磯部浅一・一等主計(38期) |
更新日/2021(平成31.5.1日より栄和改元/栄和3).4.23日
【以前の流れは、「2.26事件史その4、処刑考」の項に記す】
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、皇道派名将録「磯部浅一・一等主計(38期)」を確認する。(お墓は野中さん岡山、村中さん仙台、磯部さん東京、安藤さん仙台、相澤さん仙台) 2011.6.4日 れんだいこ拝 |
死刑組 |
【磯部浅一プロフィール】 (元陸軍一等主計)(38期) |
日本の陸軍軍人、一等主計(38期)。1905(明治38).4.1日、山口県大津郡菱海村(現長門市)大字河原に農業兼左官の磯部仁三郎の三男として生まれた。2・26事件の判決により銃殺刑。1937(昭和12).8.19日没、享年32歳。国家社会主義者。陸軍中尉昇進後に陸軍経理学校に学び卒業して陸軍主計官として階級は陸軍一等主計に至る。陸軍士官学校事件に連座し、停職処分を受ける。「粛軍に関する意見書」を執筆して免官。後に二・二六事件に際して首謀者と目され、銃殺に処される。 |
【磯部浅一・一等主計(38期)考】 | |
1905(明治38).4.1日、山口県大津郡菱海村(現長門市油谷河原)大字河原に農業兼左官の磯部仁三郎の三男として生まれた。 父は出稼ぎに出たまま家に帰ることは希であった。兄達は村を離れ油谷港で働き、母のハツは二反ほどの畑を耕し、収穫した野菜を塩田の飯場に売って生計を立てていた。浅一も小学校から帰ると母と共に畑で働き、飯場へ野菜を売りに行った。背が高く頑丈な体つきで、学業はいつも首席であった。あるとき知事の養子を求める布令が近郷に回って、浅一もどうかと話があったが二者択一の選に落ちた。村の者は「あまりに貧乏な家の子だから」と思った。やがて浅一は山口の松岡喜二郎という県職員の家に貰われて行った。浅一は予てより軍人になりたいと思っていたし、松岡は家から是非とも軍人を一人出したいと思っていた。夕食を終えると決まって松岡は浅一の部屋に来て、吉田松陰や久坂玄瑞の話を聞かせた。謹厳実直な長州人だったが、浅一には優しかった。 高等小学校。 大正8.5.1日、広島陸軍幼年学校入学。 松岡の喜びはひとしおであった。学校の休暇には松岡家で一泊し、翌日、山陰本線の滝部で汽車を降り、人の通わない山道を歩いて菱海村へ帰るのが浅一の常であった。貧乏人の小倅が将校生徒では世間が許さなかった。実家に着くと野良着に着替えて母を手伝った。 陸軍士官学校予科を経る。 1926(大正15).7月、陸軍士官学校(38期)を卒業する。安藤輝三と同期。同年10月、陸軍歩兵少尉に任官され、歩兵第80連隊附を命ぜられる。 1929(昭和4).10月、陸軍歩兵中尉に進級。朝鮮歩兵74連隊を経る。 1932(昭和7).6月、主計将校を志願し陸軍経理学校に入校する。 1933(昭和8).5月、経理学校を卒業。主計に転科し陸軍二等主計(中尉相当)に任官される。同年6月、近衛歩兵第4連隊附を拝命。 1934(昭和9).8月、陸軍一等主計(大尉相当)進級と共に、野砲兵第1連隊附に移る。 同年11.20日の陸軍士官学校事件に巻き込まれ村中孝次とともに停職処分に付される。11月に拘禁、翌年3月、停職、4月、釈放される。 1935(昭和10).7月、村中孝次とともに「粛軍に関する意見書」を執筆し、8.2日、免官処分される。以降、軍の革新運動に専念し、2.26事件の中心人物となる。 |
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早くから北一輝の下に出入りし、皇道派青年将校グループの先駆者的存在として知られた。二・二六事件では、栗原安秀らとともに計画の指揮に当たる。事件後第一次判決にて死刑宣告を受ける。西田裁判の関係上、刑の執行が一年遅れた間、
長文の獄中手記を記している。 |
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1937(昭和12).8.19日、陸軍衛戍刑務所処刑場で銃殺刑に処された(享年32歳)。 | |
磯部の生家があった場所に「いそべの杜」がある。ここには「磯部浅一の碑」、「磯部元1等主計の遺影」、「磯部浅一記念館」等が建っており、記念館内には直筆の書や妻に当てた書簡等が展示されている。 |
