【提言6、戦後憲法秩序=プレ社会主義論により護持成育せしめよ

 (はじめに)

 「戦後憲法秩序=プレ社会主義論により護持成育せしめよ」を提言6とする。これより具体論に入る。今日から評するのに、「戦後日本をどう規定すべきだったか」と云う問題がある。筆者は、戦後日本左派運動は早くもここで重大なミステークをしたと考えている。この遺風が未だに続いているとみなしている。憲法改正論が喧しい現在、この問題は非常に重要と考える。以下、解析する。詳論はサイト「戦後憲法論考」に記す。

 「GHQ革命をどう評するべきか」。これを「提言6の1」とする。

 1945(昭和20).8.15日、大日本帝国は、連合国軍のポツダム宣言を受け入れ降伏した。同9月2日、戦艦ミズリー号上で降服文書に調印した。以降、日本帝国主義が解体され、連合国軍GHQの統制下に入った。米太平洋方面陸軍総司令官ダグラス・マッカーサーが連合国軍最高司令官に任命されたことから明らかなように、戦後日本は米国の指揮権下に組み入れられつつ社会改造されていくことになった。

 GHQは超規的権力として君臨し「上からの戦後革命」に着手した。この動きは当初ニューディーラー派に担われ、ポツダム勅令に基いて「日本国の再戦争遂行能力の徹底除去としての天皇制権力構造の解体」、その裏合わせとしての「日本国民の間における民主主義的傾向の復活強化」を図った。これにより、1・帝国軍隊の解体。2・帝国主義関連団体の解散。3・皇国史観イデオロギーの一掃。4・戦前的反体制運動の犠牲者として獄中に捕らわれていた主義者の解放。5・労働組合運動の公認化。6・財閥解体。7・農地改革。8・天皇の人間宣言等々に象徴される日本改造諸政策が矢継ぎ早に導入された。

 それらの総纏めとしての憲法改正が指令された。日本人民大衆にとって幸運なことは、GHQが「日本国民の自由に表明せる意志に従い平和的傾向を有し且つ責任ある政府の樹立とそれによる新憲法策定を配慮」したことにあった。これにより、「日本国主権に基く憲法策定」が着手されることになった。真相は、新憲法策定の動きも叉「ネオシオニズム・シナリオ革命」であった。日本国の主権を尊重しているように巧妙にカモフラージュされていたとみなすべきであろう。

 こうして、マッカーサー指令により帝国憲法に代わる新憲法制定が要請され、官民挙げて草案作りに向かった。但し、どれも大同小異で、戦前的天皇制秩序の温存のうえに民主主義を接木させていた類いの旧態然としたものでしかなかった。かくて、GHQ内のニューディーラー派主導による憲法原案がひながたとして策定され、国会論戦を通じて若干の変更を加えて採択された。1946(昭和21)年11月3日、GHQ改革の精華として新憲法が日本国憲法として公布され、1947(昭和22)年5月3日より施行された。

 この戦後憲法をどう読み取るべきだろうか。これについて筆者は思う。日本左派運動は、ここで大きく道を過ったのではなかろうか。問題は、日本国憲法の中身である。筆者が見立てるところ、日本国憲法は戦後世界における米ソ対立を踏まえて戦後日本を米国側に取り込む必要という歴史的事情に負ったと思われるが、摩訶不思議なほどに米国憲法、ソ連邦憲法、第1次世界大戦後の敗戦国ドイツに導入されたワイマール憲法よりもなおルネサンス風の民主主義的な理念と制度を導入していた。

 更に、前文及び9条の「非武装中立、戦争放棄」規定に象徴される国際協調及び平和主義、国債発行禁止の健全予算主義、地方分権制、最低限の市民的生活保障、市民的活動の自由、人権諸規定、男女同権規定等が白眉となっている。これが字文通りに履行されるならば、戦後日本は世にも稀な蓮華国家になっていたはずである。そういう出色の憲法であった。

