補足・皇道派名将録考 |
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、皇道派名将録を確認する。 2011.6.4日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評934 | れんだいこ | 2011/06/07 |
【陸軍皇道派の有能人士考】 2.26事件で陸軍皇道派が一網打尽的に潰された。これは確認された史実であるが、確認されていない面があるように思われる。それは、皇道派の青年将校の行動がクーデターであったのは論をまたないとして、皇道派の軍人能力、政治能力は如何なものであったのかの問題に関してである。通説の卑下的評価は正しいのだろうか。政治能力は議論がややこしくなのるでひとまず措くとして、軍人能力に於いては極めて優秀な部隊統率能力を示しているケースが多く、青年将校のいずれもが部隊に信任厚い有能人士であったかを示している。こうなると、皇道派への悪口三昧的評価の見直しをせねばならぬのではなかろうか。これが本稿の問いである。 これを証しようにも、一番肝心の面々が首謀者として死刑に処せられておるからして調べようがない。とすると、禁錮刑で生き残った兵のその後の生態及び軍歴で証左する以外にない。生き残り兵にしてかくもの優秀さが証明されれば、処刑された青年将校ともなると更に優秀だった可能性があり、それを明らかにすることは遅きに失したとはいえ弔いにはなるであろう。 もう一つは、青年将校達に影響を与えていた皇道派トップの能力を精査し、彼らの優秀さを証すれば、その薫陶に服していた青年将校も同じく優秀だった可能性があると云うことになるのではなかろうか。皇道派のトップリーダ―は真崎甚三郎・陸軍大将、荒木貞夫・陸軍大将、山下奉文・陸軍大将、小畑敏四郎・陸軍中将である。彼らは陸軍の最高要職故に処罰が手加減され死刑を逃れた。その彼らのその後の生態及び軍歴で優秀さが確認できれば間接的証明になるだろう。 この面の論証が行われているように思われない。なぜなら危険であるからである。2.26事件の正当性を語れば、事件叛乱者が真に撃とうとしていたのは国際金融資本帝国主義であり、彼らに溶解されつつある祖国日本救済を至念していたことを明らかにすることになる。今現在に於いて戦勝側である彼らが許すべくもない。臭いものには蓋をして、知らしむべからず拠らしむべしを旨とする支配の琴線に触れよう。 そういう理由でと思われるが、2.26事件を語ることは未だにタブーのように思われる。爾来、こう云う風に隠蔽されると封切りしたくなるのが、れんだいこの性分である故に、蓋を開けることにする。サイトは「補足・皇道派名将録考」に記す。未だ書きつけ始めたばかりである。 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/rekishi/kindaishico/kodohaco.htm) 皇道派のトップリーダ―真崎、荒木、山下、小畑は共通して、2.26事件後閑職に追いやられている。次第に大東亜戦争に誘い込まれて行く成り行きを危ぶんでいる。その閑職期、それぞれが潔い身の処し方の中でも有能な立ち働きを示している。中でも「マレーの虎」と云われた山下大将は皇道派の鏡とも云うべき範を垂れている。2.26事件後左遷されたものの、太平洋戦争勃発時には、海軍の真珠湾奇襲と呼応するコンビプレーの最重要作戦として、ここ一番のシンガポール攻略戦で起用され、史上稀なる名作戦で勝利に導いている。 本来なら陸軍中央に凱旋し重用されるべきであったが、あろうことか用済みとばかりに満州へ転任させられ、以降、大きな作戦を任されていない。このことは何を意味するのだろうか。こういう変調な指揮が戦史のいたるところに認められる。ところが敗色濃厚となるや再度南方作戦に駆り出され、最後のご奉公とばかりに奮闘努力している。敗戦となるやすぐさま戦犯としてフィリピンのマニラで軍事裁判にかけられ、捏造された容疑で指導責任を負わされ、絞首刑されている(享年60歳)。 山下は法廷で一切の弁明を行わず簡明な雄弁をもって陳述している。「日本の軍体系の非能率の結果として、私は指揮を統一することができなかった。日本の連絡網は極めて貧弱であった。私は、次第に情況から切り離されることになり、接触感を失ってしまった。そのような状態のもとで、自分の為し得る限り最善の働きをした、と私は確信する。私は如何なる虐殺をも指令しなかった。私は私の軍団を指揮するために最大限の努力を払った」、「私に責任がないわけではない」、「私が自決したのでは責任を取る者がいなくて残った者に迷惑をかける」云々。 小畑敏四郎を例証する。2・26事件後、辞表を提出している。すぐさま予備役に編入されている。日中戦争にあたって第14師団長となったが健康上の問題で召集解除となった。1945.9.2日の降伏文書調印式に、陸軍参謀総長の梅津美治郎を督励して、「今更敗けた陸軍に何の面目があるのだ。降伏の調印に参謀総長が行くのが嫌なら、陸軍の代表として私が行っても良いぞ」と叱り飛ばし出席させている。梅津に対して対等以上の貫禄があったことが読み取れる。その後、近衛文麿の推薦で東久邇宮内閣で国務大臣を務めている。1947(昭和22).1.10日、死去(享年61歳)。注目すべきは、小畑は大東亜戦争指導者を終始冷やかに眺めている素振りが見えることであり、山下同様に肝腎の時には駆り出され一働きしていることである。 もう一人挙げておく。事件後自害した野中四郎の弟の野中五郎の生きざまも壮烈である。事件の為に何かと苦労したと云う。 大東亜戦争開戦時にはハワイ真珠湾攻撃。続いて、フィリピン島クラークフィールド基地攻撃、香港攻撃、コレヒドール攻撃、ポート・ダ゛―ウィング攻撃、ギルバート諸島沖航空戦、マーシャル諸島沖航空戦、アッツ島艦船攻撃、ガダルカナル島飛行場攻撃などに転戦に転戦を重ねている。 最後は、人間ロケット爆弾「桜花」による特攻の第721海軍航空隊(神雷部隊)の陸攻隊隊長となり指揮を執っている。「桜花」の欠陥を看破し「この槍、使い難し」、「日本一上手い自分が攻撃をかけても必ず全滅する」と予言、特攻そのものに批判的であり、たとえ国賊と罵られても桜花作戦を止めさせたいと考えていたと云う。「部下たちだけを突入させて帰って来られるか、自分も体当たりする」との親分肌で接し、故に彼の率いる部隊は「野中一家」と呼ばれたほど堅い絆で結ばれていた。1945.3.21日、第一神風特別攻撃隊(神雷部隊)に出撃命令が下され出撃した。米空母部隊に攻撃を試みるも野中予言の通り、次から次と迎撃戦闘機に撃墜され全滅戦死した(享年35歳)。野中隊の最期は米戦闘機のガンカメラに収められ、今でも鮮明なカラー映像で見ることができる。 こういうことを何の為に語ろうとしてるのか。既に述べたが、皇道派の精神には何の曇りもなく、御国に生命を捧げていることを確認せんとしようとしている。仮に2.26事件の青年将校が処刑されずに居たら、生き残った兵士以上の活躍をし、戦局はもっと違った展開になっていたのではなかろうか。それは何も戦勝祈願の見地から云うのではない。開戦となれば生命を捧げるも、開戦前の国際情勢の読み方、外交交渉の駆け引き等々においても史実と違う展開を呼び込んでいたのではなかろうか。そういう可能性があり得たのではなかろうかと愚考したい訳である。 思えば、大東亜戦争は、皇道派と対立する統制派の指揮下で担われたことになる。それは、皇道派の能力を干し、皇道派を封殺したままの聖戦に過ぎなかった故に、軍事能力的に見れば片肺飛行であった。大政翼賛会運動で国を挙げて突き進んだが粗脳船頭ばかり多い危ういものであった。しかも、統制派の内部は既にかなりな程度に国際金融資本エージェント網に浸食されていた。皇道派にはそういうことが見られない。ここが皇道派と統制派の大きな違いであろう。とするなら、大東亜戦争の帰趨は、知る者にはかなり早くから見えていたのではないのか。そういうことを考えるのも一興であろう。 ちなみに、戦前軍部の戦史犯罪が認められるとしたなら、それは統制派的軍規の弛緩によるものであり、皇道派の指揮下では有り得なかった。戦前軍部の戦史善政が認められるとしたなら、それは皇道派的規律によるものである。これはさすがに云い過ぎだろうか。そうまで云いたくなるほどに皇道派の正義と能力が認められるのであり、このことはもっと正当に評価されて然るべきだろう。皇道派を悪しざまに罵ることで左派証明している者が居るとしたら典型的なサヨであろう。こう云う風に考えると、政治状況は戦前も戦後も今もそんなに変わっていないということになる。 2011.6.7日 れんだいこ拝 > rendaico れんだいこ > れんだいこブログの自己評。論旨がはっきりしている点が良いですね。長大饒舌文で何を云っているのか分からない煙巻き論法に比してすっきりする。論旨の是非は別にして議論資料に値する。なんちゃって。 |
第2次処断 |
