【提言17、角栄政治を再興せよ】

 (はじめに)

 「角栄政治を再興せよ」を提言17とする。提言16で戦後ハト派政治を称揚したが、ここで戦後ハト派政治の精華足り得た角栄政治を個別に検証することにする。本書では既に「別章7、ロッキード事件考」で角栄について素描しているので、ここでは書き足りなかったところを記す。本章を読んでも相変わらず角栄批判に興じる左派者は悪いことは云わん、暫く口をつむることだ。そういうサヨの一言一言が害悪でしかないから。詳論はサイト「田中角栄論」に記す。
 

 「戦後ハト派政治の総帥田中角栄政治を再興せよ」。これを「提言17の1」とする。

 筆者は、戦後保守本流派を一時期形成していたハト派の中でも、田中角栄を偽装保守実は真正の左派ではなかったかと推定している。実際には、古代史に造詣がなければ分からないであろうが、古代出雲王朝に於ける大国主の命(みこと)的政治であったとみなしている。スサノウとみなす向きもあるがオオク二ヌシ的であったと解するのがより近いと思われる。

 筆者の見立てによれば、国津族系出雲王朝は国譲り前に於いて善政政治の見本を示していた。これが日本政治の原型として今日にも伝わる「日本の形」となっている。日本政治は、その出雲王朝政治が「国譲り」により渡来天孫族系の高天原王朝に顕界の政治的支配権を譲り、精神的文化的な幽界に於いて生き延びるという「手打ち」で日本政治の新しい形へと移行した。この二元政治が日本政治の原型となり今日へと続いている。これは、記紀その他古代史書が伝えるところであり、これを真っ当に読めばこういう理解になる。

 戦前の皇国史観の誤りはこれを捻じ曲げ、「天孫族=善、国津族=悪」的逆さま史観により政治主義的にデッチあげられたイデオロギーであった。日本左派運動は、国史改竄として批判せねばならない歴史的責務があるところ、西欧史には饒舌になるが日本史には皆目チンプンカンプンと云う習性により盲目のまま今日へと至っている。付言しておけば、世界に比して相対的に「良き日本」という場合の源泉はいつも、出雲王朝に結実した原日本から汲み出されているように思われる。


 もとへ。角栄政治は、その良き原日本型政治の戦後復興版であった。これにネオシオニズムが立ち塞がった。筆者は、角栄の政治能力の「異質性」を嗅ぎ取ったネオシオニズムがロッキード事件を用意周到に仕掛け、政治的に葬ったと見立てている。その際ネオシオニズム・エージェントがこぞって呼応し、その際宮顕−不破系日共が異常にはしゃいだ裏には臭いものがあるとの仮説を持っている。日本左派運動は新旧左翼ともども、この観点をからきし持っていない。むしろ、金権政治の元凶として最悪視している。果たしてどちらの受け止め方が正しいのだろうか。

 今日、冷静になって考えれば次のことが明らかになる。今現在、自民、民主のタカ派系が構造改革と称して次から次へと改悪策動している諸制度は、ハト派時代に築かれた善政の産物の捻じ曲げばかりである。タカ派系は何を急いで改革と自称する実は改悪に狂奔しているのだろうか。ここが詮索されねばならないだろう。ネオシオニズムのシナリオ論を媒介せずして解けるだろうか。


 筆者は既に「提言6、 戦後憲法秩序=プレ社会主義論により護持成育せしめよ」、「提言16、戦後保守本流を形成した自民党内ハト派政治を再評価せよ」で述べたように、この時のハト派政治こそ、戦後日本のプレ社会主義性を良しとして在地土着型の左派運動を展開した稀有なものであったのではなかろうかと見立てている。彼らは一度としてマルクスのマの字さえ口にしなかったが、マルクスを呼号し続けるマルクス主義者よりもよほどマルクス主義的で、世界に冠たる親方日の丸式在地土着型社会主義政策を創造し敷設していったのではなかろうか。ここに、世界の奇蹟と云われる戦後の高度経済成長式発展があり、イスラム世界ともよく親交し賛辞されていたのではなかろうか。

 してみれば、戦後保守本流ハト派の政治、特に角栄政治の功績を見直し、継承すべき面を継承し、新在地土着型のハト派政治を再興していくことこそ現代政治のテーマとなっているのではなかろうか。してみれば、この流れに向かう政治こそ期待されているのであり、これに逆行する政治は反動的といえるのではなかろうか。このことを指摘しておきたかった。この観点に異論があれば、筆者ははいつでも応ずる意思がある。堂々と議論しようではないか。

