【提言1、汝自身を知れ、年相応の分別を弁えよ】

 (はじめに)

 「汝自身を知れ、年相応の分別を弁えよ」を提言1とする。 大事なことは全て抽象的な文句により表現される。抽象は具体性には欠くが汎通性を持つという特徴がある。これを最初に記すということは、云うまでもないが最重要な提言であることを意味する。なぜ、これを最重要提言とするのか。それは、あらゆる問題がいつでもここに立ち戻るからである。関連する類の論考はサイト「思索ノート集」に記す。 

 「汝自身を知れ」。これを「提言1の1」とする。

 「汝自身を知れ」は、古代ギリシャのアポロン神殿に刻まれていると聞かされている。哲学者ソクラテスの「無知の知」の言の絡みでも知られている。筆者は、つくづく名言にして神言であるように思う。人は自分自身であるのに己を知らない。故に神ならぬ身を弁え、足下を照らして自身がまず何者であるかを知ることから始めよ、これが万事の始まりであり終わりである、汝は汝自身を知る度合いに応じて汝足りえていると云われているような気がしてならない。

 この名言は、日本の古神道的叡智にも通じている。古神道では、身の内の小宇宙は身の外の大宇宙と相似象的に通底しているとしている。従って、この認識によれば、小宇宙の「汝自身を知る」ことは大宇宙の世界事象を知る度合いと釣り合っている。汝自身を知ることが重要である所以である。

 人の一生というのは、汝自身を知らぬまま愚頓と混迷のうちに過ぎ、やがてその生を終える。そういうものでしかない。が、居直るのも問題であろう。知れば知るほど進めば進むほど奥が見えて来て見果てぬ探訪になろうが、この道中より生まれ出て来る分別こそが肝要なのではあるまいか。その為には、極力、自身の立ち位置を自己了解しておくべきであろう。これを客観化と云い、人は客観化の度合いに応じて自己了解の域が広がり主体的に生きることができる。

 汝は自身ばかりを指さない。汝が属した党派をも汝と仮定できよう。党派を包摂した運動全体を汝と仮定することもできよう。学生運動史の検証から浮かび上がることは、戦後学生運動を汝と見立てたとき、その渦中にあった者でも汝を正確には確認し得ておらず、活動家自身が自己の歴史的立ち位置の相対化を為しえていないように思われることである。全体が分かっていないのに分かったようなつもりになっているに過ぎない。それは一知半解の謗りを免れないのではなかろうか。自分が属した党派運動から見ただけの運動論で突っ走るのは危険であろう。これでは運動が首尾よく進展しないのも道理であろう。

 これをできるだけ客観化する為には、一旦は運動の全体像を炙(あぶ)り出さねばならない。その上で、汝の歴史的な立ち位置を確認せねばならない。主体性は客観性に支えられてこそより発揮できる。即ち、日本左派運動の歴史的な流れを正しく知り、旧の中から受け継ぐべきものを受け継ぎ、足らざるものを補い、新たなる創造と発展を期すことを作法とせねばならない。その為に「何を分別し何を為すべきか、為さざるべきか」、これを問うのが肝心である。この水路からのみ正しい処方箋が生まれるのではなかろうか。そういう意味で、我々はまず第一に「汝自身を知らねばならない」。だがしかし、筆者は左様な労作を目にしていない。そういう思いから、こたび筆者なりの戦後学生運動論を書き上げた。当然、これも叉試論に過ぎない。

 一言しておけば、学生運動がそういう一知半解運動だったにしても、筆者は、これを擁護する。「世界の了解的営為」をそれとして評価するのではなく、次代を担う青年たちが、その為に如何に天下国家、社会に思いを凝らし格闘したかという面で、これを称賛しようと思う。人の成長過程にはこうした時期が必ず必要ではないのか、今日そういう時期を経ずに社会に出向き、小平和をそれという自覚もないまま享受しているように見えるが、それは儚く危険な夢ではないのかと思っている。当時の青年たちにとって、実際にはもっと賢い過ごし方があったのかも知れない。だがしかしそれは後付けで云えることであり、かの時代にはここに記述したような生き方こそが最もヴィヴィビッドに青年の胸を捉え、それが時代のニューマでもあった。そのことを強調しておきたい。

 いみじくも筆者が畏敬する不世出の政治家田中角栄は次のように云っている(田中角栄については、「提言17、角栄政治を再興せよ」で別途検証する)。角栄の盟友的秘書・早坂氏の著作「オヤジの知恵」より引用し、筆者風にアレンジする。

