林八郎・歩兵少尉(47期)



 更新日/2021(平成31.5.1日より栄和改元/栄和3).4.26日

 【以前の流れは、「2.26事件史その4、処刑考」の項に記す】

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、皇道派名将録「林八郎・歩兵少尉(47期)」を確認する。(お墓は野中さん岡山、村中さん仙台、磯部さん東京、安藤さん仙台、相澤さん仙台)

 2011.6.4日 れんだいこ拝


死刑組

【林八郎(はやし はちろう)プロフィール】(47期)(歩兵少尉)
 歩兵少尉(歩兵第1連隊機関銃隊、47期)。1914年(大正3年)9月5日、東京・赤坂で生まれた。二・二六事件首相官邸を襲撃。2・26事件の判決により銃殺刑。1936(昭和11).7.12日没、享年21歳。
 1914年(大正3年)9月、参謀本部林大八歩兵大尉陸士16期、のち少将)の次男として東京市に生まれる。本籍地山形県鶴岡市

 1928年(昭和3年)4月、東京府立第四中学校から難関の東京陸軍幼年学校(定員50名)を受験し、見事合格する。地方幼年学校は当初、東京、仙台名古屋大阪広島熊本の6校(各50名)が存在したが、大正末の宇垣軍縮により、林が受験した頃には東京1校のみとなっていた。教育総監部編集の手引きによると、応募者は2,437名に及んだという。

 このとき、東京府立第六中学校から合格した小林友一(終戦時は少佐47期首席)と親友となっている。戦後に小林は、林との思い出をその著書『同期の雪』に記している。

 1931年
(昭和6年)4月、陸軍士官学校予科へ進み、幼年学校から46名、中学校等から予科に合格した301名、計347名が入校している(「追憶」陸士第47期生追悼録、p.1)。この年秋には満州事変が勃発し、三月事件十月事件血盟団事件が起き、1932年(昭和7年)3月、金沢衛戍する歩兵第7聯隊長歩兵大佐)だった父・大八が上海攻略の鉤を握る江湾鎮西にて戦死した(第一次上海事変)。同年9月に兵科が発表され歩兵科に、1933年(昭和8年)3月に任地が発表され、同期の伊藤常男池田俊彦とともに歩兵第1聯隊となっている。同年4月、林たちは陸軍士官学校本科へ進んでいる。この間にも総理大臣犬養毅暗殺された五・一五事件陸軍士官学校事件がおきている。

 『同期の雪』の中で同期生・山口立(終戦時は第28軍参謀、少佐)の次のような回想がある。「林の思想動向について顕著な変化を感じたのは、陸士の本科に入ってからである。彼が二・二六事件に参加する芽があったと感ずるのであるが、私(山口)は当時とてもそこまで彼が考え詰めているとは思わなかったのである。」

 1935年(昭和10年)6月、士官学校本科を卒業、成績は91番/330名と上位クラスだった。8月には陸軍省軍務局永田鉄山少将16期首席)が執務中に相沢三郎歩兵中佐22期)に斬殺された相沢事件がおきている。9月、歩兵少尉に任官し歩兵第1聯隊第1中隊に配属。12月には栗原安秀歩兵中尉(41期)のいる機関銃隊附に異動している。

 1933年(昭和8年)、救国埼玉青年挺身隊事件に関与した戦車第2聯隊附の栗原が、1935年(昭和10年)3月に歩兵第1聯隊に戻ってくることになった経緯については、二・二六事件で、栗原とともに首相官邸を襲撃した池田俊彦歩兵少尉(47期)の証言がある。「小藤(恵)聯隊長がかつて私(池田)に、栗原中尉を歩一に帰したいきさつに話してくれたことがある。小藤聯隊長は、歩一に来る前は陸軍省の補任課長をしていた。その時、札つきの栗原中尉を受け入れてくれる聯隊がどこにもないことを知った。自分がその出身の歩一の聯隊長でゆくことが内定していたので、それでは栗原中尉は自分が引き受けようと、同じ出身の歩一に帰したのである。小藤聯隊長は、おそらく栗原さんの『抑え役』として、林を機関銃隊へもっていったのだと思う。その林が栗原さんに共鳴してしまったのだ。」(『同期の雪』p.211,212)

