【提言13、日共のネオシオニズム奴隷的本質」こそ疑惑せよ】

 (はじめに)

 「日共のネオシオニズム奴隷的本質」こそ疑惑せよ」を提言13とする。こう述べても何のことか分かるまい。そこで、これを解説しておく。日共とは、1955年の六全協以来の党中央内の政変により徳球-伊藤律系に代わって宮顕-野坂同盟が党中央化し、共産党とは名ばかりの変調指導し始めたことに由来する蔑称である。ネオシオニズムとは、近現代世界を牛耳る国際金融資本のイデオロギーである。従って、「日共のネオシオニズム奴隷的本質」とは、日共がネオシオニズムの配下として立ち働いて居ることを意味している。筆者は、日共問題の本質はここにあると見立てている。ここでは日共の最高幹部であった野坂、宮顕、不破のネオシオニスト性に言及する。よりによってこの3名こそが党内スパイ摘発に精勤し、他方で道理道徳を説いていたことが判明する。こうなると、口先に惑わされることのないよう厳認せねばなるまい。詳細はサイト「マルクス主義考」所収の「宮顕考」「野坂参三考」「不破考」で、それぞれの胡散臭さを確認している。

 「日共のネオシオニズム奴隷的本質こそ疑惑せよ」。これを「提言13の1」とする。

 「日共のネオシオニズム奴隷的本質」をどう立証するのか。それは、日共の理論と運動総体という在り姿そのものがネオシオニズム左派的な在り姿を示していることに留意すれば良い。しかし、この場合には、日本左派運動史及び日本共産党史を通覧せねばならない。筆者は、「マルクス主義考」所収の「戦前運動史考」「戦後運動史考」で確認している。それで十分とも思うが、長大文なので確認し辛い面がある。そこで、幾つかの決定的証拠で裏付けようと思う。以下、野坂、宮顕、不破につき、言い逃れの利かない事例を採り上げる。

 「野坂のネオシオニズム・エージェント容疑」 。これを「提言13の2」とする。

 野坂の場合、戦前の予審訊問調書で既にケッタイナ素性が確認できる。既に完全に屈服しており、不自然な形でていよく出所するや、戦前共産党の最高幹部の触れ込みでソ連に渡ってコミンテルンに入り込み、主として外事に関わり、時に米国、支那に出向いて、左派運動を指導すると見せかけては有能活動家を摘発するという良からぬことばかりしている。

 野坂のネオシオニストとしての決定的証拠は、コミンテルン時代の同志売りが一例である。これにより、山本懸蔵その他同志が処刑されたことが、野坂100歳の時の1992(平成4)年、小林峻一、加藤昭氏による週刊文春9-11月月号の連載で明らかにされた(1993年、「闇の男  野坂参三の百年」(文藝春秋)として出版される)。党中央はこれに抗弁できず、野坂はソ連のスパイだったとして日本共産党名誉議長を解任され、その後除名処分になった。

 野坂は他にもフリーメーソン疑惑が告発されている。久保田政男氏著「フリーメーソン」(徳間書店、1984.5.31日初版、P132)には次のように書かれている。
 「野坂参三は延安から米軍機で凱旋した。この野坂参三はフリーメーソンの線で動かされていた人物であり、アメリカへ渡ってはルーズベルトの朋友ゴンパース辺りの傘下にあり、延安に飛んでは中共軍とともに抗日戦を指揮していた。この野坂参三が、日本共産党とアメリカ占領軍フリーメーソン派とのパイプ役を果たすことはいともたやすいことではないか」。

 ここではフリーメーソンとあるが、より正確にはネオシオニズム特務機関の要員であったと読むべきだろう。他にも、伊藤律をスパイ容疑で拘束し、その後27年間幽閉する事件の主役を演じている。1955年の六全協で宮顕と党中央タッグを組んで以来は構造改革派、志賀派、親中共各派の党内反対派摘発に乗り出し、この間最高権威として君臨している。袴田は、戦前のリンチ仲間として党中央に登壇し、宮顕の片腕となって悪事を重ねたものの晩年になって除名されたが、いろんな機会に野坂の胡散臭さを指摘していることでも知られている。これらをつぶさに確認しようと思えば、上述のサイトを渉猟すればより分かろう。

