【提言12、日共式穏和主義反対運動の欺瞞性、反動性を弾劾せよ】

 (はじめに)

 「日共式穏和主義反対運動の欺瞞性、反動性を弾劾せよ」を提言12とする。共産党は、1955年の六全協で宮顕−野坂派が徳球系から指導部を簒奪して以来、左派運動内に穏和主義の種を蒔き、右傾指導に熱中してきた。それだけならまだしも急進主義者、党内の非イエスマンに対しては暴力的牙を剥いてきた。日共と云われる所以がここにある。

 こうした「権力に対する穏和主義、闘う者に対する急進主義」という倒錯運動が訝られず今日まで経緯している。そういう執行部が延々50年以上に亘って党中央を形成している。この党中央は、議会主義により議席増大に精力を注いできた。当初は漸増し続けたが、今日惨めな後退を続けている。というのに党中央の座椅子を手放さない。いつも聞き苦しい言い訳を繰り返しながら今日まで経緯している。こういう変態運動が罷り通ってきたという事象に対して、そろそろこれを総括せざるをえまい。

 「60年安保闘争を検証せよ」。これを「提言12の1」とする。

 筆者が注目するのは、政治スローガンに見る「反対」表現を好み、「粉砕」表現を嫌う裏意図である。何事も史実に基いた方が説得力がある。格好の例題として60年安保闘争時の指導が如実に物語っているので、これを検証する。興味の有る者はサイト「戦後政治史1960年上半期、下半期、60年安保闘争考」の項で確認すべし。

 
この時、日共は、世上の通念と違って悉く闘わない方向へ指導してきたことが判明する。筆者の見立てるところ、60年安保闘争の昂揚は主として労働運動を社会党が、学生運動をブントが担うことでもたらされた。我々はここで、穏和主義と急進主義の共同戦線化による労農同盟の成功事例を学ぶことができる。これを、もう少し詳しく確認する。

 60年安保闘争は日本政治史上のエポックとなっており、社会党、総評、日共は手柄話の如く語っている。しかし、末端組織での動員レベルでそう語るのは問題なしとして、宮顕系日共党中央が「あたかも闘いを指導した」かの如く誇るのは史実に反する。事実は、ブント系全学連こそが情況をこじ開け、檜舞台に踊り出、全人民大衆的闘争に盛り上げたのではなかったのか。その闘いぶりは世界中に「ゼンガクレン」として知られることになった。筆者の検証によると、宮顕系日共党中央は意図的懸命に闘争圧殺に狂奔している。案外と知られていないが、これが史実である。

 この渦中で、民青同系は遂にブント系全学連と袂を分かつことになった。こうして学生運動は革共同運動のそれも含め三分裂化傾向がこの時より始まることになった。6・15の国会突入でブントの有能女性闘士・樺美智子が死亡し、大きな衝撃が走った。この闘争の指導方針をめぐって全学連指導部と日共が対立を更に深めていくことになった。

 結局、日米安保条約が自然成立した。しかし、アイゼンハワー米大統領の訪日は実現できなかった。岸内閣は倒閣された。岸のタカ派的軍事防衛政策はその後20年間閉居を余儀なくされることになった。60年安保闘争の総括をめぐってブント内に大混乱が発生することになった。ブントは自らの偉業を確信できず、宮顕日共のトロツキズム批判と革共同式駄弁に足元を掬われていった。しかし考えてみよ。60年安保闘争を渾身の力で闘い抜いたブント系全学連のエネルギーこそは、日本左派運動史上に現出した「金の卵」ではなかったか。社会背景が違うとはいえ、70年安保闘争なぞ足元にも及ばない国会包囲戦と国会突入を勝ち取り、岸内閣が目論もうとしたタカ派路線のあれこれの出鼻を挫いたのではなかったか。全国に澎湃と政治主義的人間を創出せしめた。これらは明らかにブント的政治戦の勝利ではなかったか。

 「日共式穏和主義反対運動の詭弁を弾劾せよ」。これを「提言12の2」とする。

 ところが、日共はそのように了解しない。即ち排他的独善的右傾化を特質としており、手前たちの運動こそが是であり、それ以外の運動は非であり、もし共同戦線に立つならば、ひたすら右傾化させる条件に於いてのみそれを欲する。かくて、その運動は、より多くの者たちを参加させるためと云う口実で幅広主義を採る。その結果、政治スローガンも最も穏和な「反対」表現を常用する。それは気の抜けたビールのようなものでしかなく、そういう運動を意識的故意に持ち込んでいるところが臭いと云うべきだろう。ここに賢明な社会学者が登場すれば、日共式幅広主義が運動を沈静化するのに役立っており、少しも幅広くしなかったことを例証するであろうが、かく明言する社会学者は現われない。

