村中孝次・歩兵大尉(37期)



 更新日/2021(平成31.5.1日より栄和改元/栄和3).4.23日

 【以前の流れは、「2.26事件史その4、処刑考」の項に記す】

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、皇道派名将録「村中孝次・歩兵大尉(37期)」を確認する。(お墓は野中さん岡山、村中さん仙台、磯部さん東京、安藤さん仙台、相澤さん仙台)

 2011.6.4日 れんだいこ拝



死刑組

【村中孝次プロフィール】 (元陸軍歩兵大尉)(37期)
 戦前日本の軍人、歩兵大尉(37期)。国家社会主義者。北海道旭川市出身。1903(明治36).10.3日、北海道・旭川市に生まれた。2・26事件の判決により銃殺刑。1937(明治37).8.19日没、享年32歳。妻・静子。 
 1903(明治36).10.3日、北海道旭川市に生まれた。
 札幌第一中学校、仙台陸軍地方幼年学校を経て、陸軍士官学校37期。歩兵第27連隊付・士官学校区隊長を経る。
 1932年、歩兵第26連隊付。同年陸軍大学に進むが中退。「学力優秀」の評がある。陸軍エリートの陸軍大学校へ進んでいたのは村中孝次元大尉のみ」。村中が陸大に進学したのは東京で維新運動を行う為だったという。この頃から皇道派青年将校グループの中心人物として知られるようになり、維新同志会の西田税らと交遊。
 1934年、陸軍大尉。同年、磯部浅一らとともにクーデター未遂容疑で検挙され、休職となる(陸軍士官学校事件)。

 1935年、磯部と「粛軍に関する意見書」を作成・配布し、免職となった。
 真崎甚三郎教育総監の更迭は永田鉄山軍務局長を中心とした統制派の皇道派弾圧の陰謀であるとする「真崎教育統監更迭事情」を作成し、相沢三郎中佐に送付。同年の永田軍務局長殺害事件(相沢事件)の遠因を作った。

 2.26事件の首謀者の一人となり、7.5日に死刑判決が下るも、北、西田両名の証人として磯部と二人生き残ることになる。

 1937.8.19日、西田や磯部らと共に銃殺刑に処された(享年33歳)。
 遺書は次の通り。
 「維新ノ為メニ戦フコト四周星 今信念ニ死ス 不肖ノ死ハ即チ維新断行ナリ 男子ノ本懐事亦何ヲカ言ハン」。
 「ただ祈り いのりつづけて 討たればや すめらみ国の いや栄えよと」

【村中孝次の事件考】
 「 古ヨリ 狡兎死而走狗烹 吾人ハ即走狗歟 」
 いろいろと娑婆からここに来るまで戦ってきましたが、今日になって過去一切を静かに反省して考えて見ますと、結局、私達は陸軍というよりも軍の一部の人々におどらされてきたことでした。彼等の道具に、ていよく使われてきたというのが正しいのかも知れません。もちろん、私達個々の意思では、あくまでも維新運動に挺身してきたのでしたが、この私達の純真な維新運動が、上手に此等一部の軍人に利用されていました。今度の事件もまたその例外ではありません。彼等はわれわれの蹶起に対して死の極刑を以て臨みながら、しかも他面、事態を自己の野望のために利用しています。私達はとうとう最後まで完全に彼等からしてやられていました。私達は粛軍のために闘ってきました。陸軍を維新化するためにはどうしても軍における不純分子を一掃して、挙軍一体の維新態勢にもって来なくてはなりません。われわれの努力はこれに集中されました。粛軍に関する意見書のごときも全くこの意図に出たものでしたが、ただ、返ってきたものはわれわれへの弾圧だけでした。そこで私達は立ち上がりました。 維新は先ず陸軍から断行させるべきであったからです。幕僚ファッショの覆滅ふくめつこそわれわれ必死の念願でした。だが、この幕僚ファッショに、今度もまた、してやられてしまいました。これを思うとこの憤りは われわれは死んでも消えないでしょう。われわれは必ず殺されるでしょう。 いや、いさぎよく死んで行きます。ただ、心残りなのは、われわれが、彼等幕僚達、いやその首脳部も含めて、それらの人々に利用され、彼等の政治上の道具に使われていたことです。彼等こそ陸軍を破壊し国を滅ぼすものであることを信じて疑いません。 
 「村中は私が房前に立つと、突然『私らは負けた』と いった。しかも元気旺盛で、負け面は見えない。それを冒頭に大いに喋る。この話の骨子は十一月事件で入所した時も聞いたのであった。話の要旨は、『 勝つ方法としては上部工作などの面倒を避け、襲撃直後すかさず血刀を堤げて宮中に参内し、恐れ多いが陛下の御前に平伏拝謁して、あの蹶起趣意書を天覧に供え目的達成を奉願する。陛下の御意はもとよりはかり知るべきではないが、重臣らにおはかりになるかも知れない、いわゆる御前会議を経ることになれば、 成果はどうなるか分らないが、そのような手続きを取らずに、恐らくお許しをえて秦功確実を信じていた。この方法は前から考えていたことだが、いよいよとなると良心が許さない、気でも狂ったら別だが、至尊強要の言葉が恐ろしい。たとへお許しになっても、皇軍相撃つ流血の惨は免れないだろうが、勝利はたしかにこちらにあったと思う。飛電により全国の軍人、民間同志が続々と上京するはずだ。しかし、今考えて見れば銃殺の刑よりも、私らは苦しい立場に立つだろう。北先生からも “上を強要し奉ることは絶対いけない”と聞かされていた。この方法で勝っても、その一歩先に、陛下のため国家のために起ったその忠義が零になるわけだ、矢張り負けて良かったとも考えている』と 慨然として嘆声を洩らす。後の訪問を約して房前を去る。なお村中は 遺書の一部に左のようなことが書いてあった。『勝つ方策はあったが、あえてこれをなさざりしは、国体信念にもとづくもので、身を殺しても強要し奉ることは欲せざりしなり』」。

