天皇路線に近いとみなせるように思われる。現在、後継問題が浮上しつつあり、これが新たな平成天皇問題となりそうである。
以上、近代天皇制下の各天皇を素描したが、天皇制問題は国の一大事とする視点から述べたつもりである。日本左派運動の祝アとしての天皇制打倒一辺倒では何の解決にもならないことを知るべきであろう。以上を提言24としておく。
【提言25、左派運動総として軍師と史家を持て!】
(はじめに)
「左派運動総評及びメッセージとしての軍師と史家を持て!」を提言25とする。筆者が日本左派運動を検証して辿り着いた結論は、軍師と史家がいないということである。これがなぜ必要なのかと云うと、彼らこそ指導者を補佐しつつの理論と実践の総合的体現者であり、運動総括責任者であると思うからである。そういう軍師、史家がいないと云うことは、理論と実践が分離させられており、運動を総括する者もいないということを意味する。左派運動のみならず何事も、このような水準での運動が首尾良く進展することはなかろう。これにつきコメントしておく。なお、筆者の学生運動論に対し、「自由と民主を奪い返すためのレジスタンスの会」サイト管理者が「2008.11.25日付け不定期便第1140回、昭和の抵抗権行使運動(55)60年安保闘争の評価(1)
」(http://www3.kitanet.ne.jp/~nihirata/20081125.html) で好意的に評していただいている。ここで御礼申し上げておく。
「日本左派運動も軍師を持て」。これを提言25の1とする。
日本左派運動史上、軍師がいなかったことは歴史の冒涜を意味する。史上、戦の場合にはあまたの軍師が活躍し、智謀戦を繰り広げている。総大将と家臣団、これに列なる兵卒全体を束ねる軍師の役割は、必要故に生み出されたものと心得る必要がある。しかしながら、日本左派運動史上こういう軍師的智者が生み出されていない。このことは何を意味するのだろうか。このお粗末が訝られぬまま今日まで経緯している。この不毛を何とせんか。
もう一つ云いたいことがある。戦国時代の武将は無論、江戸時代に於ける士農工商のそれなりの者は皆、盤上軍師技芸として囲碁将棋を嗜んできた。考えてみれば、これは凄いことで、幕末時に特に隆盛したことをも照らし合わすと、かの時代相当数の者が戦略戦術に長けた軍師であったことを意味する。幕末維新の裏には、こういう人民大衆的軍師能力が介在していたとも見て取れる。してみれば、どうせ今時の穏和主義運動ならなおさら、左派者は一通り囲碁将棋に通じていた方が良いと云うことになる。盤上での反発と割り切り、分別の稽古は必ずや、運動盛り上げに資するであろう。
ちなみに、筆者は、将棋は職人の遊び、麻雀は営業の遊び、囲碁は経営者の遊びと理解している。左派者は一度はこれらの技芸に通じないといけない、そう得心している。これらを学ぶ学ばないはマジメ不マジメとは何ら関係ない。人として組織として営業的センスを磨くものとして、これらを愛好していて為にならないと云うことはない、ということが云いたい訳である。
当然、囲碁将棋に限ることはない。スポーツのそれぞれも同じである。あるいは伝統的な武道、茶道、華道等の芸事(ごと)然りである。落語、漫才、浪曲等の話芸然りである。これらを通じて普段不断に精神と頭脳を鍛えておくことが却って運動盛り上げの近道なのではあるまいか。日本人民は誰に言われるのではなく自然にこのことを了解し技芸を磨いてきていたのではなかろうか。昨今の脳粗鬆症が一番危ういのではなかろうかと思っている。
ラジオ、テレビを始めとするメディアは本来これを上手に活用すれば、人民大衆的啓蒙、頭脳鍛錬の有力な文明の利器である。であるところ、この文明の利器が逆用され、我々の頭脳の扁平化に使われ過ぎている。これが偶然ならまだしも、意図的故意に策動されている気配がある。直接的な左派運動のみならず、これを何とかせねばなるまい。これを文化戦線の闘いと云う。現在、この闘いも余りにも疎かにされ過ぎていよう。
「日本左派運動は史家を持て」。これを提言25の2とする。
