磯部浅一・一等主計(38期)



 更新日/2021(平成31.5.1日より栄和改元/栄和3).4.23日

 【以前の流れは、「2.26事件史その4、処刑考」の項に記す】

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、皇道派名将録「磯部浅一・一等主計(38期)」を確認する。(お墓は野中さん岡山、村中さん仙台、磯部さん東京、安藤さん仙台、相澤さん仙台)

 2011.6.4日 れんだいこ拝


死刑組

【磯部浅一プロフィール】 (元陸軍一等主計)(38期)
 日本の陸軍軍人、一等主計(38期)。1905(明治38).4.1日、山口県大津郡菱海村(現長門市)大字河原に農業兼左官の磯部仁三郎の三男として生まれた。2・26事件の判決により銃殺刑。1937(昭和12).8.19日没、享年32歳。国家社会主義者。陸軍中尉昇進後に陸軍経理学校に学び卒業して陸軍主計官として階級は陸軍一等主計に至る。陸軍士官学校事件に連座し、停職処分を受ける。「粛軍に関する意見書」を執筆して免官。後に二・二六事件に際して首謀者と目され、銃殺に処される。

【磯部浅一・一等主計(38期)考】
 1905(明治38).4.1日、山口県大津郡菱海村(現長門市油谷河原)大字河原に農業兼左官の磯部仁三郎の三男として生まれた。

 父は出稼ぎに出たまま家に帰ることは希であった。兄達は村を離れ油谷港で働き、母のハツは二反ほどの畑を耕し、収穫した野菜を塩田の飯場に売って生計を立てていた。浅一も小学校から帰ると母と共に畑で働き、飯場へ野菜を売りに行った。背が高く頑丈な体つきで、学業はいつも首席であった。あるとき知事の養子を求める布令が近郷に回って、浅一もどうかと話があったが二者択一の選に落ちた。村の者は「あまりに貧乏な家の子だから」と思った。やがて浅一は山口の松岡喜二郎という県職員の家に貰われて行った。浅一は予てより軍人になりたいと思っていたし、松岡は家から是非とも軍人を一人出したいと思っていた。夕食を終えると決まって松岡は浅一の部屋に来て、吉田松陰や久坂玄瑞の話を聞かせた。謹厳実直な長州人だったが、浅一には優しかった。

 高等小学校。
 大正8.5.1日、広島陸軍幼年学校入学。 松岡の喜びはひとしおであった。学校の休暇には松岡家で一泊し、翌日、山陰本線の滝部で汽車を降り、人の通わない山道を歩いて菱海村へ帰るのが浅一の常であった。貧乏人の小倅が将校生徒では世間が許さなかった。実家に着くと野良着に着替えて母を手伝った。
 陸軍士官学校予科を経る。

 1926(大正15).7月、陸軍士官学校(38期)を卒業する。安藤輝三と同期。同年10月、陸軍歩兵少尉に任官され、歩兵第80連隊附を命ぜられる。
 1929(昭和4).10月、陸軍歩兵中尉に進級。朝鮮歩兵74連隊を経る。
 1932(昭和7).6月、主計将校を志願し陸軍経理学校に入校する。
 1933(昭和8).5月、経理学校を卒業。主計に転科し陸軍二等主計(中尉相当)に任官される。同年6月、近衛歩兵第4連隊附を拝命。


 1934(昭和9).8月、陸軍一等主計(大尉相当)進級と共に、野砲兵第1連隊附に移る。
 同年11.20日の陸軍士官学校事件に巻き込まれ村中孝次とともに停職処分に付される。11月に拘禁、翌年3月、停職、4月、釈放される。
 1935(昭和10).7月、村中孝次とともに「粛軍に関する意見書」を執筆し、8.2日、免官処分される。以降、軍の革新運動に専念し、2.26事件の中心人物となる。
 早くから北一輝の下に出入りし、皇道派青年将校グループの先駆者的存在として知られた。二・二六事件では、栗原安秀らとともに計画の指揮に当たる。事件後第一次判決にて死刑宣告を受ける。西田裁判の関係上、刑の執行が一年遅れた間、 長文の獄中手記を記している。
 1937(昭和12).8.19日、陸軍衛戍刑務所処刑場で銃殺刑に処された(享年32歳)。
 磯部の生家があった場所に「いそべの杜」がある。ここには「磯部浅一の碑」、「磯部元1等主計の遺影」、「磯部浅一記念館」等が建っており、記念館内には直筆の書や妻に当てた書簡等が展示されている。
 辞世「国民よ国をおもいて狂となり 痴となるほどに国を愛せよ 三十二われ生涯を焼く情熱に 殉じたりけり嬉しともうれし 天つ神国つみ神の勅をはたし 天のみ中に吾等は立てり」。

【磯部の獄中記考】
 磯部は獄中で「行動記」、「獄中日記」、「獄中手記」を執筆し、暗黒裁判の実態と共に計画の正当性を後世に訴えた。特に「獄中日記」(昭和11年8月31日分までが現存しており、以降の1年分は所在不明)には昭和天皇に対し責任を追及している文があり、凄まじい怨念と共に注目に値する。
 (二・二六事件獄中手記・遺書/磯部浅一)
 「余は云わん 全日本の窮乏国民は神に祈れ 而して自ら神たれ 神となりて天命をうけよ 天命を奉じて暴動と化せ、武器は暴動なり殺人なり放火なり 戦場は金殿玉楼の立ちならぶ特権者の住宅地なり 愛国的大日本国民は天命を奉じて道徳的大虐殺を敢行せよ 然らずんば日本は遂ひに救はれざるべし」。
 「天皇陛下 何という御失政で御座りますか 何故奸臣を遠ざけて忠烈無雙の士を御召し下さりませぬか」、「今の私は怒髪天をつくの怒りにもえております、私は今は 陛下をお叱り申上げるところに迄精神が高まりました、だから毎日朝から晩迄、陛下を御叱り申しております、天皇陛下 何という御失政でありますか 何というザマです 皇祖皇宗に御あやまりなされませ」。
 (磯部浅一・行動記 )
 「『青年将校は、北、西田の思想に指導せられて日本改造法案を実現するために蹶起したのだ』と 云ったり、『真崎内閣を作るためにやったのだ』等の不届至極の事を云って、ちっとも蹶起の真精神を理解しようとはせずに、彼等の勝手なる推断によって青年将校は殺されてしまひました。北、西田氏も亦同様に殺され様としています。青年将校は改造法案を実現する為に蹶起したものでもなく、真崎内閣をつくるために立ったのでもありません。

 蹶起の真精神は 大権を犯し国体をみだる君側の重臣を討って大権を守り、国体を守らんとしたのです。ロンドン条約以来統帥大権干犯されること二度に及び、天皇機関説を信奉する学匪、官匪が宮中、府中にはびこって天皇の御位置をあやうくせんとしておりましたので、たまりかねて奸賊を討ったのです。そもそも 維新と云ふことは皇権を恢復奉還することであって、陸軍省あたりの幕僚の云ふ政治経済機構の改造そのものではありません。

 青年将校の考へは 一言にして云へば『 皇権を奪取 (徳川一門の手より、重臣元老の手より) 奉還して大義を明らかにすれば、国体の光は自然に明徴になり、国体を明徴にすれば 直ちに国の政・経・文教全てが改まるのである。これが維新である 』と 云ふのです。考え方が一般の改造論者とひどく相違しています。法務官などは此精神がわからぬものですから、『オイ、御前達は改造の具体案をもっているか。何ッ、もっていないッ。 そんな馬鹿な事があるか。具体案もなくて維新とは何だッ。日本改造法案が御前達の具体案だらう。何ッ、ちがいますう。嘘だ、御前達の具体案は改造法案にきまっている。あれを実現しようとしたのだ。サウダ、サウダ』。こんな調子で予審を終り、公判になって、民主革命を強行し、・・・・を押しつけられたのです。藤田東湖の『 大義を明かにし人心を正せば、皇道焉んぞ興起せざるを憂へん 』。これが維新の真精神でありまして、青年将校蹶起の真精神であるのです。維新とは具体案でもなく、建設計画でもなく、又、案と計画を実現すること、そのことでもありません。

 維新の意義と青年将校の真精神とがわかれば、改造法案を実現する為めや、真崎内閣をつくる為に蹶起したのではない事は明瞭です。統帥権干犯の賊を討つ為に、軍隊の一部が非常なる独断行動したのです。私共の主張に対して、彼等は統帥権は干犯されず、と云ひます。けれどもロンドン条約と真崎更迭の事件は、二つとも明かに統帥権干犯です。法律上干犯でないと彼等は云ひますが、法律に於て統帥権干犯に関する規定がどこにあるのですか。又、統帥権干犯などと云ふものは、法律の限界外で行はれる事であって、法律家の法律眼を以ては見定めることは出来ないのです。これを見定め得るものは、愛国心の非常に強く、尊皇精神の非常に高い人達だけであります。統帥権干犯を直接の動因として蹶起した吾々に対して、統帥権は干犯されていないとし、北の改造法案を実現する為に反乱を起こしたのだとして罪を他になすりつける軍部の態度は、卑怯ではありませんか」。
 「行動記」の「第十三 いよいよ 始まった」は次の通り。
 又、一部の急進者がアセリすぎて失敗したのだ等云ふな。決して然らず。機運の熟しない時は一部や半部の急進同志があせっても、決して発火するものではない。今回の決行は余や河野が強引にかけたものでもなく、栗原があせったわけでもない。同志の大部分が期せずして一致し、モウヨシ 決行しようと云ふ気になったのだ。

 日本の二月革命は計画ズサンの為に破れたのではない。又 急進一部同志があせり過ぎた為に破れたのでもない。兵力が少数なる為でもなく、弾丸が不足のためでもない。機運の熟成漸く蛤御門の変の時機にしか達してゐないのに、鳥羽、伏見を企図したが、収穫は矢張り機の熟した程度にしか得られなかったと云ふ迄の事だ。同志よ、蛤御門なら長藩の損失になるのみだ。やらぬがいい等と云ふ様な愚論をするな。維新の長藩を以て自任する現代の我が革命党が、蛤御門も長州征伐も経過する事なく直ちに、鳥羽、伏見の成功をかち得やうとする事が、余りに虫のよすぎる注文であることを知って呉れよ。

 二月二十六日午前四時、各隊は既に準備を完了した。出発せんとするもの、出発前の訓示をするもの、休憩をしてゐるもの等、まちまちであるが、皆一様に落ちついた様に見えるのは事の成功を予告するかの如くであった。豊橋部隊は板垣徹の反対に会って決行不能となったが、湯河原部隊はすでに小田原附近迄は到着してゐる筈である。各同志の連絡共同と、各部隊の統制ある行動に苦心した余は、午前四時頃の情況を見て、戦ひは勝利だと確信した。衛門を出る迄に弾圧の手が下らねば、あとはやれると云ふのが余の判断であったからだ。

 村中、香田、余等の参加する丹生部隊は、午前四時二十分出発して、栗原部隊の後尾より溜池を経て首相官邸の坂を上る。其の時俄然、官邸内に数発の銃声をきく。いよいよ始まった。秋季演習の聯隊対抗の第一遭遇戦のトッ始めの感じだ。勇躍する、歓喜する、感慨たとへんにものなしだ。(同志諸君、余の筆ではこの時の感じはとても表し得ない。とに角云ふに云へぬ程面白い。一度やって見るといい。余はもう一度やりたい。あの快感は恐らく人生至上のものであらふ。)余が首相官邸の前正門を過ぎるときは早、官邸は完全に同志軍隊によって占領されていた。五時五、六分頃、陸相官邸に着く。

 「これから後の手記は成るべく詳細にして、後世発表の官報、官吏のインチキを叱正したいのだが、手記が余の行動を中心としたものたるをまぬかれ難いので、全同志の行動、並各方面の情況に対する全般的のものたる事を保し難い。又、遺憾なのは、余も村中も明日にも銃殺されるかも知れぬ身だから、記録が毎日、毎日、序論と本論と結論とをせねばならぬので、一貫した系統のあるものに成し難いことである。願くば革命同志諸君の理論と信念と情熱とに依って判読せられんことを」。

 香、村、二人して憲兵と折衝してゐる所へ、余は遅れて到着す。余と山本は部隊の後尾にゐたのと、独逸大使館前の三叉路で交番の巡査が電話をかけてゐるのを見たので、威カクの為と、ピストルの試射とを兼ねて射撃をしたりしていたのでおくれたのだ。官邸内には既に兵が入ってゐる。香田、村中は国家の重大事につき、陸軍大臣に会見がしたいと云って、憲兵とおし問答してゐる。余は香、村は 面白い事を云ふ人達だ、えらいぞと思った。重大事は自分等が好んで起し、むしろ自分等の重大事であるかも知れないのに、国家の重大事と云ふ所が日本人らしくて健気だ、と 思って苦笑した。憲兵は、大臣に危害を加へる様なら私達を殺してからにして下さいと云ふ。そんな事をするのではない、国家の重大事だ、早く会ふ様に云って来いと叱る。奥さんが出て来る、主人は風邪気だからと断る。風邪でも是非会ひたい、時間をせん延すると情況は益々悪化すると申し込む。風邪ならたくさん着物でも着て是非出て来て会って戴きたい、と 懇願切りであるが、なかなからちがあかぬ。
昭和維新・磯部浅一
行動記

目次
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第一 ヨオッシ俺が軍閥を倒してやる
八月十二日は十五同志の命日だ
因縁の不思議は此の日が永田鉄山の命日であり、今日は宛もその一周忌だ
昭和十年八月十二日、即ち去年の今日、
余は数日苦しみたる腹痛の病床より起き出でて窓外をながめてゐたら、西田氏が来訪した
余の住所、新宿ハウスの三階にて氏は
「昨日相沢さんがやって来た、今朝出て行ったが何だかあやしいフシがある、
陸軍省へ行って永田に会ふと云って出た」
余は病後の事とて元気がなく、氏の話が、ピンとこなかった

第二 栗原中尉の決意
磯部さん、あんたには判って貰えると思うから云ふのですが、
私は他の同志から栗原があわてるとか、
統制を乱すとか云って、如何にも栗原だけが悪い様に云われている事を知っている。
然し、私はなぜ他の同志がもっともっと急進的になり、
私の様に居ても立っても居られない程の気分に迄、進んで呉れないかと云ふ事が残念です

第三 アア何か起った方が早いよ
山下は改造改造と云ふが、案があるか、案があるならもって来い、アカヌケけのした案を見せてみろ、
と云って一応嘲笑した態度であったが
「案よりも何事か起った時どうするかと云ふ問題の方が先だ」 といふ意味の余の返答に対して、
「アア何か起った方が早いよ」 と云って泰然としていた

第四 昭和十一年の新春を迎えて世は新玉の年をことほぐ
昭和十一年の新春を迎えて 世は新玉の年をことほぎ、太平をうたふのであったが、
余の心は太平所か新年早々、非常な高鳴りをなし、ショウソウを感じて日々多忙を極めた
年末に企図した倒閣運動は功を奏しないのみか、重臣元老の陣営は微動もせぬ、
牧野の後任として齋藤が入り、一木は依然として辞任しない
しかのみならず、多少の信頼をつないでゐる川島の態度は、次第に軟化する様子さえ見える

第五 何事か起るのなら、何も云って呉れるな
川島と交友関係に於て最も厚い真崎を訪ねる事にして、
一月二十八日、相沢公判の開始される早朝、世田谷に自動車を飛ばした
面会を求めた所が用件を尋ねられたので、名刺の裏に火急の用件であるから是非御引見を得たい、
との旨を記して差出したら、応接して呉れることになった
真崎は何事かを察知せるものの如く、「何事か起るのなら、何も云って呉れるな」 と前提した

第六 牧野は何処に
陸軍に於て、陸軍大臣と之を中心とした一団の勢力が吾人の行動を認め、
且つ 軍内の強行派たる真崎が背後から支援をして呉れたら、
元老、重臣に突撃する所の吾人を弾圧する勢力はない筈だ

第七 ヤルトカ、ヤラヌとか云ふ議論を戦わしてはいけない
そこで河野は一つの意見を出して、
「磯部さん、ヤルトカ、ヤラヌとか云ふ議論を今になって戦はしてはいけない、
それでは永久に決行出来ぬ事になるから、
この度は真に決行の強い者だけ結束して断行しよう、
二月十一日に決行同志の会合を催してもらいたい、
其の席で行動計画等をシッカリと練らねばならん」