自決組 |
【野中四郎・海軍大佐考】 |
自決。野中四郎の履歴は次の通り。 1903.10.27日―1936.2.29日。大日本帝国陸軍の昭和時代前期の軍人、歩兵第三連隊第五中隊長。最終階級は陸軍大尉。 1903(明治36).10.27日、 父、野中勝明の子として誕生。青森県弘前市出身。東京府立第四中学校、陸軍幼年学校卒業。 1924(大正13).7月、 陸軍士官学校卒業(36期)。歩兵第1聯隊付。1925(大正14)年、歩兵第3聯隊付。1930(昭和5)年、 歩兵第1連隊中隊長。1933(昭和8)年、 陸軍歩兵大尉。歩兵第三連隊第五中隊長となる。 1936(昭和11).2.26日、 二・二六事件で約500名の下士官兵を率いて警視庁及び桜田門付近を占拠。「蹶起趣意書」筆頭名義人。同2.29日、(山下奉文少将に自決を促され、)陸相官邸で拳銃自殺(享年34歳)。「我れ狂か愚か知らず 一路遂に奔騰するのみ」。絶筆「天壌無窮、陸軍大尉 野中四郎 昭和十一年二月二十九日」(野中五郎は、兄の写真を終生身につけて離さなかったという)。 戒名は直心院明光義剣居士。妻、野中美保子。 |
参考【野中五郎・海軍大佐考】 |
野中四郎の弟。1910.11.18日―1945..3.21日。大日本帝国海軍の軍人で陸上攻撃機隊長。戦死時は海軍少佐(二階級特進で海軍大佐)。二・二六事件の中心的人物の一人で自決した野中四郎大尉の弟。野中五郎・海軍大佐の履歴は次の通り。 岡山県出身。父の野中勝明は陸軍少将、兄の次郎(中佐)、四郎(大尉)も陸軍士官だったが、五郎は仲のよかった姉が海軍士官と結婚したことが契機となって海軍を志す。 東京府立四中を経て、1933(昭和8).11.18日、海軍兵学校卒業(61期)。1935.4月 少尉任官 。10月、第27期飛行学生(1936.11月まで)。 1936(昭和11).、海軍飛行学生。航空母艦「蒼龍」乗り組み。土浦航空隊。海兵時代は落第を経験し、また鈴木實と親しくしていた。兄が二・二六事件に連座していたため何かと苦労したという。 艦上攻撃機搭乗員として航空母艦「蒼龍」に配属されたが、間もなく陸攻乗りに転身した。1937.12月、中尉進級。1938.11月、大尉進級。1941.9月 第1航空隊分隊長。 1941(昭和16).12.8日、ハワイ真珠湾攻撃。12月、分隊長としてフィリピン島クラークフィールド基地攻撃参加(マニラ攻撃参加)。続いて香港攻撃参加。 1942(昭和17).、日、コレヒドール攻撃参加。同年2月、ポート・ダ゛―ウィング攻撃参加。その後もギルバート諸島沖航空戦やマーシャル諸島沖航空戦で対機動部隊の攻撃隊を率いるなど各地の戦闘に参加した。同年8月、第1航空隊飛行隊長。同年11月、第752航空隊飛行隊長。 1943(昭和18).5月、アッツ島艦船攻撃参加。同年7月、ガダルカナル島飛行場攻撃参加。同年10.1日、人間ロケット爆弾「桜花」による特攻の第721海軍航空隊(神雷部隊)陸攻隊隊長として陸攻隊の指揮官に任じられた。豊富な戦歴から「桜花」の運用の難しさを看破し、「この槍、使い難し」「日本一上手い自分が攻撃をかけても必ず全滅する」と予言していた。更には特攻そのものに批判的であり、たとえ国賊と罵られても桜花作戦を止めさせたいと考えていたとされる。その一方で陸攻は「桜花」を切り離したら帰還するよう命じられていたにも関らず「部下たちだけを突入させて帰って来られるか、自分も体当たりする」と公言していた。彼は自らと部下たちを侠客に見立てて士気高揚を図ったことから、彼の率いる部隊は「野中一家」とも呼ばれた。彼自身は非常に繊細な人間であったという証言も多く、これは彼なりの人心掌握術であったといわれている。721空に3名の搭乗員が着任した際、指揮台にて野中ははるか遠くに目を転じながら、「見渡すかぎりの搭乗員、遠路はるばるご苦労…」と任侠の大親分よろしく見得を切り部下の度肝を抜いている。しかしその一方で、指揮台から降りる際にはうっすらと涙が浮かんでいたという。同年11月、ギルバート方面艦船攻撃。少佐進級。 1944(昭和19).4月、第703飛行隊隊長。6月、硫黄島進出、サイパン島夜間攻撃参加。10月、第721航空隊飛行長。11月、攻撃第711飛行隊長。 1945(昭和20).3月、第721航空隊飛行隊長。3.21日、野中らの反対にも拘らず第721航空隊の陸攻(母機)18機に「桜花」15機を搭載した第一神風特別攻撃隊神雷部隊に出撃命令が下され、指揮官として出撃。米空母部隊に攻撃を試みるも事前に野中が予言していた通り、アメリカ第58機動部隊の遥か手前で迎撃戦闘機に襲撃され全機撃墜され全滅した。戦死(享年35歳)。野中隊の最期は、米戦闘機のガンカメラに収められ、今でも鮮明なカラー映像で見ることができる。 |
【河野寿・航空兵大尉考】 |
河野寿・陸軍航空兵大尉(所沢陸軍飛行学校操縦科学生、28歳)。 明治40年3月27日長崎県佐世保で生まれた。3月5日割腹自決 |
死刑組 |
【 村中孝次・歩兵大尉(37期)考】 |
1903(明治36).10.3日―1937(明治37).8.19日。戦前日本の軍人、歩兵大尉(37期)。国家社会主義者。北海道旭川市出身。享年32歳。妻・静子。 明治36年10月3日、北海道・旭川市に生まれた。 札幌中学を経て、陸軍士官学校37期。歩兵第27連隊付・士官学校区隊長を経て、1932年、歩兵第26連隊付。同年陸軍大学に進むが中退。「学力優秀」の評がある。この頃から皇道派青年将校グループの中心人物として知られるようになり、維新同志会の西田税らと交遊。1934年、陸軍大尉。同年、磯部浅一らとともにクーデター未遂容疑で検挙され、休職となる(陸軍士官学校事件)。 1935年、磯部と「粛軍に関する意見書」を作成・配布し、免職となった。また、真崎甚三郎教育総監の更迭は永田鉄山軍務局長を中心とした統制派の皇道派弾圧の陰謀であるとする「真崎教育統監更迭事情」を作成し、相沢三郎中佐に送付。同年の永田軍務局長殺害事件(相沢事件)の遠因を作った2.26事件の首謀者の一人となり、7.5日に死刑判決が下るも、北、西田両名の証人として磯部と二人生き残ることになる。1937.8.19日、西田や磯部らと共に銃殺刑に処された。遺書は「維新ノ為メニ戦フコト四周星 今信念ニ死ス」。 |
【磯部浅一・一等主計(38期)考】 | ||
1905(明治38).4.1日―1937(昭和12).8.19日。日本の陸軍軍人、一等主計(38期)。国家社会主義者。陸軍主計官として階級は陸軍一等主計に至るが、陸軍士官学校事件で免官、後に二・二六事件に関与し銃殺に処される。享年30歳。 1905(明治38).4.1日、山口県大津郡菱海村(現長門市)大字河原に農業兼左官の磯部仁三郎の三男として生まれた。父は出稼ぎに出たまま家に帰ることは希であった。兄達は村を離れ油谷港で働き、母のハツは二反ほどの畑を耕し、収穫した野菜を塩田の飯場に売って生計を立てていた。浅一も小学校から帰ると母と共に畑で働き、飯場へ野菜を売りに行った。背が高く頑丈な体つきで、学業はいつも首席であった。あるとき知事の養子を求める布令が近郷に回って、浅一もどうかと話があったが二者択一の選に落ちた。村の者は「あまりに貧乏な家の子だから」と思った。やがて浅一は山口の松岡喜二郎という県職員の家に貰われて行った。浅一は予てより軍人になりたいと思っていたし、松岡は家から是非とも軍人を一人出したいと思っていた。夕食を終えると決まって松岡は浅一の部屋に来て、吉田松陰や久坂玄瑞の話を聞かせた。謹厳実直な長州人だったが、浅一には優しかった。 高等小学校。大正8.5.1日、広島陸軍幼年学校入学。 松岡の喜びはひとしおであった。学校の休暇には松岡家で一泊し、翌日山陰本線の滝部で汽車を降り、人の通わない山道を歩いて菱海村へ帰るのが浅一の常であった。貧乏人の小倅が将校生徒では世間が許さなかった。実家に着くと野良着に着替えて母を手伝った。陸軍士官学校予科を経て、1926(大正15).7月、陸軍士官学校(38期)を卒業する。同年10月、陸軍歩兵少尉に任官され、歩兵第80連隊附を命ぜられる。1929(昭和4).10月、陸軍歩兵中尉に進級。朝鮮歩兵74連隊を経て、1932(昭和7).6月、主計将校を志願し陸軍経理学校に入校する。1933(昭和8).5月、経理学校を卒業。主計に転科し陸軍二等主計(中尉相当)に任官される。同年6月、近衛歩兵第4連隊附を拝命。1934(昭和9).8月、陸軍一等主計(大尉相当)進級と共に、野砲兵第1連隊附に移る。同年、陸軍士官学校事件に巻き込まれ11月に拘禁、翌年3月、停職、4月、釈放される。1935(昭和10).7月、村中孝次とともに「粛軍に関する意見書」を執筆し、8.2日、免官処分される。以降、軍の革新運動に専念し、2.26事件の中心人物となる。 早くから北一輝の下に出入りし、皇道派青年将校グループの先駆者的存在として知られた。二・二六事件では、栗原安秀らとともに計画の指揮に当たり、1937(昭和12).8.19日、陸軍衛戍刑務所処刑場で銃殺刑に処された(享年32歳)。 獄中で「行動記」「獄中日記」「獄中手記」を執筆し、暗黒裁判の実態と共に計画の正当性を後世に訴えた。特に「獄中日記」(昭和11年8月31日分までが現存しており、以降の1年分は所在不明)には昭和天皇に対し責任を追及している文があり、凄まじい怨念と共に注目に値する。