 松本清張著『昭和史発掘7』によれば、栗原中尉が兵約300名に非常呼集を行なったのは1936年(昭和11年)2月26日午前3:30頃。午前4:30頃に兵営を出発、襲撃目標の首相官邸に向かった。栗原部隊の編制は、小銃第1小隊(栗原中尉兼任)、小銃第2小隊(池田少尉)、小銃第3小隊(林少尉)、機関銃小隊(尾島健次郎歩兵曹長)。首相官邸への到着は、午前5:00少し前であった。栗原の調書によると、襲撃状況は「先ヅ私ガ命ジテ首相官邸ノ通用門ヨリハ銃隊ノ粟田伍長ノ率ユル約二十名、裏門ヨリハ林少尉ノ率ユル一小隊約六十名、部隊ノ主力ハ私ガ指揮シ表門ヨリ這入リマシタガ、表玄関ハ戸締厳重ナ為這入レナイノデ、林少尉ノ這入ツタ裏門ノ方ニ廻ツテ裏玄関日本間ノ窓ヲ破壊シテ這入リマシタ」というものだった。その後、林の調書によると「林ハ首相官邸西方入口附近ニアル交番所ノ巡査ヲ逮捕セシムベク兵五名ヲ上等兵ニ附シヤリマシタ。処ガ正門ノ処ニ居タ巡査ガ邸内ニ逃ゲ込ミマシタノデ、私ノ部隊ハ其ノ後ヲ追ツテ正門入口ヨリ邸内ニ侵入シテ了ヒマシタ。ソコデ池田小隊ノ一部ヲ引率シテ西方入口ヨリ邸内ニ突入致シマシタ。其ノ時交番所ニ向ヒマシタ上等兵ノ一隊ハ、激シク抵抗シ乍ラ西方入口ノ傍マデ逃レタ巡査ヲ射殺シマシタ」と供述している。

 その後、(官邸警備の土井清松巡査が)「玄関から脱れてきた村上(嘉茂左衛門巡査)部長と出会ったので、いっしょに洗面所入口に行った。松尾(伝蔵)大佐は日本間に引き返し、村上部長が入口を死守する間に首相(岡田啓介)を日本間の奥深く避難させておき、自分はすでに村上部長に迫ってきた一将校(林八郎少尉)に対し素手で後ろから組みついたところ、背後から鉞のような鈍器で一撃を受けた。それでも屈せずに立向かうところ、軍刀で左肩を斬りつけられ、長さ三十二センチ余、深さ二十センチに達する切創その他数カ所に傷をうけて仆れた。」…(省略)…「かなり時間が経ってのことだが、麹町憲兵分隊青柳利之軍曹が首相官邸に入ることができて林少尉に会った。林と青柳は顔見知りである。林は自分の軍刀を青柳に見せて、この刀は斬れたぞ、と自慢した。青柳も如才なく刀を受取ってふところ紙をとり出してふき「刃こぼれもありません。どんなふうに斬ったかひとつ見せていただきもんですね」というと、「見せてやろう」と林は青柳をつれて日本間の方に歩きながらその朝の討入りの模様を話した。(『昭和史発掘7』p.61~63)

 2月29日には免官処分を受け、午前5:10に叛乱部隊の討伐命令が発せられ投降する。蹶起した47期の新品少尉(任官から半年程度)は、林を除いていずれも死一等を免じられている中、ただ一人死刑の断罪が下ったのは林の行動があまりに積極的だったからであろう。7月12日、東京陸軍軍法会議において叛乱罪で死刑判決を受けて、代々木練兵場にて処刑。享年21。林は死の間際まで、失敗の原因は同期生の近衛歩兵第3聯隊附の大高政楽歩兵少尉(終戦時、少佐)が、蹶起将校のひとりである同聯隊中橋基明歩兵中尉(41期)による宮城占拠計画を頓挫させたためと思い込んでいたという[1]

 大高少尉の談話「(宮城守衛隊)控所にとびこんだ今泉(義道)は『とんでもないことをしてしまった』といって男泣きに泣いたものだ。なにをしてしまったのか、それだけでは分からなかったが、私は『やってしまったことは仕方がないではないか』といって慰めたように憶えている」今泉元少尉のほうはこの問答の記憶がないそうである。ところで、大高少尉の右の慰め「やってしまったことは仕方がないではないか」という言葉は、今泉は何をやったのかとは質問しないで、その内容を以心伝心的に察して発せられているおもむきがある。このときの大高少尉の心理を忖度すれば、今泉が第七中隊付で、救援隊を称して中橋と共にきた、その中橋は要注意の青年将校だから、今泉少尉が「とんでもないことをした」という男泣きの言葉で、いわゆる昭和維新の武力決行に連れ出されたのだと察した、それで深くは訊かなかった、かと思われる。

