野中四郎・海軍大佐(36期)



 更新日/2021(平成31.5.1日より栄和改元/栄和3).4.23日
 【以前の流れは、「2.26事件史その4、処刑考」の項に記す】

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、皇道派名将録「野中四郎・海軍大佐(36期)」を確認する。

 2011.6.4日 れんだいこ拝


自決組

【野中四郎プロフィール】(36期) (陸軍歩兵大尉・歩兵第3連隊第7中隊長)
 1903.10.27日―1936.2.29日。大日本帝国陸軍の昭和時代前期の軍人、歩兵第三連隊第五中隊長。最終階級は陸軍大尉。
 自決。野中四郎の履歴は次の通り。

 1903(明治36).10.27日、 岡山県岡山市出身(青森県弘前市出身?)。陸軍軍人であった野中勝明(陸軍少将)の四男として誕生。叔父・類三郎の養子となっている。東京府立第四中学校、陸軍幼年学校卒業。

 1924(大正13).7月、 陸軍士官学校卒業(36期)。同年10.25日、任歩兵少尉歩兵第1聯隊付。(歩兵第66聯隊附(当時の官報によると下重龍雄とともに補職)
 1925(大正14).5.1日、宇垣軍縮によって歩兵第66聯隊が廃止され、このタイミングで歩兵第3聯隊附に異動している。
 1927(昭和2).10.25日、任歩兵中尉。 
 1930(昭和5)年、 歩兵第1連隊中隊長。
 1933(昭和8).8.1日、任陸軍歩兵大尉。補歩兵第3聯隊第7中隊長。野中自身は職務に熱心で、派閥抗争や革新運動にも名が上がらず、西田税の聴取書でも「面識がない」とされている。歩兵第3連隊第5中隊長となる。
 1936(昭和11).2.26日、 二・二六事件で約500名の下士官兵を率いて警視庁及び桜田門付近を占拠。「蹶起趣意書」筆頭名義人。同2.29日、(山下奉文少将に自決を促され、)叛乱の責任を取って陸相官邸で拳銃自殺(享年34歳)。自殺に際しては、旧知の間柄であった井出宣時大佐(当時)が立ち合い、遺書を預かっている。文面は次の通り。
 「実父勝明に対し何とも申し訳なし。老来益々御心痛相掛け罪。万死に値す。養父類三郎、義母ツネ子に対し嫡男としての努めを果さず不幸の罪重大なり。俯して拝謝す。妻子は勝手乍ら宜しく御頼み致します。美保子大変世話になりました。貴女は過分無上の妻でした。然るに此の始末御怒り御尤もです。何とも申し訳ありません。保子も可哀想です。かたみに愛してやって下さい。井出大佐殿に御願いして置きました」。

 原隊(歩兵第3連隊)での通夜の後、四谷の自宅に遺体が届けられた。戒名は直心院明光義剣居士。毎年2月下旬、岡山市中区平井の東山霊園内・野中家墓地の野中四郎の墓前にて、有志により神道式の慰霊祭が行われている。戒名は直心院明光義剣居士。
 兄弟は次の通り。

【野中四郎遺書】
 絶筆「天壌無窮、陸軍大尉 野中四郎 昭和十一年二月二十九日」
 「迷夢昏々、万民赤子何の時か醒むべき。一日の安を貧り滔々として情風に靡く。維新回天の聖業遂に迎ふる事なくして、曠古の外患に直面せんとするか。彼のロンドン会議に於て一度統帥権を干犯し奉り、又再び我陸軍に於て其不逞を敢てす。民主僣上の兇逆徒輩、濫りに事大拝外、神命を懼れざるに至っては、怒髪天を衝かんとす。我一介の武弁、所謂上層圏の機微を知る由なし。只神命神威の大御前に阻止する兇逆不信の跳梁目に余るを感得せざるを得ず。即ち法に隠れて私を営み、殊に畏くも至上を挾みて天下に号令せんとするもの比々皆然らざるなし。皇軍遂に私兵化されんとするか。嗚呼、遂に赤子後稜威を仰ぐ能はざるか。久しく職を帝都の軍隊に奉じ、一意軍の健全を翹望して他念なかりしに、其十全徹底は一意に大死一途に出づるものなきに決着せり。我将来の軟骨、滔天の気に乏し。然れども苟も一剣奉公の士、絶体絶命に及んでや玆に閃発せざるを得ず。或は逆賊の名を冠せらるるとも、嗚呼、然れども遂に天壌無窮を確信して瞑せん。我師団は日露征戦以来三十有余年、戦塵に塗れず、其間他師管の将兵は幾度か其碧血を濺いで一君に捧げ奉れり。近くは満洲、上海事変に於て、国内不臣の罪を鮮血を以て償へるもの我戦士なり。我等荏苒年久しく帝都に屯して、彼等の英霊眠る地へ赴かんか。英霊に答ふる辞なきなり。我狂か愚か知らず  一路遂に奔騰するのみ」。

