【提言9、党中央拝跪型民主集中制論から出藍せよ】

 (はじめに)

 「党中央拝跪型民主集中制論から出藍せよ」を提言9とする。提言8で外に向けての統一戦線論の胡散臭さを指摘したが、内へ向けての民主集中制論が対応していると思われるので、これも批判せねばならない。いわゆる民主集中制の実態は党中央権限集中制に他ならず、党中央よりする団結とか統一の過度な強調は党中央拝跪主義を生むだけのことではなかろうか。

 実際には民主集中制なる素敵な用語を生み出して丸め込んでいるが、民主集中制の制御を誤まれば容易に党中央集中制へと辿り着く代物に過ぎない。実際に党中央拝跪主義でしかない民主集中制論が振り回されており、日本左派運動が大きく毀損されてきたことは承知の通りであろう。詳論はサイト「組織論検証」に記す。
 

 「党中央拝跪型の民主集中制論から出藍し、分権的機関運営制論に転換せよ」。これを「提言9の1」とする。

 日本左派運動は何ゆえに民主集中制なる組織論に固執するのであろうか。目前に決戦的な闘争が控えているのならある種の有事対応として考えられないこともないが、日共的なズブズブの議会主義、体制修繕運動に何の必要があろうか。為にする党内の統制的強権支配以外の何ものでもなかろう。早くこのことに気づくべきではなかろうか。

 そもそも党中央見解及び指導に対する異見、異論、異端は党内に常に担保されるべきであり、堂々と開陳されるべきではなかろうか。筆者は、最低限綱領さえ一致するなら分派(派閥)さえ容認されるべきと考えている。組織と云うものは元々そういうものだと考える。党中央派と反党中央派が共存し、各派閥が前提されてこそ民主集中制論が真に生きるのであり、戦後自民党のハト派が主流時代に模範的な党運営をして見せた史実がある。つまり、できない訳ではない、能力の問題ということになるであろう。

 宮顕式民主集中制論の実際は、党員が一枚岩的に党中央に列なるべしという恐ろしい統制衛生理論として鼓吹されている。これにより、異見、異論、異端、分派一切が極端に制約、封殺、禁止、撲滅されてきた。党員もこれに疑問を湧かすことなく従ってきたがイカガワシイ話ではなかろうか。このシステムを、その他の左派党派がなべて安逸に右ならへとばかりに採用しているように思われる。それを思えば、組織論、運動論の両面からこの悪しき理論を追放せねばならないであろう。

 更に云えば、「提言5、自由自主自律型の左派運動を創造せよ」で述べたように、党中央に対する盲目的服務こそ左派運動にそもそもあってはならない原理矛盾ではなかろうか。我々が社会運動に目覚めた際、自由自主自律的な自覚に基いて眉目を開いたのではなかったのか。ならばそれをどこまでも後生大事にするのが筋と云うものだろう。それをどこで間違えたか、どう云い含められ納得したのか分からないが、いつのまにやら反対物を信仰し始めているのは滑稽であろう。

 理論には異論、異端がつきものであり、組織には分派の発生は当たり前のことであり、その上での結社であろう。結社と云うものはそういう類いのものではないのか。自由自主自律的な結社にして組織も運動もしなやかになるのであり、真の団結になるのであり、能力者を呼び込み、互いの練磨で組織も運動も質が向上し、大きなうねりを作り出す。多少の軋轢は芸の肥やしである。これが歴史の語る弁証法である。いわば「自由自主自律規律」は虎の子の元手である。これを捨てたら、ありきたりの権力的凡庸なものにしかならないのではなかろうか。社会主義ユートピアを求める反体制運動が権力的凡庸なものに被れることは原理矛盾ではなかろうか。そのような組織、運動への拝跪を要請したり受諾するのは、学んで馬鹿に成る典型であろう。異論、異端、分派を取り込めないような組織なり運動なら止めてしまえ。