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【磯部の獄中記考】 | |||||
磯部は獄中で「行動記」、「獄中日記」、「獄中手記」を執筆し、暗黒裁判の実態と共に計画の正当性を後世に訴えた。特に「獄中日記」(昭和11年8月31日分までが現存しており、以降の1年分は所在不明)には昭和天皇に対し責任を追及している文があり、凄まじい怨念と共に注目に値する。
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「行動記」の「第十三 いよいよ 始まった」は次の通り。
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昭和維新・磯部浅一 行動記 目次 クリックすると頁が開く ・ 第一 ヨオッシ俺が軍閥を倒してやる 八月十二日は十五同志の命日だ 因縁の不思議は此の日が永田鉄山の命日であり、今日は宛もその一周忌だ 昭和十年八月十二日、即ち去年の今日、 余は数日苦しみたる腹痛の病床より起き出でて窓外をながめてゐたら、西田氏が来訪した 余の住所、新宿ハウスの三階にて氏は 「昨日相沢さんがやって来た、今朝出て行ったが何だかあやしいフシがある、 陸軍省へ行って永田に会ふと云って出た」 余は病後の事とて元気がなく、氏の話が、ピンとこなかった ・ 第二 栗原中尉の決意 磯部さん、あんたには判って貰えると思うから云ふのですが、 私は他の同志から栗原があわてるとか、 統制を乱すとか云って、如何にも栗原だけが悪い様に云われている事を知っている。 然し、私はなぜ他の同志がもっともっと急進的になり、 私の様に居ても立っても居られない程の気分に迄、進んで呉れないかと云ふ事が残念です ・ 第三 アア何か起った方が早いよ 山下は改造改造と云ふが、案があるか、案があるならもって来い、アカヌケけのした案を見せてみろ、 と云って一応嘲笑した態度であったが、 「案よりも何事か起った時どうするかと云ふ問題の方が先だ」 といふ意味の余の返答に対して、 「アア何か起った方が早いよ」 と云って泰然としていた ・ 第四 昭和十一年の新春を迎えて世は新玉の年をことほぐ 昭和十一年の新春を迎えて 世は新玉の年をことほぎ、太平をうたふのであったが、 余の心は太平所か新年早々、非常な高鳴りをなし、ショウソウを感じて日々多忙を極めた 年末に企図した倒閣運動は功を奏しないのみか、重臣元老の陣営は微動もせぬ、 牧野の後任として齋藤が入り、一木は依然として辞任しない しかのみならず、多少の信頼をつないでゐる川島の態度は、次第に軟化する様子さえ見える ・ 第五 何事か起るのなら、何も云って呉れるな 川島と交友関係に於て最も厚い真崎を訪ねる事にして、 一月二十八日、相沢公判の開始される早朝、世田谷に自動車を飛ばした 面会を求めた所が用件を尋ねられたので、名刺の裏に火急の用件であるから是非御引見を得たい、 との旨を記して差出したら、応接して呉れることになった 真崎は何事かを察知せるものの如く、「何事か起るのなら、何も云って呉れるな」 と前提した ・ 第六 牧野は何処に 陸軍に於て、陸軍大臣と之を中心とした一団の勢力が吾人の行動を認め、 且つ 軍内の強行派たる真崎が背後から支援をして呉れたら、 元老、重臣に突撃する所の吾人を弾圧する勢力はない筈だ ・ 第七 ヤルトカ、ヤラヌとか云ふ議論を戦わしてはいけない そこで河野は一つの意見を出して、 「磯部さん、ヤルトカ、ヤラヌとか云ふ議論を今になって戦はしてはいけない、 それでは永久に決行出来ぬ事になるから、 この度は真に決行の強い者だけ結束して断行しよう、 二月十一日に決行同志の会合を催してもらいたい、 其の席で行動計画等をシッカリと練らねばならん」 ・ 第八 飛びついて行って殺せ 河野は余に 「磯部さん、私は小学校の時、陛下の行幸に際し、父からこんな事を教へられました 「今日陛下の行幸をお迎へに御前達はゆくのだが、 若し陛下のロボを乱す悪漢がお前達のそばからとび出したら如何するか」 私も兄も、父の問に答へなかったら、父が厳然として、「とびついて行って殺せ」 と云ひました 