 「戦後学生運動が戦後保守主流派の大御心で許容されていたことを知れ」 。これを「提言17の2」とする。

 筆者の若い頃は、10.21と云えば反戦デーだった。筆者はあいにく民青同だったので面白くもないデモに参加して流れ解散した経験しかない。或る時の10.21日、新橋駅辺りで解散したところ、脛と膝を大怪我し両肩を抱えられながらのメットの連中と遭遇した。党派が違うので話すこともなかったが、筆者は、あっちの方が闘ったという気がする思いがしたことを思い出した。機動隊とやりあうことが意味があったとは思えないが、単なるデモすることで闘ったことにはならないという微妙な気持ちになったことを覚えている。それにしても、ゲバ棒スタイルのメットデモが盛んだった。当時は今より規制が少なく許容されていたのだろう。

 そうした「戦後学生運動の1960年代昂揚の凋落原因」を愚考してみたい。筆者は、1・民青同の右翼的敵対、2・連合赤軍による同志リンチ殺害事件、3・中核対革マル派を基軸とする党派間テロ、4・得体の知れない爆弾テロ事件の4要因を挙げることができる。しかし、それらは真因ではなくて、もっと大きな要因があるとして次のように考えている。

 戦後学生運動は、ある意味で社会的に尊重され、それを背景として多少の無理が通っていたのではなかろうか。それを許容していたのは何と、戦後学生運動がことごとく批判して止まなかった政府自民党の当時政権を担っていたハト派の識見であった。ところが、ロッキード事件を媒介しての「政府自民党の変質」によりタカ派が権力奪取することにより次第に許容されなくなり、学生運動にはそれを跳ね返す力がなく、ズルズルと封殺され今日に至っているのではなかろうか。凡そ背理のような答えになるが、今だから見えてくることである。

 思えば、「戦後学生運動の1960年代昂揚」は、60年安保闘争で、戦後タカ派の頭脳足りえていた岸政権が打倒され、以来タカ派政権は雌伏を余儀なくされ、代わりに台頭した戦後ハト派の主流化の時代に照応している。このことは示唆的である。60年代学生運動は、諸党派の競合により自力発展したかのように錯覚されているが、事実はさに有らず。彼らが批判して止まなかった政府自民党の実は戦後ハト派が、自らのハト派政権が60年安保闘争の成果である岸政権打倒により棚からボタモチしてきたことを知るが故に、学生運動を取り締まる裏腹で「大御心で」跳ね上がりを許容する政策を採ったことにより、昂揚が可能になったのではなかろうか。


 これが学生運動昂揚の客観的政治背景事情であり、筆者は、「戦後学生運動の1960年代昂揚」はこの基盤上に花開いただけのことではなかろうかという仮説を提供したい。この仮説に立つならば、1960年代学生運動時代の指導者は、己の能力を過信しない方が良い。もっと大きな社会的「大御心」に目を向けるべきではなかろうか。

 今日、かの時代の戦後ハト派は消滅しているので懐旧するしかできないが、戦後ハト派は、その政策基準を「戦後憲法的秩序の擁護、内治主義的経済成長優先、その為の公共事業促進、その対としての軽武装たがはめ、日米同盟という制限下での国際協調」に求めていた。その際、左バネの存在は、彼らの政策遂行上有効なカードとして機能していた。彼らは、社共ないし新左翼の左バネを上手くあやしながらタカ派掣肘による政権足固めに利用し、現代世界を牛耳るネオシオニズムとの駆け引きにも活用していたのではなかろうか。それはかなり高度な政治能力であった。

 筆者は、論をもう一歩進めて、戦後ハト派政権を在地型プレ社会主義権力と見立てている。戦後ハト派の政治は、1・戦後憲法秩序下で、2・日米同盟体制下で、3・在地型プレ社会主義政治を行い、4・国際協調平和を手助けしていた。してみれば、戦後ハト派の政治は、国際情勢を英明に見極めつつ、政治史上稀有な善政を敷いていたことになる。実際には、政府自民党はハト派タカ派の混交政治で在り続けたので純粋化はできないが、政治のヘゲモニーを誰が握っていたのかという意味で、ハト派主流の時代は在地型プレ社会主義政治であったと見立てることができると思っている。