 もっとも世の中複雑だから、組織潰しで送られてくる連中も居る。こういう手合いの対策としては別基準が要るだろう。そういう意味で、「紅い心」の仲間同志ならと云う条件にしておこう。但し、これを誰が判定するのかを問わねばならず、下手をすると振り出しに戻ってしまう。何事も大事なところが難しいとしたもんだ。ここに智恵と能力と分別が要る。

 内部がそのように形成された党派にして初めて外部に輝き始め、次第に外へと運動が迸(ほとばし)り始め、しこうしてそれは共同戦線論となり、多くの勢力を糾合せしめ、一大政治運動に発展するのではなかろうか。そういう意味では内の論理も外の論理も相似形であり、内輪の在り姿が外へ表出すると分別するべきではなかろうか。

 「党中央の云うことはその通り」的組織、運動ほど詰まらなく、左派運動を害するものはあるまい。組織ないし運動に於いて異論、異端、分派は芸の肥やしであり、むしろ尊重せねばならないというのが、そもそもの近代精神の始まりなのではなかろうか。これはあらゆるところに通用するし通用させねばならない法理ではなかろうか。「内で強権支配、外で民主主義擁護」を云う手合いほど信用できないものはなかろう。これが通用しているから嫌らしい。

 実際、日本左派運動史に於いて、戦後直後の党運動を指導した徳球−伊藤律系運動はこれを踏まえていた。かの時代、党大会に対案が堂々と提起されていたことを思えば。徳球がオヤジと愛唱され畏敬されたのは、宮顕の云うが如く家父長制の然らしめたものではなく、組織論的懐(ふところ)の深さに対して敬愛された表現であったと窺うべきだろう。それにしても宮顕−不破運動は、無茶苦茶な党組織に改竄してしまったことよ。

 「歴史に学ぶ姿勢のない者は『井の中の蛙(かわず)』になる」(星宮*生)。そういう意味で、日本左派運動の愁嘆場を前にして我々は反省すべきだろう。その最大の肝要事に組織論、運動論に対する省察があるだろう。この関心からと思われるが、「革命党の在り方は、実現すべき未来社会の在り方によって逆規定されるべし論=逆規定論」での立て直しが云われているようである。しかしそれもオカシイ。筆者は次のように提言をしたい。「革命党の在り方は、まずもって自らの党派運動の中に可能な限り実現すべき未来社会のミニチュアモデルを形成すべし論=前倒し論」での建て直しを要求したい。この能力の獲得如何が全てのキーではなかろうか。つまり、筆者は、逆規定論的な演繹法によるのではなく、帰納法的に捉えていることになる。ここははっきりさせておきたいところである。

 「民主集中制論はロゴス派の論理である。カオス派は型に嵌められるのを嫌う。分権的機関運営制論に向かうのが法理である」。これを「提言9の2」とする。

 筆者は、民主集中制論の背後にはロゴス派の論理があると見立てている。カオス派は型に嵌められるのを嫌い分権的機関運営制論を良しとする。これが法理である。そこで、ロゴスとカオスについて言及しておく。何事も真に重要な問題は哲学問題になる。実際にはロゴス派とカオス派の論理の有機的結合が望まれるが、その前にひとたびは分離識別しておかねばならない。次のように見立てることができるのではなかろうか。

 統一対共同、強権対民主は大きく食い違って対立しているが、これを別の表現で云えばロゴスとカオスの差でもあるのではなかろうか。ロゴス派は、この世を万事に於いて神の支配の賜物と捉え、真理的な整理序列化に向かう癖がある。ロゴスを専らとする最強勢力は、かのユダヤ教パリサイ派であり、かの昔イエスが果敢に批判し続け処刑された。

 ロゴス論理は現在的にはネオシオニズムが依拠する哲学でありイデオロギーである。この連中は去る日「シオン長老の議定書」で意思統一し、陰謀とテロルを得手としながら以来着々と世界を席捲しており、巨万の財貨を積み上げ戦争とシオニズム革命に勤しんでいる。その手法が今や地球環境を破壊するところまで定向進化しつつある。我々は一刻も早くこの汚染から脱出し、対抗力を生み出し、彼らの時代を終わりにせねばならない。

