【考察8、学生運動の可能性と意義考】
本章で「検証戦後学生運動下巻」の締めとする。「学生運動の可能性と限界」について愚考してみたい。学生運動の今日の低迷を見るにつけ、還暦を経由した筆者の分別で次のようなことを云わしてもらおう。
「学生運動の分限と功罪考」
これまでの検証から見えてくる学生運動を分析すると、まず大学自治関連運動と政治関連運動に分かれる。それぞれ三分類すると、前者は1・学問の自由擁護運動、2・要求的闘争、管理権的闘争に分れる。後者は1・社会に対するプロテストとしての抗議運動、2・社会の改良改革運動、3・体制変革運動から構成されている。この前者―後者の三系運動は全体的には関連しながら当面は質の違うものであり、ボタンの取り違えがないよう互いが支え合うよう運動を推進すべきではなかろうか。ヘーゲル論理学風に即時的なもの、対自的なもの、向自的なものという風に捉え返すこともできよう。
従来の学生運動は、それぞれの独自性と関連性を踏まえて適宜に対応し損なってきたように思われる。肝心なことは、個別的なものと共同的なもの、大学自治内のことと社会闘争的なものとの仕分けと関連性を見失わないことである。例えば、抗議運動を無理矢理に体制変革運動化せしめたり、体制変革運動化せしめるものを改良的改革運動にしてみたりのチグハグをしないことであろう。
一般に、青年とは、ひた向きな純粋さの面があるものの、残念ながら、その時流の価値判断まで為し得る分別智がない。というか欠けており、純粋さが時流に翻弄されムードに乗せられ易い面があるのではなかろうか。つまり、青年の若さは功罪相半ばしているように思われる。青年が時流に流される場合、その時流が正の流れである場合には青年の能力は如何なく発揮される。それは良いとして、逆の場合には、こと志と違って邪悪な勢力に利用されたり、壮大な消耗に終わる、あるいは徒に衝動的なままに立ち振る舞うことで社会に害を与える。
学生運動もこの例に漏れないのではなかろうか。学生運動にも正の面と負の面がないまぜになっており、いわば本能的に正の面を追及して行くべきところ時に負の面に入り込み、あるいは現在の如く身動き取れない事態に陥ったりする。これを如何せんか。英明な指導者、次に指導者を囲む幹部集団、更にこれを取り囲む集団討議の上手な組み合わせが待たれる所以である。これが、筆者が学生運動史検証の結果、会得した見立てである。付言しておけば、英明な指導者というものは、居たとしても千年に一人、万年に一人しか輩出しない。ということはつまり同時代的に現出することは有り得ず、歴史の流れから見出す以外にない。指導者も、指導者を押し立てる者も、このことを知り、歴史に対する謙虚さを持ち合わせるべきであろう。
「層としての学生運動論考」
学生運動の位置づけを廻って、1940年代後半から50年代初頭にかけて、全学連を創出した武井系全学連中央と共産党中央が興味深い理論闘争をしているので確認しておく。筆者が注目するのは、日本左派運動には後々有益な理論闘争はめっきり少ない中で理論闘争足り得ているからである。
学生運動は戦前来、「学生=中間層規定論」に基き、共産党員養成あるいは共産党運動の貯水池的に位置づけられており次のように規定されていた。 概要「革命はプロレタリアートの事業であり、学生はそのままでは階級的浮動性ブル分子に過ぎない。プロレタリア革命を指導する党の闘争に参画することにより鍛え直され、これによって初めて階級闘争に寄与する有用な働き手になれる。そのままでは使いものにならない。学生は、オルガナイザーを養成するプール組織であり、活動家を他の戦線に押し出すポンプの役割を果たせば良い。全学連は政治闘争機関に成り得ない。党及び党が指導する共産青年同盟こそが学生闘争の指導機関である」。
これに対して、1948年9月に全学連を創出し委員長に選出された武井昭夫 (東京大学)氏は、同年11月、「転換期に立つ学生運動−その新しき発展のために」を「学生評論」に発表した。後々「層としての学生運動論」として云われ、その後の全学連運動の教本となる。その意義は、「学生は層として労働者階級の同盟軍となって闘う部隊である」と規定することにより、「学生=中間層規定論」を否定したところにある。次のように述べている。「『虚脱のうちに低迷する層』として評価され、叉自らもその評価に甘んじていたかの如き学生層が、自らを人民民主主義革命の有力な一翼として規定しつつ突然荒々しく革命的な闘いののろしをあげたのだ。『有志の学生運動』の域を突き抜け、『全学生層の反逆』として今や一切の支配階級に対立しつつ彼らの前に立ち現われたのである」。
