【提言23、著作権論の変調理解、即ち強権著作権論と闘え】

 (はじめに)

 「著作権論の変調理解、即ち強権著作権論と闘え」を提言23とする。近時、知的財産所有権の名の下に、知的活動分野での全方面全域の著作権適用が推進されている。日本左派運動が、これに全く抵抗しない否むしろ推進派に廻っているというフザケタ没理論性裡にある。筆者は、それは違うとして断固として闘う。誰かこれを共認せんか。詳論はサイト「著作権考」に記す。

 「川下適用当然の課金制式強権著作権論と闘え」。これを「提言23の1」とする。

 著作権論は近現代史上生まれるべくして生まれたものであり、その限りに於いては認めても差し支えない。しかしながら、著作権法が当初企図したのは著作権者、版権者、管理権者、その他同業他社との関係を整合的に律するという大義名分であり、それもかなり胡散臭い正義ではあるが、いずれにせよ流通論で云うところの「川上」に於ける規制理論であった。それは決して近時のような人民大衆の利用規制にまで及ぶ「川下」適用理論ではない。

 著作権法理解に当たっては、川上と川下の仕分けを峻別するこの認識が肝要である。なぜなら、そもそも著作権法の制定時、この権利が川下適用までされないようよほど留意しつつ制定された経緯が認められるからである。しかしながら、自衛隊と同じく、一たび制定されると制度と云うものは定向進化の理により独り歩きし始める。「海外派兵禁止」を国会決議した上で発足した自衛隊がいつの間にかペルシャ湾まで出向いたり、イラク懲罰作戦に参戦したり、海賊退治で出向くことまでが当たり前にできるほどに変貌していると同様に、著作権理論もいつの間にか強権著作権論に傾斜し、大手を振って川下適用理論にまで「進化」を遂げつつある。そしてこれを誰も訝らない。

 日本左派運動内には、全く同じ論理構造なのに自衛隊派兵には反対するものの著作権法については「もっと適用せよ」なる得心が蔓延している。少なくとも、著作権強権化の流れに余りにも唯々諾々している。「なぜだか分からないが知的所有権と云うらしい。それは必要な規制と思われる」式の安逸合点がはびこっている。これを新旧のウヨサヨ勢力が後押ししている。

 こうしていつのまにか、いわゆる著作権ビジネスが横行し始め、その究極として川上のみならず川下まで利用の対価として課金請求するという「川下適用当然の課金制式強権著作権論」なるものが編み出され、遂に精神域まで金勘定が侵食し始める時代を迎えている。一言でいえば、典型的なあくなくユダヤ商法の暴走であろう。尤も彼らは意図的故意の政策としてこれを推し進めつつあるように思われる。日本左派運動は、この暴走を止めなければならない歴史的責務があると受け止めるべきである。

 「引用転載に関する『要事前通知、要承諾制論』と闘え」 これを「提言23の2」とする。

 強権著作権論のカラクリを確認しておく。強権著作権論は、著作物の人民大衆的利用に対して権利侵害論で遇し、その利用につき「要事前通知、要承諾制」なる関所を設け、人民大衆的普及と利用に手かせ足かせを嵌めようとしている。これは権力的統制に於ける裏からの呼応であり、このゴリ押しを阻止せねばならない。それにしても一体誰がこういうナンセンスを押し付けているのだろうか。

 この連中の戯言を確認しておく。インターネットを前提に言及すると、彼らは当初、リンクにも「要事前通知、要承諾制」を導入しようとしていた。これが批判されると、引用転載については「要事前通知、要承諾制」であると主張し始めた。しかし、著作権法を読み解けば明らかなように所定のルールとマナーを守れば引用できると明文している。これが批判されると、引用はできる但し転載に限り「要事前通知、要承諾制」当然論へと切り替え最後の砦とせんとしている。しかしこれも時間の問題で、「フェアユース理論」によりナンセンス化されるであろう。