 これに対し、世界の諸民族は、彼らを除けば概ねカオス派である。カオス派はユダヤ教パリサイ派のような絶対的定言を持たない。その代わりに、古神道的叡智のように森羅万象から筋道を読み取り、それなりの倫理道徳を生み出し折り合いをつけながら暮らし、互いにそこそこの付き合いをしていくという弁えを持っている。それは自然との関わり方も然りである。この暮らし方でどこがオカシかろう。それが証拠に、ユダヤ教パリサイ派を除けば殆どの部族民族が共生し得る。昔からそうしてきた。交易も然りである。無数のシルクロードを生み出してきたではないか。それで良いのではないのか。


 我々が尊ぶべきはカオス派的秩序であり、ロゴス派的絶対真理の如意棒ではない。さような棒を振り回して、「我は正しい。選ばれた民である。君は我になびけ。さすれば名誉と地位と権力を与えよう。下につく者にはそこそこの生活を与えよう。我に刃向かう者は徹底して殲滅してみせよう」などと云いながら、これを実際に行う者は理論的狂人である。その狂人が現代世界を支配しており、テロリスト退治を声高にし無慈悲な人民大衆虐殺に興じている。その論に同調する者がまま居るのが現実だがオゾマシイ。今や世界史は、この狂人派を押さえ込む知性を獲得し、彼らを如何に掣肘し矯正し共生するのかが望まれている。これが時代のテーマであろう。

 その為にも、ロゴス派の教本による思想、歴史、文化、芸術ではなく、カオス派のそれらの教本をうみださねばならないのではなかろうか。そして、人は、そのどちらをも学べば良い。その上で、己の気質と能力に応じた主義主張に生きれば良い。筆者はそう考える。実際にはロゴス派テキストばかりが押し付けられている。カオス派の論理を学ぼうとすれば、自力で獲得する以外ない。

 「民主集中制問題を通じて、好適の組織論を生み出さなければならない。これができない以上は左派党派に接近すべきではない」。これを「提言9の3」とする。

 考えてみれば、民主集中制問題は組織論である。ならば、民主集中制を批判する以上、これに代わる如何なる組織論を確立すべきかを問わなければならない。以下、筆者見解を披瀝しておく。組織論は、党中央権限論、機関権限論、党員の規律と権利論の三本立てから構成されている。本来、この三者を有機的立体的に確立しておかなければならないところ、民主集中制なる便利な用語で一括している粗雑さが認められるように思われる。以下、簡略にれんだいこ式組織論を素描しておく。

 党中央権限論について。党中央は、指針打ち出し権、人材登用権、財務及び予算権を握っている。これを「権力三権」と云う。党中央は本来、それで充分満足すべきだろう。その上何を欲張ることがあろう。この三権さえ握れば、党内の異論、異端、分派の発生は当然と弁え、指導能力で牽引し挙党一致を目指せば良い。その能力のない者あるいは邪な狙いを持つ者が更なる権力棒を持ち出し振り回すのではないのか。これにより一枚岩的満場一致を現出させ、万年同一系執行部をン十年にわたって作り上げているのではないのか。してみれば、挙党一致と満場一致には雲泥の差があると云うべきだろう。

 党内反対派は、党中央が拘束されるように自らも拘束されねばなるまい。党内反対活動が認められる以上、党中央目指して基本的には次の党大会まで雌伏せねばなるまい。党中央の打ち出す指針に対しては、これに反対活動することまでは許されるが、意図的故意の妨害活動は控えるべきではなかろうか。そういう意味で、党中央と党内反対派の並存、これが大人の組織論となるべきであろう。

 
機関権限論について。機関は、党中央の指導に従うのを原則としつつ、機関独自の権限を持つとすべきだろう。いわば、機関と党中央は、チェックアンドバランスの関係にあると云うべきではなかろうか。理念としては、機関は党中央を、党中央は機関を尊重するべきであろう。この関係が上から破壊された姿を独裁と云うのではなかろうか。