彼によると、日本は明治維新革命以来、「天皇の独裁国家ではなく」、「重臣の独裁国家でもなく」、「天皇を中心とした近代的民主国」なのだが、「今の日本は重臣と財閥の独裁国家」に変じていると云う。その大義を理解しなかった昭和天皇を獄中から「御叱り申して」いた。銃殺時には北と同じく「天皇陛下万歳」は唱えなかったという。三島由紀夫は「獄中日記」を高く評価し、『「道義的革命」の論理――磯部一等主計の遺書について』を著している。三島の晩年の作『英霊の声』は北一輝だけでなく、磯部の影響をも受けた。 |
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「二・二六事件獄中日記 磯部浅一」の貴重なサイトアップを見つけたので転載しておく。磯部氏は貴重な叫びを伝えている。青年将校の理論、地的水準を知る上で又とない記録になっている。
遺書には横書きで「正気」と力強く記している。 |
【 香田清貞・歩兵大尉考】 |
香田清貞・歩兵大尉(第1旅団副官、37期陸士) 明治36年9月4日、佐賀県で生まれた。享年32歳。 |
【安藤輝三・陸軍大尉考】 | |
1905(明治38).2月25日 - 1936(昭和11).7.12日。大日本帝国陸軍の軍人、歩兵大尉(38期)、歩兵第三連隊第六中隊長。二・二六事件に関与した皇道派の主要人物の一人。享年31歳。 明治38年2月25日、東京で生まれた。岐阜県出身。慶応義塾舎監の安藤栄次郎の三男。宇都宮中学校を経て、1926(大正15).7月、陸軍士官学校卒業(陸士38期)。同期に同じく皇道派で二・二六事件の首魁磯部浅一がいた。当時の陸軍士官学校校長は二・二六事件の黒幕とされる真崎甚三郎であった。10月、陸軍歩兵少尉として歩兵第三連隊に勤務。 1929(昭和4).10月、陸軍中尉。1931~32年頃から皇道派青年将校のリーダー。1934(昭和9).8月、大尉。1935(昭和10)年、歩兵第3聯隊第6中隊長となる。秩父宮は「安藤、第六中隊の伝統を守ってくれよ」と激励した。また、元連隊長の永田軍務局長は「ほう第六中隊長か。早いものだな。お前もとうとう中隊長か。歩三を立派な連隊にしてくれ、頼んだぞ」と喜んだ。よく部下をまとめ、その人柄を慕う者が少なくなかった。安藤は歩三の下士官と将校の教育を計画し、相談に乗った青木常盤が永田鉄山軍務局長に申し入れると、永田は快諾して7000円を渡し、「安藤ならば大丈夫だ。教育構想、講師の人選、運営などは一切安藤に任せて、決して干渉はするな」と言った。 決起に対しては慎重な態度を取り続け、あくまで合法的闘争の道を主張したため、磯部らは一時安藤抜きでの計画を検討した。しかし安藤は最終的に、成功の見込みが薄いとは知りながらも、同志を見殺しにすることをよしとせず、直前の23日になって参加を決断した。決断後は積極的に同志を集め、叛軍中最大勢力である歩三を見事統率して見せた。 2・26事件では首謀者として部隊を指揮し、当日は午前5時頃、自ら鈴木貫太郎侍従長宅を襲撃した。はじめ安藤の姿はなく、下士官が兵士たちに発砲を命じた。鈴木は三発を左脚付根、左胸、左頭部に被弾し倒れ伏した。血の海の中となった八畳間に安藤が入ると、「中隊長殿、とどめを」と下士官の一人が促した。安藤が軍刀を抜くと、部屋の隅で兵士に押さえ込まれていた鈴木の妻・たかが「お待ちください!」と大声で叫び、「老人ですからとどめは止めてください。どうしても必要というならわたくしが致します」と気丈に言い放った。安藤はうなずいて軍刀を収めると、「鈴木貫太郎閣下に敬礼する。気をつけ、捧げ銃(つつ)」と号令し、たかの前に進み出て「まことにお気の毒なことをいたしました。我々は閣下に対しては何の恨みもありませんが、国家改造のためにやむを得ずこうした行動をとったのであります」と静かに語った。たかの「あなたはどなたです」の問いに官職もなにも付けず「安藤輝三」とのみ答えたと伝えられる。この後、女中にも自分は後で自決をする意思を伝え、兵士を引き連れて官邸を引き上げた。 事件以前、安藤は一般人と共に鈴木を訪ね、時局について話を聞いた事があり面識があった。面会後、安藤は鈴木について「噂を聞いているのと実際に会ってみるのでは全く違った。あの人(鈴木)は西郷隆盛のような人で懐が大きい」と語っている。後に鈴木は座右の銘にしたいという安藤の要望に応えて書を送っている。鈴木は安藤処刑後に「首魁のような立場にいたから、止むを得ずああいうことになってしまったのだろうが、思想という点では実に純真な、惜しい若者を死なせてしまったと思う」と記者に対して述べている。 決起には消極的だったものの、ひとたび起った後には誰よりも強い意志を貫いた。山下奉文に唆され、一同が自決を考えた際も徹底抗戦を訴えてそれを退け、敗色が濃厚となる中、山王ホテルを拠点に最後まで頑強な抵抗を続けた。投降を決断した磯部の説得にも「僕は僕自身の意志を貫徹する」として応じなかった。大勢が決したことを悟ると、一同の前でピストル自殺を試みる。磯部は慌てて羽交い絞めにして押し止めたが、彼の決意は翻らなかった。説得に訪れた伊集院大隊長は「安藤が死ぬなら俺も自決する」と号泣し、部下たちもこぞって「中隊長殿が自決なさるなら、中隊全員お供を致しましょう」と涙ながらに訴えた。安藤は宿願だった農村の救済が出来ないことを悔やみつつ、部下たちには自分の死後も、その目標を果たすよう遺言した。 磯部はこの光景に感涙しつつも、「部下にこんなに慕われている人間が死んではならない」と必死に説いた。その間にも上層部は何とか安藤と兵たちを引き離そうと計るが、第6中隊の結束は固く、全員が靖国神社で死ぬ覚悟であった。しかし安藤は兵を投降させることを決断し、「最後の訓示」を与えた後、皆で「吾等の六中隊」の歌を合唱するよう命じた。曲が終わった瞬間、安藤はピストルを喉元に発射して昏倒したが、陸軍病院における手術の末一命を取り留めた。 なお、二・二六事件の際、彼と北一輝の会話とされる音声が戒厳司令部により録音盤として残されていた。その記録では、北のほうから電話をかけて「マル(金)はいらんかね」と言われたのに対して安藤は「まだ大丈夫です」と発言している。しかし、北の逮捕後の証言などから、電話をかけたのは北ではなくカマをかけようとした憲兵ではないか、と言われている。 軍法会議の結果、叛乱罪が申し渡された。 7.12日、刑死。家族から受け取った松陰神社のお守りを身に帯びていたという。秩父宮雍仁親王と親しかったようで、銃殺される最期の際にも「秩父宮殿下万歳」を叫んだと磯部が獄中の遺書に記している(他の士官は「天皇陛下万歳」を叫んだ)。安藤隊の結束は事件終盤まで固かったことが自決未遂時の顛末からも知れる。後述の鈴木侍従長邸での一件も合わせ、その人格を評価する声は少なくない。一方家庭では物静かで「輝三さんは話をしますか」といった挨拶が親戚内で交わされるほどであったという。家族には計画のことは一切知らせず、妻は満州にいる兄や親戚からの問い合わせで初めて事件のことを知ったほどだった。 前島清上等兵の手記より。
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【栗原安秀・歩兵中尉考】 | |
1908(明治41).11.17日―1936( 昭和11).7.12日。大日本帝国陸軍の軍人、陸軍歩兵中尉(41期)、歩兵第一連隊機関銃隊。磯部浅一に並ぶ急進派として知られる。2.26事件ではもっとも急進派であった将校の一人。妻・玉枝[タマエ]。