 新憲法が骨抜きにされ解体改正されつつある今日の局面に於いて判明することは、戦後日本国憲法に結実した理念及び制度は、資本主義対社会主義の鞘(さや)に納まらないそれ自身価値を放つ極めて先進的な良質憲法ではなかったか。その由来は、この時期のGHQの政策推進主体であったニューディーラー派の見識に負う。筆者が見立てるところ、当時のニューディーラー派の見識は、これまたこの時代限りに許容されていた「フリーメーソン最左派」のそれではなかったか。

 ここで憲法改正派が敵視している「前文及び9条の『非武装中立、戦争放棄』規定に象徴される国際協調及び平和主義」について言及しておけば、その眼目は二度と戦争しないという建前決意のみならず、国家予算の過半を軍事に注ぎ込むことの非を知り、その芽を摘んだことにある。なるほどその後の世界情勢は大きく変貌し、又もや軍事的バランスを必要とする対峙情況に陥っているが、これの強調による憲法改正論は底浅であろう。国家の国力と防衛は単に軍事的指標によるのではなく、経済力、国際協調力にも大きく依存している。国家予算に占める軍事費の抑制から生まれる総合国防力を踏まえるのが筋であろう。憲法9条は実にこの観点から生み出されており、時代を先取りしていると云えよう。

 これを踏まえれば、日本左派運動は、「前文及び9条の『非武装中立、戦争放棄』規定に象徴される国際協調及び平和主義」の擁護こそ本旨とすべきであろう。これを付したのは、宗教法人「幸福の科学」の大川隆法総裁の最新著作「国家の気概―日本の繁栄を守るために」が「憲法9条改正」を唱えているのを見るにつけ、その論拠の安逸愚昧さを批判したくなった為である。大川氏の所論にはその他批判したいところが多々あるが、評するに値せずにより割愛する。

 付言しておけば、1960年代半ばのベトナム戦争において、日本は沖縄からの出撃を許したものの、憲法9条の歯止めで自衛隊の参戦を抑制した。他方、韓国はネオシオニズムのベトナム戦争に加担し武勇を揮った。このことが終戦後のベトナムと韓国との関係に支障をきたしたのに比して日本は友好的に歓迎され経済復興交易に大きな道を開くことになった。これは憲法9条の功績である。この功績はもっと認められるべきであろう。

 「戦後憲法秩序をプレ社会主義のそれと確認し、戦後日本プレ社会主義論こそ始発の原理にせねばならない」 。これを「提言6の2」とする。

 戦後憲法を素直に読み取れば、マルクス主義的には垂涎のプレ社会主義憲法と規定されるべきであった。こう位置づけることで、日本左派運動は本来これを護持受肉化せねばならないものであった。だがしかし、左右両翼の主義者運動はそれぞれ公式主義的な理論を弄び、右派は皇国史観的天皇制秩序の解体を嘆き、左派はブルジョワ憲法と規定して批判に向かうと云う逆対応インテリジェンスを発揮することになった。後に生まれた急進左翼は更に教条的に、本質はブルジョア憲法であるからしてダマサレルナ式擬制理論を振り翳した。穏健左翼は護憲運動に向かったとはいえ、反戦平和主義的且つ受身的な民主主義を護れ的な護憲運動にしか向かわなかった。こうして、日本左派運動は両派ともがブルジョア憲法と貶しながら護憲するという二枚舌運動にのめり込んでいくことになった。

 これについて筆者は思う。しかしてそれは理論の貧困そのものを示してはいないだろうか。当時の社会科学、歴史科学の水準は、資本主義対社会主義の対立と云ういわばステロタイプ的な公式主義的マルクス主義理論の見地から評する程度のものが最高の知性という状況にあり、人類文明史の流れを当時の歴史情況に於いて相対的に論ずると云う真っ当な評価を為すことができなかった。頭脳が半分だけ賢いとこういうことが起こるという見本であろう。

 その点、日本人民大衆は、歓呼の声で戦後憲法を歓迎した。戦後憲法の持つ本質的にプレ社会主義性を見抜いていたからであった。戦後憲法の受容の仕方一つ見ても、「賢き大衆、愚昧なインテリ」と云う明治維新以来の政治の型が見えて来るのが興味深い。こうして、「戦後日本プレ社会主義」を歓迎し勤労に勤しみ始めた人民大衆と、その否定に向かい何ら生産的営為に向かわない主義者運動と云うボタンの掛け違いのまま戦後の政治、思想、宗教運動が進んでいくことになった。