 
党員の規律と権利論について。党員は、規約と規律を遵守し、且つ唯々諾々せざる権利を保障されるべきであろう。理想は、党員個々が党中央の指導に心服し、身心共に自由自主自律的に呼応することであろう。これは党中央の指導能力、党員の資質の双方に関わっていると云えよう。最も実際には、意図的故意の撹乱分子が潜入してくるので理想通りには行くまいが。

 
一応、こういう有機結合により党組織論が確立されねばならないと考える。目下の左派運動の組織論は、どこもここもお粗末極まるように思えてならない。なぜ、もう少しは理想に近づけるように努力しないのだろうか。筆者には不思議でならない。この努力を怠るのは左派者の原義に廃(すた)ると考える。

 「日共のオゾマシイ民主集中制論に名を借りた治安維持法的党内支配の実態を告発せよ」。 これを「提言9の4」とする。ここで、日共の党運営の実態を確認しておく。詳論は「日共の強権論理考」に記す。

 日共組織論、運動論の一つに「ベルト理論」がある。「ベル ト理論」とは、党の方針、決定が伝達される場合に、党中央→大衆団体内の党員フラクション→大衆団体決議→国民一般への働きかけという図式でなされ、この間民主集中制原則が貫徹されて上意下達式に極力一方通行化するのが望ましいとされる理論である。

 問題は、党内ならともかくも、大衆団体組織に対してまで、その自主性を尊ぶよりは、ベルト式自動調での下請け機関視されていることにある。党中央にとって非常に好ましい組織論、運動論の典型的理論であるということになるが、大衆団体組織を党中央に拝跪させるこうした理論の功罪は罪の方が大きい、というのが今日では自明であるように思われる。

 こうした「ベルト理論」は、スターリン時代に満展開された手法であるが、宮顕の思考スタイルにもぴったりのものであったようで、宮顕執行部確立以降においては、反対派生息の臭いがし始めるや否や、党内は云うに及ばず大衆団体諸組織に対してまでこの理論が堂々と押しつけられてきた。ちなみに、「民青同は日本共産党のみちびきを受ける」ことを規約に明記した組織で、この「みちびき」を拡大解釈すれば容易に「ベルト理論」と接合することになる。

 もう一つ、党の強権支配を容認せしめる理論的根拠になっているものとして 「一国一前衛党理論」がある。「一国一前衛党理論」とは、一つの国には一つの前衛党しかあり得ないとする議論で、時の執行部を権威付けあらゆる分派活動を厳格に禁止する論拠となった。こうなると、党の執行部を掌握した者には正統のお墨付きが授与されることになり、この如意棒を振り回すことで絶大な権力が形成されることは自明であろう。わが国においては、「六全協」後の宮顕派が党内権力を確立し、以来反対派はその都度異端視され排除されつつ今日まで至っている。

 1970年代後半、中野徹三、藤井一行、田口富久治ら一部の党員政治学者たちがマルクスやレーニンの党組織論にさかのぼりながら、それまで共産主義運動の中では自明のこととされた「一国一前衛党」論に対する疑問の提起を始め、スターリン主義の批判的検討に向けて精力的な理論活動を始めていた。この運動がどうなったか。党中央は、このような理論的解明に向かおうとする学者達に対する締め付け指令を強権発動させた。不破は、こうした際には最も戦闘的イデオローグ として立ち現れ、口舌家として活躍する。

 もう一つ、党の強権支配を容認せしめる理論的根拠になっているものとして 「民主集中制組織理論」がある。この問題性は、実際の運用のされ方にある。 「民主」を成り立たしめる手続き的要件の解明に向かうことなく、専ら「集中」の作法に則っての恭順を党内に催促することとなり、これに誰も異論を唱えられない規律論が押し付けられる。こうなると、「民主集中制」とは名ばかりであり、実際には権力掌握者一般が常用してきた権力理論そのものでしかない。 しかしながら、これが好評で、国際共産主義運動、党組織論に広く採用された「不変の原則」的組織論となって今日まで通用している。