 村中孝次の「丹心録」。
 「吾等は護国救世の念願抑止難く、捨身奉公の忠魂噴騰して今次の挙を敢てせり。今回の決行目的はクーデターを敢行し、戒厳令を宣布し軍政権を樹立して昭和維新を断行し、以って 北一輝著「日本改造法案大綱」を実現するに在りとなすは是悉ことごとく誤れり。吾人は 「クーデター」 を企図するものに非ず、武力を以って政権を奪取せんとする野心私慾に基いて此挙を為せるものに非ず、吾人の念願する所は一に昭和維新招来の為に大義を宣明するに在り。昭和維新の端緒を開かんとせしにあり。抑々維新とは国民の精神覚醒を基本とする組織機構の改廃ならざるべからず。然るに多くは制度機構のみの改新を云為する結果、自ら理想とする建設案を以って是れを世に行はんとして、遂に武力を擁して権を専らにせんと企図するに至る。而して斯の如くして成立せる国家の改造は、其輪奐の美瑤瓊なりと雖も遂に是れ砂上の楼閣に過ぎず、国民を頣使し、国民を抑圧して築きたるものは国民自身の城廓なりと思惟する能はず、民心の微妙なる意の変を激成し高楼空しく潰へんのみ。之に反し国民の精神飛躍により、挙世的一大覚醒を以て改造の実現に進むとき、玆に初めて堅実不退転の建設を見るべく、外形は学者の机上に於ける空想図には及ばずと雖も、其の実質的価値の遥かに是れを凌駕すべきは万々なり、吾人は維新とは国民の精神革命を第一義とし、物質的改造は之に次いで来るべきものなるの精神主義を堅持せんと欲す。而して今や昭和維新に於ける精神革命の根本基調たるべきは、実に国体に対する覚醒に在り、明治維新は各藩志士の間に欝勃として興起せる尊皇心によって成り、建武の中興は当時の武士の国体観なく尊皇の大義に昏く滔々私慾に趨りし為、梟雄尊氏の乗じる所となり敗衂せり。而して明治末年以降、人心の荒怠と外国思想の無批判的流入とにより、三千年一貫の尊厳秀絶なるこの皇国体に、社会理想を発見し得ざるの徒、相率いて自由主義に奔り 「デモクラシー」 を謳歌し、再転して社会主義、共産主義に狂奔し、玆に天皇機関説思想者流の乗じて以て議会中心主義、憲政常道なる国体背反の主張を公然高唱強調して、隠然幕府再現の事態を醸せり。之れ一に明治大帝によりて確立復古せられたる国体理想に対する国民的認悟得なきによる、玆に於てか倫敦条約当時に於ける統帥権干犯事実を捉へ来って、佐郷屋留雄先ず慨然奮起し、次で血盟団、五・一五両事件の憂国の士の蹶起を庶幾せりと雖も未だ決河の大勢をなすに至らず、吾等即ち全国民の魂の奥底より覚醒せしむる為、一大衝撃を以て警世の乱鐘とすることを避く可からざる方策なりと信じ、頃来期する所あり、機縁至って今回の挙を決行せしなり。藤田東湖の回転史詩に曰く『 苟も大義を明かにして民心を正せば皇道奚んぞ興起せざるを患んや 』  と。国体の大義を正し、国民精神の興起を計るはこれ維新の基調、而して維新の端は玆に発するものにあらずや。吾人は昭和維新の達成を熱願す、而して吾人の担当し得る任は、敍上精神革命の先駆たるにあるのみ、豈に微々たる吾曹の士が廟堂に立ち改造の衝に当らんと企図せるものならんや。吾人は三月事件、十月事件等の如き 「クーデター」 は国体破壊なることを強調し、諤々として今日迄諫論し来れり。苟も兵力を用ひて体験の発動を強要し奉るが如き結果を招来せば、至尊の尊厳、国体の権威を奈何せん、故に吾人の行動は飽く迄も一死挺身の犠牲を覚悟せる同志の集団ならざるべからず。一兵に至る迄不義奸害に天誅を下さんとする決意の同志ならざるべからずと主唱し来れり。国体護持の為に天剣を揮ひたる相沢中佐の多くが集団せるもの、即ち 相沢大尉より 相沢中、少尉、相沢一等兵、二等兵が集団せるものならざるべからずと懇望し来れり。此数年来、余の深く心を用ひし所は実に玆に在り、故に吾人同志間には兵力を以て至尊を強要し奉らんとするが如き不敵なる意図は極微と雖もあらず、純乎として純なる殉国の赤誠至情に駆られて、国体を冒す奸賊を誅戮せんとして蹶起せるものなり。吾曹の同志、豈に政治的野望を抱き、乃至は自己の胸中に描く形而下の制度機構の実現を妄想して此挙をなせるものならんや。吾人は身を以て大義を宣明せしなり。国体を護持せるものなり。而してこれやがて維新の振基たり、維新の第一歩なることは今後に於ける国民精神の変移が如実にこれを実証すべし、今、百万言を費すも物質論的頭脳の者に理解せしめ能はざるを悲しむ。吾人の蹶起の目的は蹶起趣意書に明記せるが如し。吾人は軍政権に反対し、国民の一大覚醒運動による国家の飛躍を期待し、これを維新の根本基調と考ふるものなり。吾人は国民運動の前衛戦を敢行したるに留る、今後全国的、全国民的維新運動が展開せらるべく、玆に不世出の英傑蔟出、 地涌し大業輔弼の任に当たるべく、 これを真の維新と言ふべし。国民のこの覚醒運動なくしては、区々たる軍政府とか或は真崎内閣、柳川内閣といふが如き出現によって現在の国難を打開し得べけんや」。