第八 飛びついて行って殺せ
河野は余に
「磯部さん、私は小学校の時、陛下の行幸に際し、父からこんな事を教へられました
「今日陛下の行幸をお迎へに御前達はゆくのだが、
若し陛下のロボを乱す悪漢がお前達のそばからとび出したら如何するか」
私も兄も、父の問に答へなかったら、父が厳然として、「とびついて行って殺せ」 と云ひました
私は理屈は知りません、しいて私の理屈を云へば、父が子供の時教へて呉れた、
賊にとびついて行って殺せと言ふ、たった一つがあるのです
牧野だけは私にやらして下さい、牧野を殺すことは、私の父の命令の様なものですよ」
と、其の信念のとう徹せる、其の心境の済み切ったる、余は強く肺肝をさされた様に感じた

第九 安藤がヤレないという
二月一八日、 栗原宅に村、栗、安、余が会合して、
いよいよ何日に如何なる方法で決行するかを決定しようとの考へで、意見の交換をした
所が以外にも、安藤が今はやれないといふのだ
村中が理由をきいたが、理由は大して述べないで時機尚早をとなへた

第十 戒厳令を布いて斬るのだなあ
これより先、十五日、夜、安藤と共に山下奉文を訪ねた
歩三の青年将校は山下から、
統帥権干犯者は 「戒厳令を布いて斬るのだなあ」 との話をきき、非常に元気づいてゐた

第十一 君等がやると云へば、今度は無理にとめる事も出来ぬ
一応西田氏に打ち明けるの必要を考へ、村中と相談の上、十八、九日頃になって打ち明けた
氏は沈思してゐた
その表情は沈痛でさへあった。そして余に語った。
「僕としては未だ色々としておかねばならぬ事があるけれども、
君等がやると云へば、今度は無理にとめる事も出来ぬ
海軍の藤井が、革命のために国内で死にたい、
是非一度国奸討伐がしてみたいと云っていたのに上海にやられた
彼の死は悶死であったかもしれぬ
第一師団が渡満するのだから、
渡満前に決行すると云って思ひつめてゐた青年将校をとめる事は出来ぬのでなあ」
と云って、何か良好な方法はないかと苦心している風だった
余は若し失敗した場合、西田氏に迷惑のかかる事は、
氏の十年間の苦闘を水泡に帰してしまふので相すまぬし、
又、革命日本の非常なる損失と考へたので、一寸その意をもらしたら、
氏は、「僕自身は五・一五の時、既に死んだのだからアキラメもある、
僕に対する君等の同情はまあいいとしても、おしいなあ」 と云った
余はこの言をきいて、何とも云へぬ気になった

第十二 計画ズサンなりと云ふな
余は二月二十三日 北先生を訪ね、支那革命の武昌の一挙の時、
サウサウたる革命の志士が皆過失をおかしてゐるのは何故かとたずねたら、
「何しろ革命と云ふ奴には計画がないのだからね、計画も何もなく、自然に突発するのだから、
どんな人だってあわてるよ」 と云はれた
成程と思った。
革命は機運の熟成した時、自然発火をするものだから計画がない、
予定表を作成しておくわけにゆかぬ

第十三 いよいよ 始まった
村中、香田、余等の参加する丹生部隊は、午前四時二十分出発して、
栗原部隊の後尾より溜池を経て首相官邸の坂を上る
其の時俄然、官邸内に数発の銃声をきく
いよいよ始まった
秋季演習の聯隊対抗の第一遭遇戦のトッ始めの感じだ
勇躍する、歓喜する、感慨たとへんにものなしだ
(同志諸君、余の筆ではこの時の感じはとても表し得ない
とに角云ふに云へぬ程面白い。一度やって見るといい
余はもう一度やりたい。あの快感は恐らく人生至上のものであらふ)

第十四 ヤッタカ!!  ヤッタ、ヤッタ
田中は意気けんこうとして、 「面白いぞ」 と云ひつつ余をさがして官邸に来る
余は田中のトラック一台を直ちに赤坂離宮前へ向はしめ、渡辺襲撃隊の為にそなへる
高橋是清襲撃の中島帰来し、完全に目的を達したと報ず
続いて首相官邸よりも岡田をやったとの報、更に坂井部隊より麦屋清済が急ぎ来り、
齋藤を見事にやったと告ぐ
安藤は部下中隊の先頭に立ちて颯爽として来る
ヤッタカ!! と問へば、ヤッタ、ヤッタと答へる
各方面すべて完全に目的を達した
天佑を喜ぶ

第十五 お前達の心は ヨーわかっとる
歩哨の停止命令をきかずして一台の自動車がスベリ込んだ
余が近づいてみると真崎将軍だ
「閣下統帥権干犯の賊類を討つために蹶起しました、情況を御存知でありますか」 と いふ
「とうとうやったか、お前達の心はヨヲッわかっとる、ヨヲッーわかっとる」 と 答へる
「どうか善処していたゞきたい」 と つげる
大将はうなづきながら邸内に入る
第十六 射たんでもわかる
時に突然、片倉が石原に向って、
「課長殿、話があります」 と云って詰問するかの如き態度を表したので、
「エイッ此の野郎、ウルサイ奴だ、まだグヅグヅと文句を云ふか!」
と云ふ気になって、イキナリ、ピストルを握って彼の右セツジュ部に銃口をアテテ射撃した
彼が四、五歩転身するのと、余が軍刀を抜くのと同時だった
余は刀を右手に下げて、残心の型で彼の斃れるのを待った
血が顔面にたれて、悪魔相の彼が
「射たんでもわかる」 と云ひながら、傍らの大尉に支えられている

第十七 吾々の行動を認めるか 否か
午後二時頃か、山下少将が宮中より退下し来り、集合を求める
香、村、対馬、余、野中の五人が次官、鈴木大佐、西村大佐、満井中佐、山口大尉等立会ひの下に、
 山下少将より大臣告示の朗読呈示を受ける
「諸子の至情は国体の真姿顕現に基くものと認む
この事は上聞に達しあり。
国体の真姿顕現については、各軍事参議官も恐懼に堪へざるものがある。
各閣僚も一層ヒキョウの誠を至す
これ以上は一つに大御心に待つべきである」
大体に於て以上の主旨である
対馬は、吾々の行動を認めるのですか、否やと突込む
余は吾々の行動が義軍の義挙であると云ふことを認めるのですか、否やと詰問する
山下少将は口答の確答をさけて、質問に対し、三度告示を朗読して答へに代へる

第十八 軍事参議官と会見
午後十時頃、各参議官来邸、余等と会見することとなる。
(香、村、余、対馬、栗原の六名と満井、山下、小藤、山口、鈴木)
香田より蹶起主旨と大臣に対する要望事項の意見開陳を説明する
荒木が大一番に口を割って
「大権を私議する様な事を君等が云ふならば、吾輩は断然意見を異にする、
御上かどれだけ、御シン念になっているか考へてみよ」
と、頭から陛下をカブって大上段で打ち下す様な態度をとった
これが、二月事件に於ける維新派の敗退の重大な原因になったのだ

第十九 国家人なし 勇将真崎あり
午前八、九時であったか、西田氏より電話があったので、
余は簡単に 「退去すると云ふ話しを村中がしたが、断然反対した、
小生のみは断じて退かない、もし軍部が弾圧する様な態度を示した時は、
策動の中心人物を斬り、戒厳司令部を占領する決心だ」 と告げる
氏は 「僕は亀川が退去案をもって来たから叱っておいたよ」 といふ。
更に今御経が出たから読むと云って、
「国家人なし、勇将真崎あり、国家正義軍のために号令し、正義軍速かに一任せよ」
と零示を告げる。余は驚いた。
「御経に国家正義軍と出たですか、不思議ですね、私共は昨日来、尊皇義軍と云っています」
と云ひ、神威の厳粛なるに驚き、且つ快哉を叫んだ

第二十 君等は奉勅命令が下ったらどうするか
突然石原大佐が這入って来て側に坐し、「君等は奉勅命令が下ったらどうするか」 と問ふ
「ハアイイデスネ」 と答える
「イイデスネではわからん、キクカ、キカヌかだ」 と云ふ
「ソレハ問題ではないではありませんか」 と答へる

第二十一 統帥系統を通じてもう一度御上に御伺い申上げよう
栗原が
「統帥系統を通じてもう一度御上に御伺ひ申上げようではないか
奉勅命令が出るとか出ないとか云ふが、一向にわけがわからん、
御伺ひ申上げたうえで我々の進退を決しよう。
若し死を賜ると云ふことにでもなれば、将校だけは自決しよう。
自決する時には勅使の御差遺位ひをあおぐ様にでもなれば幸せではないか」
との意見を出す

第二十二 断乎決戦の覚悟をする
全同志を陸相官邸に集合させようとして連絡をとったが、なかなか集合しない
安藤、坂井は強硬論をとって動じない
村中は安藤に連絡のため幸楽へ走る
暫くすると村中が飛び込んで来て、
「オイ磯部やらふかッ、安藤は引かぬと云ふ、幸楽附近は今にも攻撃を受けそうな情況だ」
と 斬込む様な口調で云ふ
余は一語、「ヤロウッ」 と 答へ、走って官邸を出る

第二十三 もう一度 勇を振るって呉れ
首相官邸に至り、栗原に情況を尋ねる
彼は余の発言に先だって、
「奉勅命令が下った様ですね、どうしたらいいでせうかね
下士官兵は一緒に死ぬとは云ってゐるのですが、
可愛想でしてね、どうせこんな十重、二十重に包囲されてしまっては、
戦をした所で勝ち目はないでせう。 下士官兵以下を帰隊さしてはどうでせう
そしたら吾々が死んでも、残された下士官兵によって、第二革命が出来るのではないでせうか

第二十四 安藤部隊の最期
「オイ安藤、下士官兵を帰さう。 貴様はコレ程の立派な部下をもってゐるのだ
騎虎の勢、一戦せずば止まる事が出来まいけれども、兵を帰してやらふ」
と あふり落ちる涙を払ひもせで伝へば、彼はコウ然として、
「諸君、僕は今回の蹶起には最後迄不サンセイだった
然るに遂に蹶起したのは、どこま迄もやり通すと云ふ決心が出来たからだ
僕は今、何人をも信ずる事が出来ぬ、僕は僕自身の決心を貫徹する」 と云ふ

第二十五 二十九日の日はトップリと暮れてしまふ
同志将校は各々下士官兵と劇的な訣別を終わり、陸相官邸に集合する。
余が村中、田中と共に官邸に向ひたる時は、永田町台上一体は既に包囲軍隊が進入し、
勝ち誇ったかの如く、喧騒極めている
陸相官邸は憲兵、歩哨、参謀将校等が飛ぶ如くに往来している
余等は広間に入り、此処でピストルその他の装具を取り上げられ、軍刀だけの携帯を許される
山下少将、岡村寧次少将が立会って居た
彼我共に黙して語らず
余等三人は林立せる警戒憲兵の間を僅かに通過して小室にカン禁さる
同志との打合せ、連絡等すべて不可能、余はまさかこんな事にされるとは予想しなかった
少なくも軍首脳部の士が、吾等一同を集めて最後の意見なり、希望を陳べさして呉れると考へてゐた
然るに血も涙も一滴だになく、自決せよと言はぬばかりの態度だ
山下少将が入り来て 「覚悟は」 と 問ふ
村中 「天裁を受けます」 と 簡単に答へる
連日連夜の疲労がどっと押し寄せて性気を失ひて眠る
夕景迫る頃、憲兵大尉 岡村通弘(同期生)の指揮にて、数名の下士官が歩縄をかける
刑務所に送られる途中、青山のあたりで昭和十一年二月二十九日の日はトップリと暮れてしまふ
 「行動記」の「 第十四 ヤッタカ!!  ヤッタ、ヤッタ に 続」は次の通り。

余はこの間に、
正門其の他の部隊配置を見て歩く。
田中部隊の官邸到着が七、八分位ひ予定よりおくれた為に心配したが、
田中は意気けんこうとして、
「 面白いぞ 」
と 云ひつつ
余をさがして官邸に来る。
余は田中のトラック一台を直ちに赤坂離宮前へ向はしめ、渡辺襲撃隊の為にそなへる。
時間はどんどん経過するに大臣はまだ会見しようとせぬ。
高橋是清襲撃の中島 帰来し、完全に目的を達したと報ず。
続いて首相官邸よりも岡田をやったとの報、
更に坂井部隊より 麦屋清済が急ぎ来り、齋藤を見事にやったと告ぐ。
快報しきりに至る時、
歩哨が走って来て、
憲兵が多数来て、無理矢理に歩哨線を通過しやうとする由報告する。
見ると、トラックに乗った二十名ばかりが既に来て居る。
余は隊長(少佐)に会ひて、しばらく後退して呉れと頼む。
隊長はウンと云はなかったが、
軍隊同士が打ち合ひを演ずる様な事の不可なるを説き、
又、大臣に危害を加えざる旨を告げると、
それなら憲兵も一所に警備させて呉れと云うふので、
余は何等差支へなし、勝手にするといいだらふ、と云ひて自由意思にまかせる。

安藤は
部下中隊の先頭に立ちて颯爽として来る。
ヤッタカ ! ! 
と 問へば、
ヤッタ、ヤッタ と 答へる。

各方面すべて完全に目的を達した。
天佑を喜ぶ。
官邸門前より邸内に入りて見れば、今だ大臣は出て来る様子。
小松秘書官が来た時、余、香、村、三人にて事情を話したる為、
大臣も安心して会見することにしたらしい。

午前六時三十分をすぎて、大臣漸く来る。
余等は広間に於て会見する。
香田が蹶起趣意書を読み上げ、
現在状況を図上説明し、
更に大臣に対する要望事項を口述する。
小松秘書官は側にて筆記。
此の時、
渡辺襲撃部隊より、目的達成の報告あり。
大臣に之を告げると
「 皇軍同士が打ち合ってはいかん 」 と 云ふ。
卒然 栗原が来り色をなし、
香田と口を揃へ
「 渡辺大将は皇軍ではない ! ! 」 と 鋭い応シュウをする。
大臣少しひるむ様子。
余は同志の国体信念にとうてつせる事をよろこんだ。
渡辺を皇軍と混同して平然たる陸軍大臣に、
厳然として其の非を叱りてゆづらざる同志の偉大なる事がうれしくてたまらなかったのだ。
大臣はウムとつまって、
「皇軍ではないか」
と 言ひ、
成程と云った態度。
要望事項に対して大臣は、
「この中に自分としてやれることもあればやれぬこともある。
勅許を得なければならぬものは自分としては何とも云へぬ」
旨を語る。
この頃 山口大尉、小藤恵大佐、齋藤少将等、相前後して来る。
余等は大臣に対し、真崎、山下、古莊、今井、村上等の招集を願ふ。
直ちに秘書官に依って電話で連絡がされる。
更に、満井佐吉、鈴木貞一等の招致をする事となる。
官邸正門より将校がたくさん這入って来て、静止し切れないとの報があったが、
余は丹生に向ひ、
成るべくテイ重に断り、
省内に入れない様にしておいて呉れとたのむ。
情況を見ようと思って玄関を出た所、山下少将の来るのに会ふ。
余は 「ヤリマシタ、ドウカ善処して戴きたい」 と 言ふ。
少将は ウムというとうなづき、
「来る可きものが遂に来た」
と 云ふ様な態度で官邸内に入る。