 憲法に続いて教育基本法.学校教育法が公布施行された。教育基本法は、1890年制定の教育勅語に代わり、戦後憲法の精神に即した教育制度や施策の基本的在り方を示す教育界の憲法となった。そのエッセンスは「検証 学生運動上巻」に記したので繰り返さないが、この憲法−教育基本法を貫く精神及び原理は、ルネサンス以降の西欧精神の正統嫡出子的な面を貫通させている。これが正の面である。他方で、国際主義的精神を称揚するばかりで、愛民族愛国心的ナショナリズムや伝統の尊重を盛り込んでいない。本来これは接合し得るものであるのに意図的に遮断されている。これが負の面であろう。こういうところに憲法−教育基本法の癖があると云えば云えるであろう。

 これについて筆者は思う。「愛民族、愛国心的ナショナリズムや伝統の尊重」は、特段に憲法及び教育基本法に盛り込まずとも、自生的に生み出すべく運動展開すれば良いのではなかろうか。これらは本来、法的強制によるものではなく、自主的に自生させるものとする観点を創造すれば良いだけの話ではなかろうか。この点で、右派勢力の批判の論拠は怪しい。他方、日本左派運動が、レーニン主義的な「愛国愛民族運動=排外主義」論で「愛民族愛国心的ナショナリズムや伝統の尊重を否定」していったことも間違いなのではなかろうか。徒に混乱を招くだけのことでしかなかろうと思う。

 レー二ズム的革命主義は半身構えでしかないのではなかろうか。「愛民族、愛国心的ナショナリズムや伝統の尊重」をダンス論争と同じく公式主義的に否定するばかりが能ではない。左派的に取り込むのが必要なのであり、そういう運動が求められているのではなかろうか。愛民族愛国心に機械的に反発して右翼の専売特許にさせるのは作られた構図でしかないのではなかろうか。

 「日の丸国旗、君が代国歌問題考」 。これを「提言6の3」とする。

 戦後社会規定論は「日の丸国旗、君が代国歌問題」にも繋がる。筆者が思うに、「日の丸、君が代」を左派的に取り込む闘いを組織する必要があるのではなかろうか。入学式、卒業式で国旗掲揚、国歌斉唱が行われたとして、それほど目クジラするには及ばない。日の丸、君が代の歴史的発生経緯を知ればなおさらである。近代の皇国史観天皇制によって大きく汚されたが、日の丸、君が代そのものに罪はない。日の丸、君が代は、日本が世界に誇る国旗であり国歌である。筆者は、人民大衆的に読み直し位置づけできるものであると考える。

 日の丸、君が代の真の問題性は、排外主義的な愛国愛民族意識形成に利用されているところにある。例えそうであろうとも入学式、卒業式に於けるそれは儀式であり、そう目クジラするには及ばない。ひとまず入学式、卒業式に認めたとしても、行事の至るところで「日の丸、君が代」させられることの方にこそ真の問題がある。日の丸、君が代の人民大衆的本質を知る筆者的には、これをのべつくまなく掲揚唱和サセナイ闘いを組織する方がよほど大事ではなかろうかと考えている。こちらの闘いを疎かにする方がよほど重罪に思える。「日の丸国旗、君が代国歌問題」はかく闘われるべきではなかろうか。

 従って、入学式、卒業式等の重要儀式に於ける抵抗運動ではなく、それ以外の局面での徒な「日の丸、君が代をさせない運動」をこそ組織すべきだと思う。何でも反対だけの左派運動から脱却し、ツボを心得た勝利的な左派運動に向かうべしと思う。

 「戦後日本を政治は、プレ社会主義の擁護と解体の抗争史であると認識せよ。護憲をプレ社会主義論で理論武装せよ」 。これを「提言6の4」とする。

 筆者は、この時期の戦後日本憲法秩序ないし社会を、世にも珍しいルネサンスが花開いた時代と認識している。これを日本人民大衆から見れば、戦前的統制が外され、今日のネオコン式ネオシオニズム的悪政に侵される前のルネサンス的息吹を詠う、いわば「健全な時代」のアメリカン民主主義が生硬に移植され、スターリニズムに歪曲されたソ連邦的社会主義実験史に比較してもなお人民民主主義的にして、日本古来よりの伝統的な「和的蓮華社会」が創出されていたと見直している。それ故に、筆者は、この時期の戦後日本をプレ社会主義とみなしている。

