【提言19、マルクス主義的階級闘争論の閉塞から抜け出せ】


 (はじめに)

 「マルクス主義的階級闘争論から抜け出せ」を提言19とする。日本左派運動検証の大詰めは、マルクス主義的階級闘争論の見直しに向かわねばならない。一体、マルクス主義的階級闘争論とそれに基づく搾取論は真に科学的なのだろうか。それがプロレタリアートの解放理論であることは分かるが、我々は、これに依拠せずんば人民大衆の闘うイデオロギー及び理論を創出できないのだろうか。これを思案して見なければならない。これについてコメントしておく。

 「マルクス主義的階級論から抜け出せ」。これを「提言19の1」とする。

 思うに、マルクス主義的階級論そのものが案外と臭い理論なのではなかろうか。マルクスは、あらゆる指標の中で生産力と生産関係の絡みに於ける支配関係に着目して人類史を原始共産制、古代王権制、封建制、資本制に区分した。資本制社会に於いて資本家ブルジョアジーと労働者プロレタリアートの二大階級に単純化され、来るべき社会は労働者プロレタリアートが支配者となる社会主義、その極北としての共産主義社会を予見した。

 非常に分かり易い図式であるが、社会闘争上、さほど有益な理論とは思えない。筆者が思うに、問われているのは支配と被支配の仕組みであり、労働者プロレタリアートが支配者となるべき階級的運命にあると云ったからといって事態を解決する訳ではない。社会主義、共産主義社会に於ける支配と被支配の仕組みの内実こそが問われている訳で、直前のブルジョア民主主義より合理的なプロレタリア民主主義の仕組みこそ開陳せねばならない。ところが、実際に理論化されているのはプロレタリア民主主義と云う空文句だけであり、しかも過渡期としてプロレタリア独裁論が唱えられており、その内実たるや頗(すこぶ)る暴力的なものでしかない。

 筆者は、資本主義よりもより合理的な社会主義、共産主義の社会システムを展望しようとしているが、その際にはマルクス主義的階級論が何の役にも立たないことを知らされている。考えてみれば、資本家ブルジョアジーなり労働者プロレタリアートなりの概念はあくまで哲学的なものでしかなく、現前する個々の人物を捉まえて階級規定するのは困難である。絵に描いたような資本家ブルジョアジーなり労働者プロレタリアートが居れば適合するが、内実はかなりボーダレスなものでしかない。

 資本家の例で云えば、上から財閥系の資本家、上場企業の資本家、中小企業の資本家、零細企業の資本家、自営業者の下までに分類できるが、マルクス主義的階級論に於ける資本家とは、そのうちどの辺りまでを指すのか曖昧模糊である。しかも、出資者、株主、企業トップの経営者の位置づけも定かでない。創業者社長も居れば雇われ社長、会長、取締役も居り、どこまでを資本家として括るのか定かではない。労働者の例で云えば、上から公務員、上場企業の労働者、中小企業の労働者、零細企業の労働者、自営業者の労働者、季節雇用臨時労働者、失業者、労働予備軍に分類できるが、それぞれ役職、給与、待遇に違いがあり、どこまでを労働者として括るのか定かではない。

 筆者が思うに、マルクス主義的階級論に於ける階級とは哲学上の概念に過ぎず、敢えて言えばセロファンを重ねて透けて見えてくる色合いのようなものであり、個々の人間を眺め透かして見ても見えてくるものではない。踏まえておくべきことは次のことである。ところが、それぞれが集団化するや否や階級色を強める。あたかもそれは、各人が色付きの薄いセロファンを身に纏っており、その薄色を集合化させれば濃い色になる例と思えばよい。これを仮に階級セロファン論と命名する。マルクス主義的階級論は、階級セロファン論以上の意味を持たない。この「階級=セロファン色理論」は目下筆者の独眼流であるが、マルクス主義における階級概念はこのような仕組みで理解される必要があるのではなかろうか。個々の人間にはまず階級が有って後に名前が有るのではなく、まず具体的な当人がいて煎じ詰めていけば階級色が見えてくるということである。つまり、「階級とは実態があるようで無い、無いようで有る」という、まことに不可思議な抽象概念なのである。このことをまずもって確認しておきたい。

