河野寿・航空兵大尉




 更新日/2021(平成31.5.1日より栄和改元/栄和3).4.23日

 【以前の流れは、「2.26事件史その4、処刑考」の項に記す】

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、皇道派名将録「河野寿・航空兵大尉」を確認する。(お墓は野中さん岡山、村中さん仙台、磯部さん東京、安藤さん仙台、相澤さん仙台)

 2011.6.4日 れんだいこ拝


自決組

【河野寿(こうの ひさし)プロフィール考】 (陸軍航空兵大尉・所沢陸軍飛行学校操縦学生)
 陸軍航空兵大尉(所沢陸軍飛行学校操縦科学生)。1907(明治40).3.27日、長崎県佐世保で生まれた。1936年(昭和11年).3.5日、割腹自決。亨年28歳。日本の陸軍軍人。航空兵大尉。所沢陸軍飛行学校操縦学生。二・二六事件に参加、湯河原で牧野伸顕前内大臣(伯爵)を襲撃したが負傷、後に自決した。
 1907(明治40).3.27日、長崎県佐世保で生まれた。父・左金太(海軍少将)。小学校4年のとき、熊本県熊本市に転居、碩台小学校に編入。元来河野家とは縁がなかった熊本への転居について、司は子弟教育を考えたうえでのことと推測している。

 旧制・熊本県立済々黌中学校(熊本県立済々黌高等学校)入学。同校は事件に関わった青年将校を他にも輩出している。
林正義 海軍中尉 五・一五事件に連座し、内乱予備罪で有罪。
安田優 陸軍砲兵少尉 二・二六事件に参加、斎藤実内大臣、渡辺錠太郎教育総監を襲撃・殺害、死刑。
清原康平 陸軍少尉 二・二六事件に参加、反逆罪(群衆指揮など)で無期禁固刑(のち恩赦)。

 熊本陸軍幼年学校入学。

 1928(昭和3).7月、陸軍士官学校(40期)卒業 。
 同年10月、陸軍砲兵少尉・横須賀重砲兵聯隊附。
 1931(昭和6).10月、 陸軍砲兵中尉。この頃、村中孝次と知り合う。
 1934(昭和9).2月、所沢陸軍飛行学校機関科学生。
 1934(昭和9).10月、陸軍航空兵中尉(転科)・飛行第12聯隊附。
 1935(昭和10).8月、 陸軍航空兵大尉・所沢陸軍飛行学校操縦学生。


 1936(昭和11)年、二・二六事件に参加。湯河原で前内大臣の牧野伸顕伯爵を襲撃。
 河野大尉の遺書。
 時勢ノ混濁ヲ慨(なげ)キ皇国ノ前途ヲ憂ウル余り、死ヲ賭シテ此ノ源ヲ絶チ、上 皇運ヲ扶翼シ奉リ、下 国民ノ幸福ヲ来サント思ヒ、遂ニ二月二十六日未明蹶起セリ。然ルニ事志ト違ヒ、大命ニ反抗スルノ徒トナル。悲ノ極ナリ。身既ニ逆徒ト化ス。何ヲ以テ国家ヲ覚醒セシメ得ヘキ。故ニ自決シ、以テ罪ヲ闕下に謝シ奉リ、一切ヲ清メ国民ニ告グ。
 辞世句
 「あを嵐 過ぎて静けき 日和かな」。

【二・二六事件のエピソードについて】
 民間人を主体とした襲撃部隊(河野以下8人)を指揮し自動車2台に分乗、歩兵第一連隊を2月26日0時40分頃出発。 5時頃湯河原に到着。伊藤屋旅館の元別館である「光風荘」にいた牧野伸顕前内大臣を襲撃した。警護の巡査皆川義孝は河野らに拳銃を突きつけられて案内を要求されたが、従う振りをしつつ、振り向きざまに発砲し、河野及び予備役曹長宮田晃を負傷させたが、皆川巡査は殺害された。 脱出を図った牧野は襲撃部隊に遭遇したが、旅館の従業員が牧野を「ご隠居さん」と呼んだために旅館主人の家族と勘違いした兵士によって石垣を抱え下ろされ、近隣の一般人が背負って逃げた。 この際、旅館の主人・岩本亀三と牧野の使用人で看護婦の森鈴江が銃撃を受けて負傷している。
 自決について