 しかして「粉砕」とか「阻止」なる急進的表現は、使用しないのではなくサセナイ。デモも秩序だった請願デモを好む。間違ってもジグザグデモはサセナイ。60年安保闘争では、実際にこれを廻って議論が白熱している。こういうところは史実を検証しないと分からない。その結果、日共式反対主義、穏和な請願デモでは闘った気がしないと感ずる者たちはブントのデモに出かけた。「お焼香デモ粉砕」を叫び、ジグザグデモで鬱憤を晴らした。そのブントは、国会議事堂にも羽田空港にも首相官邸にも突入し、シュプレヒコールで気勢を挙げた。多くの逮捕者を出し、多くの者が負傷し、樺美智子女史が死亡する悲劇もあったが、幅広主義が幅広くしなかったのに対し、多くの者を引き付け運動の裾野を広げた。何しろ、デモが通るとパチンコ屋ががら空きになったと伝えられているほどである。多くの子供が「安保粉砕」を口真似して遊び始めたとも伝えられている。


 
以上を踏まえて、「いくら言葉を過激にしても、それが実現した例を知らない」という口実で、穏和な反対表現で良いとする主張を検討してみることにする。一体、我々は、粉砕とか阻止とか打倒とかの政治用語をどういう基準で使っているのだろうか。実現可能性のある用語のみが使われるべしとするような基準が必要であろうか。筆者は違うと思う。反対表現は、賛成か反対かの判断だけであり、忽ちは政治的見解の表明に過ぎない。事案が許し難いものである場合、反対表現では物足りない。どちらへ転んでも良いが俺は反対だと云う場合には反対でも良い。だがしかし、これは絶対に認めてはならない、強く反対すると云う場合には、それに相応しい表現を模索する。それが粉砕とか阻止とか打倒とかになる。それで良いではないか。その方が言葉の厳密な使い分けをしており作法にかなっていると思う。一律に反対表現で済ませるほうが粗雑だと思う。

 第一、反対なる言葉は単に見解及び態度表明に過ぎず、反対したと云うアリバイ証明でしかない。粉砕とか阻止とか打倒とかは逆に、実現しようがしまいが、運動主体者として歴史に責任をもとうとしている。そういう意味で、歴史的責任を引き受けた表現と云えよう。それが実現しないのなら、次には実現するように工夫すればよい。その繰り返しでよい。何で、この姿勢がなじられるのか分からない。逆に聞きたい。アリバイ証明的反対運動こそ政府当局者に対して何らの痛痒も与えず、実はガス抜き的役割で裏からの体制支援に資しているのではないのか。

 60年安保闘争は空前の盛り上がりを見せ、米国大統領アイゼンハワーがフィリピンまで来てスタンバイしていたにも拘らず来日を阻止し、岸政権の面子が失われ、内閣総辞職を余儀なくされた。それは、日本左派運動史上1947.2.1ゼネストに次ぐ壮挙であった。ところが、日共は、70年安保闘争の方が空前の盛り上がりであったと嘯く。何とならば、デモ届出数、参加者数が60年安保闘争時のそれを上回るものであったからなどと云う。しかし、70年安保闘争は、時の政権を何ら痛打しておらず、明らかに60年安保闘争に及ばなかったのではないのか。しかるに事態を逆に描いて恥じない。

 我々は、ウソで塗り固められたこういう変態運動、詭弁運動から脱却せねばならないのではないのか。しかしながら、日共式論理と論法はあちこちに伝播しており、急進主義的盛り上がりを抑圧させる格好で通用している。この変態を訝(いぶか)るものは少ない。筆者は、言葉も運動も、それに最も相応しい体裁をとるのが望ましく、史実は極力客観評価されねばならないと思っている。早く正道に戻らんことを願っている。

 「日共六全協の宮廷革命を共認せよ」。これを「提言12の3」とする。

 そういう共産党の変質はいつから始まったか、これを確認する。筆者の見立てるところ、戦後革命の流産過程から検証せねばならない。1947・2・1ゼネストの不発とその後の社共運動の限界に気づいた一部の者は驚くことに体制側に入り込み、政府与党内のハト派に位置して戦後日本のプレ社会主義を牽引し始めた。他方、日本左派運動の本家的地位にある共産党内部では逆事象が発生していた。以下、これを確認する。

 戦後直後、日本共産党を再建し党中央を形成したのは徳球−伊藤律系であった。この時期の左派運動はGHQのお墨付きで始まった。戦後政治史第1期の考察が格別重要なのは、この時期に戦後政治運動のレールが敷かれたことを踏まえ、これを客観化させる必要があるからである。 

 但し、そうは云っても、ひとたび手に入れた合法化左派運動を、当局肝いりの運動から脱して如何にして手前達の運動に仕上げていくのかは、その時々の指導者の能力に左右される。戦後日本左派運動の最初期を指導した日本共産党の指導部を構成した徳球系党中央は、これを能く為し得た。徳球系は、1947.2.1ゼネスト、1949.9月革命等々に大きな政治的なヤマ場をつくった。GHQの強権介入さえなければ政府権力を手に入れ、赤旗を国会になびかせることができたほど能力的な左派運動を指導した歴史を遺している。徳球運動は、戦後日本革命を自律的に手探りで邁進し、あわやというところまで政権に辿り着いた稀有な史実を遺している。

