論告に対する反駁・竹嶌継夫 「斯くすることが大御心に副い奉る」 |
今まで公判廷で申上げたことは一点の偽もありませんが、これが最後と思いますから、他の者に及ばぬかも知れませんが、考えて居ることを述べます。
私どもの蹶起により上京し事実においては種々な謀議をやっていますが、豊橋の最古参として仮令たとえ自分の與あずからぬ計画があっても責任を負う考えであります。絶対に民主革命を企図したものではありません。自分の心が大御心たりとの不逞の根性はありません。ただ 斯くすることが大御心に副い奉る所以なるべしと考えたのみであります。勝手に判断して大御心を僭上したのでは絶対ありません。大臣告示、戒厳司令官の隷下に編入せられたことは、大光明に照らされたような気がいたしました。故にその後の行動は軍隊としての行動であります。頑張って一定地域を占拠したものではありません。告示は戒厳司令部が説得要領としてた強弁せられますが、
われわれは神聖なる告示と考えました。また 二十九日まで総ての者が説得したように強弁せられますが、激励ばかりを皆の人から受けたのであります。兵力使用の点については、豊橋において皆必死に議論いたしました。これが統帥権干犯なることは明かでありますが、統帥権の根源を犯されていては、統帥権全部が駄目になるが故に末を紊みだして根源を擁護せんとしたのであります。ちょうど毒蛇に噛まれ手首を切断し
命を助ける同筆法であります。もちろんそのことに対しての責任は充分に負います。残虐な殺害方法だとのお叱りを受けましたが、残虐をなすつもりでやったものではなく、若い者が一途に悪を誅するための天誅の迸ほとばしりに出たことで、一概に残虐と片づけるのは酷なことと存じます。本年
命を終るに際し、事志と違い 逆賊となり、修養の足らぬ心を 深く 陛下にお詫び申上げる次第であります。 |
貴様が止めなくて一体だれがとめるんだ |
西田ほどの奴が、これほどまでに決心したのだから、恐らくもう止められないだろう。 と 岩崎は察した。しかし西田の言葉の中から、竹嶌という名を聞いて、今度は岩崎が驚く。「
なに、竹嶌が仲間になっていると。あいつは確か豊橋のはずだが・・・・」。これには岩崎が愕然となった。竹嶌継夫中尉は、岩崎が陸士区隊長時代の教え子であったからだ。竹嶌は幼年学校以来陸士卒業まで、同期生中つねにトップであった第四十期生の逸材で、岩崎がその将来を最も嘱望していた男だった。岩崎は膝を乗り出していった。「
西田、頼む、せめて竹島だけでも止めてくれ。今東京に来ているのか ? 」。西田は淋しそうに首を横に振った。「俺にも計画の内容はわからないのだ」。「そんな馬鹿な。貴様にろくな相談もせず、奴らは一体何をやろうとしているのだ」。岩崎はどうしても竹島中尉だけは助けたかった。 |
井上手記 |
かくして 興津・西園寺公望、襲撃は中止された |
豊橋教導学校は、歩、騎、砲の三兵科の下士官学生養成学校で、校長 林茂清少将は無天組ではあるが、なかなか政治力のある人 (教育総監部畑) で、自分の陸士生徒隊長時代の教え子をどんどん引張ってきたので、豊橋には相当人材が集まった。對馬、竹嶌らは林校長を相手に、あるいは自分らの中隊長石井少佐を相手に相当突込んだ維新運動に関連する意見を申出ていたが、林、石井の人物がよく、
これら青年将校を指導し、軽挙を戒めていた。このころ所謂十月事件、三月事件等 陸軍部内の幕僚ファッショ事件にからむ諸事件で、村中大尉、磯部一等主計の
「 粛軍ニ関スル意見書 」が配布せられ、對馬中尉を介して我等机を隣せる者は逸早いちはやく手にした。相沢事件が公判に入るに及んで村中、磯部、渋川氏の傍聴記事は小新聞
(「 大眼目 」 ) として その都度配布され、維新運動に対する関心は異常な速度で此の学校を啓蒙して行った。三学生部を統帥していた林少将は昭和十年中将に昇進して転任し、後任に中井武三少将が来り、また
石井中隊長も早川少佐と交替した。この人事は不幸にして統率力を急激に低下させ、青年将校の暴走を許す結果となった。