 牧野伸顕襲撃時に負傷、東京第一衛戍病院熱海分院(現・国際医療福祉大学熱海病院)に入院していた河野の元には、弟たちから自決を促す電報が寄せられていたが、本人は既に自決することを決めていたと言われる。面会に来た兄・河野司(当時上野松坂屋勤務)に自決用の刃物を密かに持参するよう依頼した。司は、渋谷・道玄坂の刃物店で果物ナイフを購入、差し入れを行った。3月5日午後、軍服に着替えて病室を抜けだした河野は、分院の外で割腹、頸動脈を突いて自決した。しかし果物ナイフだったことから致命傷にはならず、16時間が経った3月6日朝、死去した。享年30歳(満28歳没)。

 葬儀は東京で行われ、徳川好敏中将ら所沢飛行学校の教官、同期らも参列したという。墓所 賢崇寺(東京都港区元麻布)。なお、自決時の果物ナイフ、遺品などは、襲撃現場となった光風荘に展示してある。

 河野壽。 河野司 著 「湯河原襲撃」。
 「河野寿は明治四〇年三月二十七日、佐世保で生まれた。父は海軍少将河野左金太で剛直質実な人柄で、人一倍忠誠心の強い軍人であった。寿が小学校四年の春、熊本の碩台小学校に転入した。三日目、同級生のガキ大将が弱い子をいじめているのに立腹して「 よせ 」 と 一喝した。ガキ大将は新入生の癖に生意気だと、下駄で殴りかかった。肩から鞄を下した寿少年はいきなり竹の物差で相手の眉間を打った。その日の夕方、学校に呼び出された左金太は、帰ってきてしょんぼりしいている寿少年に言った。『今日お前のやったことに、お父さんは小言をいわない。しかし、物差でやったことは悪い。やるなら拳骨でやるんだ』。父の訓戒はこれだけであった。河野も幼い時の父の訓戒を肝に銘じていたものらしく、二・二六事件の直前、 磯部にこんな決意を告げている。『磯部さん、私は小学校の時、天皇陛下の行幸に際し、父からこんな事を教えられました。今日陛下の行幸をお迎えにお前たちは行くのだが、もし、陛下の“ろぼ”を乱す悪漢が お前たちのそばから飛び出したらどうするか、と。私も兄も父の問に答えなかったら、父は厳然として “飛びついて殺せ” といいました。私は理屈は知りません。しかし 私の理屈をいえば、父が子供の時教えてくれた、賊に飛びついて殺せという、たった一つがあるだけです。牧野だけは私にやらせてください。牧野を殺すことは、私は父の命令のようなものですよ』」。
 「河野司著  私の二・二六事件 から」が、「昭和十一年三月一日、熱海衛戍病院」と題して次のように記している。
 「 ご心配かけてすみません 」。弟は はじめて口を切った。思いもかけず兄弟きりの水入らずになったのであったが、ここにいたるまでの、緊張した心のしこりは急にはほぐれなかった。事件の結末が、最悪の事態に立至ったいま、事件のことに関してこちらから触れることは、弟の心境をいたずらに苦しめる結果になることを懸念して、意識的にこれを避けた。「 怪我をしたそうじゃないか。でも経過がよいそうで安心した 」「 たいしたことはありませんでした。しかし・・・・」。弟は言葉を切って眼をそらして、「 不覚の負傷でした。大失敗でした。おかげでなにもかもめちゃめちゃです。私が負傷をしなかったら牧野をやり損じるようなことはなかったでしょう。それよりも東京の同志達が逆賊になるような過誤をおかさせやしませんでした。それが なによりも一生の遺憾です 」「 きっと、血気にはやる栗原が事態をあやまったに違いありません。私がいれば栗原を抑えることができたと思うと残念でたまりません。取返しのつかないことをしてしまいました 」。栗原中尉ともっとも親しく、もっとも相通じていた弟としては、この間の事情について、一抹の予感があったらしく唇を噛んだ。事件に関する話は避けたいと思った心遣いもいまは無駄だった。弟の心中には、事件のこと以外には考えるなにもなかったようだ。「 勅命に抗するに至っては、万事終りです。いろいろと複雑な事情はあるに相違ありませんが、ことの如何を問わず、勅命に抗し、逆賊になるにおよんでは、大義名分が立ちません。こんな結果になろうとは夢にも考えなかったことです。無念この上もありません。死んでも死にきれない思いです 」暗然として黙考する弟の姿に、返すべき言葉もなかった。「 兄さん、どうか許してください。こと 志と違い、いやしくも逆賊となり終った今日、私一人はたとえその圏外にあったとはいえ、その責め同断です。この事態に処すべき私の覚悟は、すでに充分にできました。立派に死んでお詫びをいたします 」はっと 胸を衝くものがあった。弟は死を決意している。弟の参加を知って以来、日毎に悪化する情勢のなかで、事件のもたらす最悪の結果がなによりの傷心の種であった。が、規模こそちがえ、血盟団や五・一五事件等、この種の結末になにかしら心のよりどころを求めて、どうしても最後的な死を考えようとはしていなかった。あるいは そう考えることが怖ろしかったからであろう。血盟団、五・一五の人々のことが、弟の言葉を聞きながら脳裡をかすめる。「 しなないでも 」という 気持ちが浮んでくるが、言葉にはならなかった。

