【提言16、自民党内ハト派政治を再評価せよ】

 (はじめに)

 「自民党内ハト派政治を再評価せよ」を提言16とする。日本左派運動は、自民党内の政争に皆目関心を見せぬまま、日共系は一律保守反動呼ばわり、新左翼系は一律体制派批判でやり過ごしてきた。筆者は、これほど実態に合わない批判はなかったと思っている。真実は、政府自民党内のハト派対タカ派の抗争こそ戦後政治における真にして最大の抗争であったとみなしている。これに比すれば日本左派運動内の抗争など児戯に等しい。これにつきコメントしておく。詳細はサイト「自民党史考」に記す。

 「何と、戦後憲法秩序のブレ社会主義を担ったのは、政府自民党ハト派権力であったことを確認せよ」。これを「提言16の1」とする。

 既述したが皮肉なことに、日本左派運動が穏和系の社共運動も、急進系の新左翼運動もが虚飾の左派運動へ向かった結果、戦後憲法秩序をプレ社会主義と認識したかどうかは別として真に護持成育せしめてきたのは妙なことに自民党の主流派を一時期形成したいわゆる保守系ハト派であった。この勢力は、戦後プレ社会主義の価値をそのままに尊び、市場性社会主義の道を無自覚のままに舵取りし!保守的な装いの下に政権与党を形成した。筆者が思うに、彼らが戦後憲法秩序に即応した政治を舵取りしたところに世界史上稀なる経済復興と高度経済成長が獲得されたのではなかろうか。今から思えばプレ社会主義の勝利であり善政時代であったのではなかろうか。

 但し、その善政政治も左右両翼から挟撃されて、1976年のロッキード事件勃発とともに始まったネオシオニストによるハト派解体策動により終焉する。こうして親ネオシオニズム系タカ派が台頭する。この売国タカ派の政権奪取とともに日本は失速し始める。その要因は、売国タカ派が戦後憲法秩序に具現されたプレ社会主義秩序及び機構及び精神を破壊解体せしめ始め、ネオシオニズムの下僕と化して意図的故意に国益を損なってきたからである。

 タカ派のらしさは、ハト派が優先してきた内治主義的な公共事業を抑圧し、抑制してきた外治的な軍事防衛事業を振興し散財傾斜したことに認められる。興味深いことに、宮顕−不破系日共の公共事業抑制論は、社会福祉費増大を要求しているものの結果的にはタカ派的公共事業抑制その代わりの国際責務論と通底していることである。この両者は、ネオシオニズム論を介在させると裏で共同していることが透けて見えてくる。誰か、この認識を共認せんか。

 タカ派は、ネオシオニズムの御用聞き政治を専らとしており、対外的には米英ユ同盟の腰巾着外交を繰り広げ、自衛隊の海外武装派兵で「米英ユ貢献」に勤しみ、国内的には善政の産物である年金制、医療制、雇用制、公共事業制を破壊し、つまりネオシオニズムの願う通りの売国奴政策に精勤し、構造改革の名の下に等質性を特徴とする日本社会の破壊に向かっている。これが現代日本政治の本質であり、お粗末さの原因である。民主党の政権交代論が、これに抵抗するものならともかく、この政策延長上での政権争いに興ずるだけなら何の意味もなかろう。

 筆者は、このように見立てする。とならば、自ずと結論は次のようになろう。日本左派運動の採るべき道は、タカ派の売国奴政策と太刀打ちし、憲法改正策動を許さず、戦後のプレ社会主義を護持成育せしめ、この地平からの後退を全戦線で阻止せよ。むしろ逆攻勢的プレ社会主義の復権再興運動に向かえ。これが筋と云うものだろう。

 思えばこの点に於いて、日本左派運動の新左翼系が掲げた理論は一切虚妄なものではなかったか。これに比して、社共運動が一定の支持を受けてきたのは、戦後憲法秩序の護持ゆえではなかったか。しかし、その護持運動が如何にヌエ的なものであったことか。日本左派運動は、このことを悟るべきだろう。ここから導き出される当面の指針は次のようになろう。社共的弱々しい護持運動ではなく、プレ社会主義論に立脚した戦闘的護憲運動を展開せよ。