 考えてもみよ。情報通行手段として発明された文明の利器としてのネット通信に登場する以上、利用転載したりされたりするのは覚悟の上ではなかろうか。これが嫌なら登場せねば良いのだし、特定の仲間同士の遣り取りに使うのであればエンターキー会員制にすれば良いのだし、見せるだけで転載されたくないのなら自らフリーズ化すれば良かろうに。それもしないのならせめて大書きで転載禁止と貼り紙しておけば良かろう。そういう手だてを講ぜずに、無断転載即泥棒呼ばわりして吹聴して廻るとはよほど性悪御仁ではなかろうか。

 そもそも「事前通知、要承諾制」とした場合、何を基準に承諾するのかしないのかが明らかにされねばなるまい。法は公平な適用を良しとする以上、好き嫌い的基準で承諾されたり拒否されるのはイカガワシイ話ではなかろうか。なお、メール通知するにも、迷惑メールを常態にしていることを考えれば互いに見落とす場合もあろう。メールする方もされる方も、相手の意図を詮索せねばならないことにもなろう。著作権者探しも大変な手間ともなろう。つまり、「要事前通知、要承諾制」とすることによって却って弊害が生まれるのではなかろうか。にも拘わらず彼らは異常に拘り続けている。

 そもそも昔から、頭の悪い者ほど物事を小難しくする癖がある。すっきりさせれば良いものをわざわざ難しくして隠微な悦びに耽る癖がある。著作権狂いに興じるのはだいたいこの輩で、本業の出来が悪いのに限って関心を持つ癖がある。この手合いと語るのは不毛なので、解決策としては別途に彼ら専用のネット空間を持たせれば良かろう。少なくとも、「World Wide Web」の発明者であり且つこれを無償で市場に提供したTim Berners-Lee自身が推奨しているウェブページの人民大衆的共有世界に出没して著作権棒を振り回させる必要はなかろう。我々は「狼藉者よ失せよ!」と一喝すれば良い。小難しい者は小難しい世界で互いに小難しくし合えば良かろう。単にそれだけのことであろう。

 ところが今や、「要事前通知、要承諾制」論法と仕掛けが政党の著作物にさえ及び始めている。政党活動の本義に於いて許される訳がなかろうが、これが一般化しつつある。我々が政党の主張を流布するにつき、それが賛辞であれ批判であれ、制限を受ける必要がどこにあると云うのだろうか。余りに邪悪な意思が潜んでいるというべきではなかろうか。その昔、特高の目を盗んでビラを持ち帰り、読み回し、政党はこれを安堵していたと云うのに。これにつき最も生硬に主張しているのが公明党、日共である。著作権論に於いて両党の胡散臭さが際立っていると見なすべきではなかろうか。その他政党もこれに汚染されており、これを咎める党派はいない。いわゆる新左翼の一部にもこの流儀が見られる。筆者が宣告しておく。手前たちには左派運動を担う資格がない。早々に解党すれば良かろう。

 
他にも著作権保護期間が50年から70年にされようとしており、図書館での本の貸し借りが著作権法違反とされつつある。全てが究極金出せに繋がる「要事前通知、要承諾制」にお見舞いされようとしている。こうして、著作権規制の強権化を通して人民大衆の精神の自由に対する意図的故意の絞殺が仕掛けられている。これにより、人民大衆が伝統的に継受してきた著作物を通じての知育練磨及び福利享受が著しく毀損されつつある。サヨウヨ勢力がこれを推進している。日本左派運動のダンマリは許されない。

 ここまで述べても理解できない分からず屋の為に一言しておく。強権著作権派は、引用と転載に於いて、「無断引用可、無断転載不可論」を主張している。然しながら、著作権法には、正面からそういう風に規定した条文はない。筆者的読解によれば、引用とは或る文章の部分引用、転載とは或る文章の全体引用と説き分けしている風があり、強権著作権派の主張する如く質の違いでは捉えていない。考えてみれば、趣旨改竄の禁止原則に照らせば転載の場合には起こりようがない。ならば、引用よりも転載の方が安全であり、これを厳しく制限される云われはないと受け止めるべきではなかろうか。引用の方こそ趣旨改竄の禁止原則に照らされねばならないのではなかろうか。