 ややあって、弟は再び語をついだ。「 実は、昨夜以来 まんじりともせず熟慮しました。それがいつの間にか叛乱部隊となり、帰順命令がでて事態の収拾を見た、という 最悪の結果を知らされたときは、ただ、呆然として、泣くに泣けませんでした。しかしこの絶望の中にも、なお一縷るの望みは、私たち同志が叛徒として処断されるようなことは よもやあるまいということでした。この最後の命の綱も、先刻の宮内省発表ですべてが終りました。圏外にあった私も、抗勅者として、同様に位記の返上を命ぜられました。国家のため、陛下の御為に起ち上がった私が、夢にも思わなかった叛徒に・・・・」弟は涙を流し、ふるえる唇を噛みしめて言葉を呑んだ。「 栗原や私たちは、万一、こと破れたさいにも、死 ということについては、一つの考えを持っていました。それは失敗の責任を自決によって解決する方法は、いわゆる武士道的の見方からすれば立派であり、綺麗であるが、反面安易な、弱い方法である。われわれの不伐の信念は、一度や二度の挫折によって挫けるものではない。自決によって打切られるような、そんな皮相なものではなく、死の苦しみを超克ちょうこくして、あらゆる苦難を闘い抜くことが、ほんとうに強い生き方であるという信念です。この考え方は、私はいまも変わりありません。しかしながら、この信念も、それを貫くことのできない、絶対の窮地に立つに至った現在、私の進むべき道はただ一つしかありません。叛徒 という絶体絶命の地位は、一死をもって処するあるのみです 」弟の眼にはもう涙はなかった。沈重な面持に、低く重く、悲壮な信念が一言一句、強く私の肺腑を衝いた。「 東京の同志たちはこの叛徒という厳然たる事実をなんと考えているのか諒解に苦しみます。私共の日頃の信念であるところの、あらゆる苦難を排して最後まで闘い抜く生き方も、現実の私どもの冷厳なる立場は、絶対にそれを許さないのです。私どもはたとえ、こと破れたさいも、恥を忍んでも生きながらえ、最後まで公判廷において所信を披瀝ひれきして世論を喚起し、結局の目的貫徹のために決意を固めていました。しかし 日本国民として、絶体絶命の 叛徒 となった現在、なにをいい、なにをしようとするのでしょう。東京の同志たちが、もしあえてこの現実を無視して、公判廷に立つことができたとしても、叛徒の言うことが、どうしても、世論に訴える方法があるでしょうか。たとえその途が開けたとしても、その訴えるところが世論の同調をえることがあるとすれば、それはいたずらに叛徒にくみする者を作ることになります。そのあげくは、さらに不忠を重ねる結果となるに過ぎないということを、深く考えねばなりません。こと志とまったく相反して、完全に破れ去った私どものとるべき唯一の途は、その言わんとし、訴えんとするところのすべてを、これを文章に残し、自らは自決して 以て闕下にその不忠の罪を謝し奉るより他はありません 」弟が考え抜き、苦しみ抜いた最後の決意はこれであった。不動の決意を眉宇に輝かせながら語る弟の語に、何一つ返す言葉もなく、私はただ無言でうなずくばかりであった。弟は語調を改めて、すくなくとも自分一人は、幸か不幸か熱海にあって、勅命に抗した事実はいささかもないことを認めてもらいたいこと、なお、亡父母もこのことだけは喜んでくださると思うと、苦悩のうちにも、わずかに自ら慰めるところのある心境を語った。・・・・・・

