【提言4、日本歴史の歩みを評価し、在地土着型社会主義を目指せ】
(はじめに)
「日本歴史の歩みを評価し、在地土着型社会主義を目指せ」を提言4とする。提言3でネオシオニズムのいわゆる国際主義イデオロギーに対置させて「諸国協和的民族主義運動を新創造し満展開せよ」を指針させたが、もう一つ「在地土着型社会主義理論を創造させよ」をもワンセットで主張して補完したい。以下、論証する。詳論はサイト「マルクス主義考」所収の「在地型社会主義の研究」に記す。
「在地土着型社会主義を目指せ」 。これを「提言4の1」とする。
筆者は、日本の左派運動がそもそもに於いて在地土着型社会主義を目指していれば、今よりはよほどましな政治的影響力と党派を形勢し得ていただろうと確信している。この点で、我が日本左派運動は致命的な間違いを犯し続けてきたのではなかろうかという思いを持っている。徒に国際主義を標榜することによりコミンテルン拝跪型に傾斜し、その他方で在地型を捨象した運動を指針させてきたことにより、日本左派運動は隘路に陥ったのではなかろうか。
幾ら国際主義を標榜してみても、純粋抽象型の国際主義なぞどこにもありはしなかった。赤軍派の青い鳥運動の経験はそれを物語っていよう。あるいはエスペラント語の興亡がそれを証していよう。このことにもっと早く気づくべきだった。
とりわけ、戦前に於けるコミンテルン運動拝跪型の共産党運動は、今となってはソ連邦やコミンテルン運動の正体が知れておるからして分かり易いが、決して真に左派的なものではなかった。しかし如何せん情報不足というのは怖い。当時の活動家は、マジメであればあるほどコミンテルン運動に真紅性を見出していた。渡政の悲劇がここに見て取れる。その他諸々多くの有能の士がこの倒錯のまま治安維持法体制にヤラレテシマッタことは惜しいことであると考える。
驚くことに、戦後の左派運動も本質的には何も変わっていない。戦前はコミンテルン、戦後はコミンフォルム運動に拝跪し、次に親中共化し、その後紆余曲折の末に漸く自主独立型に転じた。このこと自体は自主独立型日本左派運動の水路を拓いたという功績であるが、後述するようにそれは党の私物化の為に悪用されており、筆者の展望する自主独立路線とは似て非なるものでしかない。
この点で、未だに新左翼の一部に国際主義の理想を求め続けている面があるのは遅れ過ぎているというべきではなかろうか。純潔系の国際主義を幾ら求めても結局叶わなかったことを確認する必要があるのではなかろうか。なぜなら、純粋抽出型の国際主義なるものは絵空事であり、在地型の基盤に立つ国際主義でなくては意味がないという教訓がすでに呈示されているからである。
筆者は今思う。端から在地土着型社会主義を目指していればかような失態に出くわすこともなかったのではなかろうか。一番肝要なものを求めないで、何故脇道を散策することに耽るのか、解せないことである。我々が目指す社会主義はそう難しい原理ではない。人はエゴイストとして人生するのか、共生を志向するのかだけのことである。生産力と生産性の向上は必然的に社会化を要請する。そういう時代に合わせた社会の合理的在り方を追求しようというだけの至極真っ当な欲求である。それならそれで、急ぐかゆっくり歩むかは別としてそれを目指せばよかろう。
名著「邪宗門」の著者として知られる高橋和巳が、「生活に根ざし生活の中からにじみ出る果汁のように思想は形成されるべき」と述べているとのことである。まことにその通りではなかろうか。日本左派運動は未だにここに至っていない。
「日本左派運動の在地土着型社会主義の流れを正しく評価せよ」 。これを「提言4の2」とする。
