対馬勝雄・歩兵中尉(41期)



 更新日/2021(平成31.5.1日より栄和改元/栄和3).4.23日

 【以前の流れは、「2.26事件史その4、処刑考」の項に記す】

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、皇道派名将録「対馬勝雄・歩兵中尉(41期)」を確認する。(お墓は野中さん岡山、村中さん仙台、磯部さん東京、安藤さん仙台、相澤さん仙台)

 2011.6.4日 れんだいこ拝



死刑組

【対馬勝雄プロフィール】(41期)(歩兵中尉)
 歩兵中尉(豊橋陸軍教導学校、41期)。豊橋陸軍教導学校歩兵学生隊。明治41年11月15日、青森市に生まれた。2・26事件の判決により銃殺刑。1936(昭和11).7.12日没、享年27歳。
 明治41年11.15日、青森市相馬町五八(現・青森県南津軽郡舎館村)に海産物商を営む対馬嘉七氏の長男として生まれた。
 
学業は優秀で、青森師範付属小学校で総代で卒業した。
 青森中学 一年終了で仙台幼年学校を経て陸軍士官学校へ進み昭和四年卒業した。その年、仙台幼年学校への青森県からの合格者は對馬只一人だったが、両親は息子の入学式に必要な紋付羽織の用意がなく、借り物で済ましたという。

 陸軍士官学校を卒業した。栗原中橋両中尉と同期の四十一期生である。
 少尉任官と共に弘前歩兵第三十一連隊付となり、連隊旗手を勤めた。
 満州事変に出征し戦功によって功五級を授けられた。
 凱旋後の昭和九年三月、豊橋陸軍教導学校付となつた。
 同年十二月、同地で静岡の松永正義氏の娘、千代子と結婚した。

 2.23日、行動参加を決意した彼は当時産後で入院中であつた夫人を、保養を囗実に静岡の実家に帰している。長男好彦が生れたのはその前月であった。対馬中尉の革新への決意はまことに強く、同期の栗原中尉らと同志をちかい、また磯部、村中氏等との交りも深かつた。事件は東京部隊を中心に計画されたのであつたが、ただ一つ地方部隊の豊橋で同時決行が計画されたのは、対馬中尉が同地にあつたためで、同中尉を中心とした同志の豊橋部隊動員に期待したためである。 
 豊橋の 駅の別れの 名残りにと
 吾子をのぞけば 眠り居にけり

 2.26日、陸軍将校によるクーデター(2.26事件)に加わり、林八郎、栗原安秀らとともに首相官邸を襲撃するが、岡田啓介首相の殺害に失敗。
命日 昭和十一年七月十二日(第一次処刑)  
戒名 義忠院心誉清徳勝雄居士  
墓所 青森市外三内墓所内     
 桜義民伝「二・二六事件は軍服を着た百姓一揆であった。對馬中尉に於ては 郷里津軽農民の構造的貧困を抜本的に救わんが為の蹶起であった」。
 遺書「後世史家ニ俟(ま)ツハ維新ニアラス 現代人ノ恥辱ナリ」。
 遺詠
 「日は上り 国の姿も明るみて 昨日の夢を 笑う日も来ん」
 昭和十一年七月十日 草莽微臣 対馬 勝雄
 「皇位天皇之神格也 地上最高天与使命也 至愛至誠不可侵」
 昭和十一年七月十日 草莽微臣 対馬 勝雄
 「ひと粒の 種はくさりて ちよろづの 実を結ぶこそ 誠なりけれ」
 昭和十一年七月十二日 邦刀
 対馬中尉の面目躍如たる一つの挿話を紹介しよう。秋田の歩兵第十七連隊に、菅原という軍曹がいた。昭和六年の十月事件の際、対馬中尉は菅原軍曹と共に、死を期して相携えて上京したことがあつた。その菅原軍曹が昭和八年、満州北鎮で匪賊と戦って戦死した時、対馬中尉は他の連隊にあつたが、階級を離れ盟友として押してその告別式に参列し、軍曹の遺骨の一片を食べて霊前に死を誓つたという。もつて中尉の人となりをうかがい知ることができよう。

【妹・波多江たまの回想】
 2015.5.19日、「取材【二・二六事件 決起将校 対馬勝雄中尉の妹様・波多江たまさん100歳】」。
 二・二六事件は、映画やドラマ、歴史の教科書の中の出来事としか考えていなかったが、今回、処刑された将校の妹さんに取材することができた。対馬勝雄陸軍中尉の妹さん、波多江たまさん100歳である。
    