 「ハト派対タカ派政治の拮抗こそ戦後政治の本質である自民党内ハト派政治を再評価せよ」 。これを「提言16の2」とする。

 戦後革命期、日本左派運動の万年批判的な野党運動に逸早く見切りをつけた有能の士が政権側に入り込み、与党的責任政治を引き受けて行くことになった。彼らが、戦後日本のプレ社会主義的秩序を牽引していくことになった。ここに戦後日本政治の大きな捩れを見て取ることができよう。

 吉田茂を開祖とする「吉田学校」がその水源地となった。1955年、自由党と民主党の大同合併により自民党が結成された。党内は様々なハト派と様々なタカ派が混淆する寄り合い世帯であった。その中で最大勢力化していったのは吉田学校派であった。これを戦後日本政治史上のハト派と云う。後に頭角を現す池田隼人、佐藤栄作、その弟子達の田中角栄、鈴木善幸、大平正芳らに象徴される有能士が列なることになる。佐藤栄作の場合、戦後タカ派の総帥・岸の弟であり、必ずしもハト派系列でみなす訳には行かないが、政治史的流れとしては「吉田学校」出自であるので、この系譜に入れておくことにする。

 戦後日本政治史上のハト派とは、戦後憲法を概ね遵守し、その大綱の中で戦前の轍を踏まぬ決意から主として内治に励み、特に公共事業を重視し社会資本基盤の整備に向かう。外交は、現代世界を牛耳るネオシオニズムの枠内という制限下ながらも、戦後憲法的国際協調、平和外交に精を出すというかなり高等な政治芸路線を追求した。かく規定できると思う。

 このハト派が、戦後から1970年代までの期間、戦後保守本流つまり主流派を形成し、戦後から1980年初頭まで即ちタカ派系の中曽根政権登場までの間を、政府自民党政権を御すという現象が生まれた。日本左派運動が虚妄の道をひた走るのに比して、このグループが自らを保守体制派として位置づけながらその実プレ社会主義を担っていくことになった。こうなると大きな倒錯、捩れであったが、この倒錯が倒錯と映らず、戦後政治運動は捩れたままに推移していくことになる。

 戦後ハト派は党内のタカ派と表面的には相和しながら、底流で激しく対立抗争しつつ政権を担って行った。ハト派主導時代の政治は、戦前来の日本的官僚制度と云う国家頭脳を政治主導的に操作し、官僚も叉これに能く応えたと云う史実を刻んでいる。今日、官僚制批判が盛んであるが、この頃の官僚は戦後日本再建の良き働き手であった面が強い。この期間、戦後日本は内治に成功し、高度経済成長を呼び込み、世界史上に稀なる発展を遂げ、日米安保の枠組内ながらも国際協調にも貢献しアジア、中近東、アフリカ諸国からの賛辞も得た。今から思えば大いなる善政時代であった。

 1970年代に結実した田中−大平同盟は体制内プレ社会主義を目指すハト派の精華であった。この時期までに戦後日本は大きく発展を遂げ、世界史上にも稀なる戦後復興から始まる高度経済成長時代を湧出させた。その勢いは、戦争経済の負のスパイラルに苦しむ米国をも凌ぐものとなり、「ジャパン イズ ツモローbP」を予想せしめるほどのものとなっていた。その田中−大平同盟は国内的には鉄壁の支配体制を敷いていたが、思わぬところから痛撃を見舞われる。 

 1976年、ロッキード事件が勃発し、この時点で戦後ハト派の総帥的地位を獲得していた田中角栄前首相が捕捉され、この激震により鉄の結束を誇っていた田中−大平同盟が解体せしめられることになった。代わって登場するのがネオシオニズムの露骨な下僕にして売国奴路線を敷く中曽根政権であり、新主流派を形成し始める。戦後日本政治は、これにより大きく逆流していくことになる。ロッキード事件は、その意味で戦後政治の大きなターニングポイントであった。こう位置づける必要があろう。

