【提言21、第一次ブント称揚論】
(はじめに)
「第一次ブント称揚論」を提言21とする。筆者は、第一次ブントを称揚する。且つ、筆者のブント論は、あまたのブント論と明らかに違う。これを確認しておく。あまたのブント論がブントの手になり、筆者はブントと関わりを持たないことを考慮すると、一般的には筆者のブント論は当てずっぽうで、ブントのブント論の補足的地位に甘んじるべきであろう。ところが、筆者はそうは考えない。むしろ、ブントのブント論の方がが当のブントを知らなさ過ぎると考えている。何故こういうことが起きるのか。考えられることは、ブントのブント論は、まさにブント当事者であったが故にブントの森の中に分け入りすぎて、数多くの木を知ってはみたが却って森全体を見失ったのではなかろうか。つまり、歴史過程で捉える視点を失っている、そう考えている。
もっとも、ブントでない者がブント論を書けばより正確かというと、つまり門外漢があれこれの対象を論評すればより正確かというと、そういう訳ではない。やはり当事者証言こそ一番信に足りるとすべきであろう。まずはそこから始発させねばならない。そうではあるのだが、問題は、現場から始発したとしても、その先が宏大に発展する場合には何らかの観点、史観が必要になるということである。この観点、史観に誤りがあった場合あるいは本筋から逸れた場合、現場証言の客観化に失敗し、信に足らなくなるということである。そう思う故に、自前の観点、史観保持者である筆者による「れんだいこの第一次ブント論」を書き記そうと思う。そして、世評を賜りたいと思う。詳論はサイト「戦後学生運動考」所収の「第1次ブント論」に記す。
「第一次ブントを称揚せよ」。これを「提言21の1」とする。
第一次ブントが何故考察されねばならないのか。それは、日本左派運動史上燦然と輝く「60年安保闘争」を成功裡に領導した実績と、その際にカオス的開放系闘争理論を創出し、これに基く運動を牽引したという事例が認められるからである。この二事だけで次のように総括されるに値する。
史実は、60年安保闘争が「左派運動が攻勢的に政界を揺るがし、時の岸政権を打倒した勝利的稀有例」であるにも拘わらず、これを敗北とみなして四分五裂していくことになる。60年安保闘争を担った面々がブントの解体に内から外から呼応し共同していった。そんな馬鹿なと思うがこれが史実である。以下、筆者の第一次ブント絶賛論を開陳する。
筆者が第一次ブントを絶賛するのは、彼らの言辞や理論によってではない。彼らの実践と感性に於いてである。追々述べるが、はじめにこのことを指摘しておく。彼らの言辞や理論が学ぶ価(あたい)のあるものとすれば当時の情況に於いてのものであり、今日では空理空論が目立ち過ぎており殆ど使えない。このことは左派運動党派としては重大な失格なのであるが、第一次ブントにはその失格を補って余りある感性の素晴らしさがあった。
第一次ブントの感性が如何に素晴らしかったか。それはまず、中国の文革に先だつ十年前から日本左派運動の紅衛兵足りえたことにある。彼らは、毛沢東に云われるまでもなく自前の造反有理運動を創出していった。第一次ブント創出時の状況として、日共が六全協でそれまでの徳球ー伊藤律系執行部からスパイ派の野坂ー宮顕系へという最悪の執行部に転換し、次第に本末転倒の統制主義運動に転化しつつあった。社会党は政権奪取による責任与党政治を目指すでもなく徒に万年野党に甘んじる口先批判政党に堕しつつあった。
第一次ブントは、これらの状況を眼前にして既成左派運動を批判し抜き、自前の党派を生み出す挙に打って出る。宮顕式統制主義批判から始発した故に当然のことながら「自由、自主、自律」型規約に基づくルネサンス風競り上げ運動を展開していった。これは日本左派運動史上初の個々の活動家の自律精神を核とする運動体であった。何よりこのことが素晴らしかった。そして、この型の運動が成功し、急速に支持者を増やしていった。我々は、もっとこのことに注目する必要があるのではなかろうか。