私は理屈は知りません、しいて私の理屈を云へば、父が子供の時教へて呉れた、 賊にとびついて行って殺せと言ふ、たった一つがあるのです 牧野だけは私にやらして下さい、牧野を殺すことは、私の父の命令の様なものですよ」 と、其の信念のとう徹せる、其の心境の済み切ったる、余は強く肺肝をさされた様に感じた ・ 第九 安藤がヤレないという 二月一八日、 栗原宅に村、栗、安、余が会合して、 いよいよ何日に如何なる方法で決行するかを決定しようとの考へで、意見の交換をした 所が以外にも、安藤が今はやれないといふのだ 村中が理由をきいたが、理由は大して述べないで時機尚早をとなへた ・ 第十 戒厳令を布いて斬るのだなあ これより先、十五日、夜、安藤と共に山下奉文を訪ねた 歩三の青年将校は山下から、 統帥権干犯者は 「戒厳令を布いて斬るのだなあ」 との話をきき、非常に元気づいてゐた ・ 第十一 君等がやると云へば、今度は無理にとめる事も出来ぬ 一応西田氏に打ち明けるの必要を考へ、村中と相談の上、十八、九日頃になって打ち明けた 氏は沈思してゐた その表情は沈痛でさへあった。そして余に語った。 「僕としては未だ色々としておかねばならぬ事があるけれども、 君等がやると云へば、今度は無理にとめる事も出来ぬ 海軍の藤井が、革命のために国内で死にたい、 是非一度国奸討伐がしてみたいと云っていたのに上海にやられた 彼の死は悶死であったかもしれぬ 第一師団が渡満するのだから、 渡満前に決行すると云って思ひつめてゐた青年将校をとめる事は出来ぬのでなあ」 と云って、何か良好な方法はないかと苦心している風だった 余は若し失敗した場合、西田氏に迷惑のかかる事は、 氏の十年間の苦闘を水泡に帰してしまふので相すまぬし、 又、革命日本の非常なる損失と考へたので、一寸その意をもらしたら、 氏は、「僕自身は五・一五の時、既に死んだのだからアキラメもある、 僕に対する君等の同情はまあいいとしても、おしいなあ」 と云った 余はこの言をきいて、何とも云へぬ気になった ・ 第十二 計画ズサンなりと云ふな 余は二月二十三日 北先生を訪ね、支那革命の武昌の一挙の時、 サウサウたる革命の志士が皆過失をおかしてゐるのは何故かとたずねたら、 「何しろ革命と云ふ奴には計画がないのだからね、計画も何もなく、自然に突発するのだから、 どんな人だってあわてるよ」 と云はれた 成程と思った。 革命は機運の熟成した時、自然発火をするものだから計画がない、 予定表を作成しておくわけにゆかぬ ・ 第十三 いよいよ 始まった 村中、香田、余等の参加する丹生部隊は、午前四時二十分出発して、 栗原部隊の後尾より溜池を経て首相官邸の坂を上る 其の時俄然、官邸内に数発の銃声をきく いよいよ始まった 秋季演習の聯隊対抗の第一遭遇戦のトッ始めの感じだ 勇躍する、歓喜する、感慨たとへんにものなしだ (同志諸君、余の筆ではこの時の感じはとても表し得ない とに角云ふに云へぬ程面白い。一度やって見るといい 余はもう一度やりたい。あの快感は恐らく人生至上のものであらふ) ・ 第十四 ヤッタカ!! ヤッタ、ヤッタ 田中は意気けんこうとして、 「面白いぞ」 と云ひつつ余をさがして官邸に来る 余は田中のトラック一台を直ちに赤坂離宮前へ向はしめ、渡辺襲撃隊の為にそなへる 高橋是清襲撃の中島帰来し、完全に目的を達したと報ず 続いて首相官邸よりも岡田をやったとの報、更に坂井部隊より麦屋清済が急ぎ来り、 齋藤を見事にやったと告ぐ 安藤は部下中隊の先頭に立ちて颯爽として来る ヤッタカ!! と問へば、ヤッタ、ヤッタと答へる 各方面すべて完全に目的を達した 天佑を喜ぶ ・ 第十五 お前達の心は ヨーわかっとる 歩哨の停止命令をきかずして一台の自動車がスベリ込んだ 余が近づいてみると真崎将軍だ 「閣下統帥権干犯の賊類を討つために蹶起しました、情況を御存知でありますか」 と いふ 「とうとうやったか、お前達の心はヨヲッわかっとる、ヨヲッーわかっとる」 と 答へる 「どうか善処していたゞきたい」 と つげる 大将はうなづきながら邸内に入る 第十六 射たんでもわかる 時に突然、片倉が石原に向って、 「課長殿、話があります」 と云って詰問するかの如き態度を表したので、 「エイッ此の野郎、ウルサイ奴だ、まだグヅグヅと文句を云ふか!」 