 こう受け取るべきところ、強権著作権派は頑強に「無断引用可、無断転載不可論」を主張している。それは何によってであろうか。筆者の理解するところ深い意味はない。現代世界を支配するネオシオニズムの著作権政策の御用聞き的立ち働きをしているに過ぎない。その政策は、情報規制と精神域をも金儲けの対象とすると云う二面から成り立っていることは既に指摘したところである。ここまで述べてなお強権著作権派にシフトする者には漬ける薬がないと云うべきだろう。以上を提言23としておく。

 「著作権攻勢はネオシオニズムの策略である。これと闘え」 これを「提言23の3」とする。

 著作権が如何に政治がらみのものであるかは、「サンフランシスコ平和条約 (日本国との平和条約 1951)」に登場することでも分かる。これを確認しておく。同条約では、「第五章 請求権及び財産」の項の第15条(連合国財産の返還)の(C)で次のように記している。

(i) Japan acknowledges that the literary and artistic property rights which existed in Japan on 6 December 1941, in respect to the published and unpublished works of the Allied Powers and their nationals have continued in force since that date, and recognizes those rights which have arisen, or but for the war would have arisen, in Japan since that date, by the operation of any conventions and agreements to which Japan was a party on that date, irrespective of whether or not such conventions or agreements were abrogated or suspended upon or since the outbreak of war by the domestic law of Japan or of the Allied Power concerned.
(i) 日本国は、公にされ及び公にされなかつた連合国及びその国民の著作物に関して千九百四十一年十二月六日に日本国に存在した文学的及び美術的著作権がその日以後引き続いて効力を有することを認め、且つ、その日に日本国が当事国であつた条約又は協定が戦争の発生の時又はその時以後日本国又は当該連合国の国内法によつて廃棄され又は停止されたかどうかを問わず、これらの条約及び協定の実施によりその日以後日本国において生じ、又は戦争がなかつたならば生ずるはずであつた権利を承認する。
(ii) Without the need for application by the proprietor of the right and without the payment of any fee or compliance with any other formality, the period from 7 December 1941 until the coming into force of the present Treaty between Japan and the Allied Power concerned shall be excluded from the running of the normal term of such rights; and such period, with an additional period of six months, shall be excluded from the time within which a literary work must be translated into Japanese in order to obtain translating rights in Japan.
(ii) 権利者による申請を必要とすることなく、且つ、いかなる手数料の支払又は他のいかなる手続もすることなく、千九百四十一年十二月七日から日本国と当該連合国との間にこの条約が効力を生ずるまでの期間は、これらの権利の通常期間から除算し、また、日本国において翻訳権を取得するために文学的著作物が日本語に翻訳されるべき期間からは、六箇月の期間を追加して除算しなければならない。


 これによれば、外国著作権を、日本が第二次世界大戦に参戦した1941.12.6日以前以降を問わず中断させず適用し、「著作権保護期間の戦時加算 」を含めて「著作権を認める」としている。戦時中は連合国・連合国民の有する著作権の日本国内における保護が十分ではなかったとの趣旨であり、これによりサンフランシスコ講和条約以降はなおさら「著作権の生硬な適用」を承認させている。これにより、1952(昭和27).8.6日、サンフランシスコ講話条約第15条(c)の規定に基づき連合国及び連合国民の著作権の特例に関する法律第302が制定された。

 これは、筆者が最近知ったことである。著作権行政が大方の理解を超えて如何に政治性の強いものであるか知るべきであろう。サンフランシスコ平和条約に於ける著作権規定の内容そのものは国家間の効力問題であり普通のやり取りのように思われる。問題は、この取り決めによりネオシオニズム型の著作権行政の楔(くさび)が打ち込まれ、やがて強権著作権法化が始まっていく際の橋頭保になっていることに意味があるように思われる。