 野坂の履歴を通覧して云えることは、一貫して数奇なスパイ活動に精勤していることである。或る時は日本の特高の内通者として、或る時は英国系、ソ連系、中国系、米国系エージェントとして五股に渉っている。日共はソ連のスパイだったとして除名したが、これでは野坂問題を何ら解決したことにはならない。筆者は、五股のエージェント活動を可能にしたのはネオシオニズム特務機関員であったことによると推定している。かなり高位のエージェントであり、為に最後まで身分が保障され続けたとみなしている。こう考えなければ辻褄が合わない。

 「宮顕のネオシオニズム・エージェント容疑」。これを「提言13の3」とする。

 野坂が除名されたのに比して、宮顕は未だに名誉議長として祀り上げられている。従って、宮顕問題は依然として現役ということになる。そもそも宮顕とは何者か。この認識に於いて重大な間違いを持ったまま戦後左派運動は推移してきている。宮顕支持派は無論として批判派の新左翼でさえ「戦前唯一の非転向革命家聖像」を前提としての批判に止まり、宮顕を左派圏の有能な指導者として位置づけた上で、そのステロタイプ的なスターリニズム性を批判すると云うスタンスで遇して来ている。こういう通俗本ばかりが流布されている。筆者は、その虚妄を論証している。

 筆者は、「戦前のリンチ事件考」で宮顕の胡散臭さを論証している。これを読めば、筆者の謂いの正しさが確認されよう。この観点が打ち出されて以降は、従前の陳腐な見解は歴史の屑箱に入れられるべきだろうが、筆者がこの観点を既に1999年段階で提起しているにも拘わらず、今日に至るまで無視されている。これが左派圏界隈の頭脳の質であるということになる。多くの学究者が居るにはいるが、学識ぶったり小難しく理論をこね回すのは得意なようではあるが、総合的俯瞰ができず仮にできてもお粗末過ぎる見立ての枠内で各論を競っているように見える。そういう全体としての認識が狂ったままの個々の分析は、例え小難しく語られていようとも案外その中身は薄っぺらなのではないかと考えている。

 2004.5.15日、「小林多喜二を売った男」(くらせみきお、白順社)が刊行され、戦前日共史の闇の部分である潜入スパイ問題に言及し、三船留吉に焦点を絞って「小林多喜二を売った男」とする観点から解明せんとしている。筆者は、くらせ氏とは逆の見立てで、三船家には迷惑な誹謗であり、「小林多喜二を売った男」は宮顕-蔵原ラインの方が本ボシであると見ている。宮顕の評価次第でこういう風に見解が異なってくることになる。

 筆者は、宮顕を、戦前は特高奥の院と通じスパイ摘発闘争で党内を大混乱に落とし入れ、遂に「小畑中央委員査問致死事件」を引き起こし、党内からの疑惑の声が強まるや自ら投降して獄中の身になったとみなしている。宮本百合子証言によれば、自身は取らせていないというのに、獄中で百合子の調書に目を通していたことが明らかにされている。何故にこういうことが可能であるのか。

 他にもある。岡田嘉子証言によれば、杉本良吉の樺太越境に関する獄中指示をしていたことが明らかにされている。筆者の検証によれば、宮顕は獄中で、堂々と党活動していたことになる。果たして、こういうことが可能であるのか。詳細はサイト「宮顕考」所収の「杉本.岡田の樺太越境事変への無責任教唆の闇検証」に記している。

 宮顕の獄中時代の変調さを証言されている。炙り出されるのは、宮顕の獄中生活の「差し入れ自由の豪奢な生活ぶり」である。他方、獄中下での同志との交流は奇妙なほどない。筆者は、宮顕は当初は別として途中から、用の有る時はともかくも普段は獄中に居なかった可能性さえあると疑惑している。網走刑務所での在監も終戦末期の春から夏の過ごし易い半年でしかなかった。にも拘らず「網走刑務所獄中12年、戦前唯一非転向闘士聖像」が生み出され、自らこの如意棒を振り回したことで知られている。

 これらは宮顕の特高奥の院との繫がりであるが、ならばネオシオニズムとどう繋がるのか。筆者は、戦後の不法釈放に始まる復権証明書の入手過程を疑惑している。この時、宮顕は、他の政治犯と違って殺人罪として併合犯であった為、GHQ指令の恩恵に与ることができなかった。そこで、生命危篤という緊急事由による不法出所で出獄している。後にこれを解決するために涙ぐましい努力をするが法的に救済する術がなかった。これをどうやって解決したか、ここが問題である。