全学連はこの理論を獲得することにより以降、党中央の言いなりではない自律した体制変革的学生運動を創出して行くことになった。これが武井委員長の理論的功績であった。かく学生運動の独自勢力性を確認した全学連は自らを国民戦線の一翼として位置付け、労働者階級との連携を重視し始め、やがて「労働者階級との同盟軍規定」を獲得する。遂には全学連党意識を醸成し始め、革命闘争の先駆的前衛を自認するようになる。この流れが第一次ブント結党に至る。この「層としての学生運動論」がその後更に発展進化して行くことになる。
筆者は、学生運動が武井式「層としての学生運動論」を創出した意義は大きいと思っている。これにより学生運動が自由自主自律的運動能力を獲得したということである。このことの功績は存外大きいように思われる。同時に、全学連運動が「層としての学生運動」をうまく調御することができず、党派運動に埋没吸収されて行ったことを惜しみたい。学生運動が党派運動化するのは結構である。だがしかし党派運動と学生運動とは質が違う。両者の調整能力が問われていたところ、日共は日共式に新左翼は新左翼式に下請け機関化せしめたところに落とし穴が待ち受けていたのではなかろうかと思っている。学生運動自体が登り龍の時には目立たなかったが、下り坂に至ると明らかに欠陥を見せ始めたのに、これを克服する理論が創造されていない。そして今日の惨状へと至っている。
「層としての学生運動の可能性と限界を客観化させ全学連を再興させよ」
今日時点に於いて、学生運動をどう位置づけて再興すべきだろうか愚考してみたい。1950年代、60年代、70年代の学生運動の担い手からすれば、現在は信じられないほど学生運動そのものが衰微した時代である。もはや「層としての学生運動」の出番は消滅したように思える。しかし諦めるのは早い。手立てと処方はあると考える。それはまず筆者がこたび出版した本書「検証 学生運動」を能く学び、戦前戦後来の良質なところを、どこからでも良い再興することから始めるが良い。下手にドグマを持ち込まず、筆者が本書で説いた共同戦線運動方式で着手するが良い。組織論は執行部とそれぞれの機関と活動家が相互にチェック&バランスする方式で相対し、運動論も同じくすれば良い。
全学連各派はひとまず大同団結し再統合すれば良い。加わらぬ党派は相手にせぬが良い。今度は徒に暴力を持ち込まず、暴力的に解決せず、いわゆる党内右派から左派までを包含し、万事を来るべき社会の手本となるような民主的運営の下で議事進行させ、各派の議案を多数決主義で堂々と争えば良い。つまり大人の組織論、運動論を持つ全学連を創出すれば良い。方法が分からなければ、戦後自民党の保守本流を形成していたハト派の政治手法を学び見習えば良い。もっとはっきり云えば角栄政治を学べば良い。結論的に云えば、ルネサンスの気風で颯爽と全学連運動に邁進すれば良い。問題は、そうはさせじとする権力の弾圧とこれに呼応する左右両派の策動に対し、どう対峙し勝利的に激動の日々を創出して行くかにかかっている。言うは易しだが行えば楽しとすれば良い。
「軍師を持て」
日本左派運動史上、軍師がいなかったことが致命的な欠陥であった。これは歴史の冒涜を意味する。史上、戦の場合にはあまたの軍師が活躍し、智謀戦を繰り広げている。総大将と家臣団、これに列なる兵卒全体を束ねる軍師の役割は、必要故に生み出されたものと心得る必要がある。しかしながら、日本左派運動史上こういう軍師的智者が生み出されていない。このことは何を意味するのだろうか。運動に対する根本的なところでの無責任さを示しているのではなかろうか。このお粗末が訝られぬまま今日まで経緯している。この不毛を何とせんか。
軍師論に関連して余興で云っておきたいことがある。戦国時代の武将は無論、江戸時代に於ける士農工商のそれなりの者は皆、盤上軍師技芸として囲碁将棋を嗜んできた。考えてみれば、これは凄いことで、幕末時に特に隆盛したことをも照らし合わすと、かの時代相当数の者が戦略戦術的能力に長けた軍師であったことを意味する。幕末維新の裏には、こういう人民大衆の軍師的能力が介在していたとも見て取れる。してみれば、どうせ今時の穏和主義運動ならなおさら、左派たる者は一通り囲碁将棋に通じていた方が良いと云うことになる。盤上での反発と割り切り、分別の稽古は必ずや運動盛り上げに資するであろう。