史上、あまたの史家が存在し、彼らの手によって戦史、軍略史が残されている。それらは皆、実践の貴重な記録として後世に伝えられ、教材として役立てられている。これは、ごく真っ当な歴史的営為であり、日本左派運動がこの営為を為さないとしたらお粗末過ぎよう。このお粗末が訝られぬまま今日まで経緯している。この不毛を何とせんか。
史家の必要性は次の点にある。古代中国は殊のほか史書を重視していた。不思議なことに、国の興亡は史書の出来上がり具合と釣り合っている。中国における正史とは「史記」、「漢書」、「三国志」、「後漢書」をもって「四史」と称する。史書の狙いは王朝交代即ち「易姓革命」の正統化にあったと思われるが、結果的に史書は中国史の流れを綴る歴史的財産となっている。
史書は日本に於いても古くより存在する。一般に知られているのは古事記、日本書紀の記紀であるが、それ以外にも古史古伝と云われる古代文書が存在する。偽書説で一蹴されているが、現存する史書が仮に偽書であっとしても、それらが下敷きにした古史古伝は存在していたのではなかろうか。
筆者は、そのうちで晋の著作郎職史官・陳寿(233~297年)が編纂した「三国史」の記述と姿勢を高く評価している。「三国志」は全部で65五巻より成り、太康年間(280-289年)にかけて完成された。その出来栄えは当時から高く評価されており、「敍事に善く、良史の才有り」との評価を得ている。この当時魏の名将にして「魏書」の著者でもある夏侯堪(243-291年)は、「寿の作る所を見、すなわち己が書をこぼちて罷む」と述懐したと云われているほどに、追随を許さぬ名著であった。陳寿の官界における庇護者とでもいうべき張華も、深く喜んで、「立派な史書だ。晋の歴史も、この史書に継いで書かれるべきだ」と正史として偶されるに値するとの評価を与えている。
こうして「三国志」は不朽の名著として後世に書き継がれていくこととなった。
「三国史」の素晴らしさは、陳寿の反骨ぶりを示しており、御用史家の立場でありながらもその面目と筆法を心得て撰述していることによって一際光彩を放ち史家の意地を見せているところにある。日本左派運動が運動史、党史を編纂するに当たり学ばねばならない手本であるように思われる。
補足しておけば、日本左派運動の史書のお粗末さに比して、その他の非政治的運動史、例えば野球のようなスポーツ史、囲碁のような文化団体史はかなり衆知を寄せたガイド史を編纂し、多くのファンを魅了している。これは、運動を愛する者の自然な能力発露であり情愛である。ということは、よりによってなぜ良質の左派運動史が生まれないのかということになる。意図的故意な抑制以外に理由が考えられるだろうか。
ホームページに於ける各党の党史の記述を比較してみれば良かろうが、何とこれを能く為しているのが自民党である。時々の政権を担ったイデオローグが分担して精緻な自民党党史を遺している。筆者が思うに、自民党が相対的に一番できが良い。次に公明党、民主党という具合になっている。社民党と日共には党史と云えるほどの記述さえない。社民党のルーツである社会党の場合には、検索で探せばかなりの分量の党史記述を目にすることができる。そういう意味では社会党史は高く評価される。ところが、日共の場合、どこから検索しても出てこない(2009.1.1日現在)。オカシなことである。日共は何の為に党史を隠蔽するのか、なぜ堂々と党史を公開しないのか。誰か、不破に弁じさせてみよ。
その癖、著作権については、現行著作権法よりなお生硬な強権著作権論を振りかざしている。党の見解が流布されるにつき、承諾なしで勝手にされてはならじとするその精神は何ぞ、筆者にはさっぱり理解できない。仮に不都合な記事が出た場合、著者、出版社は無論のこと広告宣伝媒体にまで押しかけ、撤去を恫喝する癖を見せている。部落解放同盟の糾弾闘争に対しては糾弾したのに、電車の吊り皮広告を止めさせよと押しかけ糾弾している。オカシなことではなかろうか。
いつからこんな左派運動が流行し始めたのだろう。誰か、筆者が納得のいくように説明してくれないだろうか。以上を提言25としておく。一応以上で、「日本左派運動に対するれんだいこ提言完結」とする。