 概要「1970の安保闘争の頃、フランスのル・モンドの極東総局長だったロベール・ギラン記者が幹事長室の角栄を訪ねて聞いた。全学連の学生達が党本部前の街路を埋めてジグザグデモを繰り広げていた。ギラン曰く、『あの学生達をどう思うか』。角栄曰く、『日本の将来を背負う若者達だ。経験が浅くて、視野は狭いが、まじめに祖国の先行きを考え、心配している。若者はあれでいい。マージャンに耽り、女の尻を追い掛け回す連中よりも信頼できる。彼ら彼女たちは、間もなく社会に出て働き、結婚して所帯を持ち、人生が一筋縄でいかないことを経験的に知れば、物事を判断する重心が低くなる。私は心配していない』。私を指差して話を続けた。角栄曰く、『彼も青年時代、連中の旗頭でした。今は私の仕事を手伝ってくれている』。ギラン曰く、『ウィ・ムッシュウ』と微笑み、私は仕方なく苦笑した」。

 日共から目の仇にされ、諸悪の元凶視されてきている角栄であるが、筆者の評は違う。第64代首相の角栄は、「戦前戦後通じて不世出の異能政治家」と称されるべきであろう。その角栄の学生運動活動家を見る眼差しは、かく温かかった。というか、筆者は、角栄は本質左派の偽装体制派の権力者であったのではなかろうかと推定している。

 それに比して、日共の学生運動観は邪鬼を見るように厳しかった。筆者は、角栄と対極的に本質右派にして左派に闖入した偽装左派ではなかったかと推定している。日本の近現代政治史にはこういう倒錯が垣間見える。これが生身の政治の実態であることを知らねばならない。それはともかく、時の政権支配者が、こういう眼差しで学生運動を見ていたところに、当時の戦後学生運動家は感謝せねばなるまい。「親の心子知らず」では、ろくな運動が展開できまい。

 かく構えて、戦後の敗戦の荒廃と不戦の誓い、鳴り物入りで導入された戦後民主主義の理念と諸制度、国家再建の歩みの中から生み出された学生運動の経過を共認していきたい。まだまだ資料が揃わず、且つ筆者の能力が乏しく咀嚼しきれていないところ多々あるが、どうぞ諸賢の力を貸していただきたい。そして、現代、次代の青年子女に読ませたい。ここから生み出される知恵は必ずや明日の社会づくりに有益に資するものがあると思うから。

 今我々が確認せねばならないことは次のことである。なぜこの運動が潰れたのか、潰されたのか。その原因を尋ねずんばなるまい。筆者が考えるのに、一貫して横たわっているのは「理論の大いなる貧困」ではなかろうか。これを踏まえずに、左派戦線のかような無惨な落ち込み期に旧左翼であれ新左翼であれ、今なおしたり顔して人様に説教ぶるなどという痴態を許してはならない。その種の厚顔無恥な連中をよそに一路検証、新理論の創造に向かわねばならない。この姿勢が肝要であるように思われる。

 「年相応の分別を弁えよ」。これを「提言1の2」とする。

 これを提言するのは、「提言1の1、汝自身を知れ」に於ける知性は二通りにトレースされるべきだと気づいたからである。具体的には、若い時の分別と還暦期の分別に分けて考察されるべきではなかろうかということになる。実際には、その中間項として、青年期分別から還暦期分別に至る振り子の如く行きつ戻りつする壮年期の分別が考えられる。認識はかく、いわゆる弁証法的構造になっている。この識別が存外大事なのではなかろうか。筆者は、この観点を得ることによって、学生運動観を相対化することができたように思う。

 若い時の「汝自身を知れ」は、それまでの成長期に培った個人的感性、知性を原資にして活動に取り組むのが流れとなる。青年は青年期特有の尻軽の勢いを特質とし、体内燃焼の活発さに応じて自ずと過激急進主義的に取り組む。これが青年期の特徴だからして、このことが悪いということでは決してなかろう。この過程で更に体験、経験を積み重ね、理論を吸収しながらあるいは切磋琢磨しながらあるいは生を享楽しつつ次第に自身に似合いの智を獲得する。これが流れに逆らわぬ成長の仕方であり、それで良いのではなかろうか。これを仮に「青年期智」略して「青年智」と命名する。

 問題は、青年智からいつ脱却するかであろう。これは分別のその後の到達点を仮に「還暦期智」略して「還暦智」と命名すると、青年智から還暦智へはどのように変転して行くのだろうか、これを愚考したい。ここでは還暦智の側から考察したい。還暦智は青年智に比べ、次のような出藍ぶりを見せるのではなかろうか。

 青年智が親元を離れ、故郷を離れ、コスモポリタンに憧れる傾向を強める。やがて社会に出て稼ぎ手になりながら世間に揉まれる。この段階の智を「壮年期智」略して「壮年智」と命名する。「壮年智」は「青年智」のパフォーマンスであり、多岐多様な在り方を見せる。仕事を持ち、家庭を持ち、様々に履歴しながらな体験、経験を積み重ね、理論を切磋琢磨しながら次第に自身の気質、能力に応じた智を獲得する。いずれにせよ、社会での落ち着き先を見出す。

