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夫れでは本事件の原因動機に就いて申述べよ |
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私共の蹶起するに至りました原因は、本事件決行時に発表しました決起趣意書に書いて置きました通りでありますが、一口に言へば 倫敦条約当時の統帥権干犯問題或は
昨年七月真崎教育総監の更迭当時の統帥権干犯問題等に直接間接の関係があり、又 三月事件の如き大逆陰謀 或は大本教を中心とする不軌計画等元老 重臣
財閥 軍閥 新官僚と言はれて居る、昭和維新を阻止せんとする支配階級の最中心を為すものを除き去らう、君側の奸を芟除しやう、それによって国体の尊厳を全国民に闡明にすることが出来、維新の発端を開くことが出来ると信じましたので、今度の事件を決行しましたのであります。特に重要な事は
両度の統帥権干犯問題でありまして、大元帥陛下の御稜威を遮り冒しながら、今尚 君側に在りて我が国体の尊厳を過りつつあることは、我々国民として許すべからざる処でありまして、どうし一同の非常に憤激せる処であります。即ち
これ等に天誅を下すことに依って国民に御稜威の尊さを感じて貰ひたかったのであります。決起の目的は要するに以上申上げました様な次第で、吾々多数の同志が一団となり行動しました事は、我々が兵力以て政府を顚覆しやうとか
或は 戒厳令を宣布する様な事態を発生せしめ様とか、又は 昭和維新を断行しやうとか 言ふ様な気持ちは全然ありません、換言しますすと私共同志の気持は、目下公判中の相沢中佐の希望を実現せしめたいと言ふ同志が蹶起し、天下の不義を誅したのでありまして、兵力を使用し叛乱を起すと言ふ様な考へは毛頭ありません。同志の集団を以てなす行動であります。此の不義に怒り義憤に燃え立った同志の集団的行動が一つの機縁となり、昭和維新に入ることが出来ましたならば非常に幸ひと思ひますが、之は単なる希望でありまして
夫れ迄一挙に出来ると言ふ見通しもなく画策もありませんでしたが、陸軍上層部に吾々の此の希望決意を理解する人があることを信じ、事態を有利に導き、昭和維新に入ることが出来ると信じたからであります。 |
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本事件の計画に就いて申立てよ |
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目的に就いて只今申上げました通り、兵馬の大権干犯の元兇は結局、君側の重臣でありますから、之に天誅を加へると言ふ事を主眼としたものでありまして、次の様な部署計画を樹てたのであります。
1、岡田首相
歩兵第一聯隊 栗原中尉 豊橋教導学校 對馬中尉 林少尉 池田少尉を中心とする、約三百名を以て襲撃し天誅を下す。
2、斎藤内大臣
歩兵第三聯隊 坂井中尉 高橋少尉 砲工学校 安田少尉を中心とする、約百五十名を以て襲撃し天誅を下す。
3、高橋大蔵大臣
近衛歩兵第三聯隊 中橋中尉 砲工学校 中島少尉を中心とする、約百名を以て天誅を下す。
4、鈴木侍従長
歩兵第三聯隊 安藤大尉を中心とする、約百五十名を以て襲撃し天誅を下す。
5、牧野伸顕
処 河野大尉を中心とする、約十名を以て襲撃し天誅を下す。
6、渡辺教育総監
斎藤内大臣を襲撃した者の中、高橋少尉 安田少尉が若干の同志と共に第二次行動として、襲撃し天誅を下す。
7、野中大尉 常盤少尉 鈴木少尉 清原少尉を中心とする、約三ケ中隊を以て警視庁を占領し、警官隊と軍隊との衝突を予防す
8、歩兵第一聯隊 丹生中尉を中心とする、約百名内外を以て 之に歩兵第一旅団司令部 香田大尉豊橋教導学校 竹嶌中尉 山本予備少尉
村中 磯部が同行し、陸相官邸に到り 陸相に実情を具申し、事態の収拾に善処せらるる事を訴ふ。 |
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本事件計画の経緯如何 |
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吾々同志が部隊附将校を中心として数年来国家の為 御維新の為 君側の奸は我等の手に依って除かねばならぬ、又 之が実行の出来るのは今の時世に於ては、東京に在る軍隊に居る吾々同志であると言ふ信念を持って居りましたので、第一師団が満洲に派遣せらるる前に決行せねばならないと言ふ考へから、私
及 磯部 安藤大尉 栗原中尉が中心となり、主として部隊附将校の決意を練り、私は相沢公判を通して社会の情勢を進むる事に依り、全国の同志の決意を容易に固め得る様にと思って、公判を中心に一般情勢の熟成に向って努力して居りまして、公判開始以来前後三回に亙り、歩兵第三聯隊前竜土軒に於て
歩一 歩三の将校に集まって貰ひ、公判の経過に関し 説明したことがあります。然し 其時は本事件決行に関しては直接何等等関係はありませんでしたが、之に依って本事件決行の気運を作り得た事は確実と思ひます。又
磯部より部隊附将校の気運も 昂り 愈々二、三月を期し、蹶起する決意を固めて来たと言ふ事を聞き、私も一層決意を固め、磯部と共に細部に亙る計画を考へつつ