 これを実事に則して云えば、我々の社会生活上、個人と個人が出くわし関係する場合、互いの所属階級認識なぞは極力不要であるかも知れないということである。他に適当な言葉がないので仮に人間力とするが、そういう場合には単に個人間の人間力関係で事が処理される場合を百として極力それに近づくとみなして差し支えないと思われる。

 むしろ肝要なことは、当該社会に於ける支配被支配構造の歴史的合理性を見極めることであろう。システムの合理性、人材登用の合理性、予算調達と執行の合理性に対する政治の信を問うことではなかろうか。我々が革命を目指すのは、資本制社会よりも優れた社会を創出する為であり、その逆ではなかろう。

 こう問うと、左派運動史上、マルクス主義的階級論そのものが意味を持たない異筋な理論でしかないことに気付かされる。援用するとすれば、労働能力一つしか元手にしていない労働者階級こそが来るべきより合理的な社会造りの主人公になる資格を持つ階級であるということであろう。これ以上でも以下でもない規定でしかなく、むやみやたらに振り回すものではなかろう。誰か、これを共認せんか。

 「マルクス主義的階級闘争論から抜け出し、企業活動を搾取(分配)と雇用と社会貢献の総合的見地から見直せ」。これを「提言19の2」とする。

 マルクス主義的階級闘争論は、「頭で逆立ちしていヘーゲル式観念弁証法を足で立つ唯物弁証法というまともなものにした」と弁じているが、にも拘らずヘーゲル的弁証法の概念主義に拘った思弁的なもので、社会の実態分析には役立たないというかむしろ危険邪道ものではなかろうか。

 歴史と云うものは世代間の積み重ねであり、社会構成上の階級、階層、身分につき互いに対立、抗争しつつも社会の生産力ないしは成熟度に応じたある種の合理的な拮抗で調和しているとみなされるべきではなかろうか。資本制的搾取は、それを得手とする特殊な勢力が特殊なイデオロギーに基き扶植した特殊な生産及び分配手法であり、人類史の必然的行程としての社会法則ではなく人為的なものなのではなかろうか。筆者は、こう考えるべきだと思うようになった。こう考えることにより、誰と何を争うのか闘うのかがはっきりするようになったと思っている。

 彼らの魔手が伸びないところでは概ね君主制であろうが封建制であろうが共和制であろうが民主制であろうが、近代科学及びそれに基く生産は、今よりはましなそれなりの分配システムを組み込んだ秩序を形成している、いたはずで、資本主義制はその伝統を過度に捻じ曲げて万事を貨幣基準化させているとみなすべきではなかろうか。

 近代科学に基く生産力の発展は、分け前として人民大衆に福利を享受させるべきところ、資本主義制によって資本の増殖に次ぐ増殖へと回転し、生産力の余剰は上層部の奢侈に変形的に費消され、下層階級が相変わらずの貧困にひしめく制度に意図的に落とし込められており、社会的登用制さえもがかっての時代より合理的でなくなっているのではなかろうか。生産力から見て食えなくはないのに食えない事態が発生しているのはオカシイのではなかろうか。資源が豊かにして算出されているのに奴隷労働を常態化させられているのはオカシイのではなかろうか。ここに社会的不満が発生し、その解決能力に応じて改良改革なり革命なり回天が必要とされているのではなかろうか。

 資本主義的近代産業制は資本家と労働者の二大階級を生み、その間に様々な階層を作っているが、搾取論のみで説明するのは矮小ではなかろうか。階層差は社会の発展と共に必然的に生み出されるが、これを資本主義制的に整序するのか近代産業制的に整序するのかが問われており、両者は別物なのではなかろうか。マルクス主義的資本主義論は、これを歴史法則とさせたことにより却って目を曇らせたのではなかろうか。近代産業制を資本主義制にせしめているものを疑惑せねばならないのではなかろうか。

 我々が考察すべきは、資本主義的近代産業制ではない社会主義的近代産業制の在り方であり、マルクス的な搾取論に偏ることなく労働論、雇用論、機能論、社会的貢献論その他の見地からの総合的把握が必要なのではなかろうか。要求されるのはその社会の発達の程度に応じた合理的在り方なのではなかろうか。