 「行動記」の「第十五 お前達の心は ヨーわかっとる 」は次の通り。
官邸正門前に於て
登庁の軍人を適当になだめて退却させていると、
一少佐が憤然として、
「余りひどいではないか、兵が吾々将校に対して銃剣をツキツケて誰何をする」
と 云ふ。
余は、其の通りだ、
すこぶるひどいのだ、
軍隊はすでに何年か以前に自覚せる兵と下士によって将校を非定しようとしていたのだ、
全将校が貴族化し、軍閥化したから、
此処に新しい自覚運動が起こった、
それが上官の弾圧にあふたびに下へ下へとうつって、
今や下士官兵の間にもえさかってゐるのだ、
貴様等の様に、自分の立身成功の為には兵の苦労も、
其の家庭の窮乏をも知らぬ顔の半兵衛でうなぎ上りをした奴にはわからぬのだ。
兵に銃剣を突きつけられて恐ろしかったのだらふ、
正直に云へ恐しかったのだろふ、
ドキンとしたのだらふ、
今に見ろ、
平素威張り散らした貴様等がたたきのめされる日が来るぞ、
と 云ってやりたかったが我慢して、
「アア左様ですか、仕方がないですね」
と 意味あり気に答へた。
実際、渡辺大将を襲撃して帰って来た安田、高橋太郎部隊の下士官、兵は、
トラックの上で万歳を連呼して、昭和維新を祝福し、
静止させる事の出来ぬ滔々の気勢を示していた。
時の陸軍大将、教育総監を虐殺して欣喜乱舞する革命軍隊の意気の前に、
陸軍省あたりの小役人、一少佐が何であるか。

歩哨の停止命令をきかずして一台の自動車がスベリ込んだ。
余が近づいてみると真崎将軍だ。
「閣下統帥権干犯の賊類を討つために蹶起しました、情況を御存知でありますか」
と いふ。
「とうとうやったか、お前達の心はヨヲッわかっとる、ヨヲッーわかっとる」
と 答へる。
「どうか善処していたゞきたい」
と つげる。
大将はうなづきながら邸内に入る。
門前の同志と共に事態の有利に進展せんことを祈る。
この間にも 丹生は、登庁の将校を退去させることに大いにつとめる。
余は邸内広間に入りて齋藤少将に、
「問題は簡単です、
我々のした事が義軍の行為であると云ふ事を認めさへすればいいのです、
閣下からその事を大臣、次官に充分に申上げて下さい」
と 頼むと、
「さうだ義軍だ、義軍の義挙だ、ヨシ俺がやる」
と 引受ける。

石原莞爾が広間の椅子にゴウ然と坐している。
栗原が前に行って
「大佐殿の考へと私共の考へは根本的にちがふ様に思ふが、
維新に対して如何なる考へをお持ちですか」
と つめよれば、
大佐は
「僕はよくわからん、僕のは軍備を充実すれば昭和維新になると云ふのだ」
と 答へる。
栗原は余等に向って 「どうしませうか」 と 云って、ピストルを握っている。
余が黙っていたら何事も起さず栗原は引きさがって来る。
邸内、邸前、そこ、玆、誠に険悪な空気がみなぎってゐる。

齋藤少将が何か云ったら、
石原が
「云ふことをきかねば軍旗をもって来て討つ」
と 放言する。
少将は直ちに石原に向ひ、
「何を云ふか」
と 云ふ態度でオウシュウする。
大臣と真崎将軍とは別室に入りて談話中。
山口大尉は小藤、石原、齋藤少将等と何事かをしきりに談合中。


時間の関係が全然不明。
二十五日夜より二十九日夕迄、食事をとること僅かに三度だ。
呑気に食事なぞする余裕がない程に、事態が変転急転するので、
時計を見るひま、その時間を記憶する余裕などとてもない。
左様な次第ですから事実の前後関係については、多少の相違があるかもしれん。

 「行動記」の「 第十六 射たんでもわかる 」は次の通り。
午前九時過ぎ、
田中勝が 「片倉が来ています」 と告げる。
直ちに正門に出て見たが、どれが片倉か不明だ。
約十四、五名の軍人が 丹生其の他の同志と押問答をして、
なかなかラチがあきさうにないのを実見して、
広間に引きかへす。
余は登庁の幕僚との間に、斬り合ひ、射ち合ひが起ると、
折角 真崎、川島、山下、齋藤 等の将軍が好意的援助をしさうにみえるのに、
流血の一事によって却って同情を失ひ、
余等の立場が不利になりはしないかと云ふことを、
ヒョット考へついた為に、
片倉をヤル事をチュウチョせねばならなかった。
然し、門前に於ける同志と幕僚との接渉が極めて面倒になって来た事を考へたので、
二たび室外に出て片倉を見定める事にした。

幕僚の一群はその時、
ガヤガヤと不平を鳴らしつつ門内に入り来って、丹生の制止をきかうとしない。
此処で余は一人位ひ殺さねば、
幕僚どもの始末がつかぬと思ひ、片倉を確認した。

その頃、広間では、
陸軍省の者は偕行社、参謀本部は軍人会館に集合との命令を議案中であったので、
成るべくなら早く命令を下達してもらって、
血の惨劇をさけようと考へたので、又、広間に引きかへした。
丁度、集合位置に関する命令案が出来て下達しようとする所であった。
その時 丹生が来て、
とても静止することが出来ません、射ちますよと、云ふ。
余が石原、山下、その他の同志と共に玄関に出た時には、
幕僚はドヤドヤと玄関に押しかけて不平をならしてゐる。
山下少将が命令を下し、
石原が何か一言云った様だ。
成るべく惨劇を演じたくないといふチュウチョする気持ちがあった時、
命令が下達されたので、余はホットして軽い安心をおぼえた。
時に突然、片倉が石原に向って、
「課長殿、話があります」
と 云って詰問するかの如き態度を表したので、
「エイッ此の野郎、ウルサイ奴だ、まだグヅグヅと文句を云ふか ! 」
と 云ふ気になって、
イキナリ、ピストルを握って彼の右セツジュ部に銃口をアテテ射撃した。
彼が四、五歩転身するのと、余が軍刀を抜くのと同時だった。
余は刀を右手に下げて、残心の型で彼の斃れるのを待った。
血が顔面にたれて、悪魔相の彼が
「射たんでもわかる」
と 云ひながら、傍らの大尉に支えられている。
やがて彼は大尉に附添はれて、
ヤルナラ天皇陛下の命令デヤレ、と怒号しつつ去った。

滴血雪を染めて点々。
玄関に居た多数の軍人が、この一撃によってスッカリおぢけついたのか、
今迄の鼻意気はどこへやら消えてかげだにない。
一中佐は余に握手を求めて、
「俺は菅波中佐だ、君等は其れ程に思っているのか、もうわかった、俺もやる」
と 非常成る好意を示した。
余は
「私は粛軍の意見書を出して免官になった磯部です、
貴下の令弟三郎大尉にはクントウを受けました、国家の為によろしく御盡力下さい」
と 懇願した。
何だかハリツメた気がユルンダ様だった。
栗橋主計正に会ったので、
「菅野主計正によろしく伝言をしてたのみます、
片倉を殺しましたと云ふ事を一言お伝へ下されば結構です」
と 云ったら、
主計正は 「死なないだらふ」 と 云ふ。
余はハットした。
しまったと思った。
頭に銃口をつけて射った程だからきっと斃れる、
三十分とはもてまい位ひに考へて、致命傷だと信じ切ってゐた時、
「死なないだらふ」
の 一言は、冷水を背に浴びる程の思ひがした。
この一言をきいてイライラして立って居ても居られぬショウサウを感じた。
二十五日、午后西田氏と決別するとき、
「失敗しましたらコレをやって、他の人に迷惑をかけない様にする」
と 云って、
自分の頭部を射撃する真似をした程で、
頭部を射てば一発で死ねるものだと信じ切ってゐたので、
片倉が 「射たんでもわかる」 「天皇陛下の命令でヤレ」 等と云って、
死なないで去って行くのを目げきしながら、
微塵の疑問を起こさなかったのだ。
はずかしながら自分でもわけがわからぬ、
格別あわてたとも思はないのだが。

 「行動記」の「第十七 吾々の行動を認めるか 否か   」は次の通り。

片倉射撃の状況が新聞に報道されたのによると、
「犯人が射撃した時、馬鹿と大声で叱ったら腰をぬかしてピストルを落した」
と 片倉の家族が談話してゐるとの事だが、
腰をぬかしたのは断じて余に非ず。
余の腰はピンと張ってゐて、軍刀を右手にヒッサゲ、
左足を一歩前に踏出して次の斬撃を準備し、
一分のスキも見せなかったことはたしかだ。
ピストルを落したのは事実だ。
それは余が右手で射撃したら片倉がパット四、五歩避けたので、
間髪を入れず軍刀を抜いた。
その時ピストルをサックに入れる余裕をもたなかった。
ピストルを棄てるのと抜刀するのと同時だったのだ。
この間の動作は無意識だから、
今になってなぜピストルを棄てたかと、なぜ軍刀を抜いたかと問はれても、
理由は全くわからん。
予審中 理由をきかれてこまった。
唯ハッキリしてゐる事は、
一発射撃すれば充分死ぬと信じ切ってゐたので、
射撃後は単に軍刀で残心を示した程度で、殺意が猛烈でなかったことだけは明言出来る。
( 同志諸兄、殺人が悪にしろ、善にしろ 一刀両断、
唯一刀にして人を殺して、またたきもせぬ程の人間は余程の人物だ。
死屍を自ら点検し、トドメを刺す程の落着いた動作は、
修養をつんでおかぬと、とても出来さうにもないことを実感した。
林、安田、安藤等多くの同志が、皆斬殺時、
殺した直後ホッとした気のゆるみを感じたと云ってゐる。
余もはずかしながら一刀両断してまたたき一つせぬ程の徹底悟入した境地には、
余程遠いことを自白する。)
片倉は射撃された時、
「馬鹿ッ」 と 云って大声で叱りはしなかった。
「射たんでもわかる」 と 云った。
その語気は弱々しいもので、
極端に云ふと、泣き声の様であった事を附け加へておく。
片倉ばかりではない。
そこにいた軍人が等しく泣きたい様な感じをもった事は、誰も云ひのがれは出来まい。
丹生、竹島、両人は余の手をとって涙を出していた。

午前十時頃か、陸軍大臣参内、
続いて真崎将軍も出て行ってしまった。
官邸には次官が残る。
満井中佐、鈴木大佐 来邸する。
午後二時頃か、
山下少将が空中より退下し来り、集合を求める。
香、村、対馬、余、野中の五人が
次官、鈴木大佐、西村大佐、満井中佐、山口大尉等立会ひの下に、
山下少将より大臣告示の朗読呈示を受ける。

「諸子の至情は国体の真姿顕現に基くものと認む。この事は上聞に達しあり。
国体の真姿顕現については、各軍事参議官も恐懼に堪へざるものがある。
各閣僚も一層ヒキョウの誠を至す。
これ以上は一つに大御心に待つべきである」
大体に於て以上の主旨である。
対馬は、吾々の行動を認めるのですか、否やと突込む。
余は吾々の行動が義軍の義挙であると云ふことを認めるのですか、否やと詰問する。
山下少将は口答の確答をさけて、
質問に対し、三度告示を朗読して答へに代へる。
次官立会の諸官は大いにシュウビを聞きたる様子がみえる。
次官は欣然とした態度になって参内し、陸軍大臣と連絡し、
吾等行動部隊を現地に止める様 盡力する旨を示す。
西村大佐は香椎中将に連絡し、同様の処置をなすべく官邸を出る。
将に日は暮れんとする。
雪は頻り。
兵士の休養を考へたのだが、
軍首脳部の態度の不明なる限り警戒をとくわけにもゆかぬ。

参謀本部の土井騎兵少佐が来て、
「君等がやったからには吾々もやるんだ、
皇族内閣位ひっくって政治も経済も改革して、軍備充実をせねばならん、
どうだ吾々と一緒にやらふ、
君等は荒木とか真崎とか年よりとばかりやっても駄目だ、
あんなのは皆ヤメサシてしまはねばいかん」
等と、とんでもない駄ボラの様な話をし出した。
余は此のキザな短才軍人に怒りをおぼえたので、
維新は軍の粛正から始まるべきだ (幕僚の粛正)、
これを如何に考へておられるのか、と 突込む。
返答に窮したる情態。
時に村中が、
「オイ磯部、そんな軍人がファッショだ、
そ奴から先にやっつけねばならぬぞ、放っておけ、こっちへ来い」
と 叫ぶ。

 「行動記」の「 第十八 軍事参議官と会見 」は次の通り。
馬奈木敬信中佐が吾々の集っている広間へ来て、
「吾々もやる、君等は一体如何なる考へを持ってゐるのか」 と問ふ。
維新内閣の出現を希望すると答える。
中佐は参謀本部では皇族内閣説があるが、君等は如何に考へるかと言ふ。
余が皇族内閣の断じて可ならざるを力説すると、氏も同調する。
この時 満井中佐がドアの所より 磯部一寸来い と呼ぶ。
中佐はイキナリ 「馬奈木からきいたか」 と
「ハア、皇族内閣ですか、石原案ですか、ソレナラ断じて許しませんよ」 と答へる。
中佐も同感なる旨を告げる。
「コノママブラブラしてゐるといけない、宮中へ行こう、参議官に直接会って話してみよう」
と 云ふ意見を中佐が出す。
村中、香田、余の三名は山下少将について、
満井、馬奈木 両氏と共に参内せんとして自動車を準備する。
出発せんとした時、
山下は
「官邸にて待て、俺が参議官を同行する」
と 云ひたるも、
余はどんな事があるかもしれんから、
兎に角 宮中に行かうと主張して少将の車を追ふ。
日比谷、大手町あたり市中の雑踏は物すごい。
御成門( 坂下門) に到り
少将は参入を許されたるも、満井、馬奈木中佐、余等共に許されぬ。
止むなく官邸に帰り参議官の到来を待つ。

午後十時頃、
各参議官来邸、余等と会見することとなる。
(香、村、余、対馬、栗原の六名と満井、山下、小藤、山口、鈴木)
香田より蹶起主旨と大臣に対する要望事項の意見開陳を説明する。
荒木が大一番に口を割って
「大権を私議する様な事を君等が云ふならば、吾輩は断然意見を異にする、
御上かどれだけ、御シン念になっているか考へてみよ」
と、頭から陛下をカブって大上段で打ち下す様な態度をとった。
これが、二月事件に於ける維新派の敗退の重大な原因になったのだ。
余はこの時非常にシャクにさわった。
「何が大権私議だ、この国家重大の時局に、
国家の為に此の人の出馬を希望すると言ふ赤誠国民の希望が、なぜ大権私議か。
君国の為 真人物を推す事は赤子の道ではないか。
特に皇族内閣説が幕僚間にダイ頭して策動頻りであるとき、
若し一歩を過らば、国体をきづつける大問題が生ずる瀬戸際ではないか」
と 言ふ意味の云を以て、
カンタンに荒木にオウシュウする。
村中は皇族内閣説の不可なる理由を理路整然と説く。
これには大将連も一言もなかった。
スッカリ吾人の国体信念にまいった様子がみえて 駄弁な荒木も遂に黙する。
植田がコビル様な顔つきで村中に何か話している。
林は青ざめた顔をして下をウツムイて頭を揚げ切らぬ。
カスカかにふるへてゐる様にも見えた。
安部も真崎も西義一も何も云はぬ。
寺内がどうすればいいのだと云ふ。
此の会見が全くウヤムヤに終わり、
吾等も大した具体的な意見を出し得ず、彼等も何等良好な解決策をもたず、
単なる顔合せになってしまったのは、ヘキ頭の荒木の一言が非常に有害であったのだ。
和やかに青年将校の意見を聞き、御互ひに福蔵なく語り合ったらよかったのだが、
陛下、陛下でおさえられて、お互ひに口がきけなくなったのだ。
山下、満井、鈴木の諸氏の中、
誰か一人縦横の奇策を以てこの会見を維新的有利に導くことが出来たら、
天下の事、此の一夜に於て定まっていたのだ。
余は
「軍は自体の粛正をすると共に維新に進入するを要する」
との旨を紙片に記し、
各官に示したるに、寺内は之を手帳に記入した。
(皮肉なる哉、余の此の意見によって、今や寺内が吾が同志を弾圧してゐるのだ、
余の軍粛正は維新的粛軍であったが、寺内は維新派弾圧の佐幕的粛軍をやっている。)
会見に於て具体的な何物をも収カク出来なかったが、
各官が吾々を頭から弾圧すると言ふ態度はなくて、
ムシロ子供がえらい事を仕出かしたが、
まあ真意はいいのだから何とか処置してやらずばなるまいと云ふ風な、
好意的な様子を看取する事が出来たのは、いささかの安心であった。