 次に還暦智が訪れる。還暦智には明らかに違いが認められる。青年智が肯定より否定に向かいがちで、流行理論を追っかける傾向が認められ、壮年智が自身のパフォーマンスに精一杯となり、いわば自己発のあれこれで社会に関わるのに比して、還暦智は角栄の云うが如く重心が低くなり、世間の持ちつ持たれつ関係を味わうようになり、いわゆる円熟味を増す。還暦智は青年智、壮年智とは逆コースに向かい始め、次第に帰巣本能を強め、更には己の出自の「民族的宗教的紐帯」を嗅ぎ分けるようになる。民族的宗教的紐帯とは社会的アイデンティティーとも言い換えることができよう。これは、青年智、壮年智には備わらない智ではなかろうか。

 民族的宗教的紐帯に対する気づきは「いわば正しい民族的宗教的紐帯への覚醒」まで問う。興味深いことに、これに青年智が大いに関係するように思われる。なぜなら還暦智は単に壮年智の延長としてもたらされるのではなく、突如青年智を復活させ、さて余生をどう生きるべきかを問い掛ける面があるからである。そういう意味で、青年智が格別重要なことが分かる。青年智を疎かにする者は還暦智を運命づけるからして、若い時の脳に刻まれるシワこそ財産なのかも知れない。こうして、還暦智も又要するにその人に似合いのものを導き出す。これが一般化するのかどうかは分からないが、筆者はこのように自問自答して来たし、筆者的変化は普遍性を持つと考えている。

 留意すべきは、青年期に培った批判精神を媒介させるのとさせないのとでは還暦智の出来上がりの質が違うことであろう。青年期に批判精神を養わないと還暦智に於いてもやはり当局言いなりの御用的通俗智にしか辿り着けない。分かりやすく云えば、政府やマスコミがプロパガンダする通りの口真似しかできない。青年期に批判精神を養っておけば、古よりの民族的宗教的紐帯の真の流れを嗅ぎ取りつつ時代変化に合わせると云う課題をも引き受けながら新しい認識を獲得せんとするようになるのではなかろうか。

 この精神行脚過程を「成人」と云うのではあるまいか。「成人」とは、身体の成人的変化のみならず精神の成人的変化をも云う。後者の変化を辿らない成人は、「肉体老人、精神未成人」と云われて然るべきだろう。その基準をどこに置くべきかが問われるが、絶対的基準というものはなく、相対的に判断されるべきであろう。今日、「肉体老人、精神未成人」が多過ぎる世の中になりつつあるのは確かである。

 この未成人が社会的権力を持たない限りは人様々であろうから大過ない。問題は、「肉体老人、精神未成人」のみならず「肉体未成人、精神未成人」な手合いまでもが大量生産されつつあることである。彼らが社会の要職に就き、中枢にのさばり、権力的に良からぬ事をし始めたらどうすべきか。もはや掣肘せねばなるまい。そうしなければろくな世の中にならず為になるない。現下の政治貧困は、この辺りに起因しているのではなかろうか。

 還暦智は、己の社会的責任を嗅ぎ分け、身の回りを処理し、仕事をこなし、地域や職場や団体での協調と指導能力を磨き、良き後継者を育成せんとし始める特徴を持つ。田中角栄の「次第に重心が低くなる」なる弁は、このことを述べているように思われる。筆者が憧憬する天理教教祖中山みきは「山の仙人、里の仙人。里の仙人になれ」と指図している。毛沢東式大衆路線論も同じ意味であろう。その手法もこれまた人により千差万別で、体制内改良主義から革命主義まで、穏和主義から急進主義までいろんな手法がある。人様に極力迷惑をかけない限りに於いては、そのいろんな型が認められるのが健全であろう。肝腎なことは、共同し合えるかどうかである。改良主義と革命主義、穏和主義から急進主義は本来ぶつかり合うものではない。むしろ互いに縁の下の力持ちとなって助け合う補完関係に在るというべきだろう。

 これが見識になるべきところ、どういう訳か日本左派運動には通用しない。「我が」、「我が」とお山の大将になり、どちらかが相手を倒さないと気がすまないらしい。それでいて左派運動的に何らかの前進なり権力樹立まで辿り着いているのならまだしも却って後退している。否博物館入り前まで追いやられている。こうなるとオカシイというより滑稽なことであるが、実際には多くの血が流されているのでからかう訳にはいかない。補足しておけば、党派間ゲバルトについては、筆者は内ゲバ問題とはみなしていない。これについては、「提言12の暴力主義を否定し競り合い運動に転換せよ」で言及する。 

 もとへ。それもこれも、汝自身を知らない、分別を弁えない咎めではなかろうか。本来はこのように発育して行くのが自然なところ、現代人は妙なほどに「汝自身を知ろうとしない、分別を弁えない」安上がり人間にされている気がしてならない。社会が健全に発達していたと考えられる時点に於いては、いつでも上下問わず人には皆、この弁えが有る。逆の場合には、この弁えを欠く。筆者は、これは偶然ではなく、意図的故意な愚民化政策によりもたらされているのではあるまいかと疑惑している。従って、これは解ける問題である。とりあえず、以上の気づきを提言しておく。誰か、この気づきを共認せんか。以上を提言1としておく。