 マルクス主義以来の左派運動が金科玉条する資本家=悪、労働者=善とする扁平な理論ではこの問題が解けず、太刀打ちできないのではなかろうか。近代産業制の果実からもたらされる労働論、雇用論、機能論、社会的貢献論その他の論を創造することにより、今よりはずっとましな労働運動、政治運動、ひいては社会体制が生み出されるのではなかろうか。体制内化させず常に目線を高くする左派運動が望まれているのではなかろうか。

 思うに、労働者階級及び個々の労働者は、俗流マルクス主義の諸理論によって擁護されていると同時に却ってスポイルされている面がありやしないか。労働者の真っ当な労働意欲、自己啓発、能力練磨、生産管理能力と責任を育てることに背を向け過ぎていやしないだろうか。そういう風に仕向けられているのであろうが。その裏返しで、経営者ないしは事業体に対して不当に搾取者視、階級敵視し過ぎていやしないだろうか。

 考えてみれば、党派運動も一種の事業であり、党員及び指導者はその事業の主体者である。その意味では党派運動を能く為す者の感覚ないし精神はむしろ経営者ないしは事業者に近い。逆に云えば、経営者ないしは事業者は或る意味で党派運動を為している感があり、意識的には革命家であるかも知れない。つまり、日本左派運動が敵視している経営者、事業者の方がよほど革命的な面があるという背理がある。筆者のみならず多くの者が生活体験からそういうことを学んでいるのではなかろうか。

 そういうことも含め、日本左派運動が依拠したマルクス主義理論が何の役にも立たないところから無視され始め、今や化石理論になりつつあるように思われる。筆者は、さりながらマルクス主義の良質面を救い上げ、これと他の諸理論との総合による現代的人民大衆解放理論を創造せねばならないと考えている。しこうして学問が学問に値するものでなければならないと考えている。学んで却って馬鹿になるような学問が主流化しつつあるが、それらとは叉別系の学問を起こす必要があるのではなかろうか。一歩後退し二歩前進していくべきできなかろうか。指針はこうである。「日本左派運動の懐メロ化に抗し、歴史的に依拠してきた基盤の根底的全面的再検討に着手せよ」。

 「ネオシオニズム搾取論を構築し、マルクス主義的階級闘争論とすり合わせよ」。これを「提言19の3」とする。

 筆者の階級闘争史観一歩遠景論に対して疑問の向きもあろう。そこで再説明しておく。筆者は、階級闘争論を満展開するつもりはない。歴史を長い通史で見れば、マルクス主義的な階級闘争論で整理できるかとは思う。しかし、歴史その時の実態は、為政者と被支配者の支配の在り方を廻る調整と闘争であり、ことさら階級闘争論を持ち出す必要はないと考える。歴史は日々の調整と闘争による漸次的変化の連続であり、但し、時代の大きな変わり目に於いて為政者が無能力を呈した場合に回天運動なり革命が必要で、歴史は実際にそのように変化してきたと了解している。

 資本家論についてもマルクス的理解に疑問を感じている。前述したように実際には資本家といっても大手企業と中小零細企業とでは性格が異なっている。経営者を資本家で括るのは飛躍しすぎで、絵に描いたようなワルというのは実際には居ないのではなかろうか。いずれにせよ、度の外れた収奪をしている場合には企業は長続きしておらず、それぞれ社の理念を掲げ、それなりの社会的貢献をしていることで存続しているのが企業の栄枯盛衰の実態なのではなかろうか。伝統的な日本式経営に従う場合、所得格差もそれほど酷いものではない。

 収奪丸出しの資本家と云うのは、考えてみると、戦前の財閥然り、昨今のハゲタカ経営然りで皆ネオシオニズム系の息がかかっていることが判明する。彼らは世界を植民地化させ、抵抗者を根こそぎ殺戮し、在地の文化文明を滅ぼしてきた。彼らは在地の政府と結託し、権力の甘い蜜を吸い、我さえ良ければ式の根こそぎ収奪を体質としている。彼らの処世観には、支配者となって富むか奴隷となって悲惨な生活を甘受させられるのか、やるかやられるか、やられたら徹底的にやり返すの二元法しかない。その意味での原理主義、過激主義でしかない。その昔、イエスが激しく弾劾したのも正論であろう。