 これを説明すると紙数を増すばかりとなるので、分かりやすい定型句で説明する。

党中央拝跪主義  これが第1原則であり、党中央の方針は絶対のものであり党の決定は無条件に実行しなければならない。これにより、党員は党中央委員会に従わねばならないことになる。党規約では、「個人は組織に、少数は多数に、下級は上級に、全国の党組織は、党大会と中央委員会に従わなくてはならない」と定められる。こうなると、党中央絶対、盲従、服従主義とも云われるべきであろう。
忠勤党員主義  これが第2原則であり第1原則を補完する。第1原則に忠勤する党員が党中央を支える。
異論排除主義  これが第3原則であり、異論異端は排除される。「次には疑うこと自体が問題だという思考方法に発展する。こうなると、中央幹部のいうこと以外目に入らなくなる」。

 つまり、絵に描いた様な洗脳型権力理論であることになるが、「絶対権力は絶対腐敗する」という罠から免れる工夫を持っているのだろうか、そこが問題だろう。

 こういう民主集中制を成立せしめる前提として、「党は組織全体が一つの体のような ものであり、その頭脳は中央委員会であり、個々の党員はその細胞のようなものであり、細胞の情報の一切が頭脳に集中されてこそ」云々(「査問」23P) という「頭脳=党中央、内臓機能=党官僚組織、その他下世話機能=一般党員」式の「アナログ唯物論」が背景にあるように思われる。

 とするならば、 最新の大脳生理学とかDNA理論を大胆に取り入れ、身体機能の相互関連の仕方を学び直す作業が急がれており、このことには大いに意味があるということになる。ちなみに、民青同は、「日本共産党のみちびきを受ける」手足のような青年組織機関で、「党にとって重要なプール組織である」と位置づけられている。

 もう一つ、党の強権支配を容認せしめる理論的根拠になっているものとして、かって「党規約第2条8項違反」というものがあった。新規約では第5条規約になっている。「第2条8項」とは、「党の内部問題は党内で解決し、党外にもちだしてはならない」(新規約では「5・党の決定に反する意見を、勝手に発表することはしない。8・党の内部問題は、党内で解決する」)という内容である。

 この文言だけなら有り得る党規律のようにも見えるが、ここでも問題は基準づくりである。党内、党外の範囲に対して驚くべき拡大解釈がなされていくことにより、容易に規律違反がでっち上げられ統制処分の対象となる。「党の内部問題」には、専従事案、会議事案にとどまらず、理論問題、党幹部の発言までが含まれ、これらに対する批判的見解、異論の一切が「党の内部問題の漏洩」に結びつけられることになる。

 不思議なことは、「党外にもちだす」とは党の外部というだけではない。民主集中制の垂直制組織原理の下では、他支部所属の党員との意思疎通さえ内容次第で対象にされる。党の縦割り的仕組みからすれば、横断的交流は規律違反で上下関係しか認められていない。日本共産党の一つの支部、あるいは一人の党員にとって、他の支部は「(準)党外にあたる」ということになる。

 従って、「同じ党員仲間の誼」という観点からの党内での批判、異論の開陳は、すべてこの党規約「第2条8項違反容疑」の規律違反として処罰の対象になる。これに、党内監視機関が徘徊し始めれば、これはまがうことなく戦前型の治安維持法体制と云えよう。いつのまにか日共は、宮顕―不破系指導により左翼運動にはもっとも似つかわしくない戦前の特高型治安維持組織へと変態転化させられたことになる。筆者的には、このことは実は不思議でも何でもない。宮顕、不破らは手前の甲羅に似せて出自通りの組織を作ったことになる。

 そもそも党組織論における「垂直制組織原理に基づく組織の縦割り的仕組み」の由来は「レーニンとボルシェビキ時代」に遡るようであるが、現在の不破式人民的議会主義路線時代には不釣り合いな規定のように思われる。一方で議会を通じての平和革命の可能性、現実性を頻りに説きながら、他方でこうした前近代的とも言える特高型治安維持組織を作り上げている。筆者的には、なぜこれを訝らず、組織論を見直し、より合理的な組織論についてなぜ考究しようとしないのだろうと思う。誰か、これを整合的に説明して貰いたい。今やポルトガル共産党と、日本共産党の二党だけに残る組織原理ということのようであるがオカシクはないのか。