 「村中孝次の四日間 (1) [ 憲兵訊問調書から ]」。
 
 夫れでは本事件の原因動機に就いて申述べよ
 私共の蹶起するに至りました原因は、本事件決行時に発表しました決起趣意書に書いて置きました通りでありますが、一口に言へば 倫敦条約当時の統帥権干犯問題或は 昨年七月真崎教育総監の更迭当時の統帥権干犯問題等に直接間接の関係があり、又 三月事件の如き大逆陰謀 或は大本教を中心とする不軌計画等元老 重臣 財閥 軍閥 新官僚と言はれて居る、昭和維新を阻止せんとする支配階級の最中心を為すものを除き去らう、君側の奸を芟除しやう、それによって国体の尊厳を全国民に闡明にすることが出来、維新の発端を開くことが出来ると信じましたので、今度の事件を決行しましたのであります。特に重要な事は 両度の統帥権干犯問題でありまして、大元帥陛下の御稜威を遮り冒しながら、今尚 君側に在りて我が国体の尊厳を過りつつあることは、我々国民として許すべからざる処でありまして、どうし一同の非常に憤激せる処であります。即ち これ等に天誅を下すことに依って国民に御稜威の尊さを感じて貰ひたかったのであります。決起の目的は要するに以上申上げました様な次第で、吾々多数の同志が一団となり行動しました事は、我々が兵力以て政府を顚覆しやうとか 或は 戒厳令を宣布する様な事態を発生せしめ様とか、又は 昭和維新を断行しやうとか 言ふ様な気持ちは全然ありません、換言しますすと私共同志の気持は、目下公判中の相沢中佐の希望を実現せしめたいと言ふ同志が蹶起し、天下の不義を誅したのでありまして、兵力を使用し叛乱を起すと言ふ様な考へは毛頭ありません。同志の集団を以てなす行動であります。此の不義に怒り義憤に燃え立った同志の集団的行動が一つの機縁となり、昭和維新に入ることが出来ましたならば非常に幸ひと思ひますが、之は単なる希望でありまして 夫れ迄一挙に出来ると言ふ見通しもなく画策もありませんでしたが、陸軍上層部に吾々の此の希望決意を理解する人があることを信じ、事態を有利に導き、昭和維新に入ることが出来ると信じたからであります。
 本事件の計画に就いて申立てよ
 目的に就いて只今申上げました通り、兵馬の大権干犯の元兇は結局、君側の重臣でありますから、之に天誅を加へると言ふ事を主眼としたものでありまして、次の様な部署計画を樹てたのであります。
1、岡田首相
歩兵第一聯隊 栗原中尉  豊橋教導学校 對馬中尉  林少尉  池田少尉を中心とする、約三百名を以て襲撃し天誅を下す。
2、斎藤内大臣
歩兵第三聯隊 坂井中尉  高橋少尉  砲工学校 安田少尉を中心とする、約百五十名を以て襲撃し天誅を下す。
3、高橋大蔵大臣
近衛歩兵第三聯隊 中橋中尉  砲工学校 中島少尉を中心とする、約百名を以て天誅を下す。
4、鈴木侍従長
歩兵第三聯隊 安藤大尉を中心とする、約百五十名を以て襲撃し天誅を下す。
5、牧野伸顕
処 河野大尉を中心とする、約十名を以て襲撃し天誅を下す。
6、渡辺教育総監
斎藤内大臣を襲撃した者の中、高橋少尉  安田少尉が若干の同志と共に第二次行動として、襲撃し天誅を下す。
7、野中大尉  常盤少尉  鈴木少尉  清原少尉を中心とする、約三ケ中隊を以て警視庁を占領し、警官隊と軍隊との衝突を予防す
8、歩兵第一聯隊 丹生中尉を中心とする、約百名内外を以て 之に歩兵第一旅団司令部 香田大尉豊橋教導学校 竹嶌中尉  山本予備少尉  村中  磯部が同行し、陸相官邸に到り 陸相に実情を具申し、事態の収拾に善処せらるる事を訴ふ。
 本事件計画の経緯如何
 吾々同志が部隊附将校を中心として数年来国家の為 御維新の為 君側の奸は我等の手に依って除かねばならぬ、又 之が実行の出来るのは今の時世に於ては、東京に在る軍隊に居る吾々同志であると言ふ信念を持って居りましたので、第一師団が満洲に派遣せらるる前に決行せねばならないと言ふ考へから、私 及 磯部 安藤大尉 栗原中尉が中心となり、主として部隊附将校の決意を練り、私は相沢公判を通して社会の情勢を進むる事に依り、全国の同志の決意を容易に固め得る様にと思って、公判を中心に一般情勢の熟成に向って努力して居りまして、公判開始以来前後三回に亙り、歩兵第三聯隊前竜土軒に於て 歩一 歩三の将校に集まって貰ひ、公判の経過に関し 説明したことがあります。然し 其時は本事件決行に関しては直接何等等関係はありませんでしたが、之に依って本事件決行の気運を作り得た事は確実と思ひます。又 磯部より部隊附将校の気運も 昂り 愈々二、三月を期し、蹶起する決意を固めて来たと言ふ事を聞き、私も一層決意を固め、磯部と共に細部に亙る計画を考へつつ 同志の決意を固めせしむべく、奔走しつ 愈々蹶起の日に至ったのであります。
 本事件の決行を決意したる時期は如何
 昨年十二月末 第一師団が満洲に派遣になると言ふ事が判って来たので、満洲に行く前に決行せねばならんと言ふ事を決心し、同志間に其の意見を交換したるが、何れも其の決心ある事を知り、磯部は主として安藤大尉 栗原中尉等の部隊附将校と連絡を密にし、其状況を聞いて居りました。相沢公判を期待して一月末 相沢公判の解し前後には愈々決行することを決意しました。又 一方 相沢公判に依り 昭和維新に対する一般の理解が強められて来ましたので、益々其の決意を固めたのであります。斯くして 二月二十二日夜、栗原の処で 磯部 栗原 河野 中橋 及 私が集まって具体的計画を協議し、更に 翌二月二十三日、歩兵第三聯隊週番指令室に 野中 安藤 磯部 及 私が集まって協議決定したと記憶して居ります。又 香田大尉には同日午前十時頃 私が訪ねて計画を示したのであります。
 本計画の首謀者は如何
 前述の如く 本計画は同志各自の意見に依って出来たものでありまして、確然としたものではありませんが、強いて言へば 磯部浅一 歩兵第一聯隊 栗原中尉 歩三 安藤大尉 及 私の四名であります。
 本事件に使用したる要図 並 決起趣意書は誰が作成したるや
 事件直前 私が作成したものを歩兵第一聯隊第十一中隊に於て、山本予備少尉に依頼し謄写版刷としましたのであります。
 決行の日を二月二十六日としたるは如何なる理由なりや
 前述の如く 二月末か四、五月頃決行する様に決定しましたのは、第一師団が満洲派遣の関係上決定しましたもので、二月二十六日としましたのも、三か部隊の演習等の関係を考慮したからであります。
 山口大尉は何故参加せざりしや
 山口大尉は我々の行動に対しては同情者ではありますが、同志ではありません。本庄大将との関係もあり、加はり得ないものと存じます。
 背後関係に就いて聞くが西田税との関係如何
 西田税とは十月事件以来 断往来して居りますが、本事件に関しては全然関係なく、又 事件発生後も面会した事もなく、又 参加将校が面会したと言ふことも聞いては居りません。
 渋川善助との関係如何
 渋川善助とは十月事件以来親密に連絡して居りますが、今度の事件に就いては全然計画に参与しては居りませんでしたが、決行後二月二十八日に幸楽に来て 吾々行動隊に加はって呉れました。
 北一輝との関係
 北一輝とは十月事件以来 知合ひになって居りますが、時々訪問する位にして実際問題の指導的立場には居られません。
 予備歩兵少尉山本又との関係如何
 約二年前 磯部浅一の紹介にて知り、親しくして居りますが、中学の教師で社会運動には相当理解ある人でありますが、其他詳しい事は知りません。磯部がよく知っております。こんどの事件では磯部浅一より決行の日を話したことで直に参加した人であります。
 陸軍少将斎藤瀏との関係如何
 私は二月二十六日 陸相官邸にて初めて面会したのみで、交際等はありません。栗原中尉の知人で今度の事件には何等関係はありません。
 辻正雄との関係
 辻正雄とは公主嶺青年同志会の中心的人物として居る事を昨年九月頃 初めて知り、其後 文通其他 直接関係はありませんが、二月十八日 五百円の送金を受けました。相沢公判に関する運動費として送られたまのと思って居ります。
 亀川哲也との関係
 亀川哲也は極く最近の知人でありまして、相沢公判関係にて初めて知り 前後数回会った位で詳しい事は知りません。
 右翼団体との関係如何
一、三六関係者は多少方向を一にして居りましたこともありますが、特殊な関係はありません。
二、直心道場との関係は大森一声 渋川善助との関係より、間接に関係を持って居りますが、本事件とは全然関係はありません。
三、維新会本部の個人的人物には全然関係はありませんが、又 大眼目等を利用し維新会本部機関紙に掲載する等、吾々の行動を援助して居ります。
四、大眼目は私 渋川 磯辺 福井 等が執筆して居ります。
 其他 社会運動上の関係者ありや
 其他にはありません
 資金関係如何
 蹶起前迄に鵜伊沢中佐公判に関連して各方面から私に対し寄贈されたものがあり、又 私や磯部の停職以来各地の同志や同乗者から集まった金、特に数日前 満洲公首嶺 辻正雄より送られた五百円等で総計千円近くの金が、幸ひにも蹶起前迄に集まりました。又 事件中の二月二十七日、八日には 私に直接面会に来られた未知無名人の人が数名あり、金額は克く記憶いたしませんが、何れも多少宛寄金され、その額は約三百円程であったと思ひます。これ等の金は多く各部隊に配当して 兵の給養に宛てました。
 本事件に要する費用は主として村中孝次が担当したるものなりや
 特に担任したと言ふ様に確然と決定せられたものではありませんが、前述の通り 本運動に関係しては多くは私の下に集まった関係上、主としてわたしが取扱ったのであります。
 本事件の費用としての分配状況如何
 主として事件勃発後 現場に於て各参加部隊に一百乃至二百円分配しましたが、混乱中の事で確然とは記憶して居りません。
 二月二十五日 對馬中尉に二百円交付したる事実ありや
 對馬中尉とは二月二十五日午後十時頃 聯隊で会ひましたが、渡した覚はありません。
 今度の事件の経過の概要に就て述べよ。
 先づ蹶起前に就て申しますと、蹶起前日二月二十五日夕刻以降、部隊外の同志は夫々歩一、歩三の営内に集合しましたが、私は午後一時頃、家内には九州方面に旅行すると称して、「 トランク 」 には軍服類を入れて自宅を出て、中島少尉の下宿に行き、明朝決行に決定した旨を伝へ、附近にて理髪を為したる後、歩兵第一聯隊の機関銃隊の栗原中尉の下に行き、軍装を整へ自分の執筆せる蹶起趣意書を山本少尉に印刷して貰ひ、静かに時間の経過を待ちつつ第十一中隊に行き丹生中尉と会談し、翌二十六日午前四時二十分頃から私は丹生部隊と行動を共にした。