 「 河野大尉、今朝六時四十分死去す、来られよ 」との 官報が配達された。義兄と私は二人、ただちに熱海へ急行した。ラジオが弟の死を報じたのは午後一時だった。六日午後一時戒厳司令部発表  第八号湯河原にて牧野伯襲撃に際し負傷し、東京第一衛戍病院熱海分院に入院中の叛乱軍幹部元航空兵大尉河野寿は、昨五日自殺を図りて重態に陥り、本日六日午前六時四十分遂に死亡せり。

 自決


 三月五日の朝、私が持参した風呂敷包の下着類の中から、弟は果物ナイフのみを受取って、剃刀の方は 「 これはお返しします 」 と 院長に返したという。私が来院して帰ったことを知って、末吉中尉が弟の病室を訪れたが、弟は平素とすこしも変らず、淡々として談笑していたが、その談笑のなかに、いよいよ、午後決行の決意をほのめかされ、言外に最後の訣別を告げて、中尉は病室を辞し、そのまま病院をでた。この日、特に入院将校中の最上席者であった金岡中佐から、昼食を共にしたいとの申し出があり、弟はありがたくお受けして、両名で最後の昼食をとった。感慨ひとしおに深いものがあったらしく、死後、左の歌が、中佐宛に残されていたのを発見した。 武夫もののふの道と情を盛り上げし  昼餉ひるげの味のいとゞ身にしむ

 入院以来、弟に附添いっていた附添婦は、この日、朝からなにか予感があったらしく、終始弟の身近にあって離れなかった。三時すぎ、彼女が下の事務所に立った隙に、弟は白衣を素早く軍服に着替えて、縁側から病室を脱けでた。病棟の横手の低い垣根を越えて、左手の山林に入ると、病院との境界を劃かくする板塀から一〇メートルくらい離れたところに、大きな松の木がある。木立を通して崖下に熱海湾が碧い色をたたえているのが見下せる。その松の根元に端坐した弟は、はるかに東方皇居を拝し、午後三時半頃、上着を脱いで、用意の果物ナイフを持ち、武士の作法にのっとって、下腹部を真一文字に割き切り、返す刃で頸動脈を突いた。一刀、二刀、さらに数刀が加えてある。鮮血が拳を染めて軍袴ぐんこにしたたり落ち、その血に おおいかぶさるように、前に崩折れた。病室に帰った附添婦は、弟の姿が見えず、白衣は整頓され、軍服のないのに驚いて、たたちに院長に報告した。院長の支持で、一同で捜査に取りかかっが 院内に見当らず、院外にでた一班が、間もなく自決現場を発見した。