 結論から述べると次のようになる。1946.1.20日、宮顕、袴田が「復権申請理由書」を提出。政府は、宮顕、袴田の「特赦」措置をとることについてGHQの指示を求めた。4月末、GHQは、恩赦によってではなく勅令第730号「政治犯人等の資格回復に関する件」(昭和20.12.29日公布)によって、公民権回復の措置をとるよう日本政府に指示している。日本政府は法理論上の整合性に苦慮し、GHQ指示に従うのを躊躇していた形跡が有る。

 この時、GHQ民政局法務部顧問ハワード・マイヤーズが登場し、強硬に「勅令第730号を適用すべし」と働きかけ、GHQの再度の指示によって日本政府も復権措置をとらざるをえなくなった。こうして、1946(昭和21).5.29日、宮顕、袴田両人に「復権証明書」が交付されている。問題はここにある。「急きょ登場してきたハワード・マイヤーズとはそも何者か」。窮地の時に真実が現われる。筆者は、宮顕と闇のラインの関係がはからずも露呈していると窺う。誰か、ハワード・マイヤーズを追ってみれば良い。宮顕は少なくともこの時点で、ネオシオニストの配下として立ち働くことを誓約したと窺う。詳細はサイト「宮顕考」所収の「戦後の釈放時の疑惑考、復権証明書の疑惑考」に記す。

 その後の宮顕の動きを見れば一目瞭然であろう。全てがネオシオニズム左派活動であり、その秘密請負使命を持って党中央を奪権し、普段は共産党的発言で煙に巻きカモフラージュするものの、ここ一番の際には本質を露にする。新左翼に対する撲滅指導、60年安保闘争時の逆指導然り、原水禁運動、部落解放運動、労組運動その他その他に於ける掣肘指導、極めつけはロッキード事件での異常な出張りであろう。

 「不破のネオシオニズム・エージェント容疑」。これを「提言13の4」とする。

 不破が「50年分裂」時代にスパイ疑惑で監禁査問されたことは知られている。詳細はサイト「戦後学生運動」所収の「東大国際派内査問事件考」に記す。この事件は、最終的に宮顕が乗り出し解決に導いている。数次の評定会議が開かれ、結局、次のように申し合わせて釈放した。
 「戸塚、不破に対するスパイの断罪、そしてそれに関連した高沢らの除名は取り消す。しかしこの過程で彼らには様々な非ボルシェヴィキ的要素が明らかになったので、全ての指導的地位に就かせることはしない」。

 こういう履歴を持つ不破が宮顕に登用され、ポスト宮顕の地位まで登りつめたのは周知の通りである。イカガワシイ話ではなかろうか。不破は、2005.8.20日、「私の戦後60年ー日本共産党議長の証言」を出版したが、この事件については一言も言及していない。オカシナことであろう。

 それはともかく、筆者は、思いがけぬところからオヤッと思った。それは、日共の政策委員長として権勢を振るってきた筆坂秀世が失脚させられ、離党後半年余の2006.4.20日、「日本共産党」題名の著作を発刊したが、その中で次のような記述がある。筆坂は何気なく次の事実を明らかにしている。
 「2004.11.17日、日共の不破夫妻が、東京元赤坂の迎賓館で、デンマークのマルグレーテ2世女王夫妻招待の夕食会に招かれ参列した。日本側の主賓は天皇皇后夫妻で、夕食会への参加は、日本の政党関係では不破夫妻だけだったとのこと。不破は、見知っている人として俳優の岡田真澄氏や外務省から宮内庁に移っていた役人がいたと伝えている云々」。

 筆者は、これは何なんだと思う。妙に引っかかるものがある。誰か、政界関係者の中でなぜ不破が選ばれて出向いたのか、この時の会の様子、参列名簿を調べてくれないだろうか。そうすれば、もう少し踏み込んだ解説ができるのだが。

 以上、「日共のネオシオニズム奴隷的本質」と題して、日共指導者の動かぬ証拠事例を採り上げた。本来は、日共理論と実践のネオシオニズム通謀奴隷性を語れば良いのだが、とりあえずこれに替えておく。それにしても歴代の日共代表が揃いも揃ってネオシオニズムの配下エージェントと云うことになり事態は重大である。誰かこう共認せんか。以上を提言13としておく。