 午前四時三十分、歩兵第一聯隊の各参加部隊は、栗原中尉の機関銃隊を先頭に、丹生部隊之に続き、歩三の野中部隊の後方に続行して粛然として聯隊を離れ、各々受持の部署に向ひ出発。
 丹生部隊は午前五時頃首相官邸に到着、裏門から栗原部隊の一部が突入し、更に表門り其の主力を以て突入し、数発拳銃を発射しているのを右側に見ながら私共一行は陸相官邸に行きました。

 陸相官邸に到着しましたのは午前五時頃であります。陸相官邸に於ては、何等憲兵の抵抗を受けず、玄関に到り私服憲兵に、香田大尉の名刺を通じて陸軍大臣に面会を求めたのであります。玄関に面会を求めましたのは、香田大尉、磯部、私の三人で、数名の下士官兵の護衛を受け、只管陸相の御出を待ち、此の間丹生中尉、山本少尉は陸相官邸及陸軍省参謀本部の外囲警備に当って居りました。約一時間半待つて、午前六時三十分頃 小松秘書官が来ましたので事情を説明し陸相に面会を求め、それを伝へて貰ひ同四十分頃漸く陸軍大臣閣下に面接することが出来ました。待つて居る間に他の襲撃隊より逐次報告を受け、首相、高橋蔵相、鈴木侍従長、斎藤内大臣、渡辺大将に天誅を下した事を知りました。
 陸相に面会する事が出来ましたので、香田大尉は決起の趣旨、計画の大要、現在迄知り得たる情報を報告し、事態収拾の為善処せられ度き旨を述べました処、陸相閣下より「 君等の希望を云ひ給へ 」と 申されましたので、香田大尉り次の項目に就き理由を具して説明したのであります。
一、事態の収拾を急速に行ふと共に、本事態を維新回天の方向に導くこと。
二、皇軍相撃つことをさける為急速の処置を執ること。
三、兵馬の大権干犯者であり、皇軍私兵化の元兇である南大将、小磯中将、建川中将、宇垣総督を即時逮捕すること。
四、軍権を私し、種々の策動を以て皇軍破壊の因を為して来た者の中、其中心的人物と思はれる根本大佐、武藤中佐、片倉少佐等を即時罷免すること。
五、露威圧の為、荒木大将を関東軍司令官たらしむること。
六、全国に散在して居る同志中、主要人物を東京に採用して、此等の意見をも聴取して 事態収拾に当らしむること。
七、右諸項が実現する迄、我々部隊は暫く現在位置附近の警備に任ぜしめられたきこと。

 その中に古莊次官、真崎大将、小藤歩兵第一聯隊長、山口大尉等が次々に見えられ、大臣閣下は参内上奏する事になりました。同日午前九時頃から陸軍省参謀本部の人々が続々出勤して来た為、門を警備して居た者と小競合を起し、遂に官邸表玄関に於て、磯部が陸軍省の片倉少佐を撃つ結果に立ち至り、古莊次官と石原大佐の計ひで、陸軍省、参謀本部の勤務者は夫々偕行社、在郷軍人会館に行くこととなり、事態の悪化するのを防止することが出来たのであります。