 こうした「上からの戦後革命」とこれに伴う社会情勢的変化の下で、官民上げての戦後復興が着々と進められて行った。この時、戦前の大東亜戦争過程で構築された護送船団方式の官僚権限集中制が大きく力を発揮した。これに戦後政治家の有能なる指導が加わることで戦後日本は世界史上奇跡の復興を遂げていくことになる。戦前的統制秩序から解放された人民大衆の喜びに満ちた勤労も大きく貢献した。これを日本型社会主義と云う者もある。

 これについて筆者はかく思う。中曽根政権の「戦後総決算改革」以来、特に小泉政権下での「聖域なき構造改革」に集約される自由化政策が矢継ぎ早に繰り出され強行されたが、これらは全て「戦後日本プレ社会主義制の解体政策」ではなかろうか。医療、年金、雇用、貧富格差等々これらは皆亡くして分かる日本型社会主義の賜物ばかりではなかろうか。これを思えば、「戦後日本=日本型社会主義」は案外、的を射ているのではなかろうか。今からでも遅くない、我々がなぜ護憲するのかにつきプレ社会会主義論で理論武装すべきではなかろうか。この理論を生まずして為す日本左派運動各派の護憲理論には理論サボタージュが認められるのではなかろうか。

 ここで確認しておく。戦後日本は、敗戦国の悲哀として、戦前的支配秩序に代わってネオシオニズムが公然と侵入し、戦後的支配秩序を彼らが企図するままに敷設していくこととなった。他方、ネオシオニズムと戦前的皇国史観の対立の狭間を縫うかのようにして、戦後的下克上による土着的な新支配秩序も生まれ始めた。いわゆる成り上がりである。結局のところ、この両者が併行してそれぞれの戦後を創っていくことになる。こう見立てなければ、戦後の政治構図が動態的に捉えられない。両者がそれぞれ定向進化し、やがてぶつかり、ネオシオニズム派の下に組み伏せられる結節点が1976年のロッキード事件であると思われる。

 「戦後憲法秩序を『共産主義者の宣言』で示された革命の青写真通りと受け止めるプレ社会主義論を獲得せよ」 。これを「提言6の5」とする。

 我々は長らくの間、マルクス主義の俗流的教条により、戦後憲法秩序をブルジョア体制と評し、これを転覆せしめての社会主義−共産主義への革命的転換を標榜してきた。通念化した理論であるが、これを疑う必要があるように思われる。結論を先に述べれば、「戦後憲法秩序=ブルジョア体制論」は理論の貧困によりもたらされた誤認識ではなかろうか。

 筆者は、「共産主義者の宣言」(一般に「共産党宣言」と訳されている)の英文テキストに基く翻訳により、市井の訳本の拙さと意図的故意としか考えられない誤訳悪訳を指摘している。これについては、詳論はサイト「共産主義者の宣言考」に記す。筆者は、この種の研究が一向に為されていないことが不思議である。ましてや「共産主義者の宣言」と云えば基本中の基本テキストだろうに。

 筆者訳から判明することは、歴史の偶然なのか意図的に導入されたものなのかは分からないが、マルクス−エンゲルスが同書で指針させた「革命の青写真」即ちプレ社会主義的政策指針の大部が、戦後日本社会にそのまま適用されているという驚きの事実である。戦後憲法が採択公布された時、日本左派運動に理論的知者がいれば当然、これをプレ社会主義憲法と認め、遮二無二その護持成育発展を目指したはずである。が、史実はそのように受け止めなかった。安逸なブルジョア体制批判運動に耽っただけだった。

 こういう次第だからして、戦後日本左派運動はそもそもオカシゲな役立たないヘンチクリンな方向に向かうことになった。穏和系の社共は、戦後憲法秩序をブルジョア体制と認識したまま、まずは民主主義革命を遂行するのが優先だとして議会主義的な反政府運動を専らとし合わせて護憲運動に向かうことになった。これにより「戦後日本のブレ社会主義」擁護派に位置することになった。これは日共にとって僥倖であった。今日までの日共の支持基盤の堅牢さはここに要因があると認めるべきであろう。