①對馬勝雄中尉=徹底した革新思想の持主で、本事件に於ける吉田松陰的存在であったと思う。富士の野営演習で余(井上) は 偶然 「 對馬勝雄行 」
と 書いた葉書を見て驚いて反転すると、青森の郷里の地主よりの 中傷的文面である。此の時 何かしら不吉な感じを独り抱いた。此の社会的環境と体験が健兵対策として維新しかないとの信条に立っていたと思う。
②竹嶌継夫中尉=悠々迫らぬ如き中に激しい実行力がある。思想的には禅味を帯び、他面 純情型な、物の思考をする人であった。
③板垣徹中尉=胆きもの人で、 維新の同志として對馬氏と相許したが、感情に動く人ではなく、あくまで相沢精神での革新で、常に對馬氏等の暴走を抑えつつ
ざん漸進的粛軍維新を考えるひとで、人にも働き掛ける事はなかった。
④
塩田淑夫中尉=井上中尉とは同期生だが、陸士当時は病気で一期遅れている。彼の語る所では、歩兵学校当時は栗原安秀中尉との交友による関係で維新運動を呼号していた。
⑤
鈴木五郎一等主計=二十五日の処理の時点で初面会、過去にも一切交友なし。感ずる所、磯部氏の親友としての存在であろう。
以上の如くして對馬、竹嶌両中尉は教導学校の同中隊勤務で朝夕親しく接し、殊に對馬中尉の公私に於ける全力投球の活動 即ち 隊務に対する熱心と維新運動に於ける活動、然して人間的親しみは、
正に我等の尊信しつつ来った吉田松陰は此んな型の人ではなかったろうかと感じた。竹嶋中尉はいわゆる銀時計秀才で、豪放淡泊な行状で好ましい人柄であった。板垣中尉は幼年学校以来の先輩で、重厚な人柄は信頼できた。此の様な事で維新同志という如くむずかしい事ではなく、親しみ易い、
立派な先輩として交友を深めた。
昭和十年の夏だった。竹嶌、對馬両中尉が清見寺(興津の近く) から坐漁荘(興津の西園寺別邸) を 見て来たと略図を見せた事があった。余は物好きな事だ
くらいで、さして気にもしなかった。また或る時、これも夏だったが、對馬中尉は、第三師団留守師団長下元さんが、維新の時は留守師団を率いて上京する、と言われたと話していた。そんなことを何で言うのだろうとさして気にもしなかった。
事件直前の状況について--- 磯部氏が二月十九日 豊橋に来る。わが中隊事務室に来た。私が演習から帰ると、中隊区隊長室に区隊長連中が大勢集まっている。私は磯部氏と面識もないし、
また中隊の実際上の切り盛りをやっているのは自分と自負していたから、さっさと仕事に出て行ったので何の話か知らぬが、緊迫した情勢を説明していたことと思う。二月二十二日、下宿で本を読んでいると、竹嶌と對馬が階下の路地から呼びかけて、今夜チョット對馬の家に来てくれ、と言った。對馬は産褥熱(さんじょくねつ)の夫人を静岡の実家に帰していた。余が夕食を済ませて對馬の家に出かけると、竹嶌と對馬とが深刻な顔をして坐っていた。これからは決行参加についての相談となる。
對馬から井上に切り出した。国内情勢は切迫している。 東京ではいよいよ蹶起する事になった。我等も豊橋部隊として兵力を使用して立つ。下士官兵もいざという時は立つと云っている。貴公参加してくれるか、との事だ。正直な話
これには余(井上) は いささか面喰った。今日迄の余の行動と言葉は、あるいは両氏よりせば同志と考えられたかも知れぬ。しかし 余の今日迄の行状は武人として
K・D・T ( ドイツ語の略で幼年学校 ) の精神で一貫して来たのである。然し 答えねばならぬ。「 それは私としては困る。 私は貴方がたのような認識がない。かといって私が反対した場合、果して言葉のようであれば大事を阻止する事になる---兵隊を連れて行く事に対しての悩み---。よし、夫れでは私は貴方がたの認識を私の認識として私の身体を上げましょう
」。余は簡単にかく返事してしまった。そして自らもそれで割切った。今にして思えば、此の返事の出た事を不思議に思うが、これは私の生立ちと指向がかくしたもので、困った時は分の悪い方を取れ、馬鹿ではあつても利己主義の卑怯さは逃れる---これであった。板垣も来たが保留すると言って帰った。これが對馬中尉の言葉であった。やがて塩田(淑夫)
中尉が来た。
彼は已に話が出来ていたと見えて洒然しゃぜんとした様子。かくしてただちに会議が始まった。