同志の決意を固めせしむべく、奔走しつ 愈々蹶起の日に至ったのであります。 |
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本事件の決行を決意したる時期は如何 |
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昨年十二月末 第一師団が満洲に派遣になると言ふ事が判って来たので、満洲に行く前に決行せねばならんと言ふ事を決心し、同志間に其の意見を交換したるが、何れも其の決心ある事を知り、磯部は主として安藤大尉
栗原中尉等の部隊附将校と連絡を密にし、其状況を聞いて居りました。相沢公判を期待して一月末 相沢公判の解し前後には愈々決行することを決意しました。又
一方 相沢公判に依り 昭和維新に対する一般の理解が強められて来ましたので、益々其の決意を固めたのであります。斯くして 二月二十二日夜、栗原の処で
磯部 栗原 河野 中橋 及 私が集まって具体的計画を協議し、更に 翌二月二十三日、歩兵第三聯隊週番指令室に 野中 安藤 磯部 及 私が集まって協議決定したと記憶して居ります。又
香田大尉には同日午前十時頃 私が訪ねて計画を示したのであります。 |
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本計画の首謀者は如何 |
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前述の如く 本計画は同志各自の意見に依って出来たものでありまして、確然としたものではありませんが、強いて言へば 磯部浅一 歩兵第一聯隊 栗原中尉
歩三 安藤大尉 及 私の四名であります。 |
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本事件に使用したる要図 並 決起趣意書は誰が作成したるや |
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事件直前 私が作成したものを歩兵第一聯隊第十一中隊に於て、山本予備少尉に依頼し謄写版刷としましたのであります。 |
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決行の日を二月二十六日としたるは如何なる理由なりや |
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前述の如く 二月末か四、五月頃決行する様に決定しましたのは、第一師団が満洲派遣の関係上決定しましたもので、二月二十六日としましたのも、三か部隊の演習等の関係を考慮したからであります。 |
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山口大尉は何故参加せざりしや |
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山口大尉は我々の行動に対しては同情者ではありますが、同志ではありません。本庄大将との関係もあり、加はり得ないものと存じます。 |
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背後関係に就いて聞くが西田税との関係如何 |
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西田税とは十月事件以来 断往来して居りますが、本事件に関しては全然関係なく、又 事件発生後も面会した事もなく、又 参加将校が面会したと言ふことも聞いては居りません。 |
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渋川善助との関係如何 |
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渋川善助とは十月事件以来親密に連絡して居りますが、今度の事件に就いては全然計画に参与しては居りませんでしたが、決行後二月二十八日に幸楽に来て
吾々行動隊に加はって呉れました。 |
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北一輝との関係 |
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北一輝とは十月事件以来 知合ひになって居りますが、時々訪問する位にして実際問題の指導的立場には居られません。 |
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予備歩兵少尉山本又との関係如何 |
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約二年前 磯部浅一の紹介にて知り、親しくして居りますが、中学の教師で社会運動には相当理解ある人でありますが、其他詳しい事は知りません。磯部がよく知っております。こんどの事件では磯部浅一より決行の日を話したことで直に参加した人であります。 |
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陸軍少将斎藤瀏との関係如何 |