 徳球系党中央運動は結果的にGHQの強権介入、戦後日本の奇跡的な経済的復興、党内対立を要因として次第に勢いを失速させられた。こうして、善戦むなしく戦後革命を流産させていった。当然、政治責任は問われるべきであろうが、進駐軍の重圧下のことでもあり割り引かねばならないだろう。いずれにせよ、戦前戦後を通じて一筋の真紅の革命派であったことは間違いない。

 かく合点されねばならないところ、多くの論者は早くも躓(つまづ)く。徳球−伊藤律系運動を無能呼ばわりし、批判のボルテージを上げることで左派の証とする変態性を見せている。この観点からする多くの左派運動史書が遺されている。筆者は、意図的に流布されているとみなしている。これにつき異論を持つ者が望むなら、筆者はいつでも受け太刀することを約束しよう。

 続いて1950年の朝鮮動乱激動に巻き込まれ、共産党が再々度非合法化されるに及び北京への亡命を余儀なくされる羽目になった。その結果、中ソを盟主とする世界共産主義運動の武装反乱指令に従わざるを得なくなり、その武装闘争が失敗に帰することにより最終的に潰えた。

 1955年の六全協で、徳球−伊藤律系党中央がイニシアチブを失い、野坂−宮顕系が政権を奪取し新党中央を形成した。戦後共産党運動はこれにより大きく捩れて行くことになった。野坂−宮顕系党中央は、戦前の日本共産党を最終的に瓦解させたいわくつきのスパイ同盟であり、戦前党史が正確に綴られ学ばれていたなら再登場させてはならない闇の同盟であった。宮顕−野坂ラインが、共産党をひいては左派運動を如何に殺(あや)めて行ったか、ネオシオニズムの隷従であったか、これを考察せずんば歴史検証にはならない。こういう見立てが欲しいと思う。

 これを知らない知らせない党史論による洗脳によって、この闇同盟が再度党中央を牛耳ることになった。結果は火を見るより明らかで、次第に本来の共産党運動を解体し始め、終いには似ても似つかぬ共産党に変質させてしまって今日に至っている。筆者は、これより共産党という表記を止め日共と記すことにしている。

 「日共式穏和主義反対運動の反動性、捩れ運動を弾劾せよ」。 これを「提言12の4」とする。

 六全協後のこの捩れが日本左派運動に新型の運動を産んでいくことになる。1956年、まず革共同が国際共産主義運動の歪曲に抗するという形で、1958年、革共同に向かわなかったもう一つの急進主義派が日共の変質に抗する形でブントをという二潮流がいわゆる新左翼系運動を創出した。これを歴史的必然と看做さないわけには行くまい。

 ブントの誕生経緯を確認しておく。ブントの元祖系譜たる全学連中央の武井派は元々、徳球−伊藤律系党中央に叛旗を翻すところから運動を始発させた。その頃、宮顕はしきりに急進主義的言辞を弄んでいたことにより自然と誼を通じることになり、かくて騙された。しかし、野坂−宮顕系が六全協で党中央を簒奪して以来、宮顕は本来の地金である右傾化路線を敷き始めた。全学連急進主義派はこの反動に堪らず、新党運動の立ち上げに向かうことになった。国際派系列の島−所感派系列の生田の指導する第1次ブントが結成され、反日共新左派運動を創出していった。ブントは国際派の水路からのみ生まれ出たのではない。かく了解すべきであろう。

 野坂−宮顕系日共は、この新左翼運動の徹底殲滅に向かう。野坂−宮顕系日共の戦闘性はこの方面にのみ発揮されるという史実を遺している。他方で、徳球−伊藤律系時代には幾分か痕跡していた政権奪取を指針から取り外し、徒な口舌運動に捻じ曲げていった張本人でもある。しかも、政権与党内のハト対タカの争いに於いて、陰に陽にタカ派と誼を通じ、ハト派叩きにシフトしてきた形跡が認められる。60年安保闘争時の変調指導然り、党内反対派駆逐手法然り、新左翼運動敵視指導然り、全共闘運動解体策動然り、その他原水禁、日中友好、部落解放運動等々の戦闘的大衆団体に対する鉄槌策動然り。

 その中でも最大の事案は、ロッキード事件に於けるハト派総帥の田中角栄に対する執拗な政界追放運動であったであろう。今日なお居直り正当化し続けているが、追って史実が不正をなじろう。角栄−大平同盟こそは、戦後日本左派運動のもうひとつの裏の流れの代表であり、これに徹頭徹尾敵対した反動性は醜悪極まるものである。これからでも遅くない徹底解明検証されねばならないであろう。