【提言22、永続革命式民主連合政権運動の再構築へ向かえ】
(はじめに)
「民主連合政権運動の再構築へ向かえ」を提言22とする。民主連合政権運動の魅力は、それが共同戦線運動に立脚しているところにある。その可能性を追求し続けなければならないのではなかろうか。詳論はサイト「民主連合政府樹立運動考」に記す。
「日共の余りにも無責任な民主連合政府樹立運動の虚妄を指弾せよ」。これを「提言22の1」とする。
筆者の学生運動期、それは丁度1970年初頭の頃であるが、当時の日共は民主連合政権構想をぶち上げていた。それは、全共闘運動の解体運動に対するアンチテーゼとなり一定の支持を得ていた。筆者もこれに共鳴していた。その民主連合政権構想運動の虚妄を確認しておくことにする。
まず、当時の民青同の意識にはどのようなものがあったのか、それを考察しておく。民青同の論理は、今から思えば何もかも全共闘運動の対極にあった。自己否定論理に対しては民主化論理を、造反有理に対しては党を護持し民主集中制の下での一層の団結を、解体論理に対しては民主連合政府樹立の呼びかけをという具合であった。実際には全共闘運動の方が空前の盛り上がりを見せていたので、民青同がこの対置論理で対抗していったことになる。そういう訳で、全共闘からすれば、「マスコミは巨大な敵だったが、右翼、民青、機動隊というのがさしあたっての敵だった」ということになった。
元々は、大学民主化闘争は学生運動自体のテーマであり、全共闘運動とてここから始まったように思うが、その闘争論理の定向進化によりいつのまにか担おうとしなくなり、民青同の一手専売となった。筆者が入学した頃には、「政治的自由と民主的諸権利の拡大を目指す闘争」、「教育権・機会均等の擁護、学費値上げ反対、奨学金の拡充、寮の完備、勉学条件の改善」という当たり前の運動が民青同ないしは代々木系以外では見られなくなっていた。
筆者が今思うに、これは民青同の方に軍配が挙がるのではなかろうか。筆者が支持したのも至極当然だったのではなかろうか。もっとも民青同は抱き合わせで、「トロツキスト、修正主義者らを各大学において、全国的な学生運動の戦列に於いて一掃することが不可欠」という指針を掲げていた。これに馴染めない筆者の居り場が次第になくなってしまった。筆者が今思うに、これも至極当然だったのではなかろうか。
それはともかく、筆者が民青同運動に随伴したのは、民主連合政府の呼びかけに対する共感にあった。これについて考察する。いわゆる全共闘運動が左翼イデオロギーを満開させつつ「まず解体から、しかる後建設が始まる」という展望無き展望しか持ち合わせていなかったのに対して、この当時日共が指針させていた「70年代の遅くない時期に民主連合政府を樹立する」運動は目前の手応えのある実体であったということもあって、民青同にとって全共闘的運動に対置しうる理論的根拠となっていた。
こうして見ると、民主連合政府樹立運動の提唱と立ち消えていった経過が気になってくる。これを確認する。1998.8.25日付け「しんぶん赤旗」での不破哲三委員長緊急インタビュー「日本共産党の政権論について」が次のように述べている。
「70年の第11回党大会で、民主連合政府の樹立についてあらためて具体的な展望をしめし、73年の第12回党大会では、民主連合政府の政府綱領についての提案まで討議決定しました」。 |
少なくとも60年代後半には民主連合政府樹立運動が提唱されていたと思われるので、正式な党大会決定されたのがこの時期という意味であるように思われる。
「70年代のおそくない時期の民主連合政府の樹立」の可能性については、1973.4.13日初版の上田耕一郎著「先進国革命の理論261P」で次のように述べている。
「1970年に開かれた第11回党大会では、70年代の遅くない時期に民主連合政府をつくろうという方針を決めました。当時は『まさか』と思っていた人が大部分だったでしょう。ところが、昨年末の総選挙で共産党が大躍進したため、『まさか』どころか、民主連合政府が現実味をもって受け取られるようになってきました。今度はある週刊誌は、民主連合政府の『予想閣僚名簿』まで発表するという気の早さです」。 |
が、いざ70年代のその時期を迎えて実際になしたことは、次のような代物になる。不破の「日本共産党の政権論について」から引用する。