ちなみに、筆者は、将棋は職人の遊び、麻雀は営業の遊び、囲碁は経営者の遊びと理解している。左派者は一度はこれらの技芸に通じないといけない、そう得心している。これらを学ぶ学ばないはマジメ不マジメとは何ら関係ない。人として組織としてセンスを磨くものとして、これらを愛好していて為にならないと云うことはない、ということが云いたい訳である。当然、囲碁将棋に限ることはない。スポーツのそれぞれも同じである。あるいは伝統的な武道、茶道、華道等の芸事(ごと)然りである。落語、漫才、浪曲等の話芸然りである。これらを通じて普段不断に精神と頭脳を鍛えておくことが却って運動盛り上げの近道なのではあるまいか。日本人民は歴史的に誰に言われるのではなく自然にこのことを了解し技芸を磨いてきていたのではなかろうか。昨今の脳粗鬆症が一番危ういのではなかろうかと思っている。
ラジオ、テレビを始めとするメディアは本来これを上手に活用すれば、人民大衆的啓蒙、頭脳鍛錬の有力な文明の利器である。であるところ、この文明の利器が逆用され、我々の頭脳の扁平化に使われ過ぎている。これが偶然ならまだしも、意図的故意に策動されている気配がある。直接的な左派運動のみならず、これを何とかせねばなるまい。これを文化戦線の闘いと云う。現在、この闘いも余りにも疎かにされ過ぎていよう。
「日本左派運動は史家を持て」
史上、あまたの史家が存在し、彼らの手によって戦史、軍略史が残されている。それらは皆、実践の貴重な記録として後世に伝えられ、教材として役立てられている。これは、ごく真っ当な歴史的営為であり、日本左派運動がこの営為を為さないとしたらお粗末過ぎよう。このお粗末が訝られぬまま今日まで経緯している。この不毛を何とせんか。
史家の必要性は次の点にある。古代中国は殊のほか史書を重視していた。不思議なことに、国の興亡は史書のでき上がり具合と釣り合っている。中国における正史とは「史記」、「漢書」、「三国志」、「後漢書」をもって「四史」と称する。史書の狙いは王朝交代即ち「易姓革命」の正統化にあったと思われるが、結果的に史書は中国史の流れを綴る歴史的財産となっている。史書は日本に於いても古くより存在する。一般に知られているのは古事記、日本書紀の「記紀」であるが、それ以外にも古史古伝と云われる古代文書が存在する。偽書説で一蹴されているが、現存する史書が仮に偽書であっとしても、それらが下敷きにした古史古伝は存在していたのではなかろうか。
筆者は、そのうちで晋の著作郎職史官・陳寿(233〜297年)が編纂した「三国史」の記述と姿勢を高く評価している。「三国志」は全部で65五巻より成り、太康年間(280−289年)にかけて完成された。その出来栄えは当時から高く評価されており、「敍事に善く、良史の才有り」との評価を得ている。この当時魏の名将にして「魏書」の著者でもある夏侯堪(243−291年)は、「寿の作る所を見、すなわち己が書をこぼちて罷む」と述懐したと云われているほどに追随を許さぬ名著であった。陳寿の官界における庇護者とでもいうべき張華も深く喜んで、「立派な史書だ。晋の歴史も、この史書に継いで書かれるべきだ」と正史として偶されるに値するとの評価を与えている。 こうして「三国志」は不朽の名著として後世に書き継がれていくこととなった。
その「三国史」の素晴らしさは、陳寿の反骨ぶりを示しているところにある。陳寿は御用史家の立場でありながらも、史家としての面目と筆法をもって権力に阿(おもね)ず、己の眼力に基づき撰述していることによって一際光彩を放っている。即ち史家の意地を見せているところにある。日本左派運動が運動史、党史を編纂するに当たり学ばねばならない手本であるように思われる。補足しておけば、日本左派運動の史書のお粗末さに比して、その他の非政治的運動史、例えば野球のようなスポーツ史、囲碁のような文化団体史はかなり衆知を寄せたガイド史を編纂し、多くのファンを魅了している。これは、運動を愛する者の自然な能力発露であり情愛である。ということは、よりによってなぜ良質の左派運動史が生まれないのかということになる。意図的故意な抑制以外に理由が考えられるだろうか。他に考えられるとしたら能力不足と云うことか。