 【二・二六事件は陸軍の派閥争いではない。処刑された兄は、貧困にあえぐ農村を本気で救いたかった】
       
 今回取材した波多江たまさんのお兄さんは、二・二六事件の決起将校の1人で、昭和11年7月12日に処刑された、対馬勝雄 陸軍歩兵中尉。この80年近くも前の出来事を、こと細かに話してくれた たまさんは、なんと御年100。第一次世界大戦があった1914年に生まれた。しかし!とても100歳とは思えない肌のツヤと声の張り!そして理路整然と話す明晰さと滑舌の良さ!3時間に及んだ取材も、一度も休憩を挟むことなく途切れることなく話してくれた。そして取材後にようやくお茶をゴクリ。茶菓子をペロリ!なんという100歳なのか!ただただ頭が下がる。
       
 そんなたまさんのお兄さん対馬勝雄中尉は、子どものころから曲がったことが嫌いな性格で「軍人とは死ぬ事なり」と日記に綴り、日本のために心身を捧げた軍人だったという。人望も厚く、部下が戦死したならば、残された家族は生活が大変だろうと、自らの給料から生活費を渡し、あるときは借金までして、食うに困る部下に食べ物を分けていたという。この面倒見の良さは、本人が送った貧乏生活に起因していると、たまさんは話す。

 生まれ育った頃の青森地方の農村の貧困ぶりは大変で、昭和恐慌に続き、昭和東北大飢饉と呼ばれる5年連続の凶作。その間に、昭和三陸大津波が東北を襲った。お米などないのでカボチャのツルを煮て食べる。布団はないので、藁を重ね布を敷いてその上で寝る。娘は売りに出すか女中として働かせに出す。それは給料をもらうためではなく、まかない飯を食べさせてもらうため。NHKドラマ「おしん」ですらまだマシと言えるような状況だったという。そんな生活を送ったから、お金がない部下の苦労がよくわかったのだろう。
当時、貧困地域では、軍隊に入る事がてっとり早くお金を稼ぎ出世する早道で、小さい頃から成績優秀だった対馬勝雄さんは、陸軍幼年学校から士官学校に入り陸軍将校となった。  

 そして転機となったのは満州事変。将校として50人の部下を指揮していた勝雄さんは、満州を占領するために戦った。部下の多くは東北の貧困農家の出身だった。その部下の多くが血を流す一方で、日本は満州にどんどん日本人を移住させ実効支配していく。そこへ財閥が入り込み、豊富な資源をもとに産業を発展させ私財を肥やしていく。「貧乏人が血を流し勝ち取った土地で、財閥が私財を肥やす」、「死んだ部下には大した報奨金も与えられず貧乏のまま」。たまさんは、「兄はこの頃から政治に対する不信感が芽生えたのではないか」と言う。 
   
 そして昭和11年2月26日。しんしんと雪がふる中、対馬勝雄中尉は首相官邸を襲撃。他の決起将校らも、主要閣僚を殺害し主要施設を占拠した。昭和維新と銘打って、財閥など特権階級と、そこから資金援助を受けている政党を解体し、貧困にあえぐ農村を救うべきだと昭和天皇に訴える。しかし叛乱軍とみなされ…2月29日に投降。7月5日に決起将校らに死刑判決。7月12日に銃殺刑となった。対馬勝雄中尉 享年27。
   
 銃殺刑の直後、家族とともにかけつけたたまさん。対馬勝雄中尉の遺体からはまだ温もりが感じられた。
若くして人生の途を閉じてしまったが、その死に顔は穏やかだったことがせめてもの救いだったという。事件直後から、「皇道派」「統制派」の陸軍内の派閥争いだ。などと報道されたが、たまさんは、それは政府や参謀本部が情報統制し意図的に流した情報で、決起された背景はきちんと伝えられていないと強く訴える。少なくとも、兄・対馬勝雄中尉は、貧困にあえぐ東北の農村を救いたいと本気で考えていたという。そんな二・二六事件に対する波多江たまさんの思い、そして「いつのまにか突然に始まっていた」という太平洋戦争についてのインタビューの模様は、WEBサイト「みんなの戦争証言アーカイブス」で公開いたします。

 http://true-stories.jp
   
 過去の日本に何があったのか?自国の歴史を知らずして他国と話す事はできない。伝える事が未来につながる
     
 安彦和弘 2015年5月18日取材





(私論.私見)