「三木内閣のもとで、ロッキード事件が暴露され、また小選挙区制の問題で日本の民主主義がおびやかされるという情勢がすすんだとき(76年4月)、私たちは、小選挙区制粉砕、ロッキード疑獄の徹底究明、当面の国民生活擁護という三つの緊急課題で『よりまし政権』をつくろうではないか、という暫定政権構想を、当時の宮本委員長の提唱で提起しました」。 |
つまり、民主連合政府樹立運動が「よりまし政権運動」へ横滑りさせられたことになる。この経過と執行部の責任について党がどのように総括しているのだろうか。不破は次のように述べている。同じく「日本共産党の政権論について」から引用する。
「私たちが、こういう提唱をした70年代、80年代という時代は、政界の状況からいって、私たちのよびかけが現実に政界に影響をおよぼすという条件は、実際的にはまだありませんでした。マスコミからも、いまのような積極的な関心は向けられませんでした。私たちの党に近い部分でも、はっきりいって、こういうよびかけを理論的な提唱としてはうけとめても、政権問題を現実の政治問題として身近にとらえるという問題意識は弱かったと思います。そういう時代的な背景だったんですね」。 |
この言い回しは、上耕の謂いと明らかに違う。かっては目前の現実的流れと云い、その時節を過ぎると単なる願望に過ぎなかったと言い換えている。日共党中央は、こういう総括ならざる総括で事なきを得ているようである。筆者には、「ソ連社会主義論」から「崩壊して良かった論」までの変遷もしかり、状況に合わせていかようにも言いなしうる不破の厚顔と口舌の才能に感心させられている。
これを踏まえると、元々このスローガンは党としての責任ある提案だったのではなく、当時の燃え盛る全共闘運動に対置すべく、青年層の全共闘運動に向かうエネルギーを押しとどめるために巧妙に使われていたのではないのかとさえ思えてくる。マサカと疑うよりはマサカの可能性を思い浮かべてみた方が事態を的確に把握しうるのではなかろうか。
となると、あの頃本気で民主連合政府樹立を夢見ていた者は幻影を見させられていたということになる。その一人であった筆者は今では結局、筆者が単に田舎者だったということだろうと自己了解している。今あの頃に戻り得たとしたら、どう動くのだろう。民主連合政府樹立スローガンの虚妄を知っている筆者は民青同は加わらないだろう。かといって飛び込めそうな党派も見えてこない。新左翼運動は観念性を強めており、自閉的でプロパガンダが不足している。所詮エリート的な身内的な自閉的な自己陶酔型の自己満足運動でしかないようにも思える。
こうして考えてみると、日本左翼の深刻なというべきか馬鹿馬鹿しいというべきか不毛性が見えてくる。そもそも数十派に分岐している左翼系諸派のお互いの一致点と不一致点さえはっきりしない。運動を担っている当の本人さえよく分かっていないままに党派運動が続けられている面もあるのではなかろうか。してみれば、田舎者の成長過程を上手に引き出すような左翼諸派合同のオリエンテーリングのようなものが欲しい。あるいはまたスーパーマーケットのように各党派の理論と実績をパッケージ陳列させておき、顧客が任意にセルフサービス方式で気に入ったものをバケットに入れるプレゼンテーション手法で党派と関わってみたい。
量が質を決定するというのであれば、日本左翼はこうして裾野を拡げていくような努力をなぜしないのだろう。本当に自派の主張に正しさを確信し左翼的民衆運動を担おうとする強い意志があるのなら、党派側はせめてこの辺りまではプロパガンダえしえていないとおかしいのではないかと思ったりする。もっとも、市場経済下のマーケティング革命の進行なぞとんと眼中にない連中が党派運動をやっているので、こうした流通革命的手法の革新的意義なぞ分かりようもなく、昔取った杵柄よろしく旧来手法のままのオルグ活動に拘り続けているのだろうと思われる。
この点今から思えば池田大作氏率いる創価学会活動の先進性が見えてくる。確かあの頃(30年前にもなる)既にビデオを使って布教活動をしていたように記憶している。腹蔵なく語り合う座談会方式といい、釈伏という戦闘的理論闘争といい、機関紙紙上における理論的啓蒙と各地の実践の紹介という体裁での結合ぶりといい、全国各地に創価会館を敷設していったことといい、やるべきことをやれば政権与党化はそう難事ではないということの例証でもあるかと感心させられている。