 「日本新聞協会編集委のネットワーク上の著作権に関する協会見解は噴飯ものである。これと闘え」 これを「提言23の4」とする。

 「1997.11月付け日本新聞協会編集委員会のネットワーク上の著作権に関する協会見解」なるものがある。これを仮に「新聞協会著作権見解」と命名する。それによると、新聞記事を利用する際には「要事前通知、要承諾制」であることを明確にしている。果たして、著作権法に照らしてこれが正論なりや。筆者は、現代マスコミ人の知性の大いなる貧困と利権体質を認める。

 新聞協会の著作権理解によると、著作権法第10条2項(著作物の例示)で、「事実の伝達にすぎない雑報及び時事の報道は、前項第一号に掲げる著作物に該当しない」と規定しているのに、「雑報及び時事の報道は著作権法の適用外」として「(著作権非適用は)死亡記事、交通事故、人事往来など、単純な事実を伝える記事だけであり、ほとんどの記事には著作権が働いています」などとのたまっている。読売新聞社に於いては記事見出しのテロップ紹介にさえ告訴介入し、他方でサブミナル効果を楽しんでいる。毎日新聞社の「毎日ワイワイ事件」では手前たちはあちこちの記事を無償で寄せ集め編集し、これを利用していた相手に対価請求して稼いでいた事例がある。一般に情報の作用には、1・伝達、2・周知徹底、3・議論の叩き台としての要素があると思われるが、「新聞協会著作権見解」はそういう情報の本能的使命をことごとく圧殺した上で公然と居直っている。

 新聞協会が、かように得手勝手な「新聞協会著作権見解」をマジに打ち出すのなら、新聞1面の然るべきところに誰にも分かるように主張するところに従い看板に偽り無きように然るべく、「本紙には著作権有り。勝手な引用転載をご法度とする」云々を表記せねばならない。それが商法の通念であり常道であろう。明示せぬまま、「コラッ誰に断って利用しているのであるか」と恫喝、課金請求に向かうのは卑怯姑息であろう。

 マスコミは本来むしろ、誤報、虚報、記事改竄、悪解釈に対してこそ真摯でなければならない。この姿勢を怠惰にさせて、記事著作権を振りかざすのは二重の痴態であろう。もっとも誰かが音頭を取ってかくリードしているのではあろうが。筆者にはナベツネ派の悪行が見えてくる。それに引きずられた言論人の見識の低さが見えてくる。

 2006.3月現在、もう一つ問題が発生した。新聞は、他の業種業界では禁じられている同一価格での新聞販売協定トラスト是認という「特殊指定」の保護に与っている。この価格トラストが廃止されると、「競争激化で販売店の寡占化は避けられず、宅配制度も危機にひんする」との理由によっている。なるほど新聞の果たしている社会的役割からすれば是認されるべきであろうが、他方で生硬な著作権を主張していることを勘案すれば、虫のいいエエトコ取り発想であることが透けて見えてくる。

 一応確認しておく。著作権法第32条「引用」1項で、「公表された著作物は、引用して利用することができる。この場合において、その引用は、公正な慣行に合致するものであり、かつ、報道、批評、研究その他の引用の目的上正当な範囲内で行なわれるものでなければならない」と述べている。これは、「邪悪な意図によるものでない限り公表物の引用ができる」と解すべきではなかろうか。32条をこう理解しない手合いが居るとしたら、かなりオツムがへそ曲がりしていよう。

 著作権法第39条「時事問題に関する論説の転載等」の規定をわざわざ設けて、「新聞紙又は雑誌に掲載して発行された政治上、経済上又は社会上の時事問題に関する論説(学術的な性質を有するものを除く。)は、他の新聞紙若しくは雑誌に転載し、又は放送し、若しくは有線放送することができる。ただし、これらの利用を禁止する旨の表示がある場合は、この限りでない」と述べ、「新聞叉は雑誌記事の政治上、経済上又は社会上の時事問題に関する論説は転載ないし転報できる」としている。そのデキル主体が問題になるが、「他の新聞紙若しくは雑誌」とある以上ネットのブログも準ずると解すべきではなかろうか。こう理解しないと、「新聞紙若しくは雑誌の特権規定」と云うことになろう。