 駆けつけた瀬戸院長が弟を抱き起すと、まだこと切れていなかった弟は、きっと院長を振り向き、頸部を指差して、「 まだ切れていませんか 」と、たずねた。院長が首をかしげるのを見て、弟は鮮血にまみれた右腕を振りあげ 最後の力をふりしぼって、さらに一刀を頸部に加えたという。すでに周囲に病院の人々が多数集まったなかで、院長は上体を支えて、止血法を行うと、弟は「 よしてください 」と、すでに力ない腕を振って、これを拒否した。しかしそれも、力尽きて、再びがっくりと前に伏した。手にした果物ナイフは、刃が滅して悲惨というほかなく、突き傷から推しておそらく六刀は加えたものらしい。院長は担架を命じて、元の病室に収容した。人々は弟の絶命を信じたという。しかし、寝かせる位置を打合す人々が「 北枕に 」と 語り合うのが聞えたらしく、突然意識を回復した弟は、大声に、「 皇居に向って東向きにしてください 」と 叫び、感に打たれた人々が、静かに東向きに寝かせると、満足気にかすかにうなずいて、それきり また 意識を失ってしまった。用意した亜砒酸は、自決直前に服用したが、量が多かったせいか吐きだしてしまって、事後の万全を期した処置も悲運にも無駄に終った。一刀にて死をえず、数撃を加えてなおかつ死を果しえず、しかも冷厳なる意識を保つ弟を思うと、まことに無惨というほかなかった。弟はその後も おりおり 意識を回復しては、枕頭に詰めていた人たちと、「 刃物が骨に当って切れなかった 」 とか、「刃物が鈍かった 」 とか、その他のことを断片的に語りながら、次第に昏睡状態に陥っていった。そして、翌六日の午前三時頃にはまったく意識を失ってしまった。病院からの急報によって、東京第一衛戍病院から田辺院長が自動車でかけつけ、最後の処置をとられた。白いカーテンを張った縁側の外が、明るくなってくるころ、脈搏を診る田辺院長から、静かに臨終が告げられた。六時四〇分であった。瀬戸院長、末吉中尉が最後の死水をとった。割腹後、実に一六時間の長きにわたって生を保ちながら、一言半句も苦痛を洩らさず、また苦面をさえ呈せず、従容しょうようとして死についたという。机の上に、整然と多数の遺書が残されてあった。和紙に毛筆でしたためられたものであった。そのなかに瀬戸院長宛の辞世があった。
  辞世
  あを嵐過ぎて静けき日和かな

 私と義兄が熱海の病院に着いたのはもう夕方に近かった。遺骸を引取りにこいという、次の電報を待って出てきたからである。病室にはすでに仏壇が設けられ、たくさんの生花や花輪が供えられていた。弟は昨日のままの布団に横たわっていたが、面を覆った白いガーゼが淋しかった。「 どうか会って上げてください 」と、うながす末吉中尉の言葉に、二人は弟の傍に座った。ガーゼを取る。本当に温和な死顔だった。なんの苦悶も、恨みもない、清らかな顔だった。よかった。ありがとう、と 私は瞑目して頭を下げた。再びガーゼを面にかけて、義兄は静かに掛布団をはいだ、外科医らしく、手際よく咽喉部の傷口をあらためた。すくなくとも 五、六回はついたのであろう、ジグザグの傷口が無惨である。さらに 白い下着を排して、腹部を開いた。下腹部に薄く、真一文字に見事な切創がまざまざしく、じっと見つめた義兄の口から「 よくやった 」 と 一言、感極まったように洩れた。「 立派に武士らしく切腹して死にます 」と 約束した弟は、約束通り 立派に死んでくれた。二人はあらためて合掌を捧げた。
 池田俊彦 著 「 生きている二・二六 」。
 河野大尉は負傷した当時から自決を決意したのではなく、二十八日、所沢の飛行学校から川原副官が来院して、学校の意向として、責を負って自決するように勧告した時には、はっきりと拒否している。それでは何故に自決したか。三月二日、宮内省発表の参加将校位返上命令の理由として、「 大命に抗し 陸軍将校たるの本分に背き陸軍将校分限第三条第二号該当者と認め 目下免官上奏中のものとす 」という 記事が発表されたからである。「 大命に抗す 」 とか 叛徒 とかいうことは、軍人にとって堪え得るものではないからだ。同志として一緒に蹶起した河野大尉も、東京の状況は不明で、一方的情報のみ知らされていた。よく考えれば、我々同志が大命に抗するなど、有り得べからざることで、何かの間違いであると考えるべきではなかったか。しかし、離れていれば渦中の我々の心情はわからなくなるのは止むを得ないと思った。まして 事情を知らぬ一般の人々が、我々が自決をとりやめたことを誹謗したことも、致し方のないことであった。まだ裁判も行われず、憲兵の調査も終わっていないうちに、命令を下した側の軍の一方的見解に基づく宮内省の発表によって、我々が大命に抗したと考えてしまったのである。河野さんは、我々からすれば誤解による自決であり、残念なことではあるが、しかし、そのいさぎよい死は人々の称賛を得た。