一、 夏にとつた坐漁荘の見取図を拡げて、これが襲撃方法、それは赤穂義士のそれと同じだ。唯、老公(西園寺) を消す事には結論が出なかった様に記憶する。
二、 要は興津迄に至る方法
① 自動車トラツクを髙師原練兵場に集合・・・・午後□時鈴木主計連絡
② 部隊 教導学校--歩兵学生隊第一中隊夜間演習より移行。
午前四時迄に興津。東京御前五時と呼応して五時突入。
③ 襲撃後、一路東上。三島で或は妨害があるかも知れぬ、箱根で切腹も覚悟せねばならぬ。
④ 夜食その他の手配は夫々それぞれが分担。
⑤ 軍資金として百円受取った (記憶不充分) 流石に緊迫した気持の内に話を打切り解散した。
---謀議をしたという事はこれであって、生命を両氏というか、むしろ對馬中尉に殉ずるという気持であるから、余の意見はもうあまり云う気持もなかった---・
二月二十三日(日曜)
余は週番勤務に服した。板垣中尉も週番であった。将校集会所で朝食をした。板垣中尉が「 井上、今日 東京から栗原が来るそうだが、会いに行くか 」と
問うた。余は「 私は行かない、私は對馬さんに殉ずると言っているから必要はない 」と 答えた。板垣氏「 竹嶌さんもそう言っている。僕は對馬が栗原に躍らされはしないかと心配する
」と 首を傾げた。この頃に関連しては、栗原が二十三日東京から汽車で豊橋に行き、駅前の 「 つぼや旅館 」 に 對馬と竹嶌を呼び出し、日時、合言葉その他決行の打合せをし、小銃実包約二千発と百円を手渡した。栗原は、その晩一泊して二十四日早朝に東京へ帰っている。
二月二十四日。
暇を貰って下宿に帰り、書類から一切整理する。軍刀、拳銃を持参し、これが見納めと万一の場合に恥なき様、十分点検して下宿を後に帰校、週番勤務を続行する。
二月二十五日。
新任の浦茂中尉と計画した演習を高師原で行う。午後計画に基き、小夜食として大福餅、鳥賊するめを指定店より夜間演習用として購入、指定の箇所に持参せしむ。浦中尉は一切知らず、学生ま未だ知らず・・・・これらは東京と随分差があった。最後の演習として心なし総てが最後の様だ。
午後三時半頃、小便来り 「 對馬中尉より至急帰れ 」 との連絡。帰れば週番士官室は唯ならぬ空気。板垣中尉、對馬中尉、竹嶌中尉対決、殺気漲みなぎる激論中。板垣中尉「
兵力使用は大権の冒瀆である。やるなら一人でやれ。相沢精神は認むるが、然し 現状に於て状況はそこまで行っておるのか。どうしても貴様が兵力を使用するなら、俺も兵力を以て阻止する
」。對馬中尉「 今迄 同志として行を共にして来て、今更そんな態度に出るとは思わなかった。兵力を使用せねば、血盟団、五・一五と同じではないか。大事を誤るものだ
」と 悲痛な叫びである。板垣中尉の友情、對馬中尉の悲憤、ビリビリ余には解る。對馬氏は余に向けた。「 井上はどう思うか 」。余「 兵力使用に関しては、天皇にも雲がかかる事もあるでしょうから、絶対とは云えないと思うが 」。對馬中尉、そうだ、その通りだ、と勢いづく。板垣中尉の眼が グッと余を睨む。對馬「 然し、兵力で阻止するとなれば企図暴露だ。奥津が中止となれば、東京がやるかは判らぬ。板垣、貴様は企図暴露はせぬだろうな?」。板垣「 そんな事は絶対せぬ 」。竹嶌「 それでは単独上京しよう。井上はどうするか?」。余「 私は兵力使用によればこそ参加したが、下士官兵が動かぬ以上は個人である。個人の意志としては上京せぬ 」と 明確に云い放った。余「 ただし、後始末は責任もって企図暴露せぬ如く致しましょう
」。對馬、竹嶌「 よし、今から上京すれば東京部隊が行動を起す前に間に合う。上京しよう 」。かくして興津襲撃は中止された。
完全武装して来た余は、對馬、竹嶌中尉を送り、「 自重して頂きたい。 亦、万一の時、夫れでは具合が悪い 」と 余は、指揮刀無腰の両氏に余の拳銃と軍刀とを手渡した。両氏は、ほっとした様な表情で出発した。事務室外で別れた。元老襲撃中止に依り、あるいは東京も中止されるであろう。左様祈って見送ったのが佯いつわらぬ私の心境であった。
