【提言15、伊藤律の浦島太郎節を傾聴せよ】


 (はじめに)

 「伊藤律の浦島太郎節を傾聴せよ」を提言15とする。筆者は、伊藤律こそ日本左派運動の範とすべき軌道の敷設者だったと評価している。史実は、その伊藤律を悪し様に論ずれば論ずるほど左派的であるかのように扱かうという倒錯に耽ってきた。そういう意味で、日本左派運動のネジレは伊藤律論に集約していると云うべきだろう。以下、このことを確認する。 

 「伊藤律の政治能力を再評価せよ」。これを「提言15の1」とする。

 伊藤律は、戦後直後の共産党運動を指導した徳球に次期指導者として見込まれて登用され、以来徳球の懐刀として戦後の共産党運動を5年余牽引した。戦後共産党運動の一番若い有能指導者であった。徳球−伊藤律体制は、日共の今日的な「真の野党論」とは全く違って、戦後革命を懸命に模索し、1947.2.1ゼネストであわやのところまで政権奪取に近づいたものの最終場面でGHQの厚い壁の前に遮られた。以来、捲土重来を期して社共合同運動と地域権力樹立運動の二本立て活動に邁進した。

 その最終勝負が遂に訪れる。2.1ゼネストより2年後の1949.1.23日、第24回衆議院総選挙が行われた。吉田率いる民主自由党が解散時152から264へと単独過半数獲得で大勝利したものの、民主党69(←90名)、社会党48(←111名)、国協党14(←29名)、労働者農民党7(←12名)の退潮を尻目に共産党は4から一挙に35名(約300万票獲得、得票率9.8%)へと大幅躍進した。

 民主自由党対共産党の決戦機運が漲(みなぎ)り始めた。徳球−伊藤律系党中央は、「社共合同による9月革命」を呼号し戦後革命決戦に向かった。この頃シベリア抑留者が帰還し、ソビエト式共産主義教育を受けた帰還兵士の多くが続々と入党した。こうして、革命主体の隊列が整った。日本左派運動は戦後革命の最後の決戦に向かった。

 肝心要のこの時、宮顕派を主力とする反主流派が党内を撹乱し始める。吉田政権は、「団体等規制令」(政令64号)等による労働運動弾圧に向かった。7.1日、公共企業体の人員整理が始まり、組合内の指導的党員と同調者、戦闘的分子が解雇された。明らかに逆宣戦布告であった。こうした折、7.6日、国鉄総裁・下山定則轢殺事件、7.15日、三鷹事件(中央線三鷹駅で、無人電車が暴走、6名が死亡、14名が重軽傷)、8.17日、松川事件(東北本線松川−金谷川間で列車転覆、3名死亡)が発生した。いずれも、ネオシオニズム配下のCIA絡みの謀略事件の可能性が強いとされている。こうした喧騒の中、結果的に「9月革命」は不発となり戦後革命は流産した。

 1950.1.1日の外電「スターリン論評」をきっかけに党内は徳球系所感派と宮顕系国際派に分裂した。かかる中、朝鮮動乱勃発の前夜の6.6日、マッカーサー指令による日本共産党全中央委員24名全員の公職追放が発令された。徳球系所感派は国内に「臨時中央指導部(臨中)」を構築し非公然体制に入った。やがて北京に渡った。6.25日、朝鮮戦争が勃発。

 徳球、野坂らは北京機関を創設して指導し始めた。この時、指針されたのが日本共産党史上初の武装軍事闘争であり、1951.2月の「四全協」、10月の「五全協」で意思統一された。伊藤律が北京に向かわされ、志田が武装闘争を指揮するところとなった。しかし、志田派の武装闘争は戦略戦術のない漫画的散発的なもので悉く失敗に帰して行くことになる。後日判明するところ、志田の当局との通謀性が確認されている。

 北京に渡った伊藤律は徳球の片腕となり「自由日本放送」を開始し指導する。しかし、武装闘争の失敗と反主流国際派の執拗な党分裂により次第に制御不能となって行った。この失意の中で、1953.10.14日、徳球が亡命先の北京で客死した(享年59歳)。後ろ盾を失った伊藤律は野坂、西沢らの暗躍により捕捉され投獄される。まもなくスパイとして除名される。以降、消息不明となり死亡説も囁かれていた。 

 「伊藤律の浦島太郎節を傾聴せよ」 。これを「提言15の2」とする。

 1980.9.3日、その伊藤律が北京幽閉後27年を経て解放され、九死に一生を得て密航以来29年ぶりの帰国をした。伊藤律の有能さは、「27年の幽閉、29年ぶりの帰国」になお衰えぬ精神力と頭脳の明晰さを保持していたところに有る。誰が真似できようか。

 他方、宮顕−野坂の牛耳る日共は恥ずかしげもなく居直り、釈明一つしなかった。これが、倫理道徳を説き続ける現下日共党中央の有り姿である。むしろ「伊藤律スパイ説」を執拗に流し続け乗り切りを図った。日本左派運動内諸党派は、この欺瞞に抗議する声もないテイタラクぶりを見せた。

 日共のこうした一連の対応の後、「伊藤律証言」が朝日新聞と週刊朝日に連載された。除名後27年間の沈黙を破る伊藤律自身の言葉が披瀝された。
 「ぼくは身の潔白を証明する為に生き長らえてきたんじゃないんだ。曲がりなりにも日本共産党の政治局員という責任ある地位にいた者として、今やらなければならないことがあるんだ」。

 1989.8.7日、伊藤律死去(享年76歳)。元日本共産党三多摩地区委員長・荒川亘・氏は、「伊藤律回想録―北京幽閉二七年」(文藝春秋社、1993.10.15日初版)の末尾 の「刊行に寄せて」で次のように証言している。
 概要「『耳は聞こえず、目もほとんど見えず、一人では外出・歩行も困難な』云わば、惨憺たる状態の伊藤律が、それなりに動いている『日本の運動状況』の中に帰ってきたというのは、『逆立ちした見方』であって、事実は、『惨憺たる日本の運動状況』の中に27年の苦難の中で思想と理論を鍛えた伊藤律が帰って来たのである。私がここで『日本の運動状況』と云う時、問題にしているのは日本共産党のことだけを言っているのではない。それに批判的な人々、潮流についても言っているのである。その事は、帰国後、国内の運動と思想の状況をほぼ理解した後の伊藤律さんの次の感想に示されている。『あの徳田が指導していた党は、どこへ行ってしまったのだ』」。
 
 筆者は、「あの徳田が指導していた党は、どこへ行ってしまったのだ」を噛み締め合い為に、ここまで伊藤律史を綴った。「荒川証言」によると、帰国後の伊藤律は、日本の国内情勢と左派運動の現況を確認したうえで、社共のみならず新左翼各派も含めて、日本人民大衆を指導するに足りる党派と理論がないことを嘆き、憮然としたということになる。

 その言は、「伊藤律の浦島太郎節」に過ぎないのか。筆者は違うと思っている。伊藤律をして嘆き憮然とさせたうちに真実があると思っている。日本左派運動は、徳球−伊藤律運動の後、その限界から弁証法的に出藍しないままあらぬ方向で穏和糸と急進系が実りのない運動を費消したと思っている。こう指摘してもなお「惨憺たる日本の運動状況」にさえ思い至らぬ「万年野党批判正義派」と「万年革命呼号正義派」の面の皮のションベンたるのが日本左派運動の実相なのではなかろうか。この貧困を如何せんか。以上を提言15としておく。