【提言7、市場性社会主義経済論を創造せよ】

 (はじめに)

 「市場性社会主義経済論を創造せよ」を提言7とする。日本左派運動は明治維新過程の自由民権運動の失速以降マルクス主義を導入し、今日まで長らく理論的主柱としてきた。マルクス主義の功罪の総合的研究はさて置き、ここでは次のことを指摘しておく。俗流派が拝戴し教条としてきた国有化理論をマルクス主義のミスリードと認め、これを否定すべきではなかろうか。マルクス主義的経済体理論は本来、国有化論を本質としておらず、正しくは社会化理論であったと理解すべきではなかろうか。仮に国有化論を前提にしていたとすれば出藍すべきではなかろうか。これにつきコメントしておく。
詳論はサイト「マルクス主義考」所収の「国有化論ないしは市場経済論」に記す。

 「広西理論の卓見を称揚せよ」。これを「提言7の1」とする。

 

 国有化理論の非マルクス主義性を夙(つと)に指摘していたのは広西元信氏であった。詳論はサイト「道西氏の衝撃の誤訳指摘」に記す。広西氏は、1966.12.1日初版で「資本論の誤訳」(こぶし書房、2002.3.30日再初版)を世に問うている。同書で、所有と占有概念の違いを識別し次のように指摘している。
 概容「マルクスは、占有概念で社会主義社会を透視していた。マルクスの言説の中に国有化概念はなく、むしろ資本主義的株式会社を労働者の生産管理的方向(アソシエーション)へ発展させる必要を遠望していたこと。その限りで、ロシアのスターリニズム的国有化政策指導は何らマルクス主義的でないどころか、反対物である」。

 この広西見解は長らく無視されてきた。しかし、ソ連邦が崩壊し、「市場主義的社会主義論」が生み出されつつある折柄にあってはその先見の明が明らかであり、これを高く評価されねばならない。筆者は、広西氏のアソシエーション理論を「市場主義的社会主義論」の有益試論とみなすが、最近はしゃいでいる日共不破が「レーニンと市場経済」で見せた論述は「市場主義的社会主義もどき論」に過ぎず、単なる現下資本主義の修正主義でしかない。

 不破理論の特質はいつでも、問題の在り処を探る才には長けているものの、その考究と称して幅広い知識を披瀝するところまでは良いとしても結局は、マルクス、エンゲルス、レーニンらの言説を捻じ曲げつつ有害無益な右派的理論に到達させてしまうのがいつもの遣り方である。従って、不破理論に対しては、知識を得るところと見解を押し付けられるところとの境目をはっきりさせ、知識を検討し不破見解的箇所は却下せねばならない。不破見解を鵜呑みにするとあらぬところへ誘導される。彼はこの手のマジシャンである。今、日本左派運動に要請されていることは、不破的「市場主義的社会主義もどき論」にごまかされることではなく、真の市場主義的社会主義論の開拓と創造に向かうことである。この差には天地ほどの隔たりがあると知らねばなるまい。

 「レーニン最晩年の政策となりその後棄却されたネップ政策を再検証せよ」。これを「提言7の2」とする。
 

 全産業、業種の生産及び流通結社の国有化は俗流マルクス主義政策であり、正しくは官民棲み分け及び重要産業に於ける基幹的官営企業による官的采配とそれを取り巻く民営企業との正しい連携こそ、本来の社会主義的経済体理論であったと窺うべきではなかろうか。これに向かった人類史上貴重な史実が刻まれている。レーニンが晩年に指針したネップ理論と政策である。これを簡明に検証しておく。

 1917年のロシア10月革命を遂行したボルシェヴィキ革命政権は、俗流マルクス主義による公式主義的国有化経済理論に基づき直ちに「戦時共産主義政策」を施行した。これにより商業的営為が全否定され、企業が国営化され、食物徴発令が発布された。しかし、いざこれをやって見ると経済実態に照応せず、ことごとく壁にぶつかりった。この現実を客観化させ、マルクス主義的教条からの転換に向ったのがトロツキーであった。

 1920.2月、戦時共産主義が真っ盛りのこの時期、トロツキーが戦時共産主義からの転換に動き始め改良を目指した。「食糧政策と土地政策の根本問題)」を中央委員会に提案し、「食糧ノルマにもとづく均等徴発や、供出の際の連帯責任制、工業生産物の平等分配といった現在の政策が農業を衰退させ、工業プロレタリアートを分散させるものであり、国家の経済的生命を決定的に台無しにするおそれがあることは明白である」と見立て、従来の戦時共産主義政策からの転換を迫った。