深更、二十七日午前、
戦時警備令が下令され、吾が部隊がこの中に編入された事を知る。
払暁戒厳令の宣布をきき、我が部隊が令下に入りたるを確知し、余は万歳を唱へた。
この頃、帝国ホテルにて満井、亀川哲也等と会ひたる 村中帰来し、
「同志部隊を歩一に引揚げやう。皇軍相撃は何と云っても出来ぬ」
と 云ひて同志にはかる。
余は激語して断然反対する。
「皇軍相撃が何だ、相撃はむしろ革命の原則ではないか、
若し同志が引きあげるならば、余は一人にても止りて死戦する」
の 旨を主張した。
若し情況悪化せば、余は田中部隊と、栗原部隊を以て出撃し、
策動の本拠と目されるる戒厳司令部をテン覆する覚悟を以て陸相官邸を去り、
首相官邸に陣取る。
 「行動記」の「 第十九 国家人なし 勇将真崎あり」は次の通り。

(一) 午前八、九時であったか、
西田氏より電話があったので、
余は簡単に
「退去すると云ふ話しを村中がしたが、断然反対した、
小生のみは断じて退かない、もし軍部が弾圧する様な態度を示した時は、
策動の中心人物を斬り、戒厳司令部を占領する決心だ」
と 告げる。
氏は 「僕は亀川が退去案をもって来たから叱っておいたよ」 と いふ。
更に今 御経が出たから読むと云って、
「国家人なし、勇将真崎あり、国家正義軍のために号令し、正義軍速かに一任せよ」
と 零示を告げる。
余は驚いた。
「御経に国家正義軍と出たですか、
不思議ですね、私共は昨日来、尊皇義軍と云っています」
と 云ひ、
神威の厳粛なるに驚き、且つ快哉を叫んだ。
丁度その時、村中が香田と共に首相官邸に来たので、
このことを告げ
真崎に依頼しようと云ふことを相談し、各参議官の集合を求める事にした。
且一方、部隊を一と先、議事堂に集結することに決す。
(二) この日の首相官邸は、
激励の訪客が引っきりなくあった為に、極めて多忙であった。
右翼団体の幹部とか、陸海軍の予備役将官等が電話で激励をして呉れたり、
青年団体、日蓮宗の宗団が邸前へ来て、
ラッパや太鼓をならして万歳を唱へたりした。
この日、
午前中に陸相官邸その他永田町台上一帯の警戒を寛にして、
出入りの自由を許した為、
見物人が続々と這入って来て、賑かな騒ぎを生じてゐた。
行動隊は戒厳命令によって、
台上一帯の警備を命ぜられ、
且つ 印刷の大臣告示に依ると、
「 諸氏の行動は国体の真姿顕現の為であると認める、
この事は上聞としてある、云々」
と 明記されて行動を認められているのだ。
戒厳命令は第一師戒命として、
「二十六日以来行動せる将校以下を、
小藤大佐の指揮に属し、永田町・・・・の間の警備を命ず」
と 云ふものである。
余等はこの事を知って百万の力を得た。
然し、何だか変な空気がどこともなくただよっているらしい事には、
しきりに吾が隊の撤退を勧告する事だ。
満井中佐や山下少将、鈴木貞一大佐迄が、撤退をすすめるのである。
満井中佐は、
維新大詔渙発と同時に大赦令が下る様になるだらふから一応退れと云ふし、
鈴木大佐 又、一応退らねばいけないではないか、と云ふ意向を示す。
余は不審にたへないので、
陸相官邸に於て鈴木大佐に対し、
「一体吾々の行動を認めたのですか、どうですか」
と 問ふ。
大佐は、
「それは明瞭ではないか、戒厳令下の軍隊に入ったと云ふだけで明かだ」
と 答へる。
行動を認めて戒厳軍隊に編入する位であるのに、
一応退去せよと云ふ理屈がわからなくなる。
か様な次第で、
不審な点も多少あったが、概して戦勝気分になって、
退去勧告などは受けつけようとしなかった。

午後二時頃になったかと思ふ。
真崎外の参議官と会見する事となり、全将校同志が陸相官邸に集合する。
真崎、阿部、西 (荒木、植田、寺内、林は不参) の三将軍
と 山口、鈴木、山下、小藤の諸官が立ち会った。
野中大尉が、
「事態の収拾を真崎将軍に御願ひ申します、
この事は全軍事参議官と全青年将校との一致の意見として御上奏をお願い申したい」
と 申込む。
真崎は
「君等が左様云ってくれることは誠にうれしいが、
今は君等が聯隊長の云ふことをきかねば、何の処置も出来ない」
と 答へ、部隊の退去をほのめかす風さえ察せられる。
どうもお互ひのピントと合はぬので、もどかしい思ひのままに無意義に近い会見をおわる。
安部、西 両大将が真崎をたすけて善処すると言ふことだけは、ハッキリした返事をきいた。


同志中に大政略家がいたら、極めて巧妙なカケヒキ
(或いは極めて簡短なる一石を以てかもしれぬ) を以て、
全軍事参議官と青年将校との意見一致として、事態収拾案の大綱を定めて、
上奏御裁下をあおぐ事は易々たる事であったと思ふ。
今の小生にはそれが出来るが、当時の同志には誰にもそれ程の手腕がなかった。
この会見は極めて重大な意義をもっていたのに、
全くとりとめのないものに終わった事は、維新派敗退の大きな原因になった。
吾人はシッカリと正義派参議官に喰ひついて幕僚を折伏し、
重臣、元老に対抗して、戦況の発展を策すべきであった。
真崎、阿部、西、川島、荒木にダニの如くに喰ひついて、
脅迫、煽動、如何なる手段をとってもいいから、
之と離れねばよかったのだ。

 「行動記」の「第二十 君等は奉勅命令が下ったらどうするか 」は次の通り。

廿七日は時々、軽微な撤退勧告があったが、
午後になって宿営命令が発せられたので、スッカリ安心してしまった。


本日朝来、余が面会した人は、
田中国重大将、江藤源九郎少将、齋藤少将、日高海軍少佐(軍令部)、
某海軍中佐、榊原主計大尉(参謀本部)、陸軍大学兵学教官、某砲兵中佐等であった。
その他 相当多数の人に会ったが、氏名は不明又は忘却して今はわからぬ。
今になって反省してみるに、
革命暴動的立場にあるものが、種々雑多な面会者に会見する事は避くべきである。
常に革命党の対照的位置にある当局者、
責任者をねらって、之と交渉を断たぬ様にせねばならぬ。
特に反対派の中心人物の動きには一瞬も目をはなってはならぬ。
反対的中心点は見つけ次第にテンプク討滅せねばならぬ。涙は禁物である。
如何におどかされても、すかされても、哀願されても、だまされてはならぬ。
冷厳一貫の信念に立って進まねばならぬ。

夜に入り、各部隊は宿舎につく、
野中部隊、鉄道大臣官邸。
鈴木部隊、文部大臣官邸。
清原部隊、大蔵大臣官邸。
栗原、中橋部隊、首相官邸。
田中部隊、農林大臣官邸。
丹生部隊、山王ホテル。
安藤部隊、幸楽。
而して 支隊本部は鉄道大臣官邸に位置する。
余は田中と共に農林官邸に入りて休む。

午後十一時頃、
首相官邸を本夜夜襲して武装解除をすると云ふ風説ありとの通報を受ける。
余はこの風説は単なる風説ではないと感じたので、
或は吾々の方より偕行社、又は軍人会館を襲撃して、
反対勢力を撃破せねばならぬのではないかと考へ、
栗原に出撃の時機方法を考究しようとの旨を連絡した所、
林八郎がやって来て
「吾々は戒厳令下なあるから戒厳軍隊を攻撃すると云ふ様なことはあるまい」
と云ひて、
出撃問題は立ち消えとなる。
(当夜は、各隊ともに安心して休宿した事を後になって知った)

二十八日朝、
山本又が神谷憲兵少佐を伴ひて来る。
三、四 雑談を交したる後、
少佐は戒厳司令部に至り、君の意見を司令官に話したらどうだと云ふ。
余は本朝来の二、三の情報
( 清浦が二十六日参内せんとしたるも、湯浅、一木に阻止されたこと。
註、清浦参内案は森氏の平素の案であって、
真崎スイセンがこのグループの方針であった。
この事に関し、
余と森氏の間に相当に具体的談合は交わされてゐた事を付記しておく。
晩夜半寺内、植田謙吉、林三大将が、香椎浩平司令官を訪ねたる結果、
軍首脳部は行動部隊を弾圧することに意見決定せりとのこと )
より 推察して、
情況は一夜の内に逆転して維新軍に不利になっていることを考へたので、
少佐の勧めに従ひ、司令官に面接して赤心を吐露してみようと決心した。
自動車にて市中の雑とうを縫ひて司令部に至れば、実に物々しい警戒だ。
とても吾々の意見を受け容れて呉れそうな空気はない。
余はそこで、コレハ非常の手段をとらねばならぬかもしれぬ。
司令官と差しちがへる腹で事にあたらふと決意して、神谷少佐にアッセンを依頼し、
副官に取次ぎをたのみたるも、言を左右にして面会をさせぬ。
一時間以上も待ちぼうけをくはされた後に、少佐は余のピストル、短刀をあずかるといふ。
余は 「コノママ検ソクされるのではないか」 と 語をあらめて尋ねたが、
ちかって左様な事はせぬと云ふので、二品を渡す。
暫くして神谷少佐は、
「司令官は唯今陸軍大臣と会談中だから面会出来ぬさうだ」
と 告げる。
余は大臣同席の場で面会をさして呉れと云ふたが、きき容れるどころではない。
この時、この重大時機に第一に会見意見を求むべき余等を無視するの態度が、
グッと胸にこたへたので、今にみろと言ふ反撥心が湧沸する。
突然 石原大佐が這入って来て側に坐し、
「君等は奉勅命令が下ったらどうするか」 と 問ふ。
「ハアイイデスネ」 と 答える。
「イイデスネではわからん、キクカ、キカヌかだ」 と 云ふ。
「ソレハ問題では ないではありませんか」 と 答へる。
一向に要領を得ぬ。
余は大佐に、行動部隊を現地におく様司令官に意見を具申して呉れとたのむ。
大佐は去る。
満井中佐が来る。
「中佐殿、貴下方は私共を退かす事にばかり奔走して居られるが、
それは間違ひではないか、
吾々があの台上に厳乎として存在して居ればこそ、機関説信奉者が頭をもたげないのです。
一歩でも引けば反対勢力がドットばかりに押しよせるのではないですか、
何とかして現地において下さい」
と 悲痛な声をしぼる。
実際、余はこの時程痛切な思ひをした事はない。
満井中佐程の人物ですら、この理屈とこの哀願がわかって呉れぬのだ。

 彼によると、日本は明治維新革命以来、「天皇の独裁国家ではなく」、「重臣の独裁国家でもなく」、「天皇を中心とした近代的民主国」なのだが、「今の日本は重臣と財閥の独裁国家」に変じていると云う。その大義を理解しなかった昭和天皇を獄中から「御叱り申して」いた。銃殺時には北と同じく「天皇陛下万歳」は唱えなかったという。三島由紀夫は「獄中日記」を高く評価し、『「道義的革命」の論理――磯部一等主計の遺書について』を著している。三島の晩年の作『英霊の声』は北一輝だけでなく、磯部の影響をも受けた。

 「二・二六事件獄中日記 磯部浅一」の貴重なサイトアップを見つけたので転載しておく。磯部氏は貴重な叫びを伝えている。青年将校の理論、地的水準を知る上で又とない記録になっている。
 七月卅一日 

 明日は十五同志の三七日なり。余は連日祈りに日を暮す。ただこまることは、十五同志に対してはいかに祈るべきかがわからぬ事なり。成仏(じょうぶつ)せよと祈っても彼らは「維新大詔の渙發せられ天下万民ことごとく堵(と)に安んずるの日までは成仏せじ」と言いて死したるをもって、とても成仏しそうにもなし。「成仏するな迷え」という祈りをするわけにもゆかず、ほとほと困る次第なり。余はここにおいて稀代なる祈りをすることとせり。「諸君強成の魂に鞭打ちて、も一度二月事件をやり直せ、新義軍を編成して再挙し、日本国中の悪人輩を討ち尽せ、焼き払え、日本国中に一人でも吾人の思想信念を解せざる悪人輩の存する以上、決して退譲するこ上なかれ。日本国中を火の海にしても信念を貫け。焼け焼け、強火の魂となりて焼き尽せ。焼きてもなおあきたらざれば、地軸を割りて一擲微塵(いってきみじん)にしてその志を貫徹せよ」と。

 夜に入り雷鳴電光盛ん、シュウ雨来る、一七日の夜と同じく陰気天地を蔽う。余は本記をなし村中は一念一信読経(どきょう)をなす。今や、天上維新軍は相沢司令官統率の下にまきに第二維新を企図しあり。地上軍は速かに態勢を回復し戦備を急がざるべからざるを痛感す。
 八月一日  

 何をヲッー、殺されてたまるか、死ぬものか、千万発射つとも死せじ、断じて死せじ、死ぬることは負けることだ、成仏することは譲歩することだ、死ぬものか、成仏するものか。悪鬼となって所信を貫徹するのだ、ラセツとなって敵類賊カイを滅尽するのだ、余は祈りが日々に激しくなりつつある。余の祈りは成仏しない祈りだ、悪鬼になれるように祈っているのだ、優秀無敵なる悪鬼になるべく祈っているのだ、必ず志をつらぬいて見せる、余の所信は一分も一厘もまげないぞ、完全に無敵に貫徹するのだ、妥協も譲歩もしないぞ。余の所信とは日本改造法案大網を一点一角も修正することなく完全にこれを実現することだ。

 法案は絶対の真理だ。余は何人といえどもこれを評し、これを毀却することを許さぬ。法案の真理は大乗仏教に真徹するものにあらざれば信ずることができぬ。しかるに大乗仏教どころか小乗もジュ道も知らず、神仏の存在さえ知らぬ三文学者、軽薄軍人、道学先生らが、わけもわからずに批判せんとし毀(こぼ)たんするのだ。余は日蓮にあらざれども法案をそしる輩を法謗のオン賊と言いてハバカラヌ。日本の道は日本改造法案以外にはない、絶対にない。日本がもしこれ以外の道を進むときには、それこそ日本の歿落の時だ。

 明らかに言っておく。改造法案以外の道は日本を歿落せしむるものだ、如何となれば官僚、軍閥、幕僚の改造案は国体を破滅する恐るべき内容をもっているし、一方高天ケ原への復古革命論者は、ともすれば公武合体的改良を考えている。共産革命か復古革命かが改造法案以外の道であるからだ。余は多弁を避けて結論だけを言っておく。日本改造法案は一点一角一字一句ことごとく真理だ、歴史哲学の真理だ、日本国体の真表現だ、大乗仏教の政治的展開だ、余は法案のためには天子呼び来れども舟より下らずだ。
 八月二日 

 シュウ雨雷鳴盛ソ、明日は相沢中佐の命日だ、今夜は逮夜(たいや)だ、中佐は真個の日本男児であった。
 八月三日 

 中佐の命日、読経す。中佐を殺したる日本は今苦しみにたえずして七テン八倒している。悪人が善人をはかり殺して良心の苛責(かしゃく)にたえず、天地の間にのたうちもだえているのだ。中佐ほどの忠臣を殺した奴にそのムクイが来ないでたまるか、今にみろ、今にみろ。
 八月四日 

 北一輝氏、先生は近代日本の生める唯一最大の偉人だ。余は歴史上の偉人と言われる人物に対して大した興味をもたぬ、いやいや興味をもたぬわけでないが、大してコレハと言う人物を見出し得ぬ。西郷は傑作だが元治以前の彼は余と容れざるところがある。大久保、木戸のごときは問題にならぬ。中世、上古等の人物についてはあまりにかけはなれているのでよくわからぬ。ただ余が日本歴史中の人物で最も尊敬するは楠公だ。しかして明治以釆の人物中においては北先生だ。
 八月五日 

 佐幕流の暴政時代、南朝鮮総督、杉山教育総監、西尾次長、寺内大臣、宇佐美侍従武官、鈴木貫太郎、牧野、一木、湯浅、西国寺等々、指を屈するにいとまなし、今にみろッ/\/\/\/\必ずテソプクしてやるぞ。
 八月六日 