 今は逆で、タカ派主流の時代である。そのタカ派政治は、戦後ハト派政権が扶植した在地型プレ社会主義の諸制度解体に狂奔している。小泉政権5年5ヶ月19800日の政治と現在へ至る安倍、福田、麻生政権は、間違いなくこのシナリオの請負人である。この観点に立たない限り、タカ派政治への批判は的を射ないだろう。この観点がないから有象無象の政治評論が場当たり的に成り下がっているのではなかろうか。

 そういう意味で、世にも稀なる善政を敷いた戦後ハト派の撲滅指令人と請負人を確認することが必要であろう。筆者は、指令塔をキッシンジャー権力であったと見立てている。ならばキッシンジャーを動かした者は誰か。ネオシオニズム奥の院の存在があり、これに呼応した政官財学報司の六者機関の請負人が存在すると考える。これを暴き立てれば、日本左派運動が真に闘うべき敵が見えてくると思っている。

 このリトマス試験紙で判定すれば、世に左派であるものが左派であるという訳ではなく、世に体制派と云われる者が右派という訳ではないということが見えてくる。むしろ、左右が逆転している捩れを見ることができる。世に左派として自称しているいわゆるサヨ者が、現代世界を牛耳るネオシオニズム・イデオロギーの代弁者でしかかないという姿が見えてくる。この問題については、ここではこれ以上言及しないことにする。

 結論。いずれの側であれ、くれぐれも、在地型プレ社会主義政治の最高指導者角栄を悪く罵倒すればするほど左派的なぞと思うなかれ。もしそういう御仁が居るなら、歴史の見立てと真相が掴めない不明を恥じよ。このことが分かるまで蟄居し沈思黙考せよ。

 「田中角栄の学生運動活動家に対するまなざしを知れ」 これを「提言17の3」とする。

 角栄は或る時、次のように述べている。
 概要「子供が十人おるから羊かんを均等に切る、そんな杜会主義者や共産主義者みたいなバカなこと言わん。キミ、自由主義は別なんだよ。羊かんをちょんちょんと切って、いちばん小さい子に、いちばんでっかい羊羮をあげる。そこが違う。分配のやり方が違うんだ。大きい奴には"少しぐらい我慢しろ"と言えるけどね、生まれて三、四歳のは納まらないよ。そうでしょう。それが自由経済というものだ」 (安広よしのり編著「田中角栄・悪の語録」、1983年、日新報道刊」参照)。

 筆者が思うに、角栄は自由経済の良さをかく説いているが、これこそ本来の実質社会主義論ではなかろうか。世上のそれは形式社会主義のそれでしかあるまい。この発言は、角栄の自由主義経済論が実質社会主義論的なものであったという例証である。誰がこれを冷笑できようか。

 角栄の学生運動論と観点を記しておく。角栄はどうも「学生運動上がり」を重宝にしていた形跡がある。早坂記者の秘書入りのエピソードもこれを物語っている。早坂茂三氏は早稲田大学時代、全学連の有能なオルガナイザーの一人であり、卒業後東京タイムズ記者をしていた。1963(昭和38).12月、角栄は、その早坂氏に対して秘書になってくれないかとスカウトしている。この時の言葉が次のような角栄節であった。
 概要「俺はお前の昔を知っている。しかし、そんなことは問題じゃない。俺も本当は共産党に入っていたかも知れないが、何しろ手から口に運ぶのに忙しくて勉強するひまがなかっただけだ。俺は10年後に天下を取る。お互いに一生は1回だ。死ねば土くれになる。地獄も極楽もヘチマもない。俺は越後の貧乏な馬喰(バクロー)の倅だ。君が昔、赤旗を振っていたことは知っている。公安調査庁の記録は全部読んだ。それは構わない。俺は君を使いこなせる。どうだ、天下を取ろうじやないか。一生一度の大博打だが、負けてもともとだ。首までは取られない。どうだい、一緒にやらないか」(早坂茂三「鈍牛にも角がある」106P)。

