皇道派将校録考 |
(れんだいこのショートメッセージ) | ||||||||||||||||||||||||
ここで、皇道派名将録を確認する。2・26事件の中心人物とされる将校は安藤輝三大尉、栗原安秀中尉、菅波三郎大尉、野中四郎大尉などである(階級は決起時のもの)。この中で特に安藤大尉は部下からカリスマ的な人気を得ていたようである。彼は平素から部下と親身に接し、自らの思想を熱心に説き、部隊を「同志」として結束させていた。(お墓は野中さん岡山、村中さん仙台、磯部さん東京、安藤さん仙台、相澤さん仙台) 2011.6.4日 れんだいこ拝 |
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「引き裂かれた時を越えて――「二・二六事件」に殉じた兄よ」のバックナンバー
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Re::れんだいこのカンテラ時評934 | れんだいこ | 2011/06/07 |
【陸軍皇道派の有能人士考】 2.26事件で陸軍皇道派が一網打尽的に潰された。これは確認された史実であるが、確認されていない面があるように思われる。それは、皇道派の青年将校の行動がクーデターであったのは論をまたないとして、皇道派の軍人能力、政治能力は如何なものであったのかの問題に関してである。通説の卑下的評価は正しいのだろうか。政治能力は議論がややこしくなのるでひとまず措くとして、軍人能力に於いては極めて優秀な部隊統率能力を示しているケースが多く、青年将校のいずれもが部隊に信任厚い有能人士であったかを示している。こうなると、皇道派への悪口三昧的評価の見直しをせねばならぬのではなかろうか。これが本稿の問いである。 これを証しようにも、一番肝心の面々が首謀者として死刑に処せられておるからして調べようがない。とすると、禁錮刑で生き残った兵のその後の生態及び軍歴で証左する以外にない。生き残り兵にしてかくもの優秀さが証明されれば、処刑された青年将校ともなると更に優秀だった可能性があり、それを明らかにすることは遅きに失したとはいえ弔いにはなるであろう。 もう一つは、青年将校達に影響を与えていた皇道派トップの能力を精査し、彼らの優秀さを証すれば、その薫陶に服していた青年将校も同じく優秀だった可能性があると云うことになるのではなかろうか。皇道派のトップリーダ―は真崎甚三郎・陸軍大将、荒木貞夫・陸軍大将、山下奉文・陸軍大将、小畑敏四郎・陸軍中将である。彼らは陸軍の最高要職故に処罰が手加減され死刑を逃れた。その彼らのその後の生態及び軍歴で優秀さが確認できれば間接的証明になるだろう。 この面の論証が行われているように思われない。なぜなら危険であるからである。2.26事件の正当性を語れば、事件叛乱者が真に撃とうとしていたのは国際金融資本帝国主義であり、彼らに溶解されつつある祖国日本救済を至念していたことを明らかにすることになる。今現在に於いて戦勝側である彼らが許すべくもない。臭いものには蓋をして、知らしむべからず拠らしむべしを旨とする支配の琴線に触れよう。 そういう理由でと思われるが、2.26事件を語ることは未だにタブーのように思われる。爾来、こう云う風に隠蔽されると封切りしたくなるのが、れんだいこの性分である故に、蓋を開けることにする。サイトは「補足・皇道派名将録考」に記す。未だ書きつけ始めたばかりである。 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/rekishi/kindaishico/kodohaco.htm) 皇道派のトップリーダ―真崎、荒木、山下、小畑は共通して、2.26事件後閑職に追いやられている。次第に大東亜戦争に誘い込まれて行く成り行きを危ぶんでいる。その閑職期、それぞれが潔い身の処し方の中でも有能な立ち働きを示している。中でも「マレーの虎」と云われた山下大将は皇道派の鏡とも云うべき範を垂れている。2.26事件後左遷されたものの、太平洋戦争勃発時には、海軍の真珠湾奇襲と呼応するコンビプレーの最重要作戦として、ここ一番のシンガポール攻略戦で起用され、史上稀なる名作戦で勝利に導いている。 本来なら陸軍中央に凱旋し重用されるべきであったが、あろうことか用済みとばかりに満州へ転任させられ、以降、大きな作戦を任されていない。このことは何を意味するのだろうか。こういう変調な指揮が戦史のいたるところに認められる。