1908(明治41).11.17日、島根県松江市に生まれる(東京に在籍)。父は佐賀県出身の陸軍大佐の栗原勇で、父の職業柄、一時期を北海道旭川で暮らしている。東京に戻る。 1925(大正14).3月、名教中学校を4学年で修業したのち、4月、陸軍士官学校予科に入校。41期生で、同期には中橋基明、対馬勝雄がいる。栗原は中学生当時から『国家改造』について雄弁に語っていたが、この頃は仲間を見つけて議論、または自身で歴史研究するだけで実行する気はまだなかったらしい。ちなみに、同年8月から約4ヶ月と期間は短かったが、栗原が陸士予科で所属した第3中隊第4区隊の区隊長を務めたのは、後に日中和平工作を行なったり、フィリピンのバターン半島戦線で米比軍捕虜千余名処刑の兵団命令に抗して釈放した今井武夫中尉(後の少将)である。陸大へ合格した今井武夫への1927(昭和2).3月の手紙では、この頃は栗原は陸大にあこがれていた。 1829年、陸軍士官学校(41期)卒業。陸軍少尉に任官され、すぐに歩兵第1連隊付の旗手を務めるほど優秀な少尉でもあった。。ちなみに陸士での席次は24番/130名。容姿端麗で見栄え良く情熱家で、後に、多くの人間を影響・感化・共鳴させ、「俺はやる、必ずやる」と口を開けば言っていた事からついた「ヤルヤル中尉」という不名誉なあだ名を拝受した栗原だが、その栗原を作り出したのは十月事件以降の事である。十月事件前に俗にいう皇道派先輩方の薫陶を受け、自分以外にも革新思想をもった同期が多数いる事を知り交友。 1933年、『救国埼玉青年挺身隊事件』に関連。主犯格にも似た立場であったが、自身に処分はなかった。しかし同期で盟友の中橋基明中尉は規律厳しい近衛歩兵連隊に属していた為か満州に飛ばされた。 1935(昭和10)年秋、第一師団が満州に飛ばされるとの噂、相沢公判の進み具合に焦りまた鬱々とするも1936(昭和11)年に入ると昭和維新断行計画を本格化。磯部浅一、村中孝次、安藤輝三などを中心に度々会合。安藤が動けば歩3が動くとされた事から、時期尚早を唱え決起に慎重だった安藤の説得を計画遂行ぎりぎりまで試みた。 1936.2.26日午前5時頃、岡田啓介総理がいる首相官邸の襲撃を指揮、実行する(しかし、総理になりすましていた総理の義弟・松尾伝蔵の遺体を総理本人と誤認したので、事実上この襲撃は失敗したこととなる)。午前9時頃、栗原の指揮する部隊が朝日新聞社を襲撃し、活字ケースをひっくり返し、その後は日本電通、東京日日、報知、国民、時事新報の各新聞社、および通信社をまわって、決起趣意書の掲載を要求する。その夜は、中橋隊と共に、首相官邸に宿営する。上部工作、演説などのために各所を奔走する。その後は西田はつ(西田税の妻)や斎藤瀏らと頻繁に電話で連絡を取る(その多くは戒厳司令部により録音されていた)。 2.28日、陸相官邸に集まり、山下奉文中将から宮中の雲ゆきがあやしい事を聞き悔しさや宸襟を悩ませたことに責任を感じ自刃を決意するも、29日、奉勅命令が出された後の上層部の態度に不信感を持ち裁判での徹底抗戦を叫んだ。 2.29日午後0時50分、反乱部隊将校が免官となる。午後1時前、安藤隊を除いて、栗原隊も帰順する。反乱将校として、陸相官邸に集められる。3.2日午後3時25分、反乱部隊将校20名の地位・階級が返上されたことが発表される。 4.28日、将校達に関する特設軍法会議の初公判が開かれる。衛戍刑務所では常に周りの将校を励まし、裁判の場においては部下の将校をかばっている。 7.5日、特設軍法会議の判決(死刑)が下される。「多すぎたなあ」と呟いたという。その後悔しさ紛れに遺書を書いたが、みっともないのでこれは処分してくれと刑務官に頼んだもののその遺書は現存している。処刑前は仲間達と死んでもなお昭和維新を断行する意思を語り合った。 7.12日午前7時、代々木の陸軍刑務所にて銃殺刑に科せられ、刑死。辞世の句は、「大君に 御國思ひて 斃れける 若き男乃子(おのこ)の 心捧げん」。遺書「君が為捧げて軽きこの命 早く捨てけん甲斐のある中」。幼馴染の斎藤史はのちに、栗原について下記の歌を詠んでいる。「わが道やここに在りきとかへりみむ三十に足らぬ一生(よ)をあはれ」、「天皇陛下萬歳と言ひしかるのちおのが額を正に狙はしむ」、「ひきがねを引かるるまでの時の間は音ぞ絶えたるそのときの間や」。煙草はチェリーを好んでいたという。 事件で反乱幇助をしたとされ処分を受けた斎藤瀏、またその娘で歌人の斎藤史とは家族ぐるみで仲が良かった。歩兵第3連隊坂井直中尉もこの頃の幼馴染。大きくなっても、斉藤史からは「クリコ」と呼ばれていた。 「語りつぐ昭和史」から 栗原安秀中尉
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【竹嶌継夫・歩兵中尉(40期)考】 |
竹嶌継夫(たけしま つぎお)・歩兵中尉(40期陸士)。豊橋陸軍教導学校歩兵学生隊。 明治40年5月26日、東京・四谷に生まれた。享年28歳。 |
【対馬勝雄・歩兵中尉(41期)考】 |
対馬勝雄・歩兵中尉(豊橋陸軍教導学校、41期)。豊橋陸軍教導学校歩兵学生隊。 明治41年11月15日、青森市に生まれた。享年27歳。遺書「後世史家ニ俟(ま)ツハ維新ニアラス現代人ノ恥辱ナリ」。 |
【中橋基明 ・歩兵中尉(41期)考】 | |
1907(明治40).9.25日―1936( 昭和11).7.12日。大日本帝国陸軍の軍人。陸軍歩兵中尉、近衛歩兵第3連隊第7中隊。41期。享年28歳。
1907(明治40).9.25日、東京牛込で生まれる。本籍地は佐賀県。陸軍少将の父と華族の母の間に生まれる。四谷第二小学校を首席で卒業。父の意向で府立一中(現日比谷高校)、麻布中学を受けるも不合格。結局、名教中学(現存せず)を経て東京陸軍幼年学校に入った(この時の経験からか本人は陸幼を受けることを大分しぶったらしい)。 1929(昭和4)年、陸軍士官学校卒業(41期生)。同期には栗原安秀、対馬勝雄がいる。栗原とは同じ中隊で、区隊も隣同士、同じ中学出身である。中橋はこの頃、軍人として生涯を全うする決意を固める。「義を見てせざるは勇なきなり」が座右の銘だった。陸士本科卒業後、少尉任官とともに近衛歩兵第3連隊付となる。連隊旗手としての役割を任ぜられた。 1931(昭和6)年、当時の上官であった野田又男中尉指導のもと十月事件に加わることになっていたがクーデタそのものが暴露され失敗。しかしその後栗原によって十月事件の本質を語られ、以来栗原から話を聞くようになった。 1933(昭和8).11月、「救国埼玉青年挺身隊事件」に栗原とともに関連、検挙され、豊橋歩兵第18連隊付に転属となり北満州行きとなる。 1935(昭和10).12月、近衛歩兵第3連隊に再び戻され、第7中隊長であった井上勝彦大尉が陸軍大学校に入学したため、ちょうど空席となっていた第7中隊長の代理となる。帰日の際、栗原が中橋を東京駅まで出迎えたエピソードを書いた本の多くはその心情を伺いしれるものとなっている。 1936(昭和11).1月、再び近衛第3連隊付となる。あまりに早い帰りに中橋を知る人物は大いに警戒したらしい。1月―2月の間は専ら昭和維新断行に向かって邁進した。その為かこの頃の部下にはしきりに『寡黙』『冷たい』『厳しい』と評されている。弟の武明氏にも「人が変わったようだ」と言われている。2.10日夜 歩兵第3連隊週番司令室で、歩兵第3連隊第6中隊長の安藤輝三大尉、歩兵第1連隊付けの栗原安秀中尉、所沢陸軍飛行学校の河野寿大尉、元一等主計磯部浅一と集合し決起する準備にとりかかることを決める。25日午後10時30分頃、部下の下士官を連れて弾薬の受け取りのため歩1の栗原中尉のもとを訪れる。26日午前4時20分、近歩3第7中隊に非常呼集がかけられる。午前4時40分、同隊が出発。午前5時、同隊は高橋是清蔵相私邸を襲撃開始する。午前5時5分頃、同隊は高橋蔵相を殺害。午後3時20分、 「陸軍大臣ヨリ」が告示。30分には中橋含む決起将校達に下達される。27日午後2時~5時の間 栗原中尉、林少尉を除く決起将校達(中橋含む)が真崎大将と会見する。夜 栗原隊と共に首相官邸に宿営する。28日正午過ぎ、戒厳司令部に反乱軍将校は自決、下士官は原隊復帰せよとの報告が入る。午後 将校達は部隊の下仕官に対し、檄文を発表する。内容は以下の通りである(本来は縦書きである)。
2・26事件での中橋の役割は高橋是清元蔵相殺害と宮城占拠だったが、高橋殺害に関しては成功したものの宮城占拠に関しては成功しなかった。泣く泣く宮城を脱出後は新聞社を襲撃するなど栗原と共に行動する。 2.29日午後0時50分、中橋含む将校達が免官となる。午後1時前、安藤隊除く反乱部隊(中橋隊含む)が帰順、反乱将校として中橋は陸相官邸に招集される。奉勅命令が出された後、林、池田、中島少尉と共に陸相官邸に行くが、断固自決せずの姿勢をとった。その後武装解除を受け、代々木陸軍衛戍刑務所に収容される。午後3時、戒厳司令部は事件の終結を宣言する。 3.2日午後3時25分、反乱部隊将校達20名の地位・階級が返上されたことが発表される。4.28、特設軍法会議将校斑の初公判が開廷する。6.4日、同会議第23回公判で論告求刑が行われる。7.5日、同会議の判決が下される(中橋含む死刑17名、有罪76名)。7.12日午前7時54分 、中橋中尉、丹生中尉、坂井中尉、田中中尉、中島中尉の死刑(銃殺刑)が陸軍刑務所で執行される。9.26日、 陸軍は二・二六事件の全処理を完了したと発表。 刑務所にいる間は何十句も歌を詠んだ。中橋の父はその句をみて「そんな素質はないと思っていたのに、うまいのに驚いた。精神を統一させるとこうまでなるのか。基明は30年で一生分を生きた」とまで語った。また中橋は弟である武明氏本人に「笑って死んでいくから何も心配いらないよ。やるだけのことはやったから思い残すことはない」と語った。しかし最後の言葉でもあるように「天皇に対して決して弓を引いたわけではない」とも語っており無念さがにじみ出てとれる。