 陸相参内後は一寸平静となり、私共は陸相の帰られるのを待ち、其結果を聞いた上で我々の今後の方策を決定し様と思って居りましたが、何時迄待つても大臣は帰って来られず、事態の急速なる解決を念願して居りました我々として、非常に焦慮したのであります。同日夕刻前であつたと思ひますが、私は古莊閣下に此儘経過する時は、事態は益々悪化するのみであるから、速かに事態収拾の方策を決定する様希望し、今朝、陸相に対し香田大尉り進言した蹶起趣旨幷に希望を述べ、特に本決行が義軍としての行動であるか、賊軍としての汚名を負ふべきものであるか、吾々の行動が義軍であることを認めらるるか否かは、一に懸って昭和維新に邁進するか否かになるものと思ひます。

 我々は趣意書に書きました通り、御一新翼賛の絶対臣道を尽す為に、
我々軍人にのみ出来る天与の使命を果したのであつて、此の行動を是認することに依って維新に直入することが出来るのであつて、精神のみを是認して行動を否認する様な従来通りの国法に縛られた観念では、維新には入り得ない。維新とは従来の一切を否認するものであり、相沢中佐が統帥権干犯を怒り、皇軍の私兵化を防止する為他に方策なく臣子としての道を尽す為に決行せられたあの永田事件の行動を、精神は良いが直接行動はよくないと云ふ従来通りの法治思想であつては、未だ維新を知らぬ者の考へである。今度の行動は、我々には絶対正義と思って居る。下士官兵もそれを信じで一死殉国を期して奮ひ立ったのでありますから、此を義軍と認め此の決行を起点として、御維新に這入って貰ひたい。特に部隊将校としては、宸襟を悩まし奉りし事は恐懼を禁じ得ません事であり、其責は当然負ふべきであるが、部下の考へて居る正義観を生かしてやりたいと云ふ念願からも、此の決行の同志集団を義軍として認めて戴きたしと強調しましたが、古莊閣下は、此の私共の意見に基いて自ら宮中に参内せんとせられました時、山下奉文少将が宮中から帰って来られまして、陸相の御意図として軍事参議官一同と相談した処、蹶起の趣意を認め善処する事に意見が一致しありとの意味の事を伝言せられましたが、結局抽象的内容である為、何とも我等の行動を決する事が出来ず、更に古莊閣下に参内して貰ひ、改めて大臣に御相談を願ふことにしました。
 夜間に入って各部隊は愈々殺気立って来ましたので、何とか急速に目鼻をつけたいと思ひまして、山下少将を促し、満井中佐、馬奈木中佐と共に香田、磯部、私の三名の者が同行して宮中に軍首脳部の人を迎へに参りました処、山下少将以外は阻止されて参内は出来ず帰りました。
 其後、宮殿下を除く全軍事参議官が陸相官邸に来られ、香田、磯部、栗原、対馬、私の五人で山下少将、鈴木大佐、小藤大佐、山口大尉等立会にて御眼に掛り、色々意見を開陳致しましたが、結局は抽象的議論に終り、何等具体化されたものはありませんでした。
 二十六日深更に至って、戒厳令が宣布された事を知りましたが、時刻ははつきり判りませんが一先づ陸軍省附近は撤去しやうと思ひ、種々其実施に就て考案して居りましたが、数日来の疲労で朝に入り其儘寐り、翌二十七日午前六時頃に到るも状況は余り進展の可能性がないので、私は歩兵第一聯隊の兵営内迄部下を撤去しやうと主張しました処が、昨夜以来集って居た若い将校達の非常な憤激を買ひ、皇軍相撃つも辞せずとする強硬論強く、非常に険悪化したので一先づ陸軍省、参謀本部及警視庁を撤退して、新議事堂附近に集結して其の警戒を緩和し、交通を遮断せざる様にすることに決し、夫々配備の変更に著手しました。香田大尉と私とは第一線に行き、必要の指示を行はん為警視庁に行く途中、戸山学校の柴大尉が自動車にて来て、今朝の状況を戒厳司令部に説明して置いたが、君達から直接話をした方が善いとの話がありましたので、其自動車に乗り軍人会館内戒厳司令部に行きました。

 戒厳司令官香椎中将と参謀長安井少将に対し、私から蹶起の趣意及香田大尉が二十六日朝陸相に対して希望した項目を説明し、各部隊の意気強く此れ以上迄占拠して居る位置を動かすことは不可能で、それを強行すれば必ずや皇軍相撃つの不祥事を惹起する虞れがありますから考慮せられたいことを力説し、最後に突出部隊は昨日小藤大佐の指揮下に入ることを命ぜられて以来、其の小藤大佐の命令に従って行動する心算で居りますから、戒厳司令官の小藤部隊として第一師団長の隷下に属せしめられたしと希望を述べましたが、此の最後の希望は司令官幷に参謀長から是認せられて辞去し、其帰途三宅坂に居たる安藤部隊の許に立寄り、安藤大尉と話し合って居りました時、坂井部隊が平河町の方から行軍して来て桜田門の方へ行かうとして居るのを見て吃驚し、先づ停止を命じて坂井中尉に聞きますと、
宮城に行き参拝するとの事でありますから、今宮城前は近衛の部隊が厳重に警備して居るので必ず衝突する結果となるから、元の位置に引き返す様に勧告しました。