日本左派運動の在地土着型社会主義の流れを渉猟すると、正統系譜として、戦前では幸徳秋水−大杉栄系譜のアナーキズム、次に福本イズム、次に田中清玄委員長時代武装共産党が評価されるに値する。戦後では、敗戦直後の徳球−伊藤律系の共産党運動を嚆矢とする。かく評されるべき流れが、日共党史では罵詈雑言され続けている。
徳球−伊藤律系運動の場合、この時代は敗戦後遺症としてGHQ統治下にあり、この絶対的な権力の壁を押し切る力はなかった。やがて「50年分裂」を迎え、所感派としての自律的立場を確保したが、朝鮮動乱下の混乱で非合法化されるに及び北京へ逃亡した結果、結局はスターリン式国際主義の権威に服し、中共式革命方式を指令することを余儀なくされた。この武装闘争が失敗して以来、徳球−伊藤律系運動の灯が消え、この系譜は消滅したまま今日に至っている。筆者は、再脚光を浴びる日が来ることを望んでいる。
これを撲滅したのは宮顕であった。宮顕は、徳球−伊藤律系の共産党運動に終始天敵的に対応し、「50年分裂」時にはここぞとばかり声高に国際主義を標榜し、徳球−伊藤律系の自主独立型運動に敵対した。徳球−伊藤律系運動破産の間隙を縫って党中央へ返り咲き、1955年の六全協で党中央を簒奪し、その後今日までこの系譜が日共党中央を一手独占し続けている。
宮顕系日共運動は、中ソ対立に対して中共に与し、その後中共とも対立すると云う経緯で余曲折を経て「自主独立」に転ずる。その経緯を見れば、「宮顕式自主独立」は共産党の私物化の為に生み出されたご都合主義のものであり、在地主義土着型の左派運動を創出するという革命的気概により生み出されたものではなかった。国際共産主義運動に辛うじて維持されていた共同討議と云う正の面があるとすれば、その正の繋がりさえをもをひたすら破壊に狂奔する悪辣なものでしかなかった。ここに、宮顕式自主独立路線のイカガワシサがある。これにより、共産党は、野坂といい宮顕というトンだ食わせ者に拝跪する日共運動に転じることになった。その結果、反体制運動として始発した共産党が体制内化させられてしまい、これに反発した或る者は出奔し、或る者は反共の闘士として八つ当たりする者も出る始末となった。
しかしながら思うに、日本左派運動の本家的地位を持つ日共をして、その動機はどうであれ、一端国際共産主義運動のクビキから解放し「自主独立」に転じせしめたのは功績ではあろう。問題は、正しく自主独立し、在地主義土着型の左派運動を担うと同時に、それを軸足にしながら国際主義的連帯をも生み出すべきではなかろうか。ここに現代的左派運動の責務が課されていると窺うべきではなかろうか。
日本左派運動は長らくの間この見地から離れて、戦前の日本帝国主義の非を論(あげつら)い、日帝打倒こそ日本左派運動の責務とする立場でもって左派性を競ってきた。しかし、事はそう単純ではないのではなかろうか。戦後日本国家権力がネオシオニズムから自律して独自の権益を張り巡らした帝国主義的史実はない。大東亜戦争は、ネオシオニズムのクビキから離れようとする面が見られるが、最終的に敗戦を余儀なくされた。戦後の日帝権力は、戦前も然りであったが、ネオシオニズムによって再育成され、その枠内で活動しており、今や使い捨てにされようとしている脆弱なものでしかない。
「意図的故意に政権取りに向かわない日共運動の胡散臭さを大衆的に確認せよ」 。これを「提言4の3」とする。
日本左派運動は、かれこれ百年以上費やして少しも事態を進展させていない。これはオカシ過ぎやしないか。それが筆者の疑問である。仮に、徒歩で東京向けて出発してもいつしか辿り着くだろうに。乗り物に乗ればもっと早く辿り着くだろうに。それが辿り着かないのは、東京へ行こうとして反対方向へ歩を向けているからではないのか。組織の指導者が左派運動の進展を堰止めするように意図的故意に逆指導しているからではないのか。そう思えば思い当たる節があるというのが筆者の気づきである。
