安田優・砲兵少尉(46期) |
更新日/2021(平成31.5.1日より栄和改元/栄和3).4.26日
【以前の流れは、「2.26事件史その4、処刑考」の項に記す】
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、皇道派名将録「安田優・砲兵少尉(46期)」を確認する。(お墓は野中さん岡山、村中さん仙台、磯部さん東京、安藤さん仙台、相澤さん仙台) 2011.6.4日 れんだいこ拝 |
死刑組 |
【安田優(ゆたか)プロフィール】(46期)(砲兵少尉) |
安田優(ゆたか)・砲兵少尉(陸軍砲工学校生徒(野砲兵第7聯隊附))(46期)。明治45年2月1日、熊本・天草に生まれた。二・二六事件に参加、他の将校らと斎藤實内大臣、渡辺錠太郎教育総監を相次いで襲撃した。1936(昭和11).7.12日没(享年24歳)。 |
1912(明治45).2.1日、熊本・天草(熊本県天草郡)に生まれた。 旧制・熊本県立済々黌中学校(熊本県立済々黌高等学校)を経て、陸軍士官学校に入学。この頃の区隊長に、後に二・二六事件で同志となる村中孝次が、また級友に中島莞爾がいた。 1934(昭和9).6月、 陸軍士官学校を卒業(46期)。同期に、堀栄三、畑中健二、益田兼利らがいる。野砲兵第七連隊五中隊附。同年8月、満洲に出征。同年10月、陸軍砲兵少尉任官。 1935(昭和10).12月、陸軍砲工学校に入学。この頃、野中四郎、安藤輝三らの知遇を得る。 |
「安田優少尉・行動録(1.18~2.29日)」参照 |
1936(昭和11).1.18日 |
歩一に於いて 栗原、中島と會し、二十五日以后純青年将校をもって立つ可きを約す。 |
2.18日 |
村中を訪ね 立つ可きを約す。 |
2.23日 |
村中、中島に會す。中はしを訪ね果たさず。 |
2.24日 |
坂井を歩三に訪ね、高はし、麦や に會し決定す。 |
2.25日 |
村中、中島に會し、明朝蹶起を約す。 |
午後四時 |
萩窪駅にて弟肇と會し、兄と會し 神の導引を謝す。 |
午後六時 |
家を出づ。家を出づるの前、愛弟に菓子をあたへ、二階に至りて號叫す。又 辱知諸兄に訣別す。 |
午後七時 |
新宿中村や にてかすてらーを求め、宝亭に訣別せんとして止めたり。 |
午後七時半 |
歩三に入り、一中隊に至りて準備。夕食を採り拳銃を手入す。 |
午後十時半 |
下士官をあつめ趣旨をつたふ。 |
2.26日、2.26事件 に参加。 |
午前一時 |
兵をおこしたり、弾薬食糧を供す。 |
午前四時 |
舎前集合、進発を令す。 |
午前五時十分 |
安田のほか、坂井直中尉、高橋太郎少尉、麦屋清済少尉が率いる150名の襲撃部隊が、東京府東京市四谷区仲町三丁目(現:東京都新宿区若葉一丁目)の内大臣斎藤実の私邸を急襲。女中部屋よ附近より侵入。是より先警官を戒論せり。諾々たり。平田リンの案内に依り階上に内府を求む。時に中より扉を開け更に閉めむとするを排して突撃。春子を排して内府を求む。時に内府寝室より出で来る。余、第一発を発し寝台下に斃す。二発を更に加へ 、機関銃で殺害した。階下に至りて集合號令を吹奏せしむ。 |
五時十分 |
赤坂離宮前にて宮城を拝す。安田は高橋少尉とともに兵士30人を連れ、上荻窪の渡邊錠太郎陸軍教育総監の邸宅を襲撃に向かう。 |
五時三十分 |
田中中尉自動車をもたらす。出発、上萩窪に至る。 |
六時十分到着 |
兵を率ゐ 表玄関を破り侵入。一弾を右肢に受く。裏手に廻り夫人を排して侵入、二弾をあたい渡辺を射殺。引上ぐ途中憲兵の自動車を破壊す。その際、右脚を負傷する。後の安田の供述によれば、本来、渡辺に関しては殺害する意図はなく、陸軍大臣官邸まで連行するのが目的であったという。なお、このとき殺害現場に居合わせた渡辺の次女・渡辺和子(学校法人ノートルダム清心学園の理事長)と、安田の弟・善三郎とは、現在に至るまで交流があるという。 |
午前七時前后 |
陸相官邸に着す。赤坂伝馬町(現在の元赤坂1丁目)の前田外科病院(現・赤坂見附前田病院)に事件が終息した2.29日午後まで入院する。 |
午后八時頃 |
靑ノ氏に催眠剤をいたゞき更に就眠せり。戦時警備令下に入りたるを知る。小藤大佐是れを指揮せり。 |
二十七日午前二時 |
戒厳令下に入る。麹町警備隊たり。中島来る。告示を齎(もた)らす。 |
二十八日 |
中島来訪。維新大赦令発布の計進行中なるを告ぐ。栗原、丹生氏来たる。 |
午后 |
情況激変せるを知れり。寺内、植田、林の策動あり。一木、湯浅、宮中を攪乱す。清浦、参内を阻止さる。運命に委す。 |
二十九日 |
悠々自若たり。 |
午后 |
奉勅命令下れるを知る。学校に連絡し、陸相官邸に集合せり。出発前茶菓の饗(もてなし)を受く。感謝しつゝ出院。赤十字自動車にて送らる。船引中佐と別る。首相官邸に至る。更に陸相官邸に至る。坂本大佐に武人の面目を全うせむことを申出づ。憲兵に擁せられ果さず。石原莞爾に面罵され、射殺せむとし機を失ふ。武装を解かれむとするに当り、自決せむとして果さず。 |
同年7月、叛乱罪(群衆指揮等)で死刑判決。 7.12日、東京陸軍刑務所で死刑執行(享年25歳)。 墓所/賢崇寺(東京都港区元麻布) |
絶筆
「 白妙の不二の高嶺を仰ぎつつ 武さしの野辺に我が身はてなむ 我を愛せむより国を愛するの至誠に殉ず」。 |
辞世(処刑5分前の書) 「あをぐもの涯に 我がつとめ 今は終わりぬ 安らかに 我れかへりなむ 武夫の道」 |
法廷で次のように述べている。「BS歴史館「徹底検証 二・二六事件~日本をどう変えたのか?~」
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「反駁(3) 安田優」。
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「安田優少尉証言」。
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デスマスクは、薫さんの願いで遺体引き渡しの場に院長が立ち会い、読経の後、石膏の型を取った。同席した陸軍士官学校同期の親友高矢三郎氏(故人)の手記はつづる。
原型からデスマスクは3面作られた。1つは高矢氏の和歌山の自宅に置かれ、1945年の空襲で焼失した。残る2面は戦後、郷里の天草市本渡歴史民俗資料館と、防衛省防衛研究所に寄贈された。蹶起将校の遺品で唯一のデスマスク。天草の資料館では二・二六事件から80周年に当たった2016年、善三郎さんを語り部として大勢の人に公開された。安田少尉は死してなお事件を語り続けている。 |
(私論.私見)