 斎藤隆景(新潟県南魚沼郡六日町で「斎藤記念病院」を経営)もその例である。元全共闘闘士で、一転田中イズムのとりこになったことから田中角栄の懐に飛び込み、その後、長く目白の田中邸への出入り自由となった。角栄の学生運動を見る目線については「提言1、汝自身を知れ、年相応の分別を弁えよ」に記した「フランスのル・モンドの極東総局長だったロベール・ギラン記者との会話で明らかな通りである。党本部前の街路を埋めてジグザグデモを繰り広げていた全学連の学生達に対して次のように述べている。
 「日本の将来を背負う若者達だ。経験が浅くて、視野は狭いが、まじめに祖国の先行きを考え、心配している。若者は、あれでいい。マージャンに耽り、女の尻を追い掛け回す連中よりも信頼できる。彼等彼女たちは、間もなく社会に出て働き、結婚して所帯を持ち、人生が一筋縄でいかないことを経験的に知れば、物事を判断する重心が低くなる。私は心配していない」。

 この見識こそ角栄政治の真骨頂であろう。立花や日共によって逆に描き続けられているが、それは取りも直さず連中がネオシオニズムの下僕として立ち働いている事を証左しているだけのことである。我々はこの投網から抜け出さねばならない。

 もとへ。日本左派運動は、角栄のこの眼差しを味わうべきではなかろうか。2009年現在の地点から思うに、この当時の「激動の7ヶ月」が成立したこと自体、政府自民党内のハト派権力の温かい眼差しと理解、ズバッと云えば甘やかしがあってこそではなかったか。それが証拠に、今日の如くなタカ派権力にあっては「過激なデモ許さず」で到底成り立たず、凶器準備集合罪その他ありとあらゆる罪状を被せられ予備段階で事前検束されるのではなかろうか。つまり雲泥の差が有る。そういう目線を持ちたいと思う。

 「『角栄−毛沢東秘密会談』は何を語ったか」 これを「提言17の4」とする。

 角栄は政権発足後直ちに日中国交回復交渉に向かった。1972(昭和47).9.25日、田中訪中団52名が北京へ向かい、難産の挙句「日中共同声明」へ辿り着く。この時の9.27日、急遽「角栄−毛沢東秘密会談」がセットされている。詳論はサイト「田中角栄論」所収の「毛沢東―角栄会談秘話、角栄の悲劇性予見」に記す。

 会談は、日本側は田中、大平、二階堂の3名、中国側は毛、周、姫、りょう、これに通訳兼記録係として王効賢(外務省アジア局所属)と林麗雹(共産党中央連絡部所属)の二人の女性が加わった。異例なことに日本側の事務方は意図的に排除されている。こういう首脳会談は珍しい。会見は約1時間にわたった。ひと通リの挨拶と雑談が終わった後の毛沢東の発言が出色なものとなっているが全容は未だ明らかにされていない。故に推定になるが、毛はこの時、近現代史の真の流れを語り、現代世界を裏から支配している国際金融資本ネオシオニズムに対抗するための日中同盟の必要を説いていたと思われる。

 筆者は、そのこともさることながら、この時両者が同志的雰囲気で遣り取りしている様子に感嘆している。毛は、日中共産党会談での逸話として徳球とは誼(よしみ)を通じ、宮顕を毛嫌いしていた様子の伝がある。そして角栄とは肝胆合い照らしている。これがどういう意味になるのか。筆者の角栄左派論の例証でもある。

 毛は、よほど角栄が気に入ったようで、その後も並々ならぬ関心を持ち続け角栄の動向に慈愛を注いでいた様子が伝えられている。最後の闘病の日々の1976(昭和51).2.4日にロッキード事件が勃発するや、角栄を追い詰める「三木武夫とは何者か」の確認に向かっていた。これが毛の最後の寝床の読本であったと伝えられている。「田中角栄と毛沢東」の著者・青木直人氏の言をそのまま借りれば、「毛は田中をロッキード事件で追い詰めている三木という政治家の経歴や思想からロッキード事件それ自体の政治的構造を推理したかったのだろうか」ということになる。これが死の前日のエピソードであり、毛は翌日の1976.9.9日に生涯を閉じている。

 毛沢東が会談の別れ際に詩経とならぶ中国の詩文の古典「楚辞集注」(「詩註・4冊」)を贈呈しているのも意味深である。「楚辞集注」は悲劇の宰相・屈原の史書であり、毛がわざわざ角栄に「楚辞」を渡した意図について詮索されるに値する。或る凡庸な新聞記者は、角栄が読み上げた漢詩を念頭に置いて、「漢字を連ねただけでは詩にならない。少し漢詩の作り方を勉強しなさい、という毛主席の皮肉を込めた返礼である」と論評をしている。あるいは、「迷惑論争」で揺れた経緯を踏まえて、中国語の用法がふんだんに使用されている「楚辞」を贈ることにより中国的文意を知らせようとの配慮から贈られたとも解している。己の背丈でしか論評できない過ぎる愚見ではなかろうか。