筆者が学生時代の1970年代の東京の政治状況は、これを選挙運動で見れば、共産党と公明党の伯仲時代であった。否、やや共産党の方が優位であったかも知れない。あれから40年、事態はどうなったか。創価学会ー公明党は着実に組織を伸ばしてきた。あたかも一歩一歩東京へ向けて歩み出し、とうとう東京へ辿り着いたかの如くである。公明党はかくして政権与党入りとなった。これは、党運動としては真っ当な歩みと評価されるべきだろう。但し、政権与党入りした公明党のその後の在り方は自民党タカ派のネオシオニズム政治の露払い役を引き受けており、体制ベッタリ派であることを露骨化させており愚劣でしかないが、権力へ向けて歩を進めそれに成功したのは疑いなかろう。これは、極端に言えば、誰がやってもそうなるのではなかろうか。
その誰がやってもそうなるのがそうならないとしたら、どこかオカシイということに気づくべきだろう。これを指導者論で見れば、野坂や宮顕や不破やその取り巻きの責任ということになるが、彼らがやってきた仕業を判じてみよ。紅い心は元々なくて異邦人が紅い心を演じて党中央を占拠し続け、逆指導ばかりに耽ってきたから、日共は今在る如く態を為していないのではないのか。平素は紅い言葉をたまには述べるが、一朝事あれば逆指導ばかりに夢中になってきたのではないのか。その挙句が、かくも惨めに創価学会ー公明党勢力にひけをとっているのではないのか。
その際立つ特徴は、弁舌が二枚舌、否マルチ舌にある。ああ云えばこう云うで有名になったオーム真理教の上祐なぞまだ可愛いというべきだろう。中学生と大人ほどの格段の差が有る。そういうことをはっきりさせるには、彼らが歩んできた党史を見ればよい。が、彼らが作った党史がこれまたマルチ舌で脚色されているので、下手に読めば却って阿呆にされてしまう。そういう訳で、筆者が能う限りの資料を収集しつつある。そして、筆者なりのコメントを付しつつある。筆者の目の黒いうちに正史を遺しておこうと思う。
そういう作業から滲んできたのが、筆者の気づきの確かさである。筆者が20歳過ぎから数年間、かの運動と関わり、当時抱いた疑問の確かさが確証された。これをどうするか。筆者の自己了解に留めるのか、世に晒すのか、積極的に述べ伝えるのか。さしあたりは、サイトに公開することで役目としようと思う。こたびは本書で問うことにする。
みんな僅かばかりの余生を過ごしている。どう生きるかは銘々の勝手である。筆者は、類縁の友と語り続け、何がしかの世への貢献が出来ればそれで本望と思っている。あと何年生きられるか分からないが、生ある限りはそうしようと思う。とまぁ思うままを書き付けてみる。
「日本歴史の歩みを評価し、独特の和的結合政治というこの国の形を否定性に於いて且つ同時に肯定し愛せよ」 。 これを「提言4の4」とする。
なぜ在地型の社会主義が必要なのか。それにはもう一つの理由がある。それは、日本が伝統的に愛育生育してきた社会の在り方を根底で是認したい為である。日本左派運動は従来「洋もの被れ」することにより、それまでの日本史の流れを嗜虐否定する観点から論を説き起こしてきた。筆者は、それは間違いである考えている。
日本社会は、「洋もの被れ」が主張するような遅れた国でもなければ、非文明的な社会でもない。否むしろ、「洋もの被れ」が被れている西欧社会よりも高度な和的統治機構、社会構造を練磨していたとみなすことが可能である。この観点から日本的在地的なるものを検証せねばならないのではなかろうか。
日本左派運動が明治維新以来の天皇制軍国主義を批判するのは良い。しかし、明治維新以来の天皇制軍国主義は、それ以前の天皇制とは異質の皇国史観的天皇制とも云える新たな体制且つイデオロギーであって、その天皇制批判によって天皇制否定論を生み出すのは早計であると考える。天皇制と云う統治システムを生み出した日本独特の社会体制に対して、学問的な検証を行う必要があると考える。この研究を経由させて後初めて天皇制からの出藍を理論化できると思う。