 この提案に対し党内は賛否両論となった。この時点では、この提案が持つ萌芽的な自由市場の復活について批判が為され、トロツキーは自由取引主義者と批判された。中央委員会は、反対11対賛成4票で否決した。レーニンもスターリンも当時の教条主義的見地から強く反対している。

 但し、レーニンはその後、「戦時共産主義政策の限界と誤り」を認め、このまま経済統制策を続けると政権が崩壊することを悟った。1920年秋頃よりトロツキーよりもより柔軟大胆な「戦時共産主義からの政策転換」を目指すようになる。次のように述べている。
 概要「我々は、充分な考慮もせずに、小農民的な国で物資の国家的生産と国家的分配とをプロレタリア国家の直接の命令によって共産主義的に組織しようと考えていた。実生活は我々の誤りを示した。その『誤り』とはこうであった。直接に熱狂に乗ってではなく、大革命によって生み出された熱狂の助けを借りて、個人的利益に、個人的関心に、経済計算に立脚して、小農民的な国で国家資本主義を経ながら社会主義に通ずる堅固な橋を、まず初めに建設するよう努力し給え。実生活が我々にかく語った。資本主義的経営と資本主義的流通の通常の進行が可能であるように、物事を設定しなくてはならない。なぜならば、これは国民にとって必要であり、これなくして生活は不可能であるからだ」。

 レーニンの晩年は、「戦時共産主義からの政策転換を廻る理論的創造」が課題となった。1921年3月、レーニンは、第10回党大会を前にして政治局に「戦時共産主義体制からの転換政策案」を提起した。農民に余剰食糧の自由販売を許し、私営商業も認め、自由市場に道を開くことにより疲弊した経済を甦らせようとした。しかし強い反対にあった。反対派の意見は、計画経済からの撤退は社会主義の夢からの裏切りであり、資本主義の復活であり、下部構造の資本主義復活はやがて上部構造へ及ぶという見解に基づいていた。 その批判は、官僚制批判、党内民主主義とソビエト民主主義の復活要請と結びついており、革命政権を揺さぶった。

 1921年3月、ソ連邦共産党第10回大会が開かれ、クロンシュタット反乱の最中、レーニンの指示によって「新経済政策」(ネップ、New Economic Policy)を打ち出し、正式に「戦時共産主義からの転換」を指針させた。これにより現物経済から市場と貨幣を媒介とする経済への転換がはかられた。農民には余剰穀物の自由販売が認められることになった。土地の私有、貸与貸借も認められた。基幹産業をのぞいた中小企業は民営化され貨幣が再導入された。商業を通じて農村と都市が結びつく道が切り開かれたことになる。いわば部分的な市場経済の導入であった。ある程度の地方的商業活動も許容された。こうして、農民や中小企業に自由な経済活動を認め、市場経済に道が開かれた。外国資本の導入も認められた。この道は資本主義経済への回帰でもあった。追って自由市場の復活、土地の、雇用労働、資本家の復活を生み出すことが予見された。

 レーニンは、ネップの導入は農民と和解するための一時的な「後退」であると考えていた。次のように述べている。

 「我々はこの資本主義を受け入れねばならないし、又受け入れることができる。そして我々は、それに一定の制限を課することができるし、又そうしなければならない。それが膨大な農民大衆と、農民の必要を満たすことが可能な商業にとって必要だからである。我々は、資本主義に特徴的な経済の正常な作用と交換の型が可能になるように、ことを按配しなければならない。それは人民の為にそうでなければならないのである。そうでなければ、我々は生きていくことができないであろう。彼らにとって、それがまさしく絶対的に必要なことなのだ。その他のことに就いては、彼らは何とか我慢するに違いない」。

 レーニンは、「古い社会・経済制度、商業、小経営、零細企業活動及び資本主義を破壊せずに、商業や零細企業活動、資本主義に活気を与え、活性化の方策に関してのみ国家により統制を加える」という知見に達していた。1920年11月20日の最後の公の場での演説では、次のように述べている。

 概要「社会主義は今となってはもう、遠い将来の問題ではなく、又何か抽象的な絵でもなければ、聖像のようなものでもない。我々は社会主義を日常の生活へと引き入れた。そしてそれを理解するよう取り組まなければならない」。