 これに対し、安岡正篤は「無礼、返却するのが筋」といったと云う。安岡氏の立論の構図全体が分からないが、「飛ぶ鳥を落とす勢いの角栄に不吉な屈原を重ね合わせることへの非礼批判」であったと思われる。だとすれば、安岡氏の洞察力はさすがのものであることになる。しかしながら、筆者は、角栄の尋常ならざる有能性とそうであるが故に待ち受ける悲劇を予見して「楚辞集注」を贈ったと解する。毛の炯眼は的中する。その後のロッキード事件に翻弄されていく角栄は屈原そのものとなった。毛の慧眼恐るべしと窺うべきではなかろうか。

 「角栄政治の復権こそ日本再生のカギである。今からでも遅くない『日本列島改造案』を学べ」 。これを「提言17の5」とする。

 日本左派運動は、戦後政治史の真の抗争、生態に対して余りにも無力不見識なままに現在に至っている。それはともかく、一体、角栄政治の意義をどう確認すべきか。筆者は、角栄政治の本質は、在地土着型の人民大衆能力の涵養に基礎を置く左派政治であったと見立てている。角栄の演説は、サイト「田中角栄演説」に記したので、角栄政治の何たるかをここで確認すれば良かろう。

 角栄は、下手なマルクス主義者の観念的政治論より数等倍卓越したプレ社会主義的政治遂行の指導者でもあった。筆者は、彼の頭脳に反映していた政治設計図を更に強力に推し進めていくことが日本の国家百年の計に資し、現代政治の混迷を紐解く契機にもなる筈と推定している。角栄政治は叉、日本政治史上の裏モータ−である和合政治の粋でもあった。大国主の命の現代版政治であったと見立てる所以である。

 筆者は、角栄頭脳がどのように形成され出現したのかに興味を覚えているが、ここでは問わない。ここでは、角栄政治の復権により日本再生シナリオを創造せねばならないと云う観点からの日本改造計画論を確認する。筆者の見立てるところ、次のように指針すべきではなかろうか。
 戦後日本憲法をプレ社会主義法と見定め、一字一句尊重し、受肉化を図らねばならない。
 戦後日本の社会体制をプレ社会主義体制と見定め、国営と民営の棲み分け、官と民の共同、国民の最低限の生活保障、助け合い共生且つ活力ある競合社会を創造せねばならない。
 内治優先の公共事業政策にシフトし、軍事軍需路線から決別せよ。外治は、国際協調と経済援助政策にシフト替えせよ。
 産業活動に伴う公害対策に秀で、環境エコロジー先進国を目指せ。自然と社会の共生を目指せ。
 日本の伝統的文化を育成し、教育、知育、体育、徳育を目指せ。

 このマニュフェストに基く政治運動こそ日本革命の向かうべき道筋のように思われる。この路線は、角栄が総裁選前にマニュフェストした「日本列島改造案」に於いてより論証的具体的に記されている。これを学ばずんばなるまい。このことを指摘しておきたかった。筆者が党首を務めるたすけあい党は、この青写真を元に諸事政策して行きたいと考えている。御意の者よ、同志として列なれ(活動できぬ金持ちはカンパしてくれふふふ)。

 これを思えば、2001年に登場した小泉政権の悪行が逆照査されてくることになる。小泉政権とは、米帝国主義を裏で操る真の磁力体ネオシオニズム、その表出体・米英ユ同盟に下僕する売国奴系ポチ運動、ネオシオニズムに教唆された日本解体計画の請負人であった。これに援交しているのがシオニスタンであり、同マスコミであり、同自称知識人であり、同サヨである。5年有余にわたる小ネズミ政権の史的意義は、このことをくっきりさせることにあったように思われる。筆者は今そういう意味で、小ネズミ政権を反面教師的に照射している。かく構図が見えたなら、我々が為さねばならないことも見えてくる。まさに禍福あざなえる縄の如しと云うべきではなかろうか。以上を提言17としておく。