 大高少尉がそう察するもう一つの要因は、その数日前に、やはり同期生で近歩三第一中隊付の木島隆一少尉から妙な電話があったことがある。「歩一の林八郎少尉(首相官邸襲撃参加)から木島に『実力では妨害してもいいが、筆ではやってくれるな』という意味の電話があった旨を木島から教えられた。事件の三日ほど前だったと思う」(『昭和史発掘7』p.176,177)

 「中橋中尉が入ってきたときは、門間(健太郎、29期)司令官も中溝(猛、37期)司令もいなかった。いれば私は上官の指示に従えばよいから中橋とじかに対決することはない。中橋は目を血走らせ、ただならぬ様子だった。私は三日前に歩一の林少尉の言葉を伝えてきた一中隊の木島少尉の妙な電話を思い出し、またさきほどの今泉少尉の口走ったこと、それにひっきりなしに鳴る十本ほどの電話の音で、中橋中尉がたいへんなことをやり出したにちがいないと覚った。覚ったというより推察した。つまり、中橋中尉は宮城を占領しようとしているにちがいないと思ったのだ。中橋の日ごろの言動と、眼前の異様な態度から、かく判断した」(『昭和史発掘7』p.183,184)

 中橋の軟禁を門間少佐から命じられたとは語られてないが、その命令はあったものと思われる。とにかく、大高が次にとった処置は適切であった。「私(大高)は、隣りの控所にいた兵五、六名に着剣させて連れてくると、中橋中尉を囲ませた。これには中橋中尉は意外だったらしいが、私を睨みつけ、どうしてこんなことをするのだ、と怒気を含んだ声で私を詰問した。私は、中橋が私のとった処置にだけ怒っていると分かったので、兵に銃から剣をはずさせて控所に引きあげさせた。…(省略)…中橋中尉と対い合って、私はなんとなく拳銃を取り出した。中橋は『おれも持っているんだ』と拳銃を出した。私のは中型のモーゼルで、中橋のは大型のブローニングだった。そのブローニングからプーンと硝煙の臭いがしてきた。発射してから間もないことが分かった。私はいよいよ中橋に疑惑を深めた。」(『昭和史発掘7』p.184,185)

 両者の睨み合いがしばらく続き、その後、中橋は午砲台附近の石垣の土手へ行って、信号手旗を持ってすぐ真向いの警視庁歩兵第3聯隊第7中隊長野中四郎歩兵大尉率いる兵約500名が待機している)のほうへ信号を送ろうとしていたところを片岡栄特務曹長に阻止されている。引用が長くなったが、大高少尉の活躍は大きく、少なからず中橋の戦意をくじいた可能性があり、林の思い込みとも言い難い面もあると思う。