これに対して、その間日共がやって来たことは、創価学会の座談会方式に対して党中央経文の一方的拝聴、釈伏式理論闘争に対して没理論化、機関紙紙上における理論的啓蒙に対して不啓蒙、各地の実践の紹介に対して不紹介、創価会館敷設に対して相変わらずの軒下三寸活動という具合に何もかもが対比的であるように思える。日共の唯一のお家芸は饒舌であり、読むに値もしない独善パンフの個別配布でしかなかった。党派運動は指導者の気質と能力によって随分左右されることが知らされる。
「日共の民主連合政権スローガンの時期先述べ理論の無責任性を指弾せよ」 これを「提言22の2」とする。
そのことはともかく、民主連合政府樹立のスローガンにおいて考察されねばならないことは、このスローガンが当初「70年代の遅くない時期」という時期の明示をしていたことについてである。何らかの根拠があったのか、元々根拠がなかったのかということが詮索されねばならないと思う。もし、根拠が薄弱な単なる呼びかけでしかなかった時期の明示であったとすれば、党中央の無責任性が暴露され、ダメージが深刻でもはや二度と大衆は党の笛吹きには踊らされないと云うことになるであろう。
と思うのだけども、日共は、1990年代になってまたぞろ「21世紀の初頭に民主連合政府の樹立を」とか呼び掛け始めた。1999.7.24日付け「しんぶん赤旗」の日本共産党創立77周年記念講演会に於ける書記局長・志位和夫の「国政の焦点と21世紀の展望」は次のように述べている。
「民主的政権への道をどうやって開くか。『国民が主人公』の日本への改革です。それを実現する民主的政権を、21世紀の早い時期に樹立するというのが、私たちの大目標であります」。 |
今度は「21世紀の早い時期」だと云っていることになる。公然平然たるリバイバルであるが、筆者は、同一系執行部の下でこうした呼びかけが通用している党員の皆様のおおらかさに万歳させられている。
日共は、「70年代の遅くない時期」という時期明示の責任を問わないばかりか、「21世紀の早い時期」への転換の責任も問わない。この種のケジメを持たない。但し、反省と工夫はする。「21世紀の早い時期」とあるように、「70年代の遅くない時期」の5年スパンに対して、「21世紀の初頭」という20年スパンに転換させている。つまり、長期レンジのスローガンで再提唱していることに気づかされる。この時には不破も志位も政治活動の一線からリタイアしている頃であろうから、執行部の責任体系をあらかじめ放棄した批評的願望的スローガンであることが見て取れる。日共ならではの党中央のこういう無責任さが追求されない羨ましい体質が見て取れる。党員の皆さんのご納得ぶりにただただ頭が下がるばかりというしかない。
日共はその後、「21世紀の初頭に民主連合政府の樹立を」をも放棄した。代わりにやって来たのが「我こそが唯一の本物野党論」である。懲りない党中央ではある。しかし、党員が叉もこれを支持している訳だから同じ穴のムジナではある。しかし、「我こそが唯一の本物野党論」も臭い代物に過ぎない。自公対民主の政権取り抗争に立ち塞がり、結果的に自公有利に作用する役割しか果たしていない。これに何の痛痒も感ぜず、むしろ正義然としている。「日共=自公との裏提携論」が生まれる所以である。
最新情報として、自公側戦略による「供託金引き下げ」が施策されようとしている。これにより、供託金没収の難を逃れようとしていた日共の全選挙区立候補を誘引すると云う仕掛けである。これが表沙汰になりつつある。この動きに「正体みたり枯れ尾花」としてあきれ返らずに、実に実にと選挙運動に精出す党員に対してただただ頭が下がるばかりというしかない。
「日共の民主連合政府綱領の無原則的マヌーバー性に憤怒せよ」 これを「提言22の3」とする。
このスローガンにおいて考察されねばならないもう一つのことは、民主連合政府という統一戦線政府の内実に対する考察である。当初は、社共政権を核とした政府で最低限綱領を持ったものであった。この綱領の移り変わりも興味があるところであるが未調査である。少なくともこの当時、次のような規定の下にかなり厳格に運用されようとしていた。