 一、天皇陛下 陛下の側近は国民を圧する漢奸で一杯でありますゾ。御気付キ遊バサヌデハ日本が大変になりますゾ。今に今に大変なことになりますゾ。
 ニ、明治陛下も皇大神宮様も何をしておられるのでありますか。天皇陛下をなぜ御助けなさらぬのですか。
 三、日本の神々はどれもこれも皆ねむっておられるのですか。この日本の大事をよそ忙しているほどのなまけものなら日本の神様ではない。磯部菱海はソンナ下らぬナマケ神とは縁を切る。そんな下らぬ神ならば、日本の天地から追いはらってしまうのだ。よくよく菱海の言うことを胸にきぎんでおくがいい、今にみろ、今にみろッ。
 八月七日 

 明日は同志の四七日だ、今日もシュウ雨雷鳴アリ。
 八月八日 

 同志の四七日、読経一、吾人は別に霊の国家を有す。日本国その国権国法をもって吾人を銃殺し、なお飽き足らず骨肉を微塵(みじん)にし、遠く国家の外に放擲すとも、ついに如何ともすべからざるは霊なり。吾人は別に霊の国家、神大日本を有す。
一、吾人は別に信念の天地を有す。日本国の朝野ことごとく吾人を国賊叛逆として容れずといえども、吾人は別に信念の天地、莫大日本を有す。
一、吾人に霊の国家あり、信念の天地あり、現状の日本吾にとりて何かあらん。この不義不信堕落の国家を吾人の真国家神日本は膺懲せざるべからず。
一、大義明らかならざるとき国家ありとも其日本にあらず。国体亡ぶとき国家ありとも神日本は亡ぶ。
一、捕縛投獄死刑、ああわが肉体は極度に従順なりき。しかれども魂は従わじ。水遠に抗し無窮に闘い、尺寸といえども退譲するものにあらず。国家の権力をもって圧し、軍の威武をもって迫るとも、ひとり不屈の魂魄(こんぱく)を止めて大義を絶叫し、破邪討好せずんば止まず。


 余は日本一のスネ者だ。世をあげて軍部ライサンの時代に「軍部をたおせ、軍部は維新の最後の強固な敵だ、青年将校は軍部の青年将校たるべからず、士官候補生は軍の士官候補生たるなかれ、革命将校たれ、革命武学生たれ、革命とは軍閥を討幕することなり。上官にそむけ、軍規を乱せ、たとい軍旗の前においてもひるむなかれ」と言いて戦いつづけたのだ。スネ者、乱暴者の言が的中して、今や同志は一網打尽にやられている。もう少し早くこのスネモノ菱海の言うことを信じていさえしたら、青年将校は二月蹶起においてもっともっと偉大な働きをしていたろうに。この次に来る敵は今の同志の中にいるぞ。油断するな、もって非なる革命同志によって真人物がたおされるぞ。革命を量(はか)る尺度は日本改造法案だ。法案を不可なりとする輩に対しては断じて油断するな。たとい協同戦線をなすともたえず警戒せよ。しかして協同戦闘の終了後、直ちに獅子身中の敵を処置することを忘るるな。
 八月九日 

 死刑判決主文中の「絶対にわが国体に容れざる」云々は、如何に考えてみても承服できぬ。天皇大権を干犯(かんぱん)せる国賊を討つことがなぜ国体に容れぬのだ。剣をもってしたのが国体に容れずと言うのか、兵力をもってしたのが然りと言うのか。天皇の玉体に危害を加えんとした者に対して、忠誠なる日本人は直ちに剣をもって立つ、この場合剣をもって賊を斬ることは赤子(せきし)の道である。天皇大権は玉体と不二(ふじ)一体のものである。されば大権の干犯者(統帥権干犯)に対して、純忠無二なる真日本人が激怒してこの賊を討つことは当然のことではないか。その討奸の手段のごときは剣によろうが、弾丸によろうが、爆撃しようが、多数兵士とともにしようが何らとう必要がない。忠誠心の徹底せる兵士は簡単に剣をもって斬奸するのだ。忠義心が自利私慾で曇っている奴は理由をつけて逃げるのだ。ただそれだけの差だ、だから斬ることが国体に容れぬとか何とか言うことは絶対にないのだ。否々、天皇を侵す賊を斬ることが国体であるのだ。国体に徹底すると国体を侵すものを斬らねばおれなくなる。しかしてこれを斬ることが国体であるのだ。公判中に吾人は右の論法をもって裁判官にせまった。ところが彼らはロンドン条約もまた七・一五も統帥権干犯にあらず、と言って逃げるのだ。

 余は断乎として言った。「二者とも明らかに統帥権の干犯である。現在の不備なる法律の知識をもってしては解釈ができぬ。法官の低級なる国体観をもってしては理解ができぬ。この統帥権干犯の事実を明確に認識し得るものは、ひとり国体に対する信念信仰の堅固なるもののみである。余の言うことはそれだけだが、一告白つけ加えておくことがある。法官は統帥権干犯にあらずと言うが、何をもって然りとなすか。余ははなはだしく疑う。現在の国法は大権干犯を罰する規定すらないところの不備ズサンなるものではないか。法律眼をもってロンドン条約と七・一五の大権干犯を明らかにすることはできないはずではないか。ついでに言っておく。本公判すら全く吾人の言論を圧したるヒミツ裁判で、立権国日本の天皇の名においてされる公判とは言えないではないか。軍司法権の歪曲、司法大権の乱用とも言うべき事実が、現に行なわれつつあるではないか。統帥権の干犯が行なわれなかったと断言できる道理がないではないか」と。 

 理においては充分に余が勝ったのだ。しかし如何にせん、徳川幕府の公判延で松陰が大義をといているようなものだ。いやそれよりもっとひどいのだ。天皇の名をもって頭からおさえつけるのだ。天皇陛下にこの情(ありさま)をお知らせ申し上げねばいけない。国体を知らぬ自恣僭上の輩どもが天皇の御徳をけがすこと、今日よりはなはだしきはない。この非国体的賊類どもが吾人を呼んで「絶対にわが国体に容れず」云々と放言するのだ。余は法華経の勧持品を身読体読した。
 八月十日 

 「私は決して国賊ではありません。日本第一の忠義着ですから、村長が何と言っても、区長が何と言っても、署長が何と言っても、地下の衆が何と言っても、屁もひり合わないで下さい。今の日本人は性根がくさりきっていますから、真実の忠義がわからないのです。私どものような真実の忠義は今から二十年も五十年もしないと、世間の人にはわかりません」。 

 守が学校でいじめられているような事はないでしりんりんょうか、それも心配です。「叔父は日本一の忠義者だと言うことを、よくよく守に教えてやって下さい」。

 私の骨がかえったら、とみ子と相談の上、都合のいいところへ埋めて下さい。


 「もし警察や役場の人などがカンショウなどして、カレコレ文句をいうようなことがあったら、決して頭をさげたらいけません。もしそれに頭をさげるようでしたら、私は成仏できません。村長であろうと区長であろうと、磯部浅一の霊骨に対しては指一本、文句一口いわしては磯部家の祖先と、磯部家の孫末代に対してすまないのです。葬式などはコソコソとしないで、堂々と大ぴらにやって下さい。負けては駄目ですよ、決して負けてはいけませんぞ。私の遺骨をたてにとって、村長とでもケイサツでも総理大臣とでも日本国中を相手にしてでもケンカをするつもりで葬式をして下さい」。

 「磯部の一家を引きつれて、どこまでも私の忠義を主張して下さい」。


 右は家兄へ宛てた手紙の一節だ。しかして括弧内は刑務所長によって削除されたるところだ。吾人は今何人に向っても正義を主張することを許されぬ。家兄へ送る手紙、しかも遺骨に関することすら許さぬのだ。刑務所の曰く「コノ文を許すと所長が認めたことになる」と、認めたことになるから許さぬというのは認めぬということだ。吾人の正義を否定するということだ。
 八月十一日 

 天皇陛下は十五名の無双の忠義者を殺されたのであろうか。そして陛下の周囲には国民が最もきらっている国奸らを近づけて、彼らのいいなり放題におまかせになっているのだろうか。陛下 われわれ同志ほど、国を思い陛下のことをおもう者は日本国中どこをさがしても決しておりません。その忠義者をなぜいじめるのでありますか。朕は事情を全く知らぬと仰せられてはなりません。仮りにも十五名の将校を銃殺するのです。殺すのであります。陛下の赤子を殺すのでありますぞ。殺すと言うことはかんたんな問題ではないはずであります。陛下のお耳に達しないはずはありません。お耳に達したならば、なぜ充分に事情をお究(きわ)め遊ばしませんのでございますか。なぜ不義の臣らをしりぞけて、忠烈な士を国民の中に求めて事情をお聞き遊ばしませぬのでございますか、何というご失政ではありましょう。

 こんなことをたびたびなさりますと、日本国民は陛下をおうらみ申すようになりますぞ。菱海はウソやオべンチャラは申しません。陛下のこと、日本のことを思いつめたあげくに、以上のことだけは申し上げねば臣としての忠道が立ちませんから、少しもカザらないで陛下に申し上げるのであります。

 陛下 日本は天皇の独裁国であってはなりません。重臣元老貴族の独裁国であるも断じて許せません。明治以後の日本は、天皇を政治的中心とした一君と万民との一体的立憲国であります。もっとワカリ易く申し上げると、天皇を政治的中心とせる近代的民主国であります。さようであらねばならない国体でありますから、何人の独裁をも許しません。しかるに今の日本は何というざまでありましょうか。天皇を政治的中心とせる元老、重臣、貴族、軍閥、政党、財閥の独裁の独裁国ではありませぬか。いやいや、よくよく観察すると、この特権階級の独裁政治は、天皇をさえないがしろにしているのでありますぞ。天皇をローマ法王にしておりますぞ。ロボットにし奉って彼らが自恣専断を思うままに続けておりますぞ。

 日本国の山々津々の民どもは、この独裁政治の下にあえいでいるのでありますぞ。陛下 なぜもっと民をごらんになりませぬか。日本国民の九割は貧苦にしなびて、おこる元気もないのでありますぞ。陛下がどうしても菱海の申し条をおききとどけ下さらねばいたし方ございません。菱海は再び陛下側近の賊を討つまでであります。今度こそは宮中にしのび込んでも、陛下の大御前ででも、きっと側近の奸を討ちとります。

 おそらく陛下は、陛下の御前を血に染めるほどのことをせねば、お気付きあそばさぬのでありましょう。悲しいことでありますが、陛下のため、皇祖皇宗のため、仕方ありません、菱海は必ずやりますぞ。悪臣どもの上奏したことをそのままうけ入れあそばして、忠義の赤子を銃殺なされましたところの陛下は、不明であられるということはまぬかれません。かくのごとき不明をお重ねあそばすと、神々のおいかりにふれますぞ。いかに陛下でも、神の道をおふみちがえあそばすと、ご皇運の涯てることもござります。

 統帥権を干犯したほどの大それた国賊どもをお近づけあそばすものでありますから、二月事件が起ったのでありますぞ。佐郷屋、相沢が決死挺身して国体を守り、統帥大権を守ったのでありますのに、かんじんかなめの陛下がよくよくその事情をおきわめあそばさないで、何時までも国賊の言いなりになってござられますから、日本がよく治らないで常にガタガタして、そこここで特権階級がつけねらっているのでありますぞ。陛下 菱海は死にのぞみ、陛下の御聖明に訴えるのであります。どうぞ菱海の切ない忠義心を御明察下さりますよう伏して祈ります。獄中不断に思うことは、陛下のことでごぎります。陛下さえシッカリとあそばせば、日本は大丈夫でございます。同志を早くお側へおよび下さい。
 八月十二日 

 今日は十五同志の命日。先月十二日は日本歴史の悲劇であった。同志は起床すると一同君ケ代を唱え、また例の渋川の読経に和して瞑目の祈りを捧げた様子で、余と村中とは離れたる監房から、わずかにその声をきくのであった。朝食を了りてしばらくすると、万歳万歳の声がしきりに起きる。悲痛なる最後の声だ、うらみの声だ、血とともにしぼり出す声だ。笑い声もきこえる、その声たるや誠にいん惨である。悪鬼がゲラゲラと笑う声にも比較できぬ声だ。澄み切った非常なる怒りとうらみと憤激とから来る涙のはての笑声だ。カラカラした、ちっともウルオイのない澄み切った笑声だ。うれしくてたまらぬ時の涙より、もっともっとひどい、形容のできぬ悲しみの極の笑だ。

 余は、泣けるならこんな時は泣いた方が楽だと思ったが、泣けるどころか涙一滴出ぬ。カラカラした気持でボオーとして、何だか気がとおくなって、気狂いのように意味もなくゲラゲラと笑ってみたくなった。午前八時半頃からパンパンパンと急速な銃声をきく。そのたびに胸を打たれるような苦痛をおぼえた。あまりに気が立ってジットしておれぬので、詩を吟じてみようと思ってやってみたが、声がうまく出ないのでやめて部屋をグルグルまわって何かしらブツブツ言ってみた。お経をとなえるほどの心のヨユウも起こらぬのであった。午前中にだいたい終了した様子だ。

 午後から夜にかけて、看守諸君がしきりにやって来て話もしないで声を立てて泣いた。アンマリ軍部のやり方がヒドイと言って泣いた。皆さんはえらい、たしかに青年将校は日本中の誰よりもえらいと言って泣いた。必ず世の中がかわります、キット仇は誰かが討ちますと言って泣いた、中には私の手をにぎって、磯部さん、私たちも日本国民です、貴方たちの志を無にはしませんと言って、誓言をする著さえあった。この状態が単に一時の興奮だとは考えられぬ。私は国民の声を看守諸君からきいたのだ。全日本人の被圧迫階級は、コトゴトクわれわれの味方だということを知って、力強い心持になった。その夜から二日二夜は死人のようになってコソコソと眠った。死刑判決以後一週間、連日の祈とうと興フンに身心綿のごとくにつかれたのだ。二月二十六日以来の永い戦闘が一まず終ったので、つかれの出るのもむりからぬことだ。 

 宛も本日 ――弟が面会に来て、寺内が九州の青年にねらわれたとかのことを通じてくれた。不思議な因縁だ、たしかに今に何か起こることを予感する。余は死にたくない。も一度出てやり直したい。三宅坂の台上を三十分自由にさしてくれたら、軍幕僚を皆殺しにしてみせる。死にたくない、仇がうちたい、全幕僚を虐殺して復讐したい。
 八日十二日 

 政府の優柔不信に業をにやしたる軍部は、国政一新の実を速やかにすべき理由として曰く「軍部はあれだけの粛軍の犠牲を出したるに、政府は庶政の一新に尽力するの誠意を欠けり。よろしく軍部の犠牲に対して代償を払うべし」と、何ぞその言の悲痛なるやだ。馬鹿につける薬はない。軍部という大馬鹿者は自分の子供を自分で好んで殺しておいて、他人に代償を求めるのだ。かくのごときたわけた軍部だから、正義の青年将校を殺すことを粛軍だとも考えちがえをするはずだ。

 正義の青年将校は国奸元老重臣を討ったのだ。その忠烈の将校を虐殺すると言うことは、それが直ちに元老重臣らいっさいの国奸に拝脆コウ頭することになるのではないか。一たびコウ頭した軍部が、今さら代償を払えと言ったとて何になるか。軍部の馬鹿野郎、いったい軍部は政府を何と見ているのだ。政府は常に元老重臣の化身ではないか。だから政府に対して言うことは、元老重臣に対して言うのと同様だ。

 よく考えてみよ、元老重臣に代償を払えとせまったら、彼らは何と言うだろう。オイオイ軍部よ変なことを言うな。おまえの子供は俺のいのちをとろうとした大それた奴だ。元来俺が手打ちにすべきところを許してやったら、おまえは自分でスキ好んで子供を殺したのだ。だから俺が代償を払う道理はどこにもないではないか。おまえの子供と同様に、国家改造という代償を俺にせまるだろうが、俺とはおまえの子供の考えはちがっていて国賊の考えだと信じている。おまえもおまえの子供を国賊だと言って、最先きに天下に発表したではないか。それに今さら、おまえが子供と同じように国家改造など言うのは、おまえ自身が国賊だと言うことになるぞ。代償なんか一文もやるものか、と元老おやじが言いつのったら、軍部さん、何とする。馬鹿野郎軍部、ざまをみろ。