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私は二月二十六日 陸相官邸にて初めて面会したのみで、交際等はありません。栗原中尉の知人で今度の事件には何等関係はありません。 |
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辻正雄との関係 |
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辻正雄とは公主嶺青年同志会の中心的人物として居る事を昨年九月頃 初めて知り、其後 文通其他 直接関係はありませんが、二月十八日 五百円の送金を受けました。相沢公判に関する運動費として送られたまのと思って居ります。 |
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亀川哲也との関係 |
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亀川哲也は極く最近の知人でありまして、相沢公判関係にて初めて知り 前後数回会った位で詳しい事は知りません。 |
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右翼団体との関係如何 |
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一、三六関係者は多少方向を一にして居りましたこともありますが、特殊な関係はありません。
二、直心道場との関係は大森一声 渋川善助との関係より、間接に関係を持って居りますが、本事件とは全然関係はありません。
三、維新会本部の個人的人物には全然関係はありませんが、又 大眼目等を利用し維新会本部機関紙に掲載する等、吾々の行動を援助して居ります。
四、大眼目は私 渋川 磯辺 福井 等が執筆して居ります。 |
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其他 社会運動上の関係者ありや |
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其他にはありません |
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資金関係如何 |
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蹶起前迄に鵜伊沢中佐公判に関連して各方面から私に対し寄贈されたものがあり、又 私や磯部の停職以来各地の同志や同乗者から集まった金、特に数日前
満洲公首嶺 辻正雄より送られた五百円等で総計千円近くの金が、幸ひにも蹶起前迄に集まりました。又 事件中の二月二十七日、八日には 私に直接面会に来られた未知無名人の人が数名あり、金額は克く記憶いたしませんが、何れも多少宛寄金され、その額は約三百円程であったと思ひます。これ等の金は多く各部隊に配当して
兵の給養に宛てました。 |
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本事件に要する費用は主として村中孝次が担当したるものなりや |
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特に担任したと言ふ様に確然と決定せられたものではありませんが、前述の通り 本運動に関係しては多くは私の下に集まった関係上、主としてわたしが取扱ったのであります。 |
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本事件の費用としての分配状況如何 |
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主として事件勃発後 現場に於て各参加部隊に一百乃至二百円分配しましたが、混乱中の事で確然とは記憶して居りません。 |
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二月二十五日 對馬中尉に二百円交付したる事実ありや |
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對馬中尉とは二月二十五日午後十時頃 聯隊で会ひましたが、渡した覚はありません。 |
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今度の事件の経過の概要に就て述べよ。 |
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先づ蹶起前に就て申しますと、蹶起前日二月二十五日夕刻以降、部隊外の同志は夫々歩一、歩三の営内に集合しましたが、私は午後一時頃、家内には九州方面に旅行すると称して、「
トランク 」 には軍服類を入れて自宅を出て、中島少尉の下宿に行き、明朝決行に決定した旨を伝へ、附近にて理髪を為したる後、歩兵第一聯隊の機関銃隊の栗原中尉の下に行き、軍装を整へ自分の執筆せる蹶起趣意書を山本少尉に印刷して貰ひ、静かに時間の経過を待ちつつ第十一中隊に行き丹生中尉と会談し、翌二十六日午前四時二十分頃から私は丹生部隊と行動を共にした。