ところが敗色濃厚となるや再度南方作戦に駆り出され、最後のご奉公とばかりに奮闘努力している。敗戦となるやすぐさま戦犯としてフィリピンのマニラで軍事裁判にかけられ、捏造された容疑で指導責任を負わされ、絞首刑されている(享年60歳)。 山下は法廷で一切の弁明を行わず簡明な雄弁をもって陳述している。「日本の軍体系の非能率の結果として、私は指揮を統一することができなかった。日本の連絡網は極めて貧弱であった。私は、次第に情況から切り離されることになり、接触感を失ってしまった。そのような状態のもとで、自分の為し得る限り最善の働きをした、と私は確信する。私は如何なる虐殺をも指令しなかった。私は私の軍団を指揮するために最大限の努力を払った」、「私に責任がないわけではない」、「私が自決したのでは責任を取る者がいなくて残った者に迷惑をかける」云々。 小畑敏四郎を例証する。2・26事件後、辞表を提出している。すぐさま予備役に編入されている。日中戦争にあたって第14師団長となったが健康上の問題で召集解除となった。1945.9.2日の降伏文書調印式に、陸軍参謀総長の梅津美治郎を督励して、「今更敗けた陸軍に何の面目があるのだ。降伏の調印に参謀総長が行くのが嫌なら、陸軍の代表として私が行っても良いぞ」と叱り飛ばし出席させている。梅津に対して対等以上の貫禄があったことが読み取れる。その後、近衛文麿の推薦で東久邇宮内閣で国務大臣を務めている。1947(昭和22).1.10日、死去(享年61歳)。注目すべきは、小畑は大東亜戦争指導者を終始冷やかに眺めている素振りが見えることであり、山下同様に肝腎の時には駆り出され一働きしていることである。 もう一人挙げておく。事件後自害した野中四郎の弟の野中五郎の生きざまも壮烈である。事件の為に何かと苦労したと云う。 大東亜戦争開戦時にはハワイ真珠湾攻撃。続いて、フィリピン島クラークフィールド基地攻撃、香港攻撃、コレヒドール攻撃、ポート・ダ゛―ウィング攻撃、ギルバート諸島沖航空戦、マーシャル諸島沖航空戦、アッツ島艦船攻撃、ガダルカナル島飛行場攻撃などに転戦に転戦を重ねている。 最後は、人間ロケット爆弾「桜花」による特攻の第721海軍航空隊(神雷部隊)の陸攻隊隊長となり指揮を執っている。「桜花」の欠陥を看破し「この槍、使い難し」、「日本一上手い自分が攻撃をかけても必ず全滅する」と予言、特攻そのものに批判的であり、たとえ国賊と罵られても桜花作戦を止めさせたいと考えていたと云う。「部下たちだけを突入させて帰って来られるか、自分も体当たりする」との親分肌で接し、故に彼の率いる部隊は「野中一家」と呼ばれたほど堅い絆で結ばれていた。1945.3.21日、第一神風特別攻撃隊(神雷部隊)に出撃命令が下され出撃した。米空母部隊に攻撃を試みるも野中予言の通り、次から次と迎撃戦闘機に撃墜され全滅戦死した(享年35歳)。野中隊の最期は米戦闘機のガンカメラに収められ、今でも鮮明なカラー映像で見ることができる。 こういうことを何の為に語ろうとしてるのか。既に述べたが、皇道派の精神には何の曇りもなく、御国に生命を捧げていることを確認せんとしようとしている。仮に2.26事件の青年将校が処刑されずに居たら、生き残った兵士以上の活躍をし、戦局はもっと違った展開になっていたのではなかろうか。それは何も戦勝祈願の見地から云うのではない。開戦となれば生命を捧げるも、開戦前の国際情勢の読み方、外交交渉の駆け引き等々においても史実と違う展開を呼び込んでいたのではなかろうか。そういう可能性があり得たのではなかろうかと愚考したい訳である。 思えば、大東亜戦争は、皇道派と対立する統制派の指揮下で担われたことになる。それは、皇道派の能力を干し、皇道派を封殺したままの聖戦に過ぎなかった故に、軍事能力的に見れば片肺飛行であった。大政翼賛会運動で国を挙げて突き進んだが粗脳船頭ばかり多い危ういものであった。しかも、統制派の内部は既にかなりな程度に国際金融資本エージェント網に浸食されていた。皇道派にはそういうことが見られない。ここが皇道派と統制派の大きな違いであろう。とするなら、大東亜戦争の帰趨は、知る者にはかなり早くから見えていたのではないのか。そういうことを考えるのも一興であろう。 ちなみに、戦前軍部の戦史犯罪が認められるとしたなら、それは統制派的軍規の弛緩によるものであり、皇道派の指揮下では有り得なかった。戦前軍部の戦史善政が認められるとしたなら、それは皇道派的規律によるものである。これはさすがに云い過ぎだろうか。そうまで云いたくなるほどに皇道派の正義と能力が認められるのであり、このことはもっと正当に評価されて然るべきだろう。皇道派を悪しざまに罵ることで左派証明している者が居るとしたら典型的なサヨであろう。こう云う風に考えると、政治状況は戦前も戦後も今もそんなに変わっていないということになる。 2011.6.7日 れんだいこ拝 > rendaico れんだいこ > れんだいこブログの自己評。論旨がはっきりしている点が良いですね。長大饒舌文で何を云っているのか分からない煙巻き論法に比してすっきりする。論旨の是非は別にして議論資料に値する。なんちゃって。 |
