【提言10暴力革命論、プロレタリア独裁論を正しく理解せよ】

 (はじめに)

 「暴力革命論、プロレタリア独裁論を正しく理解せよ」を提言10とする。ここで、プロレタリア独裁論について検証しておくことにする。マルクス主義用語としてのプロレタリア独裁論も、国有化論、民主集中制論同様に正しく理解されているように思わないので、試論を提供しておく。詳論はサイト「プロレタリア独裁論」に記す。

 「暴力革命論の暴力、プロレタリア独裁論の独裁概念を哲学概念として理解せよ。ロシア10月革命的暴力革命はむしろ異筋な革命ではなかろうか」。これを「提言10の1」とする。

 日本左派運動は、世界のそれも同じであろうが長らくの間、暴力革命論の暴力、プロレタリア独裁の独裁概念を小児病的に弄んできた負の歴史を積み重ねているように思われる。ロシア・ポルシェヴィキ派による10月革命のひながたにより、暴力革命と云えば軍事蜂起的暴力革命という理解の仕方が定式化され、その後の革命運動はまさに好んで軍事的暴力で政権を奪取し、次第に一党独裁化させ、政敵を捕まえては反革命の烙印を押す革命手法を是認してきた。この悪癖が伝播したか、世界の左派運動内に政権取らぬ前から暴力的独裁的運動を稽古し、そういうスタイルを革命気取りする風潮を生むことになった。

 しかし、結果的に10月革命をして求めたものの反対物に帰着させてしまったことを総括すべきではなかろうか。当時の時代性により大綱が正義運動であると見なされた故に大目に見られてきたが、その実態が明らかになるにつれオゾマシサが露見しつつある。且つ、ソ連邦の解体という現実を突きつけられた今日に於いては、これを負の歴史と見据え、そろそろ客観化し俎上に乗せねばならぬのではなかろうか。これを為さないとしたらよほどの知の怠慢であろう。

 これについて筆者は思う。ロシア・ポルシェヴィキ派による10月革命方式は、歴史的にユダヤ教パリサイ派の伝統芸であり、近代ではネオシオニズムへと辿り着いているが、その影響が濃厚に認められるのではなかろうか。革命政権の中央委員の殆どがネオシオニズム派ユダヤ人であったこと、国際金融資本の財政支援が革命の原資になっていたこと等々の史実がこれを裏付けていよう。

 こういう史実が明るみにされなかったので、当時の世界各国の左派運動がこぞってロシア10月革命を礼賛した。時代的制約があった為止むを得なかった面もあると思われるが、これを受容した側のお粗末な理論レベルもそろそろ問題にすべきではなかろうか。その根本は、暴力革命論の「暴力」、プロレタリア独裁の「独裁」を、哲学的政治的革命的次元の概念用語であることを弁えず、彼らの能力に相応しく字句通りに理解して盲目的に暴力化独裁化を礼賛し過ぎてきたのではなかろうか。それは、理論の貧困に起因しているのではなかろうか。

 暴力革命論の暴力とは本来、対象とするものの変革を、所定の熟柿型手続きを踏むと長期間要するもの、あるいは旧権力側からの執拗な抵抗により進捗しない事態に対して、あるいは新路線の敷設を廻って強権的に一気呵成に遂行する為の手段及び方法のことを云うのではなかろうか。暴力そのものには暴力革命もあれば暴力反革命もあろう。そういう意味で、それ自体が自慢になるものではなく、常に暴力の質が吟味されねばならないのではなかろうか。この熟柿時間スパンの強行的短縮による強権スピードが本来の暴力革命論で云われるところの「暴力」という意味ではなかろうか。肉体的武器的暴力が必至なのは抵抗勢力のそれとの絡みに於いてであり、その行使は時々の対抗関係によろう。それは是非の問題ではなく歴史弁証法に預託されているのではなかろうか。

 「プロレタリア独裁はブルジョア独裁の対概念であり、ブルジョア独裁より合理的な支配システムでなければならない」。これを「提言10の2」とする。

 プロレタリア独裁の独裁とは本来、ブルジョア独裁に対置される用語であり、ブルジョア独裁の支配システムに代わる「よりましな」社会的合理性のある独裁でなければならない。ブルジョア独裁下の民主主義が形式的なものであるとすればより実質化せしめるものでなければならない。ブルジョア独裁下の議会主義が単なるおしゃべりの機関であるなら実質的に審議し執行できる機関でなければならない。つまり、プロレタリア独裁とはブルジョア独裁より出藍しブルジョア独裁より高度に合理的な支配システムでなければならないということになる。

 こういう風に展望すべきところ、何と「独裁」という表現に異常に拘り、かっての王朝制、君主制、貴族制もたじろぎ羨む独裁恐怖政治を敷く政治体制を是認し、抵抗勢力に対する革命的暴力を正義の名の下に行使してきた経緯がある。恐ろしい歴史的愚挙と看做すべきであるが、これが訝られずに言葉に酔いしれたまま支持されてきた。馬鹿に漬ける薬はないと云うべきだろう。