第一次ブントの感性の素晴らしさにはもう一つの理由がある。それは、闘争の矛先を国家権力中枢機関の集中する霞ヶ関ー国会空間に照準を合わせデモ動員を煽り数次にわたって震撼させたことにある。最終的に当時の岸政権打倒を勝ち取った。政権打倒は、今日まで前例のない日本左派運動史上未曾有の成功事例となっている。十年後の70年安保闘争の単なる動員デモに比べて一目判然とする違いがここに認められる。
しかし、第一次ブントは、60年安保闘争後の局面に於いて、その成果を確認し損なった。筆者の第一次ブント論は、確認し損なった成果を今からやり直そうとすることにある。如何に成果を確認するべきであったのか。もったいぶるが、これを一言で述べることは難しいので、以下、順を追って論証する。
「第一次ブント創出までの流れ俯瞰」 。これを「提言21の2」とする。
第一次ブントの運動的成果を歴史に於いて正しく確認するためには、戦後秩序論から説き起こさねばならない。戦後秩序論とは戦後憲法論に集約されるが、これをどう観るか。筆者は、戦後左派運動はここで早くも躓いたと看做している。
戦後左派運動は、戦前の治安維持法体制から解放された勢いで、それまでの禁書であったマルクス主義の諸文献を紐解き、マルクス、エンゲルス、レーニンらの急進主義的な資本主義体制打倒論を初学者的に生硬に受け止め、文言が指針する通りの運動へと傾斜していった。あるいは戦後の冷戦構造に於ける一方の雄となったソ連邦体制を指導するスターリニズムを信奉し、その指導に従うことが正しき左派運動と自己規定していった。しかし、情報開示された今日になって思うのに、マルクス、エンゲルス、レーニン理論にもその革命論に於いてある種の隔たりの幅があるということ、スターリニズムの場合には本来のマルクス主義の内部からの自己否定であり、模範とするには足らないどころか否定的に出藍せねばならないものであったことが自明である。
ひとたびこの観点、史観を受け入れれば対蹠的に、戦後日本秩序は世界に稀なるプレ社会主義秩序になっていたことを見抜かねばならなかった。然るに、当時の戦後左派運動は、その戦後秩序をも旧体制権力と見立て、その解体を声高に叫べば叫ぶほど左派的であるかの如くな錯覚に陥った。この教条主義が最初の間違いであった。その教条主義に基づく戦後秩序体制打倒運動がそもナンセンスなものであったが、戦後左派運動はその不毛な道を競り合いしていった。故に、闘えば闘うほど先細るしかない現実遊離となった。確かに、戦後日本は米英を主とする連合軍に進駐されており、GHQ権力が君臨しており、そのGHQ権力は米帝国主義のお先棒を担がされていた。左派にとって、米帝国主義との闘いが世界的第一級課題であったからして、米帝国主義の進駐する戦後日本体制は否定されるべきものと理論化していったことには相当の理由があるにはあった。
しかし、戦後秩序をプレ社会主義秩序体制と看做せば事情が異なってくる。戦後秩序をそのようなものとして看做したかどうかはともかくも、これを戦前秩序との比較により弁証法的に捉えたのは人民大衆であった。彼らは、戦後秩序を感性に於いてプレ社会主義秩序の如くに感じ取り、逸早くその享受と謳歌に向った。それは大衆感覚の賢明さを証している。戦後左派運動は無能にも、この感性を取り入れることのないままペシミズム的に理論ぶることに終始した。
その後、戦後日本は次第に戦後世界を規定した冷戦構造に巻き込まれていった。日本を反共の砦化せんとし始め、米帝国主義は、朝鮮動乱前後を契機に日本を後方兵站基地化していった。やがて、サンフランシスコ講和条約の日を迎えるが、同時に日米安保条約が締結され、講和独立後にも米軍基地が要所要所に居座ることになった。これにより、それまでの連合軍占領から米軍単独支配への転換が為され、米帝国主義による単独対日支配体制が完遂した。
しかしながら、れんだいこ史観によれば、米軍の占領継続は外在的なもので、内在的には戦後憲法秩序が機能しており、否戦後憲法秩序はますます受容されていきつつあった。以来、戦後秩序は、憲法秩序と日米安保秩序の二大原理により操舵されていくことになった。これが最大矛盾となり、戦後日本のその後の歩みを規定していくことになる。