 母への遺詠「御心を やすむる時も なかりしが 君に捧げし 此の身なりせば 母上様に捧ぐ 昭和十一年七月十一日 八郎
 家族親族

 「林八郎少尉の四日間 [ 憲兵訊問調書から ]」。
 二月二十六日午前二時三十分頃、下士官を起こし中隊事務室に集合せしめ、栗原中尉が「 昭和維新の為、只今り出て行く。 目標は首相官邸 」と 言ふ様な命令を出しました。中隊下士官には、平素より昭和維新に付て充分教育してありました。直ちに下士官は兵を起し武装をさせました。服装は軍装にて背嚢を除き、重機関銃九銃は実包銃身六銃、空包銃身三銃、軽機関銃四銃、拳銃は所持数全部、消防用鉞、梯子を携行せしめました。兵員二百八十名を小銃三小隊及機関銃いち小隊に編成し、中隊長栗原中尉は第一小隊長を兼ね、第二小隊長は池田少尉、第三小隊長は林、機関銃小隊は尾島曹長が指揮をとりました。午前四時三十分頃、表門を出発し交番のなき道を選び、午前五時稍前岡田首相官邸に到着しました。林は首相官邸西方入口に、附近にある巡査を逮捕せしむ可く五名を上等兵に附しやりました処が、正門の所に居た巡査が邸内に逃げ込みましたので、私の部隊は其の後を追って正門入口より邸内に侵入して了ひました。そこで私は、池田小隊の一部を引率して西方入口より邸内に突入致しました。其時交番所に向ひました。上等兵の一隊は、激しく抵抗しながら西方入口の傍迄逃れた巡査を射殺しました。西方入口り侵入した林の小隊は、日本間の玄関の扉を開けやうとしましたが開かないので、向って右側の窓を打ち壊し侵入しました。其時、警察官が非常に抵抗して兵数名が負傷致しましたので、私がその先頭に立ち斬り込み追ひ払ひました。首相の室内には誰も居りませんでしたから、明るくなつてから捜そうと決心して、兵を邸内に配置して居ると、兵が人が居ると言ふので、その部屋に行くと、二人の巡査が居りましたので、私は直にその一人を刺殺しますと、後の一人が後方から私に抱きつき倒しましたので直ちに起き上がり、その巡査をも斬殺して、尚も室内を捜して居ると、兵が室の側の空地に一人の男が居ると言って銃を構えて報告したので射てと命令して 殺さしめました。 一発で殺したと思ひましたに、後で調べて見ると顔と腹に各一発宛中つて居りました。尚、屋内を捜して居る内、暫時経て 栗原中尉が首相が居たと言ふので行って見ると、曩さきに自分が命じて撃たせたのがそれでした。寝室の隣の部屋に揚げてあつた写真と照合せた結果、其の男が岡田首相い゛あることを認めましたので、首相の寝床に抱え込み、兵を表玄関前に集結しました。此時が午前六時頃であります。

 此れが済むと栗原中尉は東京朝日新聞社を襲撃する為、「 トラック 」 二台に兵六十名余を乗せて出発しました。 暫時すると、蔵相を襲撃の目的に有した大江曹長の一隊六十名を中島少尉が指揮して来ましたので、之れと合併しました。負傷兵六、七名は衛戍病院に送り、朝食としてパンを市井わり購入しました。パン代金は栗原中尉が支出しました。その後は聯隊から給与を受けて居りました。私は午后一時頃、陸軍大臣官邸に連絡に行き、約二時間位で首相官邸に帰りました。陸相官邸では村中大尉に会ひました。其処には小田大尉外数名の将校が居りましたが、記憶は確実ではありません。