 このことに関して宮地氏は、「共産党問題、社会主義問題を考える」の「『ゆううつなる前衛』その粛清と査問システム」において次のように解説している。(http://www2s.biglobe.ne.jp/~mike/zenei.htm)

 「合法政党になったのにもかかわらず、それを放棄しない理由として考えられるのは、一つです。横断的、水平的交流を厳禁し続ける方が、党内管理、党中央批判抑圧の面で最適だからです。この組織原則を堅持する以上、党中央批判が集団的になることは絶対ありえません。なぜなら、一人の意見は、上級機関に対して“垂直”にしか提出できず、それを握りつぶすことも、その批判者に規約外の“陰湿な報復”をすることも、常任幹部会の恣意的な裁量にまかされるからです。

 それだけでなく、 集団で批判を話し合ったり、あるいは提出する動きがあれば、『分派活動容疑』.『規約第二条八項違反容疑』で査問し、党内排除・党外排除の粛清をただちに遂行できるからです。常任幹部会の地位安泰にとって、これほどありがたい組織原則はありません」。
 「専従、党議員、機関役員の党中央批判意見書の提出行為も、ストレートには査問の対象になりません。しかしその提出者に対して、専従の場合は即時解任、党議員、機関役員の場合は次期非推薦という党中央常任幹部会の陰湿な報復をうけます。これは、規約に基づかない報復処分ですので、党内でのそれとの闘争手段はまるでありません。どれだけ多くの党員が、この不条理な粛清に“泣き寝入り”してきたことでしょうか」。

 これに付記すれば、「党員の横断的交流禁止規定」は、「党内管理、党中央批判抑圧の面」に加えてどうやらスパイ潜入の温床になっているように思われる。この観点は、宮顕一派の胡散臭さを認める筆者ならでは見えてくるようである。数々の党員から、「党組織大会への代議員選出に際し、支部に所属しない見知らぬ党員推薦を依頼され、『ここで代議員に選んでくれ。他で代議員になれないから』と言われ、選出したことがある」と、インターネット上で告白されつつある。

 このような規約違反によって選出された代議員の全てがスパイであるかどうかまでは判明しないが、スパイ潜入の典型的手口として理解することができるように思われる。日頃、「党員の横断的交流」が為されていれば、ある程度防げることのように思われる。原点に戻って、闘う者同志の横の連絡は必須肝要なことであり、それを禁止するという宮顕式組織論そのものが胡散臭い。


 もう一つ、党の強権支配を容認せしめる理論的根拠になっているものとし て、「スパイ容疑理論」がある。スパイは、戦前は特高とつながっていたが戦後は公安調査庁との関係となる。公安調査庁は様々な巧妙な手口でスパイ工作を仕掛けるが、スパイはもっともスパイらしくない顔をして働くという単純なことが忘れられやすい。スパイは最も熱心にスパイ摘発を行なう側で画策する傾向があり、言葉尻だけでは判明しないということを付言しておく。

 宮顕ほど党史上政敵に対するスパイ容疑で査問した人士はいないが、この御仁こそ胡散臭いということは十分ありうる話ではあるが、そういう認識には至らない。公然とそう主張するのは目下筆者ぐらいであるが、いつの日かその化けの皮が剥がれる日もくるものと確信している。

 ソ連邦等革命政権を樹立した国家においては、更に「国家反逆罪容疑、西側のスパイ容疑、トロツキスト断罪、党破壊工作者、反革命罪」などが加わる。史上、スパイ容疑者に対する拷問、スパイ自白への巧妙な誘導、スパイを自白した者に対してなされた処分としてのその場での銃殺、強制収容所送り、強制重労働、懐柔の例は枚挙に暇がない。