【2.26事件の挫折考】
 兄・司

 明治38年1月に呉において生まれる。済々黌中学校を経て東京商科大学を卒業した。二・二六事件発生時は、上野松坂屋に勤務していたが、事件を機に退社した。以降、事件の関係資料収集、遺族会の世話役などを務めた。海南島において終戦を迎えた。戦後に『二・二六事件-獄中手記・遺書』を編した。河野司『私の二・二六事件 弟の自決』河出文庫、1989年。
 2.26事件研究の第一人者の三島由紀夫は河野寿大尉の実兄である河野司に「事件の原因は何でしょう?」と尋ねた。河野司は、「30年に亙る私の研究の結果は、口にすることは憚るものがありますが、最終的には、天皇との関係の解明につきると思います」と答えた。今度は逆に、河野司が三島由紀夫に次のように尋ねた。
 「英霊の声はどのように書かれたのでしょうか? 私が思うに、法治国家の元首として、また軍の大元帥として、国法を破り軍紀を犯したものに対し、断乎とした措置をとることは国の秩序を守り、軍の統帥を正すことで、その処置として勅命を下し『叛乱部隊の原隊復帰』を命じたのは当然であったと思います。そして、『朕自ら近衛師団を率い、鎮圧に当たらん』。ここまでは理解できます。しかし、蹶起将校が自決を決意しせめて勅使の派遣をと、山下奉文少将が本庄侍従武官長を通じて奏上した時、『自殺するならば勝手に為すべく、勅使など以ての外なり』。これが理解できません。明治天皇は『天下億兆一人もその所を得ざるときは皆朕の罪なれば』。これが日本の天皇の姿ではないでせうか。陛下の赤子が、その犯した罪を死をもって償おうとしている。『そうか、よく判ってくれた』と温かく侍従に『お前行ってよく見届けてやってくれ』と何故に仰せられないのだろうか」。
 
 こう問うた河野司氏に三島由紀夫は、
 「人間の怒り、憎しみですね、日本の天皇の姿ではありません、悲しいことです」。
 河野司氏はさらに言葉をはさんだ。
 「彼らが獄中で陛下のこのような言動を知っていたら、果たして『天皇陛下万歳』を絶叫して死んだでしょうか」。

 この設問に、三島は、「君たらずとも、ですよ。あの人達はきっと臣道を踏まえて神と信ずる天皇の万歳を唱えたと信じます。でも日本の悲劇ですね」と声をつまらせ。このヤリトリの後、三島は「英霊の声」を書いた。「2.26蹶起将校の御霊前に捧げるつもりで書いた作品であります」と河野寿大尉の兄、河野司さんに送っている。


 三島は、「青年将校の願い」を次のように仮託している。
 「お前たちの精神はよく分かった。朕が必ずお前たちの赤心を生かすから、お前たちは心安く死ね、その方たちはただちに死なねばならぬ」。

 将校たちは神、陛下の御前で白雪を血に染めて自刃する。三島は、これを「至福の死」と書いている。これが青年将校の真意だと・・・・。もしも28日の時点で勅使御差遣の懇願が実現していたら、彼等は「至福の死」を実現できたろう・・・・悔いはつきない・・・・。


 「最後の場面」 につき、次のように記している。陛下の「この人間のおん憎しみを背後に戴き」奸臣どもが「叛逆の罪におとし」、「暗黒裁判を用意し」、「はやばやと極刑が下された」。三島は次のようにしめくくる。
 「かくてわれらは十字架に縛され、われらの額と心臓を射ち貫いた銃弾は、叛徒のはずかしめに汚れていた。このときに大元帥陛下の率いたまう皇軍は亡び、このときわが皇国の大義が崩れた。赤誠の士が叛徒となりし日、漢意(からこころ)のナチスかぶれの軍閥は、さえぎるもののない戦争への道をひらいた。われらは陛下が、われらをかくも憎みたまふことを、お咎めする術とてない。しかし反逆の徒とは!叛乱とは!国体を明らかにせんための義軍をば、反乱軍と呼ばせて死なしむる、その大御心に御慈悲はつゆほどもなかりしか。こは神としてのみ心ならず」。

 そして最後に、「などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし」と天皇陛下に対する涙で終わる。磯部を代表する青年将校の血涙の遺書の怨念が三島先生にのりうつって、書かせたのでせはなかろうか。





(私論.私見)