【妻の「皆様へお詫びの言葉」】
 同年3.2日、妻、野中美保子は新聞各社の取材攻勢に対し、夫の行動を世間に詫びる「皆様へお詫びの言葉」を発表した。これは事件に関与した将校の未亡人が発表した唯一の手記となっている
 私は四郎の妻美保子でございます。いま私は夫の霊前で皆様に対して相済まぬ心に苦しみながらこれを認めました。このたびは夫たちが大事をひき起こしまして上は畏くも陛下の御宸襟を悩まし奉り下は国民皆様にこの上ない御心配をおかけ申しまして誠に誠に御詫のしようもございません。殊に東京市民の皆様には四日の間大変な御迷惑をおかけしました。また一同の犠牲となつて尊いお身をあえなく失はれました高位の方々をはじめ警察官の皆様にはほんとうに何と申し上げてよいのかわかりません。いまは冷たい骸となって私の前に横たわっている夫もきっときっと皆様に深くお詫び申していることと思ひます。私も皇軍の一員たりし四郎の妻でございます。私は夫を信じていました。夫のすることはみな正しいと思ふほど信じてをりましたのにこの度の挙に出てこの様な結末をみました。私は夫の所信をどう考えてよいのか私の心私の頭は狂つたやうで解りません。でも夫は終始お国のことを思いながら立ち、しかして死んだと思ひ私は寸毫疑ひたくありません。しかしながらいまは反乱軍の一員として横たはつています。それが私には悲しくて悲しくてなりません。夫は軍人として一切の責を負つて立派に自決してはてました。けれどこれくらいでこの罪亡ぼしはできません。妻としての私はただただお詫びの心に苦しみながらいまは深く深く謹慎致してをります。どうぞ皆様、仏に帰った夫の罪をお許し下さいませ。四郎の妻として私はそれのみ地に伏してお願ひ申してをります。
 昭和十二年三月二日 野中美保子。

 美保子夫人は一人娘と共に実家に帰り、北陸地方で図書館に勤務した

 参考【野中五郎・海軍大佐考】
 野中四郎の弟。1910.11.18日―1945..3.21日。大日本帝国海軍の軍人で陸上攻撃機隊長。戦死時は海軍少佐(二階級特進で海軍大佐)。二・二六事件の中心的人物の一人で自決した野中四郎大尉の弟。兄の写真を終生身につけて離さなかったという。 野中五郎・海軍大佐の履歴は次の通り。

 岡山県出身。父の野中勝明は陸軍少将、兄の次郎(中佐)、四郎(大尉)も陸軍士官だったが、五郎は仲のよかった姉が海軍士官と結婚したことが契機となって海軍を志す。

 東京府立四中を経て、1933(昭和8).11.18日、海軍兵学校卒業(61期)。1935.4月 少尉任官 。10月、第27期飛行学生(1936.11月まで)。

 1936(昭和11).、海軍飛行学生。航空母艦「蒼龍」乗り組み。土浦航空隊。海兵時代は落第を経験し、また鈴木實と親しくしていた。兄が二・二六事件に連座していたため何かと苦労したという。 艦上攻撃機搭乗員として航空母艦「蒼龍」に配属されたが、間もなく陸攻乗りに転身した。1937.12月、中尉進級。1938.11月、大尉進級。1941.9月 第1航空隊分隊長。

 1941(昭和16).12.8日、ハワイ真珠湾攻撃。12月、分隊長としてフィリピン島クラークフィールド基地攻撃参加(マニラ攻撃参加)。続いて香港攻撃参加。

 1942(昭和17).、日、コレヒドール攻撃参加。同年2月、ポート・ダ゛―ウィング攻撃参加。その後もギルバート諸島沖航空戦やマーシャル諸島沖航空戦で対機動部隊の攻撃隊を率いるなど各地の戦闘に参加した。同年8月、第1航空隊飛行隊長。同年11月、第752航空隊飛行隊長。

 1943(昭和18).5月、アッツ島艦船攻撃参加。同年7月、ガダルカナル島飛行場攻撃参加。同年10.1日、人間ロケット爆弾「桜花」による特攻の第721海軍航空隊(神雷部隊)陸攻隊隊長として陸攻隊の指揮官に任じられた。豊富な戦歴から「桜花」の運用の難しさを看破し、「この槍、使い難し」「日本一上手い自分が攻撃をかけても必ず全滅する」と予言していた。更には特攻そのものに批判的であり、たとえ国賊と罵られても桜花作戦を止めさせたいと考えていたとされる。その一方で陸攻は「桜花」を切り離したら帰還するよう命じられていたにも関らず「部下たちだけを突入させて帰って来られるか、自分も体当たりする」と公言していた。彼は自らと部下たちを侠客に見立てて士気高揚を図ったことから、彼の率いる部隊は「野中一家」とも呼ばれた。彼自身は非常に繊細な人間であったという証言も多く、これは彼なりの人心掌握術であったといわれている。721空に3名の搭乗員が着任した際、指揮台にて野中ははるか遠くに目を転じながら、「見渡すかぎりの搭乗員、遠路はるばるご苦労…」と任侠の大親分よろしく見得を切り部下の度肝を抜いている。しかしその一方で、指揮台から降りる際にはうっすらと涙が浮かんでいたという。同年11月、ギルバート方面艦船攻撃。少佐進級。

 1944(昭和19).4月、第703飛行隊隊長。6月、硫黄島進出、サイパン島夜間攻撃参加。10月、第721航空隊飛行長。11月、攻撃第711飛行隊長。

 1945(昭和20).3月、第721航空隊飛行隊長。

 同年3.21日、野中らの反対にも拘らず第721航空隊の陸攻(母機)18機に「桜花」15機を搭載した第一神風特別攻撃隊神雷部隊に出撃命令が下され、指揮官として出撃。米空母部隊に攻撃を試みるも事前に野中が予言していた通り、アメリカ第58機動部隊の遥か手前で迎撃戦闘機に襲撃され全機撃墜され全滅した。戦死(享年35歳)。野中隊の最期は、米戦闘機のガンカメラに収められ、今でも鮮明なカラー映像で見ることができる。






(私論.私見)