第2次処断 |
自決組 |
野中四郎・海軍大佐(36期) | |
河野寿・航空兵大尉 |
死刑組 |
無期禁錮組 |
【麦屋清済・歩兵少尉(**期)考】 | |
麦屋清済・歩兵少尉。 禁固刑を終え、終戦後、次のような書付を残している。
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【常盤稔・歩兵少尉(47期)考】 |
常盤稔・歩兵少尉(歩兵第3連隊、47期) |
【鈴木金次郎・歩兵少尉(47期)考】 |
鈴木金次郎・歩兵少尉(歩兵第3連隊、47期) |
【清原康平・歩兵少尉(47期)考】 |
清原康平・歩兵少尉(歩兵第3連隊、47期) |
【池田俊彦・歩兵少尉(47期)考】 |
池田俊彦・歩兵少尉(歩兵第1連隊、47期) |
禁錮4年組 |
【今泉義道・歩兵少尉(47期)考】 |
今泉義道・歩兵少尉(近衛歩兵第3連隊、47期) |
第2次処断 | 禁固組 |
新井勲・歩兵中尉(歩兵第3連隊) |
鈴木五郎・一等主計(歩兵第6連隊) |
柳下良二・歩兵中尉(歩兵第3連隊) |
井上辰雄・歩兵中尉(豊橋陸軍教導学校) |
塩田淑夫・歩兵中尉(歩兵第8連隊) |
菅波三郎・歩兵大尉(37期) |
斎藤瀏・予備役少将(12期) |
大蔵栄一歩兵大尉(羅南歩兵第73連隊、37期) |
末松太平・歩兵大尉(39期) |
満井佐吉・歩兵中佐(26期) |
志村睦城・歩兵中尉 |
志岐孝人・歩兵中尉 |
福井幸 |
町田専蔵 |
越村捨次郎 |
加藤春海 |
宮本正之 |
佐藤正三 |
宮本誠三 |
杉田省吾。 |
【黒崎貞明・歩兵中尉】 |
並木徹・氏の「(2・26事件を考える)花ある風景(301)」を参照する。 黒崎貞明著「恋闕」(日本工業新聞刊・昭和55年2月26日発行)。黒崎氏は2.26事件に連座した要注意青年将校。陸士45期で昭和4年4月陸士入校、昭和8年7月卒業と4年4ヶ月在学。徳島歩兵43連隊。2.26日事件が起きた時、黒崎中尉は奉天にある満州第一独立守備隊司令部の情報係将校であった。事件については事前に知らなかった。2.28日、決起部隊が反乱部隊とされるや、満州の各部隊にいた要注意将校が一斉に逮捕され、黒崎氏も捕まった。時の関東軍憲兵司令官は東条英機少将(陸士17期・昭和10年9月就任)。「日本憲兵外史」のエピソード。捕まった中に奉天野戦兵器廠の西山敬九郎砲兵少佐がいた。西山少佐は満州事変の殊勲により功五級の金鵄勲章を授与され、当時の年金350円を部下の困窮留守宅へ送金していた血も涙もある武人であった。憲兵隊はその扱いに苦慮し結局釈放した。黒崎中尉は代々木刑務所に護送され取り調べを受ける。刑務所内では手旗信号やモール信号で挨拶したり励ましあったりしたという。7.12日、この刑務所の中で青年将校処刑の銃声を聞く。同期生の野重7連隊の田中勝中尉と砲工学校学生だった安田優少尉(陸士46期)は刑務所を出る際、黒崎氏に向かって「死ぬなよ。後を頼む」と強い口調で叫んで刑場の露と消えた。黒崎氏が不起訴で釈放の日、北一輝は「当分戦争はしてはいけません。ことに支那とはネ。これは北の遺言です」といった。代々木刑務所をでる時、陸軍大臣あての誓約書に対し「軍人として本分にもとるようなことをしたつもりはない。ここで署名をすることは刑務所に残っている同士も軍人の本分にもとっていることになる」と署名を拒否する。その反骨精神が上司から信任され、部下から信頼されることになる。原隊復帰―停職―復職―黒崎遊撃隊組織―満州題独立守備隊題15中隊第4中隊長となる。大尉に進級。この時、第一独立守備隊司令官からチチハル駐屯の第7師団長に栄転された園部和一郎中将(陸士16期・陸大25期恩賜)から陸大進学を勧められる。陸大の初審は昭和14年3月7新団司令部で行われた。第1次試験に合格後もノモンハン事件で奮戦する。