【提言5、自由自主自律型の左派運動を創造せよ】
(はじめに)
「自由自主自律型の左派運動を創造せよ」を提言5とする。これまでの提言はこれによって補完されなければならないと考える。左派者にとって、自由自主自律精神並びにこれに基く行動は思われている以上に重要で生命線とすべきではなかろうか。いわば左派魂の譲ってはならない原基精神であり運動理念とすべきではなかろうか。提言8の「統一戦線論を否定し、共同戦線論に転換せよ」、提言9の「民主集中制論から出藍し機関運営分権制論に転換せよ」とも関係するが、ここでは左派運動の在り方についてコメントしておく。詳論はサイト「左派運動の再生の為に」に記す。
「自由自主自律型の左派運動を創造せよ」。これを「提言5の1」とする。
左派運動はそもそも組織論に於いても運動論に於いても自由自主自律型でなければ意味がない。筆者は、これに反する統制型理論に支配されていた限りに於いて、戦後革命は流産して良かったとさえ思っている。これには二通りの意味がある。一つは、国際司令センタ−統制からの自由自主自律を指している。もう一つは党中央への拝跪主義からの自由自主自律を意味している。
まず、前者から述べる。筆者は今、戦後学生運動のみならず日本左派運動総体が本当の敵と闘わず、或る時にはその下僕となって利用されて来たことに気づいている。左派は、そのことを自覚せず、通り一遍な政府批判、社会批判、体制批判で事勿れしてきた。このこと自体には、さほど罪はない。少なくとも、政治を考えること、自身と社会、歴史との距離を測ることは有益なことであるから。問題は、認識と実践がその先の思考に向かわないことにある。各国の政府、社会、体制を裏から操作している本当の敵が居るとしたら、その者との闘いに向かわなくては不正であろうに、向かわなかった非を見てとる必要がある。ましてや、その黒幕に利用されるをや。
この史観は、既に幾人かが指摘しており、現代では太田龍・氏の謦咳に接することができる。筆者は、太田龍史観に学びながら、自力でも補強しつつある。日本左派運動には未だにこの太田龍−れんだいこ史観的観点が確立されていないように見受けられる。それには深い理由があり、日本のみならず世界の左派運動が、現代世界の黒幕の裏からの手足となって役目を果てしているからであると思われる。そういう形跡が認められる。これを左派運動の呪縛とみなせる。しかし、それは左派運動の自己絞殺でしかなかろう。
そういう意味で、そろそろこの辺りで何としてでも、左派運動の原点から理論と実践を問い直し、軌道を正しく転換せしめねばならない。その為には先ず自由、自主、自律型の左派運動創出を目指さねばならない。これが、筆者の左派運動検証論の眼目であり、学生運動検証の主たる動機となっている。
次に後者について述べる。党運動に於いても、「自由、自主、自律」は左派運動の生命として担保されていなければならない。これは何も左派運動に於ける要点というのみならず、左派者の社会生活上の規範となるべきではなかろうか。理想を求める者が、その運動が、いかに革命後のパラダイスを夢想していたとしても、道中に於ける理想精神及び制度を自絞殺するのは本末転倒ではなかろうか。道中で自由自主自律的でない者が政権取ったら途端に自由自主自律的になれる訳がなかろう。しかるに、こういう本末転倒式左派運動が正統化されてきたことを怪しまねばならないと考える。
筆者は今、戦後学生運動のみならず日本左派運動総体が民主集中制という名の統制主義の虜になっている負の相に気づいている。2009年時点のこの程度の政治レベルに帰着するのであれば、我々は民主集中制のクビキから逃れ、もっと自由闊達に異論、異見を述べ合うべきであったのではなかろうか。異端も分派も自由で、相互に摩擦を起し合うべきではなかったのではなかろうか。これに気づいていれば、今よりはよほどマシな政治情況を生み出し得ていたのではなかろうか。これについては、「提言9、党中央拝跪型民主集中制論から出藍せよ」の項で再確認する。
多くの者が今、日本左派運動を捉え返そうとしてはいる。だがしかし、日本左派運動のこの牢とした転倒を凝視し、これを鋭く衝かない限り、傷口を舐めあう、聞いても所詮甘えたものにしかならないだろう。そういうものは無いよりはましではあるが、二番煎じ、三番煎じ以上のものにはなるまい。
我々は、これまでの運動を検証し、自己否定しつつ出藍する勇気と目線を持たねばならぬ。これをやり遂げて初めて新たな視界が広がるだろう。本来辿り着くべきだった原野に佇むことになろう。これを筆者の諫言としておく。
付言しておけば、「自由自主自律型の左派運動」とは、西欧史上のルネサンス運動を意識している。筆者が思うのに、ルネサンスとは、直接的には中世期千年にわたて雌伏せしめられていたユダヤ教派のゲットー隔離からの自由という狙いを秘めていたが、もう一つキリスト教的教義支配から脱してのイエス教の復権、キリスト教的君主体制から脱しての市民的自由の謳歌、その精神的基盤としての古代ギリシャ−ローマ精神の探索に意味が認められる。西欧は、これにより子供から大人の時代に入った。そう理解している。
これは、歴史の正の流れであり、我々は、これを以降の政治的基準として通用せしめねばならない。筆者の「自由自主自律型の左派運動論」にはそういう意義付けがある。興味深いことは、この点では、マルクス主義よりもアナーキズムの方が正統嫡出子だった気がする。本稿は学生運動論にテーマを絞っているので問わないが、興味深いことであるように思っている。
「墨守ではない開放型の左派理論を創造せよ」。これを「提言5の2」とする。
精神及び組織及び運動論における「自由自主自律型の左派運動」は自ずと理論のそれをも要請する。これにより、日本左派運動は、マルクス主義のみならずアナーキズム、百姓一揆、その他諸々の例えば陽明学、中山みき思想等々の良質な思想との練り合わせを要請する。これらとの摺り合わせなきマルクス主義一辺倒で良しとする、あるいは間に合うとする作法は幼稚且つ危険なのではなかろうか。我々にはこうして「自由自主自律型の左派運動」を再創造する歴史的責務が課されているのではなかろうか。この方向に向かうのを出藍と云うのではなかろうか。
オカシナことは、マルクス主義一辺倒で良しとしながら、マルクス主義について何ら生産的な研究が為されていないことである。こう述べれば多くのマルクス主義者の不興を買うだろうが、筆者の見るところ現にマルクス、エンゲルス、レーニン、トロツキー、スターリン等々史上の指導者の著作の翻訳が余りにも杜撰なままに経緯している一事だけで反論できまい。まずは原書を正しく翻訳し、それに基づき理解するところから始まらねば批判的摂取はできまい。筆者は数典翻訳を試みているが、この道中で判明したことは、既成の訳本で理解したとシタリ顔している者こそ不遜であるということである。よほど眼光紙背に読み取る能力があるのか、分かっていないのに分かったような顔をする能力があるかのどちらかだろう。あるいは筆者のように途中で投げ出す者も多いかもしれない。
まずはこの貧困から出藍せねばなるまい。次に理解したことを互いが集団討議し、さらに精度を高めていく。理論に不足ないしは間違いがあれば、より精緻にしたりあるいは新たなる理論を求めて出藍していく。これが期待されている営為ではなかろうか。史上の左派運動は、これを思えば恐ろしいほど貧困というべきではなかろうか。我々には為すべきことが多く未だ山積みされている。これができない間は、政治における責任能力もないと云うべきだろう。かく弁えるべきだろう。以上を提言5としておく。