 次に首相官邸の栗原中尉の処に行きますと、磯部も来て居りました。其処で外部の状勢は有利に動いて居る様である、内閣は総辞職をしたと云ふ情報を得て一旦陸相官邸に帰りましたが、此所でも軍事参議官が打揃って各方面に奔走し、努力して居ることを聞きましたので、此際軍事参議官の行動を活潑にして時局収拾を迅速に導く為、其中心を確定する必要があると思ひ、「 万事真崎大将に一任 」と 云ふ考が私の頭に閃きましたので、首相官邸に香田大尉と共に行き先づ磯部に相談し同意を得、栗原中尉も賛成の様でありましたから陸相官邸に帰り、全参議官と成る可く成多数の蹶起将校と会合して其の意見を開陳し様と夫々手配をしました。
 一方小藤支隊の臨時副官の格となつて居た歩兵第一聯隊山口大尉が、其夜の傘下部隊の配宿を偵察計画中でありましたから、同人に意見を述べ、大体、大蔵大臣、文部大臣、鉄道大臣官邸に 栗原、中橋、田中部隊、幸楽に安藤、坂井部隊、山王ホテルに丹生部隊が泊ることに決定を見て、山口大尉に命令を出して貰ひました。それから私共の希望に応じて真崎、阿部、西の三大将が官邸に来られましたので、各部隊からも出来るだけ多くの将校を集合して貰ひ、約十七、八名が一同を代表して、事態収拾を真崎大将に一任願ひ度き事。各軍事参議官は同大将を中心に結束して善処せられたき事。尚此の事件は軍事参議官一同と蹶起将校全員との一致せる意見となるを上聞に達せられたき事の三件を希望し、之に対し阿部、西両大将は個人的に同意を表し、真崎大将は厚意は有難きも蹶起部隊が原位置を撤去するに非れば収拾の途なきを説かれました。斯くして夕刻に近く各部隊は夫々宿営につき、戒厳司令官から特に本夜はよく休養する様にとの注意がありましたので直接警戒以外の者はなるべく廃して休泊しました。
 私は四、五名の者と官邸で夕食を食べた上、幸楽に居る安藤大尉の休宿状態を一巡した後、本部の位置と決定された鉄道大臣官邸に行き、稍々前途に曙光を見出した様な気になり安心して寝についたのであります。

・・・次頁 村中孝次の四日間 (2) [ 憲兵訊問調書から ] に 続く
 「村中孝次の四日間 (2) [ 憲兵訊問調書から ]」。
 二月二十八日早朝、本日の行動を考へ、戒厳司令官に会ひ、我小藤支隊をなるべく長く原位置に止り得る様工作し、又 軍事参議官に会見し、昨日の提言の結果を確め鞭撻を加へ様と思ひ、先づ別紙の様な意見具申を自分で書き、順序を経て提出しやうと思ひ執筆しましたが、書き終った頃栗原中尉が飛んで来て、近歩三の中橋中尉に、「 勅令に依り中橋中尉の部隊は小藤大佐の指揮下に入り、原位置を撤退し、歩兵第一聯隊に到るべし 」と 云ふ命令が来たと云ふて非常に憤慨して居りました。私は昨日 戒厳司令官に面会して、司令官幷に参謀長から行動隊は戒厳の間小藤大佐の指揮下に置くことに同意を得て居り、又 山口大尉は司令官の花押のある同様の命令文を貰ったと云って私に示して呉れましたので、そんな筈はない、間違ひなりと思ひ、直ぐ陸相官邸に行き小藤大佐に会ひ、「 此の命令は間違ひと思ふから修正する様交渉を願ひ度ひ 」と 申しますと、小藤大佐は稍や当惑の色をして後刻話をするからと云ふ事でありました。

 小藤大佐の許を出ますと別室に居た満井中佐、柴大尉等が私を呼び柴大尉から状況急変して奉勅命令が出そうな形勢にあり、山口大尉が今朝二時間に亘って戒厳司令官を説き、軍事参議官を説いて涙声共に下ると云ふ位に努力したが、其結果どうなることか不明であるとの話があり、私も愕然とした訳であります。満井中佐が涙をたたへながら、私に対して奉勅命令が出た場合には、奉勅命令に從って撤退する様にと懇願されましたが、私は各部隊将校以下兵に至る迄、悲壮なる意気であり殺気充満して居る現状に於て、現在地より移動する事は必ずや各個の突出となり、如何なる事態をまき起すか図り知れないので、暫く現在地に置く様に上部工作を願ひますと、前述の意見具申の理由と概ね同様の事を述べ、且 本蹶起を契機として御維新に転入し得るか否かは一にこの小藤部隊を現位置にあらしむるか否かの如何に存し、下士官兵の奮ひ立つた志に報ゆる為、何とか此の願望は出来ないでしようかと切願しました。


 満井中佐は成否は請合ひ兼ぬるが、努力して見やうとの事で、別に柴大尉と同行して鉄道大臣官邸に帰り、柴大尉に前述の意見具申を托して戒厳司令官に伝達して貰ふ事にしました。尚私は小藤大佐に意見を述べやうと思ひ、陸相官邸に参りますと、香田、対馬、竹島も来合せて居り、山口大尉も居て、山口大尉より「 済まなかった。及ばなかった。今早朝に柴大尉から状勢が急変悪化したのを聞いて 種々努力したが如何とも致し方も無い」と 申しますから、私は未だ小藤大佐を通じて師団長を説く方法があると述べ、直に小藤大佐に右の意見を具申し、香田、対馬、竹島中尉と共に第一師団司令部に赴きました。第一師団に於ては奉勅命令は受けて居ない事を知り、又 暫くして戒厳司令部から第一師団に、「 奉勅命令は今之を実施するの時期に非ず 」と 云ふ通報を得た事を知り、今朝以来の努力漸く報ひられた事を喜び合つて陸相官邸に引揚げました。

 午後一、二時頃、逐次栗原中尉が、野中大尉、磯部等が集り、山下少将、鈴木大佐、山口大尉、柴大尉等にも集って貰ひ、種々現状打開につき懇談しましたが、最後に栗原中尉が一度統帥系統に従って「 私共は陛下の御命令に従ひます 」と 奏上して戴きたい。若しそれで撤退せよとの御命令であれば潔く撤退し、又 死を賜はると云ふ事であれば、勅使の御差遣を願って将校だけ自刃しやうじやありませんか 」と 提言し、一同暗涙をのみ山下少将、鈴木大佐も感激して別れました。

 其後第一師団長、小藤大佐が来られ、一師団長から「 先程 自分は簡単に考へてお答へして置いたが、事実重大問題で如何とも致し難い事である 」と 申されましたので、栗原中尉から前述の意見を開陳して貰ひました。夫れで全将校を集めて此決心を説明し、同意を得やうと思って居りましたが、中々集りませんので、幸楽の安藤大尉の許に行きますと、同中隊が出撃しやうとする形勢があれましたので、待つ様に押し留め、陸相官邸に帰って見ますと、栗原中尉の意嚮も、真に奉勅命令であるか否か不明であり、又我等の真情を無視されて居るので、今一度統帥系統を踏み小藤大佐、堀師団長を経て大御心を判然と御伺した上で御命令に従ひ度いと考へていると云ひ、我々は未だ嘗て一回も奉勅命令が出たと云ふ話を聞かず、又其内容は全然不明である。「 出たらどうするか 」とか「 出そうな形勢にある 」とかで脅かされて、結局真相不明の奉勅命令を盾に我々を鎮圧しやうとする意嚮極めて明瞭でありますから、愈々奉勅命令が下される迄は現位置に踏み留まらう。我々から皇軍相撃つことを避ける為、絶対に射撃せぬが、若し他の軍隊が第一師団長の隷下にある此の小藤部隊を攻撃すると云ふならば、潔く一戦を交へやう、只真に攻撃され射撃される待ては我々は絶対に射撃したりすることは止めやう、と云ふ相談が一決し防禦の配置につきました。