午前四時三十分、歩兵第一聯隊の各参加部隊は、栗原中尉の機関銃隊を先頭に、丹生部隊之に続き、歩三の野中部隊の後方に続行して粛然として聯隊を離れ、各々受持の部署に向ひ出発。
丹生部隊は午前五時頃首相官邸に到着、裏門から栗原部隊の一部が突入し、更に表門り其の主力を以て突入し、数発拳銃を発射しているのを右側に見ながら私共一行は陸相官邸に行きました。
陸相官邸に到着しましたのは午前五時頃であります。陸相官邸に於ては、何等憲兵の抵抗を受けず、玄関に到り私服憲兵に、香田大尉の名刺を通じて陸軍大臣に面会を求めたのであります。玄関に面会を求めましたのは、香田大尉、磯部、私の三人で、数名の下士官兵の護衛を受け、只管陸相の御出を待ち、此の間丹生中尉、山本少尉は陸相官邸及陸軍省参謀本部の外囲警備に当って居りました。約一時間半待つて、午前六時三十分頃 小松秘書官が来ましたので事情を説明し陸相に面会を求め、それを伝へて貰ひ同四十分頃漸く陸軍大臣閣下に面接することが出来ました。待つて居る間に他の襲撃隊より逐次報告を受け、首相、高橋蔵相、鈴木侍従長、斎藤内大臣、渡辺大将に天誅を下した事を知りました。 |
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陸相に面会する事が出来ましたので、香田大尉は決起の趣旨、計画の大要、現在迄知り得たる情報を報告し、事態収拾の為善処せられ度き旨を述べました処、陸相閣下より「
君等の希望を云ひ給へ 」と 申されましたので、香田大尉り次の項目に就き理由を具して説明したのであります。
一、事態の収拾を急速に行ふと共に、本事態を維新回天の方向に導くこと。
二、皇軍相撃つことをさける為急速の処置を執ること。
三、兵馬の大権干犯者であり、皇軍私兵化の元兇である南大将、小磯中将、建川中将、宇垣総督を即時逮捕すること。
四、軍権を私し、種々の策動を以て皇軍破壊の因を為して来た者の中、其中心的人物と思はれる根本大佐、武藤中佐、片倉少佐等を即時罷免すること。
五、露威圧の為、荒木大将を関東軍司令官たらしむること。
六、全国に散在して居る同志中、主要人物を東京に採用して、此等の意見をも聴取して 事態収拾に当らしむること。
七、右諸項が実現する迄、我々部隊は暫く現在位置附近の警備に任ぜしめられたきこと。
その中に古莊次官、真崎大将、小藤歩兵第一聯隊長、山口大尉等が次々に見えられ、大臣閣下は参内上奏する事になりました。同日午前九時頃から陸軍省参謀本部の人々が続々出勤して来た為、門を警備して居た者と小競合を起し、遂に官邸表玄関に於て、磯部が陸軍省の片倉少佐を撃つ結果に立ち至り、古莊次官と石原大佐の計ひで、陸軍省、参謀本部の勤務者は夫々偕行社、在郷軍人会館に行くこととなり、事態の悪化するのを防止することが出来たのであります。
陸相参内後は一寸平静となり、私共は陸相の帰られるのを待ち、其結果を聞いた上で我々の今後の方策を決定し様と思って居りましたが、何時迄待つても大臣は帰って来られず、事態の急速なる解決を念願して居りました我々として、非常に焦慮したのであります。同日夕刻前であつたと思ひますが、私は古莊閣下に此儘経過する時は、事態は益々悪化するのみであるから、速かに事態収拾の方策を決定する様希望し、今朝、陸相に対し香田大尉り進言した蹶起趣旨幷に希望を述べ、特に本決行が義軍としての行動であるか、賊軍としての汚名を負ふべきものであるか、吾々の行動が義軍であることを認めらるるか否かは、一に懸って昭和維新に邁進するか否かになるものと思ひます。
我々は趣意書に書きました通り、御一新翼賛の絶対臣道を尽す為に、
我々軍人にのみ出来る天与の使命を果したのであつて、此の行動を是認することに依って維新に直入することが出来るのであつて、精神のみを是認して行動を否認する様な従来通りの国法に縛られた観念では、維新には入り得ない。維新とは従来の一切を否認するものであり、相沢中佐が統帥権干犯を怒り、皇軍の私兵化を防止する為他に方策なく臣子としての道を尽す為に決行せられたあの永田事件の行動を、精神は良いが直接行動はよくないと云ふ従来通りの法治思想であつては、未だ維新を知らぬ者の考へである。今度の行動は、我々には絶対正義と思って居る。下士官兵もそれを信じで一死殉国を期して奮ひ立ったのでありますから、此を義軍と認め此の決行を起点として、御維新に這入って貰ひたい。特に部隊将校としては、宸襟を悩まし奉りし事は恐懼を禁じ得ません事であり、其責は当然負ふべきであるが、部下の考へて居る正義観を生かしてやりたいと云ふ念願からも、此の決行の同志集団を義軍として認めて戴きたしと強調しましたが、古莊閣下は、此の私共の意見に基いて自ら宮中に参内せんとせられました時、山下奉文少将が宮中から帰って来られまして、陸相の御意図として軍事参議官一同と相談した処、蹶起の趣意を認め善処する事に意見が一致しありとの意味の事を伝言せられましたが、結局抽象的内容である為、何とも我等の行動を決する事が出来ず、更に古莊閣下に参内して貰ひ、改めて大臣に御相談を願ふことにしました。 |