2・26で刑務所に入った者は合格させないであろうと言われていたが、11月末の第2次試験で三笠宮崇仁殿下(陸士48期)とともに合格する。陸大55期で70名が合格した(昭和17年)。陸士の教育について黒崎さんは「国家護持の大任に当たるものは、自ら最大の犠牲者たることをむねとせよ」、「日本の保全と発展は、国民が天皇のもとに団結し,その秩序を守って協力することによってのみ求められる」の二つの信念が育成されるように教育が行われたという。東条関東軍憲兵司令官に「黒崎中尉、不逞の輩と気脈を通じたこと不届きである」と言われた時、「不逞の輩とは承服できません。私は反乱を起こそうと思ったこともありません」と抗議している。満州で黒崎遊撃退を組織して大活躍し、陸大に進み、参謀となって死闘を続けるガダルカナル戦を指導、終戦時には東条英機大将に自決せずに天皇陛下に責任がいかないよう戦争裁判に出て戦争の全責任をかぶってほしいと勧告する。波乱万丈の人生を経ている。 |
【「二・二六事件と郷土兵」】 |
「二・二六事件と郷土兵」(埼玉県県史編さん室編集)。2.26日事件に巻き込まれた埼玉県出身の下士官、兵士たちの手記。畑和知事(当時)が発刊の動機について述べている。約70人の手記で、将校ではなく兵士の立場から見た事件記録を残しており貴重な資料となっている。「政治が悪いと全てが狂ってしまうものである。これは現代でも同様のはずだ」(元2等兵)。 |
【2006年、新たに遺書が見つかる】 |
2005.7.12日、2・26事件」で処刑された陸軍の青年将校ら17人分の遺書45枚が69年ぶりに見つかった。仙台市太白区の平田俊夫(77)が自宅に保管していたもので、将校らの遺族で作る「仏心会」に届けられた。平田さんによると、1930年代後半、父・平治さんを「花淵」という友人が訪ね、「今は公にできないので預かってほしい」と油紙に包んだ遺書の束を置いていったという。花淵氏はもともと仙台の陸軍師団に勤務しており、事件後、東京の陸軍刑務所に看守として派遣され、捕らえられた青年将校らの世話をしていた。76年刊行の「私の二・二六事件」(河野司著、河出書房新社)によると、応援要員で「花淵栄吉」という看守が派遣されており、この人物が花淵氏とみられる。花淵氏、平治さんとも65年ごろまでに死去、遺書は平田さんの手元に残された。「仏心会」世話役の安田善三郎さん(79)(神奈川県葉山町)が、筆跡などから青年将校らの直筆と確認した。2・26事件に関し青年将校らの肉親あての遺書や手記をまとめた本の多くは昭和30〜40年代に出版されているが、新たに肉筆の遺書が発見されたことになる。遺書は署名とともに毛筆で書かれている。 |
【2011年、新たに遺書が見つかる】 |
2011.2.26日、事件から75年目、「二・二六」将校の青年将校ら13人が、死刑執行まで収容された東京陸軍衛戍(えいじゅ)刑務所の看守に宛てた遺書が新たに見つかった。国家社会主義者の北一輝や栗原安秀中尉ら指導的な22人が永眠する賢崇寺(東京都)で、将校の遺族らに公開された。看守への遺書は、別の看守3人に渡したものが知られる。将校の遺族で作る「仏心会」世話人の安田善三郎さん(85)は「内容は3人宛ての遺書と同じだが、4人目の存在は初めて知った」と言う。「4人目」は、97年に亡くなった奈良県の野依(のより)音松さん。36年3月に看守に着任し、事件後60年以上、遺書を保管してきた。孫の宏人さん(47)が09年10月に賢崇寺に納めた。宏人さんは「祖父は私が高校生の時に遺書を見せて『立派な方々だった。このことは世間には言うな。言うと大変なことになる』といましめた」と話す。 |
【水上源一(みなかみ・げんいち)】 | ||||||||||||||||||||||
民間人。明治41年9月28日-昭和11年7月12日。2・26事件の判決により銃殺刑。1936(昭和11).7.12日没、亨年27歳。 | ||||||||||||||||||||||
遺詠 「国の為 よゝぎの露と 消るとも 天より吾は 国を守らん 大御心 雲さいぎりて 民枯る 死しても吾は 雲をはらわん 昭和十一年七月八日」 |
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水上源一氏に対する三島の憲兵隊の調書の終わりの部分。(「二・二六事件「獄中手記・遺書」」参照)
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