 彼らは昔から金融と軍事利権に絡んでおり、株と戦争でボロ儲けしている。今日では石油、原子力その他資源独占もお手のものである。筆者的には、近代産業の勃興、それによる生産力増強、それによる多くの産業資本家の誕生、これらによる産業資本主義を出現させたが、このこと自体が悪いのではなく、ネオシオニズム的資本主義、資本家への捻じ曲げが悪いということになる。両者は質が違うのではないではなかろうか。これを区別せずに論ずると真相が見えてこないのではと思う。その点、このように分析しないマルキシズムと云うのは理論が粗い、そう思う。

 現代日本で人民大衆がますます食えなくなっているのは、為政者がハト派からタカ派へ転換して以来始まったとみなしている。ハト派時代の日本は、経済成長を図りつつ他方で世にも珍しい国民全般の生活保全に留意し社会保障、年金、医療を整備していた。国際的にも協調と経済援助を行っていた。今日から振り返れば善政を敷いていたと云えるのではなかろうか。不思議なことに、筆者も含めてその頃の左翼は政府批判ばかりしていた。しかし、よく考えると、1970年の頃はベトナム反戦運動が有り、筆者の抗議も専らこの方面から来る正義運動、それに関連するプロテストだったと思い直している。

 1970年代にハト派の絶頂期を演出した角栄−大平同盟がキッシンジャー戦略により鉄槌をくらわされ、1980年代より今日に至る中曽根−小泉同盟によるタカ派政治が始まることにより、善政時代の基盤が構造改革と云う名に於いて全て壊され始めた。こういう時には我々は怒らなければならないのに、逼塞させられている。皮肉なものあろう。

 ソ連解体、中国の資本主義化という現実がある。これをどう考えるか。筆者は、ソ連の場合は措くとして中国の場合には文革で敗北し、ネオシオニズム系走資派のケ小平が実権を握って以来、中国は元の木阿弥に戻ったと見立てている。文革は反省せねばならない点が多々有るが、ケ小平派の観点から見直す理由は何もないと考えている。今日、日本に流布されているのは走資派の観点からのものばかりあるが勝てば官軍式のプロパガンダに過ぎないとみなしている。中国は旧文革派が新たな有益理論を獲得すればいずれ内乱必至となるように思われる。

 「マルクス主義的階級出自論の曲解から抜け出せ」。これを「提言19の4」とする。

 マルクス主義的階級闘争論は階級出自論を派生させている。ここからもからも抜け出さなければならない。これを確認しておく。階級出自論を導入することの実践的な意味は次のことを意味する。社会的事象を判断する場合に、人は階級的に置かれた立場によって諸判断が異なってくるのであり、そのように異なった結論が出てくるには相応の理由があるということである。もし、この階級概念を用いなければ、マルクス以前のヒューマニズムの世界、つまり人間一般ないしは社会一般の共通価値観を求めたり、基準を求めることに翻弄され、その結果不毛な果実しか生み出さない。マルクス主義からすれば徒労の企てに過ぎないということになる。マルクス主義の理論的功績はここにあると思われる。

 ところが、マルクス主義的階級論はいつしか階級出自によって人物を評定するという観点と作法を産み出した。これにより、マルキスト間にエリート階層出自を隠そうとする奇態を生むことになった。マルクス主義指導者が自らの出自を貧農、労働者階級であったことを得々と語り、指導者的適性を誇示するという風潮を生み出すことになった。逆の場合には貶められることになった。

 筆者が思うに、階級出自論は使い方を誤れば危険粗暴な無益有害理論且つナンセンスなものでしかない。階級出自論の正しい使い方は、出自そのものに求められるのではない。社会的底辺層出自であることが社会的上層出自である者よりも闘争意欲を高め、動揺することなく粘り強いものとなる条件に恵まれていること、私有財産を持たないことで捉われのない眼を持ち社会的に公正に判断し得る契機を有していることを示しているに過ぎない。マルクス主義者として自己形成するに恵まれた立場にあることを示唆しているだけで、貧農であったり労農階級出自であれば真性のマルクス主義者になれるなどというような単純にものではない。階級出自はマルクス主義者としてのの入り口の優位性であって、それ以降において努力しない者には何の意味もない利点に過ぎない。