 貴様は元老重臣からも見はなされた、今に国民から見はなされ、孝行者の青年将校、下士兵から見はなされるぞ。いやいやもうとっくの昔にみはなされているのだ。軍首脳部という高慢ちきなおどり姫さん、おまえさんは自分の力を過信して、背景の舞台をムリヤリに自分でとり除いた。そしてわたしのおどりをみよとばかりに、国政一新というやつをおどっている、背景があればこそ、おどりも人気をよぶのだ。しかるにおまえさんのうしろには、もう美しい絵道具も三味シキ、タイコたたきの青年将校も一人もいないので、見物人はこんなおどりに木戸銭が払えるかといってかえった。おまえさんはさあ大変と思って、代償をはらえといって追かけたら、何に代償? 何をいうか、自分で勝手に背景をとりのけておどったのではないか、とけんもホロロPだ。おどり姫さん、おまえはいっさいの見物人から見はなされたことを知れ。
 八月十四日 

 身は死せども霊は決して死せず候間「銃殺されたら、優秀なユウレイになって所信を貫くつもりに御座候えども、いささか心配なることは、小生近年スッカリ頭髪が抜けてキンキラキンの禿頭にあいなり候間ユウレイが滑稽過ぎて凄味がなく、ききめがないではあるまいかと思い、辛痛致しおり候。貴家へは化けて出ぬつもりに候えども、ヒョット方向をまちがえて、貴家へ行ったら禿頭の奴は小生に候間、米の茶一杯下さるよう願上候」、「正義者必勝神仏照覧」。右は山田洋大尉への通信の一部、括弧内は削除されたるところだ。神仏照覧まで削除されるのだから、当局の弾圧の程度が知れる。これではいよいよこの次が悲惨だ。相沢中佐、対馬は天皇陛下万歳といいて銃殺された。安藤はチチブの宮の万歳を祈って死んだ。余は日夜、陛下に忠諌を申し上げている。八百万の神神を叱っているのゼ、この意気のままで死することにする。

 天皇陛下 何という御失政でござりますか、なぜ奸臣を遠ざけて、忠烈無双の士をお召し下さりませぬか。八百万の神々、何をボンヤリしてござるのだ、なぜおいたましい陛下をお守り下さらぬのだ。これが余の最初から最後までの言葉だ。日本国中の者どもが、一人のこらず陛下にいつわりの忠をするとも、余一人は真の忠道を守る、真の忠道とは正義直諌をすることだ。明治元年十月十七日の正義直諌の詔に曰く、「およそ事の得失可否はよろしく正義直諌、朕が心を啓沃すべし」と。
 八月十五日 

 村中、安藤、香田、栗原、田中、等々十五同志は一人残らず偉大だ、神だ、善人だ。しかし余だけは例外だ、余は悪人だ。だからどうも物事を善意に正直に解せられぬ。例の奉勅命令に対しても、余だけは初めからてんで問題にしなかった。インチキ奉勅命令なんかに誰が服従するかというのが真底の腹だった。刑務所においても、どうも刑務所の規そくなんか少しも守れない。後で笑われるぞ、刑務所の規そくを守っておとなしくしようなど、同志に忠告されたが、どうも同志の忠告がぴんと来ぬ。あとで笑われるも糞もあるか、刑務所キソクを目茶目茶にこわせばそれでいいのだ。人は善の神になれ、俺は一人、悪の神になって仇をウツのだ。
 八月十六日 

 毎日大悪人になる修業にお経をあげている。戒厳司令部、陸軍省、参謀本部をやき打ちすることもできないようなお人好しでは駄目だ。インチキ奉勅命令にハイハイというて、とうとうへこたれるようないくじなしでは駄目だ。善人すぎるのだ、テッテイした善人ならいいのだが、余のごときは悪人のくせに善人といわれたがるからいけないのだ。陸軍省をやき、参謀本部を爆破し、中央部軍人を皆殺しにしたら、賊といわれても満足して死ねるのだったのに、奉勅命令にも抗して決死決戦したのなら、大命に抗したといわれても平気で笑って死ねるのだったが、なまじッかな事をしたので、賊でもない官軍でもないヨウカイ変化になってしまった。

 前原一誠が殺される時「ウントコサ」といって首の坐に上ったのも、西郷が新八(?)どん「このへんでようごわしょう」といってカイシャクをたのんで死んで行ったのも、二人がどこまでも大義のための反抗をして、男児の意地をたてとおしたからの大満足から来る安心立命の一言だ。大義のために奉勅命令に抗して一歩も引かぬほどの大男児になれなかったのは、俺が小悪人だからだ、小利巧だからだ、小才子、小善人だったからだ。
 八月十七日 

 元老も重臣も国民も軍隊も警察も裁判所も監獄も、天皇機関説ならざるはない。昭和日本はようやく天皇機関説時代にまで進化した。吾人は進化の聖戦を作戦指導する先覚者だったはず。されば元老と重臣と官憲と軍隊と裁判所と刑務所を討ちつくして、天皇機関説日本をさらに一段階高き進化の域に進ましむるを任とした。しかるに天皇機関説国家の機関説奉勅命令に抗することをもなし得ず終りたるは、省みてはずべき事である。この時代、この国家において吾人のごとき者のみは、奉勅命令に抗するとも忠道をあやまりたるものでないことを確信する。余は、真忠大義大節の士は、奉勅命令に抗すべきであることを断じていう。二月革命の日、断然奉勅命令に抗して決戦死闘せざりし吾人は、後世、大忠大義の士にわらわるることを覚悟せねばならぬ。
 八月十八日 

 北先生のことを思う。先生は老体でこの暑さは苦しいだろう。つくづく日本という大馬鹿な国がいやになる。先生のような人をなぜいじめるのだ。先生を牢獄に入れて、日本はどれだけいい事があるのだ。先生と西田氏と菅波、大岸両氏などは、どんな事があつてもしばらく日本に生きていてもらいたい。先生、からだに気をつけて下さい。そしてどうかして出所して下さい。私は先生と西田氏の一日も速やかに出所できるように祈ります。祈りでききめがないなら、天上でまた一いくさ致します。余がこの頃胸にえがく国家は、穢土日本を征め亡ぼそうとしている。このくさり果てた日本が何だ、一日も早く亡ばねば駄目だ、神様のようにえらい同志を迫害する日本ヨ、おまえは悪魔に堕落してしまっているぞ。
 八月十九日 

 西田税氏を思う。氏は現代日本の大材である。士官候補生時代、早くも国家の前途に憂心を抱き、改革運動の渦中に投じて、爾来十有五年。一貫してあらゆる権力、威武、不義、不正とたたかいてたゆむところがない。ともすれば権門に媚り威武に屈して、その主義を忘れ、主張をかえ、恬然たる改革運動の陣営内において、氏のごとく不屈不惑の士はけだし絶無である。氏の偉大なるゆえんは、単にその運動における経験多き先輩なるがためでもなく、また特権階級に向って膝を屈せざるためのみでもない。氏はその骨髄から血管、筋肉、外皮まで、全身全体が革命的であるのだ。この点が何人の追ズイをも許さぬところだ。氏の言動、一句一行ことごとく革命的である。決して妥協しない。だから敵も多いのである、しかも氏は、この多数の敵の中にキ然として節を持する。敵が多ければ多いほど敢然たる態度をとって寸分の譲歩をしない。この信念だけは氏以外の同志に見出すことができない。余は数十数百の同志を失うとも、革命日本のため、氏一人のみは決して失ってはならぬと心痛している。
 八月二十日 

 相沢中佐の四九日だ。祈りをなす。
 八月二十一日 

 日本改造法案大綱は絶対の真理だ。一点一角の毀却を許さぬ。今回死したる同志中でも、改造法案に対する理解の不徹底なる者が多かった。また残っている多数同志も、ほとんどすべてがアヤフヤであり、天狗である。だから余は、革命日本のために同志は法案の真理を唱えることに終始せなければならぬということを言い残しておくのだ。法案はわが革命党のコーランだ。剣だけあってコーランのないマホメットはあなどるべしだ。同志諸君、コーランを忘却して何とする。法案は大体いいが字句がわるいと言うことなかれ。民主主義と言うはしからずと遁辞を設くるなかれ。堂々と法案の一字一句を主張せよ。一点一角の譲歩もするな。しかして、特に日本が明治以後近代的民主国なることを主張して、いっさいの敵類を滅亡させよ。
 八月二十二日 大神通力
 八月二十三日 

 日本改造法案大網中、結言、国家の権利、緒言、純正社会主義と国体論の緒言を、法華経とともに朝夕読誦す。これによりていっさいの敵類を折伏するのだ。

 官吏横暴一等国日本、わが官吏のごとく横暴なるはない。官吏といえばハシクレの小者までがいばり散らして国民を圧する。刑務所看守中にもはなはだしく不遜な奴がいる。この無礼なるハシクレ官吏が民間同志に対しては、殊さらになまいきな振舞をする。 余は不義の抑圧の下には一瞬たりとも黙止することができぬ。三月収容初期、われらを国賊視し、反徒扱いにしたので、怒り心頭に発してブンナグロウとさえした事があったが、この頃また一、二の不所存なハシクレ野郎が無礼な言動と抑圧するのを見た。今は少し我まんしておくが、機会があったらブチ殺してしまいたい。この不明なるハシクレ野郎どもが、特権階級の犬になって正義の国士を圧し、銃殺の手伝いまでしたのだ。
 八月二十四日 

 一、山田洋の病状瀕よからざるをきく、為に祈る。彼の病床煩々の病苦はおそらく余の銃殺さるることより大ならん。天は何がために彼のごとき剛直至誠の真人物を苦しめるのか。
 二、日本という大馬鹿が、自分で自分の手足を切って苦痛にもだえている。
 三、日本がわれわれのごとき大正義者を国賊奴徒として迫害する間は、絶対に神の怒りはとけぬ。なぜならば、われわれの言動はことごとく天命を奉じたるところの神のそれであるからだ。
 四、全日本国民は神威を知れ。
 五、俺は死なぬ、死ぬものか、日本をこのままにして死ねるものか。俺が死んだら日本は悪人輩の思うままにされる。俺は百千万歳、無窮に生きているぞ。
 八月二十五日 

 天皇陛下は何を考えてござられますか。なぜ側近の悪人輩をおシカリあそばさぬのでござります。陛下の側近に対してする全国民の轟々たる声をおきき下さい。
 八月二十六日 

 軍部をたおせ、軍閥をたおせ、軍閥幕僚を皆殺しにせよ、しからずんば日本はとてもよくならん。軍部の提灯もちをする国民と、愛国団体といっさいのものを軍閥とともにたおせ、軍閥をたおさずして維新はない。
 八月二十七日 

 処刑さるるまでに寺内、次官、局長、石本、藤井らの奴輩だけなりとも、いのり殺してやる。
 八月二十八日 

 竜袖にかくれて皎々不義を重ねてやまぬ重臣、元老、軍閥等のために、いかに多くの国民が泣いているか。天皇陛下 この惨タンたる国家の現状を御覧下さい。陛下が、私どもの義挙を国賊叛徒の業とお考えあそばされていられるらしいウワサを刑務所の中で耳にして、私どもは血涙をしぼりました、真に血涙をしぼったのです。陛下が私どもの挙をおききあそばして、 「日本もロシヤのようになりましたね」と言うことを側近に言われたとのことを耳にして、私は数日間気が狂いました。

 「日本もロシヤのようになりましたね」とははたして如何なる御聖旨かにわかにわかりかねますが、何でもウワサによると、青年将校の思想行動がロシヤ革命当時のそれであるという意味らしいとのことをソク聞した時には、神も仏もないものかと思い、神仏をうらみました。だが私も他の同志も、いつまでもメソメソと泣いてばかりはいませんぞ。泣いて泣き寝入りは致しません、怒って憤然と立ちます。今の私は怒髪天をつくの怒りにもえています。私は今は、陛下をお叱り申し上げるところにまで、精神が高まりました。だから毎日朝から晩まで、陛下をお叱り申しております。天皇陛下 何というご失政でありますか、何というザマです、皇祖皇宗におあやまりなされませ。
 八月二十九日 

 十五同志の四九日だ、感無量。同志が去って世の中が変った。石本(寅三)が軍事課長になり、寺内はそのまま大臣、南が朝鮮(総督)、ああ、鈴木貫太郎も牧野も、西園寺も、湯浅もますます威勢を振っている。たしかにわが十五同志の死は、世の中を変化さした。悪く変化さした、残念だ。少しも国家のためになれなかったとは残念千万だ。今にみろ、悪人どもいつまでもさかえさせはせぬぞ。悪い奴がさかえて、いい人間が苦しむなんて、そんなベラ棒なことが許しておけるか。
 八月三十日 

 一、余は極楽にゆかぬ、断然地ゴクにゆく。地ゴクに行って牧野、西園寺、寺内、南、鈴木貫太郎、石本等々、後から来る悪人ばらを地ゴクでヤッツケるのだ。ユカイ、ユカイ、余はたしかに鬼になれる自信がある。地ゴクの鬼にはなれる。今のうちにしっかりした性根をつくってザン忍猛烈な鬼になるのだ。涙も血も一滴ない悪鬼になるぞ。
 二、自分に都合が悪いと、正義の士を国賊にしてムリヤリに殺してしまう。そしてその血のかわかぬ内に、今度は自分の都合のために贈位をする。石碑を立て表忠頌徳をはじめる。何だバカバカしい、くだらぬことはやめてくれ。俺は表忠塔となって観光客の前にさらされることを最もきらう。いわんや俺らに贈位することによって、自分の悪業のインペイと自分の位チを守り地位を高める奴らの道具にされることは真平だ。俺の思想信念行動は、銅像を立て石碑を立て贈位されることによって正義になるのではない。はじめから正義だ、幾千年たっても正義だ。国賊だ、教徒だ、順逆をあやまったなど下らぬことを言うな。また忠臣だ、石碑だ贈位だなど下ることも言うな。
「革命とは順逆不二の法門なり」と、コレナル哉コレナル哉、国賊でも忠臣でもないのだ。
 八月三十一日 

 刑務所看守の中にもバク府の犬がいる。馬鹿野郎、今にみろ、目明し文吉だ。トテモワルイ看守がいる、中にはとても国士もいる、大臣にでもしたいような人物もいる。

 遺書には横書きで「正気」と力強く記している。

 「磯部浅一の昭和十一年三月三日陳述(憲兵大尉 大谷啓二郎)」(「磯部浅一の四日間 [ 憲兵訊問調書から ]」)。
 私は二十五日の午後七時三十分頃、歩兵第一聯隊に勤務して居ります機関銃隊の栗原中尉の処へ山本少尉と共に参りました。山本は当日軍服の儘夕方の五時頃私の宅に訪れて来たので、私から決意を述べたら即座に同意し、私と共に行動したのであります。歩一機関銃隊将校室に行った時には、林少尉、栗原中尉が同室して居たと思ふ。十時頃迄機関銃隊に居り、そりから第十一中隊将校室に参りました。其の時には香田大尉、丹生中尉、村中が同室して居りました。此間、蹶起趣意書印刷は山本少尉が担当し、村中、磯部、香田が要望事項の意見開陳案を練り、香田が通信紙に認めて居ました。河野大尉が午後十一時歩一機関銃隊へ来て十二時過ぎ出発したので一寸機関銃隊へ行きました。それから歩三の状況を見るため、野中大尉の処へ連絡し、直ぐ歩一へ帰りました。歩三へ行くとき対馬、竹島中尉が自動車で来たので歩三前電車路で会ひましたので、
歩一へ行く様に示して置きました。

 二月二十六日の午前四時三十分頃、歩一の営門を出発しましたが、栗原中尉の指揮する機関銃隊及び第十一中隊と行動を共にし、赤坂山王下に出でて栗原部隊の首相官邸へ行くのを見つつ第十一中隊と共に陸相官邸に向ひました。私は丹生中隊の後尾を行きましたが、中隊人員は分りません。中隊の指揮は丹生中尉が致して、中隊の先頭には村中、香田、丹生の三名が居つたと思ひます。私は陸相官邸の門が開いて居りましたから、直ちに中に這入りました処、香田大尉村中が憲兵及官邸家人と大臣面会に就て折衝中でありました。丹生中尉は兵を区署して陸相官邸に配置しました。私共が陸相官邸に赴きました理由は、陸軍大臣閣下に事件の内容を申上げまして、時局の重大なる事に対する重大決意を得ようと思ったからであります。