 しかしながら、日共理論を仔細に検討すれば、護憲という面では辻褄は合っているが、その真意には、社会主義−共産主義運動を当面の目標にせずむしろ排斥するという、口先はどうであれ革命を遠ざける意図が込められた体制内穏和主義運動として位置づけていることが判明する。つまり、社共運動は本質的に当局に投降迎合した体制的なものであり、無責任なアリバイづくりだけの口先批判運動に堕したものでしかなく、護憲運動も叉防御的なものであった。

 問題は、これを否定出藍しようとした新左翼系運動がどのようなものであったかにある。彼らは、戦後憲法秩序を教条主義的にブルジョア体制と認識することにより、戦後憲法秩序をブルジョア秩序の偽装とみなし批判していくことになった。これにより「戦後日本のブレ社会主義」解体派に位置することになった。これは新左翼にとって不幸であった。今日までの新左翼の支持基盤の虚妄性はここに要因があると認めるべきであろう。

 新左翼はさらに、戦後憲法秩序の権力的本質を引き出すという戦略戦術で否定破壊運動するところまで定向進化していくことになった。それを支えるエートスが社会主義−共産主義的理念であり、この善運動の正義のためには何事も許されるとしてきた。暴力主義的体質はここに胚胎しているように思われる。

 この種の運動が急進化せざるを得ないのは自明であるが、権力と対峙して行使される場合にはある種認められようが、戦後憲法秩序のプレ社会主義性に対する暴力的破壊に向かうとなると考えものであろう。この種の運動が革命的であったかどうか疑わしい。むしろ単に観念的善運動でしかなく、実際に為したことは反動的であったかも知れない。

 思えば、新左翼が共感を得たのは、60年安保闘争時の第1次ブント運動のタカ派岸政権の反動的施策に対する果敢な闘争に対してであり、70年安保闘争前の全共闘運動のハトタカ混淆的佐藤政権の対米盲従ベトナム政策に対する果敢な闘争に対してであった。人民大衆は、プレ社会主義的戦後秩序の破壊者に対する抵抗を願望しており、新左翼がこれに闘う姿勢を見せた時に共感したのであり、彼らの理論に共鳴したものではなかろう。なぜなら彼らの理論は独善的思弁的でかなり難解な辟易するだけのものでしかないから。

 筆者は今はっきりと分かる。新旧左翼両者が戦後憲法秩序をブルジョア体制と評してきたことそのことがそもそも誤りなのではなかろうか。戦後憲法秩序は世界史上稀なるプレ社会主義性のものとして認識し称揚していくべきではなかったか。これまでの運動は、本来のこの歴史要請に対して正面から向かいあっていないのではなかろうか。ここに気づいただけでも値打ちがあろう。後は、自己批判を通じて大胆に軌道修正することができるかどうかである。それができるかどうかが見ものである。できなければ、筆者が自前の党建設で驀進して行くだけのことである。

 ここで、元時事通信社の政治記者・増山榮太郎氏の著書「角栄伝説ー番記者が見た光と影」(出窓社、2005年10月20日初版)の次の逸話を紹介しておく。増山氏は、「伝説の角栄」の一節で、ソ連最後の共産党書記長となったゴルバチョフの次のような言葉を紹介している。
 「世界で最も成功した社会主義国はどこか? ソ連? 二エット! 中国? 二エット! それはニッポンだ」。

 ゴルバチョフから見た戦後日本はそのように見え、事実、戦後保守主流派を形成したハト派政治主導による戦後日本はその通りではなかったか。この面からの考察が急がれているように思われる。増山氏は、「伝説の角栄」の中で、次のように述べている。 
 概要「私は、しばらく考え込んでから、思わずハタッと思い当たった。『そうか。ゴルバチョフさんのいうのは本当だ』と。(中略)ある一時期、日本は国民みんなが『総中流』の共同幻想に酔うことができた。ゴルバチョフのいう『世界で最も成功した社会主義国ニッポン』が現出したのだった。(中略)ゴルバチョフが羨ましがった社会主義の理想が、日本に於いて実現していたことになる。そして、この『平等社会』の実現に最も貢献したのは、田中政治だったと私は思う。(中略)我々は、ここで再び田中が目指した『国民総中流』の社会を再評価すべきではないだろうか。その意味では、田中政治は『偉大な社会主義者』といえる」。