ホームページに於ける各党の党史の記述を比較してみれば判明するが、何とこれを能く為しているのが自民党である。時々の政権を担ったイデオローグが分担して精緻な自民党史を遺している。筆者が思うに、自民党が相対的に一番できが良い。次に公明党、民主党という具合になっている。社民党と日共には党史と云えるほどの記述さえない。社民党のルーツである社会党の場合には、検索で探せばかなりの分量の党史記述を目にすることができる。そういう意味では社会党史は高く評価される。ところが、日共の場合、どこから検索しても出てこない(2009年1月1日現在)。オカシなことである。日共は何の為に党史を隠蔽するのか、なぜ堂々と党史を公開しないのか。誰か、不破なり志位に弁じさせてみよ。
その癖、著作権については、現行著作権法よりなお生硬な強権著作権論を振りかざしている。党の見解が流布されるにつき、承諾なしで勝手にされてはならじとするその精神は何ぞ、筆者にはさっぱり理解できない。仮に不都合な記事が出た場合、著者、出版社は無論のこと広告宣伝媒体にまで押しかけ、撤去を恫喝する癖を見せている。部落解放同盟の糾弾闘争に対してはやり過ぎを批判するのに、電車の吊り皮広告を止めさせよと押しかけ糾弾し成果を誇っている。オカシなことではなかろうか。いつからこんなヘンチクリンな左派運動が流行し始めたのだろう。誰か、筆者が納得のいくように説明してくれないだろうか。
「学生運動の意義について」
最後に。学生運動の意義について言及しておく。筆者は次のように考えている。まず、人は何故に政治に興味を抱くのか、これを愚考せねばならない。思うに、政治活動の本質は、人間の諸活動の内で最も高度且つ総合的な判断力が問われる頭脳活動にあり、人間の本質を唯脳論的に頭脳活動こそ人間の性(さが)であり精華であると仮説するならば、政治は最も人間らしい営為ということになるのではあるまいか。人が成人化するに応じて政治に関心を深めていくのが自然且つ必然であり、この流れを阻止すると脳活動が奇形化すると理解すべきではなかろうか。一般に、政治家の頭脳年齢が若い秘密はここにあるのではなかろうか。かく、人と政治の関係を捉えてみたい。
とするならば、青年期の若者が、親離れの入り口に当たってかって等しく哲学、思想、宗教に目覚め、その延長線上に政治的活動に勤しみ、それなりの歴史を刻んできたのは当然の流れであり、むしろ社会の健全性を見てとれるのではなかろうか。中でも、60年安保闘争に於いて目覚ましい働きを歴史に刻んでいる史実などは大いに誉(ほまれ)であり、学び範とすべきではなかろうか。青年運動、学生運動の高揚は、民族ないしは国家の活力の証である。それが証拠に不思議と、戦後日本の再建期、高度経済成長期という日本経済が最も活力旺盛にしていた時期に学生運動の波も重なっているのは不思議ではないということになる。
筆者の眼力によれば、60年安保闘争から60年代後半の全共闘運動時代の青年学生運動は日本版紅衛兵運動であった。中国文革期に輩出した紅衛兵は、日本版紅衛兵の中国版と捉えるべきであって逆ではない。その中国版紅衛兵運動に靡いて日本でも中国版紅衛兵が一部で生まれたが潮流を創り出すことができなかった。それは何故なのだろうか。れんだいこが解答すれば、日本版紅衛兵運動は自生大衆的に生まれたものであるのに比して、中国版紅衛兵運動は官製お仕着せのものであった。官製お仕着せのものが根づかないのは歴史の教えるところである。つまり、日本版紅衛兵運動の方が理論および実践の拙さを見せつつも政治的には本質的に程度が高かった。このことが中国版紅衛兵運動の輸入が根づかなかった要因であると考えている。それほどに日本版紅衛兵運動は質の高い値打ちものであった。このことを確認しておきたい。
とすれば、金の卵的紅衛兵運動に激しく敵対した党派の胡散臭さを思うべきである。れんだいこ史観プリズムに照らせば、ここで本物と偽物を見分けることができる。日共と革マル派が躍起となって紅衛兵運動潰しに向かった史実が遺されている。その日共と革マル派がその後共に腐敗堕落を深めたことを思えば許し難いとすべきではなかろうか。そういうこともあって、紅衛兵運動は結局のところ右から左から揺さぶられ、遂に袋小路へと追いやられたまま現在に至っているように見える。しかしながら、値打ちものは値打ちものであって、機会さえあればいつでも再鼓動するのではなかろうか。その為にはまず、当の本人たちが党派を含めた自分自身をどこまで歴史的に鏡映しできるかにかかっていよう。現状は己自身を捉え損ねているのではなかろうか。