 午前五時半頃、陸相官邸に参りまして色々と御願いしやうと思ひましたが、面会出来ませんので 約十回位各種の方法を講じ、決して危害を加ふるの意志なき事、及び 会見の理由を小松秘書官を通じて大臣に話して貰ひ、到着後約一時間半後に御面会いたしました。大臣との会見には香田大尉、村中と私が面会し、小松秘書官が立会して居りました。香田大尉から蹶起趣意書 ( 印刷した者 ) を 口頭にて申上げ、次に要望事項に関する意見及び 本朝来の行動の大要を申上げました。
 要望事項の意見とは、
一、此際断固たる大臣の決意の要請、
二、林大将、橋本中将、小磯、建川、南、宇垣諸将軍の逮捕、
三、襲撃部隊を其他一帯に位置せしめられたき事、
四、同志将校の数名の青年将校を東京に招致せられたき事、
   数名は、大岸、菅波、大蔵、朝山、小川、若松、末松(青森)、江藤(歩一二)、佐々木(歩七三)、
五、不純幕僚分子に対し処置を乞ふ、其人名は武藤章中佐、片倉少佐でありました。
 以上の要望を通信紙三、四枚に書いてある。多分香田大尉が持って居ると思ひます。大臣閣下との会見時間等はよく解りません。私は連絡をしたり、他の事をして居りました。会見途中、陸軍次官が御出でになり、次官から電話にて真崎将軍、山下少将、満井中佐を御召きになりましたので続いて官邸に来られました。私は其後、陸相官邸、警視庁、参謀本部を行動して居り、亦 陸相官邸正門にて連絡に任じ、二十六日の第一日には 陸軍首脳部の態度は殆んど解らぬ儘 経過しました。殺害を加へた者に対し知った其の順序、
1、高橋蔵相を完全にやつたこと、
2、斎藤内府を完全にやつたこと、
3、岡田総理をやつたこと、
4、鈴木貫太郎をやつたこと、
5、渡辺総監をやつたこと、
等でありますが、二十六日午後になつて牧野内府をやつたと云ふ噂を聞きました。

 二十六日午前午前十時頃、陸軍大臣官邸玄関にて片倉少佐を射ちました。其の状況は私は正門前にて連絡の為出て居りましたら将校が五、六名やつて来られたので、正門前に居た二、三名の将校が之を入らない様にすすめたが、片倉少佐が不服相でありました。私は片倉少佐は殆んど面識がなく、「 片倉 」 だと云ったので片倉少佐だと思ったが、殺す気になれぬ。一旦玄関の方へ引返しました。そしたら田中中尉が片倉少佐が来て居ると言ったので、又何とかせねばならぬと考へたが、殺意がピンと来ないので正門前まで歩いて行った。暫らくして憲兵控所の前で、片倉少佐が何か言って居るのを現認したが引返し、熟考したが殺意を生ぜず、それから玄関に来た時、大勢の将校が玄関前に来り居り、山下少将、石原大佐が将校に帰れ、軍人会館の方へ行けと、命じて居られたが、其時 片倉少佐が話たい事があると、語気荒く憤懣の状ありしを現認したので、此将校が居たのでは我々の威信も滅茶苦茶になると思ったので、所持の拳銃を以て片倉少佐の頭部左側面より一発発射し、更に軍刀を抜いて構まへましたが、片倉少佐は話せば分ると云ひつつ、玄関外の砂利敷の所に逃げたので、私も敢て追及せんとせず、刀を収めました。その状況は左の要図の通りであります。

 第一日の午後は、各々現在地を警備せしめられたいと言ふことを山下少将、鈴木貞一大佐、西村大佐、満井中佐に御願ひをしたので、尽力すると言ひ、西村大佐が警備司令部に折衝に行かれたのであります。小藤大佐、山口大尉は午前中に陸相官邸に来られた様に思ふ。私は第一日は、大体、陸相官邸に居り 夜は官邸に泊りました。第一日夜、満井中佐、馬奈木中佐が来られ「 これに依り御維新に入らねばならぬ 」ことを 御話ししたが、両官は極力尽力しやうとの事にて、今、宮中に参謀総長、陸相が行って居られるから一緒に連れて行かうと云ふ事になり、山下少将、満井中佐、馬奈木中佐、香田、村中、磯部のものが自動車にて宮中に行かんとして御門 ( 夜間の為判明せず ) に 行きました。目的は陸相閣下が宮中に於ては種々維新反対の人達に取囲まれて、本情勢を誤認してはいけないと言ふ訳で、満井中佐、馬奈木中佐、山下閣下の御発意を青年将校を同道して、青年将校の心情を陸相閣下に申上げて、陛下の御維新発程の議を奏上して頂く様に御願する為であつた。而し 此事は、山下閣下から勧められ、其代り 軍事参議官を陸相官邸に集って貰ふからと言ふのであつたが、不安であつたので一緒に行きましたが、御門の処に山下閣下丈け入門を許可され、吾々は入れなかつたのであります。

 当夜一時頃、 (二十七日)官邸で村中、香田、磯部、野中、栗原、對馬、竹嶌が参議官の集って居られる処へ出席して、主として香田大尉が今朝陸軍大臣に申上げたと同様の事を申上げ、各人も一口宛程申上げました。第二日の二十七日の夕方、両面罫紙に二十六日朝来行動せる将校は現在の位置にありて小藤部隊として、其地区の警備を行ふべき旨の警備司令官命令 ( 香椎中将の靑の鉛筆を以てする華押あり )
を見て、大いに安心し、農相官邸に宿営しました。此命令の出た事に就て、村中が二十六日夜、香椎中将閣下に司令部で御会ひして我々が此の一帯の台上を占領することは維新発程の原動力であるから、是非此位置に頑張り度い旨を具申し、其許可があつたものと考へて居ります。同日夜、農相官邸に泊りましたのは田中勝中尉と山本少尉と私の三人でありました。


 
二十八日の朝、憲兵隊の神谷能弘少佐が自分を訪れて来ました。それは同日朝山本少尉が警備司令部を訪問し、司令官参謀長に会ひ、此時神谷少佐が立会し、後、神谷少佐と山本少尉が私を訪れて来たので、私は警備司令官に御会ひしたいと云ふたので、神谷少佐が案内して呉れました。軍人会館に行ったが司令官に会ふ事が出来ず、石原大佐と満井中佐に会ひました。大佐殿は奉勅命令が出たら、どうするかと申されたから、其時は命令に従はねばならぬと答へ、兎に角吾々は現在の位置に置いて頂く様にならぬものだらうかと申しあげましたら、大佐が意見具申に行かれ、その間に満井中佐が来られたので、私は「台上に居る私共に解散さすことは軍が維新翼賛する事にならぬ。即ち 私共があの台上に居る事によつて国を挙げての維新断行の機でもあり、下っても実に宮中不臣の徒の策謀に依って、陛下の大御心を蔽い奉った奉勅命令だとしか考へられませんでしたから、此際 吾々は部隊を解さんされたならば、断乎各自の決意に於て残したる不臣の徒に対して、天誅を加へねばならぬ」旨を申しました。他の者の意見は奉勅命令が下れば命の儘に動かねばならぬと言ふことが大体纏り掛けて居ったが、更に相談することとなり、其結果、全員奉勅命令に従ひ大命の儘に行動すると云ふことになつた。リンク→討伐を断行する
 そこで第一線部隊を引上げ、将校を官邸に集合せしむるべく香田、村中が第一線部隊に連絡にゆきました。第一線部隊の一部の将校 ( 安藤、外に歩の三部隊 )  が最後迄やるのだと言ふことを主張したので、私共も之に同意し、最後迄やる決心をとつた訳であります。

 同日午後第一線の安藤から電話にて、兎に角、相手方はすつかり包囲して攻撃態勢をとつて居る。吾々に徹底的に賊名を着せて了せようとしておるとの邪念がありました。斯くて私は大いに苦悩しましたが、機関説信者が聖明を蔽ふて居るのであるから、仮令賊名を着ても最後迄現位置に残る、解散されれば私一個としても不信の徒を、機関説思想を、洗ひ清め不純勢力を退却せしむる事が出来、斯くて皇国の維新に前進することが出来ると思ふ。然るに軍の首脳部には、吾々を解散させる処置のみ汲々として、維新に入ると言ふ事を考へて居ないのではないかと話し、司令官、石原大佐に申上げて頂きたいと御願しました。暫らくしてから石原大佐、満井中佐が入座し、両人で私の手を取り、石原大佐は司令官に具申したが採用されず、奉勅命令は一度出したら之は実行しない訳には行かぬ、御上を欺くことになると言ふ司令官の断乎たる決心であるから、とても動かせない、男と男の腹であるから維新に入るから暫く引け、と言ふ事でありました。私共の同志は、私が指揮者でもありませんので、私が言っても聞かないものがあるかも知れない、然し私は私の出来る丈けの事は御尽しする、それから解散されたならば、私は一人でも未だ残って居る国体反逆者、不臣の徒に対して突入する決心である、軍部に於て林大将閣下の居らるる事は御国の為に忍ぶ事能はざる事である、と 答へ、解りました。それから陸相官邸に帰りました。
官邸に香田、村中、栗原、野中等、山下閣下、鈴木大佐殿が居られました。私は奉勅命令斬らうと考へて居ます。其夜は鉄相官邸に泊りました。

 
私は二十九日の夜明に、ラジオで奉勅命令を聞きました。其時は鉄道大臣の官邸の所を歩いている時でありました。そこで首相官邸に参り、栗原中に対し、「 君は如何に考へるか 」と 申したら、栗原は兵を残すことによつて維新が出来るのであり、中には可愛そうな兵も居るから此儘殺す事も忍びないと云ひました。それで私も其決心を採る、君は第一線に連絡して呉れ、僕も連絡するからとて別れました。それから官邸の方へ帰る途中、坂井中尉等に会ひました。坂井は奉勅命令には従ひ、部隊を解散する。私は其決心を採ったのであるから、他の所はどうであらうと私はそうすると申しました。それからも安藤の処へ行かうとして、其途中(農林大臣官邸附近)栗原に会ひましたら、栗原は野中、香田、村中、坂井、渋川は奉勅命令に従ひ行動する事に決まったと言ひましたので、私は栗原と共に山王ホテルの安藤の処に説きに行きました。安藤の処で、奉勅命令があつた以上撤退すべきである旨を説きたるも、安藤は「 貴様は始めの決心が変っている 」とて叱られました。然し安藤に対し懇々申上げて射る内に、安藤も少し考へさせて呉れと暫らく休んで居った。其後暫らくして、「 俺は負ける事は嫌だ、奉勅命令に遵ふから包囲を解け、それでなければ賊名を着せられる丈だ 」との意味の事を申しました。  リンク→叛徒の名を蒙った儘、兵を帰せない
それで石原大佐の処に誰かが連絡したものと見ゆる。歩兵少佐参謀が石原大佐の代理と称し来り、「 今となつては、脱出するか、自決するか、二つに一つだ 」と言ひました。 リンク→中隊長殿、死なないで下さい
安藤は之を聞き、愈々賊名を着せられたと思ったのであらう。 

 
私、村中、田中とは陸相官邸に行ってから直ちに小室に入れられました。室の外で機関銃の音がした様に感じました。私は安藤は最後の決戦をして居るのではないかと思った。愈々維新を真に願って居る同志の将校の気持ちを解かず、安藤の如き純一無垢の人をば、大御心を蔽ひ奉る幕僚の群衆が群り来て殺すのかと思ひ、皇国維新の為に涙を禁ずることが出来ませんでした。又陸相官邸内でピストルの音が聞えた様に感じました。誰か同志が自決か銃殺されたのではないかと思ひました。こんな事では皇国の維新は汝の日に来るのかと思ひ、胸が避ける様でありました。