---豊橋部隊は對馬中尉が事実中核であった。對馬中尉の情熱と人柄と実行力が竹嶌を、余を、彼に殉ずるの心境に引率した。ただ、親友板垣氏も東京方面の活動家の人々への信頼度が聊いささか欠けたる事と、武人として生長した板垣氏、生まれつき革新児たらざるべからざる環境に人となった對馬氏の過程が、此の分岐点の時に明瞭に対立した。然し、飽く迄
二人は親友に生きた--- 余は、興津中止では大勢はやれぬだろう ( 註。決行不可能の情勢、の意か )陰謀の秘匿が絶対必要だ、 と 思い、夜陰を待って先ず
高師原の藤並に走った。間もなくハイヤー来り、将校が降りた。鈴木(五郎) 主計である。 初対面。簡単に 「 中止 」 された事を告げ、共に学校傍の増田屋に至り、一室で事の経緯を説明し、企図の秘匿に全力を尽す事を約した。直ちに竹嶋氏下宿に至り小銃弾を軍用行李こうりに入れた。竹嶌氏との別れに際して小銃弾が下宿にある旨を聞いたがためである。(
二十三日、栗原より渡された小銃実包約二千発 )行李はハイヤーで学校の区隊長室に運搬して保管し、 三月五日に逮捕されるまで見張った。演習場に運搬しありし大福餅は学校に持ち帰らしめ
全学生に喫食せしむ。異例の事とて学生大いに喜ぶ。夜は千々ちぢの思いと、何かしら気抜けた如き感じの中に一夜を明かす。 |
あをぐもの涯に (八) 竹嶌継夫 |
吾れ誤てり、噫、我れ誤てり。自分の愚な為是れが御忠義だと一途に思ひ込んで、家の事や母の事、弟達の事、気にかかりつつも涙を呑んで飛び込んでしまった。然るに其の結果は遂に此の通りの悲痛事に終わった。噫、何たる事か、今更ら悔いても及ばぬ事と諦める心の底から、押へても押へても湧き上る痛恨悲憤の涙、微衷せめても天に通ぜよ。
あてにもならぬ人の口を信じ、どうにもならぬ世の中で飛び出して見たのは愚かであつた。身を保ち、家を斉ととのへ、父母に孝に、兄弟に友に、是れ まことの忠の道であつた。何といふ馬鹿者か、親を捨て、弟を捨て、家を捨て、身を捨て、すべてを捨てて残つたものは君への不忠、親への不孝、世の嘲笑、
そして身は死刑だ。後はどうなるのか、 安心して行けぬ。泣くにも泣けず、笑ふにも笑へず、しらじらしき世、空虚な世、あぢきなき世、始めて 始めて人生の無意義を知る。
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私は満洲にあった第二師団に属し奉天に駐屯していたが、当時聯隊旗手でした。満洲事変の勃発した九月十八日夜から十九日にかけては軍旗を奉じて奉天城の攻略に参加しました。そこではいくたの戦友の血が流されました。私は戦友たちの尊い犠牲を無駄にしてはならぬと思いました。その後聯隊本部にあって各種の情報を見る機会を与えられましたが、政府の内外にわたる事変態度から眼は国内に向けられ心はその政治のあり方に疑問を生むに至りました。いわば戦争状態と国内政治体制との矛盾を発見したとが、私が国家革新へと志向した動機となりました。
・獄中で・
彼はその初陣において血をもって自覚したものが、国内政治への開眼であり、また それから維新運動に挺身するに至ったというのである。彼は昭和八年一月満洲より帰還後は、聯隊の先輩植田、松平等と 皇道維新塾をつくり、地方青年の育成に力を用いたが、間もなく豊橋に転じてからは、同じ区隊長として對馬勝雄と机をならぺるに及んで、愈々国家革新の熱をあげていた。実母が東京淀橋区上落合に居住していたので、しばしば休暇あるいは衛戍線外外出の許可を得て上京し、その機会に村中、磯部、渋川などの錚々たる闘士に接し 維新発動を待機していた。豊橋における西園寺襲撃を中止し對馬と共に上京、二十六日午前二時頃歩一に入ったが、爾来、陸相官邸、首相官邸、農相官邸、幸楽、山王ホテルなどに居り、反乱首脳部と行動を共にしていたが、部隊の指揮に任じたことはなかった。「豊橋方面の関係については、自分が先任者として指導したものであるから、自分に全責任を負わしめられたい」と、その意見を述べていた。
豊橋市に妻子と共に住んでいたが、事件参加を決意するや、出動数日前に妻を離別し後顧の憂をたっている。 |