 俗流階級出自論を揶揄した次のような名漫才がある。どこで誰から仕入れたのか分からなくなったが、以下記す。 他にも、「マルクスはマルクス神社の神主」という名文句もある。
 社会主義者のための天国に、一人の男性が死んでやってきた。
門番 「お前の父親の職業は?」
「弁護士で、商売のほうも少し…」
門番 「フン、資本家の仲間だな。おふくろは?」
「商人の娘です」
門番 「これもブルジョアか。で、お前の職業は?」
「著述業です」
門番 「労働者じゃないな。女房はどうなんだ?」
「貴族の娘です」
門番 「ああ、だめだだめだ!とても労働者の天国には入れられん!帰れ! …ああ、いちおう名前だけ聞いておこう」
「……カール・マルクス」

 2006.8.24日付日経新聞の「私の履歴書 小堀宗慶bQ3」で、「俗流マルクス主義の階級出自論」を証する一文に出くわした。これを書き付けておく。小堀宗慶氏は次のように述べている。
 「二度の重症事故による肉体的苦痛もさることながら、より深く傷ついたのは、いわゆる『ツルシアゲ(吊し上げ)』による精神的苦痛だった。『ツルシアゲ』とは、階級闘争家と称する者達が、ブルジョワと規定する有産階級の人たちに大衆(彼らの云う人民)の面前で自己批判を強要する一種のリンチである。ある朝礼の時だった。誰かが私の家庭の事をソ連軍幹部にでも話したのか、突然、『お前の家はブルジョワで交際範囲は貴族や上流階級に限られているそうじゃないか。その非を全員の前で告白し、自己批判しろ』。無理矢理朝礼の壇上に立たされ、取り囲んだ何々委員とかいった連中から怒号交じりに詰め寄られた。しかし、どう考えても私が自己批判すべきことが思い当たらない。小堀家も両親も私の誇りとするところであり、これまで何ら恥ずべき行為もしていない。黙り込んでいると例の委員が『とにかく誤れ』と迫る。彼らは、日本軍では上等兵や下士官だったものが多く、ソ連軍からピックアップされイデオロギー教育を受けて洗脳されたあと、委員の肩書きをも狙って収容所に送り込まれてきていた。自己批判が足りないと云われ続けてきた私は結局、1週間ほど立て続けに壇上に立たされた。その間、仕事の量は増やされ、食料は減らされた。しまいには、まともに対応するのがバカらしくなり、『悪かった、申し訳なかった、不注意だった云々』などと意味を成さない詫びの言葉を羅列してやっと解放された。情けなさと口惜しさで、死んだ方が楽ではないかと本気で考えた。しかし、あのような卑怯なツルシアゲに負けて死ぬのはご免だった」。

 これをどう窺うべきか。論ずるまでもなかろう。

 「マルクス主義をよく学び出藍しなければならない」。これを「提言19の5」とする。

 筆者は、マルクス主義をよく学び出藍しなければならないと考えている。但し、学ぼうにも既成のデタラメ訳本では理解できないと思う。翻訳にはそれほど狡知な手が入っていると見立てている。そういう意味でぜめて筆者訳の「共産主義者宣言」が読まれることを願っている。市井本は肝心なところの訳が曲げられており、分かりにくくされている。筆者はそれを見つけて正訳にしている。注目されていないが、目下のところ最適訳と自負している。

 世にマルクス、レーニン全集が出されているが、これを完読した者は少なかろう。それで良いと思う。その前に英知を寄せて極力適訳に直すべきだと思う。それが市井提供されて初めて読破に向かえば良い。これができぬ間は、正訳された必須本を手にいれ、何度も味わえば良かろう。その真意を探るために対話するのが良かろう。そうするうちに次第に正訳の輪を広げて行った方が賢明だろう。

 ところで、マルクス、レーニン全集は英文、独文ではネット上に開示されているのに、日本文では非公開にされている。詳しくは知らないが、版権が抑えられているようである。一体誰がかようなことをしでかすのであろうか。事情に明るい方のご教示をお願いしたい。筆者は、マルクス主義からの出藍の為に、その前提としてマルクス、レーニン全集に分け入りたいと願っている。トロツキー、スターリン、毛沢東、金日成等々然りである。誰か共認せんか。以上を提言19としておく。