この間、戦後日本の政治権力を握ったのは自由民主党であった。戦後日本左派運動は、2.1ゼネストを始め何度かの政権取り機会を得ていたがそのつどGHQ権力に潰された。そういうこともあって、最終的に磐石の態勢を構築して責任政党となったのは保守系大連合により生まれた自民党であった。これに戦前来の官僚及び財界が列なり、強固な保守系与党権力が創出された。この政府自民党が、戦後復興からその後の経済成長へ向けての切り盛りに成功していくことになる。
戦後左派運動は、この政府自民党の評価に於いても致命的な過ちを犯す。政府自民党は実際のところ、これを弁証法的に観れば、戦後日本の最大矛盾即ち憲法秩序派と日米安保秩序派を同居混交させた上に成立していた。自民党は、戦後憲法秩序派のハト派と日米安保派のタカ派との合従連衡によるやじろべえ式政治を本質としていた。それは見事なまでに日本的カオス式和合政治の具現であった。
戦後左派運動は、政府自民党内のこうした抗争軸を観ずに、これを保守反動権力として一色で規定し、対蹠的に手前達を革新ないしは革命派と映し出す漫画的構図を図式化させた。それは余りにも手前勝手なご好都合主義理論以外の何物でもなかった。この悪作法は今日まで新旧左翼問わず続いているように見える。
しかしながら、マルクス主義手引き教本たる「共産主義者の宣言」には、歴史的情勢の恣意的独善的読み取りに基く公式主義を強く戒めて、次の言葉で結んでいる。
「共産主義者は、労働階級が直面している利害を擁護せんとして目下緊急の目的を達成するために闘う。しかし当面の運動の中にあっても、運動の未来を気にかけている。(中略)手短に言うと、共産主義者はどこでも、現存する社会的、政治的秩序に対するあらゆる革命的運動を支持する。こういう運動のすべてで、共産主義者は所有問題を、その時それがどんな発展度合にあろうとも、それぞれの運動の主要問題として、前面に立てる。最後に、共産主義者はどこでも、あらゆる国の民主主義諸政党との同盟と合意に向けて骨折り労を為す。(中略) 共産主義者は、自分の見解や目的をかくすことを恥とする。共産主義者は、自分たちの目的が、現存する社会的諸条件を暴力的に転覆することによってのみ達成できることを、公然と宣言する。支配階級をして共産主義者革命のまえに戦慄せしめよ! プロレタリアは鉄鎖のほかに失うものも何もない。プロレタリアには、勝ち取るべき世界がある。万国の労働者よ、団結せよ!」。 |
「激しい弾圧、獄中にあっても主義を守り、節を曲げなかった共産党の神話化された権威」が支配し、「『党』といえば、それは日本共産党のことであったといっても過言ではなかった」。 |
「第一次ブントの裏功績」。これを「提言21の3」とする。
日本トロツキスト連盟が革共同となり、続いて第一次ブントが登場する。この時期は、折悪しくというべきか折り良くというべきか、政府自民党はネオシオニズム系タカ派の岸首相が政権を担当していた。岸派の史的意義は、それまでのハト派系吉田派との熾烈な抗争を通じて戦後初めて米奴ナイズ化されたタカ派が政権奪取したことにあった。これを鳩山派がお膳立てした。しかし、このことは、党内に吉田を後継した池田派と佐藤派という二大ハト派系派閥を抱えており、岸政権は彼らと暗闘裡で政権運営していたことを意味する。つまり、政治手法は強引であったにせよ、政権基盤はかなり危ういものであったことになる。
結成間もないブントは、目前に控えた60年安保闘争に組織を挙げて玉砕していった。結果的に第一次ブントは、その闘いを、たまさか岸政権時代に花開かせることになった。それは誠に歴史の不思議な廻りあわせであった。そして、60年安保闘争を殊のほか成功裏に領導したことにより、、政府自民党内のハト派対タカ派の抗争に於いて、タカ派総連合として登場していた岸政権を打倒せしめた。かくて、戦後初のタカ派政権はブントの闘いの前に万事休して、政権をハト派系池田派へ禅譲させた。