 「日共式ハト派駆逐運動の反動的対応を見据え、この陥穽から出藍せよ」。これを「提言16の3」とする。

 政府自民党内がハト派からタカ派へと政権交代しつつある際に、宮顕−不破系日共が、狂気の角栄政界追放を繰り広げた史実を疑惑する必要があろう。本来であれば、戦後日本左派運動は、戦後政治の独特の政治流動と局面を分析し、陰に陽にハト派と提携すべきであった。ところが実際には、マルクス主義的教条に従ってハト派もタカ派も十把ひとからげに打倒されるべき保守反動的体制派と断じ、図式公式主義的な一律政府自民党批判運動に終始してきた。時に政権打倒を呼号するが、代わって政権を引き受ける意思も能力もない口先運動に没頭してきたに過ぎない。

 してみれば、日本左派運動は、戦後日本の立役者となった政府自民党内のハト派的運動に対して余りにもお粗末な対応をしてきたのではなかろうかということになる。今、政府自民党内のタカ派運動が、ハト派時代が築いてきた国富をネオシオニズムの下部機構ハゲタカファンド企業に売り渡し、売国奴政治にうつつを抜かしている時、ハトタカを識別し是々非々すべきではなかろうか。政府自民党に対する保守反動呼ばわりでの「万年一本槍批判」ほど実際にそぐわないことはないのではなかろうか。

 情けないことに、日本左派運動は、政府自民党内のハト派が政権を掌握機動させていた時にもっとも盛んに反政府反体制運動を繰り広げ、タカ派が掌握機動している現在逼塞させられ、口先三寸のアリバイ式批判運動に終始し、結果的に裏協力するという痴態を見せている。日共式議会闘争が果たしている役割をも客観化させて見よ、結果的に与党の自公政権に利する票割り運動でしかなかろう。反動法案採決に加わり、アリバイ的な反対投票することで与党の単独強行採決の咎を緩和させている。これが偶然か故意なのかは分からないとする者も、そういう悪しき対応をしていることは認めねばなるまい。宮顕−不破系日共運動が真に批判されねばならないのは、この犯罪性に於いてである。

 思うに、政府自民党内のハト派政治を良質のそれであったと見直し、その限界を突破し更なる左からの政治運動を生み出すために弁証法的に検証し直すべきではなかろうか。ハト派政治を体現したのは吉田茂を開祖とする池田隼人及び田中角栄、大平正芳、鈴木善幸政権であるからして、この時代の政治を検証し直し、復権せしめるべきところは復権し再興すべきではなかろうか。

 思えば、戦後左派運動が目指すべき本来の運動は例えば、かっての日本社会党的政策を持つ党派が政府与党となり、国内の左右両翼を御しながら、世界の諸対立を御しながら、戦後憲法精神で邁進していくべきであったのではなかろうか。これが実現すれば、世界が羨むプレ社会主義を先駆的に謳歌し、自ずと「革命輸出」して行ったのではないかと思う。実際の社会党はこれを担う能力も気概も理念もない余りにもお粗末な軌跡を遺している。

 筆者が見立てるのに、戦後直後の共産党を指導した徳球−伊藤律運動も未完のままに歴史に漂っている。戦後保守主流派のハト派運動もまた同じく未完のままに漂っている。凡そ良質なこれらの運動が放擲されたまま、どうでも良いその他運動が跋扈している。こう捉えるべきではなかろうか。

 日本左派運動の良質の道を捉え損ねた新旧左翼が、そのなれの果てに見たのはどういう現実だったであろうか。この場合、全否定とか全肯定は馴染まない。或る部分正しく或る部分間違っていたとみなすべきだろう。間違いは良い。問題は、間違いを見つけたときにどう対応するかにある。これを為すには、常に、議論と反省と相互批判と総括を媒介させ不断に談じ合わねばならないだろう。残念なことに、これができないのが日本左派運動であり、日本左派運動にはそういう宿ア的習性があることも認めねばならないだろう。以上を提言16としておく。