中橋の辞世は以下のとおりである。「今更に何をか云はん五月雨に 只濁りなき世をぞ祈れる」。絶筆は、「只今最後の御勅諭を奉読し奉る。尽忠報国の至誠は益々勅々たり、心境鏡の如し 七月十二日午前五時」。遺書「三十歳のはかなき夢は醒めんとて 雲足重く五月雨の降る」。何十首も残した和歌は秀逸。遺書も秀逸。 厳格な父のもとに育ち、悩みつつも本人は至って明るく遊び好きだったよう。打ち解けたら親しみある人間だったらしい。軍人にも関わらず大衆文化を愛し、映画好きで『新青年』なども愛読していた。将校になってからも料亭で騒ぐ軍人が多かった当時、中橋は流行のスケート場やダンスホール、将校集会所に通い、ひとりダンスの練習をしているようすが当時の部下達によって語られている。ファッションにも拘りがあったらしく、愛用の将校マントの裏地は、203高地における乃木希典将軍の赤マントを意識して総緋色で仕立ててあり(本来は表地と同色)、当時の陸軍で、「近衛師団、中橋の赤マント」を知らなかったものはいなかったらしい。赤マントは乃木将軍を意識してあるだけでなく、敵または味方から血の色を気取られぬようにする、自ら敵の標的となって戦う、といった理由もあった。よく「皆の為なら死ねる」と言っていた。また桐野利秋(中村半次郎)を意識して香水を購入するなど非常に純粋で影響されやすい性格であった事が見受けられる。また、生涯独身のまま人生の幕を閉じることとなった中橋だが、女性に人気があったらしく、嬉々としてその事を弟に語っている。少尉時代に生涯の恋人と出会い、決起前日、中橋は芸者のその女性に会いに行くが、たまたま女性は出かけており、そのまま会えずじまいで事件当日となってしまった。中橋が捕らえられてから面会の機会があったものの、芸者の女性も身分上の都合面会に行くことができず、中橋は死刑となりこの世を去ってしまった、という話が悲恋として残されている。(澤地久枝「妻たちの二・二六事件」で詳しく述べられている)。 |
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【丹生誠忠(にう よしただ)・歩兵中尉(41期)考】 |
丹生誠忠(にう よしただ)・歩兵中尉(歩兵第1連隊第11中隊、41(43?)期)。享年27歳。 1908(明治41).10.15日、鹿児島。父は海軍大佐。母方は大久保利通の親戚に当たる。香田清貞大尉が旅団副官に昇進したので第十一中隊長が空位になり中隊長代理となる。私的制裁を嫌い、部下に愛された将校であった。2.26事件では、第11連隊は、陸軍省、参謀本部、陸相官邸を占拠、交通を遮断する。香田大尉、村中元大尉、磯部元一等主計を伴っての指揮になった。遺書「死ぬる迄 恋女房に惚れ候」。「化ケテ出ルゾ ヒュードロドロ」。世話になった看守に向け「入所中ノ御厚情ヲ深謝シ奉ル 只吾人ノ真精神ハ兄等ノミゾ知ル」。 |
【坂井直・歩兵中尉(44期)考】 |
坂井直・歩兵中尉(歩兵第3連隊、44期)、歩兵第三連隊第一中隊。享年25歳。 明治43年8月13日、三重県で生まれた。1936(昭和36).2.9日、2.26事件の2週間前、孝子と結婚。安藤輝三大尉、秩父宮と仲が良かったと云う。「 行動を起こせば、一隊を率いて秩父宮が応援に来てくれる。そう断言していた」とも云う。手記「神国日本ノ国体ノ真姿ヲ顕現セント欲スルニ在リ」。遺書「古(いにしえ)も今も天地に變(かわ)りなき/誠の心一筋の道」。 |
【田中勝・砲兵中尉(45期)考】 |
田中勝・砲兵中尉(野戦重砲第7連隊、45期)、野戦重砲兵第七連隊第四中隊。享年25歳。 1911(明治44).1.16日、山口県下関市に生まれた。長州出身の将校は田中中尉と磯部元一等主計のみである。妻・久子。河野寿大尉、磯部浅一大尉と仲が良かったと云われる。憲兵は田中中尉についてはノーマークだったとも云われる。2.26事件では、野戦重砲兵連隊にいた為、車を運ぶ任に就き、高橋蔵相私邸から、渡辺教育総監邸に移動している。その後、首相官邸襲撃後の栗原中尉と行動を共にして新聞社の襲撃に加わっている。遺書「たらちねの親の恵みの偲ばれて 只先立つて我は淋しき」。 |
【中島莞爾・工兵少尉(46期)考】 |
中島莞爾・工兵少尉(46期)、鉄道第二連隊。享年23歳。 大正元年10月9日、佐賀県に生まれた。遺書の辞世の句「流れ星惜しくも消えしあかつきに 差し出で給へ朝の御光 謝御厚情 花淵警査殿」。 |
【安田優・砲兵少尉(46期)考】 |
安田優・砲兵少尉(陸軍砲工学校生徒(野砲兵第7聯隊附)、46期)。享年24歳。 明治45年2月1日、熊本・天草に生まれた。 |
【高橋太郎・歩兵少尉(46期)考】 |
高橋太郎・歩兵少尉(歩兵第3連隊第一中隊、46期)。享年23歳。 大正2年1月1日、石川県金沢市で生まれた。 獄中手記の一節。「赤子万民を苦むる輩は是れ神の敵なり、許すべからず」。 |
【林八郎・歩兵少尉(47期)考】 |
林八郎・歩兵少尉(歩兵第1連隊機関銃隊、47期)。享年21歳。 大正3年9月5日、東京・赤坂で生まれた。 |
【渋川善助・***(**期)考】 |
渋川善助、元陸軍士官学校生。享年30歳。 明治38年12月9日、福島県会津若松市に生まれた。 |
無期禁錮組 |
【麦屋清済・歩兵少尉(**期)考】 | |
麦屋清済・歩兵少尉 禁固刑を終え、終戦後、次のような書付を残している。
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【常盤稔・歩兵少尉(47期)考】 |
常盤稔・歩兵少尉(歩兵第3連隊、47期) |
【鈴木金次郎・歩兵少尉(47期)考】 |
鈴木金次郎・歩兵少尉(歩兵第3連隊、47期) |
【清原康平・歩兵少尉(47期)考】 |
清原康平・歩兵少尉(歩兵第3連隊、47期) |
【池田俊彦・歩兵少尉(47期)考】 |
池田俊彦・歩兵少尉(歩兵第1連隊、47期) |
禁錮4年組 |
【今泉義道・歩兵少尉(47期)考】 |
今泉義道・歩兵少尉(近衛歩兵第3連隊、47期) |
第2次処断 | 禁固組 |
新井勲・歩兵中尉(歩兵第3連隊) |
鈴木五郎・一等主計(歩兵第6連隊) |
柳下良二・歩兵中尉(歩兵第3連隊) |
井上辰雄・歩兵中尉(豊橋陸軍教導学校) |
塩田淑夫・歩兵中尉(歩兵第8連隊) |
菅波三郎・歩兵大尉(37期) |
斎藤瀏・予備役少将(12期) |
大蔵栄一歩兵大尉(羅南歩兵第73連隊、37期) |
末松太平・歩兵大尉(39期) |
満井佐吉・歩兵中佐(26期) |
志村睦城・歩兵中尉 |
志岐孝人・歩兵中尉 |
福井幸 |
町田専蔵 |
越村捨次郎 |
加藤春海 |
宮本正之 |
佐藤正三 |
宮本誠三 |
杉田省吾。 |
【】 |
【黒崎貞明・歩兵中尉】 |
並木徹・氏の「(2・26事件を考える)花ある風景(301)」を参照する。 黒崎貞明著「恋闕」(日本工業新聞刊・昭和55年2月26日発行)。黒崎氏は2.26事件に連座した要注意青年将校。陸士45期で昭和4年4月陸士入校、昭和8年7月卒業と4年4ヶ月在学。徳島歩兵43連隊。2.26日事件が起きた時、黒崎中尉は奉天にある満州第一独立守備隊司令部の情報係将校であった。事件については事前に知らなかった。2.28日、決起部隊が反乱部隊とされるや、満州の各部隊にいた要注意将校が一斉に逮捕され、黒崎氏も捕まった。時の関東軍憲兵司令官は東条英機少将(陸士17期・昭和10年9月就任)。「日本憲兵外史」のエピソード。捕まった中に奉天野戦兵器廠の西山敬九郎砲兵少佐がいた。西山少佐は満州事変の殊勲により功五級の金鵄勲章を授与され、当時の年金350円を部下の困窮留守宅へ送金していた血も涙もある武人であった。憲兵隊はその扱いに苦慮し結局釈放した。黒崎中尉は代々木刑務所に護送され取り調べを受ける。刑務所内では手旗信号やモール信号で挨拶したり励ましあったりしたという。7.12日、この刑務所の中で青年将校処刑の銃声を聞く。同期生の野重7連隊の田中勝中尉と砲工学校学生だった安田優少尉(陸士46期)は刑務所を出る際、黒崎氏に向かって「死ぬなよ。後を頼む」と強い口調で叫んで刑場の露と消えた。黒崎氏が不起訴で釈放の日、北一輝は「当分戦争はしてはいけません。ことに支那とはネ。これは北の遺言です」といった。代々木刑務所をでる時、陸軍大臣あての誓約書に対し「軍人として本分にもとるようなことをしたつもりはない。ここで署名をすることは刑務所に残っている同士も軍人の本分にもとっていることになる」と署名を拒否する。その反骨精神が上司から信任され、部下から信頼されることになる。原隊復帰―停職―復職―黒崎遊撃隊組織―満州題独立守備隊題15中隊第4中隊長となる。大尉に進級。この時、第一独立守備隊司令官からチチハル駐屯の第7師団長に栄転された園部和一郎中将(陸士16期・陸大25期恩賜)から陸大進学を勧められる。陸大の初審は昭和14年3月7新団司令部で行われた。第1次試験に合格後もノモンハン事件で奮戦する。2・26で刑務所に入った者は合格させないであろうと言われていたが、11月末の第2次試験で三笠宮崇仁殿下(陸士48期)とともに合格する。陸大55期で70名が合格した(昭和17年)。陸士の教育について黒崎さんは「国家護持の大任に当たるものは、自ら最大の犠牲者たることをむねとせよ」、「日本の保全と発展は、国民が天皇のもとに団結し,その秩序を守って協力することによってのみ求められる」の二つの信念が育成されるように教育が行われたという。東条関東軍憲兵司令官に「黒崎中尉、不逞の輩と気脈を通じたこと不届きである」と言われた時、「不逞の輩とは承服できません。私は反乱を起こそうと思ったこともありません」と抗議している。満州で黒崎遊撃退を組織して大活躍し、陸大に進み、参謀となって死闘を続けるガダルカナル戦を指導、終戦時には東条英機大将に自決せずに天皇陛下に責任がいかないよう戦争裁判に出て戦争の全責任をかぶってほしいと勧告する。波乱万丈の人生を経ている。 |