  晩年のレーニンは、「協同組合について」口述筆記していた。それは「文化的な共同組合員制度」まで視野に入っていた。レーニンによると、「ロシアの条件下では社会主義と完全に一致するものである」としていた。メリニチェンコ氏の「レーニンと日本」は次のように記している。

 概要「ネップは、初期段階の社会主義の『要素であり、小部分であり、小片』であった。ネップ支配の下での、ロシア住民の幅広く内容の濃い協同組合化は、『完全な社会主義的社会の建設にとって全ての必要なことなのである』。レーニンによれば、社会主義とは、ある一定の条件の下では、完全に資本主義と共存するだけでなく、資本主義から学び取り、吸収し、消化する能力がある(歴史的に見ると、実際には逆になってしまった。つまり、資本主義が社会主義のいい部分全てを取り入れた)。別の言い方をすると、レーニンは社会主義を『私営商業の利害』に対立するものと捉えたのではなく、共存するものとして、実際は市場型のネップ式社会主義、例えどんなに多くの人を驚愕させようとも、これは『現存する資本主義的関係を土壌として』成育し強化されていく社会主義であった。これぞまさしく社会主義の解釈における新しいレーニンの言葉であるのだ!」。

 レーニンが提起した「改良主義的行動への移行」、これが逆説的であろうとも、1921年から1923年にかけてのレーニンの最も重要な新しい理論的思想であった。こうして晩年のレーニンは、「社会主義に対する我々のあらゆる考え方の根本的変化」に辿り着いていた。メリニチェンコ氏の「レーニンと日本」は次のように記している。

 「これは極めて輝かしい、偉大な、レーニン思考の高まりであり、未だ完全に理解され尽くしていなければ、十分な評価も受けていないものだ。レーニンの天才性の目がくらむような素晴らしい背景の前では、現在のロシア改革者達など影が薄く、惨めな半可通、ちっぽけな暗愚に映る。レーニンは、『新しいことを現実に遂行する際には膨大な苦労と抵抗が伴う』と述べている。レーニンの後に続く者の中で、実践しているかどうかまで問わないとして、せめて心中だけでも良いから、果たしてこのようなレーニンの提起した結論について熟考した者がいただろうか?」。

 
しかし、歴史は、これらの苦悩を引き受けなかった。レーニンは、この方針を確立して1年5カ月後の1923年3月に病気で倒れ、その後、政務には復帰できないまま1924年1月に亡くなった。レーニン没後、ソ連の党と政府の指導権を握ったスターリンは、この問題に対して全く無能であった。「トツロキー、レーニンの慧眼」を継承しようとせず戦時共産主義体制に差し戻した。穀物調達を廻るクラークとの利害衝突が発生し、その結果としての強権的にクラークを壊滅していった。1929年から30年代初頭にかけて、「上からの革命」政策を強行していった。農業面での「集団化政策」、工業面での5ヵ年計画による重化学工業重視政策が導入されていった。これらの諸政策は新経済政策の事実上の終結宣言であった。以来、「市場経済を通じて社会主義経済へ」の方針はソ連には復活することがなく、その他の社会主義国もこれに倣った為にネップ政策の系譜が消えた。

 これにつき筆者はかく思う。スターリン派によるレーニン式ネップ政策の放棄は返す返すも残念なことであった。ネップ政策をどう見るべきかが問われている。1・マルクス主義的経済政策の重大なる裏切り修正か。2・マルクス主義的経済政策の創造的発展か。3・マルクス主義的経済政策の読み誤りの訂正か。この3点が論ぜられるべきであろう。筆者は、「3」説を採っている。マルクス主義的私有財産制の否定論は必ずしも国有化論と接続していないのに、通俗マルキストは国有化論に立つ見地こそマルキストと読み誤り、ロシア革命政権もその俗説に従った結果、徒な社会的混乱を招いた。問題は、レーニンが、ネップ政策につき「2」説の見地より党内説得に努めていたのではないかと思われることである。筆者は、そこにレーニンのマルクス主義理解の歪みを見てとる。時代の制約もあり仕方なかったとはいえ、それほどに通俗マルクス主義の病弊の根が深いと云うべきだろう。筆者は、ここを切開しない限りマルクス主義の豊潤さは生み出されないと考える。

