香田清貞・歩兵大尉(37期)



 更新日/2021(平成31.5.1日より栄和改元/栄和3).4.23日

 【以前の流れは、「2.26事件史その4、処刑考」の項に記す】

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、皇道派名将録「香田清貞・歩兵大尉(37期)」を確認する。(お墓は野中/岡山、村中/仙台、磯部/東京、安藤/仙台、相澤/仙台)

 2011.6.4日 れんだいこ拝


死刑組

【香田清貞プロフィール】(37期) (陸軍歩兵大尉・歩兵第1旅団副官)
 歩兵大尉(第1旅団副官、37期陸士)。明治36年9月4日、佐賀県で生まれた。2・26事件の判決により銃殺刑。1936(昭和11).7.12日没、享年32歳。
 1903(明治36).9.4日、佐賀県小城郡三日月村久米(当時、現在は久米)に香田卯七氏の長男として生れた。
 同村小学校を首席で卒業して小城中学(現小城高等学校)に入学した。
 二年の時、熊本陸軍幼年学校に入り、陸軍士官学校に進む。
 大正十四年、村中孝次と同期の第三十七期生として卒業した。同10月、少尉任官と共に歩兵第一連隊付となつた。
 昭和9.3月、大尉に進み、歩兵第一連隊の中隊長となる。間もなく北支天津駐屯軍の歩兵中隊長として出動する。
 昭和10.6月、凱旋した。同年12月、2.26事件3ヵ月前、歩兵第一旅団副官に転じた。
 決行時の同志青年将校中の最年長者。丹生誠忠中尉らとともに陸軍大臣官邸を占拠し、蹶起趣意書を読み上げた。決行後、蹶起部隊代表者として終始陸軍首脳者との折衝に当つた。判決では首魁(しゅかい)として処断されている。


 1936(昭和11).7.5日、東京軍法会議による判決で香田大尉以下、16人の将校に死刑の判決が言い渡され(このうち佐賀県出身者は4人。中橋基明中尉、竹嶌継夫中尉、中島莞爾少尉)、7日後の7.12日に刑が執行された(第一次処刑)。運命を諦観した心境は安心立命、自ら音頭を取って聖寿の万歳を三唱し、整然と刑場におもむいた。戒名/清貞院義道日映居士。

 現在、香田大尉のご遺骨は故郷三日月の、泰平寺墓地内にある香田家累代の墓に眠っている。大尉が死の直前に書き残されたご真筆の書などが、遺族から平成19年に奉納された。
 香田大尉は日蓮宗を篤く信奉して、平素つねに法華経(ほっけきょう)を誦していた。信念の強い不言実行の人、この香田大尉が事件の首謀者として参加していたことは、非常に意外であつたといわれている。中尉時代、富美子夫人と結婚し、家庭には一男一女があつた。彼が残した遺詠、遺書等は、信仰の人香田大尉の面影を歴然と偲ばせる。
 辞世の句

 ひたすらに 君と民とを 思ひつゝ 今日永えに 別れ行くなり
 昭和十一年七月十二日 卅四歳 香田清貞

 父への遺詠
 殊更に 笑ひたまへる 父君の 心の中ぞ おし計られけり
 昭和十一年七月十一日 長男 香田清貞

 妻への遺詠(五首の内)
 ますらおの 猛き心も 乱るなり いとしき妻の 末を思へば
 我を我と 育て上げけり 諸共に いとしき妻の力なりけり
 昭和十一年七月十二日 夫 香田清貞
 遺書は次の通り。
 「父ハ無限ノ怨ヲ以テ死セリ。父ハ死シテモ国家ニ賊臣アル間ハ成仏セズ、君国ノタメ霊魂トシテ活動シテ之ヲ取リ除クベシ。清美殿(娘) 茂殿(息子)」。

【香田清貞の時局観】
 昭和六年、香田清貞は同期の大蔵栄一に しみじみと次のように語っている。
 「 近ごろ、オレはつくづく思うことがある。兵の教育をやってみると、果たしてこれでいいかということだ。あまりにも貧困家庭の子弟が多すぎる。余裕のある家庭の子弟は大学に進んで、麻雀、ダンスと遊びほうけている。いまの社会は狂っている。一旦緩急の場合、後顧の憂いなしといえるだろうか。何とかしなけりゃいかんなァ 」。






(私論.私見)