【「二・二六事件と郷土兵」】 |
「二・二六事件と郷土兵」(埼玉県県史編さん室編集)。2.26日事件に巻き込まれた埼玉県出身の下士官、兵士たちの手記。畑和知事(当時)が発刊の動機について述べている。約70人の手記で、将校ではなく兵士の立場から見た事件記録を残しており貴重な資料となっている。「政治が悪いと全てが狂ってしまうものである。これは現代でも同様のはずだ」(元2等兵)。 |
【2006年、新たに遺書が見つかる】 |
2005.7.12日、2・26事件」で処刑された陸軍の青年将校ら17人分の遺書45枚が69年ぶりに見つかった。仙台市太白区の平田俊夫(77)が自宅に保管していたもので、将校らの遺族で作る「仏心会」に届けられた。平田さんによると、1930年代後半、父・平治さんを「花淵」という友人が訪ね、「今は公にできないので預かってほしい」と油紙に包んだ遺書の束を置いていったという。花淵氏はもともと仙台の陸軍師団に勤務しており、事件後、東京の陸軍刑務所に看守として派遣され、捕らえられた青年将校らの世話をしていた。76年刊行の「私の二・二六事件」(河野司著、河出書房新社)によると、応援要員で「花淵栄吉」という看守が派遣されており、この人物が花淵氏とみられる。花淵氏、平治さんとも65年ごろまでに死去、遺書は平田さんの手元に残された。「仏心会」世話役の安田善三郎さん(79)(神奈川県葉山町)が、筆跡などから青年将校らの直筆と確認した。2・26事件に関し青年将校らの肉親あての遺書や手記をまとめた本の多くは昭和30~40年代に出版されているが、新たに肉筆の遺書が発見されたことになる。遺書は署名とともに毛筆で書かれている。 |
【2011年、新たに遺書が見つかる】 |
2011.2.26日、事件から75年目、「二・二六」将校の青年将校ら13人が、死刑執行まで収容された東京陸軍衛戍(えいじゅ)刑務所の看守に宛てた遺書が新たに見つかった。国家社会主義者の北一輝や栗原安秀中尉ら指導的な22人が永眠する賢崇寺(東京都)で、将校の遺族らに公開された。看守への遺書は、別の看守3人に渡したものが知られる。将校の遺族で作る「仏心会」世話人の安田善三郎さん(85)は「内容は3人宛ての遺書と同じだが、4人目の存在は初めて知った」と言う。「4人目」は、97年に亡くなった奈良県の野依(のより)音松さん。36年3月に看守に着任し、事件後60年以上、遺書を保管してきた。孫の宏人さん(47)が09年10月に賢崇寺に納めた。宏人さんは「祖父は私が高校生の時に遺書を見せて『立派な方々だった。このことは世間には言うな。言うと大変なことになる』といましめた」と話す。 |
水上源一氏に対する三島の憲兵隊の調書の終わりの部分。(「二・二六事件「獄中手記・遺書」」参照)
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【真崎甚三郎・陸軍大将考】 |
1876(明治9).11.27日 -1956(昭和31).8.31日。日本の陸軍軍人。陸軍大将。皇道派の中心人物。佐賀県出身。弟に海軍少将・衆議院議員の眞崎勝次。外務省、宮内庁などの官僚で、延べ25年という異例の長期間昭和天皇の通訳を務めた真崎秀樹は長男。 佐賀中学(現・佐賀県立佐賀西高等学校)。 1895.12月、士官候補生。1896.9月、陸軍士官学校へ。1897(明治30).11月、陸軍大学校第9期卒業。荒木貞夫、阿部信行、松木直亮、本庄繁、小松慶也が同期にいる。荒木が首席で卒業している。1898(明治31).6月、 少尉に昇進。歩兵第46連隊附。1899(明治32).5月、対馬警備隊附。1900(明治33).11月、 中尉に昇進。12月、陸軍士官学校附(区隊長)。 1904(明治37).2月、日露戦争に従軍(~1905.12月)。6月、大尉に昇進。歩兵第46連隊中隊長。日露戦争からもし生き残って帰ったら、出家して坊さんになろうと思ったくらいで、世に戦争ほど悲惨なものはなし、と書いている。 1907(明治40).11月、陸軍大学校卒業(19期恩賜)。陸軍省軍務局出仕。1908(明治41).10月、軍務局課員(軍事課)。1909(明治42).1月、少佐に昇進。1911(明治44).5月、ドイツ駐在(~1914.6月)。1914(大正3).6月、歩兵第42連隊大隊長。11月、中佐に昇進。歩兵第53連隊附。 1915(大正4).5.25日、久留米俘虜収容所長。この時代、収容所の環境整備のために努力し、従来禁止していた所内での音楽などを許可した。衛戍司令官・柴五郎中将からなじられると、「ドイツ人にとっての音楽は、日本人にとっての漬物類と同じことで、日常生活の最低不可欠なものであります」と答えて了解を求めた。しかしながら、第一次大戦中、日本はドイツ人捕虜を概ね人道的に扱ったにもかかわらず、真崎が所長を務めた久留米俘虜収容所は捕虜側からの評判が最も悪く、真崎は所長在任中の1915.11.15日、ベーゼ(Boese)、フローリアン(Florian)両中尉殴打事件を起こし、捕虜側は捕虜の虐待を禁じたハーグ条約を根拠に真崎所長の行為に激しく抗議し、米国大使館員の派遣を要求している。 1916(大正5).11.15日、教育総監第2課長。 1918(大正7).1.18日、陸軍大佐に昇進。 1920(大正9).8.10日、 陸軍省軍事課長。この時代、陸軍機密費の不正蓄積についての感触を得、持ち前の正義感から、機密費の適正な使用と管理について意見を具申したが、直ちに近衛歩兵第1連隊に転出することになった。この当時、軍の機密費を取り扱う者は、田中義一陸相、山梨半造次官、菅野尚一軍務局長、松木直亮陸軍省高級副官の四人であった。 1921(大正10).7.20日、近衛歩兵第1連隊長。1922(大正11).8.15日、陸軍少将に昇進。歩兵第1旅団長。1923(大正12).8.6日、陸軍士官学校本科長。1924(大正13).3月、欧米出張(~9月)。1925(大正14).5.1日、 陸軍士官学校幹事兼教授部長。 1926(大正15).3.2日、陸軍士官学校校長。この時代、尊皇絶対主義の訓育に努め、安藤輝三、磯部浅一らを輩出。生徒のなかには、新カント派の哲学に影響されて、学校の規則のような他律の拘束には服する必要がないと主張する者がいて、その一人で、後に二・二六事件に連座して処刑された渋川善助を退学処分にした。また、軍人の一般教養の低下を憂慮し、軍事偏重であった士官学校の課程を改正した。 1927(昭和2).3.5日、陸軍中将に昇進。 8.26日、第8師団長。弘前に単身赴任。この時代、思想問題を研究し、北一輝の『日本改造法案大綱』はロシア革命におけるレーニンの模倣で、それを基にした国家改造は国体に反するとし、大川周明の思想は国家社会主義であって共産主義と紙一重の差である、と結論づけた。そして軍人が参加して革新運動をやると軍隊を破壊するだけでなく日本の国を危うくすると認識し、そういう思想の持ち主を注意人物とし、軍人が彼らに近づくことを警戒していた。 1929(昭和4).7.1日、第1師団長。この時代、1931年に三月事件が起こり、師団参謀長・磯谷廉介からクーデターの計画を聞くと、軍事課長の永田鉄山に警告した。さらに、警備司令官に対して、「もし左様な場合には、自分は第一師団長として、警備司令官の指揮命令を奉じない。あるいは大臣でも次官でも、逆に自分が征伐するかもしれんから、左様ご了承を」と通告して、計画を阻止した。 1931(昭和6).8.1日、台湾軍司令官。本来なら真崎が関東軍司令官に任命される順番であったが、本庄繁が任命され、真崎は台湾軍司令官に任命された。 1932(昭和7).1.9日、参謀次長。参謀次長兼軍事参議官に就任。国家革新の熱病に浮かれた軍部の幕僚連が理想の国家を満州に作り、そこから逆に日本に及ぼして日本を改造するために満州事変を引き起こしたと見なしていた真崎は、事変不拡大、満州事変は満州国内でおさめることを基本方針として収拾にあたった。