 私は夜間に入り野中部隊と共に鉄道大臣官邸に居りますと、山下少将及歩兵第三聯隊長及森田大尉等が来られまして、森田大尉から秩父宮殿下に拝謁して御言葉を賜り、令旨と云ふ訳ではないが懇談的に御話を賜りましたから、それに就て述べますとて殿下の御言葉を伝達されましたが、その内容は本事件は非常に遺憾に思召されて居られる様に拝察しましたが、私共の真情を未だ充分に御酌み遊ばされて居ない様に直感しましたので、森田大尉に私共の真情を申上げて戴き度いと御願しました。

 二月二十九日は午前一、二時頃、外囲の部隊が愈々攻撃態勢を採り出したことを知って、之を各部隊に伝へ、夜襲に備へて接戦格闘の覚悟を決めました。其後攻撃開始は払暁以降になると云ふ情報を得ましたので、野中部隊は、予備隊として最後の負郭として新議事堂を占領しやうと、午前三時三十分か四時頃から同所に移り、新議事堂内を占領して家屋防禦の配備を採りました。当時全般の配備としては、幸楽に居た安藤部隊は山王ホテルの丹生部隊に合し、之に立籠り、栗原部隊は首相官邸、坂井部隊、清原部隊は参謀本部、陸軍省の一廓、常盤部隊は平河町附近を固守する最後の負郭を新議事堂にする考で死戦する覚悟でありました。然るに夜中から外囲にある歩一、歩三の将校がしきりに 第一線に在る歩哨等を口説き落し、逆賊と云ふ名分と武力とで威圧して連れ帰り、或は 「 ラヂオ 」 で 宣伝し、或は飛行機から 「 ビラ 」 を 撒布する等、我々の無抵抗に乗じて各種の手段を尽して下士官兵の説得に努め、多少は動揺もあつた様でありましたが、一旦ラジオにより奉勅命令が下った事が明確になつた以上、之に抗して長く踏み止まることは勿論絶対的に不可でありますから、奉勅命令に従ひ、改めて小藤大佐の区署を仰ぎて我々の行動を律しやう、御上の宸襟を悩まし奉りたる事は懼れ多い次第であるが、我々の信念と現在迄の行動に於て些かも尽忠報国の大義から踏み外して居ない確信の上に立つて、自ら決すると云ふが如き事無く、飽く迄陛下の御命令通り動かう、と 云ふ大部の者の意見が一致しましたので 其の行動に移ったのであります。然るに 小藤大佐の区署に依って動くことも出来ず、部隊は武装を解除せられ、逆に逆賊としての審判を受けるに至りましたことは、蹶起の同志一同としても死するとも忘るることの出来ない恨事であり、国家の為遺憾の極みであります。
 奉勅命令に対する所感如何
 我々臣民として絶対服従であります。
 夫れでは何故撤退せざりしや
 前述の通り奉勅命令の伝達は全くありませんので、其の内容等も知りません。唯二月二十九日早朝 「 ラヂオ 」 にて奉勅命令が下ったと云ふ事を聴いたのみであります。
 本事件が皇軍の本質並威信上に及ぼしたる影響に就いて如何なる認識を有するや
 私共は前述した如く、兵馬大権干犯に対して無限の怒りを感じ、斯くの如き御稜威を遮り侵す者の存在が我が日本の躍々たる生命の伸張発展を阻害しつつあるのであることを知って、皇軍の本質たる大元帥陛下御親率の軍隊である点を、曲げ歪め来つた不純なる君側の奸臣を討たうとして立ち上ったのであります。従って此一挙に依って皇軍の本質を最も端的に闡明せんめいし、御稜威の尊厳を知らしめ得るものと信じたのであります。従って此一挙に対する爾後の指導利用に当を得たならば、昭和維新に直ちに入ることが出来ましたでしようし、而も陸軍を中心に之れが行はれ、軍の本質を闡明にした上、其威信も一段と高めたことと思ひます。然るに事志と違ひ、尊皇の為、維新の為の義軍であるべきものに賊名を冠して討伐するの逆転した方策を軍当局が取った為に、この関係は全く一転して軍自体がこの決行に関連する責任を負はざるを得ない結果となり、軍の威信は全く地に墜ち、今後軍の進むべき道は非常に荊棘険難なものとならざるを得ません。此の点陸軍に二人無しと言ふべきが甚だ遺憾至極と思ひます。次に私共の行動を目して統帥権干犯を討つに、統帥権干犯を自ら敢てしたのではないかと云ふ疑問で、これを以て私共の行動を非難し、不義化し、逆賊化させやうとするでありませう。私共今回の行動は、決して統帥権を私して下士官兵を強制的に引率して出たのではなく、何れの日にか今日があらうと思ひ、二、三年来、此の君側の奸臣を討滅することの必要なる所以 及 昭和維新翼賛の為、軍人の任務として為すべきことは実に今回の挙にあることを徹底して教育して来て、重臣閥に対する憤激は一般の常識化する所まで進み、下士官兵の中にも多数の同志を獲るに至って居りました。今次の決行は之等同志と同志の部下の生死を共にする考へに至らして来た者が、一団となつて同時に蹶起したのであります。精神に於て一人一殺主義であり、その一人一殺の同志を集団して行ったのであつて、決して最初から統帥権を私にお借りしたのではありません。この景況を事実に即して申しますと、歩一第十一中隊で二十六日午前一、二時頃下士官兵を集めて丹生中尉が蹶起の決意を示しますと、全員非常な意気込みでありました。それで之れに参画し得なかった他隊の某下士官、見習医官が丹生中尉の下に来て、是非共、同行させて戴きたいと云ふ様な有様で、これで此間の事情の一端を知る事が出来ます。尚二十九日朝最後迄戦ふ決心で来た安藤部隊の攸へ私が行き、磯部、香田等と共に安藤の決心を翻す事に努力し、幸いにして其目的を達したとき安藤大尉が自決しやうとして、漸く之を押止めて居りますと、中隊の下士官が安藤大尉と共に自害すると言ひ出し、終りには一下士官が安藤大尉に、若し自決されるなら中隊の前に来て下さい、下士官兵全員御供する用意をして居ますと云ふ悲痛な場面がありました。これで私共の同志将校が統帥権を私にお借をしたのではなく、下士官兵に至る迄が同志であつて同志の集団が今回のこれを決行をしたのであることは理解し得るものと思ひます。只部隊に依っては、夫れ程迄に同志的訓練教育が出来て居なかつた所もありませうが、精神に於て決して兵を無理強いに率ひて行ったのではありません。最後の日に、同志将校の許を離れ去った兵が多少ありましたが、奉勅命令を楯にして説破された時、これに従ふのは当然でありまして、同志的関係が無かったからと云ふ訳ではありません。