 「日共の分派禁止論を告発せよ」 。これを「提言9の5」とする。

 日共のこうした様々な党の強権支配を容認せしめる理論が結節したものとして「分派禁止理論」があるように思われる。次のように説明されている。
 概要「ここでいう分派とは、日本共産党の内部で、党の方針に反対したり、自分たちの方針や考えを党に押しつけるなどのためにつくられる派閥的グループのことであり、日本共産党は、党の規約でこういう派閥活動、分派活動を禁止し、党員は『全力をあげて党の統一をまもり、党の団結をかためる。党に敵対する行為や、派閥をつくり、分派活動をおこなうなどの党を破壊する行為はしてはならない』(第二条)とさだめており、これは、1950年に当時の徳田書記長らの分派活動によって党中央委員会が解体され、全党が分裂と混乱に投げこまれた『50年問題』という党自身の痛切な体験を教訓にして確立されたもので、統一と団結を保障する日本共産党の大事な組織原則の一つであり、国民に真に責任を負おうとする近代政党なら当然の原則です」。

 「徳田書記長らの分派活動」云々と史実とあべこべのことを述べているくだりは共有しがたいが、とりあえず論旨として聞いておくことにする。これに対する宮地氏の次のような指摘を紹介しておく。

 概要「分派活動には反党中央的分派だけでは無く、分派には3形態がある。通常言われる分派とは、『政党の内部で、その綱領や方針と規約に反対してつくられる派閥的グループ』のことであり、反中央分派として立ち現れることになる。これが第一の基準である。これに対して、党中央派の前衛党最高指導者グループによる私的分派もある。これもれっきとした分派の一つではないか。

 それはそうだろう、筆者も、秘書軍団も含めた宮顕グループはれっきとした宮顕分派であると思う。これが第二の基準である。この党中央派の分派は問題にされない。

 概要「もう一つ、 このたびの新日和見事件で鋳造されたような『2人分派、3人分派と云われる偽造分派』もある。偽造分派とは、偽札や偽造コインのようなもので、本来の分派要件を満たしていないが、党中央派により無理矢理でっち上げられる分派のことを言う。新日和見事件の場合、“分派のふたば”を嗅ぎ取れる程度のものでしかなかったが、個人宅、喫茶店、居酒屋などで一回でも党中央批判した者に対して『「2人分派』を認定していくことになったのがその好例である。

 「2人分派理論」は恐ろしい。二人でコソコソないしボソボソと話をしただけでも分派容疑になり、これでは党員同志の本音話しはできっこない。これに密告奨励が加わると立派な治安維持法下の体制ではないのか、と思えたりする。史上の「袴田の分派活動」規定も、宮顕式規律違反デッチ上げによる宮顕鋳造 “偽造分派”ではないかと云う。つまり、こうした新基準で分派認定すれば際限がないことになり、党中央派に対するイエスマン以外は危ないということに なる。但し、さすがにこれほど極限化された分派認定は宮顕体制下の日共特有の理論のようである。

 「中共の『求同立異論』に着目せよ」 。これを「提言9の6」とする。

 ここで、中共の組織論にかってあった「求同立異論」を確認しておく。その昔、中国共産党内には日共式分派禁止論とは対極的な「求同立異論」の作風が育てられていた。「求同立異論」とは、1945.6月の中国共産党第7回大会における政治局員・劉少奇の党規約改正についての報告全文中の「同を求むるには、まず異を立てよ」というものであるが、中国共産党のその後の党勢はこれあればこそのものであったであろう。してみれば、中国共産党がいかにしてこれを獲得し、その後いかなる事情で放棄するようになったのか、これを検証してみるのも意義がありそうである。が、真に必要なものは隠されており、ネット上では出てこない。

 筆者の観ずるところ、「求同立異論」は、外へ向けての共同戦線論と対を為す重要な運動理論ではなかろうか。党内に於ける「求同立異論的団結」と党外に於ける「求同立異論」が相まって運動を前進せしめるのではなかろうか。「目的は手段を合理化せず、手段は常に目的に相応しく吟味されねばならない。運動の過程において未来社会を萌芽させたものにしなければならない」とする公理を打ち立てれば、日共に特に露骨な党中央拝跪型の民主集中制論が如何に異筋なものかが知れよう。「求同立異論」に基づく「党中央三権と分権的機関運営との制御論」への転換こそが望まれているということになろう。以上を提言9としておく。