これにより、政府自民党は再び吉田派の後継者に牛耳られることになり、以来ハト派の治世が長期安定化し、1960年より池田ー佐藤ー田中まで15年余続くことになる。角栄後はタカハトが紆余曲折するが、ハト派は最終的に大平ー鈴木まで続く。その間都合20年余をハト派が主導していくことになった。岸に続く強力なるタカ派の登場は1980年代初頭の中曽根政権の誕生まで待たねばならず、その間雌伏させられることになった。
第一次ブントの闘いは、彼らが意図したか自覚していたかはともかくとして、政府与党自民党権力内のこうしたタカ派とハト派の暗闘に容喙し、タカ派を引き摺り下ろし、ハト派を後押しする政治的役割を果たしたことになる。これが第1次ブントの史上に燦然と輝く最大功績であった。れんだいこ史観によれば、第一次ブントの闘いの歴史的政治的意義はここにこそ認められる。これが云いたいがためにここまで順序を追って素描した。
興味深いことに、第一次ブントの当事者でこの事を自覚していた者は稀有なようである。第一次ブントの指導者・島ー生田ラインにもこの観点はなかったのではなかろうか。筆者には、観点のこの方面の喪失が60年安保闘争の意義を喪失せしめ、後の第一次ブント解体となる混迷に繋がったように思われる。もっとも、戦後秩序プレ社会主義論抜きにはそのようには総括できず、それを欠いていたブントが運動成果を確認できなかったのも致し方なかったのかも知れない。
ちなみに、タカ派支配からハト派支配へと転換させたのが第一次ブントなら、その逆にハト派支配からタカ派支配へと転換させたのがロッキード事件ではなかったか。ロッキード事件はそういう歴史的政治的地位を占める。通りで、その煽りが真反対から為されているにも拘わらずジャーナリズムの喧騒の程度も匹敵している。
問題は次のことにある。第一次ブントは奇しくも、日本の戦後政治に於ける真の抗争軸であるハト派対タカ派抗争に対し、タカ派掣肘に大きな役割を果たした。第一次ブントは奇しくも、タカ派の能力者・岸を打倒することにより戦後憲法秩序を擁護する役割を果たした。つまり、戦後のプレ社会主義秩序を擁護し、その解体屋を葬った。当人たちが口先で語ることなく、否全く意識せぬまま体制打倒運動を呼号していたとしても、客観的役割はかくの通りのものであり、筆者はその感性や良しとしている。
なんとならば、戦後憲法秩序は何を隠そう、社会主義圏のエセ社会主義と比較して比べ物にならない世界史上初のプレ社会主義秩序であり、それは護持されるに価のあるものであった。それを感性で護持した第一次ブント運動は世に云う天晴れなものではなかったか。筆者はかく評している。しかるに、第一次ブント運動評者は当事者まで含めて今日まで、この視点を欠いたまま極力思弁的に語り過ぎているように思われる。筆者は、この種のブント論は学ぶけれども受け入れない。というか難解過ぎて役に立たない。理解できない。
「第一次ブントの島−生田ラインの指導を称揚せよ」。これを「提言21の4」とする。
しかし、第1次ブントは、マルクス主義の字面的教条主義に染まっており、その急進主義性を競うと云う捻じ曲がった理論によりこの手柄を確認できぬまま、60年安保闘争後の虚脱時期に日共と革共同の集中砲火を浴び、最終的に革共同全国委に吸収される形で解体するという憂き目に遭う。つまり、日本左派運動の唯一の成功事例と云う赤子をタライごと水に流してしまった。ブントはその後再建されるが、分裂に忙しく第1次ブント的偉業を為さぬまま今日に至っている。
日本政治運動はかような捩れの中に在る。戦後学生運動は、こういう構図の下で、捩れに無自覚なままに担われてきた形跡がある。かなりな高等数学的組み合わせの捩れの中に在るので、これを当時の青年学生運動が見て取れなかったしても致し方ない面もあろう。問題は、今日の時点に於いて、どう確認するかである。ごく平凡な通俗的な正義論を説く者は、よほど幸せ者と云うべきだろう。
概要「かってのブント時代、共に闘ったかなりの人々(有名な!)が、今日とんでもない政治的スタンスをとって、出版物やマスコミなどで大口を叩いているのを見ると、なんということかと思います。かって共産主義だ、革命だといったことは、そんなに薄っぺらなことだったのかといいたい気持ちです。ブントを右から汚すものにはがまんできない」。 |