筆者が、在地性社会主義を唱えるのは、過去の日本左派運動の没理論性、通俗マルクス主義的イデオロギー主義の批判と通底している。我々は、はるか悠久の太古以来からの日本史の歩みを真っ当に検証し、受け継ぐものは受け継がねばならない。その為には、我が社会に導入された天皇制以前の社会、天皇制以降の社会、象徴天皇制的武家政権時代の社会、皇国史観的天皇制以降の社会を客体化させ、これら全ての歴史に貫通する正の面を受け継がねばならないと考える。
この観点に立った時、日本左派運動が、日本史の歩みに対し余りにも表層的な階級史観で了解し過ぎていることに気づく。特に、最も重要と思われる古事記、日本書紀以前のこの国の形、即ち天皇制以前の原日本社会の姿、その姿が今に繋がる歴史的連綿性について、もっと強く関心を持たねばならないのではなかろうか。筆者は、在地土着型社会主義を展望するときの必須学問であると思っている。
その昔、共産党の指導者然として延安から帰国した野坂が発した言葉は「愛される共産党」であった。それは当時の高まる革命意識に対し水を浴びせる穏和運動を指針させたものであった。筆者は、そういう臭い話ではなく、代わりに「日本史を真っ当に愛する共産党になれ」を掛け声したい。
「赤軍派が最後に掴んだ在地土着性社会主義理論を高く評価せよ」 。これを「提言4の5」とする。
結論として、日共系運動は評する価値もないので言及しない。僅かに言及に値する新左翼運動について言及すると、急進主義系の全学連運動は赤軍派まで定向進化した。筆者はそう見立てる。赤軍派の心意気は良いとして求めた青い鳥は海外に居ただろうか、かく問いたい。その赤軍派の総破産を前にして教訓とすべきは、各国人民大衆は、自国在地の青い鳥を探すべきで、その上での国際連帯の道を模索すべきであるという結論へと至るべきではなかろうか。
そもそも在地主義と国際主義は矛盾しないのに、在地性土着性を否定する国際主義をもって左派とするのは空理空論であり有害であったのではなかろうか。我々はこれに酔い過ぎていたのではなかろうか。しかしてそれは、思想の大枠としてはネオシオニズムの扇動するタブラカシの国際主義に乗せられていたのではなかろうか。思えば、ネオシオニズムこそ本質は在地性土着主義運動であり、これを内に秘めた限りでの国際主義であろうに、その詐術でしかない無国籍型国際主義に軽々と乗せられていたのではなかろうか。
興味深いことに、赤軍派の指導者にして獄中二十年余を経て出獄してきた塩見氏が今、在地性土着性社会主義を創造しつつある。ネオシオニズムに対する観点は持ち合わせていないようであるが、大いなる理論的成果ではなかろうか。パレスチナへ向かった日本赤軍の指導者の一人重信房子も同様の視野を示しており、よど号赤軍の指導者の田宮もそう指針させていた。してみれば、在地性土着性社会主義思想及び理論は、身命賭した赤軍派ならではの獲得物ではなかろうか。赤軍派の軌跡は、この理論に到達した故に振り返られるべきではなかろうか。というような気づきを誰か共有せんか。
補足しておけば、筆者は、2009.6.23日の太田龍追悼偲ぶ会に参加した帰りに神田の三省堂で荒岱介編著「ブントの連赤問題総括」を手にした。なぜこれを採りあげるのかというと、民族主義−国際主義論、それに伴う革命論の見直しを廻るブント内での論争になっているからである。概ね荒派による塩見パッシングを基調としているが、こういうやり取りそのものが珍しく高く評価したい。筆者的には、パッシングされている塩見氏の個性の強さを別にすれば塩見理論の変貌の様こそ貴重と思っている。こういう見方もあるということを告げておきたい。以上を提言4としておく。