概要「統一戦線とは、単なる政党間の野合を戒め)複数の階級、階層が階級的利害や政治的見解・世界観などの違いを持ちながらも、共通の目標のため、共通の敵に対して闘うために創る共同の戦線(共同の闘争の形態・組織)のこと。統一戦線の掲げる政治的課題と目標及び、その階級的構成は、それぞれの国における革命の性格と段階によって、又階級闘争のそれぞれの時期と条件によって決まる。例えば、反ファシズム統一戦線、祖国戦線、人民戦線、民族民主統一戦線などと呼ばれる様々な統一戦線があるのはその為である」(社会科学事典、新日本社刊行)。 |
但し、この厳格性にも次のような癖が認められる。日本共産党のいう統一戦線とは、運動の最大成果を得るために、一時的に綱領路線の逐条に付き方針を凍結してでも共闘を優先させようとする運動論、組織論と思われるが、この場合「一国一前衛党論」が自明にされていることに問題が潜んでいる。つまり、現実には既に日共以外にも公然と左派的立場を自認する諸党派が存在する訳であるから、文字通りの意味で統一戦線というならばこれらの諸党派も組み込まれる必要があるにも拘らず、日共式統一戦線論にはこの部分がスッポリ抜け落ちている。左派でもない日共を最左派とする右派系諸潮流との統一戦線論であり、日共より左派系の諸党派、潮流が排除されているという統一戦線論となっている。
日共より左派系の諸党派、潮流に対しては、急進主義者、トロツキスト、挑発者、反党主義者、分裂主義者、左翼日和見主義者、暴力集団等々ありとあらゆる悪罵とレッテル貼りで、これらの諸潮流を無条件に排除した上での統一戦線論であることに留意が必要である。
これでは片手落ちというより、本来の意味での統一戦線になりえておらず、自らに都合の良い理論でしかなく、右へ傾いて行くしかできない仕掛けの統一戦線となっている訳である。この点如何であろうか。補足すれば、万が一民主連合政府的なものができたして、日共より左派系諸派の政治的活動が認められる幅が現政府下のそれより狭まるという危惧は杞憂なのだろうか。筆者は、より左派系党派の政治的自由についてきちんと説明したものにお目にかかっていない。不破が、赤旗記者が茶髪金髪OKで党本部を出入りしている自由さとかいう本来何の意味もない例で説明しているのを聞いたことがあるばかりである。
民主連合政府の呼びかけは、歴史的には、社会党が日共よりむしろ社公合意の方向にむかっていったことによって流産したように記憶している。オカシナ現象であるが、共産党が右へ寄れば寄るほど社会党も右へ動き、今日共産党はかっての民社党辺りのところまで寄っているようにも思われる。政治全体が右傾化したことになる。社会党はどこへ行ったのかということになるが、党そのものがなくなってしまった。民社党は民主党の中に潜り込んでしまった。この先一体どうなることやら。やはり瑞穂の国は大政翼賛会方式が似合うのかも知れない。
こうした流れに結果したことについて、社会党批判とは別途に日共責任も問われねばならないところ、日共党中央には反省の色は微塵も窺えない。あたかも社会党解党を喜悦している風がある。筆者は、百歩譲って仮にスローガンに正しさがあったとしても、その道筋を作りだせれなかったことに対して責任があると思う。なぜ免責されるのであろうか。
かくて判明するのは、民主連合政府の呼びかけ問題に付きまとっていることは責任体系の問題ということになる。政治的スローガンの提唱は執行部の権限であるが、その指針が流産した場合まっとうな政治的解明と責任処理がなされるべきであるという緊張関係がなければ、全ては饒舌の世界になってしまうのではなかろうか。この峻別が曲がりなりにも為されているのが自民党であり、与党として信頼が託されている所以なのではなかろうか。
「永続革命的民主連合政権運動を再構築せよ」。これを「提言22の4」とする。
筆者が民主連合政権問題を論ずる意味は、日共式民主連合政権運動は虚妄で終わったが、民主連合政権運動そのものは有効ではないか、日共式民主連合政権運動を批判したからといって、この赤子をタライごと流してはいけないのではないかと思うからである。ここを勘違いさせてはならない。
永続革命的民主連合政権構想は日本左派運動の永遠の眼目であり、これを統一戦線理論で導くのではなく、共同戦線論で担い抜く党派運動が相互に要求され続けているのではなかろうか。その違いについて「提言8、統一戦線論を否定し、共同戦線論に転換せよ。全共闘運動及びその思想を再生させよ」で述べた通りである。見果てぬこの夢こそ我々の青い鳥だと思う。以上を提言22としておく。