上海事変の処理では、軍の駐留は紛争のもととして一兵も残さず撤兵した。熱河討伐では、軍の使用は政府の政策として決定し、天皇の裁可を経てから実行されるという建前から、有利な戦機を見逃して二カ月以上も出動を押さえた。万里の長城を越えて北支への拡大を断固として押さえた。そのため拡大派や国家革新推進派から非難された。 荒木貞夫陸軍大臣とともに国家革新を図る皇道派を形成。勢力伸張を図り、中堅将校たちの信望を担ったが、後に党派的な行動が反発を買い、統制派を生むことになる。肩書きは参謀次長であったが、当時参謀総長閑院宮載仁親王の下で事実上の参謀総長として参謀本部を動かした。 1933(昭和8).6.19日、陸軍大将に昇進。軍事参議官。 1934(昭和9).1.23日、教育総監に就任(軍事参議官との兼任)。天皇機関説問題では国体明徴運動を積極的に推進し、率先して天皇機関説を攻撃。天皇機関説を葬り、国体を明徴にせよという運動が次第に強くなり、右翼、在郷軍人、ついには現役軍人に及んでくるようになると、三長官(大臣、参謀総長、教育総監)協議の上、陸軍大臣が訓示するのが当然で適切であるが、大臣訓示は閣議を経なければならず、また政府はすでに二回も声明を出しているから、時間がかかるので、現役軍隊だけなら教育総監の訓示でも可なりと決定され、教育総監の真崎が国体明徴の訓示を行った。 1935(昭和10).7.16日、 教育総監を罷免、軍事参議官。この流れを危惧し陸軍の改革を断行しようとした荒木の後任、岡田啓介内閣の林銑十郎陸軍大臣とその懐刀である軍務局長永田鉄山少将が、1935.7月、「陸軍三長官」の一つである教育総監を、陸軍将官の人事決定は三長官の合意の上でなければやらないという規定を破り、教育総監の意志を無視して二長官だけの決議で罷免し、後任に渡辺錠太郎を据えた 。この人事に統帥権干犯だと反発した皇道派の相沢三郎陸軍中佐が8月、相沢事件を引き起こし、永田鉄山を殺害した。 更にこの後陸軍の改革に反発した皇道派の若手将校により二・二六事件が起きた。蹶起を知った際、連絡した亀川に「残念だ、今までの努力が水泡に帰した」と語ったと云う。2.26日の昼ごろ、大阪や小倉などで「背後に真崎あり」というビラがばらまかれ、準備周到なる何者かの陰謀ではないかと真崎は述べている。 真崎は軍事参議官、軍の長老として、強力内閣を作って昭和維新の大詔渙発により事態を収拾しようと行動する。陸相官邸における行動、伏見官邸における工作、軍事参議官会議における維新断行のための大詔渙発、戒厳令施行の促進などを図ったことが決起部隊に対する利敵行為とみなされ、3.10日、予備役編入され、事実上解雇されている。7月、拘留され、憲兵隊本部の取調べを受けた。 1937(昭和12).1月25日、事件の黒幕と疑われた真崎甚三郎大将(前教育総監。皇道派)は、反乱幇助で軍法会議に起訴されたが事件関与を否認した。9.25日、論告求刑は反乱者を利する罪で禁錮13年。9.25日、無罪判決が下る。彼自身は晩年、自分が二・二六事件の黒幕として世間から見做されている事を承知しており、これに対して怒りの感情を抱きつつも諦めの境地に入っていたことが判明している。 二・二六事件のとき参内して、この事件の黒幕は真崎大将であると上奏し、なんとしても真崎を有罪にするか、官位を拝辞させなければ、天皇を騙したことになり、陸軍大臣としての立場がなかった寺内寿一大将は、大将拝辞を条件に不起訴にすることを真崎の家族に伝えたが、家族は頑として断った。真崎を取り調べる軍法会議の議長であり、起訴後は裁判長であった寺内は、真崎銃殺の意図をもって裁判を進めていたが、支那事変が起って最高司令官として北支へ転任となり、磯村年大将を真崎裁判の判士長にする際には、「何でもかまわぬから、真崎は有罪にしろ」といった。磯村は戦後、「ああ、あれは随分綿密に調査したが、真崎には一点の疑う余地がなかった」と証言している。なお、荒木貞夫は判決文について、「判決理由は、ひとつひとつ、真崎の罪状をあげている。そして、とってつけたように主文は"無罪"。あんなおかしな判決文はない」と述べている。 一方、真崎甚三郎の取調べに関する亀川哲也第二回聴取書によると、相沢公判の控訴取下げに関して、鵜沢聡明博士の元老訪問に対する真崎大将の意見聴取が真の訪問目的であり、青年将校蹶起に関する件は、単に時局の収拾をお願いしたいと考え、附随して申し上げたと証言している。鵜沢博士の元老訪問に関するやりとりのあと、亀川が「なお、実は今早朝、一連隊と三連隊とが起って重臣を襲撃するそうです。万一の場合は、悪化しないようにご尽力をお願い致したい」と言うと、「もしそういうことがあったら、今まで長い間努力してきたことが全部水泡に帰してしまう」とて、大将は大変驚いて、茫然自失に見えたという。そして、亀川が辞去する際、玄関で、「この事件が事実でありましたら、またご報告に参ります」と言うと、真崎は「そういうことがないように祈っている」と答えている。また、亀川は、真崎大将邸辞去後、鵜沢博士を訪問しての帰途、高橋蔵相邸の前で着剣する兵隊を見て、とうとうやったなと感じ、後に久原房之助邸に行ったときに事実を詳しく知った次第であり、真崎邸を訪問するときは事件が起こったことは全然知るよしもなかった、ということである。 しかし、反乱軍に同情的な行動を取っていたことは確かであり、26日午前9時半に陸相官邸を訪れた際には磯部浅一に「お前達の気持ちはヨウッわかっとる。ヨウッーわかっとる」と声を掛けたとされ、また川島陸相に反乱軍の蹶起趣意書を天皇に上奏するよう働きかけている。このことから真崎の関与を指摘する主張もある。 一方、当時真崎の護衛であった金子桂憲兵伍長の戦後の証言によると、真崎大将は「お前達の気持ちはヨウッわかっとる。ヨウッーわかっとる」とは全然言っておらず、「国体明徴と統帥権干犯問題にて蹶起し、斎藤内府、岡田首相、高橋蔵相、鈴木侍従長、渡辺教育総監および牧野伸顕に天誅を加えました。牧野伸顕のところからは確報はありません。目下議事堂を中心に陸軍省、参謀本部などを占拠中であります」との言に対し、真崎大将は「馬鹿者! 何ということをやったか」と大喝し、「陸軍大臣に会わせろ」と言ったとしている。 1936.12.21日、匂坂法務官は真崎大将に関する意見書、起訴案と不起訴案の二案を出した。結局、真崎甚三郎・大将(軍事参議官)は「叛乱者を利す」容疑を問われていたが無罪となった。また、終戦後に極東国際軍事裁判の被告となった真崎の担当係であったロビンソン検事の覚書きには「証拠の明白に示すところは真崎が二・二六事件の被害者であり、或はスケープゴートされたるものにして、該事件の関係者には非ざりしなり」と記されており、寺内寿一陸軍大臣が転出したあと裁判長に就任した磯村年大将は、「真崎は徹底的に調べたが、何も悪いところはなかった。だから当然無罪にした」と戦後に証言している。 推理作家松本清張は「昭和史発掘」で、「26日午前中までの真崎は、もとより内閣首班を引きうけるつもりだった。彼はその意志を加藤寛治とともに自ら伏見宮軍令部総長に告げ、伏見宮より天皇を動かそうとした形跡がある。 真崎はその日の早朝自宅を出るときから、いつでも大命降下のために拝謁できるよう勲一等の略綬を佩用していた。(略)真崎は宮中の形勢不利とみるやにわかに態度を変え、軍事参議官一同の賛成(荒木が積極、他は消極的ながら)と決行部隊幹部全員の推薦を受けても、首班に就くのを断わった。この時の真崎は、いかにして決行将校らから上手に離脱するかに苦闘していた」と主張している。 磯部は、5.5日の第5回公判で、「私は真崎大将に会って直接行動をやる様に煽動されたとは思いません」と述べ、5.6日の第6回公判で、「特に真崎大将を首班とする内閣という要求をしたことはありません。ただ、私が心中で真崎内閣が適任であると思っただけであります」と述べている。磯部の獄中手記には、「…真崎を起訴すれば川島、香椎、堀、山下等の将軍に累を及ぼし、軍そのものが国賊になるので…云々」と書かれている。また村中は「続丹心録」の中で、真崎内閣説の如きは吾人の挙を予知せる山口大尉、亀川氏らの自発的奔走にして、吾人と何ら関係なく行われたるものと述べている。 1941(昭和16)年、 佐賀県教育会長に就任。 1945.11.19日、終戦後のこの日、A級戦犯として逮捕命令が発令され巣鴨プリズンに入所し、2年間収監された。皇道派に属していたというだけの嫌疑であった。他の被告は弁護士を頼んだが、真崎は弁護士をつけなかったという。第1回の尋問は巣鴨への収監に先立つ12.2日、第一ホテルで行われた。以降3回に亘って尋問が行われたが、供述内容は責任転嫁と自己弁明に終始した。特に、敵対していた東條英機等統制派軍人や木戸幸一に対する敵意と憎悪に満ちた発言と、親米主義の強調は事あるごとに繰り返しており、その態度からは「皇道派首領としての威厳や格調、陸軍を過ちへ導いた事への自責の念は全く見られなかった」と野口恒等から酷評されている。極東国際軍事裁判で不起訴処分。梨本宮殿下を除いて軍人では一番先に釈放された。同裁判の真崎担当係であったロビンソン検事は満洲事変、二・二六事件などとの関わりを詳細に調査し、「真崎は軍国主義者ではなく、戦争犯罪はない」、「二・二六事件では真崎は被害者であり、無関係」という結論を下し、そのメモランダムには、「証拠の明白に示すところは真崎が二・二六事件の被害者であり、或はスケープゴートされたるものにして、該事件の関係者には非ざりしなり」とある。 真崎の自動車運転手を務めていた石黒幸平(陸軍自動車学校職工)は、真崎大将は情に厚く部下思いであると、陸軍部内はもちろん、自動車運転手間にも信望があった、と証言をしている。 1956(昭和31).8.31日、死去。 葬儀は9.3日午後1時から世田谷の自宅において行われ、葬儀委員長は荒木貞夫が務めた。天皇からの祭祀料が届けられた。 二・二六事件で真崎黒幕説を唱えた高橋正衛は、1989年2月22日、その説に異を唱える山口富永に対し、末松太平の立ち会いのもとで、「真崎組閣の件は推察で、事実ではない、あやまります」と言った。 |