 著作権法第40条「政治上の演説等の利用」の規定をわざわざ設けて、1項「公開して行なわれた政治上の演説又は陳述及び裁判手続における公開の陳述は、同一の著作者のものを編集して利用する場合を除き、いずれの方法によるかを問わず、利用することができる」、2項「国若しくは地方公共団体の機関又は独立行政法人において行われた公開の演説又は陳述は、前項の規定によるものを除き、報道の目的上正当と認められる場合には、新聞紙若しくは雑誌に掲載し、又は放送し、若しくは有線放送することができる」、3項「前項の規定により放送され、又は有線放送される演説又は陳述は、受信装置を用いて公に伝達することができる」と述べ、「政治演説、裁判に於ける公開陳述は転載ないし転報できる」としている。

 著作権法第41条「時事の事件の報道のための利用」)の規定をわざわざ設けて、「写真、映画、放送その他の方法によって時事の事件を報道する場合には、当該事件を構成し、又は当該事件の過程において見られ、若しくは聞かれる著作物は、報道の目的上正当な範囲内において、複製し、及び当該事件の報道に伴つて利用することができる」と述べ、「時事事件報道に関して、邪悪な意思でない限り利用できる」としている。

 これが、本来の著作権法上の規定である。「新聞協会著作権見解」は、これをどうやって「できない規定」に改竄し得たのだろうか。このマジックを解かなければならない。筆者が判ずるところ、「第七節 権利の行使」の第63条「著作物の利用の許諾」の1項「著作権者は、他人に対し、その著作物の利用を許諾することができる」、2項「前項の許諾を得た者は、その許諾に係る利用方法及び条件の範囲内において、その許諾に係る著作物を利用することができる」を無理矢理に拡大解釈しているのではなかろうかと思われる。この規定を唯一頼りに「引用転載、要事前通知要承諾制論」を生み出しているように見える。

 しかしてそれは、「第七節 権利の行使」全体が、財産権的著作権論に関連しての諸規定であることを無視している。即ち、同条が、著作権法がこれまで縷々規定した著作権非適用著作物を除いた著作物に対する「要事前通知、要承諾制」であり、財産権的な利用許諾規定であることを無視している。つまり、「新聞協会著作権見解」の「引用転載に於ける要事前通知要承諾制論」は、著作権非適用以外の著作権適用に対する場合の利用許諾規定を、素人を誑(たぶら)かすようにして遡って全著作物に対して押し付けるマジックによって可能になっていることになる。しかし、それは、著作権法全体の構成と趣意に反していよう。以上が種と仕掛けである。これに阿諛追従する者にも責任があろう。

 強権著作権の跋扈する生態のサマは、アンデルセン童話「裸の王様」に登場する透明衣装振付士の口上と所作を髣髴とさせる。かの時、王様は、すっかりその気にされ、裸のまま大通りを得意満面で行進した。何しろ高名な衣装振付士の丹精込めて織った衣装が見えぬ者は馬鹿か不忠義者とされたのだから、人はそう見なされまいとして競って王様の衣装は何と豪華なことよと誉め合い阿諛追従した。その行列の最中、只一人子供が「王様はパンツで歩いているケラケラケラ」と笑った。催眠術が解けた瞬間だった。筆者はは、この話を思い出す。

 これを何故記したのか。筆者に対して最近為された或る若い自称学究氏よりの引用転載講義に辟易したからである。何とその御仁は筆者の母校の後輩であった。「引用転載の違いのイロハさえ弁えぬあなたは、良い年こいて恥ずかしくないのか、本当に早稲田を出たのか、いずれ訴訟で黒白つける云々」と散々に説教してくれた。本章は、その御仁に対する筆者の返答である。しかと応答せよ。以上を提言23としておく。