天下の不義に怒れる同志的義憤なしに、あの様な行動を共にすることは出来るものではありません。中には私共より一層熾烈しれつな鞏固な決意を持つて居るものが多々ありまして、あの行動間、如実にそれを見せられて非常に有難く心強く感じた次第であります。
 本事件が国内的に如何なる影響を及ぼしたりと思料するや
 成功すればこれを契機とする昭和維新への転入であり、国内に対して非常な影響でありましたが、碍失敗に終った為 当座大なる影響がないものと思ひます。而し 維新阻碍の中枢勢力を破壊したのでありますから、今後維新回天の方向に多少なり向ひ得るでありませうし、又、此の一挙の精神が全国的気運に迄 昂るものと信じます。
而し 何れにしても今後に於て人物が出て 時局を担当するか否かに依って決する問題であり、人を得なかったならば凡てが無駄であり、何等得る所が無いかも知れません。これも最初から求むる所なきも 気持ちで一意国家の不義に怒って起上がったのでありますから、この国体に対する私共の信仰が一般国民の信仰になりさへすれば十分で、又 これが出来たならば形の上の事は兎も角、昭和維新の精神基調が確立される訳でありますから、以て満足するのみであります。
 本事件が国際的に如何なる影響を及ぼしたりと思料するや
 昭和維新に迄 進み得た場合、世界の全局面に及ぼす影響、特に英米露支の感受する脅威は絶大であり、我国に於ける昭和維新は同時に又 世界維新の発端となるであらうと信念して居りましたが、今度の如き結果に立ち 到って些いささか諸外国の軽侮を招いたことと思ひます。特に日本に人なしの感を強く諸外国に与へる結果になりはしないかと恐れる次第であります。而して反面我国体に維新の気運充満して居ることを外に示したのでありますから、真に大局を見るの明を備へた者は日本の近き将来に対して畏怖の念 禁じ得ないものがあると思ひます。
 皇室の敬虔上に及ぼしたる影響に対する認識如何
 前後四日間に亙りて昼夜陛下の御宸襟を痛く悩し奉ったことに就いては恐懼措く能はぬ所で、何とも申訳ない次第であります。又 陛下御親任の重臣を討ったのでありますから これ亦罪万死に値する所でありますが、一方私共の信念としては天日を蔽ふで居る此の妖雲を排除しない限り、国民滔天の恨は遂に至尊にまで累を及ぼし奉り、結局共産党の天皇制否認が国民大衆の考へとなる懼れが多分にありますし、若し 斯くの如き事態に立ち到ったならば、それこそ祖宗遺垂のこの神国を全く破滅に導く結果となりますので、私共の蹶起により この妖雲丈けでも取り払ひ、以て天日の赫赫たる光を万民の上に直接光被均霑せしめたいと思っての決行でありました。一時宸襟を悩し奉り 恐懼に堪へませんが この結果皇室に対する国民的敬虔が必ずや向上し、国体精神に徹した自覚国民の奮起によって昭和維新が逐次に完成されて行くものと信じます。
 現在の心境如何
 奉勅命令に従はなかったと言ふ事で 私共の行動を逆賊の行為である様にされましたことは、事志と全く違ひ 忠魂を抱いて奮起した多数の同志に対して寔に申訳ない次第であります。而し 私共は嘗て奉勅命令にまで逆はうとした意志は毛頭なく、奉勅命令を戴いて現位置を撤退せざると言ふ戒厳司令部の意向であることを知って、そんな事にならぬ様に その様な奉勅命令を下しにならぬ様にと、色々折衝した丈けでありまして、決して逆賊になって迄 奉勅命令に逆ふ様な意志は毛頭ありませんでした。事実今日に至る迄 如何なる奉勅命令が下されたのか其の命令内容に関しては、全然知らないのであります。逆賊の汚名を受けましたが、絶対尊皇の精神から出発して 絶対臣道を歩んで臣子の分を尽したと確信して、自ら安んじて居りますが、下士官兵に至る迄の同志全員の至誠尽忠が、賊名を受けて葬り去られる様な結果を招来しましたことに関しては、一に私の指導宜しきを得なかったものと深く自責に堪へない次第であります。
 将来に対する覚悟如何
 宸襟を痛く悩まし奉ることも 直後に来る昭和維新に依って従来山積した御苦悩の原因を一挙に払ひ去ることが出来て直に償ひ奉ることが出来るものと思ひましたが、志は全く達せられず宸襟を悩まし奉る結果にのみ終りました。至誠尽忠の忠義を抱いて尊皇討奸の目的を達成してくれた全同志に賊名を着せる様な結果に終りました。この責は一に私共として画策に当りました者の負ふべき所であります。私共は飽く迄 自己の信念に生き 之を貫徹する事に依ってこの責を償ひ度いのであります。若し 政らば凡ゆる努力を傾けて、一日も速かに昭和維新を実現する様 飽く迄も翼賛これ努めたいと思ひます。
 其他申立ることなきや
 ありません。
 陳述人    村中孝次昭和十一年三月二日

 反駁(1) 村中孝次」。訊問開始に先だち、村中は要旨の意見を開陳す。
 「裁判官は検察官の陳述せる公訴事実竝に予審に於ける取調を基礎として訊問せらるる様なるも、検察官の陳述せる公訴事実には前回迄に申述べたる如く蹶起の目的其の他に相違の点あり。又、予審に於ける取調は急がれたる関係上我々の気持を十分述ぶる余裕を与へられざりしを以て我々は公判廷に於て十分なる陳述を為し度き考なれば、白紙となりて十分陳述の余裕を与へられ度、殊に当軍法会議に於ては弁護人を許されざるを以て我々は自分で弁護人の役目も果たさねばならず、而も弁護人と異なり身体の自由を有せざるを以て弁護の資料を得ること能はざる不利なる立場に在り。此等の点を御諒察の上、陳述の機会及余裕を十分に与へられ度し」。





(私論.私見)