これを思えば、1980年代以降の特徴として、支配者階級が学生運動を封殺して得意然としているのはいただけない。学生運動は民族の活力を証するものであり、その衰退こそを危ぶむべきではなかろうか。学生運動封殺が過剰権力の行使の結果としてもたらされているとすれば、むしろ戒めねばならないのではなかろうか。歴史に対する反動的逆行として批判されるべきではなかろうか。但し、今日的逼塞には学生運動自身の内部的責任もあり、全てを支配階級側のせいにはできない。そういうことを踏まえつつ嘆かねばならないのではなかろうか。もとより甘やかすものではない。法に照らして厳格に臨めば良かろう。しかしながら、赤子ごとたらいの水を流す愚は避けねばなるまい。2011年現在の青年運動、学生運動の低迷は、この観点から精査されるべきではなかろうか。
以上は一般論である。筆者は、かっての雨後のたけのこの如く輩出した政治主義的青年の波が途切れたことにもう一つの原因があるとして訝っている。現代青年が学生運動に踊らなくなったもう一つの要因として、現代青年の生き方が、天下国家を論ずるかっての青年の生き方に代わってユダヤ式拝金主義に被れたことにあるのではなかろうかと考えている。ホリエモンその人の実際の人となりは知らないが、ホリエモン的成功譚、錬金術が持て囃され、第二第三のホリエモンを目指す生き方にとって代わられたのではあるまいか。そして、この成功者の対極に、その競争から落ちこぼれた無気力派、引きこもり派、コミュニケーション活動不慣れ派、自殺他殺衝動派が生まれているのではあるまいか。筆者は、そのように考えている。同時に、この現象は自然にもたらされたのではなく、意図的故意の愚民化政策の一環として強制されつつある生態とみなしている。
これを思えば、学生運動の再生には、単に政治のあれこれを批判するばかりではなく、偏狭矮小な生き方を強制する管理社会的壁の法網という時代の檻を食い破る運動にも向かわねばならないのではなかろうか。必ずしも金銭尺度で計れない人々の共生と連帯的絆の空間造りを押し広げていかねばならないのではなかろうか。この方向に社会再生の道しるべがあり、さようにして社会を活性化させるべく反転し直さねばならないのではなかろうか。日本型のルネサンス気運よもう一度!ということになる。誰か、これを共認せんか。
個は類と共に在り、類は個と共にある。この個類関係を見据えて、在るべき社会像を展望し、その仕組みづくりに小さな一歩から初めて大きな渦へと励むべきではなかろうか。その際、そもそもこの世はカオス的であり、それで良しと認め、硬直化した教条を排し、異論、異端をも包摂しながらの共同戦線を構築し、世代を継ぐ「よりまし革命」の永続的な旅に出るべきではなかろうか。学生運動は、これを陶冶する塾となるべきではなかろうか。
青年期には特有の良し悪しがある。一つは腰軽である。家庭から離れたばかりで未だ家庭を持たない独り身による軽快さが良し悪しの両面を持つ。この時期の過ごし方は千差万別で良かろう。問題は何を学び経験、体験するかであろう。一つは感性の鋭さである。この能力も良し悪し両面を備えており、善導されるべきであろう。いずれにせよ重要なことは、この時期の過ごし方がその後の人生の骨格、脳格を形成するように思えることである。そういう意味で、二度と戻らない青春を堪能するが良かろう。
その成果はこういうところに出てくる。個としての自我と類としての社会を対自化させることにより自身の客観化を獲得し、これを経由してこそ真に主体的な活動を得ることになる。時代に流されず阿(おも)ねず何かしら社会的に有益な貢献をしつつ生命を貪(むさぼ)ることができる。この生き方の方が、よしんば短かろうが有り難くも長らえようが納得できるのではなかろうか。青年期の活動如何は、このセンサーの練磨にも関係している。そういう意味でも重要なのではなかろうかと思っている。学生運動は、問わず知らずのうちの格好の人生稽古の舞台なのではなかろうか。