 「『共産主義者の宣言』で示した経済政策を見よ。これこそ市場性社会主義経済論ではないのか」。これを「提言7の3」とする。
 

 そもそも「共産主義者の宣言(通称「共産党宣言」)」は、「もっともすすんだ国々では、つぎの諸方策がかなり一般的に適用されるであろう」と前置きして次のような経済政策を指針している。既出の訳本は正確でないので、れんだいこ訳によると次のようになる。
 土地所有を廃止し、全ての地代の分配を公共目的に充当する。
 重い累進税又は等級制所得税。
 あらゆる相続権の廃止。
 全ての国外移民者(亡命者)及び反逆者の財産没収。
 国家内の諸銀行の信用(クレジット)を中央集権化する。国家資本と排他的独占権を持つ国立銀行を通じて為される。
 通信、交通及び運輸機関の国家の手への中央集権化。
 国家に帰属する工場及び生産用具の拡大。未開拓地の開墾及び総合的な共同と計画による土地改良。
 労働に対する万人の平等な義務。産業軍の編成、とくに農業の為のそれ。
 農業と近代産業の結合。国中の民衆に対するより平等な分配を通じての都市と農村の差異の漸次的解消。
10  公教育の場での全児童に対する無料教育。現在の形態での児童の工場労働の廃止。教育と産業的生産との結合、等々。

 留意すべきは、規定5の国立銀行制、規定6の交通及び運輸機関の国有制、規定7の国家プロジェクトによる国土総合開発制である。これを逆に読むと、国家中枢機関の国有制であり、公営企業を核とした民営企業の結合を指針せしめていることになる。

 「戦後日本に結実した市場性社会主義経済を再評価せよ」。これを「提言7の4」とする。
 
 
 レーニン的ネップ政策は、後継者スターリンがこれを継承しなかった為、地上から姿を消した。ところで、レーニン的ネップ政策は本当に消えたのであろうか。筆者は否と云う。レーニン的ネップ政策は形を変え、戦後日本に結実したのではないかとの仮説を持っている。即ち、「共産主義者の宣言の示した経済政策」を字義通りに実践した例として戦後直後の日本政治がある。この観点から若干の示唆をしておきたい。

 日本は、大東亜戦争遂行過程で国家社会主義体制化させた。そのイデオロギーは、「天皇制下官僚社会主義」に支えられていた。このイデオロギーの下で「有能なる官僚による支配」が進み、資源と富の国家集中が押し進められた。日帝は敗戦により解体されたが官僚社会主義システムは残った。この官僚社会主義が間もなく導入された戦後民主主義と結びつき、資本主義体制下での親方日の丸方式国家再建を目指していくことになった。大東亜戦争の敗戦が思わぬ果実を戦後日本にもたらしたということになる。

 興味深いことに、戦後憲法秩序に於ける重要産業及び分野に於ける親方日の丸国営企業とその衛星的民間企業、その他産業及び分野に於ける民営化制という官営と民営の有機的結合即ち戦後日本的官民結合事業方式こそがマルクスの指針せしめた当面の経済政策であり、これが本来のプレ社会主義的経済機構理論であり、戦後経済秩序はこれを地で執り行っていた素晴らしい制度であった。筆者が、戦後日本=プレ社会主義論を唱える根拠の一つでもある。 

 天皇制は象徴天皇制として生き延び、普通選挙で選出された代議士が国会で政策決定していく仕組みになった。権力を握ったのは、戦前土佐自由党の流れを汲む吉田茂であり、吉田に見出された池田、佐藤、田中であった。50年代から70年代半ばまでの25年余の間、ハト派系が戦後保守本流となり、タカ派と表見左翼を御しながら世界史上未曾有の戦後復興、引き続く高度経済成長へと導いていった。これは稀に見る善政であった。この間の国富の蓄積は、世界史に誇る事例となっている。レーニン的ネップ政策は戦後日本に花開き、マルクス主義の有能有効性を証したということになる。残念ながら、この観点からのネップ政策論が為されていない。故に、この観点からのネップ政策論が見直されなければならない。

 そういう意味で、最近の親方日の丸企業の徒な民営化は逆行であると云わねばならぬ。中曽根−小泉的民営化路線は、この観点からも批判されねばならないところだろう。これを逆から云えば、民営化論のイデオローグが揃って社会主義的遺制の解体を標榜していたことには根拠があるということになる。民営化は、ネオシオニズムの姦計による彼らのコントロールする世界支配への身売りであり、その資金はハゲタカファンドへの御供である。この要請を受けて立ち働く輩を売国奴と云わずして何と呼ぼうぞ。かく認識せねばなるまい。以上を提言7としておく。