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夜間に入って各部隊は愈々殺気立って来ましたので、何とか急速に目鼻をつけたいと思ひまして、山下少将を促し、満井中佐、馬奈木中佐と共に香田、磯部、私の三名の者が同行して宮中に軍首脳部の人を迎へに参りました処、山下少将以外は阻止されて参内は出来ず帰りました。 |
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其後、宮殿下を除く全軍事参議官が陸相官邸に来られ、香田、磯部、栗原、対馬、私の五人で山下少将、鈴木大佐、小藤大佐、山口大尉等立会にて御眼に掛り、色々意見を開陳致しましたが、結局は抽象的議論に終り、何等具体化されたものはありませんでした。 |
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二十六日深更に至って、戒厳令が宣布された事を知りましたが、時刻ははつきり判りませんが一先づ陸軍省附近は撤去しやうと思ひ、種々其実施に就て考案して居りましたが、数日来の疲労で朝に入り其儘寐り、翌二十七日午前六時頃に到るも状況は余り進展の可能性がないので、私は歩兵第一聯隊の兵営内迄部下を撤去しやうと主張しました処が、昨夜以来集って居た若い将校達の非常な憤激を買ひ、皇軍相撃つも辞せずとする強硬論強く、非常に険悪化したので一先づ陸軍省、参謀本部及警視庁を撤退して、新議事堂附近に集結して其の警戒を緩和し、交通を遮断せざる様にすることに決し、夫々配備の変更に著手しました。香田大尉と私とは第一線に行き、必要の指示を行はん為警視庁に行く途中、戸山学校の柴大尉が自動車にて来て、今朝の状況を戒厳司令部に説明して置いたが、君達から直接話をした方が善いとの話がありましたので、其自動車に乗り軍人会館内戒厳司令部に行きました。
戒厳司令官香椎中将と参謀長安井少将に対し、私から蹶起の趣意及香田大尉が二十六日朝陸相に対して希望した項目を説明し、各部隊の意気強く此れ以上迄占拠して居る位置を動かすことは不可能で、それを強行すれば必ずや皇軍相撃つの不祥事を惹起する虞れがありますから考慮せられたいことを力説し、最後に突出部隊は昨日小藤大佐の指揮下に入ることを命ぜられて以来、其の小藤大佐の命令に従って行動する心算で居りますから、戒厳司令官の小藤部隊として第一師団長の隷下に属せしめられたしと希望を述べましたが、此の最後の希望は司令官幷に参謀長から是認せられて辞去し、其帰途三宅坂に居たる安藤部隊の許に立寄り、安藤大尉と話し合って居りました時、坂井部隊が平河町の方から行軍して来て桜田門の方へ行かうとして居るのを見て吃驚し、先づ停止を命じて坂井中尉に聞きますと、
宮城に行き参拝するとの事でありますから、今宮城前は近衛の部隊が厳重に警備して居るので必ず衝突する結果となるから、元の位置に引き返す様に勧告しました。
次に首相官邸の栗原中尉の処に行きますと、磯部も来て居りました。其処で外部の状勢は有利に動いて居る様である、内閣は総辞職をしたと云ふ情報を得て一旦陸相官邸に帰りましたが、此所でも軍事参議官が打揃って各方面に奔走し、努力して居ることを聞きましたので、此際軍事参議官の行動を活潑にして時局収拾を迅速に導く為、其中心を確定する必要があると思ひ、「 万事真崎大将に一任 」と 云ふ考が私の頭に閃きましたので、首相官邸に香田大尉と共に行き先づ磯部に相談し同意を得、栗原中尉も賛成の様でありましたから陸相官邸に帰り、全参議官と成る可く成多数の蹶起将校と会合して其の意見を開陳し様と夫々手配をしました。
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一方小藤支隊の臨時副官の格となつて居た歩兵第一聯隊山口大尉が、其夜の傘下部隊の配宿を偵察計画中でありましたから、同人に意見を述べ、大体、大蔵大臣、文部大臣、鉄道大臣官邸に 栗原、中橋、田中部隊、幸楽に安藤、坂井部隊、山王ホテルに丹生部隊が泊ることに決定を見て、山口大尉に命令を出して貰ひました。それから私共の希望に応じて真崎、阿部、西の三大将が官邸に来られましたので、各部隊からも出来るだけ多くの将校を集合して貰ひ、約十七、八名が一同を代表して、事態収拾を真崎大将に一任願ひ度き事。各軍事参議官は同大将を中心に結束して善処せられたき事。尚此の事件は軍事参議官一同と蹶起将校全員との一致せる意見となるを上聞に達せられたき事の三件を希望し、之に対し阿部、西両大将は個人的に同意を表し、真崎大将は厚意は有難きも蹶起部隊が原位置を撤去するに非れば収拾の途なきを説かれました。斯くして夕刻に近く各部隊は夫々宿営につき、戒厳司令官から特に本夜はよく休養する様にとの注意がありましたので直接警戒以外の者はなるべく廃して休泊しました。 |
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私は四、五名の者と官邸で夕食を食べた上、幸楽に居る安藤大尉の休宿状態を一巡した後、本部の位置と決定された鉄道大臣官邸に行き、稍々前途に曙光を見出した様な気になり安心して寝についたのであります。
・・・次頁 村中孝次の四日間 (2) [ 憲兵訊問調書から ] に 続く |