 マレーシアのマハティール首相は、2002年10月10日クアラルンプールで開かれた経済フォーラムで、次のように述べている。 
 「今も日本に注目しているが、もはや目標としてではなく、失敗を繰り返さないための『反面教師』としてだ」。

 我々は、「外から見たありし日の戦後日本論」としてのゴルバチョフソ連共産党書記長、マハティール首相の言を深く味わうべきではなかろうか。

 「戦後民主主義を廻る社共運動の二枚舌、新左翼の教条主義的対応のお粗末さを確認し出藍せよ」。これを「提言6の6」とする。

 1956(昭和31)年頃、後に新左翼となる急進主義系の全学連運動が発生した。その定向進化を見ておくことにする。定向進化としたのは、運動はひとたび敷かれたレール上を行き着くところまで進むことになり、そこまで至らなければ是非判断ができないという意味合いで表現している。今日から見て云えることは、急進主義系全学連運動は「革命を夢見る」者達の純粋無垢な正義運動であった。このこと自体は誉れであり何ら問題はない。問題なのは、その急進主義運動が、近代−現代史を牛耳る真の権力体であるネオシオニズムに対して全く無知蒙昧で、為に全く無警戒な、彼らにうまく操られる危険性まで帯びた左から迎合する国際主義運動にひたすらのめり込んで行ったことにある。あるいは全く役立たない鬼っこ的な消耗運動に堕したことになる。如何に精緻に理論展開しようが所詮おぼこさと哀しさを見て取ることができよう。

 筆者の見立てるところ、1950年代の党分裂、党中央の徳球系の武装闘争の失敗の結果としてもたらされた1955年の六全協以来、日本左派運動の本家たる共産党内で徳球系から宮顕系への宮廷革命が進行し始めた。それは同時に、「共産党内に於ける上からの反革命」による日本左派運動の解体の流れでもあった。この時、真に望まれていたのは、宮顕系への転換を認めない許さない運動であった。且つ、徳球系も見過ごしていた戦後憲法のプレ社会主義性に着目しての擁護受肉化運動であった。

 戦後日本に訪れた史上稀なるルネサンス社会を、世界のどこよりも進んだプレ社会主義なる社会とみなして、これを成育発展せしめていくべきであった。戦後日本は、いわゆる混合経済体制であったが、市場性社会主義理論を創造することによってこれを是認し、官民棲み分けの均衡的発展を目指していくべきべきであった。徒に無国籍型の国際主義にぶれず、各国在地内での土着性社会主義を目指す革命なり改革に向かうべきであった。こういう左派運動が望まれていた。

 ところが、戦後マルクス主義派は、穏和系も急進系も、これらを全て否定する方向に靡いてしまった。穏和派は、戦後日本をプレ社会主義の具現態であるとする新理論的切開のないままに、口先で体制批判するものの、その実は「当面はブルジョア革命に向かう戦略戦術を良しとする」という変調二段階革命理論で体制内化運動に帰還するという二枚舌的運動に陥っていくことになる。

 これを仮に社共運動と命名する。社共運動は、戦後民主主義を「ブルジョア民主主義」と規定したまま、「ブルジョア民主主義擁護の護憲運動」に向かうことになった。この指針は、運動内部から社会主義革命を遠景に追いやるという犯罪的意図に導かれていた。しかも当初は「社会主義革命に直接転化する民主主義革命」とされていたのを次第に「社会主義革命との関係を問わない独立したブルジョア民主主義革命」方向にシグナルし始めた。「ブルジョア民主主義擁護の護憲運動」はこの流れにあるが、この理論の変調さに気づかぬとしたらお粗末と云うしかあるまいに、社共運動はこれを延々と説教していくことになる。