と云ふ気になって、イキナリ、ピストルを握って彼の右セツジュ部に銃口をアテテ射撃した 彼が四、五歩転身するのと、余が軍刀を抜くのと同時だった 余は刀を右手に下げて、残心の型で彼の斃れるのを待った 血が顔面にたれて、悪魔相の彼が 「射たんでもわかる」 と云ひながら、傍らの大尉に支えられている ・ 第十七 吾々の行動を認めるか 否か 午後二時頃か、山下少将が宮中より退下し来り、集合を求める 香、村、対馬、余、野中の五人が次官、鈴木大佐、西村大佐、満井中佐、山口大尉等立会ひの下に、 山下少将より大臣告示の朗読呈示を受ける 「諸子の至情は国体の真姿顕現に基くものと認む この事は上聞に達しあり。 国体の真姿顕現については、各軍事参議官も恐懼に堪へざるものがある。 各閣僚も一層ヒキョウの誠を至す これ以上は一つに大御心に待つべきである」 大体に於て以上の主旨である 対馬は、吾々の行動を認めるのですか、否やと突込む 余は吾々の行動が義軍の義挙であると云ふことを認めるのですか、否やと詰問する 山下少将は口答の確答をさけて、質問に対し、三度告示を朗読して答へに代へる ・ 第十八 軍事参議官と会見 午後十時頃、各参議官来邸、余等と会見することとなる。 (香、村、余、対馬、栗原の六名と満井、山下、小藤、山口、鈴木) 香田より蹶起主旨と大臣に対する要望事項の意見開陳を説明する 荒木が大一番に口を割って 「大権を私議する様な事を君等が云ふならば、吾輩は断然意見を異にする、 御上かどれだけ、御シン念になっているか考へてみよ」 と、頭から陛下をカブって大上段で打ち下す様な態度をとった これが、二月事件に於ける維新派の敗退の重大な原因になったのだ ・ 第十九 国家人なし 勇将真崎あり 午前八、九時であったか、西田氏より電話があったので、 余は簡単に 「退去すると云ふ話しを村中がしたが、断然反対した、 小生のみは断じて退かない、もし軍部が弾圧する様な態度を示した時は、 策動の中心人物を斬り、戒厳司令部を占領する決心だ」 と告げる 氏は 「僕は亀川が退去案をもって来たから叱っておいたよ」 といふ。 更に今御経が出たから読むと云って、 「国家人なし、勇将真崎あり、国家正義軍のために号令し、正義軍速かに一任せよ」 と零示を告げる。余は驚いた。 「御経に国家正義軍と出たですか、不思議ですね、私共は昨日来、尊皇義軍と云っています」 と云ひ、神威の厳粛なるに驚き、且つ快哉を叫んだ ・ 第二十 君等は奉勅命令が下ったらどうするか 突然石原大佐が這入って来て側に坐し、「君等は奉勅命令が下ったらどうするか」 と問ふ 「ハアイイデスネ」 と答える 「イイデスネではわからん、キクカ、キカヌかだ」 と云ふ 「ソレハ問題ではないではありませんか」 と答へる ・ 第二十一 統帥系統を通じてもう一度御上に御伺い申上げよう 栗原が 「統帥系統を通じてもう一度御上に御伺ひ申上げようではないか 奉勅命令が出るとか出ないとか云ふが、一向にわけがわからん、 御伺ひ申上げたうえで我々の進退を決しよう。 若し死を賜ると云ふことにでもなれば、将校だけは自決しよう。 自決する時には勅使の御差遺位ひをあおぐ様にでもなれば幸せではないか」 との意見を出す ・ 第二十二 断乎決戦の覚悟をする 全同志を陸相官邸に集合させようとして連絡をとったが、なかなか集合しない 安藤、坂井は強硬論をとって動じない 村中は安藤に連絡のため幸楽へ走る 暫くすると村中が飛び込んで来て、 「オイ磯部やらふかッ、安藤は引かぬと云ふ、幸楽附近は今にも攻撃を受けそうな情況だ」 と 斬込む様な口調で云ふ 余は一語、「ヤロウッ」 と 答へ、走って官邸を出る ・ 第二十三 もう一度 勇を振るって呉れ 首相官邸に至り、栗原に情況を尋ねる 彼は余の発言に先だって、 「奉勅命令が下った様ですね、どうしたらいいでせうかね 下士官兵は一緒に死ぬとは云ってゐるのですが、 可愛想でしてね、どうせこんな十重、二十重に包囲されてしまっては、 戦をした所で勝ち目はないでせう。 下士官兵以下を帰隊さしてはどうでせう そしたら吾々が死んでも、残された下士官兵によって、第二革命が出来るのではないでせうか ・ 第二十四 安藤部隊の最期 「オイ安藤、下士官兵を帰さう。 