私はそれ以来、首相官邸の玄関の方の東端の室を寝室に充て、昼間は玄関口に居りました。

 二十八日に至り、敵 ( 戒厳部隊の意 ) が進出して来たと言ふ事を聴いたので防禦配備に就きました。最後迄一戦を交へる積りでした。

 二十九日、栗原中尉が「 此処迄やつて来たのだが、お互い日本軍人が撃ち合っても仕方がないから潔く将校は陛下のお裁きを受けやう 」と言はれたので私は之れに同意し、兵を邸内の表玄関口に集め、尾島曹長に後事を委し 陸相官邸に参りました。官邸には近歩一の兵だと思ひますが、既に警戒に就いて居りました。私は一室内に入れられ、憲兵の監視を受けて居りましたが、室内に居るとき自決を奨めて来た者もありますが、将来とても昭和維新の為働く意志を有するのと、何等悪い事を為したのではないと確信しているので自決の意志はありません。午后五時頃、身柄保護といふので憲兵に刀及拳銃を取り上げられ、補縄を懸けられ、刑務所に連れられて来ました。
 首相官邸の室内模様を研究せしや
 官邸内の模様は予め栗原中尉が要図を入手しておりました。要図は半紙に複写紙で書いてありました。
 要図を作りたるもの如何。
 知りません。
 事件中 上官より復帰命令を得ずや。
 戒厳令が下った事を知った事があるだけで、他に何等命令を受けたことは有りません。
 奉勅命令の出たことも知らないか。
 近歩三の聯隊長園山大佐より奉勅命令ありたるが如くを聞きたるも、園山大佐とは系統異なり 且は 種々のデマも飛ぶを以て少しも信用致しません。奉勅命令の内容は此処に居る部隊は解散して聯隊の兵営に帰れしあった様です。
 事件の計画を知りたるは何時か。
 本年一月中旬頃知りました。私は計画に携らず実行に参加しましたばかりです。
 本件に参加せしもの 並 部署如何。
 近歩三、歩三、鉄道聯隊の中島少尉等が参加する事 並 攻撃目標とを二月中旬頃達せられましたが、実行の日時を達せられましたのは前日であります。
 現在の思想を抱持するに至りし原因 並 経過如何。
 私は幼年学校入校前伯父青柳勝利の許に成育し、伯父は常に大君の為に忠義を尽せ、大君の為に考へてやれば策は自然に生まれるものであると 教へられ、此の頃から国士的精神を培はれて居りました。幼年学校に入学してから 指導生徒の訓示に依って忠君愛国の精神は愈々旺盛になり、国家将来に付き 深刻に考へる様になりました。私が幼年学校三年の時 一高在学中の兄は共産党事件関係の嫌疑で警察に留置されました、其頃兄から種々の話も聞いて居りましたが、私の考へとは天皇陛下に対し奉る事項に付 相違の点がありました。私の考は 父 ( 林大八大佐 ) が上海事変で戦死した当時、父の友達が来て種々話を聞かされて感奮興起し、大君の為に尽くさねばならぬと云ふ考は一層強化されました。然し 其の当時迄は 私の考は主として大アジア主義の実現と云ふ様な方面に向けられて居たが、其の後 十月事件、五・一五事件 等々 逢着して国内の問題を考へる様になり、右両事件にも関係する考へであったが、先輩たる山本春一少尉に止められ、止めましたが、国家改造の機の近きたる事を感ぜられました。士官学校予科を卒業して歩兵第一聯隊に配属せられてからは、将校集会所で佐藤竜雄大尉、香田大尉、栗原中尉 等の話を聞き、国内問題に対する関心を一層深くするに至り、士官学校本科に入校前同期生の佐々木 ( 二郎 ) から一緒に国家改造に乗り出さうではないかとの話ありて、之に同意し 爾来志を同じうする同期生との交際を深くし、本科入校後 佐々木の紹介で磯部主計と面談したが、当時の自分の考へは磯部主計の考へとは少し相違して居った、即ち 磯部主計の考へは 昭和維新の道に国軍が一体になるべきだと云ふに反し、自分の考へは 先づ国軍の一体を図り 而して後 国家改造に向ふべきだと云ふにあった。本科をそつぎょうして歩兵第一聯隊に帰ってから国軍の内容も段々よく分かる様になって、今迄の自分の考へは実現不可能と判り、結局磯部主計の考へと一致する様になり、十年十月第十中隊から機関銃隊に転じてからは、栗原中尉と一緒になり種々話を聞く機会も多くなったが、多少の意見の相違はあっても 目的とする所は一つであるから、栗原中尉と行動を共にする決心をして今回の挙に及ぼした訳です。
 今申立てた国軍の内容とは如何。
 中央部にある人々の昭和維新に対する考へが極めて薄弱で、到底国軍の一体化を図ることは覚束ない状態であることです。
 実行に着手せる当時の心境如何。
 重臣財閥を斃したならば、昭和維新の大命が下るものと考へて居ました。
 現在の心境如何。
 実行当時と何等変わりなく、あくまで昭和維新の目的を達成しようと思って居ます。
 宸襟を悩まし奉りたりと思はざりや。
 思ひません。反って陛下の下にある重臣がより以上に宸襟を悩まし奉って居たものと思ひます。私は最忠最良を行ったものと思っています、それは陛下の大御心を悩まし奉ったものを斃したからであります。
 昭和維新の思想を抱くに至った原因に付き現役軍人以外の者の訓化を受けし事ありや。
 幼年学校に入校前に伯父から訓化を受けた以外にありません。
 二月二十六日を選びし理由如何。
 栗原中尉の云ふ儘に実行せしのみで他に理由は有りません。
 国際的影響はどうだと思ふか。
 昭和維新が成功すれば影響なきも失敗であるから悪影響を及ぼしたものと思ひます。
 経費は如何にして得たるか。
 深く知らないが、栗原中尉は実家並奥様 ( 玉枝 ) の実家より送金を受けて居たやうだから、之を充てたものと思ふ。
 他に陳述す可き事なきや。
 有りません。
 陳述人  林 八郎 昭和十一年三月一日
 林八郎少尉証言
 「二月二十六日午前二時三十分頃、下士官を起こし中隊事務室に集合せしめ、栗原中尉が「昭和維新の為、只今り出て行く。 目標は首相官邸」と言ふ様な命令を出しました。中隊下士官には、平素より昭和維新に付て充分教育してありました。直ちに下士官は兵を起し武装をさせました」。





(私論.私見)