【荒木貞夫考】 | |
1877(明治10)―1966(昭和41)。大正・昭和期の陸軍軍人(大将)、政治家、男爵。
参謀本部のロシア班、第一次大戦中のロシア従軍武官などを歴任し、陸軍内のロシア通として知られる。 1918(T7)シベリア出兵に際して特務機関長、派遣軍参謀として反革命軍を援助。憲兵司令官・陸大校長・第6師団長・教育総監部本部長・31(S6)犬養内閣の陸相を歴任。陸軍内派閥の皇道派の中心人物として、5・15事件後も斎藤實(7-1-2-16)内閣の陸相に留任し、国内体制のファッショ的な改革と対ソ戦争の準備を推進。33陸軍大将、翌年軍事参議官。 36 2・26事件では反乱軍に同情的な態度をとり、事件後予備役。38第一次近衛内閣の文相となり、徹底した軍国主義教育を推進。39内閣参議。敗戦後、極東裁判でA級戦犯として終身刑を宣告されたが、病気で仮出所し、その後釈放された。
*妻である荒木錦子は、日本赤十字社篤志看護婦人会幹事、大日本国防婦人会副会長、陸海軍将校婦人会幹事長、東洋婦人教育会理事、柏葉婦人会評議員などを歴任した。
*大将に昇進した荒木貞夫が男爵に叙されたのは、犬養・斎藤両内閣の陸相を務めた後の昭和10年の暮れ。華族となっても東京・幡ケ谷の自宅はみすぼらしく小さな二階屋のままだった。
長男である荒木貞發氏は2002年で93歳になるが回想で以下のように言っている。
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【山下奉文考】 |
「マレーの虎、山下奉文履歴考」に記す。 |
【小畑敏四郎考】 | |
1885(明治18).2.19日―1947(昭和22).1.10日。日本の陸軍軍人。陸軍中将。高知県出身。いわゆる皇道派の中心人物とされる。妻は第24代衆議院議長・元田肇の娘。その妹は第56代衆議院議長船田中の妻。陸軍三羽烏の一人。 1885(明治18)年、元土佐藩士にして土佐勤皇党の男爵・小畑美稲の三男として生まれる。兄は男爵小畑大太郎。学習院を経て、京都府立第一中学校、大阪陸軍地方幼年学校、陸軍中央幼年学校を経て、1904年(明治37年)に陸軍士官学校を卒業(16期優等)。少尉任官後、近衛歩兵第1連隊、歩兵第49連隊、真岡守備隊長を経て、1911年(明治44年)に陸軍大学校を卒業(23期優等)。1913年(大正2年)、大尉任官、参謀本部勤務。 1915(大正4)年、ロシア駐在、第一次世界大戦下のロシア軍に従軍。モスクワ、キエフなどに観戦武官として派遣された。軍務局課員、参謀本部員を経て、1920(大正9)年、ロシア大使館付武官。しかし日本軍がシベリア出兵中であったために入国できず、ベルリンに滞在。 1921(大正10).10.27日、ソ連駐在を命じられしばらくベルリンに足を止めていた小畑敏四郎少佐は、陸士同期であるスイス駐在武官・永田鉄山、岡村寧次少佐と共に、ドイツのミュンヘンの西南のドイツボーデン湖の近くに「バーデンの森」の中の温泉地バーデン=バーデンに集まった。発案者は岡村で、「現状打破はいかにすれば可能か」を話し合った。ベルリンで岡村に会い、この提案を聞き、人一倍血の気の多い小畑はたちまち賛成し、それならスイスにいる永田も呼ぼうということになった。徒党を組むよりも自力独行をモットーとする永田は、はじめ承知しなかったが、小畑の押しと岡村の説得に負けてバーデンバーデンにやってきた。三人とも37,8歳、男真っ盛りの少壮中堅将校で、常に主席を歩みつつ清濁併せ呑む人間的な魅力をもつ永田と、それに類する頭脳を持つ小畑、そしてその間に性格的にふくよかで、協調性に富む岡村の力強いトリオあった。陸士16期は「俊秀雲の如し」と呼ばれた。 互いに情熱的に論じ立てた。第一次大戦という史上例を見ない大戦争の結果、もはや国防という大事を単に軍事面からみていられない時代が到来している。にも拘わらず陸軍の現状は、陸相・山梨半造、参謀総長・上原勇作、教育総監・秋山好古の3巨頭をいただき、長州中心の藩閥に固められている。この体制を打破しないことには次代の国防に対応できない。我ら少壮将校が一致団結し、まとまった力を持って突破する他はない。第一次大戦におけるドイツ敗戦の教訓も語り合った。戦術的な勝利をいかに積み重ねようが、結局は国家の全てを挙げての総力戦に勝たなければ国防を全うできないとして、戦争技術の高度化、複雑化、学問化、国民の必要を語り合った。ロシア革命問題も議論した。明治40年の「帝国々防方針」の決定によって、陸軍の仮想敵となったソビエトが今や軍事大国として現れた。必然的に満蒙には暗雲が漂い始めた。そればかりでなく思想敵としても影響力を及ぼしだしていた。新たな世界情勢認識でもあった。こうした内外ともに切迫した状況下にありながら、陸軍首脳は日露戦争勝利の夢を貪り、感状とか金鵄勲章とかの精神的誇りにのみ生き、急激に変転しつつある情勢に対応しようとする意欲を失っている。かく3人の意見は一致し、陸軍の薩長閥除去を目指す「バーデン=バーデンの密約」を行なったという。 1922(大正11)年、参謀本部員。次第に対ソ戦略家として知られるようになる。1923年(大正12年)、中佐に進級、陸大教官。1926年(大正15年)、参謀本部作戦課長。1927年(昭和2年)、大佐に進み、岡山歩兵第10連隊長。このときの部下として、作家の棟田博がいる。聨隊長としての小畑は、初年兵への私的制裁を徹底的に禁止する一方、軍規には厳しく、どしどしと違反者を営倉に送ったため、「営倉聯さん」というあだ名がついたという。1929年歩兵学校校長をつとめ、歩兵マニュアルの改訂に努力した。 1930年(昭和5年)、陸軍歩兵学校研究部主務。陸大教官を経て、1932年(昭和7年)、再び参謀本部作戦課長。同年少将任官し、近衛第10連隊長、参謀本部第三部長。1933年(昭和8年)、近衛歩兵第1旅団長。陸大幹事から校長を経て、1936年(昭和11年)、中将。皇道派の中心人物の一人として、永田鉄山ら統制派と激しく対立する。 二・二六事件後、辞表を提出した。これは当時の軍人官僚にまず見られない潔い姿勢である。粛軍により予備役に編入される。日中戦争にあたって留守第14師団長となったが、健康上の問題で召集解除となった。 第2次大戦のドイツ東部戦線の敗退について、ドニエステル川を突破されたら、ハンガリー平原まで後がない、と極めて的確な評を行った。第1次大戦のレチツキーとシェルバシェフの突破を想起したと思われる。 1945年(昭和20年)9月2日の太平洋戦争降伏文書調印式に、陸軍参謀総長の梅津美治郎が出席を渋って居るのを見て、「今更敗けた陸軍に何の面目があるのだ。降伏の調印に参謀総長が行くのが嫌なら、陸軍の代表として私が行っても良いぞ」と梅津を叱り飛ばし、梅津に降伏調印式出席を納得させたという。 近衛文麿の推薦で東久邇宮内閣で国務大臣を務める。1945/10/05 東久邇宮内閣総辞職。 1947(昭和22).1.10日、死去。満61歳没。 |
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小畑は昭和天皇の批判に対し反論を残している。これは細川護貞に語ったものとされる(『日本陸軍英傑伝』 岡田益吉 光人社 1972)。「満井は、誰も抑えるものがいないので自分が引き取って厳重に戒告していたのだが、満井を相沢中佐の裁判に引き出したのは、陸軍次官古荘幹郎であり、あとで満井は自分に詫び状をよこしている。また、満井は、陸軍大学校長(小畑)に抑えさせますと上奏したのは自分ではなく、あるいは陸軍大臣がしたのではないか」。 | |
荒木貞夫 (元陸相) の次のような評がある。
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【北一輝 考】 |
【西田税 考】 |