貴様はコレ程の立派な部下をもってゐるのだ 騎虎の勢、一戦せずば止まる事が出来まいけれども、兵を帰してやらふ」 と あふり落ちる涙を払ひもせで伝へば、彼はコウ然として、 「諸君、僕は今回の蹶起には最後迄不サンセイだった 然るに遂に蹶起したのは、どこま迄もやり通すと云ふ決心が出来たからだ 僕は今、何人をも信ずる事が出来ぬ、僕は僕自身の決心を貫徹する」 と云ふ ・ 第二十五 二十九日の日はトップリと暮れてしまふ 同志将校は各々下士官兵と劇的な訣別を終わり、陸相官邸に集合する。 余が村中、田中と共に官邸に向ひたる時は、永田町台上一体は既に包囲軍隊が進入し、 勝ち誇ったかの如く、喧騒極めている 陸相官邸は憲兵、歩哨、参謀将校等が飛ぶ如くに往来している 余等は広間に入り、此処でピストルその他の装具を取り上げられ、軍刀だけの携帯を許される 山下少将、岡村寧次少将が立会って居た 彼我共に黙して語らず 余等三人は林立せる警戒憲兵の間を僅かに通過して小室にカン禁さる 同志との打合せ、連絡等すべて不可能、余はまさかこんな事にされるとは予想しなかった 少なくも軍首脳部の士が、吾等一同を集めて最後の意見なり、希望を陳べさして呉れると考へてゐた 然るに血も涙も一滴だになく、自決せよと言はぬばかりの態度だ 山下少将が入り来て 「覚悟は」 と 問ふ 村中 「天裁を受けます」 と 簡単に答へる 連日連夜の疲労がどっと押し寄せて性気を失ひて眠る 夕景迫る頃、憲兵大尉 岡村通弘(同期生)の指揮にて、数名の下士官が歩縄をかける 刑務所に送られる途中、青山のあたりで昭和十一年二月二十九日の日はトップリと暮れてしまふ |
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「行動記」の「 第十四 ヤッタカ!! ヤッタ、ヤッタ に 続」は次の通り。
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「行動記」の「第十五 お前達の心は ヨーわかっとる 」は次の通り。
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「行動記」の「 第十六 射たんでもわかる 」は次の通り。
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「行動記」の「第十七 吾々の行動を認めるか 否か 」は次の通り。
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「行動記」の「 第十八 軍事参議官と会見 」は次の通り。
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「行動記」の「 第十九 国家人なし 勇将真崎あり」は次の通り。
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「行動記」の「第二十 君等は奉勅命令が下ったらどうするか 」は次の通り。
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彼によると、日本は明治維新革命以来、「天皇の独裁国家ではなく」、「重臣の独裁国家でもなく」、「天皇を中心とした近代的民主国」なのだが、「今の日本は重臣と財閥の独裁国家」に変じていると云う。その大義を理解しなかった昭和天皇を獄中から「御叱り申して」いた。銃殺時には北と同じく「天皇陛下万歳」は唱えなかったという。三島由紀夫は「獄中日記」を高く評価し、『「道義的革命」の論理――磯部一等主計の遺書について』を著している。三島の晩年の作『英霊の声』は北一輝だけでなく、磯部の影響をも受けた。 |
「二・二六事件獄中日記 磯部浅一」の貴重なサイトアップを見つけたので転載しておく。磯部氏は貴重な叫びを伝えている。青年将校の理論、地的水準を知る上で又とない記録になっている。
遺書には横書きで「正気」と力強く記している。 |
「磯部浅一の昭和十一年三月三日陳述(憲兵大尉 大谷啓二郎)」(「磯部浅一の四日間 [ 憲兵訊問調書から ]」)。
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「反駁(2) 磯部浅一」。
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(私論.私見)