 ことほどさように、日本のみならず世界の左派運動は扁平な頭脳のままに暴力革命論、プロレタリア独裁論を弄び、その結果自滅し衰微している。当然と云うべきではなかろうか。弁証法的に見ても、革命とは従来質のものをアオフへーベン即ちそこから出藍させるものであり、従来質以下のものを持ち出して強制し歴史的後退するものではなかろう。それさえ分からぬ手合いの運動なぞに巻き込まれるのは真っ平御免とすべきではなかろうか。

 もっとも、日本及び世界の左派運動をそのような質のものに成り下げさせ、上手に利用してきたネオシオニズムの画策があるというのが真相のようである。となると、問題は、それに気づかぬまま抱き込まれ続けている連中の頭脳のお粗末さにも責任の一片があると云うべきだろう。

 「マルクス主義的革命論の真髄は偏に権力奪取にこそある。できもしない体制転覆型一挙革命論は漫画的なものでしかない。日々の階級情勢を左派化することこそ革命の一里塚である」。これを「提言10の3」とする。

 日本左派運動が日本革命の方式をかく確立していれば、今頃はよほどましな政権が樹立されていただろう。この観点から戦後革命の流れを検証する時、2.1ゼネストこそ最大のチャンスであったことが判明する。時の徳球−伊藤律系共産党中央による革命指導は革命前夜まで遂行しながら、直前のGHQ介入により「一歩後退、二歩前進」を余儀なくされた。以来、「1949年の9月革命呼号革命」を除いて絶好機会は訪れることがなかった。

 ところが、筆者の見立てるところ、戦後日本政治は面白い。日本左派運動の革命精神はその後、保守系政権の政府自民党内に命脈を持つことになる。1970年代初頭に現われた「田中角栄−大平同盟」がそれで、彼らは体制側保守政権に位置しながら、実質的には戦後日本のプレ社会主義性を牽引した形跡が認められる。彼らは、書生的に理論的イデオロギー的に難しいことは云わず、売国奴系タカ派との寄り合い世帯の中という制限下に於いてではあったが、人民大衆及び国家民族百年の計に合致するものを施策し続けてきた。そういう意味で、彼らの政治は日本政治史上に燦然と輝いている善政であった。凄い能力であったと云わざるを得まい。

 そのお陰で今日我々が今なお何とか踏ん張っておられる原資が国民の手の中に残されている。あの手この手で次第に簒奪されつつあるが、そういう富が人民大衆側に残されているということ自体が貴重と云うべきだろう。その田中角栄−大平同盟を解体殲滅した側の者が現下政治をリードしているが、ろくなものではないのもむべなるかな。

 一応以上のことを述べた次には、戦後の武装革命史を検証せねばならない。戦後日本の革命運動史上、武装革命運動が最初に現われたのは「共産党50年分裂」下での1950年代初頭の朝鮮動乱期であった。共産党指導幹部の公職追放、レッドパージにより難を逃れた共産党中央の最高指導者グループは北京へ渡り、ソ共、中共との議論の末、朝鮮動乱に於いてアメリカ帝国主義を盟主とする国連軍の後方兵站基地として機能する日本の撹乱戦略に合意した。しかしそれは、残置された共産党中央の軍事責任者・志田派の余りにもなお粗末な指導により悉く失敗した。その「闇部分」については本稿では触れない。これにより、日本左派運動に於ける暴力革命路線は基本的に潰えた。

 次に、60年安保闘争が大きなうねりを作り出し岸政権を打倒したが、武装革命として取り組まれたものではなかった。その武装革命が再登場するのは、1960年代後半の新三派系運動、続く赤軍派、日共革命左派運動によってであった。しかし、これも、余りにもなお粗末な理論と能力により悉く失敗した。以来、日本左派運動には武装式暴力革命を政治日程に乗せる運動は発生していない。

 但し、問題だけが残されている。マルクス主義的暴力革命論の理論と実践を廻る解釈と方式について、その後何ら議論されていない。政権奪取が棚からボタ餅的に落ちて来ることはない。体制派が道理道徳的に聞き分け宜しく禅譲することは有り得ない。最終的には暴力的に解決するしか方法はあるまいという前提に於いて、暴力革命をどう解釈するのか、武装式暴力革命の芽を摘むのか育てるのか、日本式革命の青写真をどう呈示するのかが問われている。これら肝心なことが皆、暗中模索五里霧中のままに漂っている。いわゆる理論的総括の不在であり、奥歯に物が挟まっている状態にある。少なくとも理論的に解明しておかねばならないのではなかろうか。「我こそが正しい」と云い続ける党派が有るとすれば自ら切開して見せてくれねばなるまい。以上を提言10としておく。