 他方、戦闘的左翼は、戦後日本社会をも資本制の変種と規定して、その種の「ブルジョア民主主義」を否定し、「プロレタリア民主主義」を対置しつつ社会主義−共産主義革命へ向けての反体制運動ないしは体制打倒運動を呼号して行った。戦後日本のプレ社会主義性を認めず単にブルジョア民主主義と規定し、いわばステロタイプな教条主義の道を競うように急進主義化することで戦闘性を証明してきた。本来は、戦後民主主義のプレ社会主義的要素を革命的に護持成育発展せしめて行くべきではなかったか。

 こうして、穏和派も急進派も、「戦後日本秩序=プレ社会主義論」を生み出さないまま虚飾の左派街道へ分け進んでいくことになった。これは、理論の貧困のもたらすものであった。筆者はそのように了解している。

 「日本左派運動が戦後日本プレ社会主義論を生み出せなかったのがそもそもの間違いである。戦後日本プレ社会主義論こそ始発の原理にせねばならない」。これを「提言6の7」とする。

 今、筆者は、戦後学生運動の歴史を振り返り、筆者も参加したその運動を見つめ、今日の惨状に照らす時、或る種の感慨を抱いている。一つは、戦後左派運動が戦後革命を流産させたことについての感慨である。二つ目は、戦後革命は流産して良かったという感慨である。前者の意味では日本左派運動の能力が問われており、後者の意味では見識が問われている。戦後左派運動は、この両観点に於いて失敗するべくして失敗したとの感慨を湧かせている。以下、この感慨を検証していくことにする。

 筆者は、戦後革命の失敗理由その1として、そもそも「戦後日本の歴史的社会的規定」を誤っていたのではないかと考えている。戦後日本を、ステロタイプ的なマルクス主義的歴史理論と資本制社会論で概括し、よろず反権力、体制否定に向かったのはマルクス主義理論の硬直的機械的当て嵌めではなかったか。日本左派運動は、その程度の頭脳しか持っていなかった為に、それを覆い隠すために小難しく語り、あるいは空元気な大言壮語ないしはそれに基づく行動のみを競ってきたのではなかろうか。こう受け止めないと、2009年現在の政治貧困が解けない。

 事実は、戦後日本は、これを相対的に見れば日本史上のみならず世界史上に於いても輝く稀なるプレ社会主義的な社会状況を創出していた。それは、独特とも云える日本史の和的発酵的発展史の伝統にも合致していた。かく認識し、そのプレ社会主義を強めるのか弱めるのかを廻って、権力側に立つ派と人民大衆側に立つ派との綱引きが行われることが期待されていたのではなかったか。

 この時期、日本左派運動は、何としてでも権力を奪取し、ロシア型マルクス主義とは違う日本型マルクス主義により戦後社会のプレ社会主義制を踏み固め更に創造発展させていくべきであった。それが世界史的使命であった。その可能性が大いにあったのに、その政治責任の重圧を引き受けようとせず、徒に安逸な体制批判運動に終始したのではなかったか。

 左派運動が健全であり有能ならば、人民大衆側に政治を引き寄せ政権を奪取し政治責任を引き受けるべきではなかったか。それを、ロシアとも中国とも違う日本的革命方式に於いて遂行すべきではなかったか。実際には、敗戦により進駐軍と云う名の国連軍という名の国際金融資本の傭兵に過ぎない米軍の統治下にあり、決して叶わない重圧下にあったのではあるが。しかし、少なくとも理論としてはそう構えるべきであっただろう。今にしてそう思う。

 これが問われていたときに、戦後日本左派運動は、徒な反権力、体制批判運動に終始し、政権奪取に向かわない、担わない、つまり政治に責任を負おうとしない、左派ポーズ的気取りに過ぎぬ、あらぬ運動に横ズレした運動に向かったことで、運動史を蓄積せぬまま単に費消させていったのではなかろうか。これを善意に窺えば、当時は、ロシア10月革命に続く日本革命を夢見ており、ロシア10月革命を憧憬するのに忙しく、戦後日本革命を引き受け担うには能力も責任感もなさ過ぎたということになるのだろうか。後付けで見えて来る話ではあるのだけれども。しかし、後付けであろうが見えてこないとどうしようもないではないか。以上を提言6としておく。