 
夕刻になり刑務所に送られました。自動車の中で、安田少尉から誰か自決をせまられて非常に叱られておつたと聞、更に更に幕僚に対する義憤に燃えました。
 本決行は何時頃より計画されたか
 それは何時頃かといふことではない、吾々同志も斯く考へ又部隊の下士官兵からも やらなければならないことを申出てたので、私達も同感で上下一致した之等は命令的でなく、同志の決心と準備が進んで来て 出来た事でありまして、即時実行と否と種々意見がありましたが一致して来たのであります。遂に決心をしたのは二十二日の晩でした。其時は駒場の栗原中尉の宅に集まりましたが、集まったのは 村中、栗原、中橋、河野、私 等であります。目標の選定は 岡田、斎藤、鈴木、渡辺、牧野、高橋、西園寺 等であります。具体的の計画は其の席上でありました。二十六日の会合前は毎晩集って居りました。同志の会合は歩一、歩三の各部隊 栗原其他の私宅等で定位置はありません。 二十二日夜の会合に私が行った時には 栗原、中橋、河野等が居りました。此時決まった行動計画は岡田には栗原 ( 機関銃中隊 ) 、鈴木邸は安藤中隊、渡辺邸は斎藤内府を襲撃した一部隊、牧野は歩一の部隊、斎藤内府は坂井、高橋近衛歩三の中隊、西園寺は對馬中尉豊橋の部隊。
 對馬中尉との連絡は如何
 二月十九日 私が豊橋に行って對馬の自宅に於て話しましたこと、愈々全同志で今月の内に決行する旨を述べ、西園寺をやって貰へぬだらうかと申しましたら、對馬は上京したい希望があった様だが、最後には對馬独力にてやらうと答へました。猶 私は他の者に絶対に話さないでくれと言ふて来ました。其後 二十三日に栗原が豊橋に行き對馬に連絡した事は聞いております。
 貴官と西田との関係如何
 西田とは此の事件に就いては話して居りません。正月に会ってから之迄一回も会って居りません。
 北一輝との関係は如何
 北一輝とも話して居りません。昨年五月頃 一回会ひましたが 其れ以来会って居ません。
 部外者との関係は如何
 此の事件に関し 部外の人に蹶起した事に就いては知りません。
 在京其他の将校で参加すると思っていた人は誰か
 安田君とは二十五日夜 歩三にて久し振りに会ひましたが最近会って居りません。近衛輜重兵大隊にはありません。津田沼の鉄道聯隊に私等の同志で楠田曦とは最近会ひません、其他の関係はありません。
 山本少尉との関係は如何
 山本少尉とは数年前に私の親友である山田洋大尉 ( 歩兵三十四聯隊中隊長ハルピン駐屯) が紹介して呉れました。爾来同志として交際して居ります。数日前に本人の宅へ行き 二十五日には何かあるかも知れぬから来て呉れぬかと申しましたら、二十四、五日は生徒を連れて近歩三に行くから、二十五日午後参りますと答へ、同日夕 制服にて私の宅に来てくれました。内容に就いては詳しく申しませんでした。只 明日実行するが参加されますかと申したら、即刻参加を表明し 私と行動を共にしたのであります。
 二月二十六日を選んだ情勢判断如何
 一、国際情勢より考へた判断。二、国内の情勢よりする判断。現内閣の選挙勝利、無産大衆党の進出、相沢中佐の公判の進展情勢が思ふ様に行かなかった事、数年来の国内の疲弊、国民の情況。三、右より判断し維新は戦争前でないと危険と考えました。
 軍の内部情勢に対する判断如何
 益々軍の上層部が重臣閥と同一意味に成るのではないかと判断をしたのであります。最も中心になりますのは吾々同志の結束に依って維新発展の第一段階に躍進し得ると、決心がつきましたからであります。但しこの判断に対しては安藤は飽く迄反対し、時期尚早を唱へて居ました。
 二十二日夜以来の会合如何
  遡って申します。相沢さんがやってから私は暫く煩悶(はんもん)しました。昨年の十月頃私は単独で内大臣と総理 軍部には林 渡辺の中、何れか一名を殺害しやうと考へた、十二月一日より三週間連続して明治神宮に参拝し落付きました故 一人でやらうと決心した、斎藤内府や首相等の身辺に就き 色々と探りました。途中こうした決心に来て相沢公判に入った処が、何処からともなく やらなければいけないと言ふ声が起って来た、それで各人同志が各自に於て持つ個人関係が相沢事件後密度を加へ、計画的でなくして今申しました情勢が段々進んで来ました。重臣閥をやる事は 御維新の躍進の第一歩であります。具体的直接の原因は天王機関説国体明徴問題 等であります。
 弾薬の分配準備如何
 弾薬の分配に就いては部隊の将校が準備しましたので、私は関係はありません。
 本事件に対する関係者如何
 本事件に関し、軍隊地方同志對馬君以外部外には知らした事はありません。
 主として通報連絡の中心は誰か
 私は大分やりました、他の人もやりました。軍同志以外より電話等受けた事実に就いては私は知りません。
 貴官と山本との関係如何
 自分と山本とは蹶起することに就いては何等の関係はありません。
 現在山本が居ないが如何
 山本少尉は軍服にて参加しましたが、二十九日の朝 安藤の処で軍服で会ひましたのが最後であります。
 渋川との関係如何
 私と渋川君と初めて会ひましたのは、昭和七年 上京後でありました。本事件に関しては渋川君の参加を好みません。それは 私は渋川君は最も尊敬する同志であるから、斯くの如き人は後に残っていて欲しいこと及び今度の事は所謂青年将校の手によってやり、民間の同志は入れない方針であったからであります。それで二月中旬頃気配を寛治てるなら是非参加したいと申しましたが、私は止める様に言ひましたので、渋川君には此事に就いては何も申して居ませんが、二月二十八日の朝、初めて出会し其の場所は一寸覚えませんが、参加した事を知りました。
 決起趣意書は何時作成せしや
 それは村中の手によって作製せられ、二十五日の夜中に 歩一第十一中隊で印刷しました。 ( 謄写版 )
 部隊の下士官以下から維新をやらねばならぬと言ふ声があつたと言ふが何時頃から聞いたか
 相沢事件後 部隊の将校、栗原、安藤、坂井等より聞きました。
 本決行に要図を準備しありと言ふが其辺の経緯に就いて述べよ
 全然知りません。
 同志中誰々が中心人物か
 同志は誰が中心と言ふ事はありませんが、仕事の関係からは村中 、磯部、香田がそれに当ると思ひます。
 本蹶起に就いての地位は如何
 計画には一部の参画をしております。行動に就いては連絡同志の代表補佐をした形になっております。
 安藤大尉が本計画に反対だと言ふ事を述べているが其の経緯を述べよ
 安藤は本計画に就いて 時期の問題に就いて絶対反対であり、従って 歩三の部隊は最後迄纏らなかったのでした。坂井中尉の如きは安藤がやらなくてもやると言っていましたが、結局安藤が蹶起決心をしたのは二十三日でした。私は二十二日夜会合の時は 安藤が参加しなければ自分丈けでも重臣を斬ると言ふ決心でありました。
 山口大尉との関係如何
 山口は同志ではない。今度の事件に就いて山口が関係があるかないかは、私にはわかりません。
 決起趣意書に依ると満洲に第一師団が行くことが一つの動機の如く考へらるるが如何
 それに就いては私は全然不同意でありました。それは蹶起の一つの小さな動機にはなるかも知れないが、全般的のものであってはならない。吾々は飽く迄国体反逆統帥権を干犯する賊に対する怒りから動機を考へねばならぬ。吾々は其全精神 全体を傾注して国家の害になる不臣の徒に対して義憤に燃え、立たねばならぬと言ふ事を常に強く主張し続けて来たのであります。唯 趣意書にある通り 満洲に行けば約二年間は御国の衰亡に進んで行くのを見過ごさねばならぬ。それで何とかして東京の全同志が結束して渡満前に不臣の徒を除いて置かねばならぬと考へて居りました。私は政変の程度でもよいから私単独でもやると考へておったが、同志が多数参加するに至ったのであります。然し尚ほ 時期が早いではないかと潜在的に考へていました。それ故 不成功の場合は賊名を受けると考へて決行したのであります。
 二十八日 常盤少尉に現金を交付したと言ふが如何
 百円 ( 百円紙幣一枚 ) 与へました。
 其の金の出所は如何
 其金は二十五日の夜、歩一にて村中から三百円より多かったと思ふが、其位の金を渡され 所持して居りました。常盤少尉の外に猶 三十円 五十円と他の部隊に与へましたが、其時や人物 場所 等に就いては今 明白に記憶しません。
 村中が会計をして居ったのか
 平素から村中から月百円又は百五十円、多い時はそれ以上貰ひました。其金は全国の同志の醸金だと思って居ます。金の関係の事は一々村中から聞いて居ません。
 今度の蹶起に就いて相当の軍資金を準備したりと思はるるか如何
 一切金の事は村中がやっておるので私には解りません。然し同志から送ってくるもの、村中が自ら算段したものか其内容だと思ひます。同志からの醸金は香田大尉が担当しておったのであります。
 村中が自ら算段すると言ふのはどう言ふ意味か
 村中の親類 ( 夫人の実家 ) に資産家があると言ふので、其処からでも貰って来るのだらうと思ひます。吾々は資金の事は何等問題にせず、資金があれば結構ですが、無くとも何等痛痒を感じません。それが我等の維新の特徴であります。
 行動間部外者から慰問金等を送って来たものはないか
 安藤中隊の所ではあったかもしれません。
 それはどう言ふ事か
 幸楽に安藤中隊が居たが、夫神女中などが大変親切にしておったから、そう言ふ事もあるだらうと考へたのであります。
 軍隊を動かした事に就いては如何に考へありや
 私共一同は下士官兵に至る迄全部同志であり、決して陛下御親率の軍隊を私共将校の私兵として使ったのではない。私共が蹶起する事に参加を希望しない下士官兵を残して居ること。出発前に大事決行を打明けて決して騙していない事。本事件決行の事に下士官兵側より将校に対して蹶起を慫慂しょうようしたる実例のある事。等に照して見る時は将校が私兵として使ったのではなく、御維新をし奉る将校下士官兵より成れる同志の一団として蹶起した事が明瞭であり、普通の概念を以て考へれば、如何にも将校が統帥命令によって部下を使用した様に思はりますが、私共青年将校及下士官は長き十年近くの間、皇国御維新の為に 将校下士官兵が同志の一団として、蹶起すべき時期の到来することを教示して来ました。之が為に 今日に至りましては、下士官兵中に 一般将校よりも確乎たる理念信念を有する者があるに至りました。斯くの如くして私共は下士官兵も同志として行動したものと信じております。
 蹶起前に参加を希望せざるものは残置したと言ふが其の実例は如何
 私としては参加を希望しない者は残す様に従来より申しており、部隊将校に就いても同様に残して居る事を信じて居ます。
 下士官兵を騙してないと言ふのは
 私が二十五日夜、歩三安藤中隊、野中中隊に連絡に行きました時、中隊長が下士官を集め、大事決行を打明けて居った。
 兵は中隊がやるものと考へたか 或は 聯隊全部で行くものと考へたか
 其点は中隊丈けの同志でやる様に言っていたと考へて居ります。
 下士官兵が将校に蹶起をすすめたと言ふが其実例は如何
 相沢公判前後か部隊下士官兵から「もう此時期にやらなければ農民はどうするか 」とて将校に具申して来たと言ふ事を、栗原中尉、安藤大尉、坂井中尉、香田大尉 等から聞いております。各中隊には初年兵の内務班にも維新班と言ふものを設けた者があると言ふ事を聞いて居ります。それは香田大尉に或る下士官からの手紙でそう書いてあった相であります。
 下士官兵と雖も同志である其同志の一団が蹶起したのであると言ふが兵器弾薬を用ひたことは如何
 其処迄は考へませんでした。
 奉勅命令に何故に従はなかったか
 大命の儘に行動する決心でありました。只 所謂各級指揮官から奉勅命令を示して説論したと言ふ戒厳司令部の公表----二十九日の新聞 及 飛行機よりのビラに依って知る----は奉勅命令が下ったと言ふ説論ではなしに、下ったらどうするかと云ふ説論であったので、奉勅命令が下ったと言ふ事が全同志に徹底して居なかった為に処置が遅れたのであります。奉勅命令がありましたのが徹底せなかったと言ひ、今から考へて見て、真に大命ありしに対してはまことに恐懼して居る次第であります。只 奉勅命令が政党政治家のする様な議会解散の為解散の詔書を事前に上奏御裁可を得、機に応じて渙発するが如き 天王機関説的思想に依って行はれるものでありましたならば、私共は非常なる国体の冒瀆だと考へます。当時の状況に於きましては 確かに一部重臣 其他軍幕僚等の策動に依って、機関説的思想より発する奉勅命令が渙発されるような気運を感取したのであります。かかる場合に於ては奉勅命令に従はないと言ふのでなくて、機関説的思想によって陛下の御聖明を蔽ひ奉る不臣の徒に対して、最後迄 戦はねばならんと考へました。
 本事件が国際的 国内的に如何なる影響を与へたと考ふるか
 国際的には維新を弾圧する故に依って非常に不利な形勢を惹起したと考へます。然し 蹶起した同志が日本の国体を護らんとする愛国的の軍人の一団であることが、諸外国に明らかになったならば、諸外国人は 日本人の決死報国の気迫を知って、日本に対し非常なる脅威を感じ、国際関係は決して悪化しないで 寧ろ日本の優越を確保するであらうと思ひます。更に国内的には 此の事に依って維新の聖業に翼賛する国民的気迫が最大強化すると信じます。
 本行為に対し現下の国民は如何に考へありと思ふか
 よく判りません。
 これは何か  ( 此時証第一号を示す )
 此紙片は、粛軍に関する意見上申を出す前に、村中と相談する為に覚書を書いたものであると思ひます。
 荒木 真崎の名を出さぬ事とは如何
 当時の人の名を利用して自己の立場を云為するものあり、それでは吾々の自主的立場が失はれ、又 諸将軍に迷惑をかけることになるで、その意見上申をする時には、荒木 真崎の名を出さぬことと覚書したものだと思ひます。
 連書の事と言ふのは何か
 村中、磯部の両人が連書すると云ふ意味であります。
 現在の心境を述べよ
 そう長く生きておるとは思っておりませんので、畢(ひつ)生の至誠を傾け尽して御国の為、維新の為に陳述をしたいと思っております。
 他に何か述べることはないか
 ありません
 陳述人    磯部浅一
 昭和十一年三月二日   < ・・憲兵大尉 大谷啓二郎 >
 此の手帳はお前のものか  ( 此の時 証第二号を示す )
 そうであります
 第二枚目に人名記載せられあるは如何
 地方の同志或は自分の尊敬して居る先輩であります。平野少将 ( 助九郎・豊野要塞司令官 )、松浦中将 ( 淳六郎・第十師団長 )、下元中将 ( 熊弥・第八師団長 )、目黒 ( 茂臣 ) 憲兵大尉、持永少将 ( 浅治・朝鮮憲兵司令官 )は 先輩であります。同志は大岸、菅波、小川、若松 ( 満則・歩兵第四十八聯隊 )、鈴木五郎 ( 歩兵第六聯隊附一等主計 )、野北祐常 ( 小倉砲兵工廠 )、戸次 ( 俊雄 ) は福岡二十四聯隊、片岡俊郎は札幌、福井寛治は朝鮮第八十聯隊、竹中 ( 英雄 ) は久留米戦車第一聯隊で中尉、末松太平 ( 歩兵五 )、草間 ( 勇 ) は仙台の野砲二聯隊の中尉、寺尾砲兵大尉 ( 征太露・浜松高射砲隊 ) であります。
 これを書いたのは何時頃か
 一月下旬、相沢公判の始まり頃と思ひます。
 何の目的か
 私は一月頃から決行を独りで考へて居りましたので、事前に同志に連絡しようと思って書きました。色々考へた末 誰にも連絡すまいと結論しました。其れは前からの腹案でありました。
 一月末頃書いたと云ふが其れは同志としてこれ丈けの人に連絡しようとして書いたのであるか
 左様であります。
 此れは何時書きしや ( 此の時証第二号の手帳第二枚目を示す )
 これは決行十日程前でありまして、これ等の方は私共の気持が判って下さる方々であります。( 此の時 左の人名を読み上げた )
 牟田口、西村、村上、鈴木貞一、満井佐吉、小畑、岡村、山下、本庄、荒木、真崎、石原、川島、古荘、今井。
 牟田口、山下、石原、川島、古荘の氏名を消してあるのは如何なる理由か
 何か事故の関係であると思ひます。即ち訪問するにお会ひの出来た者を消したかも知れません。これは蹶起する十日前に書いたもので、予め一大事件発生せば、これに善処せられ度き事をお願いする積りでありました。
 それ等は誰に諒解を求めたか
 これを書いてから村上大佐、満井中佐、今井閣下にお会ひしました。
 何事をお話したか
 何事か起って来た場合、中央部諸官が善処して貰ひ度いと云ふことを、村上大佐、満井中佐、今井中将に話をしてあります。山下少将には決行前 歩三の者が会って居る筈です。川島陸相には満井中佐を通し、石原大佐は渋川 満井中佐を通して話してあります。満井中佐は何事か青年将校がやるだろうとは 大体知って居りますが、何時も今やっては駄目だと止められて居ました。満井中佐は公判を通して青年将校を中心として何か起ると云って居ります。
 其の他の人々には会ったか
 私は会って居りません。
 このノートは何処に置きしや
 図嚢の中に入れて置きました。
 これは誰のか  ( 此の時証第参号偕行社名簿を示す )
 私のであります。図嚢の中に入れて置きました。名簿中赤鉛筆にて×印を記入せるは 同志に悪い奴で、青色ペン書き傍線の人々は同志に良いのであります。?附は疑問の人であります。
 赤印を附したるものは何かする企図ありしや
 赤い印を附けたる連中は陸軍省占領中出動したならばやっつけ様と思って居ました。
 これは何か  ( 証第四号名刺入在中の満井中佐の名刺を示す )
 何時受取ったものか判然しません。
 これは何か  ( 証第四号名刺入在中の磯部菱海の名刺を示す )
 デマを聞いて幕僚諸官の逆宣伝なりとして書いたのである。
 この名刺は如何 ( 証第四号名刺入在中の磯部菱海の名刺を示す )
 皇族内閣は断じて不可なり、天皇絶対に対する信念上 書いたものです。
 これは何時書きしや ( 此の時証第五号昭和十一年日本人名選を示す )
 二月二十五日夜 歩一第十一中隊に行って書いたので、後藤文夫内相、伊沢多喜男、池田成彬、稲垣三郎中将、岩崎小弥太、財部彪、若槻礼次郎、一木喜徳郎、これ等をやっつけ様として書いたのであります。而し是等は如何にしてやるべきかの結論の定まらぬ内に出発した為、失敗したのでありまして、第一次を大事に取り過ぎた故でもあります。
 蹶起前の会合場所は如何
 歩一、歩三、竜土軒、栗原の自宅等であります。併し 大事な話は軍隊内部でなければ出来ませんので、歩一、歩三を選んだのであります。軍隊内では面会を求めて将校室で会って居りました。
 全員会合したること有りや
 全部の会合はありません、個人個人で会ひました。
 安田少尉は二十五日出発の際 遺書を遺してあるが誰か連絡をとりしか
 村中と思ひます。
 汝は誰々に知らせや
 私は 栗原、河野、田中勝、山本又 等に決行を知らせました。
 今度の蹶起につき海軍に連絡せしや
 海軍には知人がありませんので全然連絡しません。
 其他申立つること無きや
 海軍の五・一五事件の時は色々の本を沢山入れたそうでありますが、出来得ましたなら御尽力下さいまして 色々の本を沢山差入れて下さる様お願ひ致します」。
 「反駁(2) 磯部浅一」。
 「二月二十八日の行動に関する陳述に於て次の如く述べたり。二十八日朝友人より電話を以て、昨夜、林、寺内、植田の三大将戒厳司令部に司令官を訪問会見せりとの通知あり、自分は二十七日に於ける軍事参議官との陸相官邸に於ける会見に林大将が見えざりしを以て或は何等かの策動を為しあるにあらずやとの感を抱きありし折柄とて、さては我々を圧迫する策動をして居るな? と感じたり。尚、其の際友人に対し外部の状況は如何と質問したる処、清浦伯が参内せんとして湯浅、一木に阻止せられたる事実を知るやとの反問あり。愈々反対